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新総長、聖ピオ十世会の生活について、その最も深遠な考えを表明

2019年04月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
https://sspx.org/en/news-events/news/our-new-superior-general-offers-his-most-profound-thoughts-life-sspx-46254

新総長、聖ピオ十世会の生活について、その最も深遠な考えを表明
2019年3月20日 聖ピオ十世会アメリカ管区



【要約】 ダヴィデ・パリャラーニ神父は、聖ピオ十世会総長に就任して以来初めてアメリカを訪問した。総長はウィノナで開かれた修道院長の会議と、それに加えて聖トマス・アクィナス神学校での会合の期間中に公式訪問するためだけの予定だったが、アンジェルス・プレスは、総長にとって英語では初めてとなるインタビューで、いくつか質問を行うことができた。




[インタビュア] あなたは英語圏では、総長として最近選ばれた以外には、あまり知られていないと思います。自己紹介をしていただけますか?

[パリャラーニ神父] 実際のところ、それは英語圏の国々だけの問題ではないと思っています。例えば、数週間前パリで、ある司祭が私に名前を尋ねました。「私が新しい総長です」と自分で言うのは、いつも少し恥ずかしい気がします。ですから、私は少し恥ずかしかったのですが、彼も同じように恥ずかしかったのでしょう。そうですね、実際のところ、私は司祭としてイタリアで、あるいは極東のシンガポールで三年間、最近では、はるか南のアルゼンチンで昨年七月までのほぼ七年間を過ごしました。



[インタビュア] あなたは、聖ピオ十世会の四代目の総長です。2019年に、聖伝にとって試練となるもの、また良き機会となるものは何でしょうか?

[パリャラーニ神父] 私たちの良き機会や任務と同様に、私たちの義務は、私たちが持っている宝を守ること、その宝が利益をもたらすがゆえにそれに感謝することであり、その宝とは私たちの信仰、聖なるミサのことです。この宝は私たちにとって、サマリアの女の生ける水のように、生ける宝だということが重要だと私は思います。このことは非常に重要です。私が思うには、私たちはこの宝に対して、祈りの生活によって、熱意に満ちた、霊的な熱意に満ちた生活によって、感謝することがもっともっと必要です。そうです、おそらく、一度しばしの間、再点火することが必要です。今年は再点火する機会となり得ます。聖ピオ十世会の五十周年の準備をしていますから、霊的生活において、この宝に対するこの愛着、この深い愛着に再点火する必要があります。



[インタビュア] あなたが総長に選ばれてから、八カ月になります。多くの旅をなさいましたか?

[パリャラーニ神父] そうですね、実際のところ、それほど多くは旅をしていません。総長は、聖ピオ十世会のさまざまな必要性に対応できるようにするために、また総長と話をしたいと願っているさまざまな司祭や管区長が会えるようにするために、出来る限り本部にとどまるというのが、総会の望み、全管区長の望みなのです。私の義務は、創立者ルフェーブル大司教の精神に忠実であるという義務です。私の第一の義務は、(状況が非常に異なっていても)創立者が聖ピオ十世会に委託した精神や教えを守るために、全力を尽くすことです。



[インタビュア] あなたが公表することのできる成長のしるしがありますか? 例えば、聖ピオ十世会の新しい修道院や新しいミッションですが?

[パリャラーニ神父] まさに今、成長のしるしが至るところにあります。アメリカだけでなく、世界の至るところにです! それは一方では祝福のしるしであり、それによって私たちは祝福されています。過去数年で、教会の危機について知りつつあるカトリック信徒は増え続け、彼らは、その原因についても同様に少しずつ知りつつあります。ですから、このことは私たちにとって全く興味深いポイントですから、私たちはそれを追求しなければなりません。私たちは彼らを助けなければなりません。しかし同時に、私たちは至るところへ行くことはできません。私たちは至るところへ行くことはできません。私たちは聖ピオ十世会の司祭たちの世話をする必要があります。また、私たちには依然として召命がありますが、聖ピオ十世会の司祭は、落ち着いて生活する時間を必要とし、団体生活を共にする時間を必要とします。この生活は、私たちの憲章(会則)および義務の重要な一部なのです。ですから、御摂理が私たちをお呼びになるところへ行くのに全力を尽くしますが、それと同時にまず第一に、私たちは聖ピオ十世会の司祭たちの世話をしなければならないということを忘れることはできません。



[インタビュア] 元神学校校長として、特に現代世界における神学校と召命の重要性についてお話しいただけますか?

