穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

1026ロケハン2

2022-10-26 07:38:38 | 小説みたいなもの

 例によってバーボンのお湯割りで深夜のスイッチオフ作業をしていた。直径10センチほどの500ミリリットル入りのマグカップに2センチほどジャックダニエルを注ぎ60度のお湯で割る。三杯目を飲み終わったころに彼の視界がフラッシュした。「なんだなんだ」と我に返る。視界を共有するのは久しぶりだ。Q駅から徒歩十二分だったかな、と彼は広告の表示を思い出して酔眼をこすった。ナノ秒のフラッシュだったので定かではない。Q駅と言うと江東区にある地下鉄の駅だったはずだ。
 彼は反故紙の裏で作ったメモ用紙を引き寄せると、のたくった字でQととりあえずメモした。それ以上の精神作業は今夜は無理だ。はっと気が付くと椅子に座ったまま寝込んでいた。時計を見ると午前二時だ。
 翌朝、寝床から這い出ると彼はメモ用紙にあるかろうじて判読できるQと言う字を眺めた。そうだ、今日の一万歩の目的地はきまりだ。例によって場末の定食屋で昼飯を済ませるとQ駅に向かった。この駅にはバリアフリーがない。もっとも初めて来た駅なので、あるのかもしれないが、見つからなかった。気の遠くなるほど地下深いところにある駅だ。ようやっとの思いで長い階段を登りきると地表に這い出た。
 一時間ほど、あたりを徘徊した。この辺もすでに高層マンションや大きな工場に囲繞されている。しかし、表から裏通りに入るとまだ古いアパートや木造家屋が点在している。ここかな、と彼はきょろきょろとあたりを見回した。アパートはさびれた外観ですでに無人に打ち捨てられた印象を持っていた。あるいは地上げ屋にすでに買い取られて解体を待っているのかもしれない。前を通ると古い食物の腐ったような饐えた匂いが微かにする。人はおろか鳩一羽も猫一匹も見えない。

 少し離れたところには木造のしもた屋があった。ここはまだ住人がいる気配だ。これかな、と彼は家の周りを二、三周した。しかし確信がもてない。そのうちに家の二階のカーテンが動いた。どうも上から監視されているらしい。あやしい人間がうろついていると警戒されたのだろう。あるいは執拗な不動産屋や地上げ屋の手先と思われたのかもしれない。うろうろしていると警察に通報されそうだ。
 不審者面をしている彼は普段でもよく警官に不審尋問をされる。彼は慌ててその街を離れて表通りのファストフード店に入った。注文したブレンドコーヒーは信じられないくらい生ぬるくて、まずかった。彼の席の両隣には若い女性がいて、いずれもパソコンを開いて、薄暗くて新聞も読めない店内でキーボードを叩いていた。ちかごろ流行りの在宅勤務らしい。職業婦人も当節は楽じゃない。
 相変らずパソコンの画面を仔細らしく睨みつけている女性客を後にして、コーヒーを飲み残して店を出た。再び彼は駅にもどり周辺の看板を丹念に見て回った。フラッシュに出てきた『駅から徒歩十二分云々』という看板は見つからなかった。見落としているのかもしれないが。9800歩達成!

 


