村上春樹氏はチャンドラーの短編は翻訳する気はないと言う。「短編はどうもね」と何処かで書いていた。質が落ちるという訳である。
その理由は「ブラックマスク」誌の編集方針というか編集者の意向がはっきりしていたというのである。BM誌は扇情低級誌であった。犯罪小説は格好のジャンルであったが、しんねりむっつりでひとりよがりの「本格もの」はお呼びでなかったのである。
クライムノベルでも短編でも小説だから起承転結はある。しかし、紙面の制約からとにかく、活劇場面、猟奇場面が一応描かれていればイントロとか最後の謎解きは編集者に端折られてしまう。チャンドラーと編集者の関係も例外ではない。
BMはいわゆるパルプマガジンである。すなわち粗悪な価格の安い紙を使うからそう言われた。紙代までけちるのだから、小説の長さも「不要部分」は削る様に作者に要求する。これが作品の質に影響する。作者のフラストレーションになる。
最近大いなる眠りを読んだあとで、この作品の下敷きの一つである短編「カーテン」を再読したが、第一章は要領を得ない。初読の時の印象を思い出した。こういうことが他の短編でもあるのであろう。
チャンドラーはこれを嫌って、後半は長編に移行した訳だが、どうも私の観る所BM時代の影響習慣が長編にも残っているようである。よく言われるプロットがあまい、構成が甘い(齟齬がある)、などという批評はBM時代の習性がおのずから残っているのであろう。
チャンドラーの命は印象的なシーンである、それを的確に(相応の感受性を持った)読者に伝える卓越した文章力である。つまり、イメージ、場面優先の作家である。皮肉なことだが、BM誌の商業的な厳しい制約は、別の見方をすれば、チャンドラーの資質を鍛える役割を果たしたのではないか。