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男女平等の落とし穴<本澤二郎の「日本の風景」(3534)
男女平等の落とし穴<本澤二郎の「日本の風景」(3534)より、転載させて頂きました。
<強姦魔救済官邸暴政と「木更津レイプ殺人事件」で見えてきた真実!>
昨夜安倍晋三・習近平会談が行われた。安倍は事前にトランプとジョンソンに電話、要件を聞いて出席するという、実にみっともよくない対応をみせた。案の定、12月23日午前は北京冬天の好天気が、午後から曇りだした。三国志演義の呉越同舟を思い出した。
失礼ながら、そのことよりも我が心を、TBS山口強姦魔事件と入れ墨やくざに「現代の慰安婦」を強いられ、殺害された「木更津レイプ殺人事件」のことが支配して離れない。我が中国40年史もかすんでしまいそうだ。ことほど詩織さん事件と現代の慰安婦問題は、深刻極まりない重大事なのだ。
極右・ストロング・ナショナリストの周辺からは、女性までが強姦魔に肩入れしていた事実が、改めて表面化している。同時に「木更津レイプ殺人事件」の被害者、美人栄養士のK・T子さんが、殺害されるまで110番通報しなかった事実を考え続けている。
第三者は、そこから日本の男女平等の背後のレイプ文化・半封建制の男尊女卑・女性蔑視の人権意識・沈黙の文化の存在に目を向けているだろうか。言葉としての男女平等に落とし穴と、それに酔いしれているナショナリストの男女と暴政に、屈してしまっている警察・検察・裁判所ではないのか。
幸い、TBS山口強姦魔事件では、加害者があまりにも傲慢な法廷闘争を仕掛けたことから、判事も覚醒して詩織さんに軍配を上げてくれた?まだ明治の法体系が居座る日本。人権意識と法体系に課題が多すぎる。
詩織さんは気づいたはずだが、木更津のK・T子さんは、哀れ地獄に突き落とされたままである。犯人逮捕に躊躇する千葉県警と木更津署とは?「現代の慰安婦」のまま殺害、声も出せない美人栄養士と、とことん強姦魔と決死の戦いをする詩織さんの落差。前者は、自分にできなかったことを詩織さんに、心から期待している!目を覚まそうよ日本人!立派な言動を口にする文化人も、オオカミ男を演じられる社会風土を放置していいわけがないだろう。
<自己を貶めるナショナリスト女性>
確かに日本は男性社会である。地位を得た女性は、それでも男性の後ろに隠れて、さらなる地位をつかもうとしている。いじらしい女性は、国会や霞が関で、今も顕著である。
TBS山口強姦魔を支援する安倍夫人の昭恵は、山口の姉と同窓だったという関係を、露骨に吹聴したものであろう。夫の地位を利用しての公務員的ふるまいは、非難されてしかるべきだろう。
安倍側近の女性議員も、強姦魔の応援だったと目下、紹介されている。そのことで、自らを卑下していることなのだが、本人は理解していない。男尊女卑を受け入れているようで、いただけない。
女性でありながら、女性の人格を略奪されるという、同性最悪の悲劇に対して、同情しないどころか、逆に強姦魔を擁護する。この手の日本人女性は、自らが奴隷根性にはまっている、という認識がないのだろう。
戦前の国家主義の下では、女子は一人前、まともな人間として認められなかったが、戦後においてもそれが尾を引いているのである。
<女性に非ありと決めつける右翼人士>
強姦される女性は、女性に落ち度があったためだ、とする暴論も、官邸筋から聞こえてきた。安倍・菅と官邸に巣食う警察官僚は、そう思い込んでいた。安倍の意向が菅に、そして北村から中村格へと指令、中村が高輪署の強姦逮捕状を握りつぶした。こう理解して間違いないだろう。
官邸の庇護のもとに1億3000万円の反訴となったものである、と断じることができるだろう。官邸の立場を弁護する暴論が、検察の不起訴、検察審査会の不起訴相当となった。
自らの犯罪性を棚に上げて、黒を白にする暴論を支援する強姦魔弁護論に「女性に非があった」と強弁するのであろうが、こんなあくどい手口が、戦前にもあったのだろうか。女性を人権の主体と認めていないではないか。
安倍の朝鮮半島の従軍慰安婦対応がこれである。21世紀はおろか20世紀においても、戦争犯罪であるのだが、安倍・自公・日本会議の政権は、いったんは押し切ったものの、現在、振り出しに戻っている。
<死者の尊厳よりも名誉が大事?>
同じような体験を「木更津レイプ殺人事件」の取材で経験した。
この事件の特異性は、加害者のやくざと共犯のヘルパー、被害者のK・T子さんも、共に創価学会の仲間だった。取材の壁は厚かったのだが、被害者の半年余の親しい友人への証言と本人の不可解な行動から、犯人と共犯者が浮かび上がった。
これを被害者の学会の仲間にぶつけると、意外な反応に驚かされた。当方は真相究明のための支援を呼びかけたのだが、協力を拒否されてしまった。相手がやくざという事情も計算したのかもしれないが、彼女は「もう本人は亡くなってしまった。事件を掘り起こすと、本人の名誉もなくなる。そっとしてあげるのが、いいのではないか」と公然と言い放った。
当時は、無神論者も、多少なりとも、相応の宗教組織という認識があったものだから、これには開いた口が蓋がらなかった。殺人事件という重大事による死者の尊厳よりも、殺人事件を隠ぺいすることが被害者にとって幸いではないか、というのだから。
<亡くなった者をそっとしてあげて?>
亡くなったものは生き返ることはない。犯人を問い詰めると、現代の慰安婦という真実が明らかになって、死者に鞭打つことになる、というのである。
宗教観なのだろうか。池田大作氏が元気なら、ボールを投げて聞いてみたいものである。代わりに、会長の原田はどう答えるだろうか。
これだと創価学会の世界では、殺人事件が相次ぐという懸念が起きないか。頭がくらくらしてくるではないか。命・平和を重視するであろう、宗教界の倫理が問われている。
<仏教の諦観・運命論は正義なのか>
仏教は生き物の殺傷を禁じている。他方で、諦観・運命論を容認している。矛盾を感じないわけではない。
一方で、因果応報を説いている。
正義はどうなのか。不正をに対する刑罰法規は、古から継続してきている。
そもそも政治とは、正しい文化で、国民を教育することである。安倍・自公・日本会議の政治は、政治とは言えず、暴政である。
伊藤詩織さんは、暴政の被害者だろう。声を出さずに、命を奪われたK・T子さんも、暴政の被害者かもしれない。この二つの悲劇は、日本の低級すぎる文化の犠牲者でもあろう。ゆるがせにできない重大事なのだ。
2019年12月24日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)