穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「存在」を問うのは祈りか呪文か

2015-04-11 08:01:44 | ハイデッガー

ハイデガーは「俺が初めて(彼の言葉に従えば、古代ギリシャ以来初めて、すなわち元初二回目)、存在を問うたのである。形而上学のすべての在庫を破棄する」とうたいあげる。

何が何でも俺がオリジナルだということだが、本当にそんな独創性があるのだろうか。言葉の目くらましは万華鏡の様にばらまかれるが本当に独創的なのか。

これまで読んだところによって判断すると、彼はきわめて従来的な枠組みの中で理論を構築している。たしかに言葉はあたらしい。造語のオンパレードである。 

彼の哲学の類似性はキリスト教神学とのあいだに強い。もとイエズス会修道士希望者(注)なら当然かも知れない。以下に枠組み対応表を作成してみた。A:とあるのは西欧哲学ないしキリスト教神学など(含む異端魔道)の思想である。B:と有るのはハイデガーの哲学である。

1:彼岸と此岸

A:神、天界、霊界、彼岸、イデアの世界

B:存在

 

2:祈り

A:祈り、祈祷、呪文(魔道)

B:絶えること無く反復される存在への問い(朝昼晩何回となく勤行で称えられる祈祷、読経のようなものだ)

 

3:チャンネル

A:原則として彼岸からの一方通行(ダウンロード・オンリー。ただし魔道魔術においては呪文や儀式により下界から操作可能)

宗教、宗派によって色々に呼ばれる、啓示、さとり、回心

B:上に同じ。用語としては開示、あらわれ、不伏蔵などいろいろ造語がある。

 

4:コミュニケーションの規則性

A:なし 恩寵によって与えられる

B:なし 全くの偶然、或は存在の恣意による。だから問いを絶やさずに身構えていなければならないわけである。

 

5:コミュニケーション言語による伝達可能性

A:なし、というのが一般的である。禅:不立文字 聖書:喩えによらでは答え給わず

B:なし、段落115:

「存在者を存在においてとらえることは、・・・・たいていはことばがかけているばかりでなく、『文法』が欠落している。」

 

ほかにも色々と項目はあるだろうが、ハイデガーは従来型の宗教的思考の枠組みのなかにあると結論せざるを得ない。

 


ハイデガーは何回「存在」を看たか?存在と時間を読む-9

2015-04-09 09:07:46 | ハイデッガー

第七節C 現象学の予備的概念:

この節にはハイデガーには珍しく、気の利いた文章がある。比較的整理された文章である。

(109) 『存在は』隠されている、埋もれている、あるいは偽装されていることがある、云々 

(112) それゆえ、発掘を目ざすにはまず、存在者自身を正しく提出することが必要である。

(113) 事象からすれば、現象学とは存在者の存在の学—つまり存在論である。

注:これは(103)の:「現象学」は研究の対象を名指すものではない(つまり方法論である)と矛盾する。

(113)同段落では現象学は解釈学であるとの言明が複数回繰り返されているが、解釈学とはなにか説明なし。範例的な現存在(ニーチェなど)の残したテクストを解釈するということかな。

(114) 存在の一般性は類より高い所にもとめられなければならない。(うまく逃げたな・・・つまり存在者を扱う普遍、類、種概念とは範疇が違う、だからもっとも一般的な概念である、と主張する、存在概念を修飾してもなんら影響は無いということなのだろう。)

だから、「存在とは端的に超越概念なのである(きまった)。

きめは段落117である。

(117) 以下の分析の中でもちいられる表現のぎこちなさと「つたなさ」については、つぎの注記をくわてもよいだろう。つまり・・

以下長くなるから引用でなく要約して示すと

「存在」を捉えること(あるいは体験すること)と「存在」を物語ることは別である。「存在」を物語る言葉は無いばかりでなく文法もないのである。それを文章で表現しようとするから、私ハイデガーの文章の表現はつたなくぎこちなくなるのである。了解されたし、読者殿:となる。

