穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

十:ドストエフスキー『白痴』

2011-07-08 08:43:56 | ドストエフスキー書評

ポジション・レポート下巻186頁:イポリートの遺書読み上げ。

最初に述べたことに戻るが、この小説は退屈な部分が多い。だから、最初に読んだときに印象に残らなかったわけで、今回の書評では印象に残った部分は忘れないように途中であっても随時記録している。

これまでのところ、いいなと思うのはナスターシャの家での夜会、ムイシュキンがロゴージンの家を訪ねるところぐらいだ。脇筋では隠し子の遺産分け前騒ぎをさばくところもテンポがいい。

再読するきっかけとなった講談社学術文庫の中村健之助『ドストエフスキー人物事典』についても補足しておこう。良書ではあるが、彼の主張の半分以上は賛成できない。

いま読みかけのイポリートの告白も感心しない。ドストは死にかけた未成年を書くのが好きだ。それに仮託していろいろと脇筋のテーマを語りやすいのだろうが、いずれの場合も冗長ではあるが、ドストの最大の特徴である冗長性と緊迫性の渾然一体感がない。

言ってみればベートベンの第五フィナーレのくどい良さがドストの最大の売りである。

ドストは手紙、告白、懺悔にかこつけて思想を開陳することが多いが感心しないものが多い(下手である)。

世間ではカラマーゾフの大審問官のくだりに感嘆するものが多いようだが、どんなものだろうか。あるいはスタヴローギンの告白とか。


九:ドストエフスキー白痴

2011-07-05 07:52:12 | ドストエフスキー書評

ムイシュキン公爵は白痴ということが本屋の売りになっているが、どうしてどうしてそうではない。

ドストエフスキーの小説は犯罪で味付けするわけだが、脇筋で上巻585ページあたりからかなりながい挿話がある。ロシアの天一坊事件ともいうべきブルドフスキー詐欺事件である。

大金の入ったムイシュキンを騙して金を取ろうと言う輩のグループの物語だが、ムイシュキンはどうしてどうして鮮やかな手並みで彼らを撃退する。代理人を使って調査を行い詐欺事件の真相を暴きだし一味を撃退する。

ムイシュキンがばかであるという設定からすると違和感がある部分である。ドストは最初、大金の転がり込んだ知能のたりない、すぐに人に金を恵んでしまう公爵が事件に巻き込まれるところを書きたかったのだろうが、筆が走って見事詐欺を暴きだす物語を書いてしまった。本来なら詐欺の被害者になるところを書きたかったのだろうが(白痴を強調するために)、出来あがったのが見事な出来栄えのためにままよ、とそのままにしてしまったのであろう。 連載ものであり、締め切りにも追われていたに違いない。

この部分はなくても一向に差し支えない部分である。

さすがに、腕力のあるドストであるから、後へはうまく続けてはいるが。


ナスターシャは女優I.A.さんみたい

2011-07-04 20:04:24 | ドストエフスキー書評

日本の大女優に、ロケなどでストレスが高まると、宿泊している旅館の自分の部屋の壁やふすまに自分の排便をなすりつける奇癖を持った人がいた。

ドストエフスキーの白痴のなかのナスターシャと同じだ。どう同じだって。考えてください。

ところで第二編にムイシュキン公爵がロゴージンの陰気な家を訪ねる場面がある。ここも筆がさえるところだが、場面の主役はナスターシャである。ムイシュキンとロゴージンがナスターシャのことを話すところで、ナスターシャはいないのだが、それでもこの場面の主役は彼女である。


感情移入すべきはナスターシャ『白痴』

2011-07-03 14:22:39 | ドストエフスキー書評

第一編読了すなわち一日目まで、あるいは新潮文庫ドストエフスキー『白痴』上巻400ページまで。

前回読んだときに索莫とした印象を持った原因をほぼ特定した。主人公をムイシュキンとして読んだために面白くなかったのだ。主人公はナスターシャであり、ムイシュキンは操作子にすぎない。ロゴージンすらナスターシャを照明する操作子である。

