穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

幻の女

2010-08-19 11:11:15 | ミステリー書評

ひと月足らずのご無沙汰でした。徒然(トゼンと読んでほしい)に耐えかね、書棚から取りだしたる一冊、ウィリアム・アイリッシュ「幻の女」。

70年前のミステリーだ。加えて小生は書評でオマンマを食っているわけではないので結末から入っても差し支えあるまい。

記述者(ワトソン役)が犯人というので、おきて破りだと細かいことをいう書評家に難癖をつけられたのはクリスティのアクロイド殺しだったか。幻の女は探偵が犯人という趣向。探偵役というのは素人でえん罪で捕まっている男の親友である。本当は友人に罪をかぶせようとする男。途中から探偵役をかって出るのは、今後新しい証拠が出ないように証人になる可能性のある人間を殺していくため。

いったん捜査で有罪証拠を固めた刑事が、やり残した捜査をその男にやらせる。いったん警察でケースクローズになったケースは自分では扱えないから。

(捜査では十分な証拠がそろえば、被告人の証言の全ポイントを洗わなくてもいい、という「盲点」を蒸し返す、ということで一応筋はとおる)

そして、刑事と冤罪男の愛人が協力して「親友」が「真犯人」であることを突き止める。それが死刑執行日という段取り。

少し長過ぎる難がある。ミステリーはせいぜい日本語で300ページまでだ。それ以上のものはよほど技量がいる。まずそういう作者はいないとみてよい。そうすると、最近の日本の(外国もその傾向があるが)はミステリー作家の腕があがったのか。

否である。読者の質が下がっているのである。編集者、書評家の質が低下しているのである。

最近はミステリーはあまり読まない。たまに読むのは大昔読んだ本を読み返すくらいだ。最近は最初を30ページほど読む。それから最後の30ページを読む。そして作者の状況設定と落とし所を見たうえで、真ん中のアンコを読む。どう料理してあるかな、構成はしっかりしているかな、不自然さはどう処理してあるかな、緊迫感は平均値かな、てなところを「観賞あるいは罵倒」する。

幸いなことに前に読んだことは全く覚えていないから、新しく買って読むのと同じなのはありがたい。

早川文庫巻末の解説によるとアイリッシュは抜群の筆力とある。抜群というのは躊躇する。日本語で読んでるしね。最初のほうはたしかに「エンターテインメント」としての資格はある。

もう少し全体を縮めたらピリッとしてくるだろう。なべて言えば平均値をかなり超えていることは間違いない。

昭和17年の作品である。


ハンフリー・ボガード

2010-04-07 09:16:16 | ミステリー書評

三つ数えろ、マルタの鷹、カサブランカとボガードのDVDを三枚持っている。いずれもモノクロだが。

最近、三つ数えろ、とマルタの鷹をもう一度見たので印象を。いずれもミステリーの原作の映画化だ。

三つ数えろ、は邦題でチャンドラーの大いなる眠り(ビッグスリープ)の映画化。この邦題はいただけない。それと原作とはめちゃくちゃに違う。悪いほうに違う。出だしはちょっとキレがあったが、すぐにだれる。これはだめだ。小説はいい。これはマルタの鷹より大分後の作品だが、ボガードの演技も劣化しているようだ。画像ももとのフィルムが大分劣化していたようでDVDでおこした画像もぼけている。それだけ、当時から評価が低くて、フィルムの保存もおろそかになっていたのではないか。

マルタの鷹はダシール・ハメットの同題の映画化。筋は原作に忠実だ。それよりも驚くのは映画として完成している。ある意味では原作以上の傑作ともいえる。原作を読まなくてもこれだけで十分独立している。筋は原作に忠実だがそんなことは関係ない。画像もいまなお鮮明である。

カサブランカ、これは芝居の映画化らしい。再見していないが、記憶では画像も不鮮明で、映画としても並みという印象だったが。物の本によると、この映画は不朽の名作ということになっている。ついでに、カサブランカも再見するつもりなので、感興がわけば、あとでアップするが、どうかな。

三つ数えろ、で驚くのはチャンドラーがよくこの映画を認めたな、ということだ。彼はシナリオライターあるいはシナリオ添削者として数年間ハリウッドとかかわった人間だけになおさら不思議な気がする。彼の作品はほかにも数作映画化されているが今に残る映画はないようだ。彼の小説はもともと映画にならないような個性があるのかもしれない。

