父への手紙は新潮社カフカ全集(1980年刊行)にあるらしいが、今では古書か大きな図書館にしかないらしい。それでWikipediaをあさっていたら見つけたので早速ダウンロードした。しばらく読んでいて不振に思った。まず英語が全然なっていない。内容は粗悪品と言っていい。
それで注意してみたら個人のブログらしい。訳者名は西欧人らしいが、英語を母国語としている人間とは思えない。そして、最後にもっと読みたかったら金を払ってログインしろときた。勘弁してくれよ、とプリントしたものを破いて捨てた。
父への手紙は新潮社カフカ全集(1980年刊行)にあるらしいが、今では古書か大きな図書館にしかないらしい。それでWikipediaをあさっていたら見つけたので早速ダウンロードした。しばらく読んでいて不振に思った。まず英語が全然なっていない。内容は粗悪品と言っていい。
それで注意してみたら個人のブログらしい。訳者名は西欧人らしいが、英語を母国語としている人間とは思えない。そして、最後にもっと読みたかったら金を払ってログインしろときた。勘弁してくれよ、とプリントしたものを破いて捨てた。
私の帽子はどこに行ったのでしょうか、とかいう映画(小説)のコピーがあったげな。
たしか森村誠一という作家の作品が映画化された時のキャッチコピーであった。珍しく私の記憶に残っている。
ニーチェはあるところで「どこに行っても自我という犬がついてくる」と苦情を申し立てている。
そうかと思うと、私みたいに自我を喪失して一生探し続けているものもいる。
森村の言う「私の帽子」が何を意味するかしらない。小説も映画もみていないから。キャッチコピーだけ覚えている。
思い出せが、私の自我が飛んで行って行方不明になったのも13歳の夏であった。夏の日のベランダで。そういえばフランツ・カフカにも有名な「ぱぶらっちゅ」体験というのがある。パヴラッチュというのは東欧(或いは東欧ユダヤ)言葉でテラスとかベランダということらしい。
彼は5歳であったというから、私の体験とは違うが、夜泣きをして、父親に厳冬のテラスに締め出されたという事件があったという。カフカの父への手紙にあるそうだが、私は読んでいない。新潮社のカフカ全集にあるそうだが、ここの図書館の蔵書にはないので内容は読んでいない。
比較しても意味がないだろうが、少ない情報だけで判断すると私のほうがその影響は甚大であった。
相手が去ると、老人は再びノートを広げて真っ新な紙面を睨んでいたがやがて筆を下した。
やはり13歳の夏から始めるのがいいかなと思いを定めた。12,13歳というのは発達心理学でも転換点の定番らしい。彼は最近自伝を書くために買った心理学の参考書をカバンから取り出した。そのころ男女ともに身体的に性的特徴が発達しだして精神が不安定になるらしい。女性なら初潮だろうが、私の場合は顔中にひげが猛烈な勢いで生えてきた。もちろん体毛も濃くなったのである。この分で行くと目の中にも髭が生えてくるんじゃないかと心配した。
中学一年生でもう安全剃刀を日に二回以上使わないと始末に負えない。安全剃刀というのは慣れないと剃刀負けをする。ある朝親父が食卓で俺の髭剃りで荒れた顔を見て電気カミソリを使えといった。なんでも父親の知っている家庭の息子が肌が荒れて、電気カミソリを使ったら治ったという話をした。さっそく電気カミソリを求めて使いだしたら唇の周りの肌荒れはすぐに治った。
知的にも爆発的な発達があった。小学生のころはなんということもなく、平凡なおとなしい性格であったが、中学に入ると学期末試験で全科目満点で全校で一位になった。また暑中休暇中よく実施されていた学校横断の模擬試験でも、いつでも一位となった。
身体的には上記した髭ずらに悩まされたほかに近眼が進行して、3,4か月ごとに母親に連れられて眼科医に通って眼鏡を新しくした。
そして13歳の夏、忘れもしない「ベランダ事件」に遭遇した。後年東欧の作家カフカの伝記を読んでいて彼の幼児に彼の研究者の間で「ぱヴらっちゅ」事件として知られるのに酷似した体験をする。それ以来、さる映画のキャッチコピーではないが、「僕の帽子はどこえへ行ったの」状態になった。
asuka-netsukeさん、応援ありがとうございます。
水曜日の午後である。今日も老人の姿があった。
万引き女の記事はまだ見つからない。老人はまっさらのノートをテーブルの上に広げた。
『そろそろ、纏めてもいいころだな』とつぶやくと万年筆を取り出してキャップを外した。
『彼女は子供のころから手癖が悪かったが、とうとう本性を現したのかも知れない』
彼はこの疫病神のような女の半生記録をまとめることにした。::ガキの頃から手癖が悪く::というのは歌舞伎のセリフだが、彼女は人のものと自分のものとの区別がつかなかった。だが盗む相手を選ぶ狡猾な知恵はもっていた。つまり強く苦情を言えない相手を選別して盗んだ。