ちなみに、これを禅の言葉で表現すると不立文字(フリュウモンジ)という。言葉では伝達し得ない真理ということである。キリストの弟子の言葉でいえば「師は喩えならでは何事も語り給わず」となる。そしてキリストは、聖書の記述を読めば喩えの超天才であった。 

この節は、H氏には珍しく明晰な文章がおおく、彼自身もそれを自覚した余裕からであろうか、上述の「おわび」が出たと思われる。

 


 追いつめられて?「存在と時間」を読む-8

2015-04-08 07:25:10 | ハイデッガー

第七節 「探求の現象学的方法」を十頁ほど読んだ。読んだ、というのが正確な表現なのか。読んだ=理解した(同意した)、というなら視線をすべらせた、というのが正確かも知れない。 

まさにjargon(たわごと)の見本のような文章である。上品な読み手なら本能的な嫌悪感を覚えるところである(言い過ぎたね)。jargonには仲間内の用語つまり隠語という語釈もある。仲間内では十分に通用するのだろう。

これが現代哲学の二大潮流というのだとか。あと一つはなにかな。現象学という言葉を使った人は前からいるようだが、『売り』にしだしたのはフッサールからハイデガーそしてその追随者ということらしい。

19世紀の末には、科学の勃興に押されて哲学は影が薄くなった。それにつれて論理実証主義とか分析哲学が芽を吹き出した。大変だというので紙と鉛筆で出来る「哲学」を必死になって模索したわけだ。

特に脅威を感じたのは、認識論の生物学主義、心理主義であったらしい。哲学が諸学の王であるためには、紙(原稿と本)と鉛筆でも研究出来る基礎理論が欲しい。心情としてはわかる。 

前にも書いたが、確かに「科学哲学」には創造的なところはない。ウィトゲンシュタインがある著書の末尾に書いている様に、「種々語ったが結局何も語っていない」。そうだろう、分析的命題の分析に終始すれば、それは文章の推敲(明晰化)しかできない。新しい成果は総合命題でしか得られないのだから。 

中世、哲学は神学のハシタメだと言われた。現代の分析哲学、科学哲学は科学の端女(はしため)にすぎない(注)。科学の成果の整理分類は出来ても科学を先導することはできない。お手伝いさんなのである、ヘルプなのである。

注:20世紀の後半から分析哲学とスコラ哲学の類似性が研究されだしたのもその証左だろう。

フッサールやハイデガーがハシタメじゃ嫌だというのは分かる。しかしjargonに逃げ込むのは感心しない。

何回か前の記事にハイデガーは注釈書ではなくて、原文(翻訳でも可)で読むべきだと書いた。分かりやすいと書いた。上述と違うじゃないかと言われるかも知れないので補足しておく。

解説書とか注釈書というのは弟子、孫弟子、押し掛け弟子が書く。「師匠」という商品を売るためには商品を魅力的にパッケージしなければならない。また、当然のことながら師匠を賛美する。そのためには、出来るだけ分かりやすく、反感を持たれない様に、師匠の顔をお化粧をする。

つまり、師匠の素顔は見えなくなるのである。このような意味で原文を読むことを薦めている。師匠の素顔がわかるからである。

 


「存在と時間」を読む-7-存在への問いは知的な問いなのか

2015-04-07 08:54:42 | ハイデッガー

段落68; 「有事性の次元に向う方向へと探求のみちゆきを一歩だけすすめた、あるいは現象自身に強制されてその方向へと押しやられた、最初の、そして唯一の者はカントである。」

同段落訳注2; 「ここで予示されている方向で、カント『純粋理性批判』を解釈しようとした著作が『カントと形而上学の問題(1929年)』である。

ハイデガーの「1953年第七版へのまえがき」;

