穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

激しく燃え上がったハイデッガーとナチスの恋

2015-03-26 08:33:23 | ハイデッガー

恋愛のならいにもれず、短く燃え上がり消滅した。1930年代の前半おそらく1933年から1934年の始めまでがその盛りであったろう。

ハイデガーがヒトラーにみたもの、それは「ドイツ民族」という集合的「現存在」(注)であった。総統は世界歴史上はじめて「覆われた存在の秘密」を二千数百年ぶりに西欧に対して開示する筈であった。そう信じた。

思い出すのはナポレオンがイエーナに占領進駐した時に、ヘーゲルが友人に書送った手紙である。「いま世界精神が馬上で通った」と興奮気味に書いている。ちょうどヘーゲルが「精神現象学」を書き終えたころである。ヒトラーはハイデガーに取っては、ヘーゲルにとってのナポレオンと同じであった。「存在」がドイツに送りつけたものであった。この思いはヘーゲルよりも強かっただろう。ナポレオンはフランス人であり、ヘーゲルは侵略占領されたドイツ人だったのだから。まさにニーチェが熱望し予言した「アンチクリスト」が出現したのだ。

ハイデガーはナチスに「存在という幻」(形而上学入門)を観たのである。「存在という誤謬」を観た(形而上学入門67ページ)のである。

しかし、ハイデガーは終世幻としての、誤謬としての恋人の面影を胸に抱き続けた。現実のナチスに見つけられなかった、いうなれば真性の、急進的な、過激なナチズムを、である。彼は戦後ナチスに付いて沈黙をまもり、反省せず、非難せず、後悔を表明しなかった。日本流に言えば「もののふ」とも言えよう。紅衛兵に脅し上げられてすぐ謝罪するような人間ではなかったのである。

注:現存在というと普通個人を連想する。また人間の本質という普遍的な概念を意味する。民族(的精神)は連想しないが。先に、「形而上学入門」を読んでいて、継ぎ目無く(つまり前後の繋がり無く)突然時事問題が数ページ続く所が複数箇所ある。妙に思っていたが、これは存在あるいは現存在にドイツ民族といった集合的なイメージを持たせ始めていた転換点だったのかも知れない。

参照:「形而上学入門」76−77ページ、81−83ページなど

 

ドイツ民族を選民とみる考えではヘーゲルとハイデガーは同じである。ヘーゲルは歴史哲学で最高の発展段階(終局)としてゲルマン文化をあげている。ゲルマン文化に世界精神の最高の発展段階をみる。ヘーゲルの頃はドイツという言葉があったのかどうか。少なくともドイツという国名の統一国家は無かったからゲルマン民族という言葉を使ったのだろう。

ハイデガーの場合はどうも上代ギリシャ文化の正当な後継者はドイツ人だと言うことらしい。その根拠として上代ギリシャ語を正統的に継承しているのはドイツ語だという主張(根拠、要検証)がある。

 

 


ニーチェ講義の行われた時期

2015-03-25 08:06:39 | ハイデッガー

ハイデッガー自身の序言によると、「ニーチェ講義」は1936年から1940年にかけてフライブルグ大学で行われた講義と1940年から1946年に成立したいくつかの論文からなる。 

木田元氏の絶賛にもかかわらず私の印象では冴えがない。もっともまだ第一巻の二百ページほど読んだだけである。まだしも1935年の講義録「形而上学入門」のほうがいい。

この時期のハイデッガーの活動をみてみた。1930年代の初めからハイデッガーはナチスなどの民族主義者との活動(講演等)を行う様になる。そして1933年にフライブルグ大学の総長になる。同年ナチスに入党。ヒットラーの教師になって教育しようとも考えていたという。まるでアリストテレスが後のアレクサンドロス大王の家庭教師であった故事にならおうとしていたように。しかしヒットラーは子供ではない。ナチス党首で首相である。うまくいかなかったようだ。

志した大学改革が収拾のつかない混乱をもたらし、彼は1934年総長を辞任する。彼の学生であったユダヤ人女性ハンナ・アーレントと不倫の関係を持つ。彼女はナチスが政権をとるとフランスに亡命した。 

