鈴木大拙
石川県の哲学者「鈴木大拙先生」の本「禅とは何か」を読んだ。
石川県では西田幾多郎と共に有名な郷土の哲学者というところで、一度は手に取ってみたいと思っていた。図書館で探したら数冊あったが、昔の本は字が小さい。この本は中でも新しく、それでも1991年発行だ。
弓道は儒教からきているが、「弓は立禅」と、言われるのは何故か。そこを知りたい。
武田鉄矢の「朝の三枚おろし」のように、上手におろせないが、皆さんに一切れ食べてもらいたい。しかし、大きな鯛のようで、わたしのなまっちょろい包丁ではきれいにおろせない。おまけに、うろこが多いときている。
禅は心理的方面になくてはならぬ。すなわち、神秘的体験の上になければならぬ。哲学ではない。基礎は心理学の上に置かれる。心理的体験の上に禅の生命がある。
哲学には鋭い論理を持っている。その裏には破れやすい弱点を持っている。絶えず論理の覆滅を繰り返す。要するに、論理の弱点は覆されるということ。
禅はいつも、自分に戻る。と、ある。また、心理的に基礎を置くと個人の信仰、体験で立脚。
ちょっと待って、なんですって!整理すると、禅は哲学ではない。心理とか意識の方面であるという。宗教は、その時代の人の知恵によって説法していくので、一代で出来ているのではない。積み重ねである。で、精神も、将来自分を繰り返していくのではなく、自分をだんだん高めていく、あるいは浄めていくのである。と、なると弓道の精神に被ってくる。
意識を研究すると、意識は、自分の覚知範囲内だけでなくその外にも働いている。自分の知らないと思っているところにも働く。意識せぬとき、注意を向けていない時に意識が働く。芸術家が何かの拍子にひらめく。文章がひらめくのも同様。
と、ここまでくると何が何だか分からなくなってきた。禅はいつも自分に戻るという。
読み進んでいくうちに、説明し難くなってきた。うすうす思うことは(決して分かったとは言えない)日々研鑽の中に、自分を見つめ高めていくことを追求するということが、弓道の精神と禅の精神の共通項だろうか。簡単に言ってしまってはいけないということも、本を読んで分かったことでもある。さっぱり分からない人は、この本を直接読んで、かみ砕いてください。
ううっ、歯を食いしばっていたので、疲れた。