「存在の問いへの解明に付いては、この新版と同時におなじ書肆から刊行される『形而上学入門』が参照されるべきである」

 

さて、H氏が前書きで併読を指示しているのは自著「形而上学入門」だけである。「カントと形而上学の問題」には一言もふれていない。もっとも、上述引用から分かる様にこの分野でカントの成果は無いと言っている。

誤解のないようにいうと、カントの時間論は感性の直感形式についてであって、いうなれば認識論の鳥羽口というか入り口である。存在論で時間を論じている訳ではなく、ハイデガーの評価も妙である。

訳者の言う様に、「カントと形而上学の問題」と「存在と時間」を関連付けるのは哲学教師や哲学徒におおい意見の様に見受けられるが本当だろうか。勿論私は読んでいないのだが、読む前に評価選択するのは重要なことで、読書思考の経済のために避けて通れない。何時も言う様に「読む前書評」が大切なゆえんである。

そこでハイデガーが前書きで「カントと形而上学」の併読を指示しなかった理由を忖度すると、次のような場合が考えられる。

1:単純に書くのを忘れた。

2:あんまり、自著を色々読ませて読者に負担をかけるのを避けるために省いた。

3:1927年、1929年に書いてはみたものの、その後、存在論に時間を持ち込む観点からはカントの業績は参考にならないと気が付いた。

ちなみに、簡単な書誌をしるすと;

1927年 「存在と時間」刊行

1929年 「カントと形而上学の問題」

1935年 「形而上入門」講義

1953年 「存在と時間」第七版刊行

同年    「形而上学入門」刊行

これから先を読みますが、カントの感性論をいくら読んでも参考にはならなかったのではないかな。

 


「存在と時間」を読む-6-伝承を破壊する意義 ?

2015-04-06 08:43:51 | ハイデッガー

タイトルに入る前に気になることを一つ。いずれも熊野訳ですが、原語も同様或は類似の言葉でしょうから、疑問をかえる必要はないでしょう。 

やたらと、「平均的」と言う言葉が出てくる。算術用語なんでしょうが、たとえば「平均的存在了解」なんて(段落21)ある。ほかにも沢山有る。ありふれたという意味なんでしょうか。非常に違和感があります。

さて、第六節「存在論の歴史の破壊と言う課題」。存在への適切な問いをさぐるのに「・・歴史の破壊」は必要なのでしょうか。どうしてそんな迂回路をとるのか。ずばり本題に入ればいいじゃないですか。

地震(大雪洪水でもいいが)で山中に孤立した村が有る。救出しようにも道路が使えない。こういうときは途中の道路を復旧し、通行を妨げている岩とか土砂を破壊して進まなければならない。そういうことなのでしょうか。どうも事情が違うようだ。直裁に問題にぶつかったらどうなのです。

そしてこの節で名前が挙げられているのは、デカルトとカントぐらいで哲学史の講釈にもなっていない。大げさなタイトルで期待していたのですが。

(59)「現存在の存在は、その意味を時間性のうちに見いだす」

時間ということばはここが初出だと思いました。大いに期待したのですが、「その意味を時間性のうちに見いだす」論証は続いていませんでした。読飛ばせば良いということなのか。

さて、第七節「探求の現象学的方法」。多分現象学とは何か、がわかるでしょう。世に「現象学」なる修飾句を付けた文章は腐るほどあるが、ほとんどこの修飾句を付ける必要がないのではないか、と常々感じております。これから読みますが多いに期待しております。

 


「存在と時間」の読み方-5

2015-04-05 07:27:36 | ハイデッガー

毎朝お騒がせしています。突然ですが、小保方晴子さんはハイデッゲル教授の研究室に入っていればあんなことにならなかったでしょう。

思い込みの強さで86年間も、死後も長い間思想界に大魔王として君臨出来る世界が哲学界です。

さて「問い」を練り上げきれなかったハイデガーでありますが、考えてみると、問いを練り上げるということはますます解答から遠くなるわけです。ジレンマですね。 

「存在への問いについては答えがかけているばかりか、問いそれ自身があいまいで方向を失っていることである。存在の問い(存在への問い、と、存在の問い、はどう違うのか>訳者殿)を反復することが意味するのは、したがって、まず第一に問題設定を十分に仕上げるということなのだ。」(第一節 段落10)

