穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

A34 古本屋で見つけた本から

2023-01-16 08:37:17 | 小説みたいなもの

 彼はあまり古本屋に寄らないのだが、三省堂も長期工事に入ったし、神保町の書店めぐりもすぐ終わってしまう。そこで毎日一万歩の目標を達成するために、最近は古本屋をのぞくこともある。そこで買った本に次のようなことが書いてある。
 透視と言うのは一方から他方を見るということである。障害物があるとか、非常に遠方にあって普通は見ることが出来ないものを見るということだ。他人の内心の考えを言い当てるような場合も場合によっては透視というかもしれない。一般に超能力のひとつとされる。
 では非常に遠方にある人間の知覚や表象を共有するのをなんというか。憑依と言うのとはちょっと違う。憑依と言うのは一方の人間の意思や命令が相手方に向けられる。つまりとりつくことだ。二人の力関係である。一方が他方を支配する。場合によっては相手はお狐さんだったりマルクスだったりするが。ただ単に相手の見るものを見、聞くものを聞くという現象は、そういう現象があるとして、何というのか。千里眼というのかな。
 その場合、Aという個人の見ていること、聞いていることが空中を伝わってBというまったく関係のない相手に伝わらなければならない。しかも瞬時にというか同時に。こんなことがあるのかどうか。検証が十分に行われているとは言えないが、古来そういう例が報告されている。哲学者のカントなども「視霊者の夢」なる論文をものしている。カントは事実は認めるが検証や説明は不可能であると書いている。この事例がカントが純粋理性判断を執筆した動機といわれている。
 この場合、オカルト現象の体験者がスウェーデンの著名な科学者であって、報告が疑えなかったからであろう。彼の名をスウェーデンボルグという。
 彼は旅行中数百キロ離れたストックホルムの大火を同時刻に「見た」というのである。この場合「見た」と言うのが直接見たのか、ストックホルムの住民例えば彼の知人が見たことが400キロの空中を瞬時に奔ったのかはカントの論文やスウェーデンボルグの伝記では不明である。カントもそこまで分析していない。うかつと言えば迂闊な話である。
 いずれにせよ、この事件がスウェーデンボルグが本格的に霊的問題に取り組む一つの機縁にはなっているらしい。
 そこでだ、そういうことがあるとして、その場合キャリアは何だということである。二地点間で影響しあう場合には必ず仲介者がいなければならない。離れた空間で影響しあうのは代表的なところでは引力や磁力がある。また光は物象を運ぶ媒体となる。じゃあスウェーデンボルグのような場合は何なのだ。一番可能性があるのはやはり「ひかり」か同様の伝播力を持つ電波かニュートリノのような素粒子の仲間だろう。光や電波は一秒で地球を七周半だかする。400キロなんてメじゃない。
 フムフムと唸って彼は一昨日見た夢を思い出しながら、しばし本を置いたのである。

 


写真整理は残飯処理のようなもの。

2023-01-14 20:42:50 | 小説みたいなもの

 父親の残した写真は整理の手の付けようがなかった。これは残飯整理のようなものだな、と彼は気が付いた。父の遺品をきょうだいで分けるときに、てんでに勝手に我先にめいめいがいいところを持って行ってしまったときの様子を思い出した。
 アルバムに貼って整理された写真は兄弟が分け合ってしまっていた。よく撮れたはっきりと写っている写真はめいめいが我先に取っていったのである。だから残っているのは父が撮ったと思われる素人写真が主であると推測された。ピントが合っていなかったり、どういう目的でとったか、被写体が分からないもの、現像に失敗したものがほとんどなのである。ようするに残った残飯を整理しているのと同じなのである。
 とにかく系統的に分けなければ何が何だか分からない。かれは文房具屋に行って封筒を沢山買ってきた。A4では大きすぎるのではないかと考えてA5くらいの茶封筒を二十枚ほど買ってきた。
 被写体の人物が一人でも分かっている写真は父方と母方に分けた。もちろん兄弟と一緒に映っていたりするのは別にした。つまり写真のなかで彼の知っている人物が入っている写真は、その人物に応じて父方と母方の写真に分ける。しかし父方とはっきりとわかる写真はほとんどない。何しろ父方の親戚で顔の分かっているのは父しかいないのだ。母方は祖父母、叔母たちやいとこなどの親戚はみな顔が分かっているから簡単である。父方はあきらかに会社や役所関係の人物と思われる写真は別にひとまとめにした。
 遺品わけのときにきょうだいが争っていいところを持っていいってしまって、残っているものはピンぼけや素人の失敗写真などである。したがってピンぼけ、周囲が光線が入って白く感光しているもの、注釈の書いていないもので誰が写っているかわからないバラ写真ばかりだ。
そのほかに男で単独に映っている写真はおそらく父の田舎の親類だろうとおもわれる。
 その他で多いのは若い、といっても30前後の女性の写真である。これが非常に多い。そのほか大体三人ほどに絞られる。中でもひとり何十枚も写真がある女性がいる。いかなる関係のあった人物か見当がつかない。この女性の写真は同一の写真の焼き増しが手札型のでも30枚以上ある。美人とは言えないが、肉感的で我の強そうな女である。その他にもこの女性単独の写真が十枚以上ある。まさか芸者のお披露目用の写真でもあるまい。着ている者からはそう判断しにくい。

