たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

お前百まで わしゃ九十九まで 共に白髪が 生えるまで

2021年11月06日 22時18分57秒 | つぶやき・うんちく・小ネタ・暇つぶし・脳トレ

相互フォロワー登録しているある方のブログ拝見していて、すっかり脳裏から消え去っていた言葉、「都々逸(どどいつ)」を見掛け、記憶が炙り出されてきた。昭和20年代~30年代、まだラジオしか無かった時代、電波が極めて届きにくく、NHKラジオ第1放送、1局が辛うじて聞けた北陸の山村で幼少期を過ごしたが、特に夕食後の団欒時等には、茶箪笥の上に鎮座した中古ラジオの前に家族が集まり、ほとんど毎日、番組を楽しみにしていたものだった。とっさに思い浮かぶ番組だけでも、「三つの歌」「お父さんはお人好し」「私は誰でしょう」「とんち教室」、「民謡を訪ねて」等々。「浪曲」「落語」「漫才」「漫談」等も多かったが、その中に、時々「都々逸」も有ったような気がする。子供のこととて、意味も分からず、面白くもなんともなかったが、元々東京人だった祖母が、寄席物、特に「浪曲」が大好きで、よく聞いており、なんとなく聞いている内に、サワリや断片的一部を覚えてしまったりしたものも有った。「都々逸」に関しては、節回し?や雰囲気程度しか記憶に残っていないが、懐かしさは有る。
今更になってネットで調べてみると
「都々逸」とは、江戸時代末期に、初代・都々逸坊扇歌という寄席芸人によって大成された七・七・七・五調の俗曲のことで、元来、三味線と共に歌われ、男女の恋を歌ったものが多かったのだそうだ。昭和時代中期頃までは、寄席の前座や合間に歌われたりしたようだが、時代が変わり、「浪曲」と同様、すたれてしまったということになる。ただ、唄物から離れて、文芸形式としての都々逸は、現在でも、新聞紙上等に作品が紹介されているようだ。「ことわざ」の感覚で、これまで聞いたことが有る、「都々逸」の有名な作品例をいくつか、書き留め置こうと思っているところだ。


都々逸作品例その3 
「お前百まで わしゃ九十九まで 共に白髪が 生えるまで」


私達夫婦は 歳をとっても、いつまでも
仲良く、長生きして、暮らしていきましょう・・という意味の歌

(ネットから拝借イラスト)


「都々逸」で、ネット検索していたところ、偶然見つけた傑作?都々逸

平成22年2月25日の、テレビ番組「笑点」で
出演者が、上記作品の「お前」と「わしゃ」を生かした替え歌を
発表していたようだ。会場は、大爆笑だったと思われる。
一部、引用させていただいた。

お前歯ぎしり わしゃ大いびき ともに奏でる 二重奏

お前山形 わしゃ新潟で どうりで家庭が ガタガタだ

お前ひまわり わしゃ月見草 ノムさん家でも ボヤいてる

お前寄せ鍋 わしゃおでん鍋 似た者フーフー 息が合う

お前有るのか わしゃ金無いよ いちにのさんで 食い逃げか?

お前富士子で わしゃ歌丸よ 白髪どころか ハゲチャビン

ワハハハハ・・笑いが止まらない。
円楽、小遊三、好楽・・・
だいたい 誰の作品か 見当がつく。

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「中学生日記より」その50(再)

2021年11月06日 09時48分46秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のことだ。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が全く無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると、すっかり喪失してしまっていた記憶が、断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その50 「村祭りと旅回り大衆演劇見物」

昭和32年(1957年)4月15日 月曜日、天気 晴、

神社祭り
朝礼のみで放課、
そうじ(掃除)
朝礼
(宅) 10時頃、
昼前(午前中)は、オケヤの前で雑談、
昼後(午後)1時頃、(隣り)町へ出かけた。
バンド(ベルト)125円、バックル 80円、
(宅) 3時半頃
(夜)、7時半より、(旅回り大衆演劇)神宮寺正一座の芝居あり、
見に行った。神宮寺正、神宮寺晃、神宮寺伸、南静江など、
(宅) (夜中の)12時頃

当時、毎年、そろそろ農繁期に入ろうかという4月15日村祭りが有った。記憶曖昧だが、村落の中心に有った小さな神社境内には、数店の露店が並び、祭りの雰囲気を作っていたものの、大勢の人で賑わうような祭りではなく、村落中が一斉に野良仕事の休みをとり、特別料理で客人をもてなすことが主のような祭りだったような気がする。祭りの日は、小学校、中学校も、朝礼だけで終わり、授業は無しだったことが分かる。
M男は、家に帰ってから、早速、近所の従兄弟T男の家に遊びに行ったようだ。「オケヤ」は屋号で、父親の生家(M男の家の本家筋)。従兄弟のT男は、同い年で同級生、まるで双子のごとくに、いつもつるんでいた。
子供達にとっても、村祭りという寛いだ気分が有り、午後、隣り町へ出掛ける打ち合わせや、夜は、旅回り大衆演劇見物に出掛ける相談等をしたのだろう。
昼食後、多分、その従兄弟のT男と二人、自転車で片道40~50分の隣り町に出掛けたのだと思う。
バンド(ベルトのこと)とバックルを買ってくることが目的だったようで、205円の出費?。
15時半頃には、家に戻り、夜は、その日、催された旅回り大衆演劇見物に出掛けたようだ。娯楽等皆無の当時の山村、毎年だったのかどうか記憶曖昧だが、お祭り開催に合わせて、旅回り大衆演劇一座がやってきていた。隣り近所連れ立って、村中総出で押し掛けたはずで、多分、M男の家でも、祖父だけが留守番で、M男も、祖母、父母、弟といっしょに出掛けたのだと思う。なんと、会場は、小中学校の講堂(体育館・運動場)だったのだ。派手派手な舞台、大音響、大人達のための催しであり、演目もなにもかも記憶にはなく、子供にとって面白かったのかどうかも分からないが、神宮寺一座(じんぐうじいちざ)という響きだけが記憶に残っている。車社会以前の時代、終演後、小さい子供は背中に負われ、深夜、懐中電灯で足元を照らしながら 外灯等ほとんど無い田んぼ道を ぞろぞろと歩いて帰った記憶が蘇ってくる。M男の家は 村落の中心から一番遠い集落にあり、帰り着いたのが深夜の12時頃と書いてある。

懐かしい 昭和20年代、30年代の農村の祭り風景
相互フォロワー登録している「気ままぶらぶら」たなのぶ様のパソコン画。
ご本人のご了解を得て拝借している。

 

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