彼女は小学生のころから背が高かった。父親は背の高い女に目がない。彼は三度妻を変えたが、兄のいうところによると皆背が高かったそうである。此の嗜好がどこから来るのかよく分からない。彼自身は身長150センチの小男であった。まさか優生学的見地でもなかろうが。いずれにせよ、彼女は父の寵愛を一身に受けていた。
「まだ見つかりませんか」といきなり声をかけられた。見上げると、『紛失した記事』について相談した相手である。彼は慌てて書きかけのノートを閉じると、「いやまだ分かりません」と答えた。
相手は彼を見ながら、「ちょっと気が付いたことがあってね。その女の夫が務めている会社の名前はわかりますか」と聞いてきた。
老人の怪訝な様子を見て慌てて補強した。「いや会社によっては社員の不祥事によって社名に傷つくのを恐れてもみ消し要員として警察、司法出身者を役員に入れていることがあるんですよ。大手商社なら多分もみ消し用の社外重役かなんかがいるんじゃないかと思ってね」
「ああ、なるほど、、、商社名は日外米州商事ですよ」
「それじゃ、早速調べてみましょう」というと大きなショルダーバッグから携帯用のパソコンを取り出した。そして会社案内のページを検索していたが、「これですよ」と画面を老人のほうに向けた。「ここですよ、警察庁からの社外重役がいます」
「ほんどだ」
幼いころから顕著だった盗癖を父に報告しても逆に怒鳴り返されて取り上げられない。それが彼女に分かっているから盗む相手を狡猾に選ぶわけである。
いったん紙面の乗った新聞記事が突然消えるなんてことがあるのでしょうか?と老人が突然問いかけた。
私はびっくりしてどういうことですか、と問い返した。
「いえね、数日前に読んだ記事を読み返そうとしたのですが、見つからないのです」
「記事が誤報だったのかしれませんね」
「それなら、お詫びの記事が出るんじゃないですか」
「そうでしょうね。どういう記事だったんですか」
「さる女性が万引きして捕まったというんですよ」
「そんなケースは毎日多数起こっているんじゃないですか」
「それがね、その女性が名前の知れた大手総合商社の部長の妻だったというんですよ。普通は万引きしないような女性の万引きというので記事になったのでしょう」
「どこの新聞ですか」
「読売新聞です」
「一紙だけですか」
「いや、どうか分からない。私が見たのは読売だけです。気になってさきほどほかの新聞を見たのですが、どこにも出ていない」
私は言った。「間違いだったのかな。当人か、関係者から間違いを指摘されたのかな」
私は老人の釈然としない表情を見て、「その女性はあなたの知っている人ですか?」と反問した。
「ええ、記事によると姓名がフルネームで出ているし、住所が江古田のマンションというのもあっているし、夫の職業も当たっている。それでその時読み飛ばした記事をもう一度見て確認しようとしたら記事が消えていた。念のためにほかの新聞を全部見たが、そんな記事は見当たらないのですよ」
「妙な話ですね」と私は言った。「実話週刊誌とかテレビのワイドニュースで取り上げそうなはなしではある」
老人ははたと膝を打つと「そうすると、週刊誌も調べてみるか」
「週刊誌でフォローするのはタイムラグがあるから、来週あたりどこかに出るかもしれませんね」
図書館1
わたしは毎日の日課でJRのターミナル駅にあるデパートの食堂の一つで早昼を済ますと新宿区の図書館に行った。新聞閲覧所に行くと残っているのは東京新聞だけだった。後は誰かが見ているらしい。東京新聞を閲覧所のテーブルの上に広げてページをめくっていると「おはようございます」と声を背後から声ををかけられた。
振り向くとがっしりとした背の高い老人が綴じた新聞のファイルをたくさん手に抱えて入ってきた。なにか調べ物をしていたらしい。「すみません。独占しちゃって、ご覧になりますか」と言いながら「何をごらんになりますか。それとも全部お渡ししましょうか」
と聞いた。
「いいんですか。もうすんだんですか?」
「ええ、終わりました」と答えたので、「そうですね、今日はだれもまだいないようだから、全部おいていってください。」と私は老人にいった。
老人は向かいのソファに腰を落として、目が疲れたのか、しきりに閉じたまぶたの上から目を擦っている。
それを見ながら、なにか調べているのですか、と私が尋ねると
「ええ、ちょっとね」と言いよどんだ。
この老人は毎日相当時間、図書館で時間を過ごすらしく私か退職してから無聊に苦しみ図書館通いが日課のようになってから、いつからか挨拶を交わすようになっていたのである。
Xが現れるのは夜遅くなってから、ほとんどは十二時過ぎである。どうも知覚と言うものは自我と言う殻を漏れ出してくるらしいな、とあれこれ考えた末に秀夫は仮説をたてた。自我と言う壁がもろくなると漏れ出してくる。人間は動物と違って自意識の塊みたいなものである。自我と言うのは、エゴと言ってもいいが各自の知覚、感情、表象、意思を守っているのかもしれない。動物なんかも進化の度合いに応じて自我が発達してくるものの、人間に比べるとはるかにやわである。特に集団生活をしている種はそうである。例えば鳥などはそうだ。勿論鳴きかわす声によってコミュニケーションを取っていると言われているが、瞬時に危険を察して、ナノ秒単位で一斉に逃避行動をとるが、あれなどは鳴きかわすだけでの伝達では説明できないのではないか。海中で泳ぐ小魚の大群が見事な集団行動を見せてマグロなどの大魚から集団を守るが、あれは水中の音速では説明できない。