夢の検証

2022-10-10 11:36:49 | 小説みたいなもの

  このところの狂ったような残暑も今日は落ち着いてどんよりと曇った肌寒いような日だった。彼は大江戸線の若松河田の駅から地上に出た。
 この間やめた会社は毎年職員名簿を作成して全職員に配布している。彼女が整理した本棚には一番左側の目立つところに職員名簿があった。憑依するというか、受信するというかはやはり何らかの関係がある人間の可能性が高いのではないか。不図思いついて彼は職員名簿の一番新しい版を本棚から引っこ抜いて机の上にで開いた。
 まず退職時に所属していた部署所属の名前を見た。続いてこれまで所属していた課を順に新しいところから見て言った。取り立てて記憶に引っかかるような人間はいない。そのうちに一人の人間の名前のところで視線が停止した。トラブルと言うのではないが、代理店との問題で苦情を持ち込んできた男がいる。その男が担当している代理店から苦情を持ち込まれて、ちょうどその職員が出張していたので彼が応対した。そして便宜を図ってやったことがあった。    ところがその職員が出張から帰ってきて、その代理店から何か言われたらしい。血相を変えて怒鳴り込んできて部長にクレイムしたことがあった。非常に不愉快な記憶ではあったが、彼はすっかり忘れていたのである。
 ほかに今のところ思い当たる人間もいないし、一日一万歩の日課の目標も毎日同じ順路になってしまっているし、散歩がてら行ってみることにしたのである。彼は新宿区のZ町に住んでいた。もっとも昨年の名簿だから今もそこにいるかどうかは分からない。番地から見るとマンションではなくて一軒家のようだ。白日夢つまり彼の知覚に突然飛び込んでくる映像では周りを低層階のマンション風の洋館に取り囲まれた日本家屋の一軒家なのである。はたしてそこが白日夢に現れるロケイションかどうかお楽しみというわけである。
 方向感覚の取りにくい街であった。道幅がやけに広く交通量が多い通りが不規則にぶっちがいに交差している。あらかじめ地図で新宿よりを右に入ると確認しておいたのだが、方向が分からない。結局三つ四つ違う街に入り込みようやく目的の街にたどり着いた。
 大通りから車一台がようやく通れるような曲がりくねった道を入り込む。道の両側には三階建てくらいのあまり広くない地所にむりやり建てたような低層マンションが立ち並んでいる。また、一昔前までは日本家屋だったのだろうが、代替わりでコンクリートの洋館に建て替えられたらしい家屋がある。家屋やマンションの間にはすきまがない。なにか気の滅入るような街だ。昼下がりの街には人通りがない。猫や犬も一匹もいない。とうとう日本家屋が残っているところは見つからなかった。

 


幽霊語である人格

2022-10-07 07:34:50 | 小説みたいなもの

 類縁語というか、別名というか人格と言うことばほど、親戚が多い言葉は無い。そして語釈というか定義のない言葉群はない。
 たとえば、テレビという商品がある。エアコンと言う商品がある。これには別称と言うものがない。ま、エアコンは(電気)冷房、暖房と言うことばもあるがほとんど使われない。スマホもほかに呼びようがない。ガラケーなら携帯電話と言う別称があるが、ほかに言い方は無い。そして定義しようと思えば、べつに定義する必要も無いのであるが、ずばり定義できる。定義するのもバカバカしいほど言葉にまぎれがない。パソコンも歴史的には、ワンボードマイコン、マイコン、ラップトップコンピュータと変遷してきたが今はパソコン以外は通用しないだろう。
 人格の類縁語、あるいは同義語と思われるものは多数ある。個性、自己、個人、自我、英語で言えばペルソナ(パーソン)、エゴ、セルフなど。もっとも辞書には定義がある。広辞苑によれば人格とは「道徳的行為の主体としての個人」であるとし、「自己決定的な自律的意思を有し、それ自身が目的自体であるところの個人」とある。前半はともかく後段はなにを言っているのかわからない。
 哲学者の言及はもっとばらばらで統一的な見解は無い。現代の心理学でまともな定義があるとも思えない。ヒュームの言葉はちと面白いから引用してみる。「人間とはおもいも及ばない速さで次々に継起する、様々な知覚の束ないし集合にすぎない」
 フロイトなんかによるとエゴと言うのは(性的)欲望の屈折した表現となるらしい。


