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2019年3月16日(土) 四旬節の四季の土曜日ミサ説教 「四旬節を過ごすことによる勝利」

2019年04月02日 | お説教・霊的講話
2019年3月16日(土)四旬節の四季の斎日 土曜日のミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年3月16日、四旬節の四季の斎日の土曜日のミサをしています。

このミサの終わりに、感謝のお祈りの終わりに、皆さんと一緒に御聖体降福式を致しましょう。

初土では聖ピオ十世会と私たち信徒を汚れなき御心に奉献しましたけれども、今回は聖母の騎士の奉献を更新致しましょう。

次のミサは4月の初金・初土にあります。



「これは、私の愛する子である。彼に聞け。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、そして小さなお友達、今日は四旬節の四季の斎日の土曜日です。
指定巡礼教会というのがあって、昔から、今日は聖ペトロの御墓の上に建てられた「聖ペトロ大聖堂」、今ではバチカンにあります、そこに集まってミサを捧げました。

そこで、
⑴一体、昔からこの土曜日にはどんな事をやっていたのか?

⑵そしてこのミサは一体私たちにどんな事を教えているのか?

⑶そして最後に、特に聖福音では私たちに何を教えているのか?四旬節と一体どういう関係があるのか?という事を黙想して、

⑷遷善の決心を立てましょう。


⑴第1に、古代の初代の教会は、聖ペトロの御墓の元に、教皇様も聖職者も信徒も一緒に集まっていました。四季の斎日というのは、年に4回、春・夏・秋・冬、今は春ですけれども、お祈りと断食を特に捧げて、そして特別に、天主であるイエズス様に感謝をしていました。

特にこの春の四旬節の四季の斎日は、四旬節も兼ねているので、大きなたくさんのお祈りと断食を捧げていました。

聖レオ教皇様という方がいます、5世紀の方です。461年に亡くなりました。立派な聖人の教皇様です。この教皇様は、今から1500年前に既に、四季の斎日には何度も何度も同じ御説教をしています。仰った事はこうなのです、「四季の斎日の水曜日と金曜日には、私たちは断食をする。そして土曜日には、徹夜のお祈りをして、天主に感謝する。徹夜のお祈りを聖ペトロのお墓の元でする。」

つまり、1500年間教会は、ずっと同じ事をしてきました。そして聖レオ教皇様は、私たちが今読んだ読誦や、書簡や、そして福音に関する御説教もしています。「イエズス様が御変容された」という御説教を残しています。1500年間、少なくとも教会は、ずっと聖ペトロの元で、イエズス様の御変容の事を黙想していました。断食と祈りを徹夜でしていました。

ちょうど復活の徹夜祭というのは、今私たちは教会でありますけれども、聖土曜日の夕方に夜からずっとお祈りをして、そして真夜中にミサが始まる、というように、この土曜日のミサも、夜中断食をして、お腹が減って、お祈りをして、お祈りをして、お祈りをして、そしてこのミサがちょうど明け方頃に終わる、というような構造でした。

時代が経つにつれてミサをする時間がだんだん早くなって、朝早くから始める事ができるようになりましたけれども、昔々は夜中から始まっていました。教皇様が聖ペトロの御墓の元で、グレゴリオ聖歌と、美しい歌と、天からの響くような歌と、お香の煙と、そして多くの信徒と、そして聖職者たちの祈りの中で、このミサを捧げるのは、どれほど荘厳な熱烈なお祈りだったでしょうか。


⑵では第2に、このミサではどんな事が私たちに伝えられているか?という事を少し垣間見ます。

言ってみればこれは、復活祭の先取り、もう既に復活祭を祝っているかのようでした。

まず、「夜中にミサが始まった」という事で、入祭誦で、「私たちのお祈りが、御前に聞き入れられますように、入りますように」と言って、「私たちは昼間叫び、そして夜はあなたの御元にいます。朝も夜もあなたの御前にお祈りをしています」と言ってから始まります。

最初の2つの読誦は、天主様が私たちに語りかけています。モーゼの声を通して私たちに語りかけています。

次の2つの、3番目と4番目の読誦は、私たちが天主様に「感謝の祈りを捧げる」という声を天主にあげています。

第5番目は、あたかも日がそろそろ明け方になってきたかのようです。「3人の子供たちが火の竃で、迫害を受けて竃で燃やされるのだけれども、何の傷も受けない」という、そういう旧約聖書の事を見て、そしてこの3人の子供が全く傷を受けずに火の中から生きて出てきた、というのを見て、「これは復活の、私たちの復活の前兆だ」と見ています。そして天主に讃美の讃歌を捧げます。

そしてちょうど福音の時には、太陽が上がったかのように、正義の太陽であるイエズス様が燦然と輝きます。

今日の、この特に最初の朗読を見ると、本当に美しい、美しくて感動します。モーゼの声を通して天主は言うのです、「主は今日、あなたたちを選んだ。それは主の特別な民となる事ができるように。そしてお前たちを他の国々よりももっと高い国にする為に選んだ。特別に選ばれた。特別に愛された。そして主は、主の聖なる民とする事を望んでおられる。」なんと美しい言葉でしょうか!

それと同じ事を今日、教会の口を通して、司祭の朗読を通して、皆さんにも語りかけています。モーゼの口を通して、今日も語りかけています、「今日、皆さんと私を、天主は選んだ。特別な民とする為に。聖なる民とする為に。他の民々よりももっと崇高な者とする為に。聖なる民とする為に。だから私たちは主の掟を守らなければならない。」

「主よ、私も今日私たちも、御身を我が主、我が天主と選びます。御身こそが真の天主、御身の御旨を果たす事ができるように助けて下さい。御身の掟を、聖なる掟を守る事ができるように助けて下さい。」

第2の朗読も非常に美しいものです、「私はあなたたちに命ずる、『汝の天主である主を愛せ。そして彼の道を、主の道を歩け。すると主は他の民々よりも、より高い者にあなたたちをする。たとえこのお前たちよりもより偉大で、より強い人たちがあったとしても、彼らよりも更に高める。彼らを滅ぼしてまでも、お前たちにそれらの土地を与える。」

ユダヤの民はもちろん、この自分たちよりも強い民々を征服する、という政治的な事を考えたかもしれませんが、私たちは「悪魔の力」と「罪の力」の事を考えます。私たちの敵というのは、「罪」であるからです、「悪魔」であるからです。そして「たとえ悪魔の力が、誘惑が、どれほど強大であったとしても、私たちはそれに打ち勝つ事ができる」と約束されています。

第3の朗読もとてもきれいです、「私たちのいけにえを受け入れて下さい。私たちが主の道を堅忍する事ができますように、それを聖化して下さい。」

第4の朗読は、もう早く、もう夜が更けて早く夜明けにならないかと待っているかのようです、「御身の憐れみの光を照らして下さい。早く、時を早めて下さい。終わりが早く来ますように記憶して下さい。早く、主よ、来て下さい。」主の来臨と、主の勝利を待ち望む声であるかのようです。

その次のGradualeは、まだ夜のいけにえ、晩のいけにえについて、夜のいけにえについて話していますけれども、その次のお祈りは集祷文は、始業の祈りであるかのようです、「私たちが、御身によって始まったこの今日の仕事を、御身によって終わる事ができるようにして下さい。」ちょうど日が昇り、新しい日が始まりかけているかのようです。


⑶第3は、では福音で、「イエズス様が太陽のように燦然と輝いた」という事を黙想しますが、一体なぜでしょうか?

これは「四旬節の第1主日」と、「四季の斎日の水曜日」と、そして「今日のミサ」が非常に深い関係があるからです。

聖ペトロは書簡の中に書いています、「私はイエズス様の栄光を見た。そして天から聖父の声が聞こえるのを見た、『これは私の子である。彼に聞け』というのを聞いた。そのイエズス様こそ本当の救い主である、本当の天主である」と証言しています。そこでもちろん、聖ペトロの御墓に行って、聖ペトロはその事を私たちにどうしても伝えたかったに違いありません。なぜかというと目撃証人でしたから。

四旬節の第1主日では、この前ワリエ神父様が非常に上手く説明して下さったように、悪魔とイエズス様が戦いました。40日間の断食をした後に、イエズス様は誘惑を受けて、しかしそれに勝利しました。
「40日の断食」は、「勝利」に関わっています。イエズス様は最後に言います、「サタン、退け!『天主のみを礼拝しなければならない』と書かれている。」

四旬節の四季の水曜日には、実はモーゼとエリアが出てきます。
モーゼが40日間断食して、山の上で断食して、ホレブの山でシナイの山で(同じ事ですけれども)断食して、そしてその後に掟を、十戒を得た、という事を黙想します。その歴史的な事実を黙想します。

これを見ると、「40日間の断食」というのは、「天主と私たちとの愛の関わりの準備である」という事が分かります。なぜかというと、十戒は、「天主を愛し、天主を愛するが為に隣人を我が身の如く愛せ」という事を教えているからです。

エリアの話も同じです。エリアは断食をして、そしてホレブの山までシナイの山まで歩きます。砂漠を歩き通します、40日間。

つまり、「40日間の断食」は、「天主の聖なる山に登る準備をする」事と関係がある事が分かります。

つまり、イエズス様の勝利、モーゼの天主との愛の関係、エリアのホレブの山まで登るまでのその道のりは、40日間の断食によって準備されていました。

今日、四旬節の四季の土曜日には、この3人がもう一度出てきてます。今度はイエズス様の御変容の証人として。

天主であるイエズス様が燦然と輝いて、顔が太陽のように輝いて、服は真っ白に雪のように輝いて、燦然としているイエズス様の両脇に、預言の代表であるエリアと、律法の代表であるモーゼが出てきます。そしてそればかりか、天主の御声が聞こえて、「これは我が愛する子である。彼に聞け。」