そうするってえと、彼は考えを一歩進めた。人間の場合、社会で働いている時間には自我がしっかり機能していないと危ない。自我の殻が緩むのは緊張がほどけた時である。よく世間では言うじゃないか。酒で酔っ払うと口が軽くなるとか。口も軽くなるが自我の殻ももろくなるのだ。会社での昼間の緊張が解けて帰るときにも緊張がゆるむ。一杯途中でやればもっと緩くなる、そして家に帰って風呂にでも入って寝れば意識のレベルは最低になる。そんな時に立花の自我が漏れてくる。これは受け手の自我の殻にも言えることだ。秀夫の自我の防衛機能も夜には低下する。だから相手の漏れ出た知覚も自我の防御陣地をやすやすと突破してくる。そんなところでどうだろう、と彼は結論づけた。
そうすると、プラトンに習って数式で表すとどうなるか。発信側の出力と受信側の能力*、それに週波数能力の三能力の因数がいる。万有能力のように万有能力の方程式は使えないだろう。
*万有能力の場合の重量に相当、周波数は万有引力には概念なし。
#万有引力では表現できない。
&幽霊語である人格
類縁語というか、別名というか人格と言うことばほど、親戚が多い言葉は無い。そして語釈というか定義のない言葉群はない。
たとえば、テレビという商品がある。エアコンと言う商品がある。これには別称と言うものがない。ま、エアコンは(電気)冷房、暖房と言うことばもあるがほとんど使われない。スマホもほかに呼びようがない。ガラケーなら携帯電話と言う別称があるが、ほかに言い方は無い。そして定義しようと思えば、べつに定義する必要も無いのであるが、ずばり定義できる。定義するのもバカバカしいほど言葉にまぎれがない。パソコンも歴史的には、Radio・shackやTandyの8bit、16bitワンボードマイコン、マイコン、ラップトップコンピュータと変遷してきたが今はパソコン以外は通用しないだろう。
人格の類縁語、あるいは同義語と思われるものは多数ある。個性、自己、個人、自我、英語で言えばペルソナ(パーソン)、エゴ、セルフなど。もっとも辞書には定義がある。広辞苑によれば人格とは「道徳的行為の主体としての個人」であるとし、「自己決定的な自律的意思を有し、それ自身が目的自体であるところの個人」とある。前半はともかく後段はなにを言っているのかわからない。
哲学者の言及はもっとばらばらで統一的な見解は無い。現代の心理学でまともな定義があるとも思えない。ヒュームの言葉はちと面白いから引用してみる。「人間とはおもいも及ばない速さで次々に継起する、様々な知覚の束ないし集合にすぎない」
フロイトなんかによるとエゴと言うのは(性的)欲望の屈折した表現となるらしい。
秀夫がパソコンを開いて『パンセ』風に気取った随想録を兼ねた日記をつけていると電話がなった。裕子からだった。しばらくしてチャイムがなった。このごろ、彼女は不定期的に来るようになった。そうして部屋をいじくりまわしていく。なんだか部屋の共同所有者になったような有様なのである。
インテリアデザイナー志望で、今はしがないOLの彼女は彼の部屋をいじくりまわしてインテリアデザインの実験台にしている。彼も部屋が片付いていいのでやらせているのだが、困るのはやたらと本の整理をすることである。机の上、床の上に放り出してある本を彼女流の分類方法で整理してくれるのだが、その分類法がまったくわからない。本と言うものは散らかっていても当人は何処にどういう本があって、どこにこれはどうしようもない本で処分しようとしている駄本があるかは、頭の中に入っている、というか、体感的には整理されている。だから必要な本を探すのに手間はかからない。それが彼女の分類法でやられると、あの本は何処かな、と半日探し回ることになる。半日探しても出てこないこともある。そして翌日ひょっこり見つける。しかし彼の部屋の汚れの一番の原因は書籍なのだから、彼女も彼が苦情を言ってもとりあわない。
汚れた食器や流しはピカピカにしてくれるし、隅々まで電気掃除機をかけてくれるし、溜まった郵便物はきちんと整理してくれるので、うっかりして処理しなければならない通知などを見落とすこともなくなった。そういうわけでトータルに判断して彼女の整理に任せてあるのだ。
整理が一段落すると彼女は冷蔵庫から缶ビールを取り出して呷った。唇の周りの泡を手の甲で拭うと彼のそばに来て何をしているの、とパソコンをのぞき込んだ。日記は秘密ではない。もともと、例の暑気あたり後の発作で精神に変調を覚えた後、大学病院でチンピラの医局員にいじくりまわされるのが嫌で、日記を書いて、読み返し、まともかどうか自己診断をしている。だから第三者に見せるのはむしろ求めているのだ。まして彼女は広告の仕事でコピーライターみたなことや、プレスリリースを書いたりもしているから感想を聞くのには適しているだろう。
