穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

第D(20)章 父にとっての母とは

2016-09-19 08:14:15 | 反復と忘却

俺が青少年のころウィットゲンシュタインの論理哲学論考を読んで「なるほど」と思ったことが一つあった。哲学は疑問(設問)から始まるわけだが、その設問には意味がありますか、あるいは有意味な答えがだせますか、という第一関所をW石は設けている。この命題は非常に役にたった。

オックスフォード大学で初めて革ジャンとジーパンで講壇にたったというW石の言葉は哲学だけではない。以後の俺の処世術を貫いている。もっとも人間のサガとして問い続けなければいられない問題というものもある。カントはこれを人間の業であるとした。たとえば神はいるのか(存在するのか、あるのか)とかビッグバンの前は何だったの、とか言うのがそれである。カントの言うアンチノミーである。

おれは早々とこういう問題には見切りをつけてしまった。そこでだ、母とはなにか、という疑問はしょっぱなから立ち往生する。「俺にとって、母とは何か」という設問はむずかしい。むしろ非生産的な設問である。しかし、母とは何かよりかは幾分改善している。

母にとって俺とはなにか、この質問は大分すっきりとしている。前にも書いた様に夫に対する不満から来ている。あるべき男性の姿を、それは母の敬愛する祖父のタイプであるが、おれにプロジェクトすることであった。そんなことを勝手に決められては、俺も困るのである。

妹は俺がマザー・コンプレックスだというのだな。そんなことをいわれても困るのである。むしろ、母のプロジェクションを常にうっとうしく感じていたのであるからして。

父にとって妻(母)とはなんであったか、という問題であるが、肉体的に言うと短躯の父よりも三人の妻はみな背が高かったそうである。兄の小説「三人の母」にはそう書いてある。あるいは優勢学的配慮が働いているのかもしれない。

父が一番気に入っていたのは二番目の妻だったと兄は書いている。俺の母と始終ぎくしゃくしていたのは、母を気のきかない女と思っていた不満があったと思われる。二番目の妻は商家の出身であった。下町の娘で社交的で遊び好きでふわふわしているところが父の気に入っていたらしい。

始終二番目の妻の妹や兄たちと父は麻雀をしていたらしい。父は麻雀五段という証書を持っていたが、麻雀に段なんてあるのかな。

それに比べて俺の母は官僚の家で生まれ、下町の女と違ってまったく異なった育て方をされていた。そして山間部の村落出身の父の性格とも合わなかったのだろう。

兄達はこの商家の前妻が好きで彼女が父と死別した後も彼女の家や妹達と定期的に交際していたらしい。この妻は妊娠中に死亡して子を残さなかったのであるが、兄達と交流が続いていた彼女の妹の様子を間接的に見聞していた俺にはその違いはよく分かった。田舎育ちの父には堅苦しい家庭に育った俺の母より商人の娘の方が気楽だったのだろう。

俺にとっては、この妹達、兄達の叔母は高飛車で礼儀知らずとしか思えなかった。兄達が俺の母親を彼女達に讒訴していたのに影響されたのか、あるいは彼女達が俺の母と兄達を離間させる様に煽動していたのか、どちらかだったのだろう。

 


第N(2A)章 さとりを懼れる

2016-09-13 08:33:04 | 反復と忘却

三四郎は自殺をおそれたと同様にさとりをおそれた。自殺のさきになにがあるのか。肉体が滅びても現在の苦悩の発生源である魂が幽霊船のようにいつまでも宇宙を漂っているという説を信じていたのである。キリスト教徒が自殺を嫌悪する様に怖れていたのだった。

本屋にいくと哲学、思想、宗教、スピリチュアルという棚が肩を並べて一塊になっている。彼もそんな棚から二、三冊スピリチュアルとか精神世界本を選んで読んでみたものであった。仏教系であれば「さとり」を開くとか涅槃に寂入するとすべての問題は解決するらしい。これが分からなかった。たとえようもなく三四郎の想念を脅かした。さとりの後になにがあるのか、さっぱりイメージがつかめなかった。

これって痴呆状態になることと非常に似ている様に思われて仕方がなかった。思春期の青少年が目ざすべき方向とはどうしても思えなかった。たしかに痴呆状態になれば何にも煩わされず、恍惚とした幸福状態になることは分かる。それが三四郎を恐怖させた。

キリスト教だと、天国に行くことが究極の目的らしい。天国というのは色々読むと地上とちっとも変わらない世界である。みんな精霊となって只々幼児の様に戯れるばかりの世界らしい。三四郎にはピンとこなかったが「さとり」のように恐怖心を抱かせることはなかった。だがいまさら幼稚園に逆戻りすることにも魅力を感じなかった。

キリスト教には回心という現象があるらしい。地上に生きたまま、一種の悟りを得て人間が変わってしまうらしい。パウロの回心とかね。何の前触れも無くいきなり頭上に雷が落ちるようなものらしい。もっとも厳しい修行をしなければ回心が訪れないということはないらしい。パウロやアウグスティヌスのように放蕩無頼な生活を続けていても回心は来るようである。そこは魅力であるが、こんなことが起きることをあてにして生きている訳にもいかないではないか。

あの夏の夜の一撃以来、魂と肉体とがしっくりいかないことが三四郎の自覚症状としての最大の悩みであったのである。どうかするとコンセントが外れたみたいに両者が離れてしまう。永久に離れるという訳ではなく、くっついたり、外れかかったりする。ちょうどあの地底に掘ったような池で爆死した人間のように不可逆的に頭が吹っ飛んでしまうという訳ではないのだが。

 


第D(19)章 写真はやっかいなもの

2016-09-10 07:31:01 | 反復と忘却

百歳ちかくまで生きた父親が残したものは多かった。本人は晩年まで至極健康で百二十歳まで生きるつもりだったから、生前整理と洒落込むこともなかった。身辺を整理するなんてことはしなかったのである。それでも品物はまだいい。およそ物を捨てない性格だったから、がらくたがやたらとあった。これの整理は時間的には大変だったがさして神経を使わない。捨てる、処分するの判断はすぐ出来たし、躊躇することは無かったのである。