第一に、とありますが、書かれていない第二がありますか。こういう表現にフト、ウィトゲンシュタインを思い出しました。表面的には似ている。設問を有意味に措定しなければ答えがでるわけがないというのがWSの売りですからね。

また、段落64にはこうある。「存在の意味への問い(存在への問い、あるいは存在の問い;この三つの問いは同じもものですか>訳者殿)は解決されていないだけでなく、十分に設定されてもおらず云々」

之によって此れを観るにハイデガーは正しい問い方をすれば存在の問題は簡単に解けると信じ込んでいる。それにしては、終生正しい問い方が分からなかったということでしょう。

問いを十分に設定するということは、縷々エラボレイトする、詳細にする、あるいは具体的にする、と同じことと理解しましたが、「存在への問い」は究極の問いであり、質問を修飾し、細かく規定し、あるいは限定することは究極の、そして根底的で普遍的な問題により具体的な回答を求めることになり、とても適切な通路とは言えないのでは有りませんか。

 


「存在と時間」の読み方-4

2015-04-04 09:14:34 | ハイデッガー

該書の目次は章、節となっていますが、節は章に関係なく、章にまたがってシリアルになっているので本稿で言及する場合は節で示します。また各段落に番号をふってあり、これも章、節に関係なくシリアルになっていますので、段落に言及する場合は(111)のごとく示します。

さて、第一節のタイトルに「存在への問いを明示的に反復することの必要性」とある。これをみると、著者は最初から答えはないことを承知している節(フシ、だぶりましたね)がある。

気になるのは「反復することの」と「必要性」です。すこし異様なタイトル付けではありませんか。毎朝、歯を磨きなさい、というような意味で「反復することの必要性」があるのか。毎朝歯を磨いてもなにも変わらない。虫歯にならなくなるだけです。

毎日、机を整頓して哲学書を開き、あるいは原稿用紙を広げ、あるいは哲学的思考に入る前に儀式の様に「存在への問い」を行うとご利益があるということなのか。

このタイトルをみると、この節には「必要性」が説明してあるかと思う。実際には歴史上、「存在への問い」が等関に付され、忘却された理由がハイデガーの分析として述べられているだけです。「必要性」は説かれていない。

なお、「存在への問い」が無視され、忘却された理由は、H氏(ハイデガー、以下H)によると、三つある。1)存在という言葉が普遍的な概念であり、2)定義不能である(これは普遍的な概念であれば定義不能なのは当たり前で2:として析出する理由はありません)、3)存在は自明な概念である。というものです。

まことにもっともな説明でHがどこかでショウペンハウアーの根拠率の説明を学部レベルの学生の議論だとあざけっていた例にならうと、学部レベルの議論です。

そして記述はここで終わります。どこに「必要性」の説明がありますか。これは序論の冒頭の文章です。もうすこし丁寧にやってほしかった。

なお、第一節のおわり、段落9、10で曖昧な表現があるが、訳者の注解によると、>だから、「存在への問い」の問い方をリファインする必要がある<と言いたかったと読める。それならそうと、はっきりと主題を書くべきではなかったか。

なにも歯磨きの様に「毎朝、毎食後にしなければならない、答えはでないけど」などと書く必要は無い。問い方をきちんとすれば答えは出ますよ、と言えば良いのである。

もっとも、この「存在と時間」の無慮数千ページおよぶ記述は「問い」をリファインしようとして、ああでもない、こうでもない、とやっているうちに尻切れとんぼに終わっているのかも知れない。

 


