穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ティファニーでの朝食の食べ方

2015-01-01 23:55:51 | ティファニーで朝食を

インターネットで見たら「ティファニー」は映画の話ばかり。でその一つのサイトで映画の冒頭とラストの場面をユーチューブで再生した。

冒頭の場面でオードリーがタクシーで開店前のティファニーの店の前にやって来て紙包みから菓子パンとコーヒーカップを出して店の中を覗き込みながら立ち食いしている。なるほど、ティファニーで朝飯を食うにはこうすればいいわけだ。 

ラストの場面も見た。彼女がブラジルに出発する途中で猫を路上に捨てていく場面だった。これは小説にもあるが、思い直してタクシーを降りて猫を探しに行く。ここからは小説とは違う。そうして雨の中で猫を見つける場面でハッピーエンド的に終わっているようだ。

あれじゃブラジルに逃げることはないんだろうな。いや「僕」に猫の世話を頼んでやはりブラジルに逃げるのかしら。

 


オードリー・ヘップバーンの印象とは大分違う

2015-01-01 23:07:46 | モディアノ

「ティファニーで朝食を」は映画で有名でした。主演がオードリーで、この映画は見ていないが、「ローマの休日」の彼女の印象と小説の印象は全く違う。村上春樹もあとがきで書いていますが、カポーティもこのキャスティングには不快感を表明したといいます。

ホリー・ゴライトリーという20歳(未満?)の女性が主役ですが、将来有望な映画俳優の卵ということになっている。しかし、芸能界やニューヨークの社交界では結構知られた顔になっている。ボロアパートに住んでいるが、ひっきりなしに金持ちや映画界の大物を招いては乱痴気パーティを開いている。一種のセレブと言うか成功者だ。虚栄の市に住んでいる根無し草という設定はギャツビーと同じ。カポーティは彼女は「ゲイシャ」だといっている。読み方によっては「高級コールガール」あるいは高級遊女という感じがある。

「僕」がナレイターでグレート・ギャツビーのニックにあたる。同じアパートに住んでいる。

彼女の素性が分からないというのもギャツビーと同じ。最後にテキサスのチューリップというとんでもない田舎から出て来たということが分かる。ほんとにチューリップなんでいう場所はあるのかな。カポーティのギャグだったりして。

ギャツビーは暗黒街のボスという隠れた顔があったが、彼女には刑務所に入っているマフィアとの連絡役という側面があり、逮捕されるが保釈されてブラジルに逃亡して杳として行方が知れなくなるというもの。殺されたギャツビーほど悲劇的ではないがキング(クイーン)の座から転落しておわるところは同じ。

これだけなら芸の無い話だが、この19歳くらいの「高級娼婦風」が「僕」を相手に気のきいたセリフを連発する。ときに高踏的警句、ときに深遠な哲学的言辞を吐く。もちろん単に支離滅裂なこともしゃべる。およそ、こんな破天荒な若い女性が現実にいるとは思えないが、いる様に思わせるところがカポーティの芸である。一読の価値があります。

あるとき、彼女が「アカな気分になる」という。最初は読飛ばしていたが後で又出てくる。なんじゃい、と思った。共産主義者的とか過激派的とかなんかと思って読み進むがどうもつながらない。しょうがないから、最初から読んでみるとどうも「ブルーな気分」(憂鬱なという意味ですかな)と対比していうホリーの造語らしい。「僕」はアングスト(不安感)と解釈している。実存の危機感とでいいますか、気取って言うと。 

ギャツビーでは「オールドスポート」について長々と考証をした村上氏は全然あとがきでも言及がないからわからない。カタカナで「アカな」と書いてある。此れじゃ分からない。原文はどう書いてあったのかな。Red,scarlet or crimson ?

ブルーと対比しているから色には違いないだろうが、うっかり読むと垢と勘違いする、それでも意味が通りそうな気がする、なにしろ型破りの発言をするホリーのことだから。 

タイトルの「ティファニーで朝食を」だが、このアカと関係してくるから重要なところでここは村上春樹氏に是非翻訳を工夫して欲しいところだ。

ホリーが「僕」に説明したところによると、アカな気分に取り憑かれたときはアスピリンを飲んだりヤクをやったりしてもだめで「ティファニーに言って朝食を食べる」と治るとすっとぼけたホリー用語で言っている。

高級宝飾店として、おつに取り澄ました雰囲気の店に行くとアカな気分がおさまるという人を食った言葉なのである。ところでニューヨークのティファニーはレストランを併設しているの。これもギャグくさいがね。

最後に「グレート・ギャツビー」は1924年発行、「ティファニーで朝食を」は1958年発行です。


ティファニーでおせちを

2015-01-01 18:07:43 | モディアノ

あけましておめでとうございます。皆様はアカな気分になっていませんね。ましてブルーな気分にはなっていないと思います。おとそで邪気をはらえばそんな気分にはなりません。

わたしはどうも読書傾向を探るという癖がありまして、このところノーベル賞作家のモディアノ氏の作品をあらかた読みました(翻訳で)。彼の場合でも、どんな本を読んでいるのか気になりまして、解説等でもそういうところに目がいきます。

最近ラディゲの作品を読んで書評したのも彼の「8月の日曜日」に頻出する「プロムナード・デ・ザングレ」がラディゲの影響だというので読んだ訳です。パリ市内セーヌ河岸にあるニースが本家の「プロムナード」のまがい物に触発されただけのことらしいと分かりましたが。 

また、あるところで彼の読書履歴でカポーティの「ティファニー」を上げているので未読だったのを幸いに読んだわけです。結論から言うと、これらの作品とモディアノの作品との関係、影響は感じられません。

もっとも感銘を受けた作品が直に自作に影響する方が珍しいのかも知れない。影響を受けているとすればもっと深いところで感銘を受けているということでしょう。あるいは営業上の理由で本当に影響を受けた作品は隠すというのが作家かも知れない。

ところで「ティファニー」は新潮文庫で村上春樹訳でした。読後の印象は構造的にフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」に酷似しているということでした。後者は村上氏の訳の評判が高い。これも村上訳というのでちょっとびっくりしました。

ところが、村上氏の訳者あとがきではグレート・ギャツビーとの比較には全く触れていない。それなら、ここで書く意味があるかなと。 

続く、、