アブサン

2022-10-05 08:27:46 | 小説みたいなもの

 秀夫がパソコンを開いて随想風の日記をつけていると電話がなった。裕子からだった。しばらくしてチャイムがなった。このごろ、彼女は不定期的に来るようになった。そうして部屋をいじくりまわしていく。なんだか部屋の共同所有者になったような有様なのである。
 インテリアデザイナー志望で、今はしがないOLの彼女は彼の部屋をいじくりまわしてインテリアデザインの実験台にしている。彼も部屋が片付いていいのでやらせているのだが、困るのはやたらと本の整理をすることである。机の上、床の上に放り出してある本を彼女流の分類方法で整理してくれるのだが、その分類法がまったくわからない。本と言うものは散らかっていても当人は何処にどういう本があって、どこにこれはどうしようもない本で処分しようとしている駄本があるかは、頭の中にはいっている。だから必要な本を探すのに手間はかからない。それが彼女の分類法でやられると、あの本は何処かな、と半日探し回ることになる。半日探しても出てこないこともある。そして翌日ひょっこり見つける。しかし彼の部屋の汚れの一番の原因は書籍なのだから、彼女も彼が苦情を言ってもとりあわない。
 汚れた食器や流しはピカピカにしてくれるし、隅々まで電気掃除機をかけてくれるし、溜まった郵便物はきちんと整理してくれるので、うっかりして処理しなければならない通知などを見落とすこともなくなった。そういうわけでトータルに判断して彼女の整理に任せてあるのだ。
 整理が一段落すると彼女は冷蔵庫から缶ビールを取り出して呷った。唇の周りの泡を手の甲で拭うと彼のそばに来て何をしているの、とパソコンをのぞき込んだ。日記は秘密ではない。もともと、例の暑気あたり後の発作で精神に変調を覚えた後、大学病院でチンピラの医局員にいじくりまわされるのが嫌で、日記を書いて、読み返し、まともかどうか自己診断をしている。だから第三者に見せるのはむしろ求めているのだ。まして彼女は広告の仕事でコピーライターみたなことや、プレスリリースを書いたりもしているから感想を聞くのには適しているだろう。
「フーン、アブサンか」
「飲んだことあるのか」
「無いけど、ある意味で有名な酒だよ。麻薬みたいな効果があるらしい。ボードレールとかピカソなんかが愛飲していたんだよ。いまではフランスでは禁止されているんじゃないかな」
「だけど日本では作っていないだろう。どうせ輸入しかないんだろう。密輸かな」
「いや、そうじゃないでしょう。アブサンと言っても昔のとは成分や製法、原料が違うんじゃないかな。それで飲んでみてどうだった」
「小さなグラスで一杯だけだから別に素敵な効果もなかったな」

 


古本屋で見つけた本から

2022-10-02 07:38:21 | 小説みたいなもの

 彼はあまり古本屋に寄らないのだが、三省堂も長期工事に入ったし、神保町の書店めぐりもすぐ終わってしまう。そこで毎日一万歩の目標を達成するために、最近は古本屋をのぞくこともある。そこで買った本に次のようなことが書いてある。
& 透視と言うのは一方から他方を見るということである。障害物があるとか、非常に遠方にあって普通は見ることが出来ないものを見るということだ。他人の内心の考えを言い当てるような場合も場合によっては透視というかもしれない。一般に超能力のひとつとされる。
 では非常に遠方にある人間の知覚や表象を共有するのをなんというか。憑依と言うのとはちょっと違う。憑依と言うのは一方の人間の意思や命令が相手方に向けられる。つまりとりつくことだ。二人の力関係である。一方が他方を支配する。場合によっては相手はお狐さんだったりマルクスだったりするが。ただ単に相手の見るものを見、聞くものを聞くという現象は、そういう現象があるとして、何というのか。千里眼というのかな。
 その場合、Aという個人の見ていること、聞いていることが空中を伝わってBというまったく関係のない相手に伝わらなければならない。しかも瞬時にというか同時に。こんなことがあるのかどうか。検証が十分に行われているとは言えないが、古来そういう例が報告されている。哲学者のカントなども「視霊者の夢」なる論文をものしている。カントは事実は認めるが検証や説明は不可能であると書いている。この場合、オカルト現象の体験者がスウェーデンの著名な科学者であって、報告が疑えなかったからであろう。彼の名をスウェーデンボルグという。
 彼は旅行中数百キロ離れたストックホルムの大火を同時刻に「見た」というのである。この場合「見た」と言うのが直接見たのか、ストックホルムの住民例えば彼の知人が見たことが400キロの空中を瞬時に奔ったのかはカントの論文やスウェーデンボルグの伝記では不明である。カントもそこまで分析していない。うかつと言えば迂闊な話である。
 いずれにせよ、この事件がスウェーデンボルグが本格的に霊的問題に取り組む一つの機縁にはなっているらしい。
 そこでだ、そういうことがあるとして、その場合キャリアは何だということである。二地点間で影響しあう場合には必ず仲介者がいなければならない。離れた空間で影響しあうのは代表的なところでは引力や磁力がある。また光は物象を運ぶ媒体となる。じゃあスウェーデンボルグのような場合は何なのだ。一番可能性があるのはやはり「ひかり」か同様の伝播力を持つ電波かニュートリノのような素粒子の仲間だろう。光や電波は一秒で地球を七周半だかする。400キロなんてメじゃない。&
 フムフムと唸って彼はしばし本を置いたのである。


からまれる

2022-09-30 07:58:14 | 小説みたいなもの

 ここ数日パソコンからプリントをしようとすると、インクが切れていますと表示される。大体においてこういう場合面倒くさいからなかなか新しいインクを買いに行かない。それでも脅迫的な「インクがございません」と言う表示が出ても二週間ぐらいは正常にプリントできる。かすれもしない。もっともそう大量に毎日印刷しているわけでもない。

