藤戸の「乗出岩」は、盛綱が騎馬で海に乗り出したとされる場所だ。
昔はこの辺りまで、海が入り込んでいたのだ。
途中少し高くなった浅瀬「鞭木」の辺りで一旦人馬を休ませ、持って
いた鞭を水底にさすと、やがてその木は大木に成長した。
それがこの地名の謂れだと言われている。
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再び対岸を目指し、現在の種松山のふもと「先陣庵」辺りに上陸した。
当時は、騎馬で海を渡るなど不可能と考えられていた時代である。
自信に満ちた盛綱の後ろ姿に、源氏方3万の兵も続々と続く事になる。
これにより、布陣する平家軍との間で激しい争いが繰り広げられた。
後にこの行為を、源氏方の総大将・源頼朝は先例無き事と激賞した。
恩賞として備前の国・児島の領有を許し、地頭とする恩賞を与えている。
知行地を得た一族郎党は当地に移り住み、以後権勢を奮ったという。
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藤戸寺から倉敷川を渡った対岸に小さな山が見える。
嘗ては海に浮かぶ小島で、今では「経ケ島」と呼ばれている。
藤戸寺で兵士や漁夫の追善供養をした盛綱は、写経した経を寺の飛び境
内であるこの島に埋めた。
その頂上に古びた石灰岩で作られた宝篋印塔と六角形の石塔が立っている。
盛綱に口封じで殺された、漁夫「浦の男」を追福する塔と伝えられている。
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この他にも藤戸の町には、良く知られた史跡がある。
藤戸寺から500mほど離れた田圃の中に有る、「浮き州岩跡」である。
嘗ては海面上に浮き出て姿を見せていた岩礁の跡だ。
織田信長により二条御所に持ち出され、その後秀吉により醍醐寺三宝
院の庭園の主人石として移された藤戸石は、この浮洲の岩であったと伝
えられている。(続)
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