小説仕立ての半自伝という評価らしいが、家族の匂いと言うものがまったくない。遊び友たちの使用人の息子とか学校の友達との再会の話ばかりだ。おわりに乳母との再会が用意してあるらしい。それだけらしいね。
以下断片的箇条書き的に記すが、
津軽の大地主だというが、そういう雰囲気がまったくない。もっとも彼は階級の逆コンプレックスからプロレタリア文学に接近したそうで、意識的に地主の家庭の匂いを消しているのかもしれない。しかし、自伝ならそんな工夫をする必要もないのではないか。
高校時代まで青森にいたと言うのも奇異な感じだ。大体、こういう家庭だと早ければ子供の時から、おそくても中学校くらいで東京などに居住して学校に行くだろう。10番目の子供と言うが、家庭の内情に関係があるのか、肝心のところの説得力ある描写がこれからあるのか。
つまりこの作品は、額面通りの旅行記であって、自伝小説ではない。旅行記に小説味をつけたものということだろう。
つまり家庭のことは語られなかったのだ。彼の言うように家庭を描くことが至難であったのか。はたまた、それは意図的に隠蔽されたのか。
普通郷里の旅行記を書くなら、そして協力者を求めるなら家族や実家の人たちだろうに、小説の中での随伴者は妙な顔ぶれである。