俺が青少年のころウィットゲンシュタインの論理哲学論考を読んで「なるほど」と思ったことが一つあった。哲学は疑問(設問)から始まるわけだが、その設問には意味がありますか、あるいは有意味な答えがだせますか、という第一関所をW石は設けている。この命題は非常に役にたった。
オックスフォード大学で初めて革ジャンとジーパンで講壇にたったというW石の言葉は哲学だけではない。以後の俺の処世術を貫いている。もっとも人間のサガとして問い続けなければいられない問題というものもある。カントはこれを人間の業であるとした。たとえば神はいるのか(存在するのか、あるのか)とかビッグバンの前は何だったの、とか言うのがそれである。カントの言うアンチノミーである。
おれは早々とこういう問題には見切りをつけてしまった。そこでだ、母とはなにか、という疑問はしょっぱなから立ち往生する。「俺にとって、母とは何か」という設問はむずかしい。むしろ非生産的な設問である。しかし、母とは何かよりかは幾分改善している。
母にとって俺とはなにか、この質問は大分すっきりとしている。前にも書いた様に夫に対する不満から来ている。あるべき男性の姿を、それは母の敬愛する祖父のタイプであるが、おれにプロジェクトすることであった。そんなことを勝手に決められては、俺も困るのである。
妹は俺がマザー・コンプレックスだというのだな。そんなことをいわれても困るのである。むしろ、母のプロジェクションを常にうっとうしく感じていたのであるからして。
父にとって妻(母)とはなんであったか、という問題であるが、肉体的に言うと短躯の父よりも三人の妻はみな背が高かったそうである。兄の小説「三人の母」にはそう書いてある。あるいは優勢学的配慮が働いているのかもしれない。
父が一番気に入っていたのは二番目の妻だったと兄は書いている。俺の母と始終ぎくしゃくしていたのは、母を気のきかない女と思っていた不満があったと思われる。二番目の妻は商家の出身であった。下町の娘で社交的で遊び好きでふわふわしているところが父の気に入っていたらしい。
始終二番目の妻の妹や兄たちと父は麻雀をしていたらしい。父は麻雀五段という証書を持っていたが、麻雀に段なんてあるのかな。
それに比べて俺の母は官僚の家で生まれ、下町の女と違ってまったく異なった育て方をされていた。そして山間部の村落出身の父の性格とも合わなかったのだろう。
兄達はこの商家の前妻が好きで彼女が父と死別した後も彼女の家や妹達と定期的に交際していたらしい。この妻は妊娠中に死亡して子を残さなかったのであるが、兄達と交流が続いていた彼女の妹の様子を間接的に見聞していた俺にはその違いはよく分かった。田舎育ちの父には堅苦しい家庭に育った俺の母より商人の娘の方が気楽だったのだろう。
俺にとっては、この妹達、兄達の叔母は高飛車で礼儀知らずとしか思えなかった。兄達が俺の母親を彼女達に讒訴していたのに影響されたのか、あるいは彼女達が俺の母と兄達を離間させる様に煽動していたのか、どちらかだったのだろう。