 ほかにかなりの数の二、三人で写っている写真がある。すこし年配、30過ぎくらいか、どうも素人とは思えないあまり品のない女が二人ほど父の被写体になっている。知っている顔ではなく、どういうかかわりのあった人物かまったく不明であるが、父の異母姉かもしれない。この種の写真が一番判断にまよう。これらはいずれも素人っぽい腕前で父が若いころの被写体と思われる。

 


からまれる

2023-01-14 13:14:05 | 小説みたいなもの

 (本日の原稿は昨年9月30日にアップしたものを修正加筆し再掲するものです。)


 ここ数日プリントをしようとすると、インクが切れていますと表示される。大体においてこういう場合面倒くさいからなかなか新しいインクを買いに行かない。それでも脅迫的な「インクがない」と言う表示が出ても二週間ぐらいは正常にプリントできる。かすれもしない。もっともそう大量に毎日印刷しているわけでもない。
 しかし、新宿で昼飯を食った後で、たしか西口にパソコン関係の量販店があることを思い出して、インクを買うかと駅前の大通りを渡り、ごみごみとした通りを大型量販店に向かったのである。
 相変わらず人出が多い。スマホを見ながら前をよく見ずに歩いている若い男女が多い。こういう連中には突然雑沓した往来の真ん中で立ち止まる。つまらないニュースで突然びっくりして立ち止まるやつ(あるいは雌)がいる。まるで親とか連れ合いの死亡を通告されたとかと思うほど我を忘れて立ちどまる。こんなことをされると後ろを歩いている人間は急には止まれない。だから彼は雑踏では常に前の歩行者の異常行動に注意を払っていたのである。
 前の人間にぶつからないようにと前の歩行者の背中を見ながら注意して歩いていると、ちょうど前を歩いていた背の低い男がいきなり振り返り、すごい形相で因縁をつけてきた。怒鳴り声は大きかったが何を言っているのかは把握できなかった。なにか気に障るようなことがあったらしい。しかし、こちらはスマホを見ていて前方を注意していなかったわけではなく、逆に距離を開けて歩いていた。わけが分からない。ぶつからないようにその男のボサボサの白髪交じりの後頭部に注意していただけである。
 新宿の雑踏にはおかしな人間が多い。こういう時に、たんに「何ですか」と反問しただけで更に逆上する連中がいる。立ち止まって黙って相手を観察した。その男は年齢は3,40歳ぐらいで崩れた感じの自称アルチザン風とも取れた。自由業と言うか、芸能界の縁辺に巣食ういわゆる自由業のルンペン芸能人ともとれないこともない。
 髪を長くのばし、櫛も入れていない。顔の皮膚は睡眠不足を思わせてどす黒く、病的に疲弊した感じである。後ろから歩いてくる私がなにか触ったか何かしたと勘違いしているらしい。場所柄、ドラッグに酩酊した芸術家風の男が多いのかもしれない。 勝手に妄想にとらわれているのだろう。
 私は用心深く距離を保ったまま状況を見極めようとした。相手の男はそのうちに自分の錯覚と悟ったのか、再び前に歩き出した。ヤレヤレ、今日は厄日になりそうだと嘆息した。こういう特異な日は妙なことに続けて変なことに遭うことが多い。注意しようと思った。

 


家系図のお礼  

2023-01-12 08:46:00 | 小説みたいなもの

 裕子の立ち去った部屋はシーンと静まり返った。
彼は電話機を引き寄せると叔母に電話した。彼女の協力でルーツ探しの母方の分は詳しすぎるほど調査が終わっていた。母の実家はいわゆる旧氏族の家系だったので郷土史家に頼んで調べてもらい相当詳しく分かったのである。
電話に出た叔母に協力のお礼を言うと叔母は「それでお父さんのほうは分かったの」と聞き返してきた。
「いいえ、それがまるっきり手掛かりがないんですよ。山間の農家らしいが、全く分からない。親類とも父は行き来が無かったようだし、父が子供たちに郷里のことを話すことも全くなかったですからね」
「ふーん、何でも地方では大変な名家だったって聞いていたわよ」
「いわゆる仲人口というやつでしょう」
「そうかしら」
「父は再婚で相当の年齢だったし、随分成功して出世していましたからね。そういっても通用したんでしょう」
「それでは仲人口に騙されたわけ」
「そこまで言うのもどうかと思うけど、ま、よくある話じゃないですか」
「そうかしら、ところでこれからどうするの。調査中止?」
「そうですねえ、一度訪ねてみようとも思ったんですけどね。父がまったく交際を絶っていたのには訳があるんでしょうから、いきなり僕が現れたら田舎の人がどう反応するか、いまいち判断がつかない」
「そうだわねぇ、慎重にしたほうがいいわ。それにさ」と彼女はふと思いついたように言った。
「あんまり昔のことをほじくりだすのもよくないというわね」
「どういうことですか」
「そういうことを言わない?。なんか変なことが起こるとか。昔の霊が呼び起されるとか」
そういえば、大病以来妙なことが増えたようだ。急に橋が渡れなくなったとか、妙な夢をよく見るようになったとか。
「ま、無理をしないことね」と最後に彼女は言った。
電話を切ると、彼はどうしたものかと改めて思案した。父の実家と言うか田舎の親戚を探して訪ねまわるということは慎重にしたほうがよさそうだ。しかし、一度はどういうところなのか見てみたい。鉄道かバスで、と考えたのである。