四季の水曜日の時の福音では、ある婦人が、あなたのお母様は、何と幸せな事、と言うのですけれども、イエズス様は、「天主の、私の聖父の御旨を果たす者は、私の兄弟であり、姉妹であり、私の母である」と言った事と、天主聖父が、「これは私の子である」と言った事と、あたかも対応しているかのようです。

これは一体何を言いたいかというと、つまり「40日間の私たちが今やっている断食は、これはただそのままで終わるのではない。悪魔への勝利の為である、天主を愛する為である、聖徳の高い山に登る為である、復活の為である、大勝利の為である、私たちの御変容の為である。」

ですから、「私たちは、このイエズス様に倣って頑張ろう」という、「復活がもうすぐ来る」という事を、教会は私たちに教えたかったのです。


⑷では今日、マリア様にお祈り致しましょう。土曜日はマリア様の日ですから、マリア様に、「私たちがこの四旬節をイエズス様と一緒に、マリア様と一緒に送る事ができますように。私はちょっと四旬節に乗り遅れてしまいました。四旬節のいけにえを捧げよう、祈りをたくさんしようと思いつつも、まだうまくいっていません。マリア様、どうぞ助けて下さい。この四旬節、今年の四旬節が、ますますイエズス様を真似る者となりますように、マリア様と一致して捧げる事ができますように、助けて下さい。小さな犠牲ですけれども、捧げるのを助けて下さい。そして私たちが良い、とても素晴らしい復活の神秘を黙想し、そしてその喜びを味わう事ができるように助けて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

シヨン運動に関する教皇聖ピオ十世の回勅 Notre Charge Apostolique『私の使徒的責務』日本語訳

2019年04月02日 | カトリックとは
フランスの大司教および司教たちに宛てた
シヨン運動に関する教皇聖ピオ十世の回勅
Notre Charge Apostolique
『私の使徒的責務』

訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会
Copyright © Society of Saint Pius X, 2001
All rights reserved

ピオ十世、教皇は
尊敬すべき兄弟たちへ挨拶と祝福を送る

1. ― 誤謬は排斥されねばならないこと

 私の使徒的責務(Notre Charge Apostolique)により、私は信仰の純粋さとカトリックの規律を完璧に維持するために目を配らねばなりません。この責務はまた、私が信徒を悪と誤謬から守ることを求めますが、それは特に悪および誤謬が魅惑的な言葉で提示される場合にとりわけ必要となります。なぜなら、こういった言葉遣いは、熱情的な感情と響きの良い言葉使いとで、あいまいな概念やどうにでも取れる表現を包みかくし、一見魅力的ですが、しかし実際は不幸な結果をもたらすことになることを追求させようと人々の心を燃え立たせるのが常だからです。かつての、いわゆる18世紀の「哲学者」たちの教説、またフランス革命およびリベラリズムの教説はいずれもそうであり、これらは非常にたびたび排斥されてきました。今日においては、華々しい寛大さのよそおいの下に、ほとんどいつも明晰さ、論理、真理とに欠けている「シヨン (Sillon) 」の理論がこれに該当します。従って、この点で、シヨンの理論はカトリック的またフランス的特性を帯びるものではありません。

2.シヨン主義者(シヨニスト)は、その献身的な働きによって信用を得ていること

 尊敬すべき兄弟たちよ、荘厳かつ公にシヨンについての私の考えを述べることを決めるまで、私は長く考えあぐねました。あなた方がこの問題について懸念し、私自身の心配をいや増すに当たって、ようやくそう決意するにいたったのです。と言うのも、私は真実、シヨンの旗印の下で戦う若者たちを愛しているのであり、また彼らは多くの点において称賛と感嘆とに値するからです。私はまた、彼らの指導者たちを愛しており、彼らが卑俗な情念とは一線を画する気高い魂を有し、最も高貴な熱意に駆られて善を追い求めていることを認め、かつうれしく思います。尊敬する兄弟たちよ、あなた方は、彼らが人々の兄弟愛の生き生きとした実現を求める熱意にかられていることを、同時に、彼らが私心のない努力をイエズス・キリストへの愛と宗教的義務の厳格な遵守とによって養いつつ、労苦し苦難を味わっている者らを探し求め、そうした人たちを立ち直らせるのを目にしてきました。

3.シヨンの起源およびその会員の勇気

 それは思い出深い私の前任者であるレオ十三世が、労働者階級についての感嘆すべき回勅『レールム・ノヴァルム』を出したそのすぐ後のことでした。教会は最高の指導者の口を通して、その母の愛の優しさを卑しく低い身分の人々の上にちょうど注いだところであり、あたかもそれは、教会が我々の不安定な社会の秩序と正義との再興のために働くより多くの人々を求めているかのようでした。ですから、シヨンの指導者たちが進み出て、教会の知恵と望みとを成就することのできる若い信者のグループを教会の奉仕のために捧げたのは時宜に適ったことではなかったでしょうか。そして実際、シヨンは労働者の間に、人々と国々の救いの印であるイエズス・キリストの御旗を掲げたのです。その社会活動を天主の恩寵によって養いながら、シヨンは事実、宗教に対する尊敬をもっともそこから心が離れている人々にも与え、無知で不敬虔な者らに天主の御言葉に耳を傾ける習慣をもたらしたのでした。また公開の討論の場で、質問や皮肉でつつかれた彼らが猛然と立ち上がり、敵対的な聴衆の面前で堂々と自らの信仰を公言するのを一二度ならずあなた方は目にしてきました。これはシヨンの最盛期であり、その明るい面のために、司教たちおよびローマ聖座から多くの励ましならびに認可のしるしを受けていました。当時はまだ、この宗教的熱意がシヨン主義運動の本当の性質をおおい隠していたからです。

4.正道から逸れてしまったシヨン

 しかしながら尊敬する兄弟たちよ、私たちの期待は大きく裏切られたと言わねばなりません。ついに、識別力のある者たちにとって、シヨンが危険な傾向を見せる日が来ました。シヨンは道を誤ろうとしていたのです。そうなるのも当然ではなかったでしょうか。シヨンの指導者たちは若く、血気盛んで自信に満ちていました。しかしこの若き指導者たちは十分な歴史についての知識、健全な哲学、ならびに確固とした神学[の素養]に欠けており、そのような彼らが、自らの活動と心の傾きとによって関与することになった難しい社会的問題に取り組むのは危険なことでした。教義と従順とに関して、リベラルかつプロテスタント的な考え方が侵入しないように身を守るためには、備えに欠いていたのです。

5.譴責のための忠告ならびに警告の無視

 シヨンの指導者たちは少なからぬ忠告を受けていました。忠告に続いて警告が与えられました。しかし、悲しいことに、そのどちらも彼らの捉えどころのない心の覆いを貫くことは出来ず、効果を生みませんでした。そして事態の流れにより、私はもはや沈黙をこれ以上保つことは出来なくなりました。寛大な公平無私の精神によって種々の誤謬と危険とが散らばっている道に駆り立てられ、突き進んでゆく、シヨンの愛する子らに真理を示す義務があるからです。またシヨンに引きずられて司教の権威から、あるいは少なくとも司教の指導と影響とから離れてしまった多くの神学生、司祭たちにも同様の責務を私は負っています。さらにはシヨンが不和の種をその内部に蒔き、またシヨンの目指すところによって危機におとしめられる教会にも真理を示す責務を負っています。

6.シヨン主義者による完全な自立の要求

 まず第一にシヨンが教会の権威の裁治権から免れようとするという点をはっきりと取り上げておかなければなりません。事実、シヨンの指導者たちは教会とは別の領域で活動しているのだと主張しており、また自分たちは霊的な目的ではなく、現世的な目的を追求しているのであり、シヨン主義者とは単に自らの信仰から無私の働きのための力を汲み取りつつ労働者階級の向上と民主化のため熱心に努めるカトリック信者を指すに過ぎないと言っています。また彼らの言うところによれば、シヨン主義者とはカトリックの職人、農夫、経済学者、政治家に他ならず、それ以上でも以下でもなく、[したがって]シヨン主義者は社会一般の行動規範に従わなければならないが、さりとて教会の権威に特別に縛られるわけでもないのです。

7.シヨン主義者の主張は正当化できないこと

 これらの誤った考えには容易に答えることができます。司祭、神学生を含むカトリックのシヨニストたちが、彼らの励む社会活動においてただ単に労働者階級の現世的な利益のみを追い求めているのだと、一体誰が信じるでしょうか。実際のところを言うとシヨンの指導者たちは、彼ら自身そう言っているように、誰も阻むことのできない理想主義者なのです。彼らはまず第一に人の良心を向上させることを通して労働者階級を再生しようとしているのだと公言しています。彼らは自分独自の社会教説を持っており、また社会を新しい基盤の上に再構築するための宗教的ならびに哲学的原理を有しています。彼らはまた、人間の尊厳、自由、兄弟的博愛について独自の概念[考え]を持っています。そして自分たちが社会について思い描く幻想[に過ぎない考え]を正当化するために、彼らは福音を引き合いに出すのですが、それはあくまで彼らの流儀にしたがって解釈されたかぎりでの福音に過ぎません。そしてさらに深刻なことには、彼らはキリストを証しするよう呼びかけながら、[実際は]彼らが明かし立てるべきだとするキリストは、小さくされ、歪められたキリストでしかないのです。さらに、彼らはこういった思想を勉強会で教え、友人たちに吹き込み、また自分たちの活動の手順に[活動の指針として]採り入れています。したがって彼らは実際のところ社会的、市民的、ならびに宗教的道徳の教師なのです。そしてたとえシヨン主義運動の組織にどのような形の修正がなされたとしても、シヨンの目的およびその性格と行動とは道徳の領域に属しており、これは教会が固有とする分野に他なりません。こういった事実をすべて考慮に入れると、シヨン主義者たちが自分たちは教会の権威およびその教え導き、統治する権能の範囲外の領域で活動しているのだと信じるとき、彼らは自らを欺いているのだと言わざるを得ません。

