小説の翻訳と哲学書の翻訳ですこし事情が違うようだ。小説の場合はあまりに安易に流すのが気になることがある。このブログで触れた例で言えば、村上春樹訳の「グレート・ギャツビー」のold boyの例とか、「貴族」と気楽に訳してしまう例とか、19世紀のロシアの鉄道網の発達とか、もう少し解説が有った方がいいと思うことがある。
哲学書の場合はあまりにも突飛な漢文調の訳が問題だろう。今長谷川宏訳のヘーゲル「論理学」を拾い読みしているが、「媒介された」という表現がやたらと出てくる。率直に言えば、日本語として意味をなさない。こなれない表現である。
哲学書の翻訳というのは訳者の解釈が色濃く反映する。自信がない場合は明治時代から使われている表現を使うのが無難と思っている。
長谷川訳は読みやすいという定評があるようだが、あらためて覗いてみると未だし、という印象である。
そこで欧州語(英語を含む)ではどう訳しているかと、ある英訳本をめくってみた。色々に工夫して訳しているようだが、或るところでは、mediated trains of thought と補足して訳している。これなら一読腑に落ちる。
落語風にいえば、「何がなにして何とやら」というカーブの少ない直線的推理であり、「ああでもない、こうでもないと思案をかさねて」という気迷いカーブ線路ということになる。
かと思うと、単にmediatedと訳している。これが原語なのだろう。そして長谷川宏訳の「媒介されて」になるのだろう。もっともこれは他の訳者の定番なのかも知れない。樫山金四郎訳ではどうだったか。読み返していないが。
Mediatedも(ドイツ語でも同じ系統語源だと思うが)媒介されてと訳すのはどうかな。[mediate] の最初の語釈は英和辞典によると、調停する、仲介する、であり形容詞としてはたしかに「媒介の」という例がある。しかし、ヘーゲルの言っていることは上記の様に様々な推理を重ねて見いだされた調停案、解決策という解釈のほうが正しい。媒介されて、とはいかにもこなれない表現である。
従って一語で訳す場合にももっと工夫があるべきだろう。ま、これはほんの一例だが、特に哲学書の翻訳には珍妙なのが多い。