チャンドラーの作品で他の作家、とくに純文学作家に言及した所は一カ所しかない。当然でミステリーの中で文学論をしてもはじまらない。
それは「ロング・グッド・バイ」のなかで、マーロウは流行作家の看護人を頼まれる。例によってそんな仕事は嫌だというのだが、いつの間にかウェイド(そういう作家の名前だったと思う)のボディーガード兼看護人となる。
ボディーガードというのは妻にたいするDVの監視であり、看護人というのはアルコール中毒であるウェイドの監視である。
会話の中で、作家は執筆に呻吟する様になったらおしまいだとウェイドがいうと、マーロウが「フロベールは苦心して書いたが名作を書いた」と反論する数行の箇所である。これは勿論チャンドラーの意見に決まっている。
ま、そんなことでフロベールの名前を覚えていた。この度新潮文庫でボヴァリー夫人を読んだのだが、翻訳を通しても彼の文章が水準を抜いていることが感得出来た。
小説なんて文章なんてどうでもいい、という馬鹿な批評家が生きて行ける日本である。オペラは筋が深刻でテーマが奇を衒っていれば歌手がどら声、悪声でも良いなんていう低能児童いたいなものだ。
たしかにフロベールは一つの頂点である。頂点は複数あってもいい。勿論頂点が百も二百もあっては、もはやそれは頂点というものではないが。私の持論だがいかなる表現形式の芸術でもシュンな期間がある。西欧の小説は19世紀がシュンだった。フロベールはそれを代表する一つの頂点だろう。イギリスは欧州大陸より一ないし半世紀旬の期間が前になる。逆にアメリカ、東欧や中欧は20世紀前半までシュンの時期がずれる。
日本はどうだって、さあどうかな。