8.彼らシヨニストは明白な誤謬を教えていること

 たとえ彼らシヨニストたちの教えるところに何らの誤謬がなかったとしても、個人および共同体を真理と善の真っ直ぐな道にそって導く使命を天から受けた者たちの指導をかたくなに拒むことはカトリック教会の規律の重大な違反です。しかし、先ほどのべたように、悪[の根]はさらに深く、弱者へのまちがった愛に流されて、シヨンは誤謬に陥ってしまったのです。

9.シヨニストたちが奉じる、すでに教会によって排斥された誤った民主思想 

 実際、シヨンは労働者階級の向上ならびに再教育を図っています。しかし、この点に関するカトリックの教えの原理はすでに定義されており、そしてキリスト教的文明の歴史は、そうした原理がいかに有益かつ実りを生むものであるかを示しています。思い出深い私の前任者であるレオ十三世は、これらの原理を傑作という言葉がふさわしい、いくつかの文書で再確認しており、社会問題に取り組む全てのカトリック信者はそれらの文書を研究し、心に留めておく義務があります。レオ十三世教皇は他のことに先んじて次の一事を教えられました。すなわち「キリスト教的民主制は、健全に構成された国家の属性に他ならない階級の多様性を維持し、また人間の社会に、その創始者である天主が付与されたところの形態と性格とを与えねばならない」のです。同教皇は「人民に主権を置き、かつ階級の廃止と横並びの平等化とを図るほどに変節したある種の民主制」を非難しています。それと同時にレオ十三世教皇はカトリック信者のための行動のプログラムを定めたのであり、これは社会を十数世紀におよぶ歴史を誇るキリスト教的基盤の上に戻すことのできる唯一のプログラムです。

 一方、シヨンの指導者たちは何をしたでしょうか。レオ十三世教皇のそれとは異なる別のプログラムと教えとを採用したばかりでなく (このこと自体、すなわち平信徒が教皇と並んで教会において成される社会活動の指導者の地位を占め[ようとす]ることであり、著しく大胆不遜な企図と言わねばなりません) 彼らは社会の最も重要な諸原理に関して同教皇によって定められたプログラムをあからさまに拒絶し、そうして彼らは人民の中に権威を置くか、あるいは徐々に権威を廃止してゆき、自らの理想としているようにあらゆる階級を横並びにすることを図ります。彼らはカトリックの教義に対抗して排斥された理想へと進むのです。

10.人間の自然本性を支配する自然法の無視

 シヨニストたちが人間の尊厳ならびに労働者階級の屈辱的な境遇を向上するという自らの考えに得々としていることを私たちはよく心得ています。私たちはまた、彼らが労働法および労使関係を公正で非の打ちどころのないものとすることを望んでいることをもまた知っています。彼らがこのように望むのは、そうして地上により完全な正義とより大きな愛徳がゆきわたり、同時により深く、実り豊かな社会変革が成し遂げられ、これによって人類は未だかって想像だにしなかったような飛躍的な進歩を遂げることができると考えているからです。無論、私はこういった努力を非難しません。このような努力は、ある人が進歩するということは、彼が自分が[生まれながらに持っている]自然的な能力を新たな動機付けにより、人間の自然本性の法則の枠組みの中で、またそれに沿った仕方で開発することに存するということをシヨニストたちが忘れないなら、素晴らしいものとなったでしょう。しかし反対に、もし人間社会に本質的な機構を破壊し、それらの活動の枠組を破ってしまうなら、それは進歩の方向ではなく、死に向かって進めていることなのです。しかるにシヨニストたちはまさにこのことを人間社会において成そうとしているのです。彼らは別の原理に基づいて築かれる未来の国家を夢見ており、そういった原理の方が、現在あるキリスト教国が拠って立つところの原理に比してより多くの実りと便益とをもたらすと公言してはばかりません。

11. 人間社会は天主の計画に従って築かれるべき事

 いや、尊敬する兄弟たちよ、誰もが自分が教師および立法者として立つ、この社会的・知的な無秩序この時代にあって、私たちは力をふりしぼって次のことを繰り返し叫ばねばなりません。すなわち国は天主が築かれたのとは違ったしかたで築かれてはならないと言うことです。社会は、教会がその礎を置き、その機能を見守るのでなければ打ち立てられることが出来ないのです。否、文明とは今もって発見されるべきものではなく、新しい国家が空をつかむような想念の上に築かれるべきでもありません。文明は[現に]存在してきたのであり、今でも存在するのです。それはキリスト教文明であり、キリスト教国なのです。これは正気を失った夢想家や反乱者、ならず者による容赦のない攻撃に対して、絶えず打ち立て、再興さえすればよいのです。そしてこれこそ「キリストにおいてすべてを立て直すことonmia instaurare in Christo」に他なりません。

12.シヨンの教説の主要な点

 ではここで、私があまりにも性急かつ不当な厳格さをもってシヨンの社会教説を裁いているという非難を受けないためにも、かかる教説の主な点を検証して見ることにしましょう。

13.自由と平等

 シヨンの人間の尊厳に対する[熱心な]配慮には称賛に値するものがあります。しかし[問題は]彼らが人間の尊厳というものを教会が全く良しとしていない特定の哲学者たちの考え方に沿って理解しているという点です。この人間の尊厳の第一の条件とは、宗教に関することがらを除き、人は誰でも自律的[つまり誰でも自分の望むとおりに行動してよいということ]であるという意味での自由です。これはシヨンにとっての根本的な原理であり、シヨン主義に含まれる他の原理はみなそこから導き出された結論に他なりません。[シヨニストの説くところによると]今日、人々は自分とはまったく別の権威の保護下にあり、[したがって]彼らは自らを解放する必要があるのです。これが彼らの説く政治的解放です。人々はまた生産手段を握る雇用者に依存しており、彼らによって搾取、圧迫され、品位を落としめられています。[ですから]人々はこのくびきを払いのけなければなりません。これが彼らの説く経済的解放です。 最後に、人々は知識階級という、その本性上、巷の事柄を取り仕切るにあたって不当に大きな発言権を有している階層によって支配されています。人々はこの支配から離脱しなければなりません。これが彼らの説く知的解放です。この3つの観点に即した[階級的]区別の横並び的解消によって人々の間の平等が生まれ、そしてこのような平等こそ真の人間的正義に他なりません。自由と平等、という2つの柱 ――― そして今から述べる博愛がそれに付け加わりますが ――― の上にたてられた社会・政治的機構こそ、これがシヨニストらの呼ぶところの民主制なのです。

14.人民による統治

 しかし自由と平等とは、いわば消極的な側面に過ぎません。民主制が固有に持つ積極的な側面は、すべての人が、公的なことがらに最大限参加するということにあります。そしてこのことはまた政治的、経済的、道徳的という三重の側面を含んでいます。

15.政治的側面  ― 人民に存する権威

 初めのうちは、シヨンは政治的権威を廃止してしまおうとはしません。反対にシヨンはそれを不可欠なものとして見なすのですが、ただそれを分割すること、と言うよりむしろそれを[無限に]多数化し、一人々々の市民が一種の王になることを望むのです。シヨニストは権威が天主から由来することを認めますが、しかしそれは第一に人民の中に存し、選挙もしくは、もっと適切な表現を使うならば選択を通して表されるというのです。しかし、[このようにして権威を一時的に委任された代表者が選ばれるとしても]権威はなお人民の手の中にあるのであり、彼らの支配から免れることは出来ない、と言います。 [人民によって選ばれた者の権威は]見かけ上は外的な権威であったとしても実際は内的な権威です。なぜなら、それは同意に基づく権威だからであると言うのです。

16.経済的側面  ― 協同組合的社会主義

 程度の違いこそあれ、同じ原理が経済の秩序にも当てはめられます。経営管理の権は特定の階級から取り上げられて[政治におけるのと同様に]、多数に分配され一人々々の労働者が一種の雇用者となります。さてシヨンがこの経済の分野における理想を現実化するために用いる体制は、彼ら自身の述べるところによると社会主義ではなく、一種の協同組合制です。これは健全な競争が生じるのに十分な数の協同組合から成るものであり、こうして多くの協同組合の中から選ぶことのできる労働者は特定の協同組合に縛られずにすみ、その自立が守られると言うことです。