再三評論家諸子や出版業界の惹句として言及される「キリストのような善意の美しい人ムイシュキン」に視点を当てて読むとまったく興趣が湧かない。

各種ドスト資料で言及されるように作者がムイシュキンを主人公にしようと書きはじめたことは間違いないが、結果として出来た作品ではナスターシャが主人公となっている。そして大成功。そういう思わぬ成り行きと言うのは創作活動ではよくあることでしょう。

罪と罰以降の長編ではドスト作品の魅力はピエロを演じる酔っ払いの長広舌である。少なくともこれが無くては私はドスト作品の読むところがない。

最初印象が薄かったのはこのピエロの演出に冴えが見られないことであった。今回再読に当たっては注意して読んでいるが、その役割はイヴォルギン将軍、あるいはロゴージンにつきまと言う小役人のレーベジェフというところだろうが、他の作品のようなキレがない。

しかし、よく読むと、今回はナスターシャがピエレットも演じている。これは大成功、第一編最後の彼女の自宅での夜会はまさにこれである。

第二編以降はこれから読むわけだが、この点を抑えておけば興趣湧くが如しであろうよ。

なお、ナスターシャをどう見るかだが、「女性」性の本質的穢れを正直に聡明に勇気を持って認めた素晴らしい知性の人とする。おいおい読み進めて肉付けをしたうえでナスターシャ論については稿を改める予定である。

私事になるが、大昔、まったく同じ文句で振られたことがある。392ページ参照「公爵、これでいいのよ。ほんとにいいの。たとえ結婚してもいずれは、あたしをさげすみだして、とてもあたしたちは幸福になんかなれやしなくてよ」

その時はうまい文句で体よく振られたと思っていたが、そうではなかったのかな、なんてね。後悔先に立たず。


「白痴」試薬としてのムイシュキン

2011-07-02 08:49:52 | ドストエフスキー書評

p303における仮説::ムイシュキン公爵は美しい人、純真な人、キリストのような人ということになっている。

公爵は主人公であるとともに、ナレイターであり観察者である。また、測深器でもあり、試薬でもあり、触媒でもある。自分自身は変わらず、他の材料に投入した途端に物体を変化させる。隠れた物質の本質を色分けする。

試薬はそれ自身は不変でなければならない。すなわち「空気が読めて」自分自身が変化しては話にならない。てなところがドストがムイシュキン人形を操作するために固定した役割ではないか。

この仮説のもとに読み進めたい。この仮説に立つと、ムイシュキン公爵は主役ではなく、一貫して舞台に立つ黒子である。属性を持たない、述語を持たない絶対者に近い「概念」となる。


白痴『譬ならでは語り給わず』

2011-07-01 20:14:28 | ドストエフスキー書評

ドスト白痴一気に190ページ、精読に値する。いや前回はどうしたのだろう。中村健之助氏の評が的をついていたのかな。ちょっとしたことで見方を変えるとぐっと迫ってくることがあるからね。

ただ、書評家の意見が参考になることは滅多にはないのだが。このブログでも芥川賞選考評の批評をしているくらいでプロの書評家という、別名ランターン・ベンダー諸君の書評が参考になることはないのだが、これは例外だ。

ドスト氏はムイシュキン公爵でキリストをイメージしたというが、威厳なきキリストと言うところもある。ムイシュキンが初めてエパンチン将軍家の夫人と娘三人に会う場面がある。そこで色々な話をさせられるように持って行くところがあるが、その話の一つ一つが新約聖書のキリストの説教の譬えのような趣がある。おそらく意識的にドストが行ったものだ。

表題の「譬えならでは云々」はマルコ伝4-34にあるものだが、この部分を読んでいてキリストの説教を思い出した。

こんな文句ではじまる挿入もある。「ここでしばらく筆を休めて、この物語のはじめにおいてエパンチン将軍一家がどんな事情と関係におかれていたかについて直截正確な説明を試みることは、この物語の鮮明な印象をそれほど傷つけるものではないであろう」

