小沢氏が政治倫理審査会で説明したり、あるいは検察官役の指定弁護士の事情聴取に応じていたら、それなりの手がかりも掴めただろうが、その要請を拒んできたので有罪立証はきわめて困難だろう。
これに対して、民主党執行部はどうするのか。離党しなければ除名、議員辞職しなければ除籍の方向に進む強硬手段をとるのか。どうやらそうはならないようだ。「党員資格停止」を軸に検討するらしい。
菅首相は今年の年頭会見で「“政治とカネ”の問題にけじめをつける年にする」と強調。「起訴が行われたときは政治家としての出処進退を明らかにし、裁判に専念されるべき」と主張。議員辞職まで視野に入れた強気の姿勢を示した。
だが、強気の姿勢は次第にトーン・ダウンして、国会審議では逃げ腰になっているように見える。31日には「岡田幹事長を中心に役員会などで協議する」と言っていたが、1日の衆院予算委員会では、国会での小沢氏の説明について「与野党で話し合い、実現するよう努力したい」に変わった。得意の“与野党協議”に丸投げして逃げ出した印象だ。
首相を弱気にさせた大きな理由は2つある。
1つは、公明党が明確に菅不支持を打ち出したこと。本会議で堂々と首相退陣か解散・総選挙を求めたのだから、少なくとも菅政権である限り連携の可能性が消えてしまった。現内閣での予算の成立や予算関連法案の成立が一層困難になったのだ。
もう1つは、日本国債格付け問題での失言。「疎い」という言葉を発したことは取り返しがつかない。その失言自体はそれほど重大とは思わないが、学識不足と見られることを極端に嫌う菅首相の落ち込みは大きい。
そこに追い打ちをかけたのが、31日の予算委員会での「蒙古民族」発言だ。中国の辛亥革命から100年。これに関連して「清王朝という蒙古民族を中心にした王朝」と間違え、その後「満州族」と訂正した。一般人ならともかく、首相がこんな基本的な知識を備えていなかったとしたら、それこそ見過ごすことはできない。菅首相のことだから、あわてて中国近代史を調べ直しているのだろうか。
“小沢切り”で支持率が上がるほど
政権運営は甘いものではない
さて、菅・小沢対決はこれから相討ちのようになっていくだろう。どう経過してもそれが大きな政権浮揚効果をもたらすことはない。ただ、首相にとっては、振り出した“小沢切り”の手形をうやむやにはできない。それに、「有言実行内閣」とも言ってしまった。要するに、政権運営は、場当たりや思いつきで乗り切れるほど甘くはないのだ。』
ころころ変わるのは、菅直人総理大臣の言動ばかりで、日本国債格付け問題での失言。「疎い」と言ったことは経済音痴と言わざるを得ません。菅直人首相にデフレ脱却と日本の景気回復が本当に今年中に出来るのでしょうか。アメリカの格付け評価の仕方のせいにするよりは国際化時代の世界経済を見通す内閣総理大臣として、洞察力不足です。1月31日の予算委員会での「蒙古民族」発言だ。中国の辛亥革命から100年。これに関連して「清王朝という蒙古民族を中心にした王朝」と間違え、その後「満州族」と訂正した。本当に中国の歴史も勉強しないで、その時ばったりの失言ばかりです。中国と日本との友好関係もこの間違った訳の分からない歴史的認識で阻害されるのでは有りませんか。元民主党代表小沢一郎氏を民主党から追放し、菅内閣の政権維持と支持率アップを狙い、「 国民の生活の第一」の政治を忘れ政権公約の見直し発言ばかりで、日本国民を平気で裏切り総理大臣の椅子だけに簸たすらしがみ付く、政権担当能力無き総理大臣で国民の声が聞こえなくなった哀れな市民運動家の末路では有りませんか。勉強と学習不足に加え、未熟な政治経験が日々露呈する国会劇場では有りませんか。国民の為にも日本の国益の為、日本の国を滅ぼさないように幕をおろして欲しいと思います。
小沢一郎氏の懐刀と言われる平野貞夫元参議議員の「菅民主党新政権に感じること」に書かれている菅直人総理大臣の人格の分析は、長年の政治経験による眼力で今の菅政権のの姿を既に見抜かれていたと思います。良識有る国民には、もう分かってしまっている思います。
■菅民主党新政権に感じること
2010年6月8日 平野貞夫