 


コネクティングルーム

2023-01-12 08:06:24 | 小説みたいなもの

 彼女は冷蔵庫を開けると「卵は切れているのね」と落胆したような声を出した。冷蔵庫には、ある時でもタマゴ、時にミルク、缶ビールくらいしか入っていない。いまはなにも入っていない。青い照明が何もないがらんどうの庫内を冷たく照らしている。
「朝食はどうするの」と彼女は口を尖らせながら彼を見た。
「オートミールがどこかにあるから、それにしようよ」
「だけとミルクがないじゃない」と彼女は指摘した。
「どこかにクリープがまだ残っていたと思う。それを使えば」
「しょうがないな」と言いながらシリアルのパックの中を覗いた「どのくらいいれるの?」
「シリアルは大匙で五杯、クリープは三杯か四杯がいいだろう、勿論好みで調節して」
「ふーん」と彼女は眉を顰めながら呟いた。
「お湯を沸かすのね」
「いや電子レンジでいいよ、一分半」
 彼女がこの間買ってきた自分用のティーパックで紅茶を入れた。「あなたはインスタントコーヒーをスプーン大盛で三杯ね」と彼女は彼の朝のスターター処方を心得て言った。食べ終わると彼女はハンドバッグを取り上げるとあわただしく会社に行くために出て行った。
 しばらく意味もなく、興味もなく、朝のニュースやワイドショーを眺めていたが、『そうだ、俺の夢パターンにはコネクティングルームというのもあったな。最近よく見るようになった』と思い出した。
 ホテルによっては二部屋が内部のドアで行き来できるようになった部屋がある。大家族とか訳ありのカップルが廊下に出ないで行き来できる仕組みの部屋だ。普通のマンションには無いように思うが良く知らない。とにかく夢の中でそういうマンションに住んでいるのだ。勿論二つの部屋は内壁のドアで仕切られている。必要に応じてドアにカギをかければ独立した部屋になりプライバシーは確保される。
 彼の夢ではどこか全く記憶にない棲んだこともない部屋に暮らしているのだ。しかもコネクティングドアがあるということにまったく気づかない。それがある晩、隣の部屋に行けるということに気が付いて不安に襲われる。なぜなら隣の部屋の住人がいつでも自分の部屋に入って来られるからだ。それでぞっとするという夢だ。しかも妙なのはその部屋に住んでいるという現実感は鮮明なのに、思い出そうとしてもそんなマンションに住んだ記憶はないのだ。
 彼女にはさっき話さなかった。その時には思いださなかったからだが、彼女の「フロイト式解釈」でこじつけるとこの夢はなにを意味しているのだろうか。要点はなにかと彼は思案した。つまり、知らない間にプライバシーが侵されているという不安を表しているのか。もっと突っ込めば、なにか他人の考え、霊と言ってよければ、そんなものに憑依される不安を表しているのだろうか。

 