複雑な多数の登場人物の錯綜する超長編を読者に分かりやすくするために手探りをしている様子がうかがえる。


ドスト『白痴』ポジション・レポートp80

2011-07-01 08:05:22 | ドストエフスキー書評

新潮文庫で80ページまで読んだ。前回までの書評を訂正しないといけないようだ。

読む前に書評をしたり、途中まで読んで書評をするからたまに訂正をする。滅多にそういうことは無いのだが。

それとも一わたりセンチメンタル・ジャーニーでドストを読み返してきたから印象も変わってきたのかもしれない。


『白痴』再読前の仮説二

2011-06-28 19:43:16 | ドストエフスキー書評

再読するにしてもテキストをどれにするのか迷う。手元にあるのは新潮文庫木村浩訳なんだが、そのあとがきを読んで首を傾げるところがある。江川卓の岩波文庫もあるし、いっそ英訳のどれかを選ぶか、テキストの選択でかなり変わってくる予感がする。

木村氏の解説によると白痴はドストが最も『熱愛』した作品だそうだが出典が明記されていない。本当だろうか。テーマに意欲を持っていたことは確からしいが、問題はそれをどう具体化したかということに尽きる。本当に作者が熱愛するほどの出来栄えだろうか。

多数の登場人物、複数の視点での超長編の最初の試みであり、その後の長編に比べて技術的に問題があるという感想を前回書いた。

それと、この作品は4年にわたる海外生活で貧窮を免れるために執筆したという。海外逃亡は借金取りから逃げるためだったようだ。つまり極めて不安定な状況でしかも初めての手法で描いたわけで、技術的には今一つなのは当然のような気がする。

くわえて、この海外生活では妻の手記によると、つねに発狂の危険の自覚に脅かされていたと言う。精神的な執筆環境も良くなかった。

トルストイもこの作品を絶賛したそうだが、どうも理解できない。もっとも作家と言うものは、ライバルのいい作品を褒めることはない。そのかわり、これは大丈夫と思う作品はほめあげると言う「生存本能」がある。日本の作家の批評などそういうものが多い。

本当に自分の才能ではかなわない、下手をすると自分の存在を脅かしかねない傑作には口をつぐんでいるものだ。洋の東西を問わないのだろう。


再読前の仮説設定『白痴』

2011-06-28 07:48:13 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキーの白痴、まだ本文に入らないのかよ、と怒られそうだが読前に仮説を立ててみたい。

長編と言うのはどのくらいの長さをいうのか、普通五大長編といわれて、罪と罰、白痴、悪霊、未成年、カラマーゾフの兄弟をいうが、たとえば新潮文庫で言えば二分冊ないし三分冊になる。

死の家の記録や虐げられた人たちも長編と言っても差し支えないが、区別しているようだ。ま、分量の問題で便宜的なものだからどうでもいい、と言える。いや言えない。これからの仮説設定では。

長編では複数視点の問題が重要になる。死の家の記録では観察者の一人称視点だから登場人物は多いが内容の緊迫性は損なわれていない。虐げられた人たちではやはり観察者の視点ではなかったかな。それに登場人物もそう多くない。イベントの同時進行、輻輳も少なかったと記憶する。

罪と罰はラスコリニコフ視点だからドストエフスキーの大きな魅力である冗長性と緊迫性が矛盾なくいかされている。白痴から登場人物たちが勝手に動き出すのだが、最初の試みであるこの小説では技術的に未完成だったのだろう。それがかって読んだときに散漫な印象を与えたらしい(再読の際に検証する仮説になる)。

悪霊は複数視点と言えるが観察者を膠として黒子として入れてあるし、技術的にも二作目で深化した(進化)と言える。

未成年で再び一人称視点に戻る。、この小説はかなり散漫だが、一人称視点のおかげで印象に残るものが多い。

カラマーゾフでは技術的に進化していて、何が何だか分からないという混乱は少ないが、惜しむらくはドストエフスキーの寿命と関係あるのだろう、文章に潤いが少ない。表現に類型的なものが多い(だから分かりはいい)。