それに比べるとハメットは、たしか影なき男だったかな、は芝居(映画?)としても大成功したと言うし、芝居、映画という他メディアとも親近性があるのかもしれない。

ある人によればハメットのセリフが映画向きという(そうとばかりは言えないと思うが)。そうするとチャンドラーは地の文が命ということか。二人の前身にも関係があるようだ。

チャンドラーはシリアスな元詩人、ハメットはメッセンジャー・ボーイから始めた元探偵。


前戯がながい叙事詩、D.フランシスの名門

2010-03-25 07:49:09 | ミステリー書評

Who’d done itではない、howである。前技(戯?)*が長い。400ページを超える本で300ページ近くになって本筋に挿入。ペースは緩やか、叙事詩ペースと言ってもよい。

*このことばは広辞苑公認ではないらしい。

此処まで読めば、布石からwhoは分かっている。よほど鈍い読者出ない限り。Howの興味で最後までページをめくらせるのがフランシスの腕力である。

原題はBanker、これを名門と訳すのはどういうつもりか。このハヤカワシリーズは首をかしげるようなタイトルの訳が多いが、この名門はおかしい。せめて言うなら名血だろう。

出てくるのは中規模ブリーダーが超名血の種馬を購入する。それに異例の巨額融資を行う若手銀行家。インチキ治療師。馬に民間療法の薬草を与えたり、インチキ薬を与えたり、手当(手かざし)療法をするテレビで人気の馬医者といった顔ぶれである。

さて、予想どおり悪いのはインチキ馬医者ということが分かるわけだ。DF全作に言えることだが終局はごたついてよくない。本筋への突入突入部あたりは期待を持たせたのだが。


ディック・フランシスの「混戦」

2010-02-22 20:27:38 | ミステリー書評

この小説はエアタクシーの操縦士が主人公である。5,6人乗りのチェロキーとかセスナで騎手や競馬関係者をほうぼうの競馬場に運ぶ。

イギリスの競馬場には飛行機の離着陸を認めるところがあるようだ。4ハロンも直線路があればコンクリートで舗装してなくて芝生でもセーフらしい。パドックや検量室のすぐそばに降りるから、お座敷を掛け持ちしている売れっ子の騎手には便利だ。

利用するのは有名な(忙しい、金がある)騎手、調教師、馬主、競馬愛好家など。料金は乗客同士で割り勘にする。地方競馬なんかにいくと最寄りの駅から相乗りタクシーというのがあるが、あれと同じだ。

小さな会社が複数あるらしい。よく利用する騎手一人を乗客として確保するかどうかが会社の浮沈にかかわると言うから小さな業界である。有名ジョッキーの奪い合いが暴力沙汰になるところも書いてある。

主人公は飛越と同じタイプである。エリートあるいはキャリア・パイロットがわけありでエアタクシーの運転手に身をやつしている。飛越では伯爵の息子、混戦ではもとBOACの国際線搭乗員。事故がらみの過去で今はタクシーの運転手。

ところでBOACて分かる?昔のイギリスのフラッグ・キャリアでたしかつぶれてしまった。日航みたいな会社だ。いまはBAというのが一応フラッグ・キャリアらしい。

そして、飛越も混戦も主人公は挫折して消極的な人生を送っており、影の薄い青年と言う設定になっている。下腹部はセメントでかためたような、この小説に出てくる若い挑発的な女の表現を借りれば、氷ずけになっている。

それが事件に巻き込まれていって大活躍と言うのは飛越と同じだ。なんだか航空関係者を描くと人物の性格が似てくるらしい。飛越は66年作、混戦は70年作だが。

事件は(言ってしまっていいかな)保険金詐欺である。ここでもDFの黒髪フェチぶりが出ている。有名ジョッキーの妹で美人のあいかたは黒髪である。

190ページあたりから経験の浅いパイロット(これが黒髪美人)が兄を乗せて悪天候の中を飛行するが、計器が故障してしまった(これも犯罪の一部、壊されたのである)。計器飛行が出来ない。主人公が後から離陸して追いかける。各地の管制官に誘導してもらって彼女の飛行機を発見、雁行して無事着陸まで誘導する。