17.道徳的側面  ― 共同体第一主義

 ここで最も主要な側面である、道徳的側面を取り扱うことにします。これまで見たように[シヨニストが思い描く社会においては]権威が大幅に削減されるので、それを補いかつ個人の自己中心性に対する永続的な対抗物 ――― いわば天秤のバランスを保つための重りのようなもの ――― となるべき別の力が必要となります。この新たな原理、この新たな力とは職業上の利害、ならびに公共の利害に対する愛、すなわち職業および社会の目的そのものに対する愛に他なりません。一人々々の心に、個人的利害と家族の福利に対する生まれつきの愛と共に、自分の職業ならびに社会の福祉への愛が宿っている社会を思い浮かべてください。一人々々の意識において自分自身、および家族の利害がより高次の利害に従属し、つねに後者が前者に対して優先されるこの社会を想像してみてください。このような社会は、ほとんど権威なしにやっていけるのではないでしょうか。また、それは人間の尊厳の理想[的な姿]の提供してはないでしょうか。かかる社会においては一人々々の市民が王のような精神を、一人々々の労働者は管理者の精神を持っているからです。些細な個人的利害から解放され、[各]職業の利害、さらに国家全体の利害、そして最後には人類の利害にまで高められて(なぜならシヨンの視野は国境にしばられておらず、地の果てにいたるまで全ての人を含むものだからです)、人間の心は公共の福利への愛によって大きく広がり、同じ職業を営む全ての同朋、全ての同国人、全ての人々を包み込みます。そして、これこそが有名な「自由、平等、博愛」のモットーによって達成されるべき人間の偉大さ、高貴さの理想だと言うのです。

18.互いに関連するこれら3つの側面

 これら3つの側面、すなわち政治的、経済的および道徳的な側面は互いに依存しあっており、また先に指摘したように、道徳的側面がこの中で主要な位置を占めています。実際、いかなる政治的な民主制も、経済的な民主制に結び付いているのでなければ存続することが出来ません。しかし、このいずれも、もしそれが[自分は]道徳的責任とそれに比例した活動力とを与えられているという人間の意識内での自覚に根差しているのでなければ成立し得ません。しかし、種々の責任と道徳的(能)力を[自らが有していることを]意識することによって形づくられるそのような自覚の存在を仮に認めるとしても、かかる自覚から生じてくるところの民主制のはたらきには自らの起源となった当の意識および道徳的力が反映されます。同様の仕方で、政治的民主制もまた職業協同組合制から生じてきます。このようにして、政治的および経済的民主制の双方 ――― 後者は前者を支えているのですが ――― は、人々の意識自体の中で揺るぎない基盤に固定されることになる、と言うのです。

19.民衆の民主的教育という幻想

 まとめて言えば、シヨンの理論ないし幻想、また彼らが民衆の民主的な教育と称する教育が目指すところは次のようになります。すなわち各人の良心と市民としての責任感を最高度に高め、こうして経済的および政治的民主制ならびに正義、自由、平等、博愛の支配が生まれる、と言うのです。

20.カトリック的真理に反する教え

 尊敬する兄弟たちよ、この簡潔な説明を通してみなさんはシヨンが[カトリックの諸々の]教理に対して独自の教説を対置させ、カトリックの真理に相反する理論に基づいて自らの国家を築くことを模索し、また人間社会における社会的関係を規制する基本的かつ根本的な概念を歪曲していると指摘することがいかに適当であるかを理解されたことと思います。そして以下の考察はこの[シヨンとカトリック教会の教えとの]対立をさらに明白に示すことでしょう。

21.権威の真の源

 シヨンは公の権威をまず第一に人民のうちに置きます。そしてこの権威は、次に、相変わらず人民のうちに存し続けるような仕方で人民から由来し政府の方に移りますが。しかし、レオ十三世教皇は政治的支配についての『ディウトゥルヌム・イッルド』という回勅で、この教説を完全に排斥しています。同教皇はこう述べています。「現代の非常に多数の著述家は、前世紀に哲学者と自称した者らの後にならい、あらゆる権力は人民に由来すると言明しています。したがって社会において権力を行使する者たちは、その権力を彼ら自身の権威においてではなく、民衆から委任される権威に基づいて行使することとなります。しかもこの権限は権威者がそこからそれを得るところの人民の意志によって解消され得るという条件の下で委任されるのです。カトリック信者の心情はこれと全く異なり、支配・統治する権利は、その自然的かつ必然的根源として天主から由来するということを固く信じています。」

 確かに、シヨンは第一に民衆のうちに存するものとされる権威が天主から降り来るものであることを認めていますが、しかしそれは「権力が人民の側から上に戻り上がり、しかるに教会の組織においては権力は上から下に降る。」とされるかぎりにおいてです。しかるに権力の委任が上向きになされるということの異様さ ――― なぜなら委任とは、その本性からして上位の者が下位の者に対してなすものだからです ――― のみならず、レオ十三世はカトリックの教理を哲学至上主義と結び付けようとするこの試みを、先手を打って反駁しました。なぜなら、教皇が続けて述べるように、「国家を統治する地位につく者は民衆の意志と判断とによって選ばれることが可能であり、これはカトリックの教えに対立ないし相反するものではありません。しかるにこの選択によって支配者が選び出されるとしても、この選択によって人民が当の支配者に統治する権威を与えるのではなく、また権力を委任するのでもありません。この選択はただ、支配する権力が付与される者を指名するに止まります。」

22.権威、自由、そして従順

 さらに、もし人民が権力を握る者であるとすれば、権威はいったいどうなってしまうでしょうか。それはもはや影、作り話に過ぎないものとなり、そこにはもはや本来の意味での法も従順もなくなってしまいます。シヨンはこれを認めています。実際、シヨンは人間の尊厳の名によって、政治的、経済的、知性的な三重の解放を求めているからです。シヨンが作り出そうと励んでいる未来の国家においては、誰一人主人または下僕となる者はいなくなると言うのです。全ての市民は自由であり、皆が同志、皆が王となるでしょう。命令や戒律といったものは自由の侵害と見なされ、いかなる意味での上位者に対する服従も人格を損なうことであり、従順は不面目なこととされます。尊敬する兄弟たちよ、教会の伝統的な教えが示す社会的関係は、最も完全な社会におけるそれであろうと、このようなものでしょうか。他に依存し、不平等な被造物からなるすべての共同体は、その成員のはたらきを共通善へと向け、かつ法を制定するために権威を必要とするのではないでしょうか。そしてもし邪な人たちが共同体において見出されるならば ――― 実際、いつでもそのような人はいるものです ――― 悪辣な者らの身勝手さによる脅威が大きくなるだけ、権威はそれに応じてより強いものとなるべきではないでしょうか。また、もし自由が何であるかについて大きな思い違いをするのでなければ権威と自由が互いに相容れないということなどは、少しでも分別のあったら誰があえて言うでしょうか。従順は人間の尊厳に反しており、理想としては[自発的に]受け容れられた権威がそれにとって代わるべきだと教えることが誰にできるでしょうか。使徒聖パウロが、信徒らに全ての権威に服従するよう命じたとき、彼は人間の社会をそのあらゆる可能な段階において見越していたのではないでしょうか。そして、合法的に天主を代表する者として立てられている者たちへの従順は、つまるところ天主に対する従順であり、そのようにすることが人の品位を落とし、自らにふさわしくないレベルにまで引きおろすことになるのでしょうか。また、従順に基づいた修道生活は人間本性の理想[の姿]に反するのでしょうか。誰にも増して従順であった聖人たちは単なる奴隷、あるいは出来そこないのような者たちだったのでしょうか。最後に、イエズス・キリストがもし地上にお戻りになったとして、そこではもはや従順の模範をお示しにならず、また「カエサルのものはカエサルに、天主のものは天主に返しなさい」と仰らないような社会的状況が考えられるでしょうか。

23.正義と平等

 したがって、このような教説を教え、またそれを自らの組織の中で適用することを通して、シヨンは権威、自由、従順についての誤謬に満ち、きわめて有害な観念をあなた方の下にあるカトリックの青年たちの間に広めているのです。

 同じことが正義と平等についても言えます。シヨンは平等の時代をつくりだすべく努めていますが、この時代はまた、平等であるがゆえに正義の時代ともなるだろう、と言うのです。このようなわけで、シヨンにとってあらゆる不平等は正義にもとることであり、あるいは少なくとも正義を損なってしまうものだ、と言うのです。このような原理は明らかに自然本性と相容れないものであり、また嫉妬、不公正を招き、社会的秩序を転覆させる原理です。シヨンによれば民主主義のみが完全な正義の統治をもたらすと言うのです。しかしこのように考えることは、こうして不毛な代替品の座に貶められた他の統治形態に対する侮辱ではないでしょうか。この点においてシヨニストたちはまたしてもレオ十三世教皇の教えに対立しています。すでに引用した政治体制についての回勅中の次のくだりを彼らは読んでみるべきでしょう。「正義が保たれるかぎり、人民が自分たちで適当な統治形態を選ぶことは禁じられていません。したがって、人民は自分たちの気質、あるいは祖先から受け継いできた制度や慣習に最も合った形の政治体制を選ぶことができるのです。」

 またこの回勅は3つの主要な形の政治体制に言及しており、このことは正義がこれらの中のいずれにおいても実現され得ることを示唆しています。そしてまた労働者階級の状況についての回勅は、現今の社会的構造の枠組みの中で正義を回復することができると明確に述べていないでしょうか。レオ十三世教皇はここである種の正義についてではなく、完全な正義について話しているということは疑いの余地がありません。したがって、正義が上述の3種の統治形態のうちのいずれにおいても見出され得る旨同教皇が述べているならば、この点において民主主義は特別な優位性を持つのではないと教えていたことになります。これと反対の見解を固持するシヨニストは教会の教えに全く耳を貸そうとしない、あるいは自分自身で勝手に正義と平等についてのカトリック的でない考えを抱いていることになります。