ウルトラC

2023-01-11 07:49:32 | 小説みたいなもの

 腎臓が早朝の活動を始め彼の脳髄に信号を送り始めた。寝返りをうった彼は隣で寝ている固太りの裕子のわき腹にぶつかった。
「アイテテ」と声をあげた。腰部の後ろに筋肉痛が走った。そうか、彼女は泊っていったんだ、と思い出した。昨夜は張り切りすぎたな、と彼は反省した。彼女につられて、つい無理なウルトラCを連発してしまったのだ。
「起きたの」と裕子が言った。
「うん、何時かな」
彼女は「ヨッコラショ」とけだるそうに掛け声をかけて起き上がり、彼の体を跨ぎ越してベッドから飛び降りると窓際に行ってカーテンを引いた。まだ日は出ていない。外は暗い。交通信号の明滅がわずかに室内を明るくしていた。
「まだ五時前だよ」と彼女は伸びをしながら答えた。「あなた、寝言を言うのね」
またか、と彼は不安に思いながら「なんて言ってた」と聞いた。
「うーん、なんだか同じことを繰り返していたみたい」
「そんなに長いこと言っていたのか」
「そうね」
「大きな声で、叫ばなかった」と彼は恐る恐る聞いた。彼は高校生のころ寝言で大声を出して家族を驚かしたことを思い出した。
「そんなことはなかったわね。『おかしいな』とか『どうして迷っちゃったのかな』とか、そうそう『もう二時間も迷っている』とかね」
 また定番の夢を見たんだな、と彼は思った。彼は今夜の夢はもう思い出せなかったが、かれがしばしば見る夢がいくつかあって、まったく同じパターンなのだ。その一つに迷子バージョンと言うのがある。
いつも同じ場所と言うか情景で、どうも大きな駅、上野駅の周辺のように思えるところで道に迷う。どこに行こうとしていたのかは目覚めてから考えても分からない。自宅でもなさそうだし、会社でもなさそうだ。とにかく目的地に行こうとして同じところに戻ってきてしまうというバージョンである。上野駅ではなくて、どこか旅行先でホテルに戻ろうとしているのかもしれない。
「きっとその夢を見ていたんだな、と彼はその定番の夢を彼女に説明した。「寝言を言っているとは分からなかった」
「なんだかフロイトの夢判断に出てきそうな話だね。彼ならきっともっともらしい解釈をでっちあげるかもね」と大学の一般教養で心理学を齧った彼女は言った。
「彼ならどう解釈するのかな」
「そうねえ、そのデスティネイションと言うのは人生の目的ととらえるかもね。どうしても自分の人生目的がつかめないで悩んでいるとかね」
「なるほど、説得力があるな。実際おれに当てはまるよ。よくさ、小学校やなんかで将来は何になりたいか、なんて卒業文集に書かせるじゃないか。みんな結構具体的に書くんだよね。だけどオレにはそういうものがなかったな」
「それでなんて書いたの」
「ま、適当にね。本当はそんなものになりたくなくても野球選手だとか、医者だとかさ、皆が書きそうな無難なことを書いとくのさ。ところで裕子は何になりたかったんだい。いいお嫁さんになりたいとかかい」
「馬鹿にしないでよ」と彼女は気色ばんで口を尖らせた。
彼は慌てて言った。「現在もさ、会社を辞めて、これから何をしようかと言うことも決められなくてさ」
「一生の問題と言うわけ」
「そうらしい」
「駄目ねえ」と彼女は決めつけるように言った。「ところで最近はなにを書いているの。小説を書くとか言っていたでしょ」
「小説じゃないよ。ノンフィクションを書こうかと思っていたけど方向転換をしてさ、家伝を書こうかと思っている」
「カデンて」
「家の歴史さ、君に頼んだおやじの写真を見ているうちにい色いろな疑問が湧いてね。秘密に満ちたおやじの前半生を調べようと思うんだ。例の古写真のほかにおやじの遺品に古いメモや書類があってね、意外なことが分かってきたんだ」
「たとえば?」
「おやじのふるさとなんかさ、全く知らなかったんだが中国地方の田舎だとかね。母親のほうの家族のことは前からよく分かっているんだ。だから両親や祖父のこととかね。資料がそろえば家伝をかこうかなとね」
「面白そうだね、見せてよ」
「まだまだ書き出したばかりだから。まとまったら見せるよ」

 


裕子来襲

2023-01-10 07:24:31 | 小説みたいなもの

 彼女がエレベーターで上がってくる前にパソコンを急いでシャットダウンした。彼女が部屋に入ってくるとマックのテークアウトとすぐわかる臭みが部屋を満たした。薄いカバ色の紙袋の中のポテトチップスが強烈な臭いを発している。人一倍臭覚と美的感覚の発達している彼は思わず息を止めた。
 彼女はすでに手慣れた手順で新しい赤い花を活け替えた。彼は花の名前など一つも知らないが、彼女は赤い色が好きらしく、いつも同じ色の花を持参する。終わると彼女は「夕食は?」と問いかけた。
「まだだよ」
「ああ、よかった。マックのチーズバーガーを買ってきたのよ。というと袋の中からバーガーとポテトチップスを取り出して机に並べた。バカでかいカップに入った水にちょっと色を付けただけのようなブレンドコーヒーも横に並べた。
「食べましょうよ」と言って彼を見た。「マックは嫌いなの」と怪訝な顔をした。
「臭いがな」
「知らなかった。珍しいね。じゃあ食べない?」
「いや、貰うよ、自分が食べ始めれば臭いは気にならなくなるからね」
「ふーん」というと彼のほうへ一つ押し出した。ニンニクの口臭も他人のものは我慢できないが、自分で食べてしまう分には気にならなくなるのと同じだ。
 口を目いっぱい広げて、のどチンコを見せながら彼女はチーズバーガーにかぶりついた。彼も食べた。
「どう、食べられる?」
「うん」と彼は鼻の下のバーガーを見下ろした。「このレタスがもっとしなびているといいんだがな」
「どうして」と彼女は不思議そうな顔をした。
「そのほうがアメリカ的じゃないか」
彼女は変な顔をした。理解できなかったらしい。

 