ハイデッガーはナチスの党籍は離れなかったようであるが、如上のような種々の事情から党内の内紛に破れ、1936年頃からはナチス情報部の監視下に置かれていたらしい。

当時ニーチェ哲学はナチスの公認哲学ともいうべき位置にあった。ニーチェ研究は無難なテーマであったのである。いわばハイデッガーのアリバイ作りのような意味があったのではないか。たしかに膨大な労作であるが、いまいち迫力がないのはこのような事情の元で行われたからではないか。

付記:平凡社ライブラリーの『形而上学入門』にはシュピーゲル誌との対話が載っている。そこでナチスとの関係のインタビューがある。ハイデッガーによると、戦争末期には国民総動員令で飛行場か何処かの穴掘りかなにかの土木工事の作業員にかり出されたという。ナチスから特別扱いされていなかったということを強調したかったものと思われる。 

今回はいささか下種の勘繰りめいたが、かなり当たっているのではないかと思うので書いた訳である。

 


ニーチェはやくも視界へ

2015-03-24 10:12:20 | ハイデッガー

ニーチェ講義が始まる前年に行った講義(形而上学の根本の問い)ですでにニーチェが視界に入っている。存在者の問いを超えて先行する存在への問いを提起した部分(形而上学入門61−67ページ)がある。

この議論はニーチェ講義に引き継がれて行くので、形而上学入門を併せて参考にするといいだろう。ニーチェ講義の98ページあたりである。ただどういうつもりか、用語が逆転している。前書では形而上学の「根本の問い」は「存在者への問い」であり、「存在への問い」は「先行する問い」であるのに対して、ニーチェ講義では「存在への問い」が根本問題に、そして「存在者への問い」が先導問題になっている。勿論訳文であり、ドイツ語でどうなっているのか分からないが、同じことをまるで正反対の印象を与える言葉を使っている。無神経に思われる。

ま、それはともかく、前書の61ページ以降で存在とはなにかということで、ひとつ上げれば良いのに、数例をあげている。おまけにどの例もピンぼけである。前回ハイデガーの喩え、例示はなっていないといった理由である。

あのヘーゲルでもたまには例示という補助手段をつかう。精神現象学でも、知覚の説明で砂糖の例をあげる。また主人と奴隷の比喩も有名である。そして、適切で説得力のある比喩と言える。比喩には節度と適切さに対するセンスが必要なことを示している。

 


ニーチェがハイデッガーの講義を聴いたら

2015-03-24 06:54:13 | ハイデッガー

ニーチェが生きていて、このハイデッガーの講義を聴いたらどういう反応を見せるだろうか。怒りだすか、噴き出すか。余計な推量をするなと叱るか。

おれが体調のすぐれない晩年の5年間苦しんでまとめようとしてかなわず、その重圧で発狂してしまった作業をよく俺にかわってやってくれたと思うだろうか。よもやそんなことはあるまい。

ニーチェの特徴は文章の切れと精細にして意表をつく心理解剖である。世間では詩人哲学者などと言われていたようだが、私はニーチェは思弁心理学者と呼ぶのが適切ではないか、と思う。

正直に言うと私はニーチェの文章がそれほど好きというわけではない。あくまでも比較の問題であるが、文章の生彩という観点からみればニーチェとハイデッガーは比較にもならない。

比喩というものは、生硬な文章では相手に意を伝えられない場合に使う。従ってこれがもっとも効果的に多用されるのは宗教である。新約聖書のマタイ伝だったか、キリストは「喩えならでは何事も語り給わず」とある。 

禅に不立文字(フリュウモンジ)という言葉がある。これなど最初から言葉による伝達を諦めている。哲学は本来この手法に頼るべきではない。ところがハイデッガーは下手な比喩を肝心なところで連発する。したがって、ますます非論理的、意味不明になる。

つづく


精神破綻直前のメモを扱うには

2015-03-23 07:55:12 | ハイデッガー

ニーチェの著作履歴を見て驚くのはその半数が発狂直前の1、2年に集中していることである。

1886年 善悪の彼岸

1987年 道徳の系譜

1988年 ヴァーグナーの場合、ニーチェ対ヴァグナー、偶像の黄昏、アンチクリスト、この人を見よ

1989年1月 発狂

之によって此れを観るに、哲学体系の構成がニーチェの精神には非常な重圧となって、緊張を強いていたことが分かる。まるで、その重圧から逃れる様におびただしい言葉を吐き出している(印刷に付されている)かのようである。此れを観ると、遺稿集に全面的な比重を置くハイデッガーの態度は無謀の様に思われる。