困ったのは反古というか書類というのかそういうものである。ほとんど意味も価値もないものであるが、不思議と処分する時に抵抗がある。もっとも困ったのは写真である。家族写真はともかく残すんで迷うこともなかったが、勤めの同僚らしい人物と映っている写真が多かったので処置に迷った。外交的で社交的だった父にはこういう写真が無数にある。何しろ一世紀近く活動したからおびただしくある。モノクロ時代からはじまりカラー写真が無数に残っていた。ほとんどが整理されずに空き箱に入れてある。

それに若い頃には自分で写真を撮っていたらしく、そのネガがプリントと一緒に未整理のまま放置してある。ネガはそのままでは何が写っているかわからない。ビューアーでいちいち見ないと分からない。最初のうちはそんなことをしていたが、とても続けられるような半端な枚数ではない。

エイヤっとすべて捨ててしまおうかと思ったが、なんとなく引っかかる物があった。というのはざっと見た所ではアルバムには父の子供のころや学生時代の写真が一枚もない。従って祖父母や田舎の親戚にどういう人がいたかも分からない。ひょっとすると、そういう写真もなかに紛れ込んでいるのではないか、と思った訳である。未整理の写真のなかに若い頃の郷里の家族写真が紛れ込んでいるのではないか、と思った。

その時に父が保存していた母親の写真集も初めて見た。こちらの方はすべてアルバムに貼ってあり、さして量も多くはなかった。だがアルバムから剥がした写真が何枚もあるのに気が付いた。女性というのは結婚するに際して独身時代の都合の悪い写真を処分するものだろうか、と俺は思ったのである。

また、母親の写真の中にも父の場合と同様に子供の頃や女学校時代の写真が一枚も残っていない。これも不思議に思った。しかし成人後か結婚後か分からないが郷里の家族と一緒に映った写真は多数あった。俺もこういう母方の親類とは何回も会っているからよく分かったのである。振り返って自分のことを考えると俺の場合、自分の昔の写真を見ることもあまりないが、半数近くは子供時代や学生時代の写真であり、父母揃って成人前の写真が一枚も残っていないのを不思議に思った。

さて気を取り直して父の残した写真をすこしずつ確認していった。それが死者に対する敬意でもあろう。ひまな時にちょこっと見る。こういう成果のない単調な作業はすぐに飽きてしまうからすこしずつしか出来ない。何ヶ月もそんなことをしていたが、大量のバラバラの写真の中には毛色の変わった写真も見つかった。

 


第D(18)章 射界の清掃

2016-09-09 08:14:08 | 反復と忘却

俺は何事も根源的にとらえる。ラディカルなんだな。哲学的なんだ、性格が。ポール・リクールじゃないが、神話は参照すべきものだ。また、フレイザーの金枝編なんてのも示唆に富んでいる。同様な理由から人間を霊長類として把握するために、猿のむれの研究を参照する。もっと遡ってサイケデリック・ジャーニーをしてもいい。哺乳類全般に。ま、そういうわけだ。

さて、ギリシャ神話をひもどくと神様の最初のDNAはウラノスに現れる。ウラノスは妻のゲー(大地)との間に生んだ子供を穴の中に投げ込んだ。そこでゲーは子供のクロノスに斧を与え、父親ウラノスのペニスを切断する様に命じた。クロノスは父親の生殖器を切断して父親を海に投げ捨てた。

このDNAは二代目のクロノスに引き継がれる。クロノスは沢山子供を産んだが男の子は皆食べてしまう。赤ん坊の肉というのは若鶏のようにやわらくて美味しいんだろうな。しかし最大の理由はやがて子供が成長して自分を排除してボスになるのではないかという恐怖だろう。猿の子殺しという現象も同様の理由であるとも言われている。

そこでクロノスの妻レアーは一計を案じたのである。ゼウスが生まれた時に夫に新生児だと偽って石ころを食べさしたのである。クロノスは随分腹持ちの良い赤ん坊だと思ったらしい。そしてレアーは生まれて来たゼウスを隠して育てたという訳である。それでウラノスからの父系のDNAは守られたとさ。

ゼウスは沢山の人間の女と交わって多くの半神半人を生んだ。これが人類の祖先である。クロノス、ウラノスの性質が人間に遺伝しないわけがない。

これが神代の祖父、父、孫の三代記である。これまで何回も父は男の子供を非常に警戒していた話をした。とくに思春期になって男性としての成長が加速し顕著になると必ずそれを押さえようとした。本能みたいなものである。これは父と男の子たちとの関係であり、息子というのは完全にかれの射界に入っていたのである。娘達には警戒心を抱かず自分の毛繕いをさせていたのである。自分の情報源にしていたのである。息子達の情報を娘達から集めていたのである。

父は孫となると全く警戒心を示さなかった。当たり前かも知れない。あまりにも年令が開きすぎている。孫との関係は非常に親密であった。一転好々爺に変貌する。

毎年正月に家族が集まるのだが、孫達が寒いだろうと襖を取り払った二間にストーブを何台もおいてがんがん焚くのである。日本家屋は夏の暑さをしのぐ様に出来ているが冬は寒い。それに加えて普段は節約節約と口うるさく言って暖房を使わせない。父は非常に頑健だから、暖房なんかなくても冬でも快適だったらしい。他人も同様だと思っていた。

それが孫達が来るとガンガン部屋を暖めるので今度は室内の温度が異常に上がる。柱は膨張するのか、みしみし音を出し、部屋が振動するようになる。皆茹だったタコのような真っ赤な顔になるまで温度を上げるのである。そんななかで父は顔を真っ赤にしてニコニコ笑っていた。

