さて次はやはり法哲学の序文の最後に出てくる「ミネルヴァのフクロウは黄昏がやってくると初めて飛び始める」(中公クラシックの訳による)である。これは文脈ではっきりとした解釈がヘーゲルによって与えられている。したがって両義的ではない、となるが敵はさるもの(ヘーゲルを敵と言ってはいけませんな)、裏の意味を持たしているのではないかと邪推するわけであります。
これがヘーゲルのオリジナルか出典が古代にさかのぼってあるのかどうか、つまりヘーゲルがどこからか引用したのか、ありそうだと思って調べてみたが分からなかった。ま、ミネルヴァのフクロウとはアテナイの知恵の女神であるアテーナーである。ミネルヴァはローマ読み。黄昏というのは一日のおわり、つまり物事を概念的に捉える哲学というのは現実の歴史がすべて終わってから出来上がるという意味だと、これはヘーゲルの注釈である。
これは事実の一面である。すなわち哲学というのは干からびた灰色なものである。これは一面の真実であると同時に当局に対して哲学というものはそういうものだから危険なものではない、と言っているのである。どうせ検閲官は序文しか読まないと思ったのだろう。
ところでほかの著作でもいえるがヘーゲルは序文では韜晦しない。本文に比べるとわかりやすい。おそらく検閲官対策なのであろう。
これからが小筆の憶測なのであるがヘーゲルの遊びとしてこういう裏解釈がありそうだ。本当の哲学はあからさまな文章では伝えられない。それは白昼の明るい光の下ではなく黄昏の暗闇(オカルト)の中で伝えられる。
黄昏の特徴は一日の終わりであるとともに、暗闇を意味することである。
それは当局の目をくらますためか、哲学の奥義はそう簡単に文章では伝えられないよ、ということかもしれない。日本語で言えば武道秘伝書、免許皆伝書の最後は必ず「以下口伝」とあり、白紙になっているのと同じだ。
あるいは禅で言う「不立文字」がこれに相当するかもしれない。つまり哲学の奥義はオカルテックに表現される(用心して)ものだという西欧哲学の一方の伝統であるESOTERICな表現なのかもしれない。
ところで、最近村上春樹の対談集で「ミネルヴァのミミズクは黄昏に飛びはじめる」というのがあるが、彼ら(村上、インタビュアー、編集者)がどういうつもりでつけたのかなな。また別の思惑があったのだろう。いずれにせよまだ70ページしか読んでいないからわからない。