空襲警報発令

2023-01-09 07:25:49 | 小説みたいなもの

 長時間に及ぶ、ほとんど午後一杯を使っての塵都東京の場末や下町の彷徨的散歩から帰宅した彼は冷蔵庫から缶ビールの中缶を取り出すとマグカップに移し替えて飲んだ。前は帰宅後すぐに、こんなに早い五時前の時間にアルコールを飲むことはなかった。それが今夏の発作からこのかたは長時間市内の喧騒の中をうろついて帰ると微かに興奮状態が後を引いて残ることを自覚した。
 以前は、これくらいの散歩の後で微かな興奮状態が残ることは無かったのであるが、やはりあれ以来精神状態が変調をきたしているらしい。この興奮状態の余波は実生活にはまったく影響がない。自覚もしない。それが最近始めた文章を作るという作業を始めてみると、その妨げになるのである。要するに作業に乗って行けないのだ。
 それでワインを帰宅後飲んでみたのだが、こいつは飲み始めると途中でやめることが難しい。どうしても一本飲んでしまう。そうすると今度は作文に精神を集中できなくなる。次に日本酒の小さい瓶、あれは二合くらいかな、飲んでみたが、こいつはワイン一本ほどの量はないが、アルコール度数がワインの倍くらいある。それに糖分が多いのか、口の中がベトベトしてくる。作文の前に歯磨きをしてから何てしていたら、感興などどこかに行ってしまう。
 それで落ち着いたのが缶ビールの中缶なのだ。こいつはアンバイがいい。ビールのもたらす鎮静作用を実感し確認すると、どれどれとパソコンの蓋を開けた時である。ラジオの男性アナウンサーの声が聞こえた。
『東部軍管区午後六時発表、敵航空機編隊は相模湾上空より帝国に侵入、進路を東にとり帝都に接近中也。京浜東京地区は厳重なる警戒を要す』
 彼は驚いた。テレビはつけていない。ラジカセはあるが、CDを聴くだけでラジオを聞いたことは無い。「なんじゃらほい」と彼は思案した。空耳か、幻聴か。そんなオカルト的な馬鹿なことがと超理性的な大友秀夫は即座にその考えを却下した。しかし何なのだ。もしかすると隣の部屋からかな、あのアナウンスの内容は現代のものではないから、昔の録画か映画の音声かもしれない。隣の部屋で再生していたのが薄い壁か、あるいは開け放した窓からベランダを経由して侵入してきたのかもしれない。この答えしかなさそうだ。しかし、その後はまったく音がしない。隣人が音に驚いてボリュームを絞ったか、窓を閉めたのかもしれない。
 やれやれとパソコンを起動したときである、ピンポーンとインタフォンがなった。瞬間彼は嫌な気がしたが、インタフォンの画面をみると土屋裕子が花束を抱えている。いやまてよ、そうするとさっきのアナウンスは彼女のストームへの警告だったのか、そんな馬鹿な。


むせび泣くパイプオルガン

2022-12-25 08:10:35 | 小説みたいなもの

 築八十年を超える彼の家はあらしの夜は巨大なパイプオルガンとなって身をゆすって唸りだす。木造家屋で乾ききっていない木材を使ったのが長年にわたって乾燥して縮んだとかもしれないと彼は思った。いたるところに隙間が出来て風の通り道が出来た。風は入ってきて気ままに家の外に抜けていく。

 風の通路は無数にあるようだ。パイプオルガンの比ではない。実に様々な悲鳴、唸り声、すすり泣く声を発生する。大体において不快な音である。それにつれて家全体がきしんで、またそのギシギイガタガタする音が不協和音を出す。例えば風呂場のドアから入ってくる風は人声に似ている。幽霊がむせび泣くような音を出す。彼は泥棒が入ってきたのではないかといつも思った。子供のころは暴風の夜は怖くて風呂場のそばにある便所には一人で行けなかった。
あるいは、と彼は考えた。戦争中近くに米軍の直撃爆弾が落ちたと言うから、その時の衝撃振動で家全体のたがが緩んでしまっているのかもしれない。勝手に乾燥の充分でない材木を使ったなどと言いがかりをつけると大工が怒るかもしれない。

 もっとも日本では昔から草木も眠る丑三つ時には軒先が三寸下がると言うことばもあり、日本家屋も見ようによっては乙なものかもしれない。当今のコンクリートで固めた単純な独房スタイルのマンションではこのような情緒?は経験できない。


狂乱のルチア

2022-12-21 09:45:29 | 小説みたいなもの

 長年四海は感情の高揚を経験できなくなっていた。というよりも警戒していたというべきだった。理由は分からない。そのうちに高揚する能力が無くなったようである。感情の高揚というのは警戒しなければならないと個人的な経験から学んだらしい。
 唯一感情の扉を開けるのは部屋でドニゼッティのオペラを聴くときだった。それも「狂乱のルチア」か初期のアリアだけである。ほかのオペラはレシタティーボが多く入るのでそこで気分をそがれる。セリフの入る場面は大体伴奏も控えめで平板である。第一ドイツ語やイタリア語のセリフが分からなければイライラするだけである。
 といってもそんなに物々しい仕掛けで聴くわけではない。築六十年の日本家屋では音量を上げるわけにはいかない。ピアノをぶっただいてもびくともしない防音装置を施しているわけでもない。隣近所の住民は言うに及ばず同居している家族からも苦情を言われる。音量をあげなければ安物のCDプレイヤーで充分なのである。
 しかし、肉欲の高揚はまだ三十代の彼には抑えることができない。感情の高まりは兆しのうちにどこかへ行ってしまう。抑圧されて意識の底か、自我と言う地殻の外へ漏れ出すのか。煙のように消滅してしまうのか。