 しかし、新宿で昼飯を食った後で、たしか西口にパソコン関係の量販店があることを思い出して、インクを買うかと駅前の大通りを渡り、ごみごみとした通りを大型量販店に向かったのである。

 相変わらず人出が多い。スマホを見ながら前をよく見ずに歩いている若い男女が多い。前の人間にぶつからないようにと前の歩行者の背中を見ながら注意して歩いていると、ちょうど前を歩いていた背の低い男がいきなり振り返り、すごい形相で因縁をつけてきた。怒鳴り声は大きかったが何を言っているのかは把握できなかった。なにか気に障るようなことがあったらしい。しかし、こちらはスマホを見ていて前方を注意していなかったわけではなく、距離を開けて歩いていた。わけが分からない。ぶつからないようにその男のボサボサの白髪交じりの後頭部に注意していただけである。

 新宿の雑踏にはおかしな人間が多い。こういう時に、たんに「何ですか」と反問しただけで更に逆上する連中がいる。慌てて立ち止まって相手を観察した。その男は年齢は3,40歳ぐらいで崩れた感じの自称アルチザン風とも取れた。自由業と言うか、芸能界の縁辺に巣食ういわゆる自由業のルンペン芸能人ともとれないこともない。

 髪を長くのばし、櫛も入れていない。顔の皮膚は睡眠不足を思わせるどす黒く、病的に疲弊した感じである。後ろから歩いてくる私がなにか触ったか何かしたと勘違いしているらしい。場所柄、ドラッグに酩酊した芸術家風の男が多いのかもしれない。 勝手に妄想にとらわれているのだろう。

 私は用心深く距離を保ったまま状況を見極めようとした。相手の男はそのうちに自分の錯覚と悟ったのか、再び前に歩き出した。ヤレヤレ、今日は厄日になりそうだと嘆息した。こういう特異な日は妙なことに続けて変なことに遭うことが多い。注意しようと思った。

 


ある朝

2022-09-25 08:48:36 | 小説みたいなもの

 腎臓が早朝の活動を始め彼の脳髄に信号を送り始めた。
「起きたの」と横に寝ていた裕子が言った。
「うん、何時かな」
 彼女は「ヨッコラショ」とけだるそうに掛け声をかけてベッドからすべり降りると窓際に行ってカーテンを引いた。まだ日は出ていない。外は暗い。交通信号の明滅がわずかに室内を明るくしていた。
「まだ五時前だよ」と彼女は伸びをしながら答えた。「あなた、寝言を言うのね」
またか、と彼は不安に思いながら「なんて言ってた」と聞いた。
「うーん、なんだか同じことを繰り返していたみたい」
「そんなに長いこと言っていたのか」
「そうね」
「『おかしいな』とか『どうして迷っちゃったのかな』とか、そうそう『もう二時間も迷っている』とかね」
 また定番の夢を見たんだな、と彼は思った。彼は今夜の夢はもう思い出せなかったが、かれがしばしば見る夢がいくつかあって、まったく同じパターンなのだ。その一つに迷子バージョンと言うのがある。
 いつも同じ場所と言うか情景で、どうも大きな駅、上野駅の周辺のように思えるところで道に迷う。どこに行こうとしているのかは目覚めてから考えても分からない。自宅でもなさそうだし、会社でもなさそうだ。とにかく目的地に行こうとして同じところに戻ってきてしまうというバージョンである。上野駅ではなくて、どこか旅行先でホテルに行こうとしているのかもしれない。
「きっとその夢を見ていたんだな。寝言を言っているとは分からなかった」と彼女に説明した。
「なんだかフロイトの夢判断に出てきそうな話だね。彼ならきっともっともらしい解釈をでっちあげるかもね」と大学の一般教養で心理学を齧った彼女は言った。
「彼ならどう解釈するのかな」
「そうねえ、そのデスティネイションと言うのは人生の目的ととらえるかもね。どうしても自分の人生目的がつかめないで悩んでいるとかね」
「なるほど、説得力があるな。実際おれに当てはまるよ。よくさ、小学校やなんかで将来は何になりたいか、なんて卒業文集に書かせるじゃないか。みんな結構具体的に書くんだよね。だけどオレにはそういうものがなかったな」
「それでなんて書いたの」
「ま、適当にね。本当はそんなものになりたくなくても野球選手だとか、医者だとかさ、皆が書きそうな無難なことを書いとくのさ。ところで裕子は何になりたかったんだい。いいお嫁さんになりたいとかかい」
「馬鹿にしないでよ」と彼女は気色ばんで口を尖らせた。
 彼は慌てて言った。「現在もさ、会社を辞めて、これから何をしようかと言うことも決められなくてさ」
「一生の問題と言うわけ」
「そうらしい」
「駄目ねえ」と彼女は決めつけるように言った。