こううまくいくかなという感じはあるが、このあたりはやはりパイロットでなければ書けない。少なくともイギリスの航空管制システムを熟知していないと書けないだろう。

前にも書いたがDFは第二次大戦で空軍パイロット、除隊してこの小説に出てくるようなエアタクシーの経営者兼パイロットだった。その経験が生かされた小説だ。


哀悼ディック・フランシス、「飛越」

2010-02-20 08:47:15 | ミステリー書評

先日DFの訃報があった。享年89歳、ご冥福をお祈りする。

さて、今回は66年物、「飛越」。お話は馬匹航空輸送業者と厩務員のはなし。

舞台は馬の航空機による国際輸送。出てくる飛行機は古い順に、DC4、B707。あえて蛇足を加えれば前者はレシプロ四発エンジン輸送機。旅客機仕様では60人のり、馬匹輸送では大体8頭くらいらしい。第二次大戦末期就航。

B707はジェット旅客機第一世代。DC8とともにジャンボが出現するまで航空輸送の主力機である。

馬匹の輸出入業務というのは当然日本にもあって、かっては野崎産業だったかな、そんな名前の専門業者がいたが今でもあるのかな。大手商社も参入しているはずだ。

イギリスはさすが競馬先進国で小さな業者が沢山あるらしい。舞台はその一つの会社で馬匹輸送と言うのはかくれみの、実は共産圏(らしき)国のスパイを密出入国させたり、密輸をしたりしている。通関、入管の盲点をついている。日本にもあてはまりそうだ。

しかも、欧州やアメリカと頻繁な交流があるから日本と違って大量の馬が行き来する需要があるわけだ。

国際馬匹輸送に添乗する厩務員というのはフルタイムとパートタイム(普段は陸上の厩舎の厩務員)とあるらしい。主役の厩務員に金はあまりないが、伯爵の息子がなる。かれは障害競馬の騎手で大レースにも勝つ実力がある。その上、自前で事業用航空機の免許も取得している(その程度の財力はある)。

それが上流階級に反感を持っている下層階級の厩務員といざこざを起こすという設定。

この布石は基本的には彼の「興奮」でつかったものだ。興奮ではオーストラリアの成功したブリーダー(生産牧場主)がイギリスの競馬不正を暴くために厩務員に紛れ込む。

ただ、飛越のほうは自分の意思で厩務員になった。この辺の描写が前半だが、動機が不自然で弱いだけに筆はもたついている。彼が仕事を何回かしているうちに不正に気がつくと言う寸法である。

彼の後年の作とは違い、前半もたもた、後半充実である。200ページあたりから別人が書いたような感じになる。DFには珍しく純愛物語(といってもプラトニックじゃない)があるが、これも後半筆に粘りが出てくる。

付録:

1.この小説に限らないがDFの描写に馬の匂いの描写がない。とくに本作では狭い気密された機内で大量の小便を垂れ流すであろう(そして馬糞も)馬と同じ空間に長時間いるにも関わらず、匂いの描写がまったくない。不自然じゃないのかもしれない。輸送前には馬に水をまったく飲ませなかったりして。

2.DFは黒髪フェチであることは間違いない。飛越の相手はイタリア娘だから黒髪でもいいが、イギリスの女性でも小説の中でDFがポジティブに描く女性は黒髪、黒い瞳である。あちらではマイノリティだからなのか。DFではとくに目立つ。本作では二人が最初に出会う場面で黒髪だけでなく、黒いドレスを着せている。黒フェチだね。彼の奥さんはどうたったのかな。

3.フランシスはパイロットだと前に書いた。かれが航空機を舞台にした小説はこの「飛越」と「混戦」だという。次回は混戦を読んでみよう。


75年物のお味は、D.フランシス「重賞」

2010-02-14 21:30:02 | ミステリー書評

大変よろしい。1975年前後が脂ののりきっていたころのようだ。競馬サークルの話が一番安心して読める。本編は馬主と調教師の話だ。

調教師が馬主の知らないうちに出走馬をすり替える。それも同じ馬でのべつ幕なしにやる、という馬券愛好者にとっては死活問題のおそろしいお話。

しかけは馬のすり替えである。この間大井競馬で出走直前に違う馬が見つかったというニュースがあった。大したフォローもなかったところを見ると単純なうっかりミスということで処理されたようだ。

小沢一郎言葉なら「形式的ミス」だ。

この馬の取り換えが軸になっておる。しかも取り換え三つ巴というか三連単である。イギリス屈指の騎手経験者である作者があり得る話として書いているわけで、馬の確認方法が現代でもそう変わっているとも思わないので、日本でも大いにあり得るのかな、と思ってしまう。

これがあり得たらテーヘンなことだよ。まさか生まれた時に、というか最初に出走する時にDNAを採取保存されて、各出走ごとに血液を採取してDNA検査なんか出来るわけもなかろう、非現実的で。