24.博愛 対 愛徳

 同様のことが「博愛」についても当てはまります。シヨニストたちはこの博愛というものを共通の善益への愛に、もしくは ――― あらゆる哲学、宗教を超越して ――― 単なる人間性という概念に基づくものとします。したがって、シヨニストたちは等しい愛と平等な寛容をもって全ての人々をその困難かつ望ましくない状況 ――― それが知的、もしくは道徳的なものであれ、あるいは物質的、地上的なものであれ ――― と共に抱擁します。しかるにカトリックの教えに従えば、愛徳の第一の義務とは、誤った考えをそれがたとえそれがいかに誠実な心から出たものであったにせよ、容認することでもなく、あるいは私たちの兄弟が陥っている誤謬や悪徳に対する理論上のもしくは実際上の無関心にあるのでもありません。愛徳の第一の義務とは、それと反対に兄弟の物質的福利と共に、その知的、道徳的な改善を図る熱意に存するのです。カトリックの教理はさらに、隣人に対する愛は、全ての者の父であり人類家族の目的である天主への愛にその源を有していること、またその愛(隣人愛)は私たちがその肢体であるところのイエズス・キリストのうちに存しており、他人にすることはイエズス・キリストご自身にすることに他ならないことを教えています。これ以外の他のいかなる種類の愛も全くの幻想であり、不毛で儚いものです。

 事実、私たちは古えの異教徒から成る世俗的社会が自ら経験したごとく、共通の利害、もしくは自然的な親近性は[人々の]心にある情念ならびに野蛮な欲望に対してはほとんど無力なものと化してしまうことを知っています。いや、尊敬する兄弟たちよ、キリスト教的愛徳の外にはいかなる真の博愛も存在しません。天主[なる御父]とその御子我らの主イエズス・キリストに対する愛を通して、キリスト教的愛徳は全ての人を抱擁し、慰め、同じ一つの信仰と同じ天の幸福へと導きます。

 このような意味のキリスト教的愛徳から博愛を引き離してしまうので、民主主義は文明にとって進歩どころか、甚だしい後退をもたらすこととなります。もし、私が心からそう望むように、社会およびその成員の福利が博愛、ないし「普遍的連帯」によって達成されるべきであるとするならば、全ての人の知性は真理の認識において一致し、全ての人の意志は道徳において一致し、そして全ての人の心は天主[なる御父]とその御子イエズス・キリストに対する愛において一致しなければなりません。しかし、この一致はカトリック的愛徳によってのみ達成し得るのであり、したがってカトリック的愛徳のみが人々をして理想的な文明への進歩の道を歩ませることができるのです。

25.人間の尊厳

 最後に、社会問題に関するシヨン主義者のあらゆる誤謬の根には、彼らの人間の尊厳についての誤った期待があります。彼らによると人間は、強く、啓蒙され、自立した意識を持ち、主人など要らず、ただ自分自身にのみ従い、最も重大な責任をもためらうことなく引き受けることのできるようになった時、初めて「人間」の名に値するものとなると言うのです。このような大言壮語によって人の自尊心をあおり立て、あたかも[実体のない]夢のように、光も導きも助けも与えずに、幻覚の領域へと連れ去ってしまうのです。そしてこの幻覚の領域において、人は完全な意識を得る栄えある日を待ちながら、実際は自らの誤謬と情念とによって滅びてしまうのです。そして、その大いなる日はいつ来るのでしょうか。人間の自然本性を変えることができたなら、それも可能でしょうが、しかしこれはシヨン主義者の手に負えることではありません。したがって、そのような日がはたして来ることがあるのでしょうか。そもそも人間の尊厳をその極みにまで高めた聖人たちはシヨンが理想とするような尊厳を有していたでしょうか。また、そのように高く舞い上がることもできず、この地上で、御摂理が彼らを置かれるところに甘んじ、つつましく働く者たちはどうなるでしょうか。キリスト教的謙遜、従順、忍耐とをもって自らの努めを果たす、彼らもまた「人間」と呼ばれるのがふさわしい者たちではないでしょうか。我らの主は、いつの日か彼らをその目立たぬ場所から引き上げ、天国でみ民の王たちとともにお置きにならないでしょうか。

26. シヨン主義者の活動に関する誤りの影響

 シヨンの陥っている種々の誤謬についての考察はこのぐらいにしておきましょう。私はこのテーマについて全てを語り尽くしたわけではありません。これらと同様に誤り、危険をはらんでおり、したがって、あなた方の注意を喚起すべき他の点 ――― 例えば教会が有する強制力をどのように解釈するかについての問題など ――― がまだ残っているからです。しかし今、私は上で触れたシヨンの誤謬が彼らの実際の行動および社会活動にどのような影響を及ぼしているかを検証することとしたいと思います。

27.シヨンの組織

 シヨンの教説は抽象的な哲学の領域にとどまるものではありません。かかる教説はカトリックの青少年に教えられ、さらに悪いことには、それを日常生活に適用すべく努力が払われています。シヨンは未来の国家の核として考えられており、したがってその理想の目的に可能な限り近づくように形作られています。事実、シヨンにはいかなる位階制もありません。この組織を統治するエリートは一般庶民の中から、その道徳的権威ならびに徳のために選ばれ、現れ出てきた者たちです。シヨンには自由に参加できますし、また自由に脱退することができます。勉強会は教師なしで開かれ、せいぜい顧問がつくことがあるくらいです。こうした勉強会は一人々々のメンバーが同時に生徒であり教師である知的な協同組合のようなものです。メンバーの間にはきわめて徹底した仲間意識が存在し、彼らの心を親密な交わりへと促します。そしてこれがシヨンに共通の精神であり、「友情」と呼ばれているものです。司祭でさえシヨンに入る際には、自らの司祭職の卓越した尊厳を低め、奇妙にも役割を取り替えて生徒となり、自分を若い「友」と同じレベルに置き、単なる一人の同志に過ぎない者となります。

28.誤った原理から生ずる危険をはらんだ実践

 尊敬する兄弟たちよ、あなた方も容易に察されることと思いますが、こうした民主主義に根差した実践および「理想の国家」の理論から規律の欠如の隠れた原因が生じてきます。この規律の欠如について、あなた方はこれまで再三にわたってシヨンをとがめてきました。上で示したような線に沿って養成されるシヨンの指導者たちおよびその同胞たちの間に、たとえそれが神学生であろうと司祭であろうと、あなた方の権威ならびにあなた方自身に対して示すべき尊敬、素直さ、従順が見られないのは驚くに値しません。またあなた方が、彼らの側に根本的な対立の姿勢を感じ取ったとしても、また悲しむべきことに彼らがシヨンと関係のない仕事からまったく身を引いてしまう、あるいは従順のためにそうせざるよう強いられる際も、不承不承に従うのを目の当たりにしたとしても、やはりそれは驚くに値しません。[彼らにとっては]あなた方は過去のものであり、自分たちこそが未来の文明の先駆者なのです。[彼らの目には]あなた方は位階制、社会不平等、権威ならびに従順、つまり、別の理想にとらわれている彼らの心には到底従うことのできない古臭い体制の代表に他ならないのです。涙なしには思い出すことのできない悲しい一連の出来事がこのような心がまえの存在を証ししています。私は忍耐のかぎりを尽くしても、なお義憤の念を抑えることができません。そしてあろうことか今やカトリックの青少年の心に、彼らの母である教会に対しての不信の念が注ぎ込まれています。彼らは19世紀を経た今に至るまで教会はこの世界に真の基盤に基づいた社会を築くことができずにいる、なぜなら教会は権威、自由、平等、博愛、人間の尊厳といった社会についての概念を正しく理解せずにきたからだ、と言うのです。また彼らは、フランスを今ある形につくりあげ、見事に統治した偉大な司教や王たちはシヨンの抱く理想を有していなかったために、民衆に真の正義と真の幸福とを与えることができなかったとも教えているのです!