この重圧が精神破綻の原因になったともいえるのではないか。彼の病歴に付いて調べてみたが諸説あるようだ。断定的なものは見当たらない。当然だろう。主治医の配慮もあったであろう。何はともあれ、生来の資質や器質的な問題あるいは病歴があったにせよ、誘因というかきっかけは「体系を構築しなければならない」という期限付きの強迫観念であったに違いない。

それとこれもすでに指摘されていることだが、遺稿の編集にあたった妹のエリザベートに対する芳しからぬ世評である。ハイデッガーの講義録は1936年から1940年のもので、エリザベートの編纂した遺稿集しかなかったであろう。おりからナチスが政権をとってその全盛期である。エリザベートはナチスに自由にニーチェ文書へのアクセスを許していたというし。

もっとも、ハイデッガーにとっては、かえって都合がよかったのかもしれない。強引な議論の持って行き方、我田引水、牽強付会、言葉あそびの得意なハイデッガーにとっては、きっちりと輪郭、構成のある資料よりも曖昧な遺稿集の方が自由に扱えて、やりやすかったのかも知れない。

 


何故「力への意志」をとりあげるか

2015-03-22 07:37:53 | ハイデッガー

進行形書評:ポジション・リポート ハイデッガー「ニーチェ1」120ページ

ハイデッガーのニーチェ講義では「力(権力)への意志」を取り上げる。

なぜ、「力への意志」を取り上げるかは20ページから24ページまでに要領よくまとめられている。ハイデッガーの文章らしくなく、分かりやすい。まるで大学生の履歴書の様にニーチェの著作歴を要約している。

ニーチェには多数の著作が有るが、まとまった思想体系を述べた作品は無い。彼の著作活動の最後の十年間は彼の思想体系(本堂)をまとめようとした時機である。これは彼の残したメモからわかる。注: 

しかし、彼はまとめる前に発狂してしまった。「力への意志」は体系構成の過程で彼が残した膨大なメモ、断片を死後関係者がまとめた遺稿集である。その体裁も複数回改訂されている。現在の版(すなわちハイデッガーがこの講義をした時)は比較的妥当な編集であろうとハイデッガーは推測している。

注:友人オーベルバックあてのニーチェの手紙(1884年4月7日);

「私のツァラトゥストラによって私の哲学のための柱廊を建てておいたから、いよいよこの哲学の::本堂::の竣工に次の5年間を費やす決心がついたからだ」 

ニーチェはこの予定していた5年後の1月に発狂している。つまり5年前にたてた計画満期の直前に精神に破綻をきたした。べつにそれだけのことだが妙な因縁を感じる。

まあどうでもいいことかもしれないが、後世の関係者の判断が多分に入った遺稿集を中心に批評をするのには一抹の不安定性を感じない訳ではない。もっとも、ハイデッガーはふんだんにニーチェの公刊された作品からの引用も援用しており、整合性は保つ様にはしているのだろうが、整理されていなかった遺稿集を中心に検討を加えるというのはどんなものだろうか。

没後百年後はもうすぎたが、二百年後に新しい資料が見つかるというのはままあることではある。

 


ハイデッガー講義録の癖

2015-03-21 06:49:05 | ハイデッガー

と言っても「形而上学入門」を読み「ニーチェ1」を7、80ページ読んだだけですが、両書に共通した書き癖がある。最初にそれについて言っておいた方が良い。この書評ブログは短い本は別にして、現在進行形書評であります。つまり10ページ読んだところで感想をアップ、70ページ読んだ所でアップという具合に読了するまでに数回にわたって印象を述べることがおおい。

従って著者の叙述の仕方によって総合的にみると、原著と書評の間のブレというか「振動」が一時的におこることがある。それはそれで良いというのが私の方針です。起承転結がはっきりとしていて理路整然と叙述が進んで行く本では両者の間に揺れはない。そうでない本の場合は免震構造が必要かもしれない。

ハイデッガーの講義録ではこうはいかない。最初の結論めいたものが出る。そして詳しくはいずれ後で触れると身をかわす。そして最後までフォローアップが無い場合も有る。フォローアップがあってもよほど注意して読んでいないと見落とす。また、今度のテーマは何々だ、と言いながら全然別の話をする、などなど。