あるいはユニークな番号を記録してあるマイクロチップを馬の皮膚の下に埋め込んでしまうか。実用的かな。とにかくそんなことをしていることも聞かない。

これは、アナタ、来週から馬券戦術は見直しだよ。

これまでに何回かラストが甘いと書いてきたが、この作品はラストでも手を抜いていない。グーである。

このハヤカワミステリー文庫には解説はないが、訳者あとがきがある。著者の経歴が紹介してある。それによるとD.Fは第二次大戦中パイロットだったらしい。かれは妻と一緒に騎手専用のエアタクシーの運転手(操縦士)をしていたこともあるという。

それで思い出したのが、帝国陸軍騎兵中将からかって聞いた話だ。

昭和になって軍隊の機械化が進んで騎兵の役割が小さくなった。騎兵の役割は戦車部隊と航空部隊にとってかわられたわけである。

なかでも航空機パイロットには馬乗りは向いているそうだ。なんでも手綱の持ち方と操縦桿を握る感覚とは同じだそうだ。陸軍省編纂の「騎兵操典」には手綱は掌に鶏卵を抱くようにせよ、とあったという。アナログ時代の航空機とくに戦闘機ではそうであったらしい。

ジョイ・スティック(隠語で操縦桿のことを昔堅気のパイロットはこう呼ぶそうだ)も手綱さばきと通じるところがあるのだろう。

遊び人はいちもつをジョイスティックというらしいがね。

もっとも今はすべてデジタル制御だから話は違うだろうが。最近のトヨタ自動車でもデジタル制御だからね、今回のトヨタのリコール騒ぎの本質はそこだろう。いみじくも常務がフィーリングの違和感といってひんしゅくをかったがね。あれはプロやテスト・ドライバーには通用する理屈だが、たしかに一般の客には通用しない弁明だろうね。

卵を固く握ればつぶれてしまう。ゆるすぎると卵が落ちて割れてしまう。卵の代わりにヒヨコを持つように手綱を持てという格言もあったらしい。固く握ればヒヨコは窒息して死んでしまう。ゆるければてのひらから落ちて死んでしまう。

D.Fはいい方向にリストラしたわけだ。

あとさきになったが、この本の151ページに馬のパスポートと言うのが出てくる。内容が紹介されているがこれじゃ場合によってはすり替え大いに可能のようだ。


下駄屋の告白、ディック・フランシスの告解

2010-01-26 20:39:20 | ミステリー書評

この本を選んだのは下記の理由による(告解、ハヤカワミステリー文庫)。

1・前回取り上げた敵手が1995年の駄作、これが著者(および訳者)の高齢によるスランプなのかどうか、読み比べたいということ。「告解」は1994年の作品である。

2・登場人物リストを見たり、最初の数ページを読むと競馬の装蹄師の世界を描いたように思われたこと。かねてから、「興奮」などで競馬サークルのグループの描写がきわめて巧みなので、今回は競馬の予想という自分の都合で興味のある職業なのでつい手が出た。

ところがである。確かに下駄屋は出てくるが、主役は競馬世界に二十数年前におこった調教師の妻の変死事件をデフォルメした映画製作の話が延々と続く。そういうことに興味があれば部分的には面白い。どうも、やはりフランシスの年のせいだろうと思うが、筆の運びが快調なのが部分的で間歇的なんだね。つまり面白いところと退屈なところがまだら模様になっている。

変死事件そのものも下駄屋(ソウテイシは一発で変換できないから下駄屋で代用する)の職業上のトラブルとか、八百長工作とかとは一切関係がない。それどころが競馬社会特有の事情は一切からんでいない。落ちも下駄屋の世界とは全く関係がない。

D・フランシスは自分の作品が映画化されたことがあるのだろう。その時に映画製作にも何らかの形で参画した経験があるようだ。ことこまかに記述している、楽しそうに。

だから、そういうことに興味がある人にはいいだろう。

前回も触れたが、相変わらず動機は薄弱で最後の落ちの説明はかなりもたつく。評価は敵手よりはいいが水準すれすれの作品というところである。

どうもフランシスの作品も底が割れたようなので、書評はこれで終わりにするかな。


不自然さについて

2010-01-22 22:48:45 | ミステリー書評

アンチ・リアリズムの試み;

一応ミステリーに限ってみよう。なに、小説全般に広げてもいいのだが、行きがかり上ミステリー限定。

いまではハードボイルドと言われている動きが出てきたときに、リアリズムということが言われた。それまで全盛だったいわゆる本格推理小説の不自然な犯罪(主として殺人方法)についての議論である。

