自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

天上天下唯我独尊!そして入滅・・釈迦を想う

2014年09月23日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

御彼岸によせて~悟りとボダイジュ  2014・9・23

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暑さ寒さも彼岸まで といわれる。今日は御彼岸の中日。

カレンダーを見ると、

9月20日:彼岸入り、9月23日:彼岸の中日(=秋分の日。祝日)、

9月26日:彼岸明けとある。

今日は彼岸の中日ということになる。そこで、お釈迦様にちなんだ

お話をさせていただきたい。

 

今からおよそ2600年前 ヒマラヤ南麓 タラーイ盆地を所轄していた

が釈迦族だった。

釈迦国は強大なコーサラ国の属国として独立を保っている小さな王国

だった。

その王スッドーダナと 王妃 マーヤーの皇太子として釈尊は生まれた

のだが誕生年については諸説がある。

紀元前 624年 と、 テーラワーダ仏教では決められているが 

紀元前 566年とか、463年 という説もある。

 

出産のため、マーヤ―夫人が、釈迦国の都 カピラワットゥから実家

のあるコーリヤ国に里帰りする途中 ルンピニー園に立ち寄りここで 

釈迦を出産した。

ゴ~タマ(須田注:牛~神の使い~ガウ+神性~アートマを組み合わせた

名前)・シッダッタ(目的を達成するの意味)と命名された。

 

さて、今日の話題は この誕生時に 釈尊が人差し指を天空に向かって

たてて、天上天下唯我独尊” という言葉を発したという有名な話に

ついてだ。

 

バーリー語原文(*1)では このエピソードに関して釈尊が発した言葉

は以下のような内容であると記録として、残されている。

 

Aggo ‘ham asmi lokassa 

[須田注:’hamは自分、lokassaは地球とかこの世という意味]

Jettho ‘ham asmi lokassa

Setto ‘ham asmi lokassa

Ayam antima jaati natthi dani punabbhavo

 

意味)

私は世界で(自分の本質を知っているという意味で)最も優れたもの、

私は世界の(智慧あるという意味で)最も体験あるもの

私は世界の(真理を網羅したという意味で)最も勝った者

この誕生は、私の最後の生誕であり、もはや二度と生まれ変わらない。

 

 この言葉を短縮して、日本語では、天上天下唯我独尊 と訳されている。

しかし、筆者が思うには、上記のバーリー語の意味を直訳したものと

しては、しっくりとこない。

 

釈迦は、確かに、生まれながらに、悟りを開いた、超人的な自覚を持つ

赤ちゃんだったということは 天上天下唯我独尊の短い言葉から、

容易に理解はできる。、

一方、この言葉の解釈や受け取り方は、人によって、さまざまである

ことだろう。

 

さて、釈尊は魂ではすでに悟りに目覚めていたことを象徴するこの

バーリー語の原典から読み取れる。

釈尊誕生後、7日たって、 母は無くなる。何不自由なく育った

シッタルダ王子であったが、16歳でコーリヤ族のヤソーダラー王女と

結婚。20代で息子ラーフラを設け、29歳で出家した。

 

出家後、当時、苦行林として有名だった ウルヴェーラーの森で釈尊

5人の修行仲間は”命がけの苦行”に入ったと言う。

壮絶な苦行は6年間続く。

この間にお釈迦様は 3回仮死状態に陥ったと言われる。

断食行や無呼吸の行、体は骨と皮に痩せ細るまでの苦行であったが

最終的に、釈尊は苦行によって、悟りに達するということはないと

いう結論に至る。

お釈迦様が修行をした岩屋の丘から下界に降りてきたその地

 

そこで、苦行を放棄し、近くの村ガジュマルの樹の下に座り、

釈尊は瞑想していた。そこに、スジャータ―夫人が乳粥を供養する。 

スジャータ夫人というのは筆者は少女だと思っていたが、意外なことに

すでに赤子を設けた裕福な階級の婦人という説がある。

仏典によると、その時の描写が以下のように書かれている:

 

“ガジュマルの樹の下のスジャータ家の祠で、夫人は、毎日、子供が

授かるよう祈願をしていた。

熱心な願いはかなった。 子供が授かった夫人は、その朝、特別な乳粥

[須田注:現在でもめでたい席によくいただく、甘未のあるデザート、

’キール’によく似ていると思われる】をつくり、神様に捧げることにして

いた。”