[パリャラーニ神父] 私たちの神学校は、聖ピオ十世会の心臓部です。聖ピオ十世会は、神学校の上に打ち立てられており、神学校があるがゆえに存在しています。ですから、同じように教会が必要としているのは、聖なる司祭たち以外の何者でもありません。ですから、教会に奉仕するための、[他の]よりよい方法を見いだすことは不可能です。神学校を通じて、私たちは普遍教会の目的のために協力しているのです。それは、トリエント公会議の素晴らしい直感、ルフェーブル大司教の素晴らしい直感です。ですから、この素晴らしい司祭職の理想が衰えれば衰えるほど、失われれば失われるほど、私たちの使命でもあるこの任務に対する私たちの忠実さが重要であると、私にはさらに思えてくるのです。



[インタビュア] あなたにとって、今日の聖伝のカトリック信徒の家族のために中心となる関心事は何でしょうか?

[パリャラーニ神父] 中心となる関心事、今日のカトリック信徒の家族に関する中心となる関心事は、司祭として私たちが持っているものと同じであり、それは子どもたちの霊魂です。この世は、子どもたちを欺くために全力を尽くしています。ですから、すべての両親は、私たちも関心を持っているように、そのことについて関心を持つべきです。私たちは両親と一緒になって子どもたちに教えなければならないと私は思います。また、両親は司祭と一緒になって子どもたちに教えなければなりません。自己否定や純潔、貞潔、愛徳といった、子どもたちが他では聞くことのできないすべての徳を教えてください。しかし、もし家族の中で、家庭で、教区で、子どもたちがその教えを受けるだけでなく、両親や司祭が、自分たちが教えることを生きていることに子どもたちが気づくならば、うまくいくでしょう。浸透作用のように働くのであり、もし本当に両親が聖人たちをつくり、準備するとのこの素晴らしい理想を持っているとするならば、天主の恩寵によって、それはうまくいくでしょう。またしかし、家庭において子どもたちが両親に、十字架の香りである犠牲の精神があると気づくならば、それはうまくいくでしょう。



[インタビュア] 教皇庁エクレジア・デイ委員会に関するニュースについて何かお話しいただけますか?

[パリャラーニ神父] はい、取りあえず、長いコメントを出すことができると私は思います。でも、それはあまり賢明ではないでしょう。しかし、私は、エクレジア・デイ委員会に関する最新の自発教令には興味を引くものがあると思っています。その教令が、今でもそこに、未解決の、未解決の(outstanding)議題として存在する中心議題は、教理上の議題だと強調したのです。このことは本当です。この教理上の扱い、教理上の問題であり、それは聖ピオ十世会にかかわる問題です。その意味において、この見通しにおいて、物事はさらに明らかになり、私たちにとって、彼らにとって、またすべての人にとって、さらに明らかになりつつあると私は思います。しかし、エクレジア・デイ委員会傘下のさまざまな団体の将来がどうなっていくのかについて、最初に考えるのは私たちの仕事ではないと、私は思います。私たちは彼らのために祈ります。私たちが彼らを助けることができるのであれば、そうします。しかし、将来については、それ以上のことを言わないのが賢明だと私は思います。そのうち分かるでしょう。そのうちはっきりするでしょう。ですから、私たちは、いつものように、最後は御摂理にお任せすることになるでしょう。



[インタビュア] 時には、世界と教会のどちらもおかしくなっているように思えることがあります。今日の聖伝のカトリック信徒に対して、希望や励ましになるお言葉を少しいただけますか?