密室だとか、突拍子もない凶器だとかね。だからハードボイルドの殺人方法は簡単だ。殴り殺すか、絞め殺すか拳銃で撃ち殺すか。あるいはまれにアイスピックで刺し殺すか。これが文化の違いだね。日本だと断然刃物なんだがアメリカじゃ拳銃だ。そんなところだ。

しかし、不自然なところがなければ小説なんか成り立たない。異化といってもいい。この言葉が好きなら。異化というのは受動的な意味だけはなくて能動的な意味もある。

ハードボイルドで不自然なのは動機である。不自然と言うか弱いなと思うのは。それまでテンポが良くても最後の謎解きになると俄然もたつくのがハードボイルド。

だからハードボイルドの名手は最後はあっさりと行く。やたらにひねらない。どんでん、どんでんといかない。チャンドラーなんかがいい例だ。

後、ハードボイルド、タフガイもので不自然なのは主人公がやたらとタフなこと。金槌で滅多打ちにされても1時間後には、たたかれる前より元気になって大酒を喰らい、走り回り、女にちょっかいを出すこと。これをやりすぎるとしらけるが、大体興行的には成功するようだ。

ようするに、不自然さをどこに持ってくるかだ。冒頭に持ってくる本格ミステリー、結末に持ってくるハードボイルド。中盤に持ってくる冒険小説とハードボイルド。


デイック・フランシスのたくらみ、敵手

2010-01-22 08:17:57 | ミステリー書評

シッド・ハレーものである。これで四作全部読んだことになる。結論からいうと駄作である。シッド・ハレーものとしてだけでなくて彼の著作としても。もっとも数冊しか読んでいないわけであるが。

まず、小物からいこう。アナログ携帯電話からデジタル携帯電話へ、である。フランシス氏の注釈がある。1995年もの、著者75歳。

彼の独創ではないのだろうが、構成がちょっと変わっている。最初に犯人が分かっている。倒叙ものかな、と思うとそうでもない。マンハントもの的な面もある。連続動物虐待事件もの、フランシスだから当然馬が傷つけられる。

倒叙ふうが前半、犯人はシッドの親友、したがってこれはハードボイルドなどに多い友情ものであるが成功しているとは言い難い。

さて、その友人が、シッドの調査の結果、告発されて裁判になろうというときに、またまた馬を残酷に傷つける事件が発生。しかも犯人に擬せられたエリスには鉄壁のアリバイ。

さてさて、真相はということなのだが、まずこのフランシスのたくらみにそって、叙述が成功していない。もたつく。もたつかせて時間をかせぐ(ページ数をかせぐ)のはサスペンスの常道だが、読者を退屈させてはいけない。文字通りもたつくのである。

構成についての破綻のほかに、多数の個所で意味不明、意味を取りかねるところがある。とても意図的にした意味のあるものとは思えない。75歳のスランプか。

この点については翻訳者の問題なのかもしれない。原文と対照していなから断言はできないが。

全くの憶測だが、フランシス自身、加齢による筆の衰えがあったのではないか。その後見事に回復しているがこれは老人にはよくあること。それにその後は息子さんの協力があったようだが、このころは一人で書いていた時期ではないか。

家庭では夫人が亡くなる前で個人的な悩み(たとえば家庭内介護)があったのかもしれない。大体その時期にあたるようだ。

翻訳者についていえば、2000年に亡くなっているそうで、やはり老齢の問題、あるいは病気の問題があったのかもしれない。この辺は1995年前後の別の作品を読み比べるとなにかわかるかもしれない。

部分的にはテンポのいいフランシスらしいところもあるが、全体的にみるとどうもいけない。

このハレーものの、もう一つの特徴は他の作品に比べて前妻ジェニーがほとんど出てこない。義父のチャールスの登場も少ない。ほかのシッド・ハレーものでもこの二人は筋にはほとんど関係しないのだが一つのアクセントになっているが、どういうわけか「敵手」では御両人のお出ましがすくないのだ。

ずいぶん長く書いたね。まずい作品の解説と言うのは長くなりがちのようだ。

&& そのうえに蛇足を重ねる。

* この小説はアメリカ探偵作家クラブ賞を受賞しているのだね。そうすると翻訳のほうにかなり問題があるのかな。

* ディック・フランシスにとって日本の読者は大得意らしい。日本マーケットへのサービスもある。ただし、この小説を最後まで読まないと出てこない。

* フランシスの小説では動機にかなり不自然と言うか無理というか、そういうものが多い。もとリーディング・ジョッキーで現在は全国テレビ番組の人気司会者が馬の脚を切るスリルに抗しきれないというのは、それだけポッと出されれば、「なんだい、それ」と言うことになる。 


