自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

あなた自身が観世音菩薩(前):スポンテナス・ヒーリングの本質(前)

2017年04月22日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

 

自然治癒力発動力と 空(くう)の認識の関係性(前) 2017・4・20

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 ここまで 一般的立場から観音様のお話を書かせていただいたので、

自然治癒力セラピー協会の観方から投稿させていただきたい。 

20日に投稿した記事が、分かりにくいものであったので推敲させていただき

再度 投稿させていただきたい。

 

さて、観音様は観世音菩薩と呼ばれ、般若心経の中では

観自在菩薩と表現される。 が、(私は宗教学者では

ないので、主張するのは憚れるが)以下のような見解を

取らせていただく。

 

 1.観音様とは、特定の菩薩様ではないということ。

音を観じる~(観音)菩薩様 とは? 

“波動(音)を観る” 菩薩、という中国語があてはめられ

ている。カンとオン は 観音 でわかるが、ほかには、

”観世音”という言い方もある。

 

その観音の間にある、世 とは? 

カン“世”オンの 世は、この現象世界 あるいは、世の中。

観世音 とは、“世の中の波動(の奥に潜む真実)”を

“観サツ(察)”するということだと思う。観察するのは

ただ、見るだけではなく、研究者が実験を重ね、その

実験の中で得られる結果を分析して、共通事項~真実 

を見出すことだ。 

 

だから、観世音 とは、世の中の波動、エネルギー、

動き、現象の中に、共通に変わらず流れている真実

を見出すことだろう。菩薩 とは真理を真摯に求道し、

修行する人たちをさすから、観音菩薩とは特定の人

ではないと考える。

 

芸術でも、道でも、宗教でも、その中で 真実を見出す

ために、奥へ奥へと視点を深めて、掘り下げて、極めた

人が達人と呼ばれる。そう考えると、私たちの周りには 

実に、多くの観世音菩薩様がいらっしゃる。 

 

一見してわからないが、ある意味、皆様が観世音菩薩様

でもある。専門は別々でも、達人になる過程を私たちは

皆、生きているからだ。その観世音菩薩が 無常の世の中で 

観る真理とは 何なのだろう? 

 

すべて無常に見える現象世界に隠れている普遍で不変の

実在・・・般若心経では、その不変の実在を、簡単明瞭

に説いている。お経の言葉で言えば、“不生不滅”

ふしょうふめつ“の存在だ。 

 

不生不滅なもの、つまり、生まれたこともないし、滅する

ことがない、言い換えると、常に、”実在“しているから、

”絶対的有(ゆう)“ と言い換えられる。

 

無常の世の中に見える理由は、

“わが目で見て、耳で聞いて、手で触った、鼻で嗅いだ

匂い、舌で味わった食べ物” が、ほんとうに在る” と 

99・9%の 地球に生きている(きた)人間は、考えて

いる(きた)。 

実際、川の流れのように という歌詞同様、人生の河

では自分自身も周りも、状況や環境なども変化し続けている。

そう見える理由は、”眼耳鼻舌身”の感覚に頼って理解し

判断しながら生きているからだと先人は説く。

 

このことを、心経の部分から取り出すと、

“無眼耳鼻舌身意” と喝破している一行にあたる。 無い! 

眼も耳も鼻も舌も身も意識も。!

そんな馬鹿な・・・ここに ”ある”ではないか・・・

というように、私たちは “有 眼耳鼻舌身意” と思っている

から、次のようなことで煩わされている; 

心有けい礙(げ)”~ 心にわだかまりを持ち、 

有恐怖(うくふ)”~恐怖を持ち、

“有顛倒夢想(てんどうむそう)“~価値観が顛倒

(てんとう)しているから、現象世界の裏に隠れている 

本物の実在に気が付かず、事件や環境に振り回されて

悩まされている。

 

そこで、観世音菩薩は、波羅密多の行、つまり 悟りの

岸に行くための修行をして、“照見五蘊皆空”(しょうけん

ごうんかいくう)、つまり、すべてのものの中に

見いだして、これをつまびらかに理解したので、〝色不異空“

物質は空である ということを悟り、心は障りがなくなり、

自由になった、つまり、恐怖や夢想から解放されたと

記されている。

 

2.日本仏教禅宗公案 と ヴェーダの中にみられる 

真理の共通点は・・・ 

仏教が伝来し、禅宗の公案に〝未生以前本来の面目如何“ 

とある。この質問の意味は、”生まれる前は一体、どのような

様相だったのだろうか?” 

 

”この現象世界に表れている以前の実存の本質は何か?”と

聞いている。たぶん、その答えの中心概念(禅宗的マニュアル

の答えは私は知らない)は 次のようなものだろうと推測

する。まだ、五感の感覚器官ではつかめない、実在の生命

だった

 

私たちは、この世に”生きる”ために、肉体を必要とする。

だから、いろいろな因縁で縁のある、現在の父母を選び

(我々生命自身が)これまでの生での、カルマ清算や、

なずべき指名を果たすべき 彼らの子供となり産声をあげて、

保護され育てられ成人して今の自分がある。

 

般若心経では、上記の禅問答の答えを、簡単に “空”

という一文字で示そうとしている。 

サンスクリット語でいえば、“アカーシャ(空)”的な

アートマをさすのだが、アカーシャは、大空をさす。 

 

空とは‘無’ではない。 

むしろ、無の正反対 であるように思うが、無 

というと、何も無い というイメージをぬぐえないので

これもまた、適当な言い方ではないかもしれない。

 

インドの古代ヴェーダ哲学の神髄も この”空”にある。 

すべての物質的存在の奥にアートマ(Atoman)の資質

があり、それは完全なる一元的喜び、調和、供給、円満

なる実在と定義づけられる。

 

空(から)っぽの空(くう)ではなく、

目に見えない極小のエネルギーの場の中心、それが“空”だ

と私は理解している。私たちは皆、この“空”が この身体

の細胞を存在させているから、今、生きている。という

より、“生かされている”。

 

達人や覚人、大師を除いて、私たちは、“空”(くう)を

意識しないで生きている。そして、“空” 状態に戻るための、

身体と心をコントロールする力を持つほど覚醒していない。

だから、“生きている”という表現をして、自力の主体性を

強調するのは なんだかおこがましい気がする。

本当は、“生かされている” という方が適切だろう。

 

観世音菩薩は、私たち一人ひとりのことだ。

たとえ、”照見五蘊皆空”(しょうけんごうんかいくう)= 

現象に見える、感じる触れえる、味わえる、認識できる

すべての物質や事柄は、結局 空 に他ならない=

という認識に達しているかどうかにかかわらず・・・

 

だれもが、観世音菩薩として、生きているし、この身体

には 必ず、自然治癒力が備わっている。

が、その治癒力の発揮力は、人によって、異なる。

治癒力発揮指数が、空 の認識と、どう関係している

のか次回(後編)で考えてみたい。

 

 

 

 

 

 

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