[パリャラーニ神父] 今日の私たちの信徒にとって、そして司祭にとってさえも主要な危険は、落胆することです。ですから、状況が希望のないものになっているという印象を皆さんが持てば持つほど、勝利の瞬間がさらに近づいているのだということを、私たちそして彼らに思い起こさせる時だと、私は思っています。聖ピオ十世は、人々を励ますために、このことをいつも言っていました。真理の凱旋の瞬間がやって来るとき、闇の深さ、現在の闇の深さは、真理の輝きに役立つのです。この超自然的な見方を保つことが私たちにとって重要です。今日起こっていることは何であれ、さらに深遠な、さらに偉大な、さらに輝きを増す、さらに超自然的な教会および真理の凱旋を見せるために、天主によって使われることでしょう。



[インタビュア] 祈りと資金による支援に加えて、平信徒が司祭をその任務において援助する最上の方法は、あなたは何だと思われますか?

[パリャラーニ神父] そうですね、教会は一つの家族であり、一つの大きな家族です。教会のわざの一つとしての聖ピオ十世会も同様に一つの家族、大きな家族です。家族の中ではすべてのものを共有します。信徒が司祭とすべてのものを共有する最上の方法は、司祭に道徳的な支援をすること(心の支えとなること)、喜びや関心事を共有することです。なぜなら、司祭の喜びや関心事は、私たちの主の喜びや関心事であるからです。この近しさが、素晴らしい理想的な信徒と司祭の一致を成し遂げる最上の方法です。



[インタビュア] アメリカ管区についての印象は、これまでのところ、いかがですか?

[パリャラーニ神父] アメリカは、到着するや否や、アットホームな雰囲気になる国々の一つです。私が最も印象深いことは信徒の数の多さですが、さらに印象深いのは彼らの素朴さと寛大さです。ここアメリカでは、司祭の中にも同じ素朴さと寛大さがあると思います。信徒が見せるものは、司祭が彼らに教えていることを反映したものだと思います。



[インタビュア] あなたは、さまざまな国やミッションで多くの年月を過ごしてこられました。あなたのお気に入りのお話を一つか二つ、使徒的な活動の中から教えていただけますか?

[パリャラーニ神父] そうですね、私が司祭になってから、司祭である年月で、全般的に言って私が最も印象を受けたことは、さまざまな国で、さまざまな状況で活動してきたという事実そのものです。ミッションにおいて、あるいは管区長や神学校校長として、アジア、南アメリカ、イタリアといったさまざまな国で、天主の恩寵が常に働いているさまざまな状況で、普遍的なあるルールによればどこであってもです。もちろん、私が何も新しいことを言ってはいないということは分かっています。しかし、個人的にこの経験をすれば、印象深くなるでしょう。このことは、福音が、福音の法が、秘蹟が、教会がすべての人のためにあること、また互いに非常に異なっている人々の間に一致をつくり出すことのできるもの以外の何物でもないものが存在することの証明です。これは本当に驚くべきことです。自然に基礎を置くなら、これは説明できません。天主のみわざ、天主の恩寵が背後にあるのです。 そうです、私は個人的に何度か経験しました。解決法を見いだすのに苦労し、解決法を見いだすのに骨の折れる難しい状況の前では、解決法は出てきません。私が心配するのをやめて、すべてを天主のご意志にお任せした後になって、解決法が出てくるのです。そうするのは、常に簡単というわけではありませんが、私は何度も経験しました。それは十字架の法であり、私の考えでは、天主に全面的な信頼を置くという法だと思います。

Angelus Press - sspx.org - 03/21/2019

Our New Superior General Offers His Most Profound Thoughts on the Life of the SSPX

2019年04月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
https://sspx.org/en/news-events/news/our-new-superior-general-offers-his-most-profound-thoughts-life-sspx-46254

Our New Superior General Offers His Most Profound Thoughts on the Life of the SSPX
March 20, 2019 Source: District of the USA



Fr. Davide Pagliarani visited the United States for the first time since becoming Superior General of the Society of St. Pius X. Although he was available only for canonical visits during the Prior’s Meeting in Winona - and additional meetings at St. Thomas Aquinas Seminary - Angelus Press was able to ask him some questions for his first ever English-speaking interview.



