穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ドラゴン・タトゥーの女その後

2012-03-17 22:31:31 | ミステリー書評

ラーソンのドラゴンタトゥーの女、下巻の半分ぐらいまで読んだ。上巻の終わりごろからの古写真を元にした時系列追跡のあたり、ミステリとしても読める。ただし、そのころのカメラに撮影時間まで写しこむ機能があったかな。

フィルムカメラの時代にもデート写しこみはあったが、いくらプロのカメラマンが使うものとはいえ、1960年代にそんな機能があったのか、もうすこし後からだったような気もするが。

それで或る人物にたどりつくまではいい。ただし動機に説得力がないし、描写が急に乱暴になる。映画を見たときにも、そのことは感じたが、ま、いい。

あと150ページくらい残っている。もうひと山位はあるのだろう。


うずくクリスティの親指

2011-09-17 08:38:30 | ミステリー書評

久しぶりのミステリー書評です。アガサ・クリスティの「うずく親指」

うまい文章家あるいは小説家のミステリーはかならず結末で破綻する。これは帰納的結論であるとともに演繹的推論であります。

クリスティ78歳の作品と言うのにも驚きました。文章に艶があって話の進め方は流れるようで職人芸がさえます。老いてますます円熟です。

うまい一般小説家がミステリーに手を染めると成功しないといいますが、おもしろく書いている話を質面倒くさい落ちでまとめる、これは矛盾です。出来るわけがない。また、ミステリー・プロパーの小説家でも結論まで『読ませる』作家はいません。説明口調で小学生の作文調になります(それなりに特殊なマニアを納得させる技はある)。

さすがにミステリーのプロだから説明に破綻はないが、そんなことは小説の面白さとは無関係です。というよりかは反比例でしょう。一部の篤志ファンにはそれでも満足なのでしょうが。

寡読のオイラが唯一思い出せる成功した結末はレイモンド・チャンドラーのロング・グッド・バイです。これがハードボイルドの小説家だというのも皮肉ですが。ペースはあくまでもゆうゆうと最後まで流れる。無理がない。それでいてひねりもある。十分にスペースを取っている。

断わっておきますが、チャンドラーも他の作品では結論は乱暴です。ロンググッドバイが唯一の成功例でしょう。ちなみにダシール・ハメットも結末部はお粗末です。本格的推理小説もお粗末ですが、言い訳的に叙述に矛盾しないように意識的に作業をしていることが違います。

それでも結末までの話が面白ければ「小説」として読んでなんら差し支えはありません。どうせそういうものしか市場(本屋の棚)にはないのだから。

クリスティの魅力も文章と言うことでしょう。昔何冊か読みましたがおぼろげな記憶で言うと結論は生彩がありません(文章としての)。ただ、若い時はミステリー作家としての『自覚』(責任感?)から生硬な結末部で一応つじつまを合わせて読者を納得させようとしています。

「親指のうずき」は成功せる老大家として(あるいは年を取って面倒くさくなっただけかもしれませんが)、最後の数十頁、中でも最後の十数ページはひどいが、エイヤとやっつけています。それまで面白く話を持ってきたこと、老大家の権威からして許されることなのでしょう。


ミステリーの適正規模

2011-03-25 07:38:17 | ミステリー書評

ミステリーといっても漠然とクライムノベルの範疇にはいるすべてのジャンルといってもいいが、その長さ(規模)が最近は長過ぎる。

いいところ、300ページまでだろう。病獣の屍肉のミンチを食うのではない。長ければいい、目方があればいい(上下二巻とか)、などと言うものではない。

同様にミステリー映画の限度は二時間だろう。小説にはこの節度をわきまえないものが多すぎる。三時間以上の映画なら途中で休憩が必要だ。映画はその特徴として、つなぎあるいは説明をすっ飛ばすことが出来る。本当は出来ないんだがね。ようするにめまぐるしく動く映像に騙されて必要な説明場面がなくても、筋が矛盾だらけでも、あっという間に進む。観客はおかしいな、と思う間もないからいいのだ。