 


失われし時を求めて 10

2022-07-04 07:51:26 | 小説みたいなもの

 さて今回はジークムントのフロちゃんの話である。そう、あの東欧からのユダヤ難民の子であるジークムント・フロイトである。古代ギリシャ悲劇の傑作エディプス王(オイディプス王)を幼児ポルノに貶めた男である。
 精神分析と言う妙なカルトの創始者である。現代のフランスの哲学者あたりが持ち上げている男である。精神分析と言うのも所詮は記憶の話なんだね。むかし、主として幼児の時に父親から割礼される恐怖の記憶とか、母親に対する性欲とかの記憶が抑圧され変形されて大人になってからも悪さをしているというわけである。
 彼らの理屈によると、そういう大昔の記憶が変形されて大人になった自分の体の不調として悪さをしているという話だ。だから煎じ詰めるとこれは記憶をめぐる大衆科学の一種なのだ。記憶は変形されて何十年たっても悪さをしている。しかし、その記憶を変形から元の形に復元すれば問題解決と言うわけだ。
 だから、大昔の記憶は変形されずにいつまでも残っているという前提に立っている。この限りではベルクソンと同じだ。同じなのはそこまでだけどね。ベルグソンはそれを哲学に仕立て上げる。フロイトは幼児ポルノに変形する。その辺がフランスの哲学者には受ける。
 ベルクソンとは生没年ともほとんど同じだが、交渉は無かったようだ。


失われし時を求めて 9 

2022-07-01 07:03:14 | 小説みたいなもの

 アメリカの連邦最高裁が妊娠中絶が重大犯罪であるとの判決を出した。ところが日本のマスコミは超パカだから痒いところにまで孫の手が届くような適切な報道が皆無である。

 どうして「失われし時をもとめて」のテーマと関係あるのだ、とのご疑念ごもっともなれど、これが大ありなんだね。

 妊娠中絶に対してどういう量刑が課されるのか報道がない。ま、実際には各州の最高裁か州議会が法律で定めるのだろうが、30年前だっけ、何州かでは犯罪だったのだから参考事例はあるだろう。何の報道もないから調べてみたら(私がするのだからきわめて荒っぽい調査だが)、ある州では懲役10年、罰金10万ドルになるらしい。

 これは妊婦に対する刑罰なのか、中絶手術をする医師やもぐり医師に対するものかはっきりとしない。適用される刑法は殺人罪なのかもはっきりとしない。殺人罪なら懲役10年というのは軽すぎるようだ。双子だったらどうするのかな。死刑になるのか。

 それと、連邦最高裁によると「妊娠十五か月以上の妊娠中絶は犯罪」というのだが、この解説がマスコミにはない。なんで十五か月なんだ。胎児も受胎後十五か月で人間になるというのか、人格があるというのか、きわめて重要なポイントで根拠を報道するのが小学生マスコミの義務だろう。

 胎児は受胎後早い時期に記憶をつかさどる脳の海馬が出来てくるという。感覚も発達するらしい。腹の中じゃ目が見えないから視覚は必要がないからともかく、聴覚は発達するらしい。羊水を通して外界の音を聞いているそうだ。

 触覚はもちろんできてくる。母親の喜怒哀楽、ストレス、幸福感、嫌悪感は母親のホルモン分泌を変化させるだろう。胎児はそれをもろに感知し記憶する。また、母親が嬉しかったり安心すれば胎児を包む筋肉は弛緩する。嫌悪恐怖に襲われれば筋肉は収縮して胎児を圧迫する。それらは発達してきた胎児の海馬に蓄積される。分娩後も当然脳内に記憶として残る。もっとも記憶の先入れ後出し原則でよほどのことがない限り意識の表面に浮上してこないだろう。

