いつものことなんだけど、最初の本読みはとてもがっかりする。台本の漢字が読めないから?それもないわけじゃないが。役者たちのせりふを聞いて、ええーっ!そんなつまらない本なの?どうしてそんな風に読むの?もっと格好良くやれないの?作者が意図してるものどぜんぜん違うんだけど、・・・・慣れないなぁ、この食い違いには。
台本てのはこんなもんなのかも知れない。なんたってト書き以外、説明なんかまるでないわけだから。特に、登場人物の人柄やその時々の感情など小説なら大切な地の文がない。実に不親切な物語なわけだ。ただの素材としてのせりふがごろんごろんと横たわっているだけなわけだから。時には、「長い間」なんてどうしてなのかさっぱりわからず、沈黙だけの指示なんかもあったりして、わからん!よなぁ、これじゃ。
せりふだってそうだ。例えば、「そうなの」なんて相づちにしても、相手の話にのめり込んでいるのか、そっけないのか、あるいは、嫌々なのか、それ以前に疑問型なのか?納得してるのか、だってわからない。だから、親切な台本だと、( )付きでそのせりふを発する気持ちが書き込まれたりもする。例えば、「そうなの(大いに納得)」とか。
でも、多くの台本はそんな小説の中途半端な真似事などはしない。判れよ!そのくらい、察しがつくだろ、前後の流れから、と実に態度がでかいのだ。役者たち、金出して台本買ったわけじゃないだろう、お客様とは違うんだ、努力しろよ!ってこと。それに、これから演出家があれこれと意味づけしてくれるから、いいんだその程度で、って気持ちもなくはない。よく言えば、演出家や役者に読み込む自由度を与えているんだとも言えるのだが、どうも、そんな殊勝な思いとはほど遠いように感じる。
多義的に読める台本、これをなんの予備知識もなく読み始めれば、作者の思いとははるか彼方を一人歩き、いや、役者の数だけ四方勝手に歩き始めるに違いない。これが、いつもいつも感じる、最初の本読み時の違和感の正体なわけだ。だから、まっ、最初だしな、仕方ないか、これから意図した方向に導いて行けばいいわけだから、と、差し出口をぐいっと飲み込んで最後までおつきあいをする。
やむを得ない事情はたしかにある。でもなぁ、書かれたせりふは意味のない羅列じゃないわけだから。せりふに選ばれた言葉だって、何度も何度も推敲を重ねてはき出されたものなわけだし、だれがどう受けるか、だって十分に吟味されて書かれているんだよ。緻密に、繊細に、鋭敏に読み込んで行けば、台本に書かれたせりふのやり取りの中から、実に多くの情報を手に入れることもできるはずなのだ。せりふに込められた意味だけじゃなく、それを発する人の気持ちも、周囲に与えるインパクトも、時には、せりふの意味とは正反対の意味だってつたえることができる。たった一枚の絵が、膨大な情報を蓄えてるようなものだ。
ただ、この秘められた情報を読み解くには、それなりの経験とセンスが要求されるんだなぁ。それらが不足してる人の場合、台本読んだって詰まらないとか、さっぱりわからないってことになる。それを読み込み、文字の羅列からシーンを立ち上げて行くのが演出家ってことになるのだが、役者だって力量ある者なら、自分なりに本を理解して工夫していくはずなのだ。役者の理解と演出の意図、その間のずれをかみ合わせ、すりあわせしながら舞台ができあがっていく、これが本来の姿だ。
で、菜の花座に関して言うと、まだまだせりふを読み込む力が不足しているなって言うのが僕の偽らざる感想だ。長く経験を積んだ者も、シニアからの入門で未だ修行中の者も同様だ。仕方ないなぁ、と思う反面、もっと沢山台本読んでくれよ、って願う気持ちも大いにある。いろんな作家のいろんな台本を読み、その芝居を見る、あるいは逆でもいい、そんな頭と五官、二つの体験を積み上げることで、役者の力量は数段に上がるはずなのだから。
台本てのはこんなもんなのかも知れない。なんたってト書き以外、説明なんかまるでないわけだから。特に、登場人物の人柄やその時々の感情など小説なら大切な地の文がない。実に不親切な物語なわけだ。ただの素材としてのせりふがごろんごろんと横たわっているだけなわけだから。時には、「長い間」なんてどうしてなのかさっぱりわからず、沈黙だけの指示なんかもあったりして、わからん!よなぁ、これじゃ。
せりふだってそうだ。例えば、「そうなの」なんて相づちにしても、相手の話にのめり込んでいるのか、そっけないのか、あるいは、嫌々なのか、それ以前に疑問型なのか?納得してるのか、だってわからない。だから、親切な台本だと、( )付きでそのせりふを発する気持ちが書き込まれたりもする。例えば、「そうなの(大いに納得)」とか。
でも、多くの台本はそんな小説の中途半端な真似事などはしない。判れよ!そのくらい、察しがつくだろ、前後の流れから、と実に態度がでかいのだ。役者たち、金出して台本買ったわけじゃないだろう、お客様とは違うんだ、努力しろよ!ってこと。それに、これから演出家があれこれと意味づけしてくれるから、いいんだその程度で、って気持ちもなくはない。よく言えば、演出家や役者に読み込む自由度を与えているんだとも言えるのだが、どうも、そんな殊勝な思いとはほど遠いように感じる。
多義的に読める台本、これをなんの予備知識もなく読み始めれば、作者の思いとははるか彼方を一人歩き、いや、役者の数だけ四方勝手に歩き始めるに違いない。これが、いつもいつも感じる、最初の本読み時の違和感の正体なわけだ。だから、まっ、最初だしな、仕方ないか、これから意図した方向に導いて行けばいいわけだから、と、差し出口をぐいっと飲み込んで最後までおつきあいをする。
やむを得ない事情はたしかにある。でもなぁ、書かれたせりふは意味のない羅列じゃないわけだから。せりふに選ばれた言葉だって、何度も何度も推敲を重ねてはき出されたものなわけだし、だれがどう受けるか、だって十分に吟味されて書かれているんだよ。緻密に、繊細に、鋭敏に読み込んで行けば、台本に書かれたせりふのやり取りの中から、実に多くの情報を手に入れることもできるはずなのだ。せりふに込められた意味だけじゃなく、それを発する人の気持ちも、周囲に与えるインパクトも、時には、せりふの意味とは正反対の意味だってつたえることができる。たった一枚の絵が、膨大な情報を蓄えてるようなものだ。
ただ、この秘められた情報を読み解くには、それなりの経験とセンスが要求されるんだなぁ。それらが不足してる人の場合、台本読んだって詰まらないとか、さっぱりわからないってことになる。それを読み込み、文字の羅列からシーンを立ち上げて行くのが演出家ってことになるのだが、役者だって力量ある者なら、自分なりに本を理解して工夫していくはずなのだ。役者の理解と演出の意図、その間のずれをかみ合わせ、すりあわせしながら舞台ができあがっていく、これが本来の姿だ。
で、菜の花座に関して言うと、まだまだせりふを読み込む力が不足しているなって言うのが僕の偽らざる感想だ。長く経験を積んだ者も、シニアからの入門で未だ修行中の者も同様だ。仕方ないなぁ、と思う反面、もっと沢山台本読んでくれよ、って願う気持ちも大いにある。いろんな作家のいろんな台本を読み、その芝居を見る、あるいは逆でもいい、そんな頭と五官、二つの体験を積み上げることで、役者の力量は数段に上がるはずなのだから。