29.1789年の革命の名残

 フランス革命の息吹は、そこ、シヨンを通り過ぎました。したがって、シヨンの社会教説は誤っており、その精神は危険きわまりなく、その教育は破滅的な害をもたらすものであると結論することができます。

30.とがむべき教義およびとがむべき活動

 さてそれでは、教会の中におけるシヨンの活動をどう考えるべきでしょうか。彼らは自己流のカトリック精神にかくもこだわり、もしその大義を支持しないものがいれば、それは教会内部に潜む敵であり、福音とイエズス・キリストについて何一つわかっていない者と見なされる程です。一体、このような運動についてどのように考えればよいでしょうか。この疑問について強調しておく必要があると私は考えます。なぜなら、ごく最近までシヨンが価値ある励ましや素晴らしい支持を得てきたのは、まさにそのカトリックとしての熱意だったからです。ところが、その言行から判断して、シヨンの活動と教説とは教会を満足させるものではないと言わざるを得ません。

31.教会は民主主義にこだわらない

 第一に、シヨンのカトリック主義は、ただ民主的な統治形態のみを受け容れ、かかる統治形態が教会にとっても最も好ましいものとし、さらにそれを教会といわば同一視します。ですから、シヨンは自らが奉じる宗教を一つの政治的な党派と結びつけてしまうのです。ここで普遍的民主主義の到来が世界における教会の活動にとって重要なことではないということをあえて証明する必要はないでしょう。すでに私たちは、教会が常に諸国家に、自らの必要に最も適合した統治形態を選ぶ自由を認めてきたという事実を思い起こしました。[ですから]ここで私が前任者にならい、もう一度確認しておきたいことは、カトリックの教えを原理的に特定の統治形態に結び付けるのは誤謬であり、かつ危険であるという点です。この誤謬と危険は、宗教が誤った教義にもとづいた民主制に関連付けられるとき、ことさら大きくなります。しかるに、これこそシヨンが行っていることに他なりません。特定の政治形態のためにシヨンは教会に汚名を着せ、カトリック信者の間に分裂の種をまき、青年および司祭や神学生までをも純粋にカトリック的な活動から引き離し、国の生き生きとして力にみなぎった部分を不毛なものと変えてしまいます。

32.宗教を守るために政治を用いる義務

 そしてごらんなさい、尊敬する兄弟たちよ。何という矛盾でしょうか!宗教はあらゆる党派を超越すべきものであるという、正にこのことの故に、そしてシヨンが四方から取り囲まれ、[攻撃されている]教会を守る務めから身を引くのは、この原則に基づかせているからです。無論、教会は自ら進んで政治的な分野に乗り出したわけではありません。彼らが[教会を攻撃する者らが]教会を骨抜きにし、略奪するために教会をそこへと引きずり込んだのです。したがって、教会を守るため、また政治をその固有の領域にとどめ、政治が教会にふさわしい物を与える場合をのぞいて教会の事に関与しないようにさせるために、自分が持っている政治的な武器を用いるのは全てのカトリック信者の義務ではないでしょうか。さて、このようにかくも激しく攻撃を受けている教会を目前にして、シヨニストたちが何もしないでいるのをしばしば見て悲しい思いをします。もし彼らが教会を守るとしたら、それは自分たちの利益になるときだけです。また、彼らがカトリックとはいかなる程度においても一切関係ないプログラムを命じそれを指示しているのを目の当たりにします。政治における戦いにおいて、挑発を受けたのなら、人は自分の信仰を公に表明することに妨げはありません。一人のシヨニストにおいては二人の人がいると言わなければならないのではないでしょうか。つまり、一人はカトリックの個人であり、もう一人は宗教のない活動家シヨニストです。

33.小さなシヨンからより大きなシヨンへ

 実際シヨンが真の意味でカトリックだった時期がありました。その時、シヨンはカトリックのみを道徳的な原動力として認め、民主主義こそがカトリック化しなければならず、さもなくば全く存在しない方がよいと公言していました。しかし、ある時彼らは考え方を変えてしまったのです。シヨン主義者は、誰でも自分の宗教ないし哲学を保持してよいということにしました。彼らはカトリックと名乗るのをやめ、「民主主義がカトリックになるように」というスローガンの代わりに「民主主義が、反カトリックとならないように」 ――― それが反ユダヤ教、反仏教でないのと同様、 ――― と言うようになりました。そしてこのときに「より大きなシヨン」という思想が生まれたのです。未来の国家をつくるために彼らはあらゆる宗教および宗派の労働者に呼びかけました。これら労働者はただ一つのこと、すなわち同じ社会的理想を抱き、あらゆる宗教的信条を尊重し、そして彼ら自身を支えるべき何らかの道徳的原動力を携え持つようにするということだけでした。シヨン主義者たちはこう公言してはばからなかったのです。「シヨンの指導者たちは宗教的信仰を何ものにもまして尊重するものである。しかし、彼らは他の人々が自らの道徳的原動力を彼らが元来から有している源泉から汲む権利を認めずにいることができるだろうか。そのかわりに彼らシヨンの指導者たちは自分たちがカトリックの信仰から道徳的原動力を汲み取る権利を他の人々が認めてくれるものと期待することができる。したがって、彼らが今日の社会を民主主義に向けて変革することを望む全ての人々に、互いを隔ててしまう元となり得る哲学的ないし宗教的信念のために互いに対立するのではなく、かえって手を取り合って前進すること、そしてその際、自らの信念を捨て去ってしまうのではなく、現実的な状況に則して、かかる個人的信念の卓越性を証しすることを求めるのである。そうしておそらく、異なった宗教的ないし哲学的信念を抱く人々の間でなされるこの競い合いを基盤として、ある種の一致が生ずるだろう。」と言うのです。そして彼らは同時にこう付け加えるのです。「小さなカトリックのシヨンは世界人的なより大きいシヨンの魂となるだろう。」しかし、どうしてこのようなことが成され得るでしょうか。

34.「より大きなシヨン」から真にエキュメニカルな一致へ

 近年、「より大きなシヨン」という言葉はもはや用いられず、新たな組織が従来どおりの精神と基盤をそのまま保ちながら生まれました。「活動に含まれる異なった原動力を秩序だった仕方でまとめるために、シヨンは依然として当の様々なグループに浸透し、それらのはたらきを照らし導く魂、精神として残る。」こうしてカトリック、プロテスタント、自由思想といったそれぞれ自律的な多くのグループが活動に取りかかるよう呼びかけられているのです。「カトリックの同朋は特別な組織の中でまとまって働き、互いに学び合い、教えあうのである。[一方]プロテスタントや自由思想の民主主義者は、自分たちの間で同様に行う。しかし、我々全てはカトリックであろうと、プロテスタントであろうと、自由思想家であろうと、若者を兄弟同士の争いのためにではなく、社会的、市民的な徳の[自らが属する集団の]利害抜きの競い合いのために武具をまとわせることを目するのである。」

35.きわめて厳粛な論評

 これらの宣言およびシヨンの活動の新しい組織はきわめて厳粛な考察に値するものです。

36.シヨンの活動はその哲学を反映している

 このようにして私たちの眼前には、文明の改革のために働くべく、カトリック信者によって創設された超教派の組織が存在しています。しかるに、この文明の改革ということは宗教的な性格を帯びたことがらです。なぜなら、道徳的文明なしにはいかなる真の文明も存在せず、また真の宗教なしには、いかなる真の道徳的文明も存在しないからです。これは証明された真理であり、歴史的事実です。新しいシヨン主義者は、自分たちがただ宗教的信条の違いはもはや問題とならないような「実際的な現場」だけで働いていると言い訳をすることは出来ません。彼らのリーダーはどのような宗教に属するものであれ彼らを招待し、「彼らの個人的な確信の素晴らしさの証明を実際的な現場でしてもらう」という活動の結果について、精神が持つ確信の影響をよく感じ取っています。それは理に適っています。丁度或る一つの体の肢体はその末端まで体を生かす生命原理の形相を受けているように、実際的な実現は宗教に関する確信の性格を纏っているからです。

37.誤った政治的エキュメニズム

 さて、それではカトリックの青年たちがこの種の活動に携わるにあたって異端および不信の徒と相交じってしまうことになるという点について何と言うべきでしょうか。このような状況は中立的な団体と関わるより、千倍も危険なことではないでしょうか。一体私たちは、あらゆる異端者および信仰をもたない者らに対してなされる呼びかけ、すなわち彼らの信条のすぐれていることを社会状況の中で一種の護教的競争を通して証しするようにとの呼びかけをどう考えるべきでしょうか。[しかし]このような競い合いは19世紀にわたり、カトリック信者の信仰にとって危険のより少ない条件の下で成されて来なかったでしょうか。そして、その結果はことごとくカトリック教会にとって有利なものではなかったでしょうか。あらゆる誤謬に対して抱くべきとされるこの敬意の念、また新しい力のより豊かな源泉を持つことができるよう、自分たちの信念を研究をとおして深めるようにとカトリック信者が進んで、カトリック教会に逆らう者たちを招いているのをどう考えるべきでしょうか。また、あらゆる宗教および自由思想までもが自らの考え・信念を公然と、しかもまったく自由に表明することができるような組織についてどう考えるべきでしょうか。と言うのも、公の講演会などで胸を張って自分たちの個人としての信仰を宣言するシヨン主義者は、確かに他の人々を黙らせることを意図しないのであり、プロテスタントが自分のプロテスタント信仰を、あるいは懐疑主義者が自らの懐疑主義を公言すること正しいものとして公言することを妨げようとはしないのです。最後に、勉強会に参加するにあたって[党派的]利害にとらわれない社会活動を目指し、かかる活動がいかなる利害、グループ、ないしは信条にさえも貢献することを欲しない同志たちに懸念を起こさせないために、自分のカトリック信仰を戸口に残しておくカトリック信者についてどう考えるべきでしょうか。

 新たに生まれた「社会的活動のための民主主義委員会」の信仰宣言は以上のようなものです。これはそれ以前の組織の目的となっていたものに取って代わり、また ――― 彼らの言うところによると、 ――― シヨンが反動的な保守派の目にも、反聖職者主義のグループの目にも有していた「あいまいさ」を打ち破り、今や「道徳および宗教の持つ力を尊重し、広い心に根ざした理想主義のパン種なくしてはいかなる真の社会的解放も有り得ないと確信している」全ての人々が取り入れることができるものです。

38.伝統的な価値観の転倒

 そうです。実際「あいまいさ」は打ち消されました。シヨンはもはやカトリックではなくなってしまいました。シヨン主義者は[もはや]グループのためには働かず、そして彼の言うには「教会は私の活動が呼び起こす同感、賛同からいかなる利益も得ることはできない」のです。まったく奇妙なことです。彼らはシヨンの社会活動を通じて教会が利己的で利害づくめの目的の成就を助けられて益することを恐れているのです。まるで教会に益するところのものは同時に人類全体をも益することがないかのようにです。教会が社会活動から利益を得ることができるなどと考えるのは何と奇妙な概念の転倒でしょう!あたかもただ社会活動のみが ――― もしそれが真摯かつ実りを生むものであるならば ――― 教会からの利益・恩恵を得る必要があることを最もすぐれた経済学者たちが認め、かつ証明しなかったかのように!