流れ

2022-12-19 07:46:31 | 小説みたいなもの

 日曜日の昼下がり、貴司はドニゼッティの狂乱のルチアを聴いていた。階段を踏み抜くようなけたたましい響きが彼を驚かせた。CDが狂ったのかと思った。階段を駆け下りたのは妹と父だった。妹のサルのような悲鳴と父親の雷のような威圧的な怒鳴り声が交互している。窓から下を見るとほとんど裸の妹が靴下も靴も履かず庭に飛び出していた。妹は家にいるときはだらしない様子でほとんど衣服を身に着けていない。何だなんだと彼も部屋を出て階下に降りた。父親は仁王立ちで庭を睨んでいる。茂子はほとんど半裸の姿でどこに逃げ込もうかと庭の隅をきょろきょろと見回している。その後ろに家事監督に来ている理恵さんが後ろから父を制止している。父親は我々を見ると我に返ったようで黙った書斎に引き返した。
「どうしたんです」
「お父様がもっと家事をしろと言われたんです。それに茂子さんが反抗的な態度をしたので怒りだしたんです。わたしが告げ口をしたと勘ぐったんでしょうか」
「自分が告げ口の名人だから人のことも勘ぐるんだろうな。しかし、珍しいな。彼女を叱るなんてことは一度も見たことが無いのにな」
「そうなんですか」
「彼女だけは兄弟の中でも特別扱いでね。父が茂子を叱ったのは見たことが無い」
 理恵さんは父の遠縁の未亡人で家事監督と言う形で来てもらっている人である。母の生前から茂子はどんなに母が忙しくしていても家事の手伝いをすることは無かった。短大を卒業しても就職せずに家にごろごろしているか夜遅くまで遊びに外に出ていた。それでお手伝いを雇っていたのだが、彼女たちは居付かない。すぐにやめてしまう。早い人は2,3日でやめてしまう。そのたびに紹介所から新しい人を派遣してもらっていた。妹とお手伝い達とうまくいかない。すぐに喧嘩になる。彼女が主人面をして自分よりずっと年上のお手伝いさんをこき使うからやめて行ってしまう。それで遠縁の年配の女性で夫と死別した理恵さんに家事監督と言う形でに来てもらっていた。それでも茂子に抑えは利かなかったらしい。
 たしかに父も目つきが鋭かったが妹ほど異様に光ることはなかった。それで中学時代の庭での変身ぶりを叔母に話して聞かせたのである。
「蛇に憑かれたのかもしれないわね」と彼女は冗談めかして言った。彼女は女性の常として占いやオカルト現象に惹かれるところがあったらしい。
「狐に憑かれるとは聞きますがね」
「私の田舎では動物の霊に憑かれるのは狐だけじゃないのよ。狸も憑くし、猫だって憑くっていわれている」
「へえ、そうですか。蛇に憑かれるとどうなるんです。キツネやタヌキとは違うんですか」
「性格が悪くなるそうよ。執念深く意地悪になるらしいわ」。おもしろい、「それで?」
「物欲が異常に強くなる、性欲の抑制が出来なくなるというわ」
「へえ」とますます感心してしまった。叔母も妹の常軌を逸したわがままな性格は持て余しているらしい。
「さっき遺伝って言いましたよね。どういうことですか」
「目つきの鋭さというのは遺伝するんじゃないかしら」
「下地があったということですかね」
「あるいはね」
 叔母は思い出すように視線を泳がせていた。「あなたはお父さんの二番目の夫人の子供だけど、お父さんもおじいさんの後妻の子供だったのよ」
「へえ、知らなかったな。そんな話は一度も聞いたことがないな。もっともおやじは郷里の家族のことは祖父のことを含めて一切話したことはないんですけどね」
「それでね、おじいさんの最初の奥さんとの間に女の子があったのよ」
「えっ、そうですか。僕の叔母さんになるわけだ。全然聞いたことが無いな」
「お父さんにも話せないような事情があったのよ。その人はなにか不祥事かあってさる家に養女に出されてその後は絶縁状態だったらしいわ」
「養女に出されてた理由はなんですか」
「それはねえ、噂だから本当のことだかどうかわからないし、言えないわよ。ただね、その人の写真を見たことがあるけど、貴方の妹の茂子さんとそっくりなのよ。特に目のあたりが」
「そうすると、父、養子に出された叔母、茂子という流れがあるのかな」
「とにかく、そっくりなのよ。私は茂子さんの小学校の時の顔しか知らなかったからお宅に来てから彼女を見てはっと思ったわ」
後でインターネットで検索するとこんなサイトがあった。
「蛇に憑かれると性格が悪くなる。自己中心的になる。人を傷つけることを平気で言ったり、執念深い性格になります」云々

