9年前、「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代、
2012年5月31日に書き込んでいた記事を、コピペ、リメイク(再編集)
「初めての映画館」
確か、M男が小学校の高学年になっていた頃のことだったと思う。ある日、父親に連れられて、隣町に出掛けたことが有った。M男が、父親と一緒に、町に出掛けた等ということは、後にも先にもその1度限りしか記憶は無く、その日、本当は、何のために一緒に出掛けたのか等は、まるで覚えていない。
当時、父親は、農業の傍ら、隣町の印刷店兼文房具店に勤めており、先祖代々専業農家がほとんどの村落の中にあって、兼業農家だった。それは、M男の家が、第二次大戦で、家族全員、父親の郷里に疎開し、そのまま定住したという事情によるものだが、それ故、M男の家では、「ウチは ビンボウだから」が、家族の口癖となっており、閉鎖的だった村落にあって、いつまでも、「疎開者(そかいもの)」という目で見られ、情けを掛けてくれる人も有った半面、他所者扱いもされていたように思う。
その日、父親と向かった先は、父親の勤務先の印刷店兼文房具店の店主の弟が営んでいた時計店だった。井の中の蛙、引っ込み思案だったM男は、慣れない商店街の時計店の店先で、おどおどしながら、父親の話が終わるのを待っていたが、時計店の店主は、妙に愛想良く、M男は、ほめられたり、おだてられたりされ、いたたまれず一刻も早く立ち去りたい心境だったように思う。後年になってから、それは、もしかしたら、父親が、柱時計かなにかを買って、そのおべっかだったのかも知れない等と納得したものだった。
話が終わって、父親が出てきて、直ぐ家に帰れると思っていたところ、「トウチャン、店に戻って、仕事してくるソイ、仕事終わるまで、ここで、待ってろ」のひと言。M男の家と、その町とは、5~6キロ程度の距離であったが、当時の子供にとっては、はるかに遠い町という感覚で、バス等の交通手段が一般的ではなく、その日も、父親のゴッツイ自転車の荷台に乗って、町まで来ていたM男は、父親のいう通りにするしかなく、うなづいたのだったが・・・。
時計店の店主が、すかさず、「アンチャ、映画の券有るソイ、行ってきないや」と言う。そう言われても、一人で映画館等に入ったこともなく、しり込みするM男、「そしゃ、おら、いっしょに行ってやるそい、きないや」と、時計店の店主に促されて、しぶしぶ、歩いて数分の映画館へ向かった。
当時は、日本全国津津浦浦、ちょっとした町には、1館や2館、小さな映画館が有った時代だった。時計店の店主は、窓口を覗き込み、同じ商店会同士からか親しげに、子供1人で入場させる旨告げ、店に帰ってしまい、勝手分からず、おろおろするM男は、従業員に誘導され、座席に座ったが、なんとも落ちつかない。多分、それ程大きな映画館ではなかったはずだが、映画館初めてのM男にとっては、大きな劇場に入った感じがしたのだろう。
上映途中から入って、映画の内容、話の筋等、全く理解出来るはずも無く、多分、題名さえもはっきり分からないままだったと思われるが、2本、上映された内の1本が、美空ひばりが主役で、ところどころで、彼女が歌う場面が有った映画だったことだけが記憶に残った。その映画が「リンゴ園の少女」だったことが分かったのは、ずいぶん後年になってからのこと、大歌手になった美空ひばりの出演映画を振り返るテレビ番組等を見てからのことだった気がする。
今更になってネットで調べてみると、
「リンゴ園の少女」は、昭和27年(1952年)に公開された、島耕二 監督、美空ひばり、山村聡 等出演の松竹映画だった。
ただ、映画よりも強く、M男の記憶に残ったのは、映画の合間の歌謡ショーだった。これも後年になってからの推測だが、もしかしたら、商店会の大売り出しセールの呼び物として、呼んでいたのかも知れないし、時計店の店主が言った、映画の券とは、その歌謡ショーの招待券(景品、タダ券)だったのかも知れない。歌手の名前は、「瀬川伸」(セガワシン)。真っ白なマドロス姿や股旅姿、すらっとした長身が、カッコ良く、名前だけが、記憶に残ったが、その時、初めて見た歌手であり、どんな歌手なのかも全く知らなかったはずだ。
当時、せいぜい、雑音がひどいNHKラジオ第1放送から、有名歌手の歌が流れているのを耳にするくらいで、本物の歌手を、目の前で見るのは、初めてだったM男には、名前を覚える位、かなり、大きなインパクトが有ったのだと思う。その「瀬川伸」のことも、数十年後に、遅咲きの娘、瀬川瑛子が売れ始めた頃になって、その父親であったことを知り、「エッ!、そういう歌手だったのか」と、改めて感激した覚えが有る。
M男は、幼少の頃、体が弱く、しょっちゅう、熱を出して学校を休んだりしていたが、その日の映画館でも、暗闇、大音響、緊張で、頭が痛くなってしまい、途中から見始めた映画を、最後まで見ようともせず、青い顔して、映画館から出て、時計店に戻ってしまったような気がする。
「どうしたんね?」「うん、頭、痛あなったもんで・・・」「そいやんかね、なんか飲むかね?」。時計店の店主は、店の奥の廊下に置かれていた、氷で冷やす冷蔵庫から、サイダーを出してきてくれた。M男の家には、もちろん冷蔵庫はなく、サイダー等を普段飲むようなことも無かったので、冷えたサイダーが、飛び切り上手い飲み物に感じたものだ。
ちなみに、その頃、M男の住んでいた村落では、年に1回~2回、小さな小学校の講堂(体育館)で、夜、映画会の催しがあった。それは、農業という仕事柄、町の映画館等には行けず、娯楽の少ない村落の大人、子供に、映画を楽しんでもらおうとする、今でいうボランティアによる企画だったのかも知れない。暗くなりかけた頃、多くの家から、家族そろって、ゴザ持参で寄り集まったものだ。どこからか、古いフィルムを借りてきて、地元の大工が作ったと思われる卓球台の上に据え付けた映写機で上映していたが、時々、フィルムが切れたり、機械が止まったりして、その都度、直るまで、がやがやがやがや、社交の場でもあったような気がする。ただ、上映した映画のほとんどが、三益愛子の母物シリーズであったり、大人向け映画であったため、子供には、あまり面白くも無かったが、その当時はまだ、映画は、そんな機会にしか見られない暮らしだったのだ。
改めて、映画「リンゴ園の少女」を見てみたくなり、YouTubeを探したら見つかった。60数年前、初めての映画館で観た時の記憶が蘇ってくる。上映時間 (約1時間25分)