自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

肉体感覚の矛盾性

2014年05月14日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 自分の体?を知っていますか   2014・5・14

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先日 NHKで右腕を失った大正12年生まれの男性が

桜の油絵を生涯の楽しみとして描き続けていることを

知りました。

その方は右腕をすでに失っているのに、時々、右腕が

痛いという激痛が走り、お嫁さんが

ないのに不思議なのですがほんとうに痛いそうです”と

漏らしていました。

このように、自分と自分の体といっても、失った組織

の一部が痛みを覚えると言うのは、どういうことなのでしょう?

自分の意識と肉体の関係はどうでしょう? 

これは “これは自分の体です。” と私たちは言います。

無くなった部分が痛いというのならわかるけれど、

無い部分が痛むと感じるのは”心と感覚の問題”でも

あるのでしょう。

このように自分と感じる意識も、実はあいまいなものだ

と言います。

たとえば、

”自分はこの肉体の中にある“

心臓も、太陽神経チャクラも、脳も、肉体の中にあるから 

肉体が自分だ” 

 と 心 で ”自分の定義” をそう、思い込ませている

のでしょう。

無いはずの腕も、頭ではわかっていても、心はまだ”ある”

としているから、痛みを感じるわけでもあります。

 

同様にこの世界で見えること、聞こえること、触れたりして

感じて心に印象を与えるその”おおもと”には、その物質を

心で認知して、感覚が脳に伝えられます。

ところが、ほんとうに私たちは 正しい現象を

観たり・聞いたり、感じたり”

しているかといえば だいぶ 疑わしいといわざる得ません。

 

たとえば、私たちは 震度3 程度 の地震を体で感じる

ことはできるけれど、

地球が 時速何千マイルの勢いで移動 していることを

感じられません。 

 

私たちの目の前にある、見えている物は すべて原子

でできていること。

頭では知っていますが、感じることはできません。 

さらに、原子は素粒子でできていると言われても、

全く無関係の世界の出来事のようにしか感じません。

現代物理学ではすでに素粒子は巨大な空のスペースを

ぐるぐる回っていることが当たり前のことになって

いますが、私たちの感覚では、

そのような実態も、感覚もまったく、つかめません

 

そんな、ぎこちない、能力 しか 私たちの五感は

持ち合わせていないのに、感覚で得た情報が、

すべて真実だと、どうして、信じることができるので

ょう?

 

哲学者が言う ”社会的規約の催眠状態” とは

このことをいうようです。 

私たちは、通常の日常生活では感覚器官で 

身の回りのエネルギー体を 

物質的構造、色、音などに変換して 理解しています。

 

変換して理解しているということは、

現象に見える実体は デフォルメされた

り、錯覚的にあるようにそれがそのままそう

あるように見えているだけで

真の実体の姿とは言えるかどうか疑問です。

 

私たちはまだまだ認知症ではないし、妄想世界

に住んでいるなんて思いたくないのですが、

こうして考えてみると、案外、自分たちの生活に都合の

良いように、共通妄想の現実を創り上げている

のかもしれません。 

 

物理学で証明されていることは、最近の

ニュースでも話題になっている

ように、データを貼り付けたり、

改善されたりしてでっち上げられたものでは

なく、私たちの五感の感覚を遥かに

超えた実験とその確証データの

領域の中で繰り広げられている 

”モノの実体”を示しているのです。

物質を構成している素粒子の間の 

空間の廣さ” はすでに

証明されているところですが、

ほとんど空間だらけの原子でできた

物質は “固体で 凍結した状態”だと 

感じられることも不思議でなりません。

感じる事が即信じられることの、

日常生活では誰も、このことを

疑っている人はいない。

それもまた、不思議な事であります。

このことを筆者は、あえて、”共通性妄想の世界”、

”幻想に近い錯覚世界”であると 呼びたいと

思います。

 

同様に、こうして、私たちは、 真の自分

(アートマ)の智慧で 

物事を見るのを忘れていますので、現象で

繰り広げられている事象こそ、現実真実の

世界だと思い込んでいます。

そういう意味では、アートマ世界から見ると、私たちは

催眠状態の中で生きているのかもしれません。

宗教詩人、カピールあたりなら、” 

無智という暗黒の眠りから覚めない夢の中を彷徨う人達” 

などと言うかもしれません。

 

般若心経でいうところの ”知恵” と ”智慧”の違い、

インド古代ベーダ哲学でいうところの、

マーヤの知恵” と ”アートマの智慧”の違いはまさに、

この感覚世界の夢のような世界と 生命力の充ちている

愛にあふれた本質的世界の隔たりに一致しています。

この智慧 と 知恵 の言葉づかいは、

その中間にたって、右と左の対照的な世界の物差しを

言い当てた言葉だと思います。

 

知恵は、五感の感覚を信頼するがために、

肉体の眼で見えないもの・聞こえないもの・

臭いのないもの・味わえないもの・触れる事が

できないものは、存在として認めないことを

基盤に成り立ちます。

だから 普通いわれる”知恵在る人”とは、

その範囲の常識を創り上げて、

その常識を超えない範囲の知識の情報量を

多く持っている人、(記憶力や解析力を含めて)

呼ばれる人でありましょう。

別の言い方をすれば、その非存在性を 合理化して、

存在するように組み立てる 常識の中の知恵を

”現世の知恵” と呼びます。 

 他方、バンニャー(般若)の 

真理を観る智慧” や、アートマの智慧とは

基準が全く、異なるものです。

 

存在するものを構成している波長や波動は 

五感の感覚でとらえられません。 

たとえば、私たちが関知できる、色ですら、

光の波長の断片に過ぎません。

同様、肉体も固体と感じているけれど、

実態は、細胞、細胞の分子、

分子の中の素粒子、素粒子の中の巨大な空間、

そして、

その空間に存在する、生命力、アートマエネルギー

から成り立っているわけです。

そこからくる智慧は、人を神性に復帰させるための、

直観的真理であるわけです。

同じ発音の ちえ でも こうした大きな

違いがあること、

アートマセラピーは、後者の智慧に体と

心の波長を合わせることが主眼です。

 

 

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