父は人並みすぐれて頑健で健康であった。エネルギーが溢れていた。だから原初的なパターンが表に出ていたのだろう。

 


第D(17)章 大月の人

2016-09-08 08:46:58 | 反復と忘却

彼女達と墓参で一緒になったあとで、彼らとは武蔵境の駅で分かれた記憶が蘇った。というのは東京までの電車のなかで両親がずっと彼らの噂をしていたからである。たしか「大月のひと」と父が言っていた。あるいは彼らが大槻さんという名字だったのだろうか。

父は親類を名前ではなくて棲んでいる地名で言及することが多かった。まあ、親戚なら同じ名字の場合が多いから、紛らわしいということもあったのだろう。それに父が生まれた山間部の村では親戚でなくてもほとんどが同じ名字だったらしい。だからお互いに屋号で呼び合う。屋号というのは大体棲んでいる地名や土地の形状に基づいてつけられているようだ。その習慣が続いていたのかも知れない。

俺の記憶には「大月」という言葉が残っている。大槻さんかな、よく分からない。大月というと中央線で八王子のずっと西の方じゃなかったかな。たしか山梨県だ。そうするとこの間始めて知った父の姉の子供なのだろうか。埼玉県の男性と結婚したとか言う。もっとも、何十年も前の話だから住所も変わっているのだろうが。そうすると中年の婦人がその女性であるのかも知れない。 

父母の会話で一つ覚えているのは、その若い方がデパートに勤めているということであった。会話の中で父が軽蔑した様に言っていた記憶がある。デパート勤めなんて水商売とさして変わらない評価であったらしい、父の基準では。もちろん小学校一年生の俺にはそんなことは分からないが、親戚としては恥ずかしいという印象を受けた。

しかし、この人が大月に住んでいるとすると東京のデパートまで通勤するのは大変じゃないか、と俺は思った。当時思ったということではないよ。現在の俺がそう思う訳だ。デパートというと日本橋だけにあると思っていたからね。もっとも新宿辺りには当時でもデパートと称するものは出来ていたのかもしれない。

新宿辺りまでなら大月からでも一時間ぐらいで行けるだろう。もっとも都心までも一時間半あれば通勤出来る。俺の居た会社でも埼玉県か栃木県の古河から通っていた女性職員もいたくらいだから通勤出来ない距離でもないのかもしれない。デパートは出勤時間も遅いしね。

あるいは甲府にも昔からデパートと称する物があったのかもしれない。地方都市でよく何々デパートというのがあって、聞くと昭和初期開業なんてところもあるようだから、そのような地方都市の「デパート」だったのかも知れない。

 

うん、父母の会話を思い出した(ような気がする)。たしか大丸だったかな。おかしいな。あそこは大阪かどこかが本店だろう。東京に進出したのは何時頃だっただろう。ようするに、この記憶は輪郭がはっきりとしていないということが分かったわけである。以上の推測は「大月の人」が「大月に住んでいる人」の意味である、としての話である。

それにこの人が父のいとこであるとも断定出来ない。祖父母の縁戚かも知れない。ちょうどその年が祖父母の誰かの何回忌だったのかも知れない。或は前妻の関係者かもしれない。

要するにその程度の記憶であって何ら確定的なものではないということである。もっとも記憶を手繰るにはこういう試行錯誤を繰り返すほかはないのである。

 


第D(16)章 断片再構成

2016-09-07 07:47:13 | 反復と忘却

父の死によって出来た空洞に切れ切れになった記憶が吸い寄せられて来た。最初はなんのことか俺には分からなかった。記憶の全体を構成し直す構想力も失われていた。第一断片そのものが十重二十重に意味を変換されていたに違いない。フロイトもそんなことを言ったらしい。おれはフロイトを一行も読んだことは無いのだが、現代哲学者にはフロイトを珍重する連中が多い。不思議な現象だが、そんなところから三四郎が得た叉引き、孫引きの知識なのだが。つまり抑圧された記憶は無意識の中でアクロバティックな変換をするというのだな。 

父親というタブーというか重しが無くなって古いバラバラに解体された記憶があぶくの様に意識の表面に浮かび上がって来たのだろう。そのうちにそれらの断片の関連ある物どうしがくっ付き始めたらしいのだ。その動きに必然性があるのか偶然の産物であるのかは三四郎には判断しようがない。

大体年に二回春と秋の彼岸に家族で墓参りに行く習慣があったが、両親ときょうだい以外が参加することはなかった。ところが先日、一度全然知らない人が二、三人墓参に加わったことがあることを不図(ふと)思い出したのである。

その漠然とした記憶を思い出そうと彼は努力した。それは彼が小学生のころに違いない。それも一年生か二年生のころと思われた。中年の婦人と若い女性だったような記憶がある。中央線の沿線にある都営墓地にある我が家の墓は三四郎が生まれた年に建てた物である。そんなことに気が付いたのも父が死んでから数年してかしてからであった。ある年に墓参して墓の周りの落葉を掃き寄せたときに墓石の裏にそう刻まれているのに初めて気が付いた。父は東京に出て来てからずっと兄達が生まれたあとも墓は郷里にあったのである。それを三四郎の誕生したあとで東京に移したのである。

墓には祖父祖母の遺骨と死亡した二人の前妻の遺骨が納められていた。したがって、そのとし、一回だけ三四郎が見た母娘らしい参拝者は祖父か祖母の関係者か二人の前妻の家族かと思われた。そしてその後三四郎の母と父の遺骨が納められたのである。

彼は父が埋葬者の墓碑を建てる時に郷里の市役所に問い合わせていたこと思い出した。彼はまだ中を確かめていない父の残した書類を調べた。当時市役所に申請して送って来た戸籍謄本が何通か見つかった。その中身は意外な事ばかりであった。