ドストエフスキーの白痴

2011-06-25 09:30:02 | ドストエフスキー書評

何故小説を書くか:::Anti-Aging Pastimeである。老人のアンタイ・エイジング・パスタイムと言うと俳句とか川柳なんだろうが、これは群れて楽しむものだ。小説は一人で書ける。あるいは盆栽か、これはベランダ、縁側、一坪の庭もないから出来ない。

文学創作などと言うものは春秋に富む若者が求道者的精神でウンウン唸りながら書くものだという常識からすると冒涜も甚だしかろう。あわよくばそれで飯を食っていこうと言う青年諸君からは営業権の侵害と文句もでよう。なるだけ若鳥から仕上げてたくさんタマゴ(作品)を収穫しようという出版社、編集者諸君の思惑も分からないではない。

純真な評論家諸君は自分の「ひいお爺さん」のような年齢に驚いて飛び退る(とびしさる)。畏れ敬して原稿を遠くに取り除ける。そこまで遠慮せんでもいい。その儒教的精神はよろしいが。

何故書評を書くか:::感傷旅行である。この頃は目に優しい活字の大きい本が増えたのでセンチメンタル・ジャーニーをする機会が増えた。

この欄の書評でドストエフスキーを取り上げたことは多い。その中で白痴はどうもつまらない、と触れなかった。訳がまづいのか(ロシア語が読めないので)、本当に内容がつまらないのか結論を下せなかった。

ところが、あるきっかけで白痴を読むことにした。まだ読み返しを始めていない。だから今回のは映画の予告編みたいなものだ。そういえば、数ヶ月前に久しぶりに映画館に行ったが相変わらず余計で音ばかりうるさい予告編を延々とやっている。こんな時代遅れで観客に失礼な商習慣はとっくに前世紀で終わっていると思っていたのであきれた。

映画館は予告編が始まると場内を暗くして本編が始まるまでそのままだ。だから観たくなくても予告編の前に着席しないと他の客に迷惑になる。いい加減に予告編と言う悪習をやめろ>映画館主。

なぜ白痴を読む気になったかというと、中村健之助氏のドストエフスキー人物事典(講談社学術文庫)を読んだからだ。なぜ白痴がつまらないか、気になっていたので、まず白痴の項を読んだ。おやと目を啓らかれたね。それで読みなおす気になった。幸い、本棚を探すとまだあった。

他の章は読んでいないが、この本はなかなかのようだ。本場のロシアでも翻訳されたそうだ。それだけの内容があるのだろう。それに、ドストエフスキーの死後ロシアは天地が二度ひっくり返っている。現代のロシア読者には今の日本の若者が鴎外などを読むのより分かりにくい状況だろう。こういう本が日本語からロシア語に翻訳される事情があろう。

予告編だからここまでね。内容は後便にて。


悪霊光文社文庫

2011-04-02 19:30:48 | ドストエフスキー書評

去年の9月に出たらしいからもう半年になるか。書店で気がついてドストの悪霊1(光文社文庫)を買った。三分冊になるらしい。まだ1しか出ていないようだ。

前に新潮文庫の改版が出たときには随分読みやすくなったな、と思ったが、今度の光文社のはさらに目にやさしい。

亀山郁夫氏のドスト新訳は三冊目だ。からまん棒(古いですね、分かりますか)のときはおや、とちょっと感心したが、二回目の罪と罰はなんだ、と思ったね。なんか大学院生の演習で訳させたものをつぎはぎしたようだと「憶測印象」を書いた。

こういうこともあるから、大学の先生の翻訳は読まないのだが、悪霊はかなりいい。もっとも、ロシア語は読めないから日本語としてということだ。

2と3も読んでみたい。亀山氏は読書ノート(解説)を読むのも楽しみだ。ドストの冗長性のだいご味に改めて感心した。晩年三作では一番油ののった筆ではないのかな、と思う。