それでも、いい映画は二時間でもこういうすっ飛ばしはないものだが。

ミステリー小説の場合は説明の場面が入るのだが、これが稚拙だから勢い長くなる。しかも説明すればするほどますます要領を得なくなる。

最悪なのは会話で説明場面を構成するものだ。まるで小学校のホームルームの議事録みたいなのが多い。

以上のコメントはすべて昨今ベストセラーと言われているものについてである。


易占して訟を得たり、山口雅也奇偶

2011-01-07 22:02:30 | ミステリー書評

時々易をもてあそぶんだが、山口雅也氏の奇偶評でどこまで本音で批評していいか、思いついて占ってみた。そしたら補助卦で「訟」と出た。補助卦という言葉はないんだが。本卦が出ても色いろと補完する卦も見るのが普通で、補助卦はいくつもあるのだがこの場合は之卦が訟と出た。ちなみにこの小説に出てくる教祖は本卦一本やりの単純なものらしい。

この卦の解説はキグウ下巻にもある。どの入門書にもあるレベルで問題ない。要するにとことん批判するなと言う解釈になる。じゃによってやんわりと批評するつもり。

下巻で密室殺人というので読んでみるとたしかに出てくるが相変わらず易の初級入門書的なページが多い。それでも下巻の最初を読んでいて、これはこれだけで小説にしたほうがいいだろうな、と思った。上巻はいらない。多少登場人物の紹介に3,40ページ付け加えればいいかな。それと易の講釈は短くする工夫が必要だ。そうすると下巻300ページは相殺されて200ページくらいになりそうだ。そんな小説かなとおもって読み進めたが、くだらない講釈が多くて150ページあたりで前進不能となる。

それにしても、これがこの十年間のベストスリーとはどういうことか、と「ミステリーが読みたい2011」の評論家のコメントを見て二度びっくり。痴人のたわごとの連続だ。

たとえば、杉江『ミステリという小説ジャンルを冷徹に解体した結果に行き着いた極北の境地。ここで行われた実験にはすべて価値がある』。唖然、茫然、言う言葉を知らず。


御説ごもっとも?

2011-01-06 21:11:22 | ミステリー書評

山口雅也の奇偶上巻490ページまできた。かなりの個所で怪しげな引用、登場人物(推理作家、教祖、教団関係者、精神科病院勤務医など)が聞き語りする珍説高説のかずかず、大分とばして読んだ。

浮き上がっているんだね。他のパートと有機的に、あるいは化け学的に絶妙に混交しているなら飛ばし読みは不可だが、全然そうではないようだ。

つまり屁理屈パートと小説パートが必然性をもって全体を構成していない。ま、作者は偶然という言葉がすきだから、二つのパートの相互関係などどうでもいいのだろう。なお、哲学史の流れで言うと偶然というよりかは偶有(アクシデンタル)と言うほうが普通だろうが。

それとすべてが登場人物の意見として開陳されていない。高名なる学者何某がこう申されたぞ、恐れ入らんか、てな調子だ。元はどうでも登場人物が自分のものとして述べる意見と言う箇所が一つもない。たとえば福助なんか、内容はともかく表現は彼らしく言わなきゃおかしいよ、小説でしょ。

大学の非常勤講師が偉い学者の説を切り売りしているみたいだ。教壇で一時間なんぼで生活している哲学教師ならいいが(内容は検証はしていないが)、小説じゃだめ。それぞれの登場人物の主張、意見として展開しなくちゃ。

で、あきれてしばらく巻をおき、「ゴールデンスランバー」の時と同じように電脳空間を徘徊した。なんか下巻でカルト教団で起きる密室殺人事件が出てくるそうだ。それでこれがミステリーなんだろうね。上下巻千数百円分の悪口を言う権利をまだ残している。我慢して下巻まですすもう。


されど読者たかが読者

2011-01-06 11:17:51 | ミステリー書評

逆だったかも。日本の尊敬すべき読者とかけて何と解く。

マスコミに紹介されればデパ地下の菓子屋に長蛇の列を作るともいとわず、と解く。

その心は、書評家が褒めればいかに難解(読みにくい、読みがたい)小説でも、最後まで読み切り自分の舌を納得させる異能を持つ。

マスコミが取り上げない店は見向きもしない。本の取捨を自分の判断ですることがない。

(まるでオイラみたい)