Q)You are relatively unknown in the English-speaking world beyond your recent election as Superior General. Can you introduce yourself?

Fr. Pagliarani)Actually, I think this is not just a problem of the English-speaking countries. To give an example, a few weeks back in Paris, a priest asked me my name. So it's always a bit embarrassing to say I’m the new Superior General - so I was a bit embarrassed but he was embarrassed as well. Yes, actually I spent most of my time as a priest either in Italy or in the Far East in Singapore for three years and recently in the far south in Argentina for almost seven years – until last July.


Q)You are the fourth Superior General of the Society of St. Pius X. What are the challenges and opportunities for Tradition in 2019?

Fr. Pagliarani)I think our opportunity and our task as well, our duty, is to keep the treasure we have, to appreciate it as it merits – our Faith, the Holy Mass. I think it's important that this treasure is for us a living treasure, like the living water of the Samaritan woman. This is so important. We need more and more I think to appreciate this treasure with a prayerful life and a life were full of fervor - spiritual fervor. Yes. Maybe we need to rekindle once in a while, and this year can be the occasion to rekindle - we are preparing for the Jubilee of the Society [of St. Pius X] - to rekindle in our spiritual life this attachment this deep attachment to this treasure.


Q)It has barely been eight months since your election. Have you been traveling much?

Fr. Pagliarani)Yes, actually I'm not traveling a lot because it is a wish of the Chapter, of all the superiors, that the Superior General remains at the General House as much as possible in order to be always available for the different needs of the Society – and joinable by the different priests or superiors who are wishing to talk to him. My duty is a duty of fidelity to the spirit of the Founder – Archbishop Lefebvre. My first duty is to do my best in order to keep (even if the situation is very different) to keep the spirit and teaching that the founder entrusted to the Society.


Q)Are there signs of growth that you can share? For example: new priories or missions in the Society?

Fr. Pagliarani)Right now there are everywhere signs of growth, not only in the States but everywhere! Which is on the one hand a sign of blessing, we're blessed by that. During the last few years more and more Catholics who are getting aware of the crisis of the Church, and little by little they are getting aware of as well of their causes. So this is a quite interesting point for us - we have to follow it. We have to help them. But at the same time we cannot go everywhere, we cannot go everywhere. We need to take care of our priests. And we still have vocations, but our priests they need time to settle, they need time to share the community life, which is a very important part of our statutes and of our duties. So, we will do our best to go where Providence is calling us but at the same time first of all we can't forget it we have to take care of our priests.


Q)As a former Seminary Rector, can you speak about the importance of seminaries and vocations, especially in the modern world?

Fr. Pagliarani)Our seminaries are the heart of the Society [of St. Pius X]. The Society is built on its seminaries, and it exists because of its seminaries. So the Church as well doesn't need anything else but holy priests. So it is impossible to find out a better way to serve the Church. Through our seminaries we are cooperating to the goal of the universal Church. That was the great intuition of the Council of Trent, the great intuition of Bishop Lefebvre. And the more this great ideal of the priesthood is going down, is losing, the more I think it's important our fidelity to this task – which is our mission as well.


Q)For you, what are the main concerns for traditional Catholic families today?

Fr. Pagliarani)The main concern, the main concern of Catholic family today is the same we have as priests - the soul of their children. The world is doing its best in order to deceive them. So all the parents are concerned about that, as we are concerned as well. I think we have to teach the children together with the parents. And the parents have to teach their children together with the priests. Teach them all the virtues that the children cannot learn elsewhere: Self-denial, purity, chastity, charity. But it will work if in the families, at home, in the parish, not only they will receive the teaching but they will perceive their parents and the priests living what they preach. It works like osmosis – if really the parents they have this great ideal to form, to prepare saints, with the grace of God, it will work. But it will work if at home the children they can notice in their parents the spirit of sacrifice – which is the perfume of the cross.