ドストエフスキーとディケンズ

2010-05-19 18:40:50 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキーはディケンズに影響を受けたか。前から気になっていたが両者の関係に言及した研究があるのかどうか。

二人は同世代人であるといってよい。ディケンズがわずか9歳年上だ。前にドストの虐げられた人びとの書評を本欄でしたが、最近読んだエドガー・アラン・ポーの書評を読んで、この本はディケンズの骨董屋に影響、あるいは触発された作品であるとしてよかろうと思う。

同時代人とはいえ、ディケンズの骨董屋は1841年、虐げられた人びとは1961年の作品。ドストエフスキーが英語が読めたかどうかは知らないが、フランス語は翻訳をしたものがあるくらいだから不自由しなかっただろう。

ドイツ語もかなりできたらしい。ディケンズは人気作家だから発表差が20年ならフランス語かドイツ語に翻訳されてドストが読んでいた可能性はある。

ドストの虐げられた人びとを読んだときに登場人物の名前がスミス老人とか少女ネリーとかおよそロシア的でないのにまず気になった。ロシアに帰化したイギリス人かなと思って読んでいたが。

骨董屋の少女はネルという。ドストは本歌取りを公言して名前も変えなかったのではないか。

布石は違う。虐げられた人びとでは老人が先に死ぬ。ネリーは老人に逆らった結婚をして家を出奔した娘の子供である。

骨董屋では老人と孫娘ネルは困窮の中に一緒に住む。そして借金で家を追われて孫娘に手を引かれて田舎をさまよう。孫の両親は死んでいてみなしごである。

共通しているのはポーの言葉でいえば二作品の哀切きわまる「トーン」である。ドストはディケンズの「トーン」を取り入れ、布石については正反対にする(老人と孫娘の関係を)ことによってやはり参考にしている。

以上骨董屋を読まない考察である。ちくま文庫にあるようだが、いま出庫が途絶えている時期らしい。原文はペンギンであるが、これが活字が超微細。最近は細かい活字は読まないことにしているので、ポーの書評のみから判断した。まず間違っていまい。


The Insulted and the Injured

2009-11-26 12:00:40 | ドストエフスキー書評

前の「虐げられた人びと」(ドスト)の書評で触れたが、この訳は蟹工船を連想させるが、内容は全く違うと書いた。

ロシア語は分からないのだが、あるところで彼の著作履歴を見ていたら、この小説は英訳では

The Insulted and the Injured

というらしい。これを虐げられた人びとと訳するのは誤解のもとだね。日本では前の訳者から虐げられた人びととしているが適切とは思えない。大体、意味がまったく違う。

そして内容からすると、英訳のほうがぴったりとしている。

だれがinsultedでだれがinjuredと考えながら読むと面白いかもしれない。


虐げられた人びと2、ドストエフスキー

2009-11-21 18:46:15 | ドストエフスキー書評

公爵から娘と金をだましとられた工場主はスミスというのだが、これが冒頭死ぬ。この場面はいささかホフマン調だ。話が進むとすでに何日か前に娘が野垂れ死にをしていることが分かる。

そして小説の最後で老人の孫娘ネリーが死ぬ。この少女ネリーが最高に印象的だ。カラマーゾフのコーリャ少年など比較にならぬ。

この小説の語り手は一人称の私で、新進の小説家である。ドストエフスキーの自画像だというが、そこまで感情移入はしていないと見るのが穏当だろう。平均的な新進作家という描写だ。

この語り手の小説家の幼友達ナターシャが例の色仕掛けで金をスミス親子から巻き上げた公爵の息子と恋仲になるというわけだ。

ナターシャも印象的だが、とびきり印象的というわけでもない。ドストの小説によく出てくる気の強い女である。こういう女たちにとって愛するということは相手を支配して思い通りに動かすのと同義である。がゆえに常に現実とのギャップに悩む。