「フーン、アブサンか」
「飲んだことあるのか」
「無いけど、ある意味で有名な酒だよ。麻薬みたいな効果があるらしい。ボードレールとかピカソなんかが愛飲していたんだよ。いまではフランスでは禁止されているんじゃないかな」
「だけど日本では作っていないだろう。どうせ輸入しかないんだろう。密輸かな」
「いや、そうじゃないでしょう。アブサンと言っても昔のとは成分や製法、原料が違うんじゃないかな。それで飲んでみてどうだった」
「小さなグラスで一杯だけだから別に素敵な効果もなかったな」
あとはお決まりの夜の定食コースとなった。
これまで知覚共有者、(いや知覚侵入者というべきかな。一方的だから)を彼と言及してきたが、今後はX氏としよう。まだ性別は不明である。一応成人と思われる。連日Xの帰宅経路をたどってカレの家を探し回ったせいだろうかか。何というか紐帯と言うまではいかないが、知覚の連絡経路が安定してきたようだ。安定した、と言うのは語弊がありあまり適切とは言えないかもしれない。ある夜遅くXが帰宅時(たぶん勤務先からの)に立ち寄るらしいバーが大友秀夫の知覚に飛び込んできた。
今度はそのバーを当たってみようと日中の市内放浪の日課を終えて暮れなずむころに探索に出かけた。鉄道のどこかの駅のガード下にある店でアウトサイダーと言う店だ。どうも周囲の情景からT駅の南側らしいと見当をつけて探した。すぐにその店を見つけた。俺は私立探偵の資格があるな、と思った。日が短くなり、午後六時には早くもあたりは薄暗くなってきたが、店は開いていた。中を覗くとまだ客は一人も入っていない。彼はいかにも通りすがりに店を見つけたという体(テイ)でのれんの下から顔を突っ込んだ。
「もうやってるの」
「はい、どうぞどうぞ」とカウンターの前に手持無沙汰な様子で立っていた女が急いで愛想笑いをした。35歳くらいの丸顔のホステスだ。直系40センチくらいのお月さまみたいにまん丸い顔が短い首で肩の上に乗っかっている。ほかにはまだ従業員は見当たらない。
「すこし早すぎたかな、新幹線の時間まで時間があるんでブラブラ歩いていたんだ」
「そうですか」と女は顔の面積の割には不釣り合いに小さな一筆書きのような赤い口をすぼめて言った。
「ビールを貰おうかな」
「銘柄は」
「なんでもいい。小瓶で」
女が彼の前にグラスと小瓶を持ってきた。
「どちらに行かれるんですか」
「盛岡までだよ」
「お国はあちらなんですか」
「いやちょっと用事があってね。お店のお客さんはサラーリーマンが多いんだろうね」
ビールを二、三本飲んだところで、勤め帰りらしい三人ずれが入ってきて店内は俄かに騒々しくなった。このなかにXがいるかもしれない。いや、彼は一人で来るのかな。そういえば、Xは連れがいなかったようだ。いつも一人できて一人で飲んでいるようだった。そうだ、彼は妙な酒を注文していたな。なんだっけ。妙な名前だったのですぐに思い出せない。そうだ、アブアブだったかな。リキュールらしくショットグラスで飲んでいた。大分強そうな酒だった。
「おねえさん、アブ何とか云いうリキュールを飲んでみようかな」
先刻から出勤してきてカウンターを拭いていたバーテンダーがこちらを向いて「お客さん、アブサンですか」と反問した。
「そうそう、それだ」と慌てて肯定した。「砂糖を齧りながら飲むんだろう」
「お客さん、よく知ってますね。好きなんですか」とバーテンは怪訝そうに聞いてきた。
「いや、恥ずかしながら飲んだことは無いんだ。このあいだ人が飲んでいるのを見てね、かわっているな、飲んでみたいなと思っていたんだ」
「なるほど、ちょうど仕入れたばかりでね。あまり注文する人もいないんですが、ここのお客さんでやはり飲む人がいいるんですよ。それで仕入れたばかりでね」
「へえ、そうなの。あんまりポピュラーじゃないんだ。どんな人なの。そのお客さんは。よほどの通なんだろうな」
彼は内心この人だ、と確信した。カクテルではなくてストレートでアブサンを酒場で注文する人は滅多にいない。彼に違いない。
「どんな人なの、年配の人かな」と彼は鎌をかけた。
「いえいえ、若い人ですよ。34,5というところかな」と彼はホステスに問いかけた。
「そんなところね」
「じゃあ、会社員なんだね」
「そう、酒井さんはなんとかいう商社に勤めているとか言っていたわね」と彼女は何の疑念も抱かずさらりと言った。なるほど、と彼は思った。これで知覚だけではなく、彼の名前と人格の概要も分かった。いままではお化けか幽霊のような存在だった。
そういえばXが彼の知覚に現れるのは彼がそろそろ寝ようかと思う頃が多い。今度はもっと遅く来てみよう。その後、客が来たり、帰ったりしたがその中にXがいるかどうかは判断が出来なかった。いずれにせよ、アブサンを飲む客は現れなかった。
