教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

習近平国家主席は、安倍晋三首相との「首脳会談を望まず」、小沢一郎首相誕生を待望、訪中団に工作した

2014年05月07日 20時44分51秒 | 国際・政治

2014年05月07日 01時52分44秒 | 政治

◆安倍晋三首相が続く限り、日中関係改善は絶望的であることがはっきりした。それどころか、中国共産党1党独裁北京政府の習近平国家主席、李克強首相ら「チャイナ・セブン」の最高指導部が、小沢一郎首相誕生を念頭に、日本政界の分断を図ろうとしている戦略が鮮明になってきた。
 これは、超党派の国会議員でつくる日中友好議員連盟(高村正彦会長=自民党副総裁はじめ、民主党の岡田克也元代表、公明党の北側一雄副代表、日本維新の会の園田博之・国会議員団幹事長代理、共産党の穀田恵二・国会対策委員長ら9人)の訪中団が5月4日、北京入りし、釣魚台迎賓館で中日友好協会の唐家璇(とうかせん)会長(元国務委員)と会談、5日午後は、共産党序列3位の張徳江・全国人民代表大会(全人代=国会)常務委員長(江沢民元国家主席に近いとされる保守派、北朝鮮に留学経験もあり、北朝鮮情勢に詳しい)と北京市の人民大会堂で会談した結果、思い知らされた。
◆高村正彦会長は、唐家璇会長との会談で11月に北京市で開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)での日中首脳会談実現に期待感を示した。
 しかし、高村正彦会長と張徳江・常務委員長との会談では、冒頭から歴史認識や尖閣諸島(沖縄県石垣市)をめぐり意見が対立、激しい応酬が行われて、関係改善への糸口は見えなかった。産経新聞msn産経ニュースが5月6日午前8時7分、「日中議連の高村氏、張氏と尖閣・歴史で激しい応酬 日中首脳会談の道筋みえず」という見出しをつけて以下のように配信している。
 「高村氏『中国が現状を力で変えようとしていると日本国民は思っている』、張氏『中国固有の領土であり絶対に譲れない』、高村氏『われわれが一方的に応えるのではなく、首脳会談の実現には相互の努力が必要だ』」
 張徳江・常務委員長は、日中首脳会談実現には、安倍晋三首相が「靖国神社公式参拝」と「尖閣諸島国有化」問題を解決することを条件として示している。だが、安倍晋三首相は「前提条件なし」の首脳会談を要求している。このため、実現は難しい。
◆しかも、中国側は、「したたか」である。超党派の訪中団が、わざわざ北京入りしたチャンスを捉えて、日本の国会議員と与野党の分断工作を露骨に示してきたからである。
 習近平国家主席は2012年11月に中国共産党総書記に、2013年3月15日、国家就任後、李克強首相とともに小沢一郎代表に再三電話連絡して、「面会したい」と申し込んできた。これに対して、小沢一郎代表は「二重外交になる」と批判されるのを恐れて、面会を遠慮してきた。習近平国家主席や李克強首相は、小沢一郎首相誕生を待望しているのだ。
 その思いを受けて唐家璇会長が5日午前、議員連盟訪中団が宿泊している北京市内のホテルを訪れ、民主党の岡田克也元代表、公明党の北側一雄副代表と個別に会談したのである。唐家璇会長は、小沢一郎代表や田中眞紀子元外相と極めて親しい間柄だ。岡田克也元代表は、小沢一郎代表と近かったが、いまは距離を置いている。公明党は中国北京政府と友好関係を維持しており、習近平党総書記(次期国家主席)は2013年1月25日、党総書記に就任して初めて、山口那津男代表との会見に応じた。ただし、山口那津男代表は、4日間も北京で待ち続けて、ようやく中国共産党トップとの会見に応じてもらえた。また、公明党はかつて小沢一郎代表と蜜月関係を築いていたことがある。
 この意味で、唐家璇会長は、与党自民党・公明党と野党民主党という関係のなかで、まず、自民党と公明党との間に楔を打ち、併せて、公明党と野党民主党とを結び付けて、小沢一郎代表に接近させ、小沢一郎首相を誕生させようと工作したものと見られている。

本日の「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」
オバマ大統領中心とする米英仏3国による「サイバー攻撃」の陰で「闇のコンピューター帝国」が手引き