Q)Can you comment at all on the news regarding the Pontifical Commission Ecclesia Dei?

Fr. Pagliarani)Yes, I think we can make so far a large commentary. [It] wouldn't be prudent. But I think what is interesting in the last Motu Proprio concerning the Ecclesia Dei… It emphasized that the main issues which is still there, outstanding, as an outstanding issue, is a doctrinal one. And it is true. And this doctrinal deal, doctrinal issue, it is an issue concerning the Society of St. Pius X. I think in its sense, in this perspective, things are getting clearer, more clear to us – and to them, and to everybody. But I think it is not our task to first see what is going to be the future of the different communities Ecclesia Dei. We pray for them. If we can help them, we are here. But I think it will be prudent to not say anything else about the future. We will see. We will observe. And we will leave the last word to Divine Providence as usual.


Q)At times, the world and the Church both seem crazy. Could you offer a few words of hope and encouragement for the traditional Catholics today?

Fr. Pagliarani)The main danger for our faithful and even for the priests nowadays is to fall into discouragement. So I think it's time to remind us, and to remind them, that the more you get the impression that the situation is hopeless the more the moment of the victory is approaching. St. Pius X used to say this in order to encourage people. And the density, the present density of the darkness is functional to the shining of the truth when the moment of the triumph of the truth will come. It is important for us to keep this supernatural sight. Whatever is going on today will be used by God in order to show a deeper, a greater, a more shining more supernatural triumph of His Church and of the Truth.


Q)Besides prayerful and monetary support, what do you see as the best way that lay faithful can assist the priests in their work?

Fr. Pagliarani)Yes, the church is a family is a big family and the Society [of St. Pius X] as a work of the church is a family as well - a big family. And inside a family you share everything. The best way the faithful they can share everything with the priest, is to give to give them their moral support - to share their joys and their concern, because the joys and the concern of the priest are the joys and the concern of Our Lord. This proximity is the best way to fulfil this great ideal of the union between faithful and priests


Q)What is your impression of the United States District so far?

Fr. Pagliarani)United States is one of these countries when as soon as you arrive feel at home. What is impressing me the most is the number of the faithful, but even more their simplicity and their generosity. And I find the same simplicity in same generosity in the priests here in the US. I think what the faithful they show is the reflect is reflecting what the priests are teaching them.


Q)You have spent many years in different countries and missions. Do you have a favorite story or two from your apostolic work?

Fr. Pagliarani)Yes, what in general what impressed me the most during my priesthood, the years of my priesthood, is the very fact that having worked in different countries, in very different situations – between Asia, South America, Italy, in the missions, or as a District Superior, Rector of the Seminary… in every different situation the grace of God is working always and everywhere according to some rules, which are universal. Of course we know that – I'm not telling you anything new. But when you get this experience personally you are impressed. This is the proof that the Gospel, the law of the Gospel, the Sacraments, the Church is for everybody and there is nothing else which can make the unity among people who are so different [than] each other. This is really amazing. You can't explain this on a natural basis. The work of God, the grace of God, is behind.
Yes, I experienced several times on a personal basis… That before difficult situation striving to find a solution, fighting to find a solution, which is not coming – the solution came after I stopped to worry and I entrusted everything to the Will of God. It's not always easy to do that but I experienced several times – which is the law of the Cross, and I would say the law of the full confidence in God.


