自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

恐れと菜食

2019年06月01日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

     菜食にこだわる背景にあるのは?    2019年6月1日

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何回かに分けて書き始めた、”恐れと~”シリーズ編は自分の体験、

クライアントさんのケース、アートマセラピーを通して得た知識などが

ベースになっている。


今日は、“自然食・菜食主義”と”そこに見え隠れする恐れ”について。

 

これまでこのブログでは添加物のない自然食品や玄米食、

インドのブラーミン階級による徹底した菜食主義の背景

などをお伝えしてきた。 


そして、体内の自然治癒力がフル回転するのためには

むしろ菜食主義のほうが、好ましいということも

いろいろな角度からお伝えしてきた。 


その一番の理由は、血液を清浄に保つという点で菜食の

ほうがかなっているし、血液が清浄であることが

健康の第一の条件という背景があるからだ。

 

日本には、精進料理と呼ばれる菜食と豆タンパクを

とりいれた食事が古来よりあった。

 一方、スピリチュアルな指導者と自他ともに

認める方の中には,菜食にこだわらないと

いう方たちが私の身の回りに何人かいる。


一緒に飛行機に乗り出かけた際、魚でも肉でも、

大丈夫と言われ、食にはこだわりは

あまりないとIさんは言った。

出されたものを感謝していただく~ことに

しているから構わないという。

 

これも一理ある。

それは“感謝していただく”という点だ。


動物でも植物でもその命の変形である”食”に

感謝していただけば、体内で健康的に

消化されるのかもしれない。


それはこのブログで今年ご紹介した、インドのスワミ

(お坊さん)が毒の混入した食べ物でも、平気に完食

したという話に通じるのかもしれない。


毒を盛られらお坊さんの代わりに、その毒をいれた張本人が

お坊さんが食べ物を食べ終わるや否や、毒を食べたように

苦しんだというエピソードに通じるものがあるだろう。


なぜ毒を食べてもそのお坊さん(スワミ)は影響を

受けることなく平気で食事を平らげたのか?


簡単に言えば、このスワミには食べ物にかかわらず、

すべての点で、感謝の心はあるにせよ、“恐怖心”が

まったくなかったからだった。

 

恐怖心が全くないとはどういうことか?

“自分は神を知っていて、神が自分の中に生きている

ことも知っている。


だとしたら、毒素などでどうして神が影響を受けること

があろうか?”という言葉でわかるように、この僧の

徹底した心に内在する全能者への強い信頼だった。


ここまでの境地に到達することは、なかなか難しいが、

“感謝”して目の前に出された食事をいただいても、

スピリチュアル的に差しさわりないと,答えた私の知り合いの

Iさんも、この僧の感覚と共通したものがあるのかもしれない。

 

この食べ物を食べたら“罪を犯す(殺生禁止の)”とか、

液が汚れる”とか、”不健康になる“とかいうような”心配~恐れ“

が Iさんの心の中には存在していないのだろうから。


 健康的な食事法とか、痩せるためのダイアット法とか、

体の老齢化を抑える食生活とか、目的に応じて食材や

その量などは長年模索され、様々な意見があるようだが、

どれを見ても“これが絶対な方法”というのはないようだ。

 

私自身の例でいえば、なるべく添加物のない品質のよい

自然に近い食品(玄米や有機農法の野菜)をとるようにし、

好物の寿司をいただく以外は動物食は避け、

食事回数は一日多くても2度ほど腹八分目にしているのが

数十年続いている。

 

どうしてこうした食生活になったのだろう?

今回のテーマを考えるにあたり、こうした食生活の

背景に何か”恐怖心”があるのだとしたら何にたいしてだろう?

と考えてみた。


言い換えれば、自分自身が食生活において、

どのような恐怖心を持ち、影響を与えてきたのか考えてみた。

 

確かに恐怖心はありそうだ。

どこからきているかといえば、ホツマツタヱ(日本書紀

より古く編纂されたという日本の古書)には 


“肉食は体を縮め、短命にする” とあったり、

インドの聖者たちの“体は水と食べ物で造られているから、

した菜食主義が解脱の一歩である”といった講話が

心に残っているし、それに反するとスピリチュアルな

生活から外れていくという‘恐れ~心配’があることを

認めよう。

 

さらに、煩悩の強い私にとっては食事を少し規制する

ことや、動物食を避けることで、煩悩にどっぷり

はまりこんでしまリスクを少しは避けられるだろう

という直観があったからかもしれない。

 

が、たとえこうした恐怖心があったとしても、

(そしてこれが一番のポイントだと思うが)、

自分の体がどんな食物を今、欲しているのがが

わかるようになったということが私の食療法に

通じていると思う。


時には甘いもの(和菓子やケーキ)をいただき、

脂っこいもの(天ぷらやフライ)もいただくと

いった具合に、楽しみながら、食をとっている。

 

何か心に心配や恐れがあると、過食症になったり、

食事をとったあと吐き出すということも出てくる。


アルコールに依存することも”今恐れていること”

を一時的に忘れたいがための手段なのだろう。 

自分の体を大切にするのならば自分の心から

配を抜き取る作業をすること。


どうやって? 

楽天的になるそれが一番の方法だが、どうやって?


楽天的になるためには、今を”これが良し”と受け入れる

こと、自分を否定しないこと、

人の目を気にしすぎないこと。

間違っていたことをしてしまったがもしれないが、

それは、また、新しい道を探すための手段だったと

思えば、遠回りはしているが,自分の理想とする

目的に,近づいていると解釈できるだろう。


人を傷つけてしまったかもしれないが、それで

一番傷つけたのは自分自身であること

を知れば、もっと、自分にやさしくしようと

するだろう。

 

心配や恐れが自分の心の片隅にある時でも、

楽しくおいしく少しの量でも本当に体が

欲するものを探して食べてみる。


少々多く食べ過ぎたとしても、体に自然治癒力が

みなぎっている限り、不必要な食べかす

や余分なカロリーは代謝されて、熱量として

発散されて、体にたまることはないが、

心配や気分が悪い時は、何も食べなくても

体重が変わらない。

体の代謝があまり働かないからだ。

 

こう言える背景には私の15年間のインドでの体験がある。

インドに居を構えていた時、炎天下、外を散歩したり

買い物に徒歩でいくことは全然なかった。


外出は自家用車を持つ前は、リキシャかタクシーを使い、

ジムなどの施設は当時のデリーにはなかったから、

スポーツや筋肉運動をする機会は皆無だった。


それでも15年間のインド生活で食べたいもの

(といってもカレー食が日常だったが)

を好きなだけ食べても体重が増えることはなかった。

 

ただ当時一つだけ行ったことは自己セラピーを

して順気が回っている体に整えることだった。

そして、自己嫌悪をしないように努力することだけだった。

気ままで自由なインド生活だったが、今振り返れば、

ぜいたくな時間だったと思う。 

 

私のような凡人は感謝に徹底して恐れを全く

排除するほど、強くないから、できるだけ、

血液が清浄に保てる玄米食と野菜を中心と

した食事で今後も生活を続けたいと願う。 

 

 

 

 

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