徒労に終わった連日のロケハンでいささか疲労が蓄積していたらしい。昨日は急に冷え込んで雨の降る中、街を長時間うろついた影響がでたらしい。床を離れて十五分後にさむけを体の奥に感じた。一時的なものかと様子を見ているとだんだんひどくなってくる。顔も洗わず朝食の用意もせずに長椅子にうずくまっていると、熱が出てきた。といっても体温計などというものはない。額に手を当てると明らかに熱い。やばいな、と用心して葛根湯を呑んだ。体温計はないが葛根湯はあるのである。
只見大介から、その後連絡があって新宿の喫茶店であった。なにか依頼したことで伝えることがあるということだった。そういうことならそちらの事務所に行くよ、というといやちょっと出る用事もあるのでついでに会いたいというのだ。
新宿の喫茶店で会った。コーヒー一杯千円と言う店で彼の指定だったが、さすがに高い料金だけあってファストフード店とことなり客はすくない。そして客席の間にかなりの間隔がある。只見は時々利用しているらしい。事務所で会う都合がつかない場合とか、あまり人に聞かれたくない交渉などをするときに利用しているらしい。
「先日の依頼の件だけどね、とうもうちにはないようだ。あるかもしれないが俺にはアクセスできなかった」と言いながらビジネスバッグから膨らんだ大型の封筒を取り出した。
「あまり参考にならないだろうが、テレビ局が取材のときにヘリコプターからとった俯瞰写真なんだ。火災とか災害の時に撮影するだろう。知り合いがいてね、雑談の時にその時のビデオがあるというので、別に秘密でもないからとコピーしてくれたんだ。もちろん網羅的ではないよ。君の目的に役に立つとも思えないが、俺が持っていてもしょうがないからな」
「すまないな。それならおたくの事務所に取りに行ったのに」
彼は笑って「うちの会社はうるさくてね。部屋には盗聴器やカメラが設置してあるんだよ。会社の機密漏洩対策だな」
「へえ、監視が厳しいんだな」
「上には警察庁からの天下りが多くてさ。これなんか会社のデータじゃないから問題はないんだけど、こんなデータをやり取りしているとなんだって聞かれるからな。少なくとも会社の業務以外のことをしていたと分かるとまずいのさ」
「それで新宿まで持ってきてくれたのか。すまないな」
彼は笑って顔の前で手を振った。「ところで、君がこんなデータを欲しがる理由はなんなんだ。まだ言えないのか」
大友が困った顔をすると「ま、無理には聞かないよ。どうせ君の個人的な事情なんだろうからな」
「すまんな」
「いや、気にすることはないさ。だた、事情が分かればなにかアドバイスが出来るかもしれない。こっちはそういう問題の専門家だからさ。知恵が出せるかもしれない」
只見に誰か分からない人間に知覚を乗っ取られることがある、その相手を突き止めたいなんて説明できない。頭がおかしくなったと思われる。
「ところで料金はいくらだ」
「何を言っているのだ。そんなものは請求しないよ」
「それは困るな」と彼は呟いた。
「だって、会社のリソースは全然使っていないんだぜ。僕が個人的にちょこっと友人からもらった資料だし、おそらく大して君の役には立たないよ」
「すまないな。わざわざ手間をとらせて」
「何の、何の。久しぶりに会えてうれしかったよ。朋あり、遠方より来る、亦楽しからずや、だよ」と彼は論語の一節を引用してみせた。
そうか、ありがとうと礼を言うと二人は千円コーヒー店を出て別れた。
たしかにそのデータはあまり役に立つものではなかった。相変わらず日課の一万歩散歩をロケハンに充てていたのだが、疲労が蓄積したのと、昨日の悪天候に晒されて風邪をひいたのかもしれない。
一つ確認できたのはその写真に写っているのは都内のごく一部だが、この小数の例から推測するとビルに囲まれた木造のしもた屋は都内に多数まだ存在するようだ。これは歩いていちいち確認していたら膨大な時間がかかるようだと言うことを思い知らされただけであった。
彼は今年の年賀状を探して只見大輔の年賀状を手に取った。大学時代の友人で卒業以来会ったことはないのだが、まめに毎年必ず年賀状をくれる相手だ。最初は年賀状を受け取ったあとで年が明けてからお礼の賀状を送っていたのだが、毎年必ず送ってくるので最近は暮れのうちに出す年賀状と一緒に賀状を交換している。
彼の賀状には自宅の住所のほかに勤め先の名前と電話番号が印刷されている。彼の記憶では卒業後何回か勤め先が変わっていた。今年の年賀状には勤務先として東陽経済研究所が印刷してある。賀状の中の近況報告では経済関係のデータバンクでコンサルティングもしている会社らしい。どんな調査会社か詳しいことは分からないのだが。ひょっとしたら不動産取引のデータも扱っているのではないかと思ったので、電話をしてみた。
只見は電話を受けてびっくりしたような声をだした。卒業以来会ったことは勿論、電話で話したことも今日が初めてなのでびっくりしたのだろう。驚いたような声で「珍しいな、どうしている?元気かい」と尋ね返してきた。
「うん、それがね、しばらく病気でぶらぶらしているんだ」というと心配そうに「どうしたんだい。大病なのか」
「いや、暑気あたりのひどい奴らしい。二、三日ひっくり返っていた」
「病名はなんだい」
「いや、医者には行っていない」