◆〔特別情報①〕
 日本国内に「闇のコンピューター帝国」という集団が存在しているという。米国オバマ大統領を中心とする米英仏3国連合が、ビル・ゲイツ創業の米マイクロソフト社の基本ソフト(OS)「ウィンドウズXP」のサポートが終了(4月8日)後を狙い「天皇家の金塊が生む富」に「サイバーテロ攻撃」をかけた際、この「闇のコンピューター帝国」のメンバーが、陰で手引きしていたというから、恐ろしい。
引用元http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken
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桃から生まれない桃太郎? 物語の知られざる世界を紹介

2014年05月07日 15時42分01秒 | アート・文化
朝日新聞2014年5月7日(水)00:44
 1『桃太郎は桃から生まれていなかった――。桃太郎の知られざる世界を紹介する企画展が高松市歴史資料館(昭和町1丁目)で開催されている。岡山県立美術館や高梁市の桃太郎資料館の珍しい絵巻や関連本など約80点を展示中だ。
 桃から生まれない桃太郎の物語は、川を流れてきた桃を食べたおばあさんとおじいさんが若返り、子どもができるという設定。江戸時代の色鮮やかな絵巻には若返ったつややかなおばあさんが描かれている。
 学芸員の香川依央さん(24)によると、桃太郎は室町末期から江戸初期の各地の伝承から生まれた。明治期に小学校の国語教科書に載るまでは「若返り説」と「桃から誕生説」が混在していたという。香川さんは「桃太郎は江戸時代には大人も楽しむ庶民の娯楽だった。ただ、小学生に若返る話は伝えづらかったのではないか」と分析する。』
桃から 人間の子供は産まれないと思います。一つの若返りのお伽話のロマンでは有りませんか。

桃太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岡山駅前に立つ桃太郎一行の像

桃太郎(ももたろう)は、日本おとぎ話の一つ。

「桃太郎」が、お婆さんから黍団子(きびだんご)を貰って、イヌサルキジを従えて、鬼ヶ島までを退治しに行く物語。

内容

桃太郎の物語は、いくつかの場面で出典により違いがある。ただし、物語後半にあるとの戦いの場面では、概ねどの書籍でも桃太郎側の視点での勧善懲悪物語となっている。

桃太郎の出生に関しては、から生まれたとする場合や、桃を食べた老夫婦が若返って子供を産んだとする場合がある。

桃太郎の成長過程については、お爺さんとお婆さんの期待通り働き者に育ったとする場合や、三年寝太郎のように力持ちで大きな体に育つが怠け者で寝てばかりいるとする場合がある。

成長した桃太郎は、鬼ヶ島の鬼が人々を苦しめていることを理由に鬼退治に旅立つが、その決意を自発的に行う場合と、村人や殿などに言われて消極的に行う場合とがある。

出征時には両親から黍団子を餞別に貰う。道中、遭遇するイヌサルキジにその黍団子を分け与えて家来にする。

鬼ヶ島での鬼との戦いで勝利をおさめ、鬼が方々から奪っていった財宝を持って帰り、最終的に郷里のお爺さん・お婆さんの元に帰って幸せに暮らしたとして物語は締めくくられる。

ゆかりの地

ゆかりの地とされる場所は全国にある。その中でも岡山県は桃太郎作中の「黍団子」と同音の江戸時代の地元土産品「吉備団子」をつなげさせるなど、全県を挙げての宣伝活動からゆかりの地として全国的に有名になったが、「吉備団子」と作中の「黍団子」との関係は証明されていない。以下は桃太郎サミットや日本桃太郎会連合会に参加する自治体とそのゆかりの場所。

成り立ち[編集]

桃太郎の人形

物語の成立については諸説存在し、それぞれ争いのあるところである。

有力説の一つとしては、第7代孝霊天皇の第3皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)、稚武彦命兄弟の吉備国平定における活躍と、岡山県(吉備国)の温羅伝説に由来するものとする説がある。これは、古代の大和政権吉備国の対立構図を、桃太郎と鬼の争いになぞらえたとするものである。 この説をもとに、桃太郎のモデルとなった人物が彦五十狭芹彦命であるとする見方が広く知られている。 これにちなんで、彦五十狭芹彦命の故郷である奈良県磯城郡田原本町では、桃太郎生誕の地として黒田庵戸宮(廬戸宮)を観光PRの一つとして取り上げている。田原本町初瀬川 には、川上から男の子が甕に乗って流れてきて、西の方角に向かい神様となったという伝承が残る(本朝神社考)。西の方とは、『古事記』や『日本書紀』の孝霊天皇、彦五十狭芹彦命の記述から、吉備(岡山)や讃岐(香川)をさすと考えられている。

発生年代は正確には分かっていないが室町時代とされ、江戸時代以降に広まったとされる。草双紙の赤本による『桃太郎』『桃太郎昔話』などが出版により広まった最初の版であるとされる。