Angelus Press - sspx.org - 03/21/2019

2018年12月25日 主の御降誕の大祝日(日中のミサ)説教・大阪 「なぜ天主は人となられたか?」

2019年04月06日 | お説教・霊的講話
2018年12月25日(火)主の御降誕の大祝日 日中のミサ(大阪)
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は、私たちの主イエズス・キリストの御降誕の大祝日を祝っています。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、では今日の御降誕のミサで私たちは、イエズス様の、「真の天主が人となった」というこの神秘の黙想を続ける事に致しましょう。

今日特に私たちの黙想を続けたいのは、天主が、私たちを愛するが為に人となった、そのことです。

その愛の極みのあまり、その愛の狂気のあまり、狂ったかのような愛は、私たちを幸せにする為に人間となったばかりか、幼子となったばかりか、奴隷のようにくるまって、動けなくなったのです。

そればかりか、か弱くなったばかりか、更に私たちの為に、罪が無かったにもかかわらず、聖なる者であるにもかかわらず、汚れの無い者であるにもかかわらず、私たちの全ての罪を身に負って、あたかも罪人であるかのようにお生まれになりました。

この愛の極みを、私たちは今日黙想をする事を提案します。

この地上に私たちが生まれてきた目的は一体何でしょうか?何で私たちはここにいるのでしょうか?

それは、「永遠の幸せを受ける為」です。「天主と共に永遠の至福に与る」という為に、私たちは創造されました。そしてこの世に生まれてきました。

それに反対するものは唯一あります。それこそが私たちにとって唯一の悪です。それは「罪」です。

なぜかというと、罪を犯す事によって、創造の目的が達成されなくなるからです。私たちは天主に対して戦いを挑み、戦争を起こして、そして天主の御稜威を崩壊させようとするのです。そして私たちの戦争は必ず負けます。私たちは必ず敗北するに決まっているのです。たとえ勝っているかのように見えても、たとえ天主の創造の秩序を破壊したと思ったとしても、人類の科学が、あるいは知識が、技術が、医学が、天主の創った秩序と法に逆らい、成功を収めたとしても、結局不幸になって、負けて、そしてそれに対して何も抵抗ができない、という事を悟り、そして結局は傷付き、自分たちも傷付き、そして天主をも傷付けて、永遠に不幸になるのは人類です。

「罪を犯す」という事だけが唯一の悪です。唯一の惨めです。哀れな状態です。そして罪を犯す事によって、まず何よりも、天主の御稜威を傷付けます。天主に対してものすごい負債を負う事になります。

私たちは天主に対して償いを果たさなければなりません。しかしその償いは、私たちにとってとても払いきれるものではありません。私たちの中でどれほど聖なる人がいたとしても、払う事ができません。何千人何百人何億人という良い義人が償いを捧げても、祈りと犠牲を捧げたとしても、全く足りません。たった1つの罪さえも、贖うに足りません。大天使であっても、天の全ての天使たちが集まって、私たちの為に何かをしても、足りません。私たちはもはや、既にどうしようもなく、永遠の苦しみを以て償うしか、永遠の滅びを味わうしか、もう既にやる方法がなかったのです。

しかし天主の正義は、そして天主の憐れみは、私たちの想像をはるかに超えるほどの偉大なものでした。愛に満ちたものでした。そして何と、天主の正義と憐れみは、一つになりました。「正義と平和は接吻をした。“justitia et pax osculatae sunt.”」と詩篇にあります。

私たちの主は、私たちの代わりに、全ての罪の償いを自分の身に負って、罰を身に負って、お生まれになりました。イエズス様の御誕生のその直後から、この地上での生活を、十字架の上で終えるまで、苦しみと、殉教の、十字架の連続でした。

イエズス様の泣き声は、赤ちゃんとしての泣き声は、そしてイエズス様のお受けになる全ての傷は、私たちに叫んでいます。

「私たちを愛している。私たちの全ての罪の償いを私にくれ。私はその引き換えに、お前たちに喜びと幸せを与えよう。罪の赦しを与えよう。」イエズス様の唯一の望みは、私たちが全ての罪の負債を赦されて、天国に行く事でした。幸せになる事だけです。