山口雅也「奇遇」300ページ手前

2011-01-06 10:41:29 | ミステリー書評

ハヤカワグループ書評家のゼロ年代ベストテンの第三位だ。上巻500ページ下巻350ページ。

おいらは上下とか二分冊以上のミステリーは読まないんだが、ベストテンでほかにめぼしいものもないらしいので千数百円の投資をした。長いものといえば、同じ理由でベストテン堂々の一位宮部氏の「模倣犯」全五冊も読まない。彼女の作品は何だったか二冊に分かれているのを読んだ記憶はあるのだが、それだけのページ数サスペンス、興趣を連続させる能力は感じられないので模倣犯もパス。例外的にこの本が良い出来なら勘弁ネ、だ。

さて「奇遇」。出だしはどうもだが、エピソードの二あたりからちょっと読ませる。しかしなかなか山が来ない。小山はおろか丘さえない。これで売れるのかなという印象。奥付を見ると2006年以来二刷のみ。ほかと一桁以上違う。一般受けはしないだろうな、と思う。しかし選者は偉いね。これを堂々の三位だ。

こういう書き方もあるんだろうが、どうもエピソードと言うの、劇中論文というか屁理屈というの、がバラバラだ。この頃若い人のはやりで辛抱して最後まで読めば恰好がつく、小ネタを回収するのかもしれないが、どうもそれほど辛抱強くない。エンターテインメントを読むのは我慢比べじゃない。

これがミステリーかね。最後まで読むとミステリーなのかな。とにかく300ページまでは解決すべき事件もないし、ミステリーと銘打たなければ、それなりに読めるところもあるのだが。

各所でペダンチックで「高踏的」なギロンが陳列されるが、少年時代に読んだ小栗忠太郎の「黒死館殺人事件」を思い出した。総じて単調な議論である。提示の仕方が女学生のノートからみたいだ。女子学生が教室で先生が言うことを一字一句最大漏らさずノートに筆記するだろう。そのノートからまるまる引用しているみたいだ。

つづく


全共闘とビートルズ

2011-01-03 23:48:36 | ミステリー書評

何が嫌だと言って全共闘世代の幼稚な思い込みとビートルズ世代のいじましさ位怖気をふるうものがないと言っただけで、私がシグマ3を飛び出していることが分かろうというもの。シグマ「サン」て偏差値に直すとどうなるのかな、マイナスかそれとも1000以上になるのか。

さて、前回に続き伊坂幸太郎のゴールデンスランバー、これはビートルズの一節らしい。当事者は大学を卒業して30歳の坂を越そうかというおじさん、おばさんだ。それが頻繁にバックフラッシュする。逆だったかな。

彼らの大学時代のことが入れ替わり立ち替わり書かれて頁を稼ぐ。青春のグラフティというわけだ。著者の年齢からするとビートルズ世代より一、二世代あとのような気もするがね。ま、彼らが大学時代に口ずさんでいたわけだ。

インターネットを泳いでみると、異口同音にネタ、伏線をたくさんばらまいて几帳面に全部回収するのに感心して褒めているがばかばかしくない? 問題は回収の仕方だろう。あるいは伏線のはり方だ。回収率100パーセントなんてのはミステリー作家の評価には関係ない。屑屋ではないのだ。あるけど二義的だ。

インターネットには頓狂な賛辞がある。村上春樹に影響を受けたとかいうのだが、確かに村上氏の初期の作品にはフラッシュバックで大学生活の思い出がパステル調で描かれるがほどを心得ている(量的に、そして質的に)。

前号に書いたが、読むに耐えずに550ページ位あたりで気分転換に書評を書いているわけで、最後まで読んだら必要があれば付け加えるが、もうひとつ。

それはお手伝いさんの使い方だ。400ページ当たりだったかな、キルオ君というのが唐突に出てくる。この人物の出し方は工夫したほうがいい。それはともかく、この辺から文章がやや精彩をおびてくる。

次のお手伝いさんは中学生だか高校生だかの不良グループだ。人気の少ない駐車場あたりに出てくる。ははあ、例の手を使っているな、とすぐにわかるがストーリーはともかく持ち直す。

このお手伝いたちをどう使うかなと注目していると、キルオ君は唐突に死んでしまう。変わってニセ病人がお手伝いとして出てくる。この先どうなるか読んでいない。

このお手伝いたちの使い方次第でましなものになるかもしれない。しかし、ここまで伏線をばらまくと称して退屈な描写で無慮400ページまで引っ張るとはね。これも技かな。

伏線は最後まで伏線と意識させないようにしないと意味がないが、ちょっと読めば是は伏線だな、とわかる。伏線でなければ青春のグラフティを便々と書く意味がないことがすぐに看破される。