曾祖父と曾祖母の名前も出て来た。もっとも三四郎が驚いたのは父には姉がいたことである。かれは父と弟との二人きょうだいだと思っていた。彼の伯母にあたる人物のことは聞いたことがない。彼女は祖父の前妻の子供であった。つまり父と叔父は祖父の後妻の子供であったのである。古い戸籍によると彼女は十歳で祖父の弟のところの養女になっている。そして成人して埼玉県の男性と結婚しているのである。

 


第D(15)章 紙こより

2016-09-04 09:10:14 | 反復と忘却

 これはダブりかしら、とこれを書きながら俺は思った。こよりというのは紙から作る物かも知れない。最近はものが溢れていて個人で紙縒り(コヨリ)を作ることも無くなった。昔はちょっとしたものでも縛る時には自分で作ったものらしい。

母は十年以上も前になくなったが、父は母の遺品に手を触れなかったらしい。父の死後遺品を整理していたら母の遺品が色々出て来た。母の預金通帳等もまったくそのままで長期間出入金もないまま放置してあった。

その中に紙縒りで縛られた手紙類があった。紙縒りの状態からすると、母の結婚初期から長い間ほどかれていないようだった。そのなかに男友達からきたラスコリニコフばりの意見を述べた手紙もあった。父は随分独裁者だったが、他人の持ち物を探るということは一度もなかった。俺の部屋にも留守中に一度も入って持ち物を調べたことがない。そう言う意味では昔気質の倫理を持っていた。母の結婚前後の手紙も母の死後一度も覗いてみようとしなかったようである。

実家に用事があって寄った。一番下の妹が裸足で勝手口から表に飛び出して来た。あとを追いかけて父が大声でどなりながら階段を踏み鳴らして追いかけて来た。妹は裸足のまま、往来を逃げ出して行った。

「あいつは俺の悪い所だけ似やがった」と父はまだあらい息をしながら嘆息した。父は長い間は母の遺品を開かず大切に保存して来たが、大体悪く言えば会話がない家庭であったが、両親もきょうだいも他人の部屋に入ってきたり、ものを勝手に持ち出したりすることは無かった。姉の夫は変わった家庭だと呆れたり感心したりしていたのである。 

所が一番下の妹は母親の遺伝子が違うからか、父の劣性遺伝子の方だけが遺伝したのか、物欲が異常に発達していて強情でわがままで自分の都合しか考えない。留守中に俺の部屋に勝手に入って来てものを持って行く。とがめると蛇のような目で挑みかかってくる。理屈も何もない。

母のクレジット・カードを無断で持ち出してやたらと洋服やら装身具をデパートで買い込む。近所では「ハレハレ」の格好で歩いていると言われて有名だったらしい。

 


第D(14)章 星日ともに天を戴かず

2016-09-03 09:05:00 | 反復と忘却

太陽も天文学的にいうと星らしい。だから父の死は巨星堕つと表現しても間違いではなかろう。太陽が沈むと星空が見えて来た。多くの星は一つ一つが俺にとっては未知未開の情報であった。

星日ともに天を戴かず、というのはおそらくは支那の古典に典拠があるのだろうが、俺は知らない。だが様々に使われて来た。太平洋戦争中、軍部や国粋主義者もこの言葉を使った。東京裁判で戦犯となり、精神異常で免訴となった元東大教授の大川周明などが使った表現である。うまい引用だった。星は星条旗つまりアメリカである。日は太陽であり日章旗を象徴する。世界の覇権は日本かアメリカが握るのであって、両者は並び立たない不倶戴天の敵であったのである。今はどうかな、二つの焦点のある楕円天空ということかもしれない。

とにかくオヤジの死の跡に出来た巨大な空洞にぼちぼちと我が家の情報が吸い寄せられて来たのである。オヤジの生きている時は我が家のルーツに関する情報は無であった。第一知ろうとする気もおこらなかった。偶然からいくつの情報が得られた。そうすると「えっ」と驚き少しは系統的に資料を集めだしたのである。

母親のほうの家族のことは比較的よく分かっていたが、それでも時々上京して尋ねてくるきょうだいなどのことしか知らなかったのであるが、整理すると新しいことが色々と分かって来た。

母と父は水と油のように性格が異なっていたが、前妻達とはことなり、結婚生活は長く続き母は天寿を全うした。これがよく分からなかった。成り上がりの田舎者で、運に恵まれて目覚ましい出世をした暴君的な父と聖女とも言っていい母がどうして大した波乱も無く(情報が少ないが表面的には息子からみてそう言う人生だった)添い遂げたのか。

母の忍従によるのか。母の家庭も地方とはいえ、山間部ので育った父とはことなり、都市部の裕福な家庭に育ち、父親の海外勤務についていって、外国生活の経験もあった。地方の文化サークルの中心にいた。母が結婚したのは30過ぎで昔の考えではかなり遅い。母の下には妹達が沢山いて皆結婚適齢期になっていた。父の負担を考えて後妻の話を受け入れたと思われる。

母は二つのプロジェクト(企投)によって精神の均衡を保ったらしいというのが俺の解釈である。自分の青春の投影としての娘の自由放任と俺に対する父と正反対の「あるべき男」の要求である。

ある意味では結婚前に自己との折り合いを付けたのであろう。結婚という物は女にとって大多数のケースがそうであろうが、一種の妥協折り合いの産物であろう。だから結婚という制度が何千年も維持できたのかもしれない。

ドストエフスキーの小説「罪と罰」にラスコリニコフの妹とルージンという成上り者の中年男の結婚話がある。ラスコリニコフは妹が母や兄のために犠牲になって中年男に嫁ぐといって非難する。妹はそうじゃないと反論する。そしてきっとうまく遣って行けると主張する。その自信があると兄に反論する。これって母のケースとおなじではないか、と俺は思った。ただドストエフスキーは天才的な筆で具象化しているわけだ。

母には弟がいたが、弟が姉の結婚にどういう意見だったかはわからない。しかし、母が地方の文化サークルで知り合った男性から来た、ラスコリニコフのような意見を述べた手紙が母の遺品のなかから見つかった。

