「失われし時を求めて」という有名な小説があることは知っている。しかし読んだことはないのである。したがってこれから漫然と描き続ける事柄は題名のパクリではあるが内容のパクリではない。もっとも、今回の執筆を機会にプルーストの小説を読もうと思っているので、内容までがパクり気味になっていく可能性は大いにある。
さて記憶と言うものは在庫管理の用語で言えば、「後入れ先出し」だと思うのだ。したがって古い記憶は脳底の古層に堆積する。もっとも、これは記憶が何らかの形でいつまでも保持されるとの仮定によるものだが。記憶の保持力の強さの問題のほかに正確さの問題点がある。つまり記憶はビデオテープの動画のように再生されるのか、歪んで変形されて引っ張り出されるのかという問題である。人によってはこれを「屈折されて」と表現する。
これはシロかクロかの二分法で両断できるものではない。両断できるとするのが刑事法廷での幼稚な大前提ではあるのである。
古い記憶と言うのはなかなか再生が難しい。いくつかの理由があるのだが、経験、あるいは体験が前にも述べたように記憶として堆積していく過程で「後入れ先出し」、つまり逆に言えば「先入れ後出し」だから普通はなかなか出てこない。記憶には二種ある。再生したくない記憶がまずある。誰だっていやなことは思い出したくない。あるいはまずいことをしたな、とか罪悪感が伴う記憶と言うのは思い出したくない。当たり前のことである。逆に言えば楽しい経験は意識の表層に浮かび上がるのに何の苦労もない。
また、後入れ先出し、つまり「先入れ後出し」の結果として古い記憶は新しい記憶の底で上からの圧力で浮かび上がることが難しいという当然の理がある。地下深くに埋もれたものが表層に浮かび出て日の光を浴びるのは、通常大雨の後の大規模な地滑りでお天道さまを拝む場合である。あるいは大地震や大地殻変動で古層がむき出しになる場合である。
記憶の場合で言えば、表面の層が破壊された場合である。それは大病で意識の上層が破壊されてぽっかりと穴が開いた場合である。また、強烈なショックを受けて表層が崩れ落ちた場合である。