ヴェーダの中でみる アートマとは?苦行は意味がない?
2017・7・15
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前置き)今まで、自然治癒力について、いろいろ
書かせていただきました。
セラピストの須田さんという見方が、日本では、
協会関係の人たちには一般的です。
私自身はセラピストである前に 15年住んだ
インドでは、シターリストでした。
そして、その二つの顔の根幹に、不二一元説を
もって、生まれながらの虚弱体質と
アトピー性皮膚炎を全快させた一人の真実を
求め放浪する精神的旅人の
素地があります。
実は、当協会のフェースブックには、海外の方がたまに、
訪れています。
たぶん、spontaneous healing therapy japan
という正式協会名称で興味を持たれたのでしょう。
また、その中のおひとりからメールを協会
公式メールアドレスにいただき、
“(投稿)内容など、もう少し英語での情報がほしい”
ということでありました。
そこで、今日は、この手元にある、インド時代、
大学院に提出した博士論文を元に、
原稿を上げさせていただきます。
ここからそのまま、一部をリクエストに応じて、
英文でフェースブックに載せるためです
日本語訳もつけますので、お付き合いくださいませ。
ちなみに、私は、インド古典芸術と日本の美学の
比較研究を(インド国立)デリー大学大学院の
芸術学部でインド古典音楽を主体に研究していまし
から、
直接、ご紹介する当時の原稿は、自然治癒力セラピー
とは関係ありません。
が、智慧のある読者の方ならお気づきと思いますが、
実は、このインド古典音楽は
神にささげた聖なる楽曲であり、ヴェーダ哲学と
きってはきれない関係があるのです。
そして、ヴェーダ哲学という、不二一元説を説く
教えは、’形而上的癒し’=’spontaneous healing ’と
これまた、切ってもきれない関係があることから
当協会の主旨に関係深い
ことをご理解していただけると思います
(以下、青字部分は論文中、他学者の意見の引用となります。)
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In Vedic philosophy, we see that eternal is
here and eternal itself is the Real Being.
Other thing comes from Maya, or illusion.
The outstanding musicologist in 16th century
Sarangdeva called this eternal Being as Brahman
or Nada Brahaman.
Brahaman according to Vedic philosophy,
is a reality and the appearance of Brahaman is
capable of being realized by man with
real knowledge, which is beyond any phenomena.
This knowledge belongs to spirit coming from
the recognition of Atma
(the Substantial Existence or Real Being in man’s heart)
以上~デリー大学卒業論文から~
訳)
ヴェーダ哲学では、永遠なる存在は常にここにありというが、
その永遠なる存在こそ、実存的実在だ。
その他の現象はすべてMaya(夢幻)であり、錯覚(五感的)
だと教える。
16世紀の著名な音楽学者である、サラングデヴァは、
この永遠なる存在を、ブラハマン、もしくは、
ナーダ・ブラフマンと呼んだ。
(須田注:’ナーダ”とは、音楽的な音 を指す、サンスクリット語)
ヴェーダ哲学では、ブラフマンは実存であり、
それを知るためには、現象を超えた真の叡智をもって
でしか把握できないとされた。
この真の叡智はどこから来るか?
といえば、アートマ(人間の心の中の神性とつながる
部分、つまり、究極的実在に対応する自分)を自覚する
精神に属していると言える。
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ここで、アートマという言葉が登場する。
当協会のアートマセラピーというのは、
このアートマからとった。
アートマは誰にでも備わる資質であり、
それに直接働きかけるセラピーという意味合いで
アートマセラピーと造語した。
上の英文を簡単にまとめれば、アートマと呼ばれる
人間の本性によって、夢のような儚い現象の奥にある
変わらない真理をつかむことで
ブラフマと呼ばれる存在を認識できる。
また、(古典)音楽の音とは、ナーダ・ブラフマと
呼ばれ、ブラフマと並んで唯一無二の実質的存在だと
サラングデヴァは後世に伝えた~と
いうことになる。
これに関連してDr.John.S.Hislop は次のように述べる;
Dr. John.S.Hislop defined the atma or real being
as ‘the soul which is the one infinite consciousness”.