 


第D(13)章 オヤジが死んだ

2016-09-02 08:09:40 | 反復と忘却

92歳で天寿を全うした。痴呆症になる半月ほど前までは毎日外に出ていた。痴呆症が分かったのは死ぬ半年ほど前である。もっと早くから症状は出ていたのかも知れない。家族と会話がないから正確に痴呆症が何時発症したかを判断することは難しいのだ。 

家族と会話がないから気が付かなかった可能性がある。行動や顔つきを見ているだけではとても最後まで痴呆とは気が付かなかった。オヤジはすぐれて知的人間だったから、痴呆の傾向に自分では気が付いていて、それを隠す様に威厳のある態度を取ろうとしていた可能性もある、と俺は後で気が付いた。

気が付いたのはお手伝いの報告からで、口から泡を吹いているから見たら、洗剤をジュースと間違えて飲んでいたという。言うことがおかしいとかの報告も外部の人間から聞かれる様になった。また、昔の同僚の葬式に行った帰りに道に迷い、警察から連絡があったりして分かったのである。

近所の医者に見せたらどこも悪い所はないという。板橋かどこかに老人病の専門の病院があるので診断してもらいなさいという。父を連れて行こうとしたら、検査されることに大変な恐怖を示した。おそらく、その頃は正気と痴呆状態が交互に現れていたのだろう。診断をくだされることに恐怖を示した。なんとか説得して父を専門病院に連れて行った。

医者がやったことはアンケートを取るみたいなことだった。「今日は何月何日ですか」てなことを医者が父に聞く。父は照れ笑いをする。分からないのだ。見当識というらしい。同じような質問をいくつかした。生年月日は、とかもう忘れてしまったが、その類いの質問であった。

痴呆症がはっきりとするのに平行して肉体的な健康も衰えて行った。頑健な体質で晩年までさまざまなスポーツをしていたが、痴呆症というCPUの故障が肉体的な健康を損なったらしい。

肉体と精神は平行していくのが一番良い。仲のいいと友達のようでなければならない。成長するのも衰えるのも同時並行的なのが自然だ。言ってみればバディ・フライトだな。編隊飛行だ。衰えるなら同時進行が一番本人にとってはいいようだ。中には五十代、六十代から痴呆症になり、20年も30年も生きている人がいる。最近はそういう人が多いようだ。 

逆に最後まで明晰な精神を持っていても、癌等で中年から肉体が衰えて行く人がいる。昔だったら肺結核というところである。天寿を全うして、最後まで精神的にも肉体的にも健全な人生が理想ではなかろうか。

現代では人間(とくに医者)が様々な作為を加えるからだろう、肉体と精神は雁行しなくなった。これ以上の不幸はない。ことは成長期にも起こる。肉体的に爆発的に成長するが、精神は幼稚園なみというのがいる。こう言う連中が非行少年のほとんどである。まれに逆のケースがある。精神が急速に成長するのに身体がついていかない。俺の場合という訳じゃないがね。

その意味では父は仕合せな一生を送ったまれに見る例だったのだろう。俺が退社してから10年目だった。

 


第D(12)章 パターン

2016-08-28 09:40:08 | 反復と忘却

俺は勤め人をやめてから遅く家を出る。もう管理人は出勤している。朝の巡回や掃除が終わったらしく彼は管理人室のガラス戸の向うにいた。目が合ったら何時もと違って軽く会釈してきた。こちらも反射的に会釈を返す。この間の偽NTT職員撃退のこともあるから,このごろではいる時には愛想良く挨拶することにしている。 

まったく、彼が慎重であったおかげで助かった。うっかりしていると盗聴器を仕掛けられるところだった。管理人もそれから、なんとなくこちらに親近感を示す様になった。俺がなにか情報関係の仕事をしていると勘違いしたらしい。自分のかっての仕事と同じことをしていると思い込んだようなのだ。それからは、向うが見ていると思うと、そのまま素通りせずに相手がいる時はかるく挨拶するようになったのである。

サラリーマンをやめたから当然ライフスタイルも変わってくる。最初のうちはその日その日でバラバラだったが、その内に大体パターンが決まって来た。朝は遅くまで寝ていたいのだが出来ない。彼の部屋は東向きで場末だからまだ周りにはマンションはすくない。八階の東向きの部屋には天気がいい日は、強烈な朝日がカーテンを通して室内に侵入してくる。

夏には四時過ぎには室内はもう電灯をつけたように明るくなる。かれは部屋が明るくなると寝ていられないのである。カーテンをもう少し厚いのにすれば少しは違ってくるのかも知れない。とにかく、そういうわけで遅くても六時にはベッドから出る。夏は五時前に起きだす。朝はトーストかオートミールですます。それからどんぶり一杯に濃厚なインスタントコーヒーを淹れる。そこへ砂糖を二十グラムほどぶち込んで一時間ほどかけて飲むのである。ときにはアスピリンをサプリメント代わりに二、三錠かじる。

それから昨日の朝刊を床の上から拾い上げて読む。不動産の行商人と新聞販売の勧誘員は相手にしない。インタフォンをうるさく鳴らしても相手にしない。新聞は外出した時に駅の売店で買うのである。夕刊は買わない。それを読まずに家に持って帰る。新聞は床に放り出しておいて翌朝読むのにとっておく。

三日に一度は髭を剃る。頃合いを見計らって昼飯を食いに出る。自炊はいろいろと面倒だからしない。いっときはやってみたが食材が余ってしまってどうしようもなくなったので止めてしまった。勤め人で溢れる時刻をやり過ごして飯屋に入る。その後は夕方まで街をほっつき歩く。

いっときは暇つぶしに旅行をしきりにしたが、旅行をすると、一日の時間配分に無駄が出過ぎるのでこのごろは町中を「日和下駄」している。自転車にぶつからない様に大体裏町の路地を伝って歩くのである。

