山陽鉄道(現山陽本線)と接続する、長岡と西大寺間を先行開通させ
たのは、言うまでも無く観音院を参拝する観光客の輸送目的である。
この間には競合するバス路線もなく、鉄道は旅客の輸送量も多く経営は
安定していた。
特に毎年二月に開催される「はだか祭」は書き入れ時で、所有車両を
総動員し夜通しピストン輸送でお客を捌いたことで、年間収入の大半を
この運賃で稼ぎ出したと言う。
古い写真(岡山今昔写真集 2012年10月 樹林社)を見ると、小さ
な蒸気機関車に何両もの客車を連結し走る姿が残されている。
デッキにまで人が溢れ、車室に入り切れなかった一部の乗客の姿が屋根
の上にまで見える。
当時の路線には、トンネルが無かったのでこのような事も出来たらしい。
当初には、金岡~沖田~花畑に到る当時の上道郡一円を循環する路線
計画も有ったようだが、これは後に免許を取り下げ実現しなかった。
又後楽園駅まで延伸の後は、市内中心部への乗入れも考えていたようだ。
それは叶わなかったが、それでも岡電の路面電車・後楽園口電停と連絡、
市中心部ともルートが繋がり、暫くは安定した黒字経営が続く事になる。
そんな鉄道が廃線に追い込まれたのは、昭和に入り勃興した路線バス
の存在である。
また、当時の国鉄が長岡(後の東岡山)から分岐して、西大寺を経由す
る赤穂線を昭和37(1962)年に開業させた影響も大きかった。
軽便全盛の戦前には九州北部などに、同じ軌間の鉄道もいくらか存在
していたが、バス路線の拡充につれ次々と廃止された。
結果、戦後まで残ったのは、この鉄道のみであったが、同じ年の同じ月、
西大寺鉄道は52年に渡る歴史に幕を下ろしている。(続)
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