 


夜の果てへの旅

2022-12-17 07:35:05 | 小説みたいなもの

 夜の旅の行きつく果ては朝である。コペルニクスの太陽系が続く限りで、と言うことであるが。
 夜の旅は脳と言うものがスキャンをする時間であり、必要ならリセットであり、リアレンジメントである。それは無意識にある78階層で実施される。夢を見るのもその一環である。夢とは睡眠中、表象をともなう脳作業である、フロイト先生によれば。
「君が知っているのは例の庭の茂みから飛び出してきた中学の頃の妹だろう。よく見分けがついたな」
どうして妹のことを彼が知っているのだろうと訝ったが、彼を家につれてきたときのことを思い出して訊いた。
「いや、大学なんかの合コンによく来ていた。派手な服装で有名だった。まあちょっと忘れられないほど目立っていたからね」
「それでどうしたんだ」
「いや、こっちはそのうちの一人だから個人的な関係はない」
「妹も君に気が付いていたのか」
「いや気が付かなかったと思うね。俺のほうはすぐに気が付いたが、俺にもつれがいたし、彼女も相手と話し込んでいたからね」
「へえ、男性か」
「そうなんだが、大分年は離れているみたいだった。中年と言うか50歳代の感じだった」
四海は妙な気がした。
しばらく沈黙していた彼が「そういえばその男性は見たことがあるような気がしたんだが、思い出したよ。同じ業界の人間だよ。それで君の家を売るのか、とさっき聞いたんだ」
「というと不動産屋か」
「不動産と言うかゼネコンのたしか部長だったな」
「名前は?」
「そこまでは分からないがね」
 四海にはなにかピンとくるものがあった。「どんな男性だった?」
聞かれて相手もびっくりしたようだったが、「年は五十くらいかな、白髪交じりで眼鏡をかけていたな。それが何か?」
「いや。同窓会のことは申し訳ないな」
「いや、いいんだよ。時期的に皆、忙しいからな」
 黒木田から妹の話を聞いたためか、その夜彼女にジャガンが発生したころのことを思い出した。彼女の性格はそれから激変した。自己顕示欲が異常に強くなった。物欲が激しくなった。と同時に自分のものと他人のものの区別がつけられなくなった。つまり自分の物は自分のもの、まあ、これはいい。 他人の物も自分のものと見境がつかなくなった。これは困る。家族のほかのものが持っているものが欲しくなると黙って勝手に持って行ってしまう。そのかわり自分の物に他人が触っただけで狂ったようになる。
 高校に入ると母親のクレジットカードを持ち出して洋服なんかを見境なく買いまくった。男遊びが激しくなると、そうして買ったハレハレの派手な服装で家の周りを歩き回るので有名になった。

 


ジャガン1

2022-12-14 09:08:41 | 小説みたいなもの

 黒田は妹を知っていたかな、と思った。そうか高校一年の時だった。彼を家に誘ったことがあった。裏木戸を通って縁側から部屋に上がろうと庭を通った時にいきなり妹が庭の隅にある植込みの後ろから出てきたのだった。その時の様子に二人が驚いた。四海も驚いたのは妹の容貌が一変していたからである。どちらかと言うと目立たない容貌で、たしか彼女は中学にあがったばかりだった。中学生になってもいつも親指をしゃぶっていた。目立たない娘で親指しゃぶりのほかはひどい偏食であった。食べるものと言えばポテトチップスとミカンだけなのであった。
 その庭の隅はクチナシや無花果の茂みの後ろにあって昼でも日の射さない一隅で一年じゅう湿気でジュクジュクしていた。一時は今のように公用機関の生ごみ回収サービスが充実していなかったので、灌木と高い塀で囲まれた狭い空き地に穴を掘って生ごみを埋めていた。梅雨時はカエルがじっと動かないでうずくまっていたりした。カエルを狙ってか青大将が現れることもあるといって、家人も近づかない場所だった。
そんなところ妹が何をしていたのか分からないが、いきなり我々二人の前に出てきて睨みつけたのである。黒田はぎょっとして悲鳴をあげた。その目つきが一変して異様に光っていたのである。なんで我々を睨みつけたのか、黒田を連れて来たので睨んだのか、理由が分からない。しかし、その後彼女は一変した。親指はしゃぶらなくなったが、四六時中目つきが鋭く光っている。性格も一変して自己主張の激しいわがままな性格になった。
 後に彼は蛇眼という言葉があることを知ったがまさにそのようであった。彼女が高校に入ると行動はより奔放と言うか無軌道になり、同級生や大人の男性と遊びまわるようになった。
 あまりに相手が多すぎて彼にもよくわからないが、案外黒田も付き合っていたのかもしれない。妙に男好きのするオンナになっていた。オートバイの後ろに乗って男に後ろからしがみつきながらスピードをあげさせたりしていたらしい。そういう噂をよく聞くようになった。
「見たと言うのはどういうことだい」と彼は聞いた。「話はしなかったのか」
「うん、彼女が男性と話し込んでいるところを見たのさ」
「どこで」
「さるホテルのロビーだよ」
「どんなホテルだ」と彼はつい直截にきくと、黒田は笑って「シティホテルさ、我々がよく商談に使うようなホテルのロビーだ。別に怪しいところじゃない」と黒田は安心させるように言って笑った。