天主が、私たちの代わりに罪のいけにえとなる為に、お生まれになりました。これが天主の正義です。これが天主の平和です。

この事を思うと、私たちの黙想は更に進みます、「この世の人々の考えているものと、イエズス様の考えている事は、全く違う」という事です。

この世の人々は、「お金が簡単に入って、楽な生活をして、面白おかしく、美味しいものを食べて、気楽に生活するのが、祝福された事だ」と言っています。「天主から愛されている事だ」と思っています。そしてもしも何か辛い事があると、不平不満を言いますけれども、しかし天主様から聖父から愛された聖子、洗礼を受けた時に天主聖父は言います、「この、これこそ私の愛する子。私の心の気に入る子である」と。その聖子は、十字架の、苦しみの人生を送りました。

天主から愛されたマリア様も、罪の無かったマリア様も、天主から愛された選ばれたダヴィドの王の末の聖ヨゼフも、苦しみと十字架の生活を送られました。

天主の考えと、私たちの考えは、どれほど違う事でしょうか。
「心の貧しい人は幸いである。なぜなら、天の国は彼らのものであるから。」
「柔和な者は幸いである。なぜなら、彼らは地を受け継ぐから。」

イエズス様が十字架に付けられようとする時に、「聖父よ、」その最後の晩餐の時に言います、「聖父よ、子に栄光を現して下さい。」すると「私はお前に栄光を現した。更に栄光を現そう」と言います。その「栄光を現した」というのは、どうだったのでしょうか?

「十字架に付けられる事」でした。何という栄光でしょうか。

この世の人は、他の人が何か私の車よりも良い車を持っていると、「あぁ、何で私よりも良い車を持っているのだ。」「あぁ、何でこの人は私よりも成績が良いのか。」「何でこの人は…」と、妬みや嫉妬をするかもしれません。

しかし、イエズス・キリストの私たちへのメッセージは違っています、「天主は、永遠の昔から、私たちを一人一人愛しておられる」という事です。「私たちに一番良いものを与えておられる」という事です。そして「私たちにとって最も大切な贈り物は、この天主の愛だ」という事です。

ですから私たちは、これほど主から愛されているので、他の人がどうであろうとも、私たちが苦しみを受けよう、他の人が苦しみを受けていないとしても、私たちにはただ、主からの「愛されている」という愛を受けて、それを信じているので、いつも幸せです。できればこの幸せが他の方にも伝わりますように。私たちにとってあるものは、喜びと、平和と、幸せです。

もしも隣人が私たちに悪をしたら、例えば殉教者がそうでした、悪を受けたらどうでしょうか?

私たちの祖先の殉教者たちは、「損害賠償だ!治療費を出せ!復讐をする!」としたでしょうか。いえ、そうではなく、主から私たちは多くの負債を赦されているので、隣人の負債を喜んで許そうとしました。

「もしも、」イエズス様の教えたものは、非常に私たちの普通考える事とは違っています。もちろん「この精神を持て」という事ですが、「左の頬を打たれたら、右の頬を出せ。」「もしも上着を欲しいと言ったら、下着もあげよ。」「誰か強制して1000歩あるかせたら、2000歩あるけ。」「悪をする者に抵抗するな。」

なぜかというと、私たちには1つ確信があるからです、「主は、私たちを愛しておられる。私たちの幸せをのみ考えて下さっている。」ですから、「私たちは何も心配する事がない」という事です。

その私たちを愛して、愛の極みであるイエズス様が、今日生まれになりました。このイエズス様の心が、この愛が私たちに満たされますように、お祈り致しましょう。

「マリア様、今まで私たちの心は、イエズス様の精神をよく理解できていませんでした。私がイエズス様の心を理解する事ができるように助けて下さい。またこの優しいイエズス様の心を理解する事ができるように助けて下さい。多くの人が、そのイエズス様を受け入れる事ができますように、そして本当に幸せになる事ができますように。」

イエズス様は私たちに何も要求しません。ただ要求するのは、イエズス様を信じて、お愛しする事です。この「光は闇に輝いたが、闇はこれを受け入れなかった」とあります。願わくは、多くの方が、真の光を受け入れる事ができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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