「存在と時間」の読み方-3

2015-04-03 18:23:08 | ハイデッガー

本文で読むことにしました。岩波文庫全四冊です。結構な出費になりますが、とりあえず「第一分冊」を購入しました。私の選択基準は一にも二にも目に優しい本作りということなんですが、文庫ないし新書で手に入るのは中央クラシックと岩波文庫のようです。で私の選択基準で岩波を選んだ訳です 

前に哲学書で解説書を読むよりいきなり現物を読む方がいいものがある(わかりやすい)、と書いたことがありますが、「存在と時間」はその部類に入るようです。カントなんかもそうですね。一方解説書がないとどうもというのの代表格がヘーゲルでしょう。しかし、適切な解説書という条件がつきます。そうしてこの条件がなかなか満たされない。読書運というものも有るんでしょうね。

岩波の翻訳は熊野純彦さんですが、妙な物でこの人が「梗概」というのを書いている翻訳はいいが、梗概はあまり良くない。読まなくても良い、というか読まない方が時間と思惟の節約になります。同じ人なのに妙な物です。 

で、まだ本文を30ページほどしか読んでいませんが、冒頭で書いたような印象を持ちました。分かる所も有り、僭越ながら同意しかねる部分も早くも出て来ています。ということは書いてあることが分かるということです。何をいっているかさっぱり分からないというのでは批判も出来ませんのでね。

つまらないことばかりかり書きますが、ハイデガーの良い所は序が短い所です。もっとも序といっても凡例みたいなのが多い。63ページに「1953年 第七版へのまえがき」というハイデガーの文章がある。わずか1ページです。それによると、「存在と時間」は1935年に行われた講義録「形而上学入門」と一緒に読めとある。私はたまたま最初にこの『形而上学入門』を読んだので、このハイデガーの指示はよく分かる。もっとも、「存在と時間」はまだ30ページしか読んでいないが、1927年から1935年までの間に著者の思想に画期的な進展があったとは認められない。あくまでも補足ということでしょう。

それと、翻訳について、「たほう」というのが頻出する。これは「他方」のことのようだが、仮名にする意味がよく分からない。非常に分かりにくく、リズムが途切れ違和感がある。まあ、センスの問題かも知れない。

つづく


「存在と時間」の読み方―2

2015-04-02 06:51:55 | ハイデッガー

まるきりポット出の著者なら見当もつかないが、ハイデガーの様に多数の著書、研究書籍、解説書籍、情報が氾濫している大家なら見当をつけるのに事欠きません。

そこでいくつかの予想軸をたててみました。

「存在への問い」、これが売りですな。究極の問いです。根本の問いです。彼の専売特許です。一体ハイデガー(以下H)氏は問いをたてた時に答えが得られるとおもっていたかどうか。これが予想軸の一つです。

とにかく答えが出ようと出まいと問い続けることが大切だと逃げる手はあります。こうなると禅の公案と変わらない。

もっとも超法規的に逃げる手は昔からある。回心、啓示、直感、霊感、そしてH氏の豊かなギリシャ語の蘊蓄から導きだした「存在の秘密の開示(不伏蔵性、非隠蔽)、本来性の回復(これらはいずれも論理のジャンプです)」。

究極の問い、ということはそこから先へは進めない。ということは答えが出ないのが究極の問いである、というのが哲学の常識だと思っておりましたが、どうH氏は捌いてみせるのか。

ウィトゲン石(以下WS)の言うような意味での「有意味な問い」なのか、というのが第二の予想軸であります。新カント派、論理実証主義のながれにあるWS氏流に言えば検証可能でない答えが、あるいは証明方法が無い問いは「無意味」な問いである。どんな答えをだしても「ご随意に」ということ。正しくもないし、間違いでもない。