5月28日(金)午後4時頃、JR常磐線で上野へ向かっていたところ、小沢幹事長から携帯電話があった。内容は、国会会期末から参議院選挙に至る政治日程と憲法や国会法、公職選挙法などの運用についての話だった。
夕刻にかけて電話のやり取りがあり、私が感じたことは、参院選挙の環境を良くするため「鳩山首相・小沢幹事長が退陣し、挙党一致体制をつくる」ことであった。
6月4日、民主党両院議員総会で菅直人氏が代表に選ばれ、8日には菅新体制が発足する。民主党や新政権への支持率は、V字型にアップし、予想どおりの展開になった。しかし、挙党一致体制については挙党どころか混乱体制となった。首相交代ドラマについて、さまざまな情報が流され錯綜しているので、私が関わった事実を中心に問題を整理しておく。
(鳩山首相退陣の深層)
6月2日の民主党両院議員総会で鳩山首相は「10日ぐらい前から退陣を考え、小沢幹事長にも自分の指示で辞めてもらう」という主旨の発言をした。これが真実かどうか問題である。私は5月28日の小沢幹事長との電話のやり取りで「自分の退陣を犠牲にして、首相に退陣を説得する」との心境を感じとっていた。
小沢幹事長は、自分が悪役になって他人を立てて事態を収拾するのが得意である。鳩山首相は責任を他人のせいにして問題に処してきた政治家である。
想い出を話しておこう。平成14年秋、鳩山民主党代表が自由党に突然合併を申し入れたことがある。小沢自由党党首は「せめて役員会の了承をとってからにしてくれ」と留保した。
翌朝、鳩山代表から私に「鳩山―小沢極秘会議で小沢さんは、自由党は党名・理念・政策・人事もすべて条件をつけない。丸ごと合併すると言った。これを役員会で発言してよいか」との電話があった。「それは小沢さんに聞くことで。意見というなら、何にもしらない自由党議員は大騒ぎとなり合併の話は不調となる。小沢は全力を上げて協力するとのことで説明すべきだ」と私は伝えた。
この時の合併話は、民主党でまとまらず、鳩山代表は引責辞任をした。
今回、鳩山首相の退陣をめぐって、鳩山・小沢・興石三者会談が数回開かれた。6月1日の三者会談で興石参議院会長は参院の審議状況、選挙に臨む候補者の心境を鳩山首相に叱るように説明したと聞いている。
この時点で退陣せざるを得ないことがわかったようだ。方法は、小沢幹事長がふりつけていた「鳩山首相が小沢幹事長の首を切る」というやり方だ。会談後の〝親指?は、そのことで、返事は2日ということで話を持ちこした。
(何故、挙党体制がつくられなかったのか)
この三者会談の夜、鳩山・菅会談が行われたとの情報がある。時期は別にして会談は事実のようだ。
以下収集した情報を整理して、要点を再現すると。こんな感じになる。
鳩山「やめるので後をやってほしい」。
菅 「わかったが、小沢を切ろう!」というものといわれている。
この夜、鳩山首相は松井副官房長官に、退陣用の演説の原稿の執筆を
指示する。
私は、5月28日、小沢幹事長と電話でやりとりをした夕刻、菅グループに属する親しい参院議員に、鳩山首相退陣の流れを説明し、菅氏中心の政局となるので挙党一致体制をつくるよう心がけるようアドバイスをしておいたが、まったく逆の方向になったのは残念だ。
6月2日(水)午前9時すぎ、小沢幹事長の代理から電話があり、鳩山首相退陣とその後の政治日程について憲法上、国会法上の運用や前例についての意見を求めてきた。会期末でもあり、参院選挙の日程も固まっている状況だけでなく、朝鮮半島問題、国際的経済危機、災害など危機管理のためにも、政治空白を最小限にするよう意見をいう。
同日午前の両院議員総会で鳩山首相が退陣挨拶する時期まで挙党一致体制が実現できそうになっていた。どうもおかしいと感じたのは、午後2時頃、民主党幹事長室から「官邸は、首班指名を6月8日(火)に延ばしたい」との話が入ってからである。
「そんな発想だから鳩山政権はもたなかったのだ。国民の生命、国家の安全を考えない政治を続けるのかと、言いなさい」と伝えておいた。
情報通によれば、この頃、幹事長周辺に、6月1日の「鳩山?菅会談」の内容が伝わり、挙党一致体制が崩れたとのこと。ここら辺が事実に近いのではないか。