つまりうまくいくときには幸せの絶頂にいると思い込み、相手がフラフラしだすと地獄にいるような焦燥感を味わう。いささか神経症的な女だ。カラマーゾフにも二人ほどいるだろう。

公爵の息子で娘の恋人はアリョーシャ、あとで「白痴」の主人公につながっていくキャラだ。純真無邪気で大人になりきっていない。無責任そのものだが悪意はまったくない。言っていることがその時々で矛盾してもなんとも思わない。

要するにAという美女の前にいけば彼女にメロメロ、1時間後にBというグラマーの前にいけばAのことを忘れて夢中になる。その一時間後にAのところに戻ればAしか目に入らないといった男だ。考えてみると女だとかなりこういうのがいるね。男では珍しい。悪党でそういう男はいるが、アリョーシャは純真無垢でこうなのだから、男では珍しい。

このキャラもそこそこというところだ。少女ネリーとともに圧倒的な存在感をあたえるのが父親のコワルスキー公爵である。「小悪好き」公爵だね。もとは日本語だったかな。

この類型は罪と罰のスヴィドリガイリョフ、悪霊のスタブロ銀次、カラマーゾフのイワンで、みなその仲間である。いわば堕天使ルシファーである。しかし、私は初出のコワルスキー公爵こそ、このキャラ造形の最高傑作と断じる。

なかでも「私」を深夜レストラン、日本でいえば終夜営業の居酒屋か、に連れ込んで得々と自説を披歴するところは他作品の同様の場面に比べて最高だ。罪と罰にしろ、カラマーゾフにしろ、こういう堕天使が居酒屋に相手を連れ込んで自説を披歴する。まったくおなじパターンである。

豊崎某女によればネタの使いまわしだ(彼女が書評で村上春樹に難癖をつけたときの言い草)。いいではないか。使いまわし大いに奨励する。

小説としてはドストのなかでもっとも脂の乗り切った傑作ではないか。通俗小説に弱いわたしはそう思うのであった。

星五つ半。


虐げられた人びと、ドストエフスキー

2009-11-21 08:46:25 | ドストエフスキー書評

虐げられし人びと、と覚えていたが「虐げられた人びと」なんだね。昔は「し」だったような記憶があるが。学生時代に読んだ粗悪な紙に細かい活字の本でね。誰の訳だったか忘れた。

この頃、文庫本の活字が大きくなった。それなのに、厚さは変わりがない。あれは大変な技術革新だ。

新聞のインクが手に付かなくなったのに匹敵する技術革命だよ。技術開発社にして者に一票。ノーベル文化賞に推薦する。

先鞭をつけたのは新潮文庫かな。それで改訂版が出るとあがなって、再読することが多い。此処で触れたドスト本のすべてが大型活字改訂版で再読した後に書いた。

光文社の「カラマーゾフ」も「罪と罰」もそうだった。

そこで「虐げられた人びと」も新潮社文庫32版で最近再読した。

これは「カニ工船」ではない。虐げられた、なんていうと社会主義的な内容を想定するがそうではない。貧困は例のドストエフスキーの納豆性のある筆力でこれでもか、これでもかと描かれてはいるがね。ま、貧困と広い意味でのドメスティック・バイオレンスが描かれている。

もっとも親の意思に逆らった結婚をして家を出奔した娘が乞食にまで落ちて、病死するなんて話が現代の日本の馬鹿娘に理解できるかどうか。

親の意思に逆らって駆け落ちした二人の娘の物語である。一方の家庭は詐欺師の公爵に色仕掛けで娘と財産をだまし取られた父親。そして娘は捨てられる。

もう一方はロシア版ロメオとジュリエットだ。親同士が経済問題で裁判を争っている二家の息子と娘のはなし。

二人の娘は江戸っ子みたいに誇りが高くてやせ我慢する。これも日本の現代娘には理解できないだろう。

つづく