 というわけで、十五か月問題というのは重要なのがお分かりいただけただろうか。

 もっとも、これはベルクソン同様すべての記憶は完璧に記憶されて消滅することはないという理解に基づいている。ベルクソンはたしか『イマージュ』の堆積といったかな。

 


失われし時を求めて 8

2022-06-28 07:38:21 | 小説みたいなもの

 スズメの寿命って知ってますか。ある年寄りの回顧談を聞いて今朝調べた。例によってインターネットであるが。これがはっきりとした記録がないらしい。一年と言うものもあり、運がよければ十年以上生きるという説があるようだ。寿命と言うよりも大体一年以内に天敵に食べられてしまうらしい。
 最近は市街地でもスズメを見かける。人のすぐそばまで来る。一メートルくらいまで近寄っても逃げない。どうもここ数年のことのような気がしていたら、町の手配師をしている老人が「昔は町ではスズメなんかいなかったし、すぐ逃げてしまう」と言った。
* 図々しい「生活保護者」みたいな鳩と違ってスズメは独立心が旺盛なのだろう。*
*この一行差しさわりがあれば削除してください。プログ担当者殿。
 たしか一茶の句に「われと来て遊べや 親のないスズメ」なんてあったと思うから江戸時代には人懐っこかったのかな。
さて、くだんの老人の話であるが、戦後の一時期の話らしい、食糧難の日本ではスズメを見るとみんな目の色を変えて捕まえて食べてしまったらしい。スズメ焼きなんてのもあったね、いまでもあるのかしら。最近は日本も豊かになったからスズメを捕まえて食おうとする人もなくなった。
 数年前まで、つまり戦後の超食糧難が去ってから何十年もたってもスズメは人間になじまないのはどういうわけだ、と考えたね、これは前世の記憶だね、きっと。「人間は怖い、捕まえられて食べられるから、人間を見たら逃げろ」とスズメの親から子へ、子から孫へと遺伝情報が伝達されたのだろう。それが長い間残っていたが、最近ようやく消えたということだ、ネ。
 つまり父母未生以前の記憶の世代間伝達なのである。これも使えそうなネタだ。

 


失われし時を求めて 7 

2022-06-27 06:35:21 | 小説みたいなもの

 なぜ今頃、西田幾多郎に手を出したか。遅ればせながらベルクソンを調べたからである。なぜベルクソンか、プルーストの失われた時を求めて、を齧ったからである。なぜ、もういいよ、やめろと言われそうだが、Buried Giant もとえ、埋もれた記憶についてチト書いてみたいと思ったからである。それで参考書をピックアップしていると上記のようなメニューになったというわけである。
 ところでプルーストはベルクソンと遠い親戚だったらしい。初めて知ったのだが。プルーストの略年譜によると二十一歳の時にベルクソンの結婚式で付き添い役を務めた。遠縁にあたるらしいが、確認できなかった。ベルクソンは十二歳年上だがほぼ同時代人だ。おたがいの著書に相互参照はないようだが、全部読んでいないので確認できない。
 いずれも記憶にこだわるところは共通している。ベルクソンは1927年にノーベル文学賞を受賞している。彼は哲学関係の論文以外に小説や詩は発表していないようだが、ボブ・ジュランだっけ、歌うたいで文学作品も書いていないのに文学賞を貰っている例もある。もっともプルーストは1922年に死亡しているのでいずれにしてもベルクソンかプルーストかという選択はノーベル賞選考委員たちにはなかったが。
 ベルクソンの授賞理由は明晰な文章云々だったらしいが、読んでみると全く混乱しているような印象だけどね。もっとも日本語の翻訳の印象だが。彼は父がユダヤ系フランス人で母親はイギリス人である。そのせいか、彼の英文のほうは明晰なようだ。これは彼が英文で書いたという「物質と記憶」の序文の日本語訳を読んだ印象である。
 カズオ・イシグロの小説ではないが、ベルクソンは二十世紀を通じてburied giantという感じだ。
二十世紀の後半になって若干の再評価の動きがあるようだが、フランスでも忘れられた存在、傍系の哲学者というところだが、ハチャメチャなところが読んでみると面白い。
 カントやフッサール、ハイデガーの系列ではなくてヘーゲルとアルゴリズムが似ていると言ったら言い過ぎかな。主観としても彼岸としても超越論的存在を認めないこと、二元論から一元論に流れ込むところ、時の流れの中ですべては潜勢力として存在し続けるところ、などヘーゲルの発想と類似性がある。
 ベルクソンにはミナ・ベルクソンあらためモイナ・メイザースと言う、すごい超能力者の妹がいた。「猫使いの黒魔術師」としてダイアン・フォーチュンに恐れられた。イギリスのオカルト結社「黄金の夜明け」のメンバーである。黄金の夜明け集団のリーダーであるメイザースと結婚した。
 ダイアン・フォーチュンの「心霊的自己防衛」はその辺の心霊戦争の経緯から書かれたらしい。フォーチュンはいまでも「精神世界フリーク」の女性には人気のある作家である。書店の精神世界コーナーには今でも著書が置いてある。
 そういうわけで、埋もれた記憶という地雷を掘り起こすのにはまだ時間がかかりそうだ。現在有力な手掛かりは禅の公案で夏目漱石を悩ませた『父母未生以前の本性の面目は如何』だったかな、あたりが気になっている。