 しかし、さらに奇妙であり、同時に懸念と悲しみとを呼び起こさずにはおかないのはカトリックと自称し、上で述べたような条件の下で社会の再編を図る者たちの大胆不敵かつ軽薄さです。彼らはカトリック教会の枠を越え出たところで、あらゆる所からの労働者と共に、たとえ彼らがどんな宗教を奉じていてもあるいは一切奉じていなくても、たとえ信仰を持っていようともいなくとも、彼らが互いを隔て分けてしまうもの ――― 即ち宗教的および哲学的信念 ――― を放棄し、[反対に]互いの一致をもたらすもの ――― 即ち「その源を問わず、広い心に根ざした理想主義と道徳的力」――― を共有するかぎりにおいて、彼らと共に「愛と正義の支配」を地上に打ち立てることを夢見ています。しかるに私たちがキリスト教国家を築くために必要とされた力、知識、超自然的徳を考えてみるとき、また何百万という殉教者の苦難、教会の教父ならびに博士たちの光、愛徳の英雄たちの献身、天から生まれた強固な位階秩序、天主の聖寵の大河、天主の知恵であり人となった御言葉、イエズス・キリストの命と精神によって建てられ、固められ、染み渡った全てを思うとき、そうです、これら全てを思うとき、新しい使徒たちが、あいまいな理想論と市民道徳を共通項に持って更によい業ができると夢中になっているのも見てぞっと震え増す。彼らは一体、何を生み出そうとしているのでしょうか。かかる共同作業の結果として、何が生じてくるのでしょうか。それは単に言葉の上だけの幻想的な構築物に過ぎません。そしてその中には、誤って理解された「人間の尊厳」に基いた自由・正義・博愛・愛・平等および人間の発揚という言葉が混ざりながら映し出され、混沌のうちにも人の心を誘っています。これは騒乱をまき起こす種となり、意図されている目的のためには効果がありません。これはまたあまり理想郷を追い求めず人民を攪乱する者たちをして利得を得させるでしょう。確かに、シヨンは空想上の産物を追い求めようと目を凝らし、社会主義を擁護しているのだと言うことができます。

39.人間中心主義的幻想

 私はさらに悪い事態が生じはしないかと恐れます。仕事におけるこの[あらゆる信条・主張の]混合から最終的に生ずるもの、また、この世界市民的な社会活動から利益を被るのは、カトリック的でもプロテスタント的でもユダヤ教的でもない民主制です。それはカトリック教会よりも普遍的な宗教(なぜならシヨン主義とはシヨンの指導者らが述べるところによれば一つの宗教なのですから)であり、ついに兄弟、同志となった全ての人々を「天主の御国」において一つにまとめる別の宗教です。彼らは言います。「我々は教会のためにではなく、人類のために働く」と。

40.世界統一宗教に向けて

 そして今、尊敬する兄弟たちよ、深い悲しみに沈んだ心で私たちはシヨンのカトリック主義はどうなってしまったのかと自問します。嗚呼、以前は非常に明るい期待を抱かせてくれたこの組織、活き活きとして勢いがみなぎっていたこの流れは、現代における教会の敵どもによって利用されてしまいました。今やあらゆる国々で企てられつつある世界統一宗教を打ち立てるために、ある大きな棄教的運動の中のあわれな一支流と化してしまいました。そしてこの世界統一宗教とは、いかなる教義、位階制も持ち合わせず、精神の規律も無く、情念に歯止めをかけるものも無く、自由と人間の尊厳の名のもとに(もしもそのような「教会」が立ち行ってゆけるならば)合法化された狡知と力の支配[する状態]ならびに弱者および労苦するものらの圧迫を世界にもたらしてしまうでしょう。

41.革命の福音

 こういった悪質な教説 ――― もっともそれらは明晰な思考力をもつ人たちを惑わし得るものではありません ――― が練り上げられる闇の工房について私たちは知りすぎるほど知っています。シヨンの指導者たちは、これらの教説から免れることができませんでした。自らの感情の礼賛、盲目的な彼らの善意、哲学的神秘主義、およびそれに付け加えられるいくぶんの啓蒙主義のために、私たちの救い主の真の福音であると彼らが誤って信じた新しい福音へと彼らは運び去られてしまいました。こうして彼らは、私たちの救い主イエズス・キリストについて、この上なく横柄、かつ馴れ馴れしい態度で話します。またフランス革命と似かよった理想を抱き、彼らは、福音と革命との間に冒涜的にも似たものがあるとし、このような即興的で反抗的な発言をしたことについて彼らは良いわけをすることができない。

42.愛徳は妥協を正当化する理由たり得ないこと

 尊敬する兄弟たちよ、私はシヨンならびにその他の所において席巻しているこの歪曲、天主にして人なる私たちの主イエズス・キリストの福音と主が聖なる方であることとを彼らが歪曲していることに、あなた方の注意を喚起したいと思います。社会問題の話となるやいなや、ある種の所ではまずイエズス・キリストの神性を横に置き、そしてただその限りない仁慈、人間のあらゆる惨めさに対する共感、隣人愛、ならびに人々の兄弟的連帯へと駆り立てる呼びかけについてしかふれようとしません。確かにイエズスは私たちを広大無限の愛でお愛しになり、苦難と死とを忍ぶべくこの地上に来られたのでした。それは状態と愛のうちに主を囲んで集い、互いへの愛徳という同一の心情に動かされて全ての人が平和と幸福を享受しつつ生きることができるためでした。しかし地上の生活ならびに永遠にわたるこの幸福の実現のために、主イエズスは至高の権威をもって私たち[人間が]ご自分の群れに属さなければならないこと、御自分の教えを受け容れねばならないこと、徳を実践しなければならないこと、またペトロとその後継者の教えと導きに服さなければならないという条件をお示しになりました。さらに、イエズスは罪人ならびに正しい道から逸れてしまった人々に対して優しくあられたのですが、一方そういった人たちの抱いている誤った考えについては、たとえそれがどれほど誠実な心から出たもののように見受けられたとしても、尊重されることはありませんでした。イエズスは彼らを皆お愛しになりましたが、しかし彼らを回心させ救いへと導くために教えを垂れられたのです。主は重荷を負い労苦する人たちを慰めようと御自分のもとにお呼びになりましたが、それは彼らに変節した平等を説くためではありませんでした。

 イエズスは身分の低い人たちを高められましたが、それは彼らの心に従順の義務から独立し、またそれに反抗する感情をふき込むためではありませんでした。イエズスの御心は善意の人々への優しさにあふれていましたが、同時に天主の家を汚す者たち、小さい者らにつまずきを与える邪な者たち、また人々を重荷で押しつぶし、自分はそれを持ち上げるために指一本貸そうとはしない権威者たちに対して聖なる憤りに燃えて断固とした態度をとることもおできになったのです。イエズスは、優しい方であると同時に強い方だったのです。イエズスはたしなめ、おどし、罰を下されました。それは怖れこそが知恵の始まりであり、時として人は体全体を救うために肢体の一部を切り落としたほうが良いということを知っておられ、私たちにそのことを教えようとされたからでした。最後に、イエズスは未来の社会の到来ないしは苦しみがはや除き去られた理想の幸福の状態をお告げになったのではなく、かえってご自分の教訓と模範とによって、この地上で味わい得る幸福と天国における完全な幸福とへの道 ――― すなわち十字架の道 ――― をお示しになったのです。これらの教えをただ永遠の救いを得るために自分自身の個人としての生活にだけ当てはめるのは誤りです。これらはすこぶる社会的な教えであり、主イエズス・キリストにおいて「一貫性に欠き権威のない人道主義」とはかけ離れたものを示しています。

43.優しくかつ勇敢でありなさい

 あなた方尊敬する兄弟たちに関して言えば、あなた方は人々の救い主の御業をその優しさと強さとを模倣を通して、これを継続してください。あらゆる種類の惨めな境遇に奉仕の手を差し伸べてください。あなた方の司牧的配慮の及ばない悲痛が一つとしてありませんように。あなた方が関心を寄せない嘆きがありませんように。しかし他方、恐れることなく権力者および身分の低いものに、彼らが有している義務について説くようにしてください。人々および国家の権威者の良心を形づくることはあなた方の義務です。[実際]社会問題が解決に近づくのは、それに関わる人々が各自の権利についてはより少なく求め、他方自らの義務についてはそれをより厳格に果たすときに他なりません。

44.建設的な代替案

 利害の衝突において、殊に実直さを欠いた勢力に対する戦いにおいて、人の徳ないし人の聖性までもは、彼に日毎の糧を常に保証するに足りるものではありません。諸々の社会的機構は、それらの間で自然に生ずる相互作用をとおして良心の呵責を感じない者たちの働きをくつがえし、善意の人々すべてが地上的幸福の正当な分け前に与ることができるよう調えられる必要があります。それゆえ私はあなた方がこの目的を念頭において社会の構築のため積極的な役割を果たすことを強く望みます。