菅氏は2日の鳩山首相退陣を受けて、4日に行われる代表選挙に立候補を表明する。小沢氏は挨拶をしたいという菅氏に会おうとしない。私の推測は「鳩山?菅密談」を知ったからだと思う。
(菅代表の憲法感覚と人間性)
菅氏は立候補の記者会見で、「小沢幹事長は国民の不信を招いたことについて、少なくともしばらくは静かにしていただいた方が、ご本人にとっても、民主党にとっても日本の政治にとってもいい」と発言した。
テレビや新聞のコメンテーターなどは「しばらく」とは小沢に甘いといっているが、そんな問題ではない。この菅氏の発言こそ、憲法感覚の欠如と人間性の欠陥を自分で吐露したものである。
(憲法感覚の欠如)
人間は基本的人権として、言論と行動の自由をもっている。まして与党の幹事長を勤め、党の代表として、政権交代に自己を犠牲にして貢献した小沢一郎という政治家に「日本のためにも静かにしていろ」との暴言は見逃せない。この発言は、政治家の言論・活動の自由を侵害するという憲法上、由々しき問題である。日本の有識者、政治家がこのことに気がつかないことが、日本の知的危機といえる。
(人間性の欠陥)
この暴言は、憲法原理に対する無感覚と無知を表すだけでなく、小沢一郎の人間を冒涜したものだ。人間の尊厳がいかなるものか、わかっていない証である。
なんのために、四国八十八ヶ所を巡ったのか。空海の思想が何かを知らない、形だけの信仰なら空海の怒りも強かろう。小沢氏を外すにしろ、言い方がある。「小沢は悪者」と断言したと同じだ。これで政権を担当できると思っていたら大間違いだ。
実は3年前の平成19年元旦、小沢邸で菅氏は私をつかまえ、国会運営の真髄について質問してきた。当時の小沢代表の意向もあり、その後2年間ぐらい国会運営や政治についてアドバイス役をやった。率直にいって、菅氏の性格は他人を利用して自分の地位や利益向上に利用するというきわめて自己本位で人間としての礼や信や道に欠ける態度であった。「脱小沢」の選挙劇場を演ずる役者としては適当かもしれないが、日本の社会や国民の生活を一新させることは無理である。
(政治と金とは何か)
菅代表はじめ反小沢グループが、念仏のように言う小沢氏の「政治と金」とは、東京地検特捜部と巨大マスコミがつくり上げた虚像であることは明確である。
特捜が不起訴としたものを、市民目線と称して人民裁判のように操っているのは、旧体制の自民の亡霊たちである。本来なら、菅氏自身が、民主政治の危機として彼らに反論すべき立場であった。それを小沢排除に利用したといえる。市民運動家・ポピュリストの限界で、世論を説得しようとせず、逆に世論を活用して小沢氏を切り捨てる方策に走ったといえる。小沢氏の問題はきちんと収支報告を出している問題への検察権力の意図的関与である。議会民主政治の確立のためには、こんなことを政治が許容してはならないことだ。
(菅新政権で気になること)
菅首相、仙谷官房長官、枝野幹事長という三役揃い踏みで、日本の政
治が始まることになる。3人の過去を問おうとは思わない。これからの
政治にたいする姿勢次第だ。
しかし、早くも6月7日には、小沢グループの抱き込み人事が始まり、
切り崩し作戦が展開している情報がどんどん入ってくる。これも問題で
ある。
菅・仙谷・枝野三氏が進めようとする政策は、新自由主義の思想による「小泉亜流構造改革」の再生、ネオコン政治を私は予感している。
仙谷氏と米国シティグループとの関係はよく知られている。枝野氏がやってきた仕分けはまやかしで、人間性を無視した形だけのもの。民間の小泉ブレーンを活用し、新自由主義に有利な仕分けをしているだけだ。
制度の根本を仕分けするものではなかった。
小沢グループは、自由党時代「日本一新十一基本法案」を国会に提出して、共に生き共に幸せになろうという「共生社会」の実現を国民に公約したことがある。小沢氏が、民主党代表選に出馬したとき、この理念を公約している。
これを民主党の理念・政策に生かすことをこれからの活動方針にすべきだ。
「小泉亜流構造改革」の復活を阻止して「国民生活第一」の「共生社会」の実現をこれから、民主党の政治にどう取り入れ、日本に真の議会民主政治をいかに実現していくか、民主党の課題は重大である。