 


失われし時を求めて 6 

2022-06-26 07:09:06 | 小説みたいなもの

 今回も「善の研究」関連なのだが、前回なぜもっとも影響を受けたと思われるベルクソンの著書に西田が触れていないのか、と疑問を呈した。若干筆者の見解を述べる。推測である。
 善の研究初版が出たのは明治44年である。日本にはベルクソンはまだ紹介されていない。西田はベルクソンを英訳で読んだと、どこかで読んだ記憶がある。日本の論壇や哲学界にはまだ知られていない哲学者であり、フランス語でなくて英訳で読んだという経緯が出典としてベルクソンをあげるのを躊躇した原因である可能性がある。   確かの職業的哲学者としてベルグソンの英訳の何ページ云々と言うかたちの文献参照はメンツから行ってもしにくかったであろう。
 さて、大正時代に入るとベルクソンの一大ブームが日本の論壇、哲学界で巻き起こる。「早もの食いで手の速い」小林秀雄などもブームに乗ったほうである。ところが、ブームはあっという間に短期間で終息した。十年も続いたかどうか。ある論文によると、これはラッセルがベルグソンの根本概念の一つである『イマージュ』という言葉が曖昧で間違った使い方をしていると批判したのがきっかけだそうだ。
 善の研究はその後版を重ねているが、西田は再版後もベルクソンへの言及をしていない。否定的な流れでブームが否定されたので「知らんぷり」をしたのだろう。日本でベルクソンが細々と復活したのは戦後、しかも最近のことである。したがって善の研究のベルクソン・パートは西田の独創として受け取られ続けたのだろう。日本人はベルクソンを否定しても、その原因など知らなかったのだ。西田は独創的な日本独自の哲学者として認められ続けた。
 断っておくが以上は西田哲学の形而上学的部分である。道徳論、宗教観では日本独自のものがあるのかもしれない。その辺は読んでいないから判断できない。

 


失われし時を求めて 4 

2022-06-25 07:09:07 | 小説みたいなもの

 西田幾多郎の「善の研究」を読んだ、半分ほど舐めただけだが。いままで一ページも西田幾多郎を読んだことが無い。いわゆる食わず嫌いだろう。タイトルがよくない。「善の研究」というから抹香臭い倫理学と言うか道徳論だろうと敬遠していた。「膳の研究」なら多少は自炊の参考になると、読んだかもしれない。
 哲学といってもいろいろな分野がある。どんな学問領域でも原論的な部分と各論がある。哲学で言えば、原論は形而上学とか第一哲学と言われる分野だろう。論理学もそのうちに入るかもしれない。各論としては、哲学では、倫理学、宗教学(論)、美学、法学(法哲学)などであろうか。

 私はどの哲学者のものでも各論には興味がない。これは長年の読書経験から来たもので、まあ、簡単に言い切れば、たわいのないものが多いというか、面白くない、無味乾燥なものが多かったからである。各論の中でも倫理学は特に苦手である。そんなことは自分で考えればよろしい。誰が考えても似たような結論になっている。
漫才哲学師として哲学に淫するのはその「奇想の系譜」を辿る楽しみである。形而上学でなければならんわけである。
 さて日頃の選書基準を無視して、なぜ『善の研究』を選んだか。こういうわけがあったのである。ある書店で本棚にない本の在庫があるかどうか店員に調べてもらった。親切な店員でほかの階まで在庫を探しに行ってくれた。随分長いこと待たされたので、そのあいだ、手持無沙汰で手前の平積みの台にある該書を何気なく手に取った。パラパラとめくると目次に「純粋経験」なんてある。おやW ジェイムスかベルクソンと関係あるかなと註をみるとジェイムスのことらしい。現在『記憶』という厄介な問題をテーマに書こうかなと調べていたのでチョイと読んでみるかな、と言う気になった。
 豪勢な内容の本でわずか300ページ余りに原論、倫理学、宗教学が詰まっている。勿論倫理学や宗教論は読まなかった。だから最初の半分くらいしか読んでいない。