また赤本豆本黄表紙、青表紙などに登場した桃太郎は、曲亭馬琴の『童蒙話赤本事始』で五大昔噺の冒頭を飾る[1]

明治時代初期までは桃を食べて若返ったお爺さんとお婆さんの間に桃太郎が生まれたという回春型の話[1]の方が主流であった。この他にも「赤い箱と白い箱が流れて来て、赤い箱を拾ったら赤ん坊が入っていた」、「川上から2つの桃が流れて来たのでお婆さんが『緑の桃はあっちゃいけ、赤い桃はこっちゃ来い』と言うと赤い桃が寄って来た」など、物語に差異のあるものが多数伝わっているが、巖谷小波により1894年(明治27年)に『日本昔話』としてまとめられたものがその後の語り伝えに大きく影響した。1887年(明治20年)に国定教科書に採用される際にほぼ現在の形のものを掲載して以降、これが定着した。因みに舞台の一つとされる岡山県で桃の栽培が始まったのも明治時代以降である。

桃太郎の姿が、日の丸の鉢巻に陣羽織、幟を立てた姿になり、犬や鳥、猿が「家来」になったのも明治時代からである。それまでは戦装束などしておらず、動物達も道連れであって、上下関係などはない。明治の国家体制に伴い、周辺国を従えた勇ましい日本国の象徴にされたのである[2]

またその誕生の仕方も「たんす」や「戸棚」や「臼」に入れておいた桃が自然に割れて男児が誕生するなど一様でない[3]

また、香川県では桃太郎が女の子だった、とする話がある(生まれてきた女の子があまりにも可愛らしいので鬼にさらわれないように桃太郎と名づけた)。

その後語り、絵共に様々な版が生まれ、また他の創作物にも非常に数多く翻案されたり取り込まれたりした。落語の『桃太郎』などもその一例である。

なお、太平洋近海の国に伝わるおとぎ話に「樽」や「果実」の中に入った子供が出てくる話が多数あり、日本人の先祖の一つに海洋民族があることを示している証拠だとする説もある。 また岡山県を中心とした地域には、横着な性格と大力を持った隣の寝太郎型の桃太郎も多い。鬼退治にしても鬼を海中に投げ宝物をとって帰ったり鬼に酒を飲ませて退治する例もある[3]

岩手県紫波郡には母親の腰近くに転がってきた桃を拾って帰り、綿に包み寝床に置いておいたら桃が割れ子供が生まれた桃の子太郎という伝承や、越後佐渡(現・新潟県)の「桃太郎」だと桃の代わりに香箱が流れてきたとあり、この香箱は女性の陰部の隠語でもある[4]

南西諸島沖永良部島鹿児島県大島郡)では「桃太郎」は「ニラの島」へ行ったという。龍宮であるニラの島で島民はみな鬼に食われていたが、唯一の生存者の老人の家に羽釜があり、その蓋の裏に鬼の島への道しるべが書かれており、その道しるべどおり地下の鬼の島へ行き、鬼退治に行く筋書きである[5]

岩手県の桃太郎は父母が花見に行った時に拾った桃から誕生。地獄の鬼から日本一の黍団子を持って来いと命じられ、地獄へ行き鬼が団子を食べている隙に地獄のお姫様を救う。婚姻譚を伴う桃太郎である[1]福島県の桃太郎も山向こうの娘を嫁にする話。黍団子の代わりに粟・稗の団子の設定の高知県の話。またお供も猿・犬・雉ではなく石臼・針・馬の糞・百足・蜂・蟹などの広島愛媛県の例もある。地方には多様なバリエーションがある[1]

東京北多摩(現・東京都多摩地域北部)地方には蟹・臼・蜂・糞・卵・水桶等を家来にする話があり、これは明らかに猿蟹合戦の変型とする見方もある[6]

山梨県大月市には「岩殿山九鬼山という説もある)に住む鬼が里山の住民を苦しめていた」「百蔵山には桃の木が生い茂り、そこから川に落ちた桃をおばあさんが拾い持ち帰った」「上野原市の犬目で犬、鳥沢でキジ、猿橋でサルを拾った」等のいわゆる「大槻桃太郎伝説」が存在する[7]

語り部によって、桃が川に流れている描写を「どんぶらこっこ すっこっこ」、「どんぶらこ どんぶらこ」などと表現する。

桃太郎の物語りはインドの有名な叙事詩ラーマーヤナ」の影響を受けたという説もある。桃太郎に登場する猿は、西遊記に登場する孫悟空と同様に、ラーマーヤナの中のハヌマーンがモデルとする説である

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