私たちの自由意思と神の自由意思
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生まれつき病弱な人がいる。
一生、医者にかかることなく、元気で終わる人もいる。
災難続きにあったり、自然災害に見舞われたり、一方、平穏に過ごす人もいる。
一見不幸に見える環境でありながら、幸福感を味わる人もいれば、
恵まれた環境の中で、人知れず嘆いている人もいる。
そういう意味で、ヒットラーが地獄に行かず天国へ行った、
などと聞かされると、納得のいかない感情がわく。
今日はそのことについて・・・
先回、ヒットラーが地獄に行かず、天国に行ったという記事に続き、
人の自由意思について考えてみたい。
自然治癒力と関係がないかといえば、実は、人の心に相応して、
体の調子は変化するので人の意思はとても大切な要素といえる。
先回に続いて、神様(*1)の対話という形式で引用しながら
ご紹介したい。
“ヒットラーに関すること・・あれは神の意思ではなかったと思うか?”
と神は人に問う。
むしろ、ヒットラーは、神の意思を踏みにじったのではないだろうか?
~と普通は考える。
愛と調和に満ちた神が、そんなことを意図するわけがないのだから・・・
神はさらに聞く。
“わたしを全能だと思うか・・”“全能なのに、どうしてそんなことが
起こったのだろう?”
そう神に聞かれた人は、”あなたは、ヒットラーの行動を放置して
おいたのかもしれない。”と答える。
すると、神は答える;
“わたしが全能なら、そしてヒットラーの行動を自由に放置
させておいたのなら、それが私の意思だろう?”
なるほど・・・一理ある。
だとすれば、神の意思とは、人間が自由に選択することを良し
とする、あるいは、選択させる、そこにあるというのだろうか?
ここで神はこう、言葉を続ける;“ヒットラーは誰もがそうだが、
自由に選択することができる。
そして、私が望む選択をしなかったからといって、その人を
未来永劫に罰するという意思を私は持っていない。
もし、そうだとしたら、どうして、誰もが自由な選択を
できるだろう?”
“わたしの望みに反したら、言語に絶する苦しみを味わうと
わかっていたら、あなたは自分のしたいようにするかね?
それが自由な選択と言えるだろうか?”
もし、神が罰しないのなら、誰が罰するのか?
誰も、ただ、自分自身を除いては。
そして、因果応報という形で自分のカルマ(業)を清算する形で
罰せられるような苦しみが帰ってくる場合を除いては。自業自得、
ということだろう。
それは、神のせいではなく、他人のせいでもなく、あくまで
自分が蒔いた種の結果を刈り取るだけの話だ。
ヒットラーの例でいえば、彼は最後は追い詰められて恋人と
ともに、自殺を遂げる。
それは自業自得の結末であっても、神は決して罰していない。
あの世で彼は天国にいるのだから・・・
さて、再び、ヒットラーが自由選択したというその大虐殺に
ついて話を戻すと、神のコトバは続く:
“彼の行動は、あなた方に言わせれば‘過ち’未発達なものの、
行動だ。
しかし、過ちは非難して罰するべきものではなく、修正する
チャンス、発達するチャンスを与えるべきものだ。
ヒットラーが起こした過ちは、彼が死にいたらしめた人々を
なんら害することも、侵すこともなかった。
あの人々の魂は地上の束縛から解放された。
さなぎから蝶となり解放されるように。“
これは先回の“死”の現実がもたらす“福音”であるというところ
と重複する。
体を持っている私たちの知らない(忘れている) 喜びの世界が
そこにはあるのだと神は言う。
さらに、言葉は続く:
“彼ら(拷問を受けたユダヤ人)は時ならぬ死をとげたの
だから、‘間違っている’とあなたは言うが、
それは宇宙では起こるべきでないことが起こりうると
言っているのと同じだ。
だが、私が何者でどのような存在であるかを考えれば、
それは不可能だよ。
宇宙で起こることはすべて、完全に起こるべくして起こっている。“
私たちは自分で決めて、行動する。それを自由意思の選択行動
というのだが、ほんとうに私たちは自分の意思を尊重した
選択をしているのかどうか?
社会が許さないから、親が反対するから、常識に反するから、
嫌われるから、問題を起こしそうだから…
無難なところで、手を打つ。それも、ある意味、神の意思
なのだろうか?
自由意思を効ししているという点では。
自由意思・・神の意思・・
ここで神が伝えたかったことは、“人は何を選択しても自由だが、
それから学びを得て、次第に本来の自分に近づいてくる”
“そうした様々な体験も身体を持っている内だからできることである”
ということに他ならないような気がする。
*1~ここでいう、
神様とは以下の本の中
に出てくる主体の言葉です。
’神との対話’
ニール・ドナルド・ウォルシュ
吉田利子訳
サンマーク出版