「どういうことだ」
「なんとなく治ってしまったんだ。その代わり心境の変化をきたしてね。会社をやめてぶらぶらしている」
へえ、と彼は驚いたように絶句した。
「実はね、ちょっと聞きたいことがあってね。今年の年賀状で経済関係の興信所みたいな仕事をしていると書いていただろう。それで聞いてみたいことがあってね」
「ふーん」と言って彼は沈黙した。意外におもったのだろう。しばらく沈黙した。
不動産関係のデータでね、と彼は切り出した。「都内でいいのだが、木造の古い一軒家で周りをマンションに囲まれているようなところを探している」
そんなところに住もうというのか、と怪訝そうに聞いた。
「いや、そうじゃないんだけど、ちょっと事情があってね」
「フーン」と彼は腑に落ちないような声をだした。
「なぜだい」
「それは言えない」
「おいおい、それでは雲をつかむような話じゃないか」と只見は呆れた様な声をだした。
「雲をつかむような話で申し訳ないが、おたくの会社の関連で資料があるかな、と思ったんだ。勿論料金は払うよ、べらぼうに高くなければだけど」
「うちの料金は高いぜ」と彼は脅かした。「こういうコンサルタント業界は値段が有ってないようなものだからな。寿司屋と同じだよ。訳の分からない値段をつければ客が寄ってくる世界だからな」と本気ともつかず冗談ともつかず言った。
「そうか、そりゃ残念だな」と電話を切ろうとすると彼は「とにかく調べてみよう。俺はそういう資料があるかどうか今は知らないが当たってみるよ。さっきの話は料金が高いほうが喜ぶ大企業向けの話でね。つまり表玄関から入ってきて式台の前で『頼もう』と大声で呼ばわる客用の話だ。この業界は馬鹿高いかロハかの両極しかないんだ」
「そういうものなのか」と大友は呆れた。「それじゃ頼むよ、あまり無理をしないでくれよ」
「うん、分かったら連絡しよう」と電話を切った。
テレビで月島の民家が派手に燃えてあがる映像を流している。二階建ての民家だという。周りにはすぐ近くにタワーマンションが林立している。すると東京のど真ん中にもこういう木造のしもた屋がタワーマンションと軒を接しているところが残っているのだ。月島が都心と言えるかどうかだが、銀座からだとタクシーで十分ぐらいで行けるところではないか。
彼は昨日探索した江東区のような都心から離れた場所だけではなくて、都心のロケハンをしなければいけないと思った。都心というかお城から一里以内のところにもロケハンを広げる必要を痛感した。そういえば、侵入者は男性とも限らない、と彼は先入観も考え直したほうがいいかもしれないと気が付いた。ひょっとすると、女性かもしれない。俺には女難の相があるそうだからな、と独り言ちた。女性と言うと恨まれそうな相手は結構いるからな、と彼はうんざりしたようにため息をついた。
まず、手近というと妙だが、昨年まで在籍していた会社の女性を当たってみようと書棚から再び職員名簿を取り出した。二、三年分を遡ったが「それらしい名前」にぶつからない。それに最近のことは名簿を見なくても、何か経緯とかもめごとがあった職員は覚えている。そこで彼は方針を変えて古いほうから見ることにした。入社一年目の名簿を開くとさすがに懐かしい名前が並んでいる。最初は女性の名前にはあまり注意しなかったが、今回は女子職員も見て行かなければならないと気が付いた。とにかく入社したばかりの頃は女性職員ばかりに目が行った。
彼には女難の相がある、と喝破した女占い師がいた。海外出張の際、ニースのがけ下の洞窟のような小屋の中でその魔法使いのようにブクブク太ったジプシー女がタロットカードをめくりながら、貴方には女難の相があると言われたことを思い出した。彼にはそんな自覚も体験の記憶も無いのだが、あるいは無意識に女性に恨まれるようなことがあったのかもしれない。
望月清美という名前が彼の視線をとらえた。しばらく眺めているうちに彼女からN響のチケットを貰ったことがあったことを思い出した。自分が行けなくなったからと二枚のチケットを渡されたのである。何気なく受け取ったが、結局そのコンサートにはいかなかった。彼は十年以上前のことを思い出して、あれはひょっとして彼女の誘いではなかったのか、と思い当たったのである。それなら僕と一緒に行こうよ、と言ってほしかったのではないか、と気が付いた。その時は碌にお礼も云わずに受け取り結局チケットを使わなかった。そんなことで恨まれることがあるのだろうか。まさか、と彼は昨年の最新の名簿を調べたが彼女の名前は無かった。と言うことはめでたく結婚して退社したのだろう。あるいは社内結婚して名前が変わったのか分からない。古い名簿を見ているうちにすっかり忘れていたそんなことまで思い出したが、ほかにはなにも気になる名前は無かった。これは会社関係は調べても無駄だと、今度は家族のことを考えた。しかし、マンションに周囲を囲まれた木造住宅に住んでいる者はいない。友人はと対象を広げてみたが思い当たらない。これはどうしようもないな、と思ったが不図大学時代の友人で、現在興信所に勤めているか私立探偵みたいなことをしている者がいたことを思い出した。
