修学旅行(しゅうがくりょこう)は、日本において小学校、中学校、高等学校の教育や学校行事の一環として、教職員の引率により児童・生徒が団体行動で宿泊を伴う見学・研修のための旅行。
特に「宿泊を伴うこと」「行き先がある程度遠隔地であること」で遠足や社会見学とは区別され、「宿泊施設が野営地ではないこと」で野外活動と区別される。
概要
日本では主に最終学年で行われるが、中学校や高等学校では2年時に行われることも多い。理由として、3年次には入学・入社試験など進路に関わる行事が控えているためである。最近の私立高校(特に中高一貫の進学校)では1年時に行う高校まで出てきている。
教育課程の上では、特別活動の1つの学校行事の中に位置づけられている。
日本国外における修学旅行は、韓国に日本の統治時代の名残として存在し、中華人民共和国でも実施されている[1]が、それ以外では、上述・後述のような特性を持つ「修学旅行」に相当するものはないとされる。ただし、ヨーロッパ諸国などでも泊まりがけの旅行は学校行事として存在する。
グランドツアー
18世紀のイギリスの上流階級の若者は、教育を数人の家庭教師から受け、その学業の仕上げとして「グランドツアー」 (grand tour) として文化の先進国であるフランスやイタリアなどに遊学していた。イギリス経験論の哲学者で医者でもあったジョン・ロックもその「教育に関する考察」の中で旅行を学業の仕上げとして勧めている。この旅行は数か月から半年、あるいは1年以上に及ぶもので、そのままそこに住みつくこともあった。上流階級が対象で規模も発想も異なるが、一種の「修学旅行」といえる。
こうした旅行の手配業務からイギリスでは、今日での旅行代理店に相当する会社が誕生した。この当時から存続している旅行業者としては、イギリスのトーマス・クック・グループがある。
日本における修学旅行
由来
日本における修学旅行は、1882年(明治15年)に栃木県第一中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)の生徒たちが教員に引率され、東京・上野で開かれた「第二回勧業博覧会」を見学したことが日本での「学生・生徒の集団旅行」のはじまりといわれており、1886年(明治19年)には東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)が「長途遠足」の名で11日間のものを実施したという記録がある。
「修学旅行」という言葉は、翌年に長野師範学校(現・信州大学)が同様に実施したものが1887年(明治20年)4月20日発行の『大日本教育雑誌54号』に掲載された際に初めて使われたという。これは、時の文部大臣、森有礼による師範教育改革の中に、軍隊的な要素が導入されてくることに抵抗した高嶺秀夫東京高等師範学校長が、行軍旅行に学術研究の要素を採り入れて「修学旅行」と称するようになったためである[2]。計画段階から、修学旅行という名目で計画されたのは、東京文理科大学・東京高等師範学校『創立六十年』の記述に従えば、1887年(明治20年)3月に定められた構想であった[3]。なお、公には1888年(明治21年)8月に出された「尋常師範学校設備準則」において使われたのが最初で、その原型は上記の「長途遠足」であった。
また、1895年(明治28年)には、東京高等師範学校尋常中等科(現・筑波大学附属中学校・高等学校)において、全校生徒が鎌倉まで徒歩で出かけて1泊2日するという行程の「修学旅行」が実施された。
その後旧制中学校・高等女学校などにも広まり、昭和時代に入って高等小学校の宿泊を伴う修学旅行が許可されると、1943年(昭和18年)に戦時悪化によって禁止されるまで、伊勢神宮・橿原神宮・厳島神社・金刀比羅宮といった「国家神道教育」に通じる神社・仏閣などを目的地とする修学旅行が行われた[4]。また、旧制の高等商業学校では、「海外に雄飛する人材の育成」を標榜していたことから、朝鮮半島や「満蒙」地域など東アジアへの修学旅行を実施し、東亜同文書院のように旅行後学生に報告書の提出を求めるケースもあった。