苦痛に耐えて伊坂幸太郎を読む

2011-01-03 22:41:56 | ミステリー書評

最近は読むものがなくて、それでも活字中毒というのか目さびしいものだから、書評屋はプロとして相対評価のレベルはある程度は評価出来るかと思い、倭ものを選ぶ参考にしている。

ここ何回か書いている。具体的にはハヤカワ「ミステリーが読みたい、2011」のゼロ年度ベストテンなんだが、七位にゴールデンスランバーがある。ひどいね。ま、しかし七位ではある。ここでふれた二、三の作品よりかは明らかに文章力では劣るから書評家のランキングはその意味では適切なのだろう。

文庫本で650ページでやっと550頁あたりまできたのだが、あまりのひどさに読むのを中断してインターネットで調査してみた。いや評判がいいね。書くのが怖くなったよ。しかし、このブログでは人と同じ意見は書かない方針だからむしろ書くべきなのかも。

何回か直木賞の候補になったらしい。しかしゴールデンスランバーは候補にもならなかったらしい。直木賞(芥川賞も)の権威を認めないわたしだが、わりとまともだなと思った。先に触れた「容疑者Xの献身」は直木賞を取ったらしいが、相対評価でいえば直木賞の基準は妥当だろう。

ところが本屋大賞を取ったらしいね。それとインターネットでのベタ褒め、そして文庫にして半月の間に三版を重ねる。悪口を書くのが怖いようだ。

さて、長くなったからまずこの辺で。次回はチト具体的に。


記述トリックの珍品

2010-12-26 21:38:37 | ミステリー書評

ミステリーと言っても大昔のアメリカのものをちょこっとしか知らないので、少しは倭ものも、と思っても何を読んでいいか分からない。

そこで「ミステリーが読みたい2011」てムックというのかな、それを頼りに一、二冊読んだが、妙なのがある。「葉桜の季節に君を想うということ」歌野晶午著。タイトルがチンだというのではない。70歳の男女を二十代そこそこの男女と思わせて最後まで引っ張るという趣向だ。そこそこの筆力はあるが、きわめて後味が悪い。

前に紹介した「容疑者Xの献身」は日にちに関する記述トリック、これは年齢に関する記述トリック。50歳近い(読者である私の印象では)年齢の開きをごまかすためには一人称視点をとるのは当然だろう。それもハードボイルドふうに「俺」だ。

記述トリックというのはオイラの用語かな。業界では叙述トリックというらしい。本格と言うか本格もどきというか、最近はやたらと記述トリックがおおいのかしら。本格と言ってもトリックは種切れなんだろうな。それで記述トリックを使ってばかりいる。著者、業界、読者がお互いに「たました」、「たまされた」と言ってはしゃいでいるのだろう。

しかしこの本は年齢詐称がなくても成り立つ余地があったようだ。そうすると、年齢詐称トリックはだめ押しのつもりなのかな。そうでもないか。冒頭に古屋節子の明確なプロフィールをもってこないとどうなったのかな。

ま、これも一つの趣向だろう。


リトルシスターは非線形方程式

2010-12-22 19:22:54 | ミステリー書評

Little Sister 2

この小説には四つの死体がある。そして犯行時の描写は一つもない、つまり犯人は読者に提示されていない。チャンドラーは四つの死体と四人の犯人を作りたかったらしい。こりゃ、大変な作業だよ。

結果、失敗したということだろう、その点では。小説の価値はその点だけではないからね、特にチャンドラーの場合は。

こういう趣向の小説はチャンドラーではほかにない内容だ。死体は一つか二つで犯人が描かれていない死体は大体一つに限られる(つまり謎解きの対象となる殺人は)。たとえば、「大いなる眠り」では死体は三つかな、そのうち二つは犯行現場の実況中継がある。つまり犯人は分かっている。単に物語を転がすための殺人だ。

