たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

「街角」(再)

2021年11月28日 21時57分04秒 | 詩・エッセイ

7年前、「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代、
2014年6月8日に書き込んでいた記事を、コピペ、リメイク(再編集)


記憶から完全に喪失していた物が、最近、不要雑物身辺整理中に出てきた。若かりし頃、若気の至りで、書きなぐっていたと思われる詩の類である。不揃いの便箋やレポート用紙等に、バラバラと走り書きしたような代物で、色褪せてカビ臭い茶封筒に詰まっていた。そのまま、ゴミ箱行きにすれば良さそうな物だが、数十年ぶりに目にして、タイムカプセルを開けるが如く、ある種、感動さえ覚えてしまい、全てを捨て去る前に、「青春の思い出の欠片」として ブログに書き留め置こう等と考えてしまった。今の爺さんには、気恥ずかしく、冷や汗が出るような、ぞっとするような、拙劣な詩の類ばかりだが、恥じも外聞もなく、そのまんま・・・・。

「街角」(再)

その中に、「街角」と題した詩(もどき)も有った。「昭和40年10月2日」と記されており、今から56年も前、独身の頃に、感傷と妄想で、レポート用紙に書き殴ったもののようだ。50数年後に、他人様に公開される等とは、当時、夢にも思わなかったことであり、幼稚、拙劣、無茶苦茶、いい加減な詩(もどき)で、自嘲もしてしまうが、これも又、過去のあしあとの一つと居直って、恥も外聞もなく・・・。

「街角」

乙女ごの 語らい歩む
その姿 やさしく
甘き 雅き(よき) かんばせを
我が心にも 忘れ行く

この街の この通り
いつもの時間に いつものように
乙女ごの語らい歩む
美しき(いとしき)姿を しばし 留めん。

(昭和40年10月2日)


小春日に秋を惜しんで爺散歩

2021年11月28日 17時06分34秒 | 散歩・ウオーキング

(大岳、御前山、三頭山、雲取山方面の山並み)

当地、今日は、文句無しの快晴、
やや風が強かったものの、陽だまりは温かく、小春日和の1日だった。
好天に誘われて、昼下がり、ちょこっと近くを歩いてきた。
毎度のこと、コンデジで やたら、カシャ、カシャ 撮りながら、
スマホの歩数計で、約9,500歩。

 

 

サザンカ(山茶花)          ピラカンサ

 

キセキレイ(黄鶺鴒)

 

                       ダイサギ

 

カワセミ(翡翠)

 

小魚ゲット、

モズ(百舌鳥)・・・かな?

 

 

 


「清少納言のちょっぴり平安博物誌」・まんがゼミナール「枕草子」 その30

2021年11月28日 10時14分20秒 | 読書記

足腰大丈夫な内に出来る限り、不要雑物処分・身辺片付け整理をしよう等と思い込んでからすでに久しいが、正直なかなか進んでいない。それでもここ2~3年には、押し入れや天袋、物置、書棚等に詰まっていた古い書籍類等をかなり大胆に処分してきた。ただ、中には「これ、面白そう・・」等と目が止まり、残してしまった書籍もまだまだ結構有る。その中に、漫画家赤塚不二夫著、元東京学芸大学附属高等学校教諭石井秀夫指導の古典入門まんがゼミナール「枕草子」(学研)が有る。多分、長男か次男かが、受験勉強中に使っていた「枕草子」の解説本・参考書の一つのようだが、錆びついた老脳でもなんとか読めそうな、まんがで描いたくだけた内容、その内いつか目を通してみよう等と仕舞い込んでいたものだ。ながびく新型コロナ禍、不要不急の外出自粛中、ふっと思い出して、やおら引っ張りだしてみた。当然のこと、本格的な「枕草子」解説本、参考書とは異なり、限られたサワリの部分に絞ったものであるが、学生時代に多かれ少なかれ齧っていたはずの日本の代表的な古典、清少納言の「枕草子」も、ほとんど覚えていないし、「古典」に疎く、苦手な人間でも、十分楽しめそうで、御の字の書である。