He further says,
“Accepting to advaita (non-dualism in Vedic philosophy)
where we get confused and carried away is in
our failures to understand the role of Being Eternal,
it must already be here.
Since universal life, universal consciousness is eternal-
never beginning, never ending – then it must already
be here.
It does not have to be achieved.
There is no difference between bondage and liberation,
between being bound and not being bound.”
(“Seeking Divinity” P.196~7)
訳)
ジョン ヒスロップ博士はアートマを定義して、
“無限なる意識と同質の魂の気質”という。
さらに、続けて“アドヴェイタ(ヴェーダ哲学の一元論説)
を受け入れてみると、永遠なる存在 の働きを理解するに
あたり、我々の落ち度により、混乱し、遠ざかる要因がある。
事実は、永遠なる存在 は今、ここにあるということなのだ。
なぜなら、宇宙を貫く生命、宇宙を貫く意識は永遠だからだ、
死もなく生まれることもない、不生不滅だからだ。
ならば、永遠なる存在は、今、ここに存在するということ
になる。
それは、努力して得るものではない。
束縛と自由の間には違いは無い。
束縛されているか、束縛されていないかという間にも、
差は無いのだ。”
このヒスロップ博士の言葉は当時、執着の強さという
問題に悩んでいた私にとっては目から鱗(うろこ)
だった。
私という存在は もともと、自由で、束縛されない
存在だし、執着もないのだ~と気づけと博士は
上の言葉から私たちに、促す。
が、執着にしがみつく自分や、その葛藤があるように
見えているとしたら、それは、まだ、本当の永遠の存在、
自分の中のアートマに “気が付いていない” だけだ
と確信に満ちた言葉で説得をする。
古来から人は執着を断ち切り、悟りに至るために、
様々な肉体的負荷を与えながらの修行をし続けてきた。
荒行や断食や、滝行など、瞑想三昧で、時には、
世間と孤立して修行する目的は、すべて、この、
“悟りを得るため”であったはずだが、
それは、無用だと、ヒスロップ博士は、言うのだ。
単に、今、心が、内側の現象の奥の、文字通り、
奥の院 に鎮座する、静かな、平和な、’自分’に気が
付けばよい、そちらに、振りむけば、
それがすなわち、’悟り’の道の一歩だと、言うのだ。
たぶん、そうなのだろう。
そう、誰もが、本当は、もう、すでに、今、このままで、
パーフェクトなのだ。
その理由は、永遠なる存在といわれる、生命に
満ちた魂は、不生不滅、生まれたり滅したり
(死んで消える)ことはあり得ないはずだし、
”あってある”ものだから その生命が自分に
流れているということは、そういうことになるのだ。
ただ、もし、いろいろ束縛されているとしたら、
それは、次の理由からだと引き続き、ヒスロップ博士は言う:
“The world is made of illusion caused
by sensory organs.
The Substantial Being is the eternal universal
Consciousness, therefore , here exists no duality,
but only one truth is there that
‘I am Hem and He is I’”
訳)
この世界は、五感の錯覚で織り成される錯覚の世界
でもある。
本質的実在は宇宙を貫く意識であるから、本来は
二元的価値観は存在しない。
あるとすれば、一つの真実、‘私(本質的実在)は
神で、神(本質的実在)は私’ だけだ。”
この考え方が実は、インド・ウパニシャッド哲学の
中枢に来るものだ。
”Eternal Being is here, because there is no reality
except Brahaman, never beginning and never ending,
which is the reality of the Indian Upanishads.”
訳)
永遠なる存在が常にここにいる、それはブラフマン以外
のリアリティーは存在しないからだ。
始めなく、終わりなく、これこそ、インド
ウパニシャッド哲学のリアリティーでもある。
*****
続く・・・・
当時デリーにて;シタール演奏会