穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ミネルヴァのフクロウ

2017-06-09 10:55:37 | ヘーゲル

さて次はやはり法哲学の序文の最後に出てくる「ミネルヴァのフクロウは黄昏がやってくると初めて飛び始める」(中公クラシックの訳による)である。これは文脈ではっきりとした解釈がヘーゲルによって与えられている。したがって両義的ではない、となるが敵はさるもの(ヘーゲルを敵と言ってはいけませんな)、裏の意味を持たしているのではないかと邪推するわけであります。

 これがヘーゲルのオリジナルか出典が古代にさかのぼってあるのかどうか、つまりヘーゲルがどこからか引用したのか、ありそうだと思って調べてみたが分からなかった。ま、ミネルヴァのフクロウとはアテナイの知恵の女神であるアテーナーである。ミネルヴァはローマ読み。黄昏というのは一日のおわり、つまり物事を概念的に捉える哲学というのは現実の歴史がすべて終わってから出来上がるという意味だと、これはヘーゲルの注釈である。

これは事実の一面である。すなわち哲学というのは干からびた灰色なものである。これは一面の真実であると同時に当局に対して哲学というものはそういうものだから危険なものではない、と言っているのである。どうせ検閲官は序文しか読まないと思ったのだろう。

 ところでほかの著作でもいえるがヘーゲルは序文では韜晦しない。本文に比べるとわかりやすい。おそらく検閲官対策なのであろう。

 これからが小筆の憶測なのであるがヘーゲルの遊びとしてこういう裏解釈がありそうだ。本当の哲学はあからさまな文章では伝えられない。それは白昼の明るい光の下ではなく黄昏の暗闇(オカルト)の中で伝えられる。

 黄昏の特徴は一日の終わりであるとともに、暗闇を意味することである。

 それは当局の目をくらますためか、哲学の奥義はそう簡単に文章では伝えられないよ、ということかもしれない。日本語で言えば武道秘伝書、免許皆伝書の最後は必ず「以下口伝」とあり、白紙になっているのと同じだ。

 あるいは禅で言う「不立文字」がこれに相当するかもしれない。つまり哲学の奥義はオカルテックに表現される(用心して)ものだという西欧哲学の一方の伝統であるESOTERICな表現なのかもしれない。

 ところで、最近村上春樹の対談集で「ミネルヴァのミミズクは黄昏に飛びはじめる」というのがあるが、彼ら(村上、インタビュアー、編集者)がどういうつもりでつけたのかなな。また別の思惑があったのだろう。いずれにせよまだ70ページしか読んでいないからわからない。

 


ヌエ(鵺)のようなヘーゲル

2017-06-09 07:40:57 | ヘーゲル

ベルリン時代のヘーゲルを見ていると、第二次世界大戦前、日本の満鉄調査部で業績をあげた共産党員からの転向者を思い出す(スケールは小さいが)。ナポレオン失脚後のプロイセンでの最初の改革はある程度自由主義的であって、これはヘーゲルの提案が取り入れられたという。しかし、その後極右的国粋主義的な学生運動が勢力を伸ばすと政府を悩ませた。ロシア人刺殺というテロも学生運動家によって行われた。また学生運動の旗印の一つはユダヤ人排斥であった。

 この学生運動対策として目をつけられたのがこれまたヘーゲルであった。その目的で彼はベルリン大学に招聘された。当時からヘーゲルは学生を手なずける才能が認められていたらしい(著書を通してではなく、講義を通して)。

 しかし当局はヘーゲルには啓蒙思想に染まった一面は残っていると疑っていた。彼がベルリン大学総長になったあとも死に至るまでプロイセン政府秘密警察の監視下にあった。かれはコレラで死んだのだが、これが本当の死因だったか疑問視する向きもある。発病の翌日に死亡している。普通のコレラ患者と異なり病状の進行が早すぎるというのである。

 ベルリン大学の学生たちはヘーゲルの葬送の行列に加わり行進することを計画していたが当局は学生たちの参加を禁止した。学生たちの参加がデモに発展し天安門事件のようになることを恐れたというのである。

 かれは普通プロイセン政府の御用学者と言われるが、正反対の側面もあったのである。カール・マルクスはヘーゲルの鬼子であった。