要約すると、哲学文法上は問いの構文そのものに問題がある。WH氏流にいえば検証方法がない。つまり答えが出ても採点しようがない。

しかし、第三の道があるかもしれません。そのへんが予想のキモかな。もっとも、H氏はとうとう最後まで答えを出していなかったと読んだことがありますが、どうなのか。そうだとすればH氏は賢明でした。採点を免れたわけですから。

つづく

 


「ヒトラーの超人、マルチン・ハイデガー」

2015-04-01 18:30:17 | ハイデッガー

突然ですか本日徘徊中に立ち読みした本の報告です。

白水社「ヒトラーと哲学者」イヴォンヌ・シュラット(憶えにくい名前ですね)

4104円と高価なので例によって立ち読みしました。タイトルの「ヒトラーの超人 マルチン・ハイデガー」の章だけ30ページほど読みました。

なかなか大した人物でしたな。いちいち出典を上げているから信用していいのでしょう。もっとも同様のノンフィクションは戦後早い時期から多数出ているのでしょう。それらの再録、要約版かもしれませんが、便利なことには変わりがない。

著者の年齢からすると、この本は本国でもそんなに古い本ではないようです。立ち読みなんでその辺の書誌情報は控えて来ませんでした。

ハンナ・アーレントあての手紙なんか多数出ている。これは彼女が生前提供したのか、あるいは彼女の遺品から出て来たのか。巻末の参照リストを観れば分かるのでしょうが、店員の目を気にしながらの立ち読みなのでご報告できなくてすみません。

いずれにせよ、彼女は終生愛人ハイデガーの手紙を大切に保存していたわけです。 

これで読むと、ハイデガーはギンギラギンの突撃隊長ですな。これほどとは思わなかった。これでニュルンベルグ裁判で被告に成らなかったのは不可解です。それが正しいというのではない。東京裁判で拓殖大学教授だった大川周明がA級戦犯として訴追されたこととの比較で著しい恣意性が明瞭だからです。大川周明が訴追されるなら、ハイデガーが戦犯指定されないのは著しく公平性を欠いています。

この点から分かるのはナチス裁判をなぞった東京裁判がいかに不当でインチキな茶番劇であったかということです。

注:大川周明氏は公判中精神に異常をきたし、免訴となっている。

 


「存在と時間」の読み方

2015-04-01 08:21:47 | ハイデッガー

前回の続きになるが、そんなわけで該書を読むべきかどうか。大きな問題です。時間がかかり、いらいらし、腹を立て続けることは十分に予想されます。 

私の特技に読む前に書評をするというのがあります。そこで今回は「読む前評価」の試みです。

白鳥の湖の話をしましょう。なに、ベートーベンの第九でもいいのですが。読書というのは、とくに哲学書の場合は、読者は演奏者です。うまい人もいれば、下手な人もいる。うまい、下手とは別の次元で解釈の仕方もありますが。

プロの指揮者、あるいは舞台監督等はうまい(プロの)の解釈者であり彼ら自身が創作家です。そしてその解釈は細かく(つまり専門的に観れば千差万別で)いわばそれ自体が創作というか芸術の生産活動であります。

「白鳥の湖」は何百回、何千回も演奏されているでしょう。それでも世間は公演を求め続け、「芸術家」の創造活動は無限に続いています。

哲学者の場合も同じです。もっとも中には、おれは世界で初めてのことをしているのだと力む哲学者がいます。ハイデガーはそういう人らしい。あるいはハイデガーの追随者、ハイデガーで食っている大学教師が師を神輿のように担ぐのかもしれない。

いくら「読む前書評」が得意といっても、何も読まずには出来ません。それで解説者、書評家の短文を浚うわけです。原文を全部舐める様に一生かけて読まなければ駄目だとおっしゃいます。まことにごもっともであります。

この種のレジュメがまったく無意味だとしたら何のために書評家がいるのだと、そのレーゾンデートルが問われます。つづく

 