 


第D(11)章 婆さんの定番話題

2016-08-27 08:44:58 | 反復と忘却

午前中は雲一つ浮かんでいない青空だった。地平線のかなたにスモッグが棚引いているだけであった。俺は勤め人で込み合う昼休みの時間が終わったころに飯屋に入る。今日はどういう日なのか婆さんたちが多い。二月に一度の年金支給日なのかもしれない。 

となりにもお婆さんの二人連れがいた。ひとりは七十歳代くらいの女である。相手は九十歳前後とおぼしき女だった。七十おんなが馬鹿でかい声で相手に話している。まわりの客のこと等眼中にない。どうやら相手の九十おんなの耳が遠いらしい。首がまっすぐ立たないらしくほとんど九十度前傾したまま蚊の鳴くような声をだしている。座り方も変だった。腰痛なのか浅く腰掛けて今にも椅子からずり落ちそうなのだ。あまり七十おんながうるさいので相手の顔をしげしげと観察したついでに九十婆さんの顔を見てみた。上品な顔をした婦人だった。

どうして年配の女性の話題というのは病気のことばかりなのだろう。彼女達もあそこの病院はどうだとか、どこの先生はいいだとか悪いだとか延々と話している。どうやら七十女が「脊椎狭窄症」にはどこの大学病院に行ったら良いとか相手に教えているらしい。ふんだんに専門用語のようなものを使っている。あちこちの病院で暇をつぶしているうちに相手の医師から聞き出したことをもっともらしく話しているらしい。それもおなじような話をさっきから何回も繰り返している。

珍しくもない光景である。彼女達が熱意を持って飽きもせずに出来る話題はもう「病気」の話しかないのである。

老婆達の反対側にも妙な女たちがいた。一人は普通の上品な感じのミッドサーティーてな見当の女である。相手はアラサーの異様な印象を与える女で最初は中国人かと思った。壁を背にした席に座っていたが、とても上座に座る人品ではない。上品な女性がなにかのセールスウーマンで商談でもしているのか、接待でもしているのかもしれない。ひょっとするとこの女はたちの悪いクレイマーなのかも知れない。それに係が対応している様にも見える。二人は普通の声で話しているから、何を話しているか分からない。日本語であることだけは分かった。

ちょっと目を下にやると、別にいやらしい意図があったわけではないが、この中国人風の女が足首を反対側の膝に乗せている。男でも人夫土工の類いが道路にたむろしている時にしか見かけない。足を組むなんてものではない。これにはさすがの俺も驚いた。このごろの女にはチンチクリンなのが多いがここまでひどいのはまず見かけない。今日の昼飯の収穫はそんなところだ。後は和風ハンバーグステーキね。

レストランのある大型商業ビルを出ると先ほどと打って変わって空一杯に雲が湧いている。そして雲の底は泥でも塗った様な灰色である。大抵の日は夕方まで街を徘徊して帰るのだが今日はまっすぐマンションに戻ることにした。

マンションにはまだ五時前だったので日勤の管理人がいた。管理人室の前を通ると彼が中から出て来た。「鱒添さん、電話の調子が悪いんですか」と聞いた。

「いや、どうして」

「さっきNTTの職員がきて電話が故障だから直しに来た、というんだ。あなたから聞いていなかったからなかには入れなかったけどね」

「へえ、おかしいな。電話は故障していませんよ。NTTに連絡したこともないし」

「インチキかな。このごろは色々なことがあるからな。それから鱒添さん、電話が故障した時にはこちらにも連絡してくださいよ」と管理人はいった。

「それはもう」

この管理人はいかにも意地悪そうな人で相当な年配だったが。なんでも戦争中は香港で憲兵隊の下士官だったそうである。米軍占領中は後難を怖れて地下に潜っていたという噂がある。

部屋に入ると電灯をつけた。留守番電話があったことを知らせるランプが点滅している。メッセージは録音されていない。受信履歴を確かめた。いつもの無言電話である。管理人が言っていたNTTの職員を騙る連中はなんだろう。ひょっとすると、これは会社の陰謀屋が盗聴器を仕掛けにきたのかもしれない。彼らは反対派の組合事務所に盗聴器を仕掛けたことがある。第一組合の連中がそれを発見して警察に訴えたことがあったのである。管理人が職業的に疑い深くてよかったと俺は思った。


第D(10)章 監視対象となる

2016-08-26 08:39:10 | 反復と忘却

会社を辞めてからしばらくは電話に悩まされた。同期入社の西川からある夜電話があった。かれとは同期入社とはいうものの、ほとんど話したことがない。最近5年ほどは共産圏の駐在員をしていて日本に帰って来たばかりである。電話で「西川です」と言われてもしばらく誰か分からなかった。声も識別できるほど話したことのなかったのである。

「社内報で見たけど会社を辞めたって、いま何をしているの」と言われてなるほどと思った。今度同期会の幹事になったそうである。さっそく俺の送別会をやろうという話だった。同期のほとんどは俺の憎む第二組合員だったし、会社を辞めた事情もあって俺はその話を断った。西川はしつこく送別会にこだわったが、あきらめて「今は何をしているの」と聞いて来た。会社を辞めたと聞くと、大抵の人間は今何をしているのか、と聞く。なにか勤めていないと悪人のような気分にさせられる。 

そう聞かれるたびに俺はうんざりするんだが、いつも用意しておいた答えを言うことにしている。「毎日が日曜日さ」

「えっ、えっ」と西川は理解出来ない外国語を聞いた時の様に反応した。これもどいつもこいつも同じだ。送別会と言ったって、俺が今何をしているか根掘り葉掘り聞き出すのが目的に違いない。それも彼らの上にいる陰謀家の先輩の意を受けてのことだろう。そんなところに出て、言葉遣いに注意しながら、無難な言葉を選びながら酒の相手をしながら飲んでもうまい筈がない。