太平洋戦争後は、1946年(昭和21年)に大阪市立東高等女学校(現大阪市立東高等学校)が阿蘇への修学旅行を再開したのが始まりとされ、本格的に再開されたのは1950年代に入ってからである。また、1970~1980年頃までは、現在のように交通機関が多様化していなかったためにもっぱら鉄道が修学旅行に使われたので、あらかじめ専用列車の時刻を決めておき、何校かの修学旅行客輸送を一括して請け負う修学旅行者専用列車の設定も見られた。詳しくは修学旅行列車を参照。その後、私立高校においては1970年代後半以降、公立高校においても1990年代後半以降は、航空機利用が主流となり、私立高校では海外を行き先に選ぶ学校も1980年代後半以降多くなった。
主な修学旅行先
- 小学校
その地方から比較的近い観光地への旅行が主流である。たとえば関東ならば日光・箱根・新潟・信州などが多く、関西ならば奈良・京都・大阪が多い。集団での入浴を目的として温泉のある地域を選ぶ場合も多い。また平和学習の一環として広島・長崎・沖縄へ行くところも少なくない。
- 中学校
北日本の学校は東日本へ、東日本の学校は西日本へ、西日本の学校は東日本へ行く場合が多い。
修学旅行での主な見学地としては、東京方面では東京ドームシティや東京ディズニーリゾートなどのテーマパーク、東京タワー・国会議事堂・横浜みなとみらい21・さいたま新都心などのランドマークが多い。関西では京都・奈良の法隆寺、薬師寺、清水寺などの寺院や仏閣、歴史的建築物が挙げられる。また、近年ではユニバーサル・スタジオ・ジャパンの開業もあり、大阪に行く学校や、阪神大震災の被災地であった神戸に防災学習を目的として行く学校も増えている。さらに私立の中学校では、航空機を利用して北海道や沖縄に行くケースも近年は多い。
一方、物見遊山ではなく本来の字義通り「学を修める」学習活動を主目的として修学旅行に行き、フィールドワークや地域調査を行いレポートにまとめる活動をしている学校(筑波大学附属中学校など)もあり、伝統ある形態が現在も受け継がれているところもある。
- 高等学校
公立・私立を問わず東京や近畿が長く主流[5]だったが、近年は、自然体験や太平洋戦争の追体験を目的として、北海道・広島・長崎・沖縄などを目的地として選択する学校が多い。また、四国や九州など雪のほとんど降らない地方では、体験学習としてスキーを実施している学校もある。
1990年代以降、日本国内だけではなく、ハワイ、アメリカ西海岸、イギリス、韓国、中国などの日本国外への修学旅行も増えている[6]。特に私立では、国外への修学旅行を学校の宣伝材料としている場合も多い。
神社仏閣などは、特定の宗教の特別扱いではないかという意見もあることから、そういった場所を選択する学校は減少傾向にある。しかし、それらの場所を歴史を学ぶ目的や観光で訪れることが本当に特定宗教を特別扱いしていることになるのかという点では反対意見もある。
また、中学校以上では社会見学の目的で、官庁や出版社・新聞社、テレビ局などを小グループによる行動で見学することも行われるようになっている。その目的は進路学習の一環としてそれらの見学先を職場として理解する目的であることが多い。また高校の一部では進学先理解のために大学や研究施設を見学先とする例もある。これらは主に大都市圏外の学校が大都市圏を見学先とする場合に多いが、逆に大都市圏の学校においては、農業などの大都市圏外の産業・社会・文化に理解を深めるために、遠隔地(たとえば東京周辺の学校において、東北地方北部などへ)の農業経験を行う例も存在する。
また、大規模な博覧会が開催された年に修学旅行が実施される場合、その博覧会見学がメインとなることも多い。古くは1970年の大阪万博から、新しくは2005年の愛知万博まで、そのケースは多い。その場合、サブの見学地としてその周辺地域の観光地・産業施設などが充てられることも多い。
特徴
引率する教職員
引率する教職員は、遠足など他の学校行事での旅行と異なり、学級担任・学年主任・副担任などの当該学年担当の教職員のみならず、校長(時にその代理としての教頭)と、養護教諭が加わることが多い。なお、修学旅行引率に伴う校長・養護教諭等の校内での不在時においては、職務代理者がその校務を代行する。
