岸壁の母子<本澤二郎の「日本の風景」(4535)

<「木更津レイプ殺人事件」被害者・戦争遺児の大悲運!>

 77年前の8月15日、この国の「ヒロヒトの戦争」は二発の原爆投下で敗北した。だが、戦争責任者の末裔は、現在も架空の「神国」に取りつかれ、反共のカルト教団(統一教会)と共に、強い日本へと舵を切ったものの、先月銃弾に倒れた。因果応報なのか。

 本日は、この日のために温めてきた、戦争未亡人と父親の顔を知らずに育った戦争遺児(創価学会2世)の無念すぎる、この世の地獄の一端を少し記録しようと思う。

 年配者は二葉百合子の「岸壁の母」を聞いている。「母は来ました 今日も来た この岸壁に 今日も来た」と。場所は引き揚げ船の舞鶴港だ。「岸壁の母子」は木更津港である。母子の悲劇を記録したのは、かつての創価学会婦人部で、反対に戦争遺児を強姦殺害したやくざ浜名殺人鬼を覆い隠しているのは、安倍戦争法を強行した現在の公明党創価学会。称して「木更津レイプ殺人事件」被害者の戦争未亡人の敗戦前後の秘録である。

 

 富津市生まれのやくざ浜名は、木更津市のJR岩根駅近くで介護施設「かけはし」を経営して、美人栄養士を強姦し、性奴隷を強要し、逃げ出そうとした途端、恐ろしい「ばらすぞ」の恫喝で、学会2世の命を奪った。この殺人犯を警察は少しだけ捜査して、途中でやめた。別の機会に書くが、今回は77年前後の戦争未亡人の苦闘知である。

 

<「もう帰ろう」「いやだあ、お父さんが帰るまで帰らない」と戦争未亡人に駄々こねる戦争遺児、泣く泣く帰宅する母子>

 「主人が軍属として硫黄島に発って行った木更津港に、敗戦後に娘と二人でよく行って、帰りを待った日もありましたね」「もう帰ろうというと、娘が帰らないというんですよ」「お父ちゃんが戻ってくるまで帰らなといって、私の袖を引っ張るんですよ」

 涙がボロボロでる場面だ。悔しいが我がつたない筆力では表現できない。映像ならうまく撮れるだろうが。

 舞鶴の引き揚げ船だと、わずかな希望があるだろうが、木更津港には戦死した夫は帰ってこない。しかし、この母子は「どこか無人島で生きているのではないか」と憶測をたくましくして、痛々しくも岸壁で何度も待ち受けていた。

 今もウクライナやロシアの母親は、同じような思いをしているのであろうか。米国の大統領の決断一つで止めることが出来る。あるいは中国の仲裁でも可能ではないだろうか。いかなる事由があろうとも、戦争は肯定できない。戦争のために武器弾薬に特化しようとしていた安倍とその仲間たちの軍事費2倍増に対して、怒りが込み上げてくる。

 本来、平和主義の塊のはずの女性議員が、安倍改憲軍拡の推進役となって、今も閣内にいる岸田改造内閣は、とてもではないが容認することは出来ない。むろん、連立の公明党創価学会の無様すぎる対応も許せない。

 

<帰ったのは「英霊」の紙きれが入った小さな木箱一つ>

 1942年1月に結婚した翌月に筆者は、彼女の手でこの世に生を受けた。大恩ある助産婦の開業は、2年前の1940年。ヒロヒトの過ちに日本人のほとんどが泣くことになる。1945年に彼女の夫は、木更津の航空廠から軍属として、既に大半の艦船が沈没した中で、無防備の貨物船で悲劇の島・硫黄島に死出の旅立ちとなった。その途中で米軍の攻撃で撃沈され、父親は妊娠4か月の娘を見ることなく帰らぬ人となった。

 

 船には、偶然、わが父の弟も一緒だった。彼の話だと、戦争遺児の父親は「天皇に下賜された」という軍刀を取りに行って、海中に飛び込む方向を間違えて船もろとも海の藻屑となった。身に着けるものすべてが「天皇」と教育されていた神道人間だった。ヒロヒトによる300万人の死者は、史上最大で最悪な侵略戦争を永遠に忘れてはならない。21世紀に天皇制は不要だろう。

 

 「帰ってきたのは英霊の紙きれが入った木箱一つだった」のである。岸壁の母子の結末だった。

 

<戦場の出産に報酬ゼロ、痴漢に怯える日々>

 戦場での出産は産めよ増やせよだ。不思議と夜中に呼び出される。しかも、空襲も夜中が多い。恐怖で足が前に進まない。部落の入り口には、かがり火をたく一団がいる。米軍機が墜落したさい、生き延びた米兵を竹やりで殺害するためだという。米軍相手に竹やり戦法は、敗戦時の軍国日本の当たり前の風景だった。