自民党政権が崩壊し、民主党政権に交代した後、民主党の「ネオコン派」による「小沢排除」が起きると想定していた。
管氏が、代表選の出馬会見で小沢潰しを宣戦布告したことは「共生社会派」にとっては絶好のチャンスである。起用された政策担当者から、小泉政策の評価さえ言外に感じる。これからは、どちらが国民や国家社会の爲になるのか。どちらが本物なのか。民主党の洗濯が始まるのだ。
万人幸福の栞(丸山敏雄著・倫理研究所)に「得るは捨つるにありという言葉がある。
小沢一郎は平成15年7月、この教訓を活用して自由党を解党、民主党に合流した。今回は鳩山首相を説き伏せ、身を捨てて、参院選挙に勝利して日本に民主政治を確立しようとしているのである。
■事務局山嵐さんからのメール(6月7日)
- 1911年辛亥の年、清朝を倒し中華民国を樹立したブルジョア民主主義革命。
- 10月10日の武昌蜂起をきっかけに各地で革命派が蜂起、翌1912年1月、南京に孫文を大総統とする臨時政府を樹立、2月の清帝退位によって中国史上初の共和国である中華民国が成立した。
- しかし、革命勢力が弱体であったため、この革命は社会変革を伴わず、保守派との妥協を強いられ、間もなく北洋軍閥の袁世凱が大総統に就任した。
列強による中国分割に直面して康有為ら革新官僚は、日本の明治維新をモデルとした立憲君主政を樹立し、欧米の文化や制度を導入して富国強兵を図るべきだと主張(変法自強運動)。康有為ら革新官僚は、徳宗光緒帝を動かして政治改革を断行。しかし、改革に反対する保守派は、西太后を擁してこれを弾圧したので、新政は失敗した。戊戌の政変。改革がわずか3カ月で挫折したので百日維新ともいわれる。以後、清朝の実権は保守派に握られて次第に排外主義の傾向が強まり、清は政治改革と近代化の機会を失った。
- アロー戦争の北京条約以後清国内でキリスト教の布教が進むにつれ、キリスト教排斥の仇教運動が続発し、列強への反発も加わって、次第に民衆の排外感情が高まった。こうした排外感情は中国各地に広まり、1899年に白蓮教徒の秘密結社が「扶清滅洋」を叫んで山東省で武装蜂起。義和団の乱(北清事変)。
清朝は排外政策に利用してこれを支援したが、列強は共同出兵して北京を占領。清朝は、北京議定書(辛丑和約)を結ばされ、中国の植民地化は決定的となった。
- 義和団の乱後、清朝は科挙の廃止、新軍の新設などを進めたが、これは清朝の延命策に過ぎず、すでに民心は離反していた。義和団の乱が民族運動の性格をもち、中国民衆の抵抗エネルギーを示すものであったように、民衆の中から特に華僑、留学生の中からは「排満興漢」の革命運動がおこり始めていた。指導者の一人である孫文は、日清戦争の頃ハワイで興中会を組織。さらに日露戦争後亡命先の東京で華興会、光復会などの革命団体を結集して中国革命同盟会を組織した。この時孫文は、三民主義とそれを基調とする四大綱領を発表し、革命運動を前進させた。
清朝は、孫文らの革命運動に対処するため、憲法大綱を発表し国会の開設を公約し、責任内閣制を施行したが、革命への動きをとめることはできなかった。賠償金の支払いや改革の為に財政難に陥っていた清朝政府は、その財政危機を打開する為、1911年外国資本の援助による鉄道の国有化案を発表すると、四川省をはじめ各地で反対運動がおこり、四川暴動が勃発した。この暴動の鎮圧に派遣された新軍が武昌で蜂起した。辛亥革命の発端となった。革命はたちまち各地に波及した。1912年1月1日、革命勢力は南京で中華民国の成立を宣言し、孫文を臨時大総統に選出し、共和政国家を建設した。これが第一革命である。
清朝は、軍閥の袁世凱を総理大臣に任命し事態解決にあたらせたが、袁世凱は清朝を見限り、革命派と交渉して宣統帝の退位を条件に自ら臨時大総統になる取決めを結んだ。1912年宜統帝は退位し、中国最後の王朝清は滅亡した。
孫文は中華民国成立後括成していた国民党を基盤に袁世凱の独裁を阻止しようとしたが、逆に袁世凱によって武力弾圧を受けた。袁世凱は1913年正式に大総統に就任し、帝政復活を画策したが、内外の反対で即位を断念し、1916年病死。袁世凱の死後も革命勢力は弱体で、帝国主義列強と結ぶ軍閥が各地に割拠し互いに抗争を続けた。