この間ある大書店の哲学棚の前を通ったらベルクソン全集とか彼の著作がかなり並べられていた。日本でも大正時代を中心としてもてはやされた哲学者の一人だったが、以後忘れられた存在だった。どういうわけがミニブーム再来の兆しだ。
哲学界も種切れで、やれポスト構造主義だ、新実在論だというのも陳腐になったので、ベルクソンで一山当てようというのだろう。哲学講釈で飯を食っている人たちが新しいタネを見つけてリバイバルを狙ったのだろう。なにか(よりどころ)がないと食っていけないからね。
わたしも最近彼の翻訳を二、三贖ってみたのだが、これが厄介な代物だ。
私の考えでは哲学、形而上学は科学(実証科学と古い言葉では言うが)を拠り所としてはいけない。逆でなければいけない。彼の主著と言う「物質と記憶」(岩波文庫)を見ているが妙なことを書いている。この本の最後に『要約と結論』というのがある。此の冒頭がおどろおどろしい。
『私たちが事実から引き出し、推論を通じて確証した思想によれば云々』
最初の句から『推論』するに、これを敷衍して解釈すれば『実証科学に基づけば』ということだろう。これがおかしい。形而上学は実証科学に基づいてはいけない。形而上学は実証科学に仮説となる前提を提供する立場にある=ポパー参照
もっとも本書は1896年発行であるから当時の実証科学(人体生理学などとと思われる)に基づいているらしい。(実証)科学は日進月歩である。100年以上前の解剖学、生理学を論証の証拠とするのはナンセンスである。しかも文章を読むと、本当に当時の科学に基づいているというにしては議論が粗雑である。