失われし時を求めて 3 

2022-06-22 06:35:46 | 小説みたいなもの

 さてプルーストの該書であるが、ポジションリポートは相変わらず第一巻180ページである。前回以降、1ページも進んでいない。ウクライナ戦線のように膠着している。
 この「回想記」が何歳ごろから始まったのか。プルーストによる「ポジションリポート」はどこにも見当たらないようだ。恐ろしく不自然な感を受ける。そのほかの記述が微に入り際にわたっているわりには、極めて重要であると思われるところが抜けている。敵もさるもの、意図的なのだろうか。
 前後の記述の推測からすると十歳ころからと見える。それと不自然なのは友達の話が全然出てこない。子供の回想としては極めて不自然である。彼(主人公)は小学校に行ってはいなかったのだろう。当時の慣習として貴族とか富裕なブルジョワの子弟の初等教育は家庭教師によるのが普通だったらしいから。それにしても家庭教師の話も出てこない。裕福な家庭では親が直接初等教育の手ほどきをしていた可能性もあるが、その記述も皆無である。たとえそうであっても、遊び友達はいたと考えるのが普通だが、そういう人物も全く出てこない。ほかの家族などの描写が馬鹿に詳しいのに比べて不自然の印象は否めない。
 これはまだ小説では読んでいないが、第一巻の巻末にあるプルーストの略年譜によると、十一歳で高等中学校に入学している。やはり初等教育は何らかの形で家庭で行われたようだ。此の部分をなぜ完全オミットしたのか分からない。
 これは読む前に高望みをしたようだが、「失われし時を求めて」というタイトルからもっと幼児からの記憶を思い出して書いたものと期待していたので失望した。十歳ぐらいのことは断片的であっても誰でも記憶しているものだ。あるいは時に触れて、別にマドレーヌの匂いをかがなくても思い出すものである。
 それに、フロイトではないが、幼児の「喪失した記憶」あるいは「抑圧された記憶」のほうが、将来はじけた時にはダイナマイトのような衝撃力が秘められている。わたしの早とちりのせいでいささか失望した。


失われし時を求めて 2 

2022-06-18 07:12:12 | 小説みたいなもの

 プルーストの「失われし時を求めて」の岩波文庫本の1と14を買った。何しろ全部で14分冊もある。とても全部は読めないだろうとはじめと終わりを買ったわけだ。1の180ページほど読んだが平板で退屈だね。記憶の戻ってくるのは訳者によれば「無意志的記憶による過去の再生」なんだそうだが、これは『記憶の無意志的な再生(想起)』とすべきではないか。そうしないと訳が分からない。
例の「紅茶に浸してトロンと柔らかくなったマドレーヌ(菓子)を口に含んだら昔のことを自然に映画一巻分くらい詳細に思い出した」という有名な(どうして有名か分からないのだが)記述もあった。とにかく記述者は臭覚あるいは味覚が記憶再生の入り口らしい。
 また、起きた時の反覚醒状態で今までに住んでいたすべての家の寝室の情景をことごとく思い出す、という記述も趣向なのだろう。寝起きは意識がはっきりしないし、思い出そうという意志も発動していないからね。
そういう断りをいれてこれから書くことは無意志的記憶ですよ、と延々と記述が続く。記述は時系列でやけに細かい。描写にひねりや変な加工はないようだ。極めて現実的、写実的で伝統的な記述方法である。ユダヤ系のブルジョワ大家族の地方都市やパリでの生活が延々と記述されている。
 時はナポレオン三世の後の第?共和制の十九世紀世紀末のことだ。どうもこの時代背景は我々にはすっきりと入ってこない。ちなみにプルーストの生没年は夏目漱石と重なる。幕末明治初期に生まれ大正時代に無くなっている。小説の背景に描かれている社会は漱石のほうがずっと現代の日本に近い印象を与える。
 と言うわけで、「失われし時を求めて」の内容はあまり参考にはなりそうもない。