 妊娠4か月、6か月、8か月の大きなお腹を抱えての産婆さんの、真夜中の出産を誰も想像できないだろう。

 敗戦間際の1945年春先は、空襲が激しく防空壕に入ったり出たりの場面での自らの出産は、恐怖の瞬間だった。「防空壕にも入れずに真っ暗闇の中で、近所の知り合いに助けてもらいながらの出産でした。いざ自分が産むとなると、空襲で真っ暗闇の中ですから、それは恐怖そのものでした。本当に怖かったですよ。それでも娘が生まれてよかったのですが、そのあとがまた大変でした。生まれて2か月ぐらい、やっとおぶえるようになって、背中からずり落ちないように括り付け、空襲の中に飛び出しての出産です。親子二人きり、生きるも死ぬも一緒と、どこでも連れて行きました」。

 当時は交通の便は悪く、それでもいくつかの村々の出産に、背中の子供を背負ったまま、戦火の出産をする助産婦の姿に圧倒させられる。崇高でさえあろう。しかし、報酬はというと、金銭を払える家庭は少なかった。中には「いくつも蔵のある地主でも払ってくれなかった」というから、農村の疲弊ぶりも言葉に表せないくらいひどかった。とうに日本は敗北していた。

 圧政も極まっていた。8日、18日、28日は「八紘一宇」の精神でという口実で「無料診察せよ」との通達が出た。「その日には20人以上が押しかけてくるんです。それこそ体力の限界、口を聞くことも出来ませんでした」

 

 やっとトタンで囲った家らしくない家に母子ともども暮らすことが出来たが、そこへと夜中に痴漢や酔っ払いが押しかけて来た。「恐ろしくて身を守ることも出来ず、その時は亡き夫が愛しくてたまりませんでした」。長じて戦争遺児は、創価学会やくざの餌食にされる悲運をどう解釈すべきか。

 

<戦争未亡人の誇りは「助産婦」「取り上げた子供2100人>

 この戦争未亡人の証言は、自身が70歳の時のものである。最愛の遺児が、無念にも69歳で生きる人生を奪われたことを知らない。戦争未亡人の唯一の誇りは「戦中と戦後に取り上げられた子供が2000人を超え、2100人になった」ことだ。これはすごい。厚生労働省は何らかの形で顕彰すべきではないか。

 筆者もその一人だ。戦争遺児の3人の子供も、未亡人がこの世に誕生させた。お互い大恩ある助産婦である。 

 

<夫は木更津市畑沢のK家=音楽を愛する温和な彫刻家だった>

 生前、遺児が父親がよく聞いたクラシックのレコードを見せてもらったことがある。音楽を愛する彫刻家の卵だった。その影響かもしれない。遺児も音楽を愛していた。木更津市の声楽のグループに入っていた。

 未亡人によると、夫は温和で優しい人だったという。夫の実家は、木更津市内の畑沢地区の恵まれた家庭だったことも分かってきた。実家の山林に墜落した、おそらくB29の墜落機の亡くなった乗員を救出、別の場所に葬っていたことが、10余年前になって判明して、現地で米国の日本駐在の大使館員らが参列して、遺骨返還式を行っている。

 

<戦争が遺児の人生を一変、秋田県由利本荘市で子育て>

 夫の戦死が未亡人を信仰へと立て追い立て、娘もそれに従った。東京農大で栄養学を勉強して、栄養士となって婿養子を迎えたものの、夫はそそくさと故郷の秋田県由利本荘市に戻ってしまった。離婚を考えたとき、すでに妊娠していたため、やむなく夫に従った。

 温暖な房総半島と比較すると、冬の季節はきつい。それに地元では「娘を秋田に出すな」といわれているほど男尊女卑の風土が根付いた場所。それでも3人の子育てを立派に果たして、未亡人のいる木更津市に戻ったのだが。

 

<故郷に戻りホッとした瞬間に学会やくざに殺害=69年の人生>

 信仰者の弱点は、同じ信仰仲間を信用するということだ。遺児をデイサービス「かけはし」に誘ったのは、同じ仲間のやくざにかしずくヘルパーだった。吉田フミエだ。彼女が遺児を狼の前に引きずり出して、事件は起きた。

 69年の人生は、余りにも短かすぎた。この悲劇に蓋をかける公明党創価学会を許していいのだろうか。本ブログは女性の多くに目を通してもらいたい。「木更津レイプ殺人事件」の解決に支援してもらいたい。特に目覚めた創価学会関係者の支援に期待したい。

2022年8月15日記(東芝製品不買運動の会代表・政治評論家・日本記者クラブ会員)