五柳先生伝に「意に会する」文章あり。
『書を読むを好むも、甚だしく解するを求めず。意に会するもの有るごとに、すなわち欣然として食を忘る』
哲学書と言うものは曖昧なものである。それは詩をしのぐ場合が多い。しかし、なるほど、うまいことを言うな、と思わず膝を叩いてうれしくなることがある。そんな時に食事を忘れるほど有頂天にはならないが、ま、そんな感じだ。
その意味を「甚だしく、事細かに、根掘り葉掘り解(釈)し詮索する」のは大学の哲学教師に任せておけばよろしい。彼らはそれで飯を食っているのだから。
五柳先生伝に「意に会する」文章あり。
『書を読むを好むも、甚だしく解するを求めず。意に会するもの有るごとに、すなわち欣然として食を忘る』
哲学書と言うものは曖昧なものである。それは詩をしのぐ場合が多い。しかし、なるほど、うまいことを言うな、と思わず膝を叩いてうれしくなることがある。そんな時に食事を忘れるほど有頂天にはならないが、ま、そんな感じだ。
その意味を「甚だしく、事細かに、根掘り葉掘り解(釈)し詮索する」のは大学の哲学教師に任せておけばよろしい。彼らはそれで飯を食っているのだから。