この書評は現在進行形でリニアに読んで行きます(最初からという意味です、原則として)。したがって、親切な読者がいて、この書評と原著を併読していただくかたがいるとして、若干の揺れを感じるかもしれません。

 


私はマグロ

2015-03-20 09:23:24 | ハイデッガー

マグロは回遊していないと死んでしまう。どういうメカニズムだったか忘れたが、酸素が採れなくなるらしい。私もマグロの仲間である。なにか読んでいないとぼけてしまう。 

いわゆる活字マニアというのかな。なにも読むものが無くなれば寿司屋のチラシを20回も読み返しますが、そこまで追い込まれていない。選択肢があるなら少しはましなものを読みたい。

そこで、もう少しハイデッガーを読みます。今度は講義録「ニーチェ1」(平凡社ライブラリー)です。文庫で出ているのはこれくらいですね。単行本はあるが、売れないのかべらぼうに高い。五千円から1万円ぐらいかな。翻訳者のレベルの問題も有る。高い本をかってあとでほぞを噛むのはさけたい。で、木田元先生ご推奨の「ニーチェ」にしました。

まだ少ししか読んでいませんが、「力(権力)への意志」のうち第三書(第三巻)四の「芸術としての権力の意志」を解説するそうです。このパートはちくま文庫では60ページくらいの分量ですが、平凡社ライブラリーでは「ニーチェ1、2」無慮千ページあまりで解説するらしい。楽しみであります。

この「権力への意志」は遺稿集で断片の集積でありニーチェはもっとリファインするつもりだったのでしょうが、非常に分かりにくい。千ページもあると楽しめますな。

この私のシリーズも(長くなりそうですが)、思考の経済もかねて、ニーチェ流にアフォリズム風に書き流していこうと思います。

つづく


ドイツ観念論のアルゴリズム

2015-03-16 08:18:53 | ハイデッガー

プログラム作成で定数として、いや変数としてか、「古代ギリシャ文明への鑽仰」を入れなければなるまい。もっともパラメーターが大きいのはヘルダーリン、ニーチェやハイデッガーであろうか。ヘーゲルもかなりのものがあるが、ギリシャいのちという思い入れまではいかない。これを変数Gとしよう。 

一般に変数Gは19世紀初頭に大きい訳であるが、これは一種の時代の流行であるのか、あるいはイギリス、フランス等の先進国を範とすることへの抵抗感があるのかもしれない。ドイツの政治情勢は中世的残滓がおおく、第一国家統一を成し遂げたのは明治維新とさして年代はかわらない(オーストリア・ハンガリー帝国は別である)。

また、ニーチェは学究生活の出だしが文献学者で、自分の畑を耕したということだろう。ハイデッガーはそういう意味では珍種だろうか。

かれの存在論の大部分は古代ギリシャ語の語源を探り、そこに根拠を求める。この手法が他の方法よりすぐれているかどうか、ハイデッガーを読んだだけでは説明はない。

普通は根拠とするもの正当性をまず説明するものだが、それがない。語源学に頼る場合には多くの問題がある。言葉というものは起源をたどれば辿るほど、一つの言葉に様々な語釈がある。時にはまったく関係がないような語釈がおなじ言葉にある。これは現代語の辞書でも重要な基幹語によく見られる特徴である。

ハイデッガーはその中の自分の説に都合のいい語釈を取る訳である。ということは語源学から全く正反対の哲学をつくることも可能であろう。

もう一つ、古代言語の語源学は、考古学と同じ様に時代が進めば研究は進歩するだろう。現時点での語釈で決定的なことを言って良いのか。それに何故古代ギリシャ語なのか、という問題を正当化する必要がある。言語は多数ある。歴史的に埋もれた言語を含めると無数にあるといってもいい。そのなかから、一つをピックアップするなら「根拠」を開示しなければならない。

 


哲学と同列にいるのは詩だけである

2015-03-15 08:16:17 | ハイデッガー

「形而上学入門」の51ページにハイデッガーは書いている。

「哲学および哲学の思惟と同列にいるのは、ただ詩だけである」。本当だろうか。あるいは正しいだろうか、と反問すべきかも知れない。

以下でわたしは判定をくださない。ここでこのフレーズを取り上げるのは、これが彼の手法をよく表していると思うからである。

『形而上学入門』を通読したが、彼には論証というものがないようだ。哲学者には結論の前に適切な論証があるグループとない(と思われる)グループがある。前者の代表がアリストテレスやカントである。後者はプラトン、ヘーゲル、そしてわがハイデッガーである。

