よく泣く泣く蔵書を処分したという記事を見るが理解不能である。この間もタブロイド夕刊紙で花田氏がそんな話を書いていた。彼が前にも似たような文章を書いていたようだが、どうも理解しかねる。
まあ、商売が商売だから私よりも蔵書の必要量は多いのは分かる。平安時代の古典籍を手放す話なら分かるんだけどね。大体理解できないのは花田氏に代表される蔵書家は本を読むときに書きこみをしないのだろうか。花田氏くらいになると古本屋も敬意を示すのだろうが、私など、書き込みが少しでもあるととんでもないと断られる。
読書は対話というが、書き込みは対話の記録である。記憶力抜群なら何の印もつけないで読んでもどこに何が書いてあって、自分の感想意見はこうだったとたちどころに思い出すのだろう。
私の場合、書き込みを基準に分類すると三種類になるかな。
1:まったく書き込みがないもの、ほとんどが最初の数ページを読んで箸にも棒にもかからないと投げだしたものである。
2:書き込みがあるものA;つよい反論があるが一概に放擲できないもの
3:書き込みが多く、内容的に印象を受けたもの(賛否に関係なく)
1は言うに及ばず、2ないし3も本がたまってくれば処分しなければスペース的に余裕がなくなるが古本屋が引き取る(必ずではないが)のは1:のみである。
3:については再び手にとってもなお、手元に置きたいと思うものは少ないが古本屋が相手にしないからごみで出すしかない。
それから古雑誌の通しナンバーを古本屋から購入して大事にしているという話をする人がいるが、これは読書家というより蒐集家というべきだろう。