騎手という階級、ディック・フランシス

2010-01-10 08:45:56 | ミステリー書評

イギリスの場合、プロの騎手は貧困あるいは下層階級の出身者である。だが、成功者は豊かな収入を得て上層階級(成り上がり金持ちを含めて)と交わる機会が増える。

階級と言う言葉を定義しようとするとたちまち困難に逢着するようなものだが、イギリスほどかっちりした状況にない日本でも事情は変わらない。

自分の技量で人気と収入を得る他のプロ・スポーツ選手や芸能人の場合もおなじである。

しかし、貴族や社会の有力者そして成り上がり(つまり彼のちょっと前に成功してのし上がった連中)からは常に蔑視の目で見られている。それがイギリスのプロ騎手の立ち位置である。

そして自分の下には多くの下済みの競馬社会の関係者がいる。

この立ち位置、あるいは遠近法的視点がリアルに描かれているのがディック・フランシスの描く社会のなかにおける競馬サークルであり、そこが読みどころである。そこが、彼の小説に立体感を与える。

歴史上の経緯から社会がごった煮になっているせいだろうか、日本の小説ではあるいは恐ろしいタブーでもあるのか、登場人物全員が小学校のホームルームみたいに差別がなくて現実感がない。困ったものである、小説としては。

ポリフォニーという言葉があるが、フランシスの小説を読む楽しみは各自の立ち位置が厚みをもってゴシック建築のように一つの立方体として描かれているのを見ることである。

イギリスでは現在では海軍の退役少将でも貴族の末席に連なることができ、建設労働者でも経済的に成功して大企業の経営者になれば上院議員にもなれるし、卿と呼ばれるようになることもフランシスの小説を読むと分かる。

昔、日本にも落語というものあった。落語家は都市下層階級の視点を一瞬もずらすことがなかった。そういう視点が安定感を与え、立体感、生活実感を、懐かしさを与えた。

現在の日本にも落語家を名乗る者はいるが、落語は存在しない。


ディック・フランシスの「再起」

2010-01-09 10:09:31 | ミステリー書評

引退した元スター・ジョッキーが主人公のシッド・ハレーものは結局四作あるらしい。最後の(いまのところ)「再起」を読んでいる。

ちなみにシッド・ハレーものはつぎのとおり。

題名         著作年代     著者年齢

大穴         1965年      45歳

利腕         1979年      59歳

敵手         1995年      75歳

再起         2006年      86歳

「再起」には著者の息子の協力を得ていると言うが、86歳の加齢臭はあまり感じない。大穴よりはいい。「利腕」レベルだろう。「敵手」は未読。

小道具が一変している。いわく、携帯電話、留守番電話、DNA鑑定、インターネット・ギャンブリング。だだ、ご本人のために必要だったのだろうが注釈が長すぎて退屈。著者の高齢といい、うたた今昔の感あり。

ここでも英国独特のAntepost 制度が出てくる。訳者は出走馬掲示前、と訳している。たしかに辞書にはそうあるが、なんのことかこれじゃ注釈が必要だろう。

要するに数カ月、数週間前からの馬券前売りである。そう訳したほうがよかったのにね。

前売りは不正のタネだと前に書いたが、前売りにはその馬がそのレースに出るかどうかも予測して賭ける要素があるのが分かった。第一に馬の出走予定を予測して、第二にその馬が勝つかどうかを予測するわけだ。

つづく


ディック・フランシスの「罰金」2

2010-01-04 20:39:57 | ミステリー書評

「罰金」の読みどころの一つはイギリスの競馬記者の生態である。フランシス自身が騎手を引退後、新聞社で競馬記者を十数年していたという。

記者の生活を描写しているところが興味深い。日本の競馬ジャーナリズムも似たようなものなのだろうか。

発端は賭け屋に提灯記事を書かされていた記者が奇怪な事故死をするところから始まる。フランシスの小説は大体が一人称視点のようだが、この小説では事故死した記者の同業者である競馬記者が主人公である。

テンポは軽快だが、終盤に来て長大なしつこい活劇場面となる。いまはアクション場面と言うのかな。長い活劇場面を珍重する書評家もいるようだが、いささかテイル・ヘヴィーでもたれる感がある。

