穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

8-3:老人、マイコンを語る

2018-10-02 08:22:22 | 妊娠五か月

 老人は自分の突き放したような答えではあまりにもお愛想がないとTを気の毒に思ったのだろう。ぼちぼちと説明をはじめた。

「昔といっても会社員のころですがね、そのころ走りのマイコンをいじりだしましてね」

「マイコンというと」

「いまではパソコンといいますな。素人でも部品を組み立てるとコンピュターの真似事が出来るとかアメリカの雑誌で読んでね。レディオ・シャックとかタンデムという町の電気屋のキットを組み立てましてね」

「何時頃の話ですか」

「そうだな、昭和の終わりごろだったかな。そのうちに日本でもNECがTK-80という伝説のキットを販売しだした」

「どんな仕事が出来るんですか」

「なに、実用的なことは何もできません。幼児用のおもちゃみたいなものでした。プログラムも16進数の機械語で入力してね。1+1=2ぐらいはできたが」

「あなたは理科系だったんですか」

「いや、そうじゃない。文系も文系ですよ。しかし当時会社で経営計画とか需要予測なんてのをやっていてね。販売データなんかを多変量解析で分析するんです。これが機械的な計算の連続なんだが、手回しの計算機でやるんです。簡単な需要予測をするのにも延々と手回し計算機で夜遅くまで残業する毎日でね。ちょっと大掛かりになると会社の情報システム部にある大型計算機の使用を申請するわけですよ。それも簡単に使わせてくれない。給与計算とが工場管理に目いっぱい大型計算機は使われていて、空き時間がとれない」

  老人はコーヒーを一口飲むと一息ついてから続けた。

「そういう職場にいたものだから個人がコンピュターを作れるという話に反応したんでしょう。もちろん当時の子供じみたキットでは1+1くらいしかできなかったが、これは大きな可能性を秘めていると直感しました。30年後のパソコンはその延長線上にあるわけだが、私の考えていた通りになっている。現在でも会社では大型コンピューターも使われているがその役割は限定されている。何十億円もする大型コンピューターの活躍の舞台は科学技術の研究とか気象予報とか役割分担がはっきりとしている。昔情報システム部に頭を下げて空き時間に使わせてもらったような仕事はパソコンが全部やっている。マイコンがパソコンと呼称を変えたころ私はパソコン導入の予算申請をしてね。パソコンを会社として導入したのはうちの会社は一番早いほうじゃなかったかな」

 「今でも趣味でなさるんですか」

「いやいや、もうとうの昔にやめています。今でもパソコンを自作する人はいるけど、意味がぜんぜん違ってきている。いまは基板はすでに出来上がっているし、そこにこれも完成品の電源をつないだり、記憶装置(これも完成品です)などを繋ぐだけで面白くもなんともない。それに部品がやたらと小さくなってね。それと年齢とともに私の視力も弱くなっているから細かい針仕事のようなことは出来ない。今は完成品を使っているわけですよ。

 


8-2:老人は小説を作る

2018-10-01 07:37:42 | 妊娠五か月

 店内にはほどよく計算された音量でピアノ・ソナタが流れていた。客同士の会話を聞きずらくするほど大きくはなく、聞き耳を立てないと何を流しているのかわからず、耳をくすぐられているような感じを催させる蚊の鳴くようなかぼそいボリュームでもない。ふと会話が途切れるとピアノの音が二人の間に割り込んできた。

「ベートーベンですかね」と音楽には自信のないTは言った。

「一番ですね」

「ベートーベンはピアノ・ソナタだと優しい曲を書きますね。私は彼の交響曲は苦手だな」とTは言った。老人はコーヒーを一口飲んだ。

 「ところで今は碁打ち三昧ですか。毎日あそこにいらしているようですね」

Tはこの相当な年配の老人がなにか仕事でも持っているのかな、と兼ねがね思っていたので探ってみるようにたずねた。Tには老人がそれほど枯れ切った人物には思えなかったのである。どこかエネルギーが年のわりには体内に充満しているような印象を抱いていたのである。老人は眼をすぼめてしばらく彼を見ていたが、

「十年前に妻に死なれてからは、毎日することがなくてね。妻がいたころは年中旅行をしたりしましたがね。女性と言うのはどうして、あんなに旅行が好きなんでしょうね。東京にいるときは買い物に付き合わされたり、どこで調べるのか、おそらく女性の仲間と情報を交換しているのでしょうが、美味しい料理が食べられるとかいってレストランを回ったりで結構退職してもあちこちしていたんですがね。それが一人になると何もすることがなくなるんですな。ゴルフでもしていれば、会社時代の友人と誘い合わせてラウンドするんでしょうがねえ」

「なるほどね」とTは独り言のように呟いた。ワイフと別れる前はそう毎日市中を徘徊することもなかったなとTは振り返った。

「しかし、碁だけじゃ持ちきれませんや、一日は長いからね」

Tははっとしたように老人を見上げた。

「私も仕事を持っているんですよ」と老人はからかうように言った。「当ててごらんなさい」

「さあ、見当もつかないが、定年退職して余裕のある生活をしていらっしゃるようだから株でも運用しているのかな」

「外れ」と言ったきり老人は黙っている。

「さあねえ、見当がつきませんね。まさかどこかの会社に再就職されたとか。顧問とか嘱託とか。まさかそんなことはありませんよね」

しばらく老人は効果をはかるように黙っていたが「小説を書いているんです。一年に二冊長編小説をかくことをノルマにしています」

これにはTも意表をつかれた。「小説と言うと」と間の抜けたことを聞いた。

「ポルノですな。ハードボイルド風味の」と老人はすまして告白したのである。

「これは本当に驚きましたよ。昔から書いているんですか」

「なに、ここ五年くらいのことですよ」と老人は当たり前のように言った。