ようするに、リトルシスターはチャンドラーの作品でもっとも非線形なものだ。ノン・リニアーなものだろう。四元方程式を解くには定式が幾つ必要だったかな。解も定まらない。それでも読める、読んで面白いところがチャンドラーだ。推理小説作家諸君もこのレベルの文章力を目指してほしいね。

チャンドラーの作品では異例に長いロンググッドバイはきれいな線形方程式だ。そうして読ませる。リトルシスターが魔女のゴッタ煮とすると、あるいはカクテルと上品に言ったほうがいいかな(もっともイギリス人に言わせるとカクテルというのは下等な飲み物らしい)、ロンググッドバイは名水のような口当たりのいい、のど越しに抵抗感のない名酒である。

& おっと間違えたらしい。リトルシスターの死体は六つかな。最後のゴンザレスと亭主の麻薬注射専門医者の無理心中を入れると。もっともこれが心中か無理心中かはっきり書いていないが。四元方程式を無理やり閉じるために夫婦どちらもどれかの殺人の犯人くさいと読者に思わせて幕をおろしたのだろう、チャンドラーは。


リトル・シスター by チャンドラー+村上春樹

2010-12-20 22:14:49 | ミステリー書評

Little Sister 

村上春樹翻訳によるチャンドラー作品の三作目になる。翻訳と言うのは原作者と訳者のケミストリーだが、この第三作は村上パートがこれまでで一番強いようだ。解説でも相当に入れ込んでいる。

よれよれの20ドル札を持ってマーロウの所に現れる神経症的な田舎娘が依頼人だが、これがなかなかしたたか、日本にはカマトトと一語で表現する言葉があるが、英語にはないようだ。

村上春樹も考えたね。第一作に衆目の一致するロンググッドバイを訳す。次にチャンドラー作品の中では分かりやすく口当たりのいいFarewell My Lovelyを持ってくる。そして三訳目に大好きなLittle Sisterを持って来た。

まず即物的な感想から、私もペンギンの英国インプリント版を持っているが約300ページ、村上訳が350ページだ。大体英語の小説は訳すとページ数が1.5倍から2倍になる。もっともこれは文庫版だが、翻訳は単行本だし、活字も小さいがページ数がほとんど変わらないのが意外だった。完訳だというし、このページ数は文体やなにやらと本質的あるいは有機的な意味合いもあるような気がする。

村上氏はこのオファメイの描写が面白いという。確かに特異なキャラで描写も印象に残るものだ。チャンドラーは女性を書くのがあまり得意でないという村上評だが、どうか。たしかに、この小説では二人の映画女優、ゴンザレスやメイヴィス・ウェルドもじっくりと描き込まれている気がする(特にゴンザレス)。チョイ役で出てくる警察の赤毛のタイピストの描写も実が詰まっている。村上氏の指摘で改めて女性たちに注目して読んだ次第。

この小説で他の作品と違っているのは、マーロウの心境、心象描写がかなりひねってあって(シュール味で)、かつボリュームが大きい(ページ数が多い)ということだ。色々な意味で特徴のある作品だ。

ラストはメタメタだ。村上氏の表現を借りれば「誰が誰を殺したか(いくら読んでも)分からない」。その点は期待して読まないほうがいいだろう。

村上氏の訳だが最初のほうではどうも引っかかるところがあってペンギン版と比べたりしたところがある。途中からは村上訳に乗っかったが。それで気が付いた点をいくつか;

1.23ページ

マーロウ「・・・そして見たところ、君はとんでもないカマトトの嘘つきだ。うんぬん」

小説を読んでいけば日本語で言うカマトトというキャラが浮き立つようになってはいるのだが、とペンギンを見たら「you‘re fascinating little liarとある。まだカマトトと結論付けるのは早くないか。

2.118ページ「・・・ポケットから乱暴な色合いのハンカチを取り出し・・・」乱暴なとは乱暴な。ペンギンを見たらviolent-looking handkerchiefとある。

これはA:violet-lookingの誤植ではないか、オリジナルが。昔、日本でも(書生の腰にぶら下げた煮染めたような色の手ぬぐい)、なんて言いましたな。汗と油と汚れで赤黒く変色した色を優雅にヴァイオレット色と表現したのかと