例によってバーボンのお湯割りで深夜のスイッチオフ作業をしていた。直径10センチほどの500ミリリットル入りのマグカップに2センチほどジャックダニエルを注ぎ60度のお湯で割る。三杯目を飲み終わったころに彼の視界がフラッシュした。「なんだなんだ」と我に返る。視界を共有するのは久しぶりだ。Q駅から徒歩十二分だったかな、と彼は広告の表示を思い出して酔眼をこすった。ナノ秒のフラッシュだったので定かではない。Q駅と言うと江東区にある地下鉄の駅だったはずだ。
彼は反故紙の裏で作ったメモ用紙を引き寄せると、のたくった字でQととりあえずメモした。それ以上の精神作業は今夜は無理だ。はっと気が付くと椅子に座ったまま寝込んでいた。時計を見ると午前二時だ。
翌朝、寝床から這い出ると彼はメモ用紙にあるかろうじて判読できるQと言う字を眺めた。そうだ、今日の一万歩の目的地はきまりだ。例によって場末の定食屋で昼飯を済ませるとQ駅に向かった。この駅にはバリアフリーがない。もっとも初めて来た駅なのであるのかもしれないが、見つからなかった。気の遠くなるほど地下深いところにある駅だ。ようやっとの思いで長い階段を登りきると地表に這い出た。
小一時間ほど、あたりを徘徊した。この辺もすでに高層マンションや大きな工場に囲繞されている。しかし、表から裏通りに入るとまだ古いアパートや木造家屋が点在している。ここかな、と彼はきょろきょろとあたりを見回した。アパートはさびれた外観ですでに無人に打ち捨てられた印象を持っていた。あるいは地上げ屋にすでに買い取られて解体を待っているのかもしれない。前を通ると古い食物の腐ったような饐えた匂いが微かにする。人はおろか鳩一羽はおろか猫一匹も見えない。少し離れたところには木造のしもた屋があった。ここはまだ住人がいる気配だ。これかな、と彼は家の周りを二、三周した。しかし確信がもてない。そのうちに家の二階でカーテンが動いた。どうも上から監視されているらしい。あやしい人間がうろついていると警戒されたのだろう。あるいは執拗な不動産屋や地上げ屋の手先と思われたのかもしれない。うろうろしていると警察に通報されそうだ。
根が不審者面をしている彼は普段でもよく警官に不審尋問をされる。彼は慌ててその街を離れて表通りのファストフード店に入った。注文したブレンドコーヒーは信じられないくらい生ぬるくて、まずかった。彼の席の両隣には若い女性がいて、いずれもパソコンを開いて、薄暗くて新聞も読めない店内でキーボードを叩いていた。ちかごろ流行りの在宅勤務らしい。職業婦人も当節は楽じゃない。
途中で買ったタブロイド判夕刊の毒々しい色インクの太字で印刷された虚仮脅しの見出しだけに目を通すと、彼は相変らずパソコンの画面を仔細らしく睨みつけている女性客を後にして、コーヒーを飲み残して店を出た。再び彼は駅にもどり周辺の看板を丹念に見て回った。フラッシュに出てきた『駅から徒歩十二分云々』という看板は見つからなかった。見落としているのかもしれないが。9800歩達成!
いったい誰なんだ?と彼はイライラして考えた。彼の知覚がスイッチする頻度が増えてきた。彼の脳内で独自にこのような視覚が創出されることはありえないように思えるのである。
最初これは憑依の一種だろうかと疑った。とすると彼の知っている人物になるが、相手の姿かたちが分からない。相手の視覚、つまり何を見ているかはわかるのだが、カレ自身を見ることは出来ないわけである。この辺がまどろっこしい。相手の見ている人物、景色からカレを判断するしかない。昼間の活動が分かれば、少しはヒントがある。例えば同じ会社の人間であれば事務所の有様で確認できる。また別の会社であっても大体周囲の状況でどこの人間だか見当がつく。しかし、秀夫の視界が乗っ取られるのは大体が深夜であるので、そのようなことは分からない。相手の性別も不明なのである。小さな婦人用のハンドバックでも下げていれば判断がつくのだが、いつも大きなショルダーバッグを持っている。今時は女もこういうのを持っている人が多い。電車の中でスマホを見ながら化粧をしている不心得な女がいるが、相手がスマホに自分の顔を映していれば一発で性別はおろか人物も、それが知っている人物であるかどうか、一発でわかるのだが。
そこで彼に特別に関心を持っている人間、なかんずく恨まれるような人物ではないか、とそういう人間をリストアップした。大体がそういう人間は彼にはあまりいないのである。彼はあまり熱心に友達付き合いをしない。したがって他人とトラブルになるような場合はほとんどないのである。ただし、長い人生ではむかし何かのトラブルがあったのかもしれない。大体、こちらはたいして意識していないのに向こうで一方的に被害者意識とか敵愾心を持たれるということはままあるが、そうなるとまったくお手上げである。
手がかりと言えば、帰宅時の様子とか寝る前の寝室の様子が断片的に送られてくるだけである。よし、こうなったらカレの家を突き止めるのほうが可能性があるかもしれない。