 

現在でもその粥はキールと呼ばれ、ミルクと米だけで作られ、甘い味付け

が施されている。中に木のみなどを入れて、それぞれの家で特色ある家庭

料理でもあり、特別な母の味といえそうだ。

 

経典によると、夫人がこのキールを造っている間いろいろな不思議なこと

起こったという。

たとえば、釜から泡が出てくるまで煮るのだが、泡は中央に向かって

はじけ鍋の外にこぼれなかったとか、鍋の渦巻が右回転を続けるのをみて、

何か吉兆の予感がしたという。

 

そんな折、ガジュマロの樹の下に座っている釈尊の光り輝く姿を見たの

だった。スジャータ夫人はおかゆを純金の鉢にいれて、頭に乗せて、樹の

下で瞑想している断食で痩せ衰えた釈尊のもとへと赴く。

 

そして、こう釈尊に話しかけた。

“わたしの希望がかないました。この食事を召し上がってください。貴方様、

ご自身の希望が かないますように“。

 

この乳粥は、その朝の夫人にとっては、神様にささげたプラサート

(神様に捧げ 神様から祝福を得た食物)だったのだ。釈尊はそれを受け取った。

そして、米を手で49口に分けて 召し上がった。

 

それから、その後49日間は 完全なる悟りと布教への自信をつける

大事な期間となる。

苦行を放棄したが、違う意味合いで、この間、全く食事を召し上がらず

再び、瞑想に入るのだ。

 このとき、断食苦行を破って 乳粥を口に運ぶ、釈尊を見て、5人の

仲間は失望し、去って行った。

そして、釈尊は一人、対岸のガヤーの森を目指してネーランジャラー河

を渡り、ウルヴェーラーの前正覚山に登り、瞑想してから、

ネーランジャラー河の河畔まで下る。

 正覚山の朝日

 

そこで、スジャータ夫人が手渡した、

乳粥の入っていた金の鉢を河に捨てた。これには深い意味合いがある

ようだ。金の鉢でスジャータ夫人が 痩せ細った苦行僧に粥を差し出した

ということ。きっと、釈尊がただの苦行僧ではないことを知っていた

のだろう。

それでなければ、価値ある金の鉢をそのまま釈尊に差し上げることが

なかっただろう。

釈尊自身も、悟りを得るために、最終的な正覚を得る、ということ

金の鉢を河に捨てることで 経典の中で、象徴的に示したのだろう。

 

その時、河の対岸に渡り、ソッティマという草刈男が、お釈迦様に

イグサを献じたと仏典にあるようだ。

対岸はガヤーの森。 森の中へ入って行きそのイグサを敷いて、釈尊は、

菩提樹の樹の下で悟りに至る最後の瞑想に入った。

“完全なる悟りを得るまでは決してここを立たない”と誓いをたてて。

 

そしてブッダ(覚者)になった。五月の満月の晩だった。釈尊時に35歳。

瞑想に入ってから49日後、釈尊は森からガヤーの森を旅立つ。

 

伝道を決意して”中道の道(*2)”に生きよ”との真理を世の人に

伝えるために。

 

*1~ 従来は釈尊が説法した言葉をパーリ語と呼んでいる。

実際には西方インドで話されていた言語ともいわれる。 

サンスクリットに比べて日常的会話で用いられていた言葉だが、

現在では サンスクリット語同様、日常生活に使われていない。

ただ、南伝仏教諸国では非常に重要視されており、僧侶を中心に

学ぶ人も多い。

初期経典がバーリー語で書かれていたというのがその大きな理由

よるだろう。

 

*2~超越道 中道について

8つの実践方法

①    正見 sammaditthi samma~完璧、完全の意味

②    正思惟 sammasankappa~思惟 怒り憎しみなど無い思い

③    正語 sammavaachaa~言葉

④    正業 sammakammanta

⑤    正命 sammaajiva~生計をたてるためでも殺生、邪淫にかかわるな

⑥    正精進 samma vayama

⑦    正念 samma sati 念とは、身体、心、真理の気づき

⑧    正定 samma Samadhi 正しい精神統一 集中、瞑想、

 

 

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