 そしてこの目的のために、人々の霊魂の聖化、教会の防護、ならびに厳密な意味での愛徳の業に励むあなた方のもとの司祭の中から、冷静であると同時に活動的な性質をもち、哲学と神学の博士号を有し、古代ならびに現代の文明に精通した者を若干名選び、彼らをそれほど高貴ではないにしても、より現実的な社会科学の研究にあたらせ、そうして適宜にカトリック・アクションにおけるあなた方の活動を指揮させるようにしてください。しかしながら、これらの司祭が今日まかり通っている教説の渦に巻き込まれ、奇跡的な効果を有するとされる偽りの民主主義の幻想によって惑わされることのないよう注意してください。彼らが教会および人民の最大の敵が用いるレトリックから、響きは良くとも実現不可能な約束だらけの大言壮語を借りてくることのないようにしてください。

 また、これらの司祭に次のことを確信させてください。すなわち、社会問題ならびに社会科学は、つい最近になって生まれたものではないこと、教会と国家は全ての時代にわたって健全な協調のうちにこの目的を達すべく種々の実り豊かな組織を育成してきたこと、教会は妥協に満ちた協定で一度として人々の幸福に対する裏切りを為したことがなく、したがって、過去をうち捨てる必要がないこと、また必要なただ一つのことは、真の意味で社会の復興のために働く人たちの助けを借りて、フランス革命がうちくだいた諸々の機構を再び採用し、それらを生み出したのと同じキリスト教的精神において、現代社会の物質的発展に由来する新たな環境にそれらを適合させることです。事実、人民の真の友は革命家でも革新派でもなく、伝統主義者なのです。

45.この営みはシヨン主義者にも開かれていること

 私はシヨンの青年たちが自らの抱く誤謬から解き放たれ、あなた方の司牧的配慮をすぐれて集めるべきこの事業を妨げるどころか、これに対して秩序だったやり方でふさわしい恭順のうちに忠実かつ実り多い貢献をなしてくれることを望みます。

46.シヨン主義者に対する父としての訓戒

 今、私はシヨンの指導者たちに自分の子供に語りかける父親の抱くような信頼をもって向き直ります。そして私は彼らに、彼ら自身の善益のため、また教会とフランスの善益のために自らの指揮権をあなた方司教に譲りわたすよう願います。無論私はこれがどれほど彼らにとって犠牲となるかを承知していますが、しかし同時に彼らがそれを受け容れるに足るだけの寛大さを備えていることをも知っているので、私がその代理であるところの主イエズス・キリストの御名において前もって彼らをこの犠牲[的行為]のゆえに祝福します。シヨンのその他の構成員については、彼らが司教区ごとに結集し、めいめいの司教の権威の下に彼ら自身の境遇の改善のみならず、人民のキリスト教的かつカトリック的再生のために働いてくれるよう望みます。こういった司教区ごとのグループは当面の間、互いから離れ、独立したものとなるべきです。そして過去の誤りに決別したことをはっきりと示すために、彼らは「カトリック・シヨン」の名を自らに冠し、各成員はシヨンのメンバーとしての呼称にカトリックであることを示す要素を付け加えるようにしなければなりません。言うまでもなく、このようなカトリックのシヨン主義者が各々、政治に関する自分の好みを、それが教会の教理にまったく合致しない要素から浄められているかぎり、自由に保持することができます。もしあるグループがこれらの条件に服することを拒むのであれば、尊敬する兄弟たちよ、あなた方はまさにこの事実によって、彼らはあなた方の権威に服従することを拒否しているのだと見なすべきです。その際あなた方は彼らが純粋に政治あるいは経済の領域にとどまっているのか、それとも以前抱いていた誤謬に固執しているのかを見極めねばなりません。前者の場合、あなた方は彼らに対して、ちょうど普通の信者一般に対するのと同じように対処するだけで充分であるということは明らかです。後者の場合、あなた方は適切な手段を賢明に、しかし断固として用いねばならないでしょう。司祭らはかかる反抗的グループとは全く関わりを持たないようにし、ただその個々の成員に対し、自らの神聖な役務による助力を個人的に施すことでよしとしなければなりませんが、それは告解の秘跡という裁きの場において教理ならびに行為に関する道徳の一般規則を適用することを通してなされます。カトリックの[他の]グループについて言えば、司祭および神学生はそれらに対して行為を示し援助の手を差し伸べることはできますが、そのメンバーとして参加することを避けねばなりません。なぜなら、聖職者の陣営は一般信徒の組織から、たとえそれがきわめて有益であり、かつ最良の精神によって営まれているものであろうと一線を画していることがふさわしいからです。

47.祈りと願い

 上に挙げたような実践的手段によってシヨンならびにシヨン主義者についてのこの書簡を確固としたものとすることが必要だと私は考えました。心の底から私は主に、これらの人々、青年たちがこの手紙が何故書かれる必要があったのか、その重大な理由を悟らせてくださるよう祈ります。願わくは主が彼らに素直な心と勇気とをお与えになり、こうして彼らが教会に対して自らのカトリック的熱心さの真なることを示すことができますように。あなた方については、尊敬する兄弟たちよ、願わくは主があなた方の心を彼らへと真の父親としての愛を向けるよう促してくださいますように。

48.結びの祝福

 かかる望みを示しつつ、またこれらの大いに望ましい結果を得られるよう、私はあなた方、またあなた方の司祭、およびあなた方の信徒に心からの使徒的祝福を送ります。

49.執筆の時期と場所

教皇在位第8年目となる1910年8月25日、ローマの聖ペトロ大聖堂にて。

ピオ十世教皇

フランス語原文 Notre Charge Apostolique
英語訳 Our Apostolic Mandate


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聖ピオ十世教皇自発教令 Sacrorum antistitum (1910年9月1日): 近代主義の誤謬に反対する誓い

2019年04月02日 | カトリックとは
近代主義の誤謬に反対する誓い
聖ピオ十世教皇自発教令 Sacrorum antistitum (1910年9月1日)による

 聖なる司教たちの誰一人 [Sacrorum antistitum neminem] として、近代主義者と呼ばれる類の人々、すなわち回勅『パッシェンディ』(パッシェンディ日本語訳続き 日本語訳続続) を通して彼らの身につけている人格を描写された人々が、教会の平和を乱そうと、その活動を止めることがなかったと言うことを知らない者がないと私は思います。彼らは、地下組織を作り広めるためにその信奉者たちを募るのを止めようともしません。このようにして、彼らはキリスト教社会の動脈の中に彼らの教えのウイルスを注入し、署名なく或いはペンネームを使って本や、記事をいろいろと出版しています。私の既に上で述べた回勅をよく読めばこの故意的なずる賢さは、私が描写したこのような人々にあって驚くに値しません。彼らは、近くにいればいるだけますます恐るべき敵なのです。彼らは自分たちの役務を利用し、自分たちの毒を盛られた食べ物を人々に差し出し、警戒していない人々を突然捕まえるのです。彼らは、全ての誤謬の大集成である偽りの教えを提示するのです。

 主の牧場には、最善の実りだけが求められているにもかかわらず、この主の牧場の一部に広がっているこのペストを前にして、信仰の擁護のために働き天主の遺産の完全性が些かも傷つくことのないように一生懸命見守ることは、全ての司教たちの責務です。また私たちの主イエズス・キリストはペトロに「おまえの兄弟たちを堅めよ」と言われ、そのペトロの首位権を私は不肖ながら保持しているので、主のご命令を成就するのはとりわけ私の責務であります。従って、今戦われているこの闘いにおいて良い霊魂たちに新しい力を与えるために、上記の回勅の言葉と規定とを文字通り思い出すのに、良い機会であると私に思えます。

すなわち、

 I. 「それゆえ、尊敬する兄弟たちよ、私はこれ以上の遅れを許さず、より有効な手段を適用することを決断するに至ったのです。私は、このいたって重大な事柄において、誰もあなた方がたとえほんのわずかでも警戒心、熱意、あるいは強固さに欠けていた、と言う余地のないように注意するよう、あなた方を励まし、かつ命じます。そしてあなた方に要請し、かつ期待することを、同様に他の全ての霊魂の牧者、全ての教育者、ならびに聖職者の教育を担当する教授、そして特別に修道会の長上に要請し、期待します。」

 スコラ哲学 「第一に、学問研究について述べるならば、私はスコラ哲学が聖なる諸学問の基礎とされることを望み、かつ厳格に定めます。無論、「もし何であれスコラ学の博士たち[の思想]の中で、過度の細緻さをもって考究された、ないしは充分な考察を欠いて教えられたと考え得るもの、また後生の研究によって得られた確実な研究成果にそぐわないもの、要するに、もっともらしさに甚だ欠ける一切のものを、現代の人々に、倣うべきものとして提示する意志を私はいささかも有していません。」また、何よりもまず、私がスコラ哲学を用いるべきものとして指定する際、私が主に意図するのは天使的博士(聖トマス・アクィナス)が私たちに残したところのものである、ということをよく了解して下さい。そしてこのため、この問題に関して前任者[レオ13世]が定めた全ての教令は、完全にその効力を保持しているのであり、また、必要である限り私自身も、それらが全ての人によって厳格に遵守されるべきことを新たに布告かつ確認し、命令します。これらの教令が守られていなかった神学校については、今後それらの遵守をより厳しく課し、要求することが司教たちの務めとなりますが、同様の務めは諸修道会の長上にもあります。さらに、私は教授たちに「特に形而上学的な問題を扱うに当たって、聖トマスをないがしろにするなら、重大な不都合を生む」