ハイデガー哲学の瀰漫度

2015-03-30 22:15:10 | ハイデッガー

どうしても気になることがある。「二十世紀最大の哲学者」としての斯界におけるハイデガーの瀰漫度である。尋常とは思われない。ちょっと精神分析のフロイトを思わせる。 

私は第一原理(?)として不健康な瀰漫度に警戒することにしている。それでもその著書を読んで納得すればなんら問題はないのだが、読んでみると(全体のコンマ数パーセントだが)そんな気はしないのだ。

もっとも、これには別解があって、ようするに私にはハイデガーを理解する知能がないのだ、というのである。案外有力な別解かもしれない。某有力大学では別解を採用するかも知れないな。

ヘーゲルによれば、哲学書というのは全部読まなければ書いてあることは分からないのだ、という。著者に対する敬意からしてもそうすべきなのだろう。そうだろうと思うが、とてもそんな時間もないし、そんな酔狂な気持ちも持っていない。書きながら(しゃべりながら:講義の場合)考えが煮詰まってくるというのは分かる気もする。

完璧を期せばヘーゲルの忠告を採用すべきなのだろうが、ちょっと拾い読みをしただけでも7割がたは見当のつくものである。ところがH氏もさるもので底を見せない。

大きな問いが二つある。「存在者への問い」と「存在への問い」である。順序的には存在者の問いが先行する。存在者の中でも特別な,人間(現存在)への問いが先行する。で「存在の時間」ということらしい。問いの根本度では「存在の問い」だが、そういうわけで『存在と時間』で現存在分析をまず、ということらしい。

分からないのはどこに画期的というか独創的なところがあるのか、ということである。言葉というか表現を変えただけでコンベンショナルな西欧哲学の伝統の中にすべて見いだされるものではないのか。私の表現で言えばアルゴリズムに独創的なところがあるとは思えない(前々回の彼岸、此岸の文章を参照)。

『現存在分析』から存在者分析そして存在分析へとシームレスに整合性を保って究明されているのだろうか。

つづく

 


ハイデガーの疑わしい功績

2015-03-30 06:50:48 | ハイデッガー

語源遊びには限界がある。西欧哲学の言葉(概念)は古代初期にギリシャからローマに移植された段階でラテン語に翻訳されている。

つまり厳密な一対一対応かどうか、疑念が残る。そしてそれに新プラトン的な解釈やキリスト教的な考えが反映し、解釈が変形して現代に伝わる。まあ、ハイデガーはそう言っている訳である。

それはほとんどがプラトンのものである。これは初期教父時代の激しい異端闘争でプラトン派が勝利した結果である。

ギリシャの哲学にしてからが、いわゆるソクラテス以前の哲学者の言説はギリシャ時代でも伝聞としてしか残されていない。すなわち主としてアリストテレス以降の文献での引用という形でしか残っていない。ソクラテスそのものからしてプラトンや他の後世の人物の著書のなかで述べられているだけである。まあ、この場合は一次伝聞では有るから少しはましである。

ハイデガーの言い分はもっともの様に見えるが甚だしい片手落ちである。なんといってもプラトンとならんで後期中世西欧哲学(神学)ではアリストテレスの影響が決定的なのだが、アリストテレスの哲学の大部分は11世紀にアラビアから欧州に流入したものである。当時の哲学先進国アラビア文化圏にアリストテレス文献がまとまった形で伝わり、その研究も行われていた。

したがって、ハイデガーのギリシャ >> ローマ >> 近代西欧という図式は 

小流れとして ギリシャ >> ローマ

本流として  ギリシャ >> アラビア >> 西欧中世

として捉えられなければならない。まず考究されなければならないのは、ギリシャ語からアラビア語にどう翻訳されたか。アラビア語からラテン語に翻訳されたときにどういうことが起こったかが研究の対象にならなければならない。寡聞にして才人ハイデガーがアラビア語に造詣があったという話は聞かない。

こういっては何だが、ハイデガーの文献講釈にはどうしても才人臭が気になる。

 