なんだか不得要領のような印象を受けたような雰囲気のうちに西川との電話は切れた。それから昼間も夜もかなりの頻度で電話がかかってくる様になった。電話に出ると相手は無言である。最初のうちは「もしもし、どちらさまですか」と一々応対していたが、相手は押し黙ったままである。同一人物かどうかも分からないが、どうも俺の所在を確認しているらしい。働いていないというが昼間は内にいるのかどうか、ということを探っているらしい。あるいは嫌がらせ電話か。とくに相手の心当たりはなかった、一カ所を除いては。

そこで俺もバカらしくなって考えた。無言電話に生活のペースを乱されてはたまらない。こちらは大望を抱く、大事な仕事?を抱えているのだ。そこで留守番電話に切り替えた。留守番電話の使い方については大分研究した。その頃は留守番電話の機能がかっての電卓の様に目覚ましく進歩しつつあった時代である。

その内に、相手が電話番号を通知してこないと着信を拒否する機能が出て来た。それでもかけてくる相手にはこちらも無言で電話をかけ直して相手がどんなやつか試した。それでわかったのだが、無言電話をかけてくるようなヤツは大体電話を受けても自分を名乗らない。なにも話さない。相手が話すのを待っている。だからにらめっこをするみたいに、長い間双方が無言で電話を見ている。大体そう言う物だとわかってからは、そんなことも止めてしまった。

勿論まともな用事をもった電話もかかってくる。そうするとメッセージを残して行く。それで分かったのだが留守番電話に分かりやすい伝言を吹き込む人は非常にすくない。慣れていないのだ。あれは技術だ。アナウンサーの様に言っていることがハッキリと伝わる人は少ない。慌てるのか伝言の最初で自分を名乗るところで明瞭に話せる人はまれである。そして大体において話し方が慣れないのか早すぎる。声が小さすぎる。

そこでコールバックするのだが、まず何を伝言して来たのか一から確認することから始めなければならない。

 


第N(16)章 父母未詳

2016-08-25 21:07:17 | 反復と忘却

父母未生とはどういうことであろうか。ここは父母未詳ならうまく繋がるんだがな、と翌朝目が覚めると三四郎は考えた。父母未生以前とは父母が生まれていない前という意味だろう。つまり祖父祖母以前ということなんだろう。本来の面目とはなんだ。主語は何だ。当然に公案を与えられた「おまえの」ということだろう。つまり回答を考える「自分の」と考えるのが普通だろう。

その面目はなんだ、というわけだ。面目は本性と捉えていいのかな、と三四郎は考えた。まず問題が何を聞きたいのかとらえなければ話にならないと彼は思うのであった。

こういうことかな、と段々朝日が差し込んで来た網代天井を見ながら彼は以下の様に総括した。

「とおちゃん、かあちゃんも生まれる前にお前は一体なんだったの」、これでよろしいか、と彼は訊いた、見えない質問者に。答えは簡単だ。「何でもない」ということだ。それ以外に考えられるかね、と彼は見えない問題作成者に反問したのである。

これではどうも問題が簡単すぎる。一癖も二癖もある禅坊主がこれじゃ納得しないだろうと三四郎は溜息をついた。蒲団から起き上がると遅い朝食を一人で食って神田の予備校に行った。数学の講義の間も公案を考えていた。仏教では輪廻転生ということを言うらしい。キリスト教では魂は不滅であると言う坊主がいるらしい。すると、『父母未生以前 おまえは何だったのか、豚だったのか、絶世の美女だったのか、ゴキブリだったのか、とかそう言うたぐいのことを聞いているのかも知れない。 

いわゆる前世体験だとか前世記憶のことを調べろと言っているのかも知れない。しかしこれは分からんぜ、と三四郎は諦めた。LSDかなんかをやってラリって前世にサイケデリック・ツアーでもしないことには分からんぜ。ひょっとしたらサメだったりして。

まてよ、とまた三四郎にアイデアが浮かんだ。人間は、人間でなくても生物は遺伝子で繋がっているわけだ。いまではDNAとかいうのかな。ミトコンドリアなんてのも神代の昔から連綿としてリレーされて来ているらしい。そうすると、お前のミトコンドリアは父母未生以前は何だったかと聞いているのかな

それにはじいさん婆さんがどういう人生を送ったか知らなければならない。ところが彼はそんなことは何一つ聞いていないのだ。大体父親のこともほとんど分からないのだ。この際ルーツ探しでもするか。しかし、そんなことをしたらオヤジに一喝されるだろうな。オヤジは謎の光源だからな。

 


第N(15)章 二こすり半では駄目

2016-08-25 07:02:24 | 反復と忘却

本郷のキャンパスへ三四郎は来ていた。平島に誘われて煮村六三郎教授の宗教哲学の講義にもぐりこんだのである。誘われた時にはびっくりしたがマイクを使う大教室だし他の大学からのもぐり学生も多いから目立たないと言われて金色に輝く本郷の銀杏並木をくぐったのである。実際他の大学からかなりのもぐりが来ているようだった。宗教哲学の講義ということになっているが、エロ話の連続で品川の教祖のことを思い出した。宗教家の話というのはどうしてエロ話が多いのだろう。もちろん品川の教祖の話よりずっと洗練されてはいたが、エロねたには違いない。大教室を埋めた半数近くの女子学生はきゃーきゃーと喚声をあげて大喜びのていであった。 

その後で三四郎は平島とカレー屋をかねた近くの喫茶店でコーヒーを飲んだ。

「公案にはとりくんでいるかい」と平島は聞いた。

「いや、どういう公案があるのかさっぱり分からなくてさ。あれは禅寺なんかに参禅すると、そこの和尚さんが見繕って相手の程度を見極めて適当なやつを選んでくれるんじゃないか。寺に行く気はないしさ」

