たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

信州信濃の 新蕎麦よりも わたしゃあなたの そばがいい

2021年11月21日 18時23分36秒 | つぶやき・うんちく・小ネタ・暇つぶし・脳トレ

相互フォロワー登録しているある方のブログ拝見していて、すっかり脳裏から消え去っていた言葉、「都々逸(どどいつ)」を見掛け、記憶が炙り出されてきた。昭和20年代~30年代、まだラジオしか無かった時代、電波が極めて届きにくく、NHKラジオ第1放送、1局が辛うじて聞けた北陸の山村で幼少期を過ごしたが、特に夕食後の団欒時等には、茶箪笥の上に鎮座した中古ラジオの前に家族が集まり、ほとんど毎日、番組を楽しみにしていたものだった。とっさに思い浮かぶ番組だけでも、「三つの歌」「お父さんはお人好し」「私は誰でしょう」「とんち教室」、「民謡を訪ねて」等々。「浪曲」「落語」「漫才」「漫談」等も多かったが、その中に、時々「都々逸」も有ったような気がする。子供のこととて、意味も分からず、面白くもなんともなかったが、元々東京人だった祖母が、寄席物、特に「浪曲」が大好きで、よく聞いており、なんとなく聞いている内に、サワリや断片的一部を覚えてしまったりしたものも有った。「都々逸」に関しては、節回し?や雰囲気程度しか記憶に残っていないが、懐かしさは有る。
今更になってネットで調べてみると
「都々逸」とは、江戸時代末期に、初代・都々逸坊扇歌という寄席芸人によって大成された七・七・七・五調の俗曲のことで、元来、三味線と共に歌われ、男女の恋を歌ったものが多かったのだそうだ。昭和時代中期頃までは、寄席の前座や合間に歌われたりしたようだが、時代が変わり、「浪曲」と同様、すたれてしまったということになる。ただ、唄物から離れて、文芸形式としての都々逸は、現在でも、新聞紙上等に作品が紹介されているようだ。粋でストレート、ことわざの感覚で、これまでなんとなく聞いたことが有る、「都々逸」の有名な作品例をいくつか、書き留め置こうと思っているところだ。

(ネットから拝借イラスト)


都々逸作品例その4 
「信州信濃の 新蕎麦よりも わたしゃあなたの そばがいい」


「都々逸」とは言えないかも知れないが、
浪曲漫才グループ「玉川カルテット」の極め付けの一節、
「金も要らなきゃ 女も要らぬ わたしゃも少し 背が欲しい」
が ふっと思い浮かんだ。

 

 

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晩秋の色を探しながら

2021年11月21日 16時49分14秒 | 散歩・ウオーキング

当地、今日の天気予報は、「曇のち雨」、
昨日とは打って変わって、今にも降り出しそうな空模様で、
薄ら寒い1日だった。
キョウヨウ無し?、キョウイク無し? だったが
午後になって、ちょこっと近くを歩いてきた。
  右左上見て下見る爺散歩
スマホの歩数計で、約6,900歩。

ナンテンの実            フウセンカズラの実

十月桜に シジュウカラ(四十雀)?

そこへ、10数羽のメジロの群れが・・、
シジュウカラは、退散、十月桜は メジロが占領・・

クロガネモチ(黒鉄黐)の実


爺さんの備忘録的花図鑑 「クロガネモチ(黒鉄黐)」
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2018年11月8日


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玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする

2021年11月21日 10時22分15秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからである。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、昨年、一昨年、「春」「夏」「秋」「冬」、季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログに書き留めたが、今回は、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、書き留めてみることにした。

(ネットから拝借画像)


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その5

玉の緒よ 絶えなば絶えぬ ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする

出典 
新古今集(巻十一)

歌番号 
89

作者
式子内親王

歌意
私の命よ、絶えてしまうなら、
いっそのこと、早く絶えてしまっておくれ、
このまま生きながらえていると、
恋心がつのって、耐え忍ぶ心も弱ってしまって、
人に知られてしまうことになるであろうから

「忍ぶる恋」とは、人に知られないように秘めた恋のこと。
上二句の激情と下二句の哀調の対照は
断とうとしても断ちきれない激しい恋情に悶える女心を
見事に表現している。
恋する心とそれを忍ぼうとする心との緊張が、
まさにくずれようとする時、
懸命にそれに耐えている心のせつない叫びで、
忍ぶ恋の歌の絶唱と言える。

                 注釈
「玉の緒」・「魂」を身に繋いでおく「緒」のことで、「命」の意。        
「絶えなば絶えね」・絶えるものなら絶えてしまえばよい、            
          勝手にどうにでもなれ、どうなろうとかまわない・・   
          という激しい語調。         
「弱りもぞする」・耐え忍ぶ心が弱って人に知られたら困ったことになるから。   
         「もぞ」・・懸念の気持ちを表している。  


式子内親王(しょくしないしんのう)
後白河天皇の第3皇女。10歳の頃から賀茂神社の斎院を勤め、後に出家。
新古今集の女流歌人の第一人者だが、平治の乱を前後して、父親(後白河院)の幽門、兄(以仁王)の戦死等という憂き世を経験し、悲運を詠んだ歌やしみじみと哀愁の有る歌が多い。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


 

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