主人公の妻が完全介護を必要とする小児麻痺患者であるという設定が特徴で存分に薬味としていかされている。

ま、携帯電話がまだなくて公衆電話が活躍する懐かしい時代の話である。


ディック・フランシスの「罰金」

2010-01-03 23:04:30 | ミステリー書評

この本は早川文庫の巻末の広告にも出ているのに本屋で見かけない。インターネットで見ると「入手不可能」になっている。

1970年のエドガー賞受賞作であるのになぜか絶版状態らしい。そこで正月に原文で読んだ。「Forfeit」というのが原題だ。ハヤカワのどの作品でも感じるのだが、フランシスのタイトルは翻訳者のバイアスなのか、どうなのかなと思うものが多いことはこれまでにも述べた。

Forfeitも罰金というよりかも没収と訳すべきではないかと思うが、これもイギリスの競馬制度の知識がないとはっきりしたことは言えない。というのは、この小説の主題は競馬の前売りをめぐる不正行為で、イギリスでは出走予定馬(登録馬)が出走を取り消しても、賭け屋はその馬に賭けた客に馬券の払い戻しをする義務がないことを悪用したものだからである。

先に紹介した原田俊治氏の解説でも前売り制度のことは書いてないのでわからない。小説にも日本の司馬遼太郎と違っていちいち長たらしい注釈を入れていないから見当をつけて読むしかない。

どうも供託金というか登録料というのを馬主が納めていて出走を取り消した場合は、それを没収されるという制度らしい。そして賭け屋には何のペナルティもかからない。

前売りは何週間も前から行われて賭け率は毎日変化する。もちろん賭け屋(ブックメーカー)によって全部違う。大きなレースだと一般紙にも毎日主な賭け屋のオッズが出る。ただしフランシスの小説は1968年である。

たしか、ドイツなど一部の欧州の国では同様に前売りがあるらしい。これも私の80年代ころの見聞で現在もあるかどうかは確認していない。アメリカには前売りという制度はないようだ。

早川文庫の絶版の理由は、前売り制度についての誤解があった不都合があったのではなかろうか。翻訳者も死亡しているし、新翻訳者で新しいのがでるかどうかだ。

& さてさて容易に推測できるようにイギリスの制度は大甘でいかようにでも悪用できる。競馬の先進国なのに不思議なことだ。多分監査制度とか競馬の運営制度がしっかりしているのだろうか。この小説でも監査側の色々な機構が出てくるがそれほどかっちりとしているようには見えない。

とすると、アマチュア精神の模範みたいな紳士の国の競馬だから、こすからく悪用しようとする人がいないのだろうか。とにかく不思議である。

小説で悪徳賭け屋、これも紳士の国のイギリス人にしてはいけないというのだろうか、南アフリカ人という設定だ。彼は新聞記者を抱き込む。イギリスの競馬記者だ。そして出走を取り消させる馬をあらかじめ決めて、記者にその馬のいい情報をどんどん書かせる。賭け屋のオッズは毎日上がる。その馬の馬券を買う客はどんどん増える。

そこでレース前にその馬の持ち主に圧力をかけて馬の出走を取り消させるというわけ。圧力をかけるのが調教師ではなくて馬主というところもなるほどな、である。

調教師もレースへの出走を取り消す力はあるだろうが、明らかに何も問題のない馬を取り消していては免許を取り上げられてメシの食い上げである。いくらなんでも協力しない。

馬主は趣味でやっているわけだから、儲ける時もあれば損をすることもある。イギリスでも競馬に持ち馬を出走できるためには競馬運営者の審査が必要だが、もともと趣味でやっているから馬主の資格をはく奪されても調教師のように生活の死活問題にはならない。

そこで馬主に圧力をかけるわけだ。話としては破綻がない。

& 2月6日

最近日本語Wikipediaで「ブックメーカー」の記事があるのを見つけました。簡にして要を得ています。


ディック・フランシス「利腕」

2009-12-28 18:50:22 | ミステリー書評

先にフランシスの「大穴」の書評を書いたときに、事故で引退したチャンピオン・ジョッキーを主人公にした小説が沢山あるらしいと書いたが、大穴とこの利腕の二作だけらしい。利腕の巻末に解説を書いている北上次郎氏による。

これがシッド・ハレーものの第二作だ。もっともこの北上氏の解説が何時書いたものかわからないからその後ハレーものがあるのかもしれない。いつも思うのだが巻末の解説でクロノロジーに触れるようなことを書くときには執筆時点を明記してもらいたいね。この北上氏の文章は1985年以降らしいが、25年も前のことだ。