彼に分かっているのは鉄道の地下駅から地上に出て十五分ほど歩いた距離に彼の家があるということである。駅の名前は分からない。必ずしも地下鉄の駅とは限らない。現在ではJRでも私鉄でも地下に駅がある。それも都内だけではなくて郊外の駅が地下にあることも多い。彼は途方にくれた。第一首都圏だとも断定できない。
カレの帰宅する家までの様子もぼんやりと分かる。彼の家までは中層の六、七階のマンションや、二階建ての洋館が隙間なくびっしりと並んでいる町であり、彼の入っていく家だけが古い木造の二階建てである。敷地はかなり広く百坪近くありそうだ。町並みはほとんどが洋館であるが、二軒ほど相当に古そうな木造の二階建ての長屋のような木賃アパートが残っている。
周りはすべて洋館に囲繞されている。都内では木造の家が残っているところは少ないのではないか、とあまり都内の住宅事情に詳しくない彼は考えた。そうすると、これは近郊の家かもしれない。
このところの狂ったような残暑も今日は落ち着いてどんよりと曇った肌寒いような日だった。彼は大江戸線の若松河田の駅から地上に出た。
この間やめた会社は毎年職員名簿を作成して全職員に配布している。彼女が整理した本棚には一番左側の目立つところに職員名簿があった。
赤の他人の表象が彼の知覚に侵入してくることに悩まされている。その表象も動画なのである。夢の中だけではなくて街中を歩いているときにも入ってくる。階段を下りているときなどに彼の視覚を占領されると、踏み外して転落してしまいそうになる。
憑依するというか、受信するというかはやはり何らかの関係がある人間の可能性が高いのではないか。不図思いついて彼は職員名簿の一番新しい版を本棚から引っこ抜いて机の上にで開いた。
まず退職時に所属していた部署所属の名前を見た。続いてこれまで所属していた課を順に新しいところから見て言った。取り立てて記憶に引っかかるような人間はいない。そのうちに一人の人間の名前のところで視線が停止した。トラブルと言うのではないが、代理店との問題で苦情を持ち込んできた男がいる。その男が担当している代理店から苦情を持ち込まれて、ちょうどその職員が出張していたので彼が応対した。そして便宜を図ってやったことがあった。ところがその職員が出張から帰ってきて、その代理店から何か言われたらしい。血相を変えて怒鳴り込んできて部長にクレイムしたことがあった。メンツをつぶされたというのである。ま、サラリーマン社会ではよくあることだが、非常に不愉快な記憶ではあったが、彼はすっかり忘れていたのである。
ほかに今のところ思い当たる人間もいないし、一日一万歩の日課の目標も毎日同じになってしまっている最近ではあるし、目先を変えて散歩がてら行ってみることにしたのである。彼は新宿区のZ町に住んでいた。もっとも昨年の名簿だから今もそこにいるかどうかは分からない。番地から見るとマンションではなくて一軒家のようだ。白日夢つまり彼の知覚に突然飛び込んでくる映像では周りを低層階のマンション風の洋館に取り囲まれた日本家屋の一軒家なのである。はたしてそこが白日夢に現れるロケイションかどうかお楽しみというわけである。
方向感覚の取りにくい街であった。道幅がやけに広く交通量が多い大通りが不規則にぶっちがいに五差路、六差路に交差している。あらかじめ地図で新宿よりを右に入ると確認しておいたのだが、方向が分からない。結局三つ四つ違う街に入り込みようやく目的の街にたどり着いた。
地上に出ると東新宿のほうへすこし歩いてから左に曲がる。ここ何回かの夢の中に現れた「夢の中の相棒」が家に帰る道筋を辿ったのである。非常に鮮明な「天然色で立体的な」夢で道筋をはっきりと把握していた。夢を思い出しながら道をたどる。とうとう日本家屋が残っているところは見つからなかった。もっとも路地裏すべてをうろついたわけではないから見落としているのかもしれないが。
大通りから車一台がようやく通れるような曲がりくねった道を入り込む。道の両側には三階建てくらいのあまり広くない地所一杯に損をしては大変だというように、むりやり建てたような低層マンションが立ち並んでいる。一昔前までは日本家屋だったのだろうが、親の代替わりでコンクリートの洋館に建て替えられたらしい家屋がある。家屋やマンションの間にはすきまがない。なにか気の滅入るような街だ。昼下がりの街には人通りがない。猫や犬も一匹もいない。
もっともよく考えてみると相手は男性か女性か分からない。彼の知覚に飛び込んでくるのは相手の視界の中のものであって相手の顔ではないから確認できない。当たり前である。相手が鏡でも見ていない限り自分の顔が自分に見えるわけではない。ウィットゲンシュタインの言う通り、いや彼が言うまでもなく常識である。ただあたりが暗くなってから帰ってくるところをみると勤め人、いやさ、サラリーマンであることは間違いないようである。
彼は徒労に終わった探索から足を引きずりながら帰った。携帯の歩数計をみると7631歩である。歩きなれない道を歩くとかなり疲れをおぼえるものらしい。