 


ハイデガー哲学の分類(立ち位置)

2015-03-29 08:28:36 | ハイデッガー

いろいろな分類の仕方がある。根本的な分類でも数種あろう。その一つは

『この道、抜けられます』か?どうかである。彼岸、イデア、物自体、第一原因、神など色々な呼び方があるが、そこへ抜けられるか(通行可能か)どうか、ということで「抜けられない派」と「抜けられる派」に分けられる。

「抜けられない派」で有名なのはカントであろう。もっとも、抜けられるかも知れないが学では抜けられない、と言った方がいいかもしれない。そうすると、すべて他の「抜けられない派」も「抜けられる派」あるいは「抜けられるかも知れない派」になってしまう。

カントの時代、スウェーデンボルグという人物がいて、デンマークかスウェーデンでロンドンの大火を同時間に夢に見たという人物がいた。カントが「研究」している(視霊者の夢)。カントは本当かもし得ないが、学問的には確認のしようがない、と至極当たり前の結論を出している。 

彼岸(物自体を含めて彼岸と仮に呼ぶが)と此岸(現実の世界)との交流は大体一方通行なのであるが(スウェーデンボルグは相互交流)、彼岸が神であれば啓示、回心による場合がある。詩人や芸術家であれば霊感、直感となる。

プラトンでは彼岸からの写像と言う形で此岸にぼんやりと影として映る(洞窟の比喩)。あるいはマニ教やグノーシスのように彼岸から光のカケラが地上に落ちてくる。

なかには彼岸も此岸もないのだ。それは循環しているのだという思想も有る。ヘーゲル等はその一変形である。 

ハイデガーではどうか。かれは『存在』と「存在者」と対峙させる。「存在」というのはいわゆる彼岸の変形らしい。両者は交流可能とみている。それはいかにして可能か。一つは絶えず、折りにふれ、なにごとによらず「存在への問い」を念仏をとなえるように継続することである。あるいは場合によっては存在からの贈り物と思われる(ハイデガーにとってのヒトラーの場合)。

こうみてくると、「存在への問い」はハイデガーに専売特許権があるものではないようだ。古くから有るパーターンの一奇種ではないのか。

「存在への問い」に一度もまともな解答を示していないということは、問うことにだけ意味のある禅の公案みたいなものかもしれない(頭の体操)。

 


ハイデガー哲学最大の問題点

2015-03-28 14:49:49 | ハイデッガー

それはやはりナチス問題である。多くの同業哲学者がこの問題を論じているようであるが、私がここ数日浚ったところではいずれも肝心なところが抜けている。大きく出たなって、そう。それで書く責任が出て来た。

ナチス問題はハイデガーの好みのフレーズでいえば彼の「根本問題」である。避けて通れない。別の言い方をすればこの問題を中心課題に据えないハイデガー理解は浅薄である。もっとも馬鹿の一つ覚えのように批判しても意味が無い。

ハイデガー哲学の躓きの石は、彼の哲学には「サニワ」がいないことである。サニワとは「審神者」と書く。ある霊能者に憑依した霊魂や彼が伝える(神慮)が本物か、どれだけのものであるか、格付けする。

ハイデガーはヒトラーを「存在」がその深淵、根源からドイツ民族という現存在に送りつけた人物と信じた。彼によってドイツ民族の伏蔵性は開かれ、ドイツ民族の栄光は世界に輝く筈であった。

ようするにこの判定に問題があったわけである。応用問題が解けなければ理論の価値は無い。

彼がナチス内部の内部抗争に破れ、あるいは失望してフライブルグ大学総長を辞職した翌年行った講義で「形而上学入門」として後年公刊された書物に「存在は幻か誤謬か」という文章が有る。この文章は彼の短い政治活動の体験を出来るだけ当たり障りのないように、ぼかして表現したものである。ハイデガーの精一杯の抗議であり、また、自嘲であろう。