もし、読者がハレーものを一冊だけ読みたいというなら断然利腕をすすめる。相当に腕力ではない、筆力が向上している。前の大穴が左腕で書いたのなら「利腕」は右手で書いたくらいの違いはある。

大穴は仕掛けが漫画みたいで、あちこちでポンポン、プラスチック爆弾が破裂したがそういう不自然さは「利腕」にはない。

最初にハレーが続けざまに四つも依頼を受けてうけに入るのだが、読み始めてちょっと多すぎるんじゃないの、と心配したがなんとかまとめた。

一つの依頼は前妻が詐欺事件に巻き込まれたものでこれは独立、後の三つは競馬がらみで、さらに三つが二つと一つに分かれる。

最後のまとめはしまらないが、とにかくなるほど三つの依頼が必要な筋書きだったのだな、というのがよく読むと(ゆっくりと繰り返し好意的にかつ前向きに読むと)分かるしかけになっている。

八百長の話だが、ウイルスだか菌だか、特殊なものを目立たないように注射する話がある。こんなことが日本でも出来るのかな、出来そうにも思える。

それと人気になった馬をつぶす方法として直前の強い調教と言うのがある。調教助手はただでさえ、たいていは騎手より体重が重い。それが更に鉛をだいたり、鞍の下に鉛を敷いたりする手があるらしい。馬に猛烈な負荷をかけるから傷んでしまって本番ではびりっけつになったりする。この手はオイラも一応予想する時には考えるんだがイギリスでもあるんだね。


ディック・フランシスの「本命」

2009-12-23 23:43:43 | ミステリー書評

この小説の主役はアマチュア障害騎手と言えるだろう。この早川文庫の巻末に原田俊治氏がイギリス競馬のことを解説している。わずか数ページだが、資料としてこの解説だけでも買いだ。

最近は欧米競馬の知識も日本で流通量が大きいから、このくらいのことはすでに御承知の人も多いだろうが、大分日本と勝手の違うところがあるから、知っておいて読むと興味が増すだろう(必須とは思わないが)。

探偵役、大分ハードボイルド調であるが、はアマチュアの騎手である。この辺も上記の解説などで知っておくといい。とくに障害飛越レースではプロの騎手以上にアマチュアが活躍する。現にこの主役も想定では勝ち鞍数で第二位、第一位もアマチュアでこのベストジョッキーが落馬事故で死亡したことが発端となっている。

自分の馬を自分で調教してレースにも自分で乗る。まさに、アマチュアのだいご味だろう。

作品の出来栄えは彼の作としては並みというところだ。そこで、すこし言葉の問題を取り上げてみる。この前に、最近厩務員といっているのは昔は馬丁と言っていたと書いたが、1976年、翻訳、初版のこの本にはバテイと厩務員という両方の言葉が出てくる。ちょうど言葉狩りで変わっていった端境期がそのころだったのだろう。

おかしいのは断郊競馬という珍妙な訳語である。しばらく頭をひねってみたが、どうもクロスカントリーのことらしい。アマチュアでは馬のクロスカントリーと言うのは日本でもあったらしい。軍隊、騎兵華やかなりしころだ。最近はクロスカントリーのレースと言うのは聞かない。遠乗りとか野外騎乗とか言っているようだ。ただ、競技として存在しているかどうか。

もっとも、オリンピックの馬術ではクロスカントリーが今でもあるはずである。

平地競走ではイギリスでもアマチュアの騎手はいないらしいが、これは体重の関係だろう。障害ではある程度体重がないと馬が御せない。馬そのものがほとんど狩猟馬系統でいわゆる半血種だ。アフターバーナーのエコ使用の技術で済む平地競走とことなり、技術の奥が深いというか面白さが違うのだろう(趣味として)。サラブレッドでハミの柔らかい馬はいないし(後天的に調教でかたくなる)、単調な技術である。

ちょっと、はなしがそれたな。ま、いいだろう、アマチュア騎手の小説だから。

次は「賭け屋」が主役のディック・フランシスの小説を探すか。原田さんの解説にもあるが、賭け屋は日本にはないシステムだからね。賭け屋というのは飲み屋とはちがう。オッズも自分で決める。つまりどんぶり比例配分(日本にはこれしかないが)の方式とは違う。

% タイトルを間違えた。大穴は前回の本だ。「本命」です。