意義
近年の意義を問う声と、廃止した例
かつて日本の一般庶民の所得が低かった頃は、なかなか遠方へ家族旅行に行く機会も持てなかったため、修学旅行によって見聞を広めてもらうことが修学旅行の大きな目的とされていた。しかし、現在では所得が向上し、海外も含め遠方へ旅行に行く家庭が多くなってきたことから、修学旅行の存在意義を問う声もある。加えて目の前に差し迫った進学や就職にマイナスになるということを心配する声から、修学旅行を廃止した例も存在する。
だが、短い学生時代に友人たちと一緒に昼夜を過ごすことの意義、集団行動の経験などを通し、「多感な世代の人間形成に重要[7]」などの見地から、学校関係者・生徒・保護者のいずれも今のところ修学旅行に肯定的な見方をする者の方が多く、修学旅行そのものを廃止した学校は数少ない。修学旅行を廃止した学校としては、函館ラ・サール高等学校・宮城県仙台第二高等学校・茨城県立土浦第一高等学校・武蔵高等学校・早稲田大学高等学院などが挙げられる。また、生徒の修学旅行先の不祥事から修学旅行を中止とした学校もある。しかし、この場合も修学旅行にかわるような宿泊をともなう校外実習がおこなわれていることも多い(例:函館ラ・サール→高1の10月中旬にグリーンピア大沼で2泊3日の研修旅行。仙台二高→高1の7月に栗駒山を2泊3日で登山)。
また、修学旅行という呼称をやめて「宿泊研修」などの呼称に言い換えた学校や、ある程度のコースを用意しその中から生徒個人個人の希望に応じたコースを選ばせる学校(当然学年全体で行動することはない)や、修学旅行とは別に希望者のみの海外研修などを用意する学校も存在する。
なお、低所得者が増えたことで修学旅行の費用捻出が困難となった家庭が珍しくなくなったという観点から、その意義を問う意見もある[誰?]。
修学旅行返上
体育会系のクラブに所属している生徒が、クラブ全体で練習や試合を優先させるために修学旅行を欠席せざるを得ない場合がある。特に高校野球などの全国大会ないしはそれにつながる大会を控えている場合によくある。また、私立などの国外を修学旅行先としている学校では、費用が高いために経済上の都合から修学旅行を欠席せざるを得ない生徒も存在する。
マスメディアなどによる安否情報の放送
秋田県では「秋田は農業県、子供は宝」という考えのもと、「初めて外泊する子供が多くその安否を知りたい」という親の気持ちを叶えるために1969年頃からAKT秋田テレビが放映を始めた。提供は各学区にあるスーパーや個人商店であることが多い。放映時間はほとんどが夕方に放映され、無事に日程通り行われているときだけ放映されている。2006年時点で、秋田放送と秋田テレビの2局と、まれに秋田朝日放送で15秒ほどのCMを放映しており、小学校・中学校の情報が確認できる[8]。
山梨県でも山梨放送とテレビ山梨でそれぞれ、修学旅行安否情報、研修旅行情報として夕方のローカルニュース枠内で修学旅行生の情報を流している。
ラジオ福島でも情報を放送する場合がある。
京都府ではKBS京都では平日の最終ニュース(テレビは月曜日から木曜日は21時55分 - 22時00分、金曜日は『京bizW』(21時25分 - 22時25分)枠内内包、ラジオは毎日21時50分 - 22時00分=野球シーズン中は原則)の中で「修学旅行だより」として京都府内の各学校の修学旅行生の安否放送を長年放送していたが、携帯電話の普及などを理由として2009年3月に終了した。
他の連絡方法として、各地域にある防災行政無線を使用したり、2000年代以降ではコミュニティ放送局でも各家庭に知らせる方法をとっているところもある。
- 放送例
- 「○○小学校修学旅行団は全員元気に(目的地)で遊園中です。ご安心下さい。」
- 「○○中学校の皆さんは日程一日目を終え全員東京ドームでナイターを観戦中です。」
- 「○○高校修学旅行団は全ての日程を終えて帰路に着きました。」
これは『トリビアの泉』[8]、『秘密のケンミンSHOW』、『嵐にしやがれ』[9]で紹介された。
参考文献
脚注
関連項目
外部リンク