「本があるじゃないか。その中から適当なのを自分で選べばいいさ」と平島は暢気なことを言った。

「市販本であるのか」

「たとえば、無門関とか、なんだ碧巌録だったかな、本屋で売っていると思う」

「文庫であるかい」

「さあ・・・文庫じゃないといけないの」

「おれは文庫本しか買わないからさ」

「街の小さな書店にはないかもしれないな。あんまり売れないだろうし、この辺の書店では見つからないかも知れない。神保町の大きな書店に行けば見つかるよ」

平島は目の前のカップを取り上げると、レモンティーを男にしては小さな口に含んだ。

「公案というのは簡単なものは選んじゃだめだよ。『1+1=2』みたいな簡単に答えが出る物はだめだ。マスターベーションを覚えたばかりの12歳の少年みたいに、二こすり半で終わっちゃう。ボルトが10メートルも走らない間に終わってしまうようなのはだめだ」

「そりゃそうだろう、第一そんなに簡単な公案があるのか」と三四郎は言った。

「ははは、ないだろうな。ものの喩えだよ」。平島はオチョボ口をすぼめてレモンティーをもう一口啜った。

「それからさ、最初から絶対に答えが出ないと分かっている物は駄目だ」

「たとえば」

「宇宙にはじめがあるか、終わりがあるかとか無いとかさ。ビッグバンの前にはなにがあったのかとかね」

「ふーん」

「宇宙の広さは有限か無限かとかいうのもだめだ。人間はもともと善人か悪人か、なんてのもアウトだ。答えがないことが始めからわかりきっているからね。アンチノミーといってさ、カントがそんな物には答えが出ないと言っている」

「そもそも公案なんて質問が何を聞いているか分からない物らしいから、きみの言うような種分けなんて最初から無理じゃないの」

「そりゃそうかもしれないな」と平島は笑った。

やけに面倒くさいな、と三四郎は腹のなかで思った。その時に思い出したことがある。家に漱石全集があった。中学の頃に読んだ。一巻が3、4キログラムはあろうかという重たい初版本で、総ルビだったから中学一年の三四郎にも読めたのである。そのなかに主人公が神経衰弱になって鎌倉の寺に十日ほど参禅したくだりがあったような。そのとき老師から与えられた宿題があったような記憶がある。あれが公案というのではないか。

「今思い出したんだが、漱石の小説で主人公が寺の和尚に公案みたいな物を与えられたのがあったな」

ふいに浮かんで来た記憶なので詳細は思い出せない。一生懸命思い出そうとしていると平島が「それは門という小説だろう」

「そうそう、えーと宗佑だったかな、名前ははっきりとしないが、なんだっけ『父母未詳、いや父母未生以前・・・』かな」

「『父母未生以前 本来の面目如何』だろう」と平島が助け舟を出した。

「あれは宗助が(と三四郎は主人公の名前を思い出した)十日考えても老師の満足する答えが出せなかった、という筋だったな」

そうだ、こいつを少ししゃぶってみようと三四郎は思ったのである。

 


第N(14)章 瞑想は妄想を断つ道にあらず

2016-08-24 07:47:07 | 反復と忘却

平島によれば方法はなんでもいいのである。座禅を組もうと正座しようとかまわない。要は雑念を追い払って瞑想することだという。正座はあまりしたことがない、というかする機会が無い現代では三四郎のような若者には長時間正座するのは難しい。苦痛である。それで座禅にした。はじめて知ったのだが座禅の組み方というのはやかましい規則がある。本を見てちょっとやってみたが非常に不自然な姿勢である。やりなれないからそう感じるのだろうが、こらえ性のない彼はすぐに嫌になった。座禅を組むとすぐにひっくり返ってしまう。彼は座禅を諦めた。ようするに瞑想をすればいいわけらしい。

そこで椅子に座って目をつぶり何もせずにしばらく座ってみた。尻の穴に意識を集中したせいか、すぐに尻の骨が椅子に当たる所が痛くなりだした。何かやりながら、例えば本を読みながら椅子に座っていても尻が痛くなることはない。それが意識をそこに集中すると、尻骨がごつごつと椅子にあたるのを意識しだす。そうすると、上半身の体重がすべてそこに集中してくるようで、どうにも痛くて我慢出来なくなる。

おもわず腰を浮かしてしまうのである。なんだかトイレの便座に座っているみたいで自分でも滑稽な姿勢だと思う。一番困ったのは無念無想になれという要求であった。何も考えるな、というのは大変な努力しないと出来ない不自然な状態である。普段は自然に押さえつけられている妄想が雲の様に心の中から湧いてくる。こんなに妄想を溜め込んでいたのかと自分で驚いた。瞑想しようと不自然な努力をすることで、心が反発をしてパンドラの箱が開いてしまうのである。

こりゃ瞑想等話にならんと警戒心がわいたが、そこはそれ、もう少し我慢すれば明鏡止水の境地に入るやも知れぬと思い直した。

ところがそうは問屋がおろさなかった。心臓が急にどきどきしだす。頸動脈のあたりにどくどくとながれる血液が大きな音で耳の中で聞こえる。非常な不安を感じる様になった。予想外のことも起こった。彼はかって便秘というものを経験したことがなかったのであるが、便秘になってしまった。便意が無くなってしまえば便秘もそんなに気にならないのだろうが、四六時中便意を感じるのだが出ない。大変な苦痛と不安であった。腹が破裂しそうな気配がした。

「こりゃ、全然駄目だな」と彼は平島に会った時にはなした。もっとも彼に話した所で始まらないのである。彼と同じ年令でただ浪人している彼と違い大学で二年ほど心理学のとば口をチョロッとあたっただけの平島に適切なアドバイスが出来る訳ではない。

しかし彼は親切な男で、三四郎にもどうしてだかよく分からないのだが、自分のことを我がことの様に心配してくれるのである。平島は困った様に三四郎を見ていたが、なにか思いつた様に言った。

「そうだ、禅の公案を考えるといいかもしれないな」