 


相手はシカイ君?と言った

2022-12-12 09:03:28 | 小説みたいなもの

 翌日夜八時をまわった頃にまた電話が鳴った。昨晩のしつこいやつかなとは思ったが、相手を突き止めようと受話器を取り上げた。
「シカイ君」と語尾を上げてきた。野太い中年男の声だ。なんだなんだ、シカイ君だと、なれなれしく言うやつだ。そんな呼び方をするのは会社の同僚ぐらいだ。昨晩かけてきた奴なら今日昼間会社で連絡してくるはずだ。戸惑った彼は受話器を持ち直した。「どなたでしたっけ」。相手の言い方からすると、人生のどこかで知り合った人物かもしれないので彼は慎重に間を置いた。
「いや失礼。新木田高校の黒田です。御無沙汰しています」と一転トーンが下がった声をだした。すると高校の同級生か、と彼は記憶の領域をサーチした。「E組のさ」と相手は重ねた。
「ああ、思い出したよ、クロちゃんか。久しぶりだな。卒業以来じゃないか」
「そうなるかな」
「びっくりしたよ。失礼した」
「いまいいかい」と心配そうに聞いてきた。「うん、何だい」
「じつはね、今度同窓会の幹事をやらされたんだ。それで出欠を取っているわけなんだ。来月の十五日を予定しているんだが、ちょうど忘年会のシーズンだろう。いろいろと予定が重なる人もいるだろうと思って確認しているんだ」
「わかったよ、ちょっと待ってくれ」というと手帳を取り出してめくった。「金曜日か、会社の忘年会なんだ。悪いけど都合がつかないな。どうして年末の忙しいときにやるんだい」
「一松がさ、例のデブイチが今度アメリカに転勤するんだ。来月にさ。それで彼の送別会も兼ねてというんでこのタイミングになったわけだ。残念だな」
「申し訳ないな。ところで君はどうしているの」
「不動産会社にいるのさ」というとふと思い出したように「君の家は売りにだすのかい」
いかにも不動産会社の人間らしい商売気だと思った。
「いやそんなことはないよ。オヤジが売る気なんかまったくないからな」
「そうか」と彼は不思議そうな声を出した。
「なぜそんなことを聞くんだい」
しばらく彼は躊躇っていたのか沈黙したが「実はね、この間君の妹にあったよ」と切り出した。
「え、どこで」とシカイも頓狂な声をあげた。
「会ったというのとはちがうんだな、見たというべきかな」と訳の分からないことを言ったのである。

 


異音

2022-12-11 09:02:38 | 小説みたいなもの

  その夜はサッカーの国際試合のテレビ中継を観ていた。彼はほとんどテレビを見ない。天気予報と民放のニュースくらいしか見ない。見ると言っても「ながら見」で新聞で言えば見出しを読み飛ばすくらいの注意しか払わない。
 スポーツ中継は数少ない彼の見る番組である。それでも野球やボクシングは見ない。イニングの途中などで不愉快なコマーシャルが大音響で流れるからである。しかもコマーシャルの時には放送局は一段とボリュームを上げる。スポーツ中継のコマーシャルは彼の最も嫌うものだ。サッカー中継の場合はハーフタイムのコマーシャルだけ我慢すればいい。かれが久しく映画館にいかなくなったのも映画館の気違いじみた予告編の音量のためである。

 彼のテレビは古い。したがって画面が小さい。ノートパソコンの大きさとオツカツである。サッカーなどだとテレビから離れるとどこにボールがあるかわからなくなる。彼は画面から一メートルの距離まで椅子を持っていく。テレビのコマーシャルはサッカーの場合ハーフタイムしか入らないが、そのかわりウェーブとか太鼓とかの応援の騒音は相当なものだ。こいつの音量を絞ると解説の声が聞こえなくなる。ほとんどサッカーのドシロウトである彼はやはり解説を聞かないと試合についていけない。それで観客の騒音は我慢している。

 なんか耳の後ろで異音が混じっているように感じた。太鼓や笛の音でもない。声援の絶叫でもない。ジリジリ、ビリビリと響く。彼は尿意が我慢できなくなってトイレにたった。電話機がチカチカしている。異音はこれだった。受話器の呼び出し音だったのだ。かれは電話の前に立ち止まって思案した。いまごろ 誰だ?いまごろかけてくるのは特殊詐欺かインチキ商品の勧誘に決まっている。かれは受信音を無視して放尿に行った。
 戻ってくるとまだ電話が鳴っている。応接するとながく粘られそうだと思った彼は受話器を持ち上げてすぐに切ろうとしたが、ちょうどその時にしつこい電話は鳴りやんだ。

 試合が終わってテレビを消すとまた電話が鳴っている。しょうがないから受話器を取り上げるとちょうど相手は電話を切るところだった。