あるいはB:violentには「ひどい」という意味もあるから〈汚れて〉ひどい色をした、と訳すとか。すざましい色をした、とする手もあります。


どこでだまされたのかな

2010-12-17 22:01:26 | ミステリー書評

「容疑者Xの献身」の続きだが、どこでだまされたのかな、と読み返した。こんなことは普通しないんだが、たいしておっくうがらずにやる気になれるところがいい本の証拠だね。

大体80ページぐらいまでにヒントはばらまかれているようだ(文庫)。第一の犯行をくらますために第二の殺人が行われて、これを第一の犯行と思わせるというのが趣向なんだが、読み返してみると第一の犯行の日にちがまったく触れていない。

そういう意味ではこの部分は「記述トリック」なんだな。

それで第一の殺人の翌日に行われた第二の犯行の被害者を第一の犯行の被害者と思わせるわけ。だから犯人は犯行翌日のアリバイを作ればいいわけだ。

スタイルはある意味刑事コロンボふうだ。犯人は分かっている。犯行現場の叙述から始めるわけだから。

だからハウダニットものということになる。

読者と「書中の警察」をだますトリックの一つが上記の「記述トリック」なんだな。ほかにも簡易宿泊所から採取したDNA鑑定とか盗難自転車がある。

DNA鑑定の取り違えはちょっと面白かったな。しかし現実の警察活動がこんなにとろいのかなとも疑うが。

自転車盗難トリックはこの本の中では泥臭い部類だ。なにかほかの小道具を考え付かなかったのかな。

最後の数ページが猛烈に泣けちゃう。前回触れたが女性ファンを引き付ける箇所はここなんだろうな。こんな献身的な男がいたらいいな、と都合のいいことを考える女が多いわけだ。


東野圭吾「容疑者Xの献身」

2010-12-17 09:05:47 | ミステリー書評

今回も和もの。最近のニュースでアップルだったかに、無許可でこの本が掲載されてチャイナかどこかで売られているというのがあった。人気があるんだな、としばらく記憶のとどまった。

先日本屋をぶらついていた時だ、年の頃なら30代の体格のいい女が子分みたいなのを連れている。手には文庫本を数冊わしづかみしている。さらに本棚をあさっている。そうしながら連れの女に講釈をしている。どうやら著者のことらしい。それで彼女の手元を見たら一番上にこの本があった。

こんなことがあって、その後書店で目に触れたので買った。いわばニュース触発型衝動だな。

エンターテーンメントという言葉がある。どういう意味か知らないが、たとえば出張に行くと考えなさい。ホテルの気持ちの悪いふかふかしたベッドではよく眠れない。酒でも飲んで酔っ払ってホテルに帰って勢いで寝てしまおうと思っても、飲み過ぎた酒の影響で3時頃にはぱっちりと目が醒めてしまう。もう眠れない。そんなときに読む本がエンターテーンメントだろう。

或いは10時間ほども飛行機に揺られて欧州に出張するときに、機内で読むかと空港の売店で買う本、ま、それがエンターテーンメントいうものだろうか。

タイトルの本はエンタメとしてはかなりいいものだ。

第一に読みやすい。銭を払って買う本は本来そうでなければならないが、読みやすい本と言うのはエンタメ系でもまれだ。読みやすいというのは文章がうまい、筋の運びがうまいということでもある。この著者は比較的若手らしいが古手平均よりも上だ。

衒って純文学より読みにくいのが多いから困る。それに長さがいい。350ページだ。旅行に持っていくなら、これ以上長いものはだめだ。

家で読んでもエンタメで長たらしいものは味のないボロ肉を噛むようで嫌なものだ。


記述トリック三兄弟

2010-11-23 21:41:48 | ミステリー書評

前回「死の接吻」が記述トリックであると書いたが、そう言えばロバート・ブロックの「サイコ」がそうだね。多重人格(三つ)を同時に実在する三人のように描いている。評判の高い本だが、私は感心しない。

記述トリックの最大の危機は最後の謎解きの時の説明の仕方に現われるが、うまく処理しているケースは絶無ではないか。

記述トリックで有名なものは

クリスティのアクロイド殺し、レヴィンの死の接吻それにブロックのサイコだろう。このうちで世間の書評屋の通説とことなり、私がややましと思うのはアクロイド殺しくらいのものだ。

びっくりする(しない)回数、なあんだという回数が少ないほどマシなわけだが、その点アクロイドはシンプルでいい。