穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

六漱石つれづれ

2011-06-04 20:36:07 | 書評

『彼岸過ぎ迄』、ようよう150ページまで読んだ。この本で注目すべきは漱石のまえがきだ。これは岩波文庫にも新潮文庫にもついている。『彼岸過ぎ迄について』という四ページほどの短文。このシリーズの何回目かでふれたが漱石の特徴は新聞小説作家であり、朝日の長期契約社員であったということだ。それと漱石の律儀な性格から作品の特徴が生まれる。

このまえがきで朝日の契約社員として自己の心構えを読者に述べている。是非読むべき文章である。

150ページまで読んだところでは、これは全くの娯楽小説として読者のご機嫌をうかがったらしい。素人探偵ではないが、人に頼まれてある人物の張り込み尾行をする描写が150ページまで続く。いやまだ終わっていない。今後どう持っていくかわからないが、イギリスで当時はやりの探偵小説を試みたのかな。

当時の新聞小説というのは、毎回どのくらいの分量だったのだろうか。今はどの新聞も大体長さが決まっているようだ。それと毎日欠かさず掲載したのだろうか。もし当時現代風の体裁だったとすると、毎回短い文章である程度のまとまりを持たせ、かつ小さな山場を毎回作らねばならないから、どうしても単調平板になる。

まれに作者が調子がいい時は別としてわりと退屈平板なものになる運命にあるような気がするが。そうして半分以上とはいわないが、漱石のかなりの小説がわりと淡々としているのはその辺に原因があるのではないか。


五漱石つれづれ

2011-06-04 20:19:30 | 書評

それから漱石徒然はどうなったかって。だから『それから』さ。これから始める。

この本は中学の時読んだね。朝起きたら枕元に椿の花が落ちてたという描写、何とも言えないね。その印象で覚えていた。今回最後まで読んだが中学の時は途中で投げ出したようだ。

漱石が椿を選んだのは意味があるのかな。椿はどさりと厚い花びらが落ちるさまが首をはなられたことを連想すると言うので武家では不吉な花とされていたらしいが、その後の代助を象徴しているのかな。それともそんなことは全然考えていなかったのか。

最初の大助はまるでユイスマンのさかしまのあれは、デゼッサントか、を想起させる。人工的に感覚が不自然に鋭敏になる、文明社会の遊民というやつだ。ただし、デゼッサントは自前の資産家で好きなように出来るが、大助(代理が出ないのでこれですます)は親のすねをかじりながらのものだ。だから後で親父から首を刎ねられてしまう(こずかいが出なくなる)。

後半は豚のしっぽを切って馬の尻につけたみたいでちぐはぐだ。あっと驚く純愛物語。こころもそうだったが、こういうところがどうも違和感を感じるところだ。

しかし、メロドラマとして前半と切り離してみれば、漱石は相当の手腕を発揮している。