「清少納言のちょっぴり平安博物雑誌」・まんがゼミナール「枕草子」 その30

第37段 「木の花は」
春、夏に木に咲く花の美しさを綴った随想の段。最も一般的な、紅梅、桜、藤の三つについては、色を中心とした感覚的な興趣が簡単に書かれているだけだが、清少納言が好みとして挙げた橘、梨、桐、楝(おうち)については、和歌や漢詩に取り上げられている花として、やや教養がかって描写されている。桃の花や椿の花が入っていないのは、どうしたものだろうか。

花は、色が濃くても、薄くても、紅梅
は、花びら大きく、葉の色の濃いのが、枝細いのに咲いているのがよろし。
の花は、花房が長く、色の濃いのが、とりわけよろしおす。
四月のつごもり、五月のついたちのころ、橘の葉の濃く青い中に、花の真っ白に咲いた様は、雨上がりの朝など、またとない鮮やかさでおます。
の花は、一般に評判よろしおまへんので、風流に使われることあらへん。むしろ、さえない女の例えになるくらいどすが、唐の国では、最上のすばらしいものとされて、詩にも多く詠まれとります。唐の滅亡を誘ったと言われる、あの楊貴妃と玄宗皇帝の愛の中に詠まれたは、梨の花でおます。
の木の花が、紫色に咲いたのは、何とゆうても、風情がおます。唐では、鳳凰という有名な鳥がこの木にだけ棲むというそうどす。それだけでも、すばらしいのに、まして、木は琴の材料になると言います。あの妙なる音が生まれるんやから、ほんますばらし。ただ、妖怪が手を広げたような葉は、あきまへん。


原文だよーん

木の花は、濃きも薄きも、紅梅。桜は、花びら大(おほ)きに、葉の色濃きが枝細くて咲きたる。藤の花は、しなひ長く色濃く咲きたる、いとめでたし。梨の花、よにすさまじきものとして、近(ちか)うもてなさず、はかなき文(ふみ)つけなどだにせず、愛敬(あいぎょう)おくれたる人の顔などを見ては、たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめて、あいなく見ゆるを、もろこしには、限りなきものにて、文にも作る、なほ、さりともやうあらむと、せめて見れば、花びらの端に、をかしき匂(にほ)ひこそ、心もとなうつきためれ、楊貴妃(やうきひ)の、帝の御使(つかい)にあひて泣きける顔に似せて、「梨花一枝、春、雨を帯びたり」など言ひたるは、おぼろげならじと思ふに、なほ、いみじうめでたきことは、たぐひあらじと覚えたり。(略)、木のさま憎げなれど、あふちの花、いとをかし。かれがれに、さまことに咲きて、必ず五月五日にあふも、をかし。


(注釈)

木の花は、濃いのも薄いのも、紅梅が良い。は、花びらが大きく、葉の色が濃いのが、枝にほっそりした感じで咲いているのが良い。の花は、花房が長く、色が濃く咲いているのが、実にすばらしい。の花は、ひどく殺風景なものであるとして、身近で愛玩することもせず、ちょっとした手紙をこれに結び付けたりなどしない、魅力のない人の顔など見ては、例えにして「梨の花みたい」と言うのも、本当に、葉の色をはじめとして、面白みがないように見えるが、唐では、この上に無いものとして、漢詩に作るのは、やはり、何と言っても分けが有るのだろうと、しいて目を凝らして見ると、花びらの端に美しい色艶が、ほんのちょっと付いているようだ。楊貴妃が、玄宗皇帝の御使者に向かって泣いたとかいう顔に例えて、「梨花一枝、春、雨を帯びたり」などと言っているのは、梨の美しさが並一通りではないからだろうと思うにつけ、やはり、ひどくすばらしいことは、他に類があるまいと感じられる。(略)、木の恰好は憎らしい感じだが、楝(あふち)の花(栴檀の花)は、実に趣が有る。乾いたように、いっぷう変わった咲き方をして、必ず五月五日の節供に咲きあうのも興味深い。