後者は論証が弱く、よく言えば跳躍があるところが詩的といえようか。後者はさらに二つのグループに分けられる。最初のグループは(隠された論理)を把握すればそれなりに筋道が理解出来る哲学者でヘーゲルがそれである。

よく西洋の文化を理解するには西洋文明の伝統を知らなければだめだ、と小賢しげに言う(進歩的文化人)がいる。かれらが言うのは狭いキリスト教のオーソドックスな教義をいう。つまりマルクス主義で言えば内ゲバ理論闘争を経て「正統、すなわち異端ではない」とレッテルを張られた教義をいう。

これは西欧の伝統の一部にすぎない。二千年の教義論争で異端として追放された数多くの教義。濃淡の差はあるものの、キリスト教と類縁関係にあるグノーシス主義や各種の神秘主義それに啓蒙時代に盛んになった秘密結社(たとえばフリーメーソン)など。それにマニ教、キリスト教以前のケルト土着宗教、各種神秘主義、錬金術などを含めたものを西欧の伝統とみなければならない。

そしてこれらの(縁辺)思想は事実上日本で知っている人は非常に少ない。ヘーゲル等は乱暴で奇想天外な「論理学」に驚くが、これら広義の西欧的伝統を包括的に知っていればそれほど驚くことは無い。

このヘーゲルの例の様にいわば隠し味が分かれば理解出来る思想家もいる。ハイデッガーはどうか。キーワードは古ギリシャ語、語源学、文法らしい。

つづく

 


ハデッガー「形而上学入門」への問い

2015-03-12 08:52:48 | ハイデッガー

序において、ハイデッガーは「この講義は周到な準備をした上で行われた」と書いている。したがって全体の構成には巧妙な仕掛けがあると考えなければならない。

第一部(或は第一章)で「形而上学への根本の問い」としてライプニッツによって命題化された「なぜ一体、存在者があるのか、そして、無があるのではないか?」を考究している。

もっともライプニッツの命題はこれとそっくり同じではない。「存在者があるのか」は普通日本語では「何かがあるのか」と訳される。英語では

“Why is there something rather than nothing ? “

と訳されるようである。ハイデッガーがetwasなどとしないで存在者としたのか、原文ではseiendeらしいが余計な小細工をすると紛らわしくなる。

この問いには歴史上多くの解答が試みられているが、一致した解答はない。ライプニッツの解答は神の存在論的証明に繋がる訳だが、これは目的があってそれに解答を誘導しただけであって、むしろ神学の問題である。

ハイデッガーはどうか。縷々、無慮三百余ページを費やしているが、解答を出していない。解答の試みも無い。ハイデッガーの企みはこうである。

この問いを考えるには先行して「存在とは何か」が問われなければならない、と。そして、上代ギリシャにさかのぼり、語源学的考察や元初哲学者たち残した断片をもとに哲学史的蘊蓄を傾けて彼の存在論に持って行く。

彼の言葉を借りれば「問われ問いかけられているものから問うことへの跳ね返りが生起する。だからこの問いを問うことは、それ自身決していい加減な事象ではなく、一つの特異な事であり、これを我々は出来事と名付ける」(18ページ)。

存在論につなげるのはこの跳ね返りということであろう。だから解答を得ることが出来なくても問うことには意味があるというのだろう。

普通この種の質問は愚問、ないしは奇問とされる。幼い子供が親を悩ます質問である。学童が先生を悩ます問題である。「なぜAなの、あるいはAがあるの:それはBだからよ:なぜBなの:それはCだからよ:なぜCなの・・」と尽きることが無い。普通こういうのを無限退行とか悪無限いう。

親や先生はこういう子供を知恵おくれと見なすことがおおい。そういえば、発明王のエジソンもそういう質問をする子供であったそうである。


ハイデッガー拾い読み

2015-03-09 21:22:04 | ハイデッガー

 今度のタイトルはコピペかもしれない。木田元氏におなじようなタイトルの本があったような(新潮文庫方面で)。前回平凡社の『形而上学入門』のなかの「形而上学の根本の問い」について書くと約束したが、この本を大分読み散らかしたので順不同で木田氏流拾い読みでいくことにした。

巻末にある木田氏の解説によるとこれはハイデッガーの講義録だそうで自分で気に入った自信のある講義を集めて本にした物だという。木田氏によるとハイデッガーは著書(いわゆる書き下ろしかな)より講義録の方が面白いというのだな。

このブログで前に創文社だったかの、全集で根拠律について書いた部分(たしか第二十*巻)をよんで「ひどい文章だね、翻訳のせいかもしれないけど」と書いたことが有る。今回木田氏の解説を見て買ってみたという訳である。巻頭論文の題が「なぜ存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか」なのだが、これはライプニッツが命題化した根拠律のテーゼだしね。前に全集で読んだのは違う講義録だったこともあるし、どれ試しにと買ってみた。

読み散らかしたところでまず「こりゃドイツの本居宣長だな」という印象である。なんでもかんでもギリシャ語の語源を探れば分かる(問題が)というので古代ギリシャ語の語源学のオンパレードである。それが彼の思想に合致するのか、それから彼の学説が導きだされたのか、たまたまなのか分からないが。大分強引なところがあるようだ。我田引水とか牽強付会気味のように感じる所も有る。

他の号で触れるかも知れないがハイデガーには相当強引な所が有るようだ。ギリシャ悲劇「オイデプス王」を存在と仮象の説明に引用している箇所があるが相当に無理が有る。

本居宣長も上代の古事記の日本語の意味をマニアックに集めて理論を形成し、古事記を解釈した訳である。ことだま学者であった。この本を拾い読みしてハイデッガーとそっくりだと思った次第である。

本居宣長のことはさておき、なぜ古典ギリシャ語を探るといいのか、理由が全く説明していない。まさか古いからいいというわけでもあるまい。ギリシャ哲学が古今に卓絶しているのはギリシャ語のためだとでも言うのだろうか。 

いずれにせよ、古ギリシャ語の語源を探る理由を「開示」すべきではないか。逆に私は「なるほど、これこれこういうわけかな」と見当がついて、いずれ説明が出てくるだろうと楽しみに読んでいた。当たればうれしいしね。ところがいつまでたっても説明なし。

語源遊びが好きらしいが、それに関連して気になった点が二つほど有る。ヨーロッパ言語では古代ギリシャ語とドイツ語がもっとも哲学に適したすぐれた言語であるそうだ。ここでも理由の説明はまったくなし。

二つ目はハイデッガーの博識あるいは勉強家の証明なのかも知れないが、「インド・ヨウロッパ語族」として古代インドのサンスクリット語を援用している。勉強家だと言わざるをえないが、サンスクリット語の知識がないから当方には正否は判断しようがない。


モナドとしてのハイデッゲル教授

2015-03-08 19:35:59 | ハイデッガー

このブログも大分さぼっておりました。前にドイツ観念論のアルゴリズムを書きたいなんて言ったことがありました。最近木田元氏の文章を読んでハイデッガー(三木清ふう表記ハイデッゲル)の本を読んでみました。初見であります。平凡社より出ている「形而上学入門」です。 

ドイツ観念論というのはいずれにしても19世紀のものでその盛期はヘーゲルでしょうが、ハイデッガー哲学はなんていうのかな、現象学的というのか、いずれにしてもその臭気(芳気)は観念論のようです。

観念論のアルゴリズムを書くのが難しいのは、用語の統一が無い所で、まず読替え表を作らなければなりません。これが、勿論正確に一致する読み替えは不可能です。なにしろ哲学者というのは用語の定義をしませんから、特に彼にとって基本的に重要な用語ほど定義をしないのが通例です。用語の経年的な揺れという問題もある。

「形而上学の根本の問い」のなかでしたか、ギリシャの昔から哲学者は似たようなことを研究しているが、それでも汲み尽くせない内容があるてなことをいっています。これはライプニッツのいうモナドと同じだ、と思いました。哲学者個人個人はモナドのようなもので独立している。そして同じ問題、世界でもそれぞれのモナドが持っている窓だったか鏡に映る世界は同じ物を色々な場所角度から見る様にみんな違うというのだな、とおもうのであります。

次回は「形而上学の根本の問い」から見て行きます。