谷口雅春師の、甘露の法雨 より
2015.7.1
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空(神)の創りだしたものの中、とは何だろう?
創造物の中で人がその神格を意識できる最高の創造物で
あることは否めない。
そして だからこそ、人の心で生み出す想念が、エネルギーとなって
いろいろな現象、状況を生み出す。
だから言い換えれば、私たちが身体を持って生きているこの現場
こそ、そこは現象世界であるのだが、それを ”空”(くう)
の”中”(ちゅう)と般若心経で言うのだろう。
’空’とは’真実の一点’で 開けば無窮、閉じれば、限りなく
小さな一点・・・
その’空の中’にはあるように見えてないものがたくさんある
らしい。
そこには、私たちの自由意思で勝手に想像し、創りだした
様々な色模様が、神が宇宙を創りだした原理と同様に、
私たちの周囲、私たち自身の上に顕れているからだ。
本来 ’無明’ は ’空’にはない。
だから無明に灯りをともそうという考え方自体が、すでに
’現象的’考え方なのだ。
同様、本来、’空’ には 老死 はない。
その老死を滅したいとおもうことが 老死にとらわれた
現象的考え方といえる。
この行(くだり)は般若心経の
“無無明亦無無明尽” 〝無老死亦無老死尽“
訳)
無明は本来無いもの(模様のない印画液のないフィルム)
だから、無明が尽きるということもない。
老死は本来無いもの(スクリーンに映写された病人や死人)
なのだから、老死が尽きるということもない。
それなら 物質が現象世界に見えて居ながらにして、
本当の意味で実存していないのなら、実在しているものは
何ぞや?
実在とはそもそもどういうことなのだろうか?
一元論では 上記の行(くだり)に対応するように、こうある。(*1)
“実在はこれ永遠、実在はこれ病まず、実在はこれ、老いず
実在はこれ死せず。”
“生命は生を知って、死を知らず。
生命は実在の又の名、実在は始めなく、
終わりなく、滅びなく、死なきがゆえに、
生命もまた、始めなく、終わりなく、
滅びなく、死滅なし。”
この行りは般若心経での
“是諸法、空想、不生不滅” に相当するだろう。
法、即ち、”実在している一つの筋道” あるいは
”宇宙を貫く法則”では、生命は、”生まれたり、滅したり”
するものではないのと同様、私たちも現象世界で見えるように、
”病んだり、死んだりするものではない”
ということ。
一元論ではさらに神の資質をこういう:
“神は五感を超越している。
第六感も超越している。”
だから、
“汝ら、感覚にて認める物質を実在となすなかれ。”と言い、
“物質が 生命を支配する力あるかのごとき観を呈するは、
生命が ‘認識の形式’ を通過する際に起こしたる ‘歪み’ なり。”
とも言う。
認識の形式、それは私たちの五つの五感の感覚機能で行われる。
その際に歪みが発生して、物質を誤った認識でとらえてしまい、
それに捉われたり苦慮したり、惑わされたりするというのだ。
この場合物質とは、モノのみでなく、現象的顕れも
さすのだろう。
痛い、怖い、悲しい、苦しい、つらい、などのマイナスの
感情は大方、物質(現象)を在るとみて、それに支配されるから
起こりうる感情でもあるのだ。
般若心経ではそのあたりを以下のような言葉で喝破する;
“是故空中、無色無受想行識、
無眼耳鼻舌身意、無色聲香味觸法、”
訳)
現象世界には物質も観念を受け想い、それによって行う
識別などは無い。
眼や耳鼻といった五感機能はないから、その機能によって
生まれる五感認識もない。
無いというのは実在しないと言う意味だ。
あるのに無いとは?~というより、
在るように見えてもほんとうの所実在しないという
一元論の見方である。
喩えれば、冷や汗をかいて必死に逃げ惑う夢を見ていても、
覚めてみれば夢であり、本当のところ現実ではなかったと
安堵する心持に似ている。
一元論でいう私たちの本質こそ、生命の実相に在り、
その実相こそ ’健康円満な自分’である。
それを知ることで因縁を超越することもできると説く。
般若心経のバンニャー(般若)という音の当て字の
もともとの意味は’おおいなる因縁を超越する智慧’という意味
のサンスクリット(梵語)の音(中国語の読み方)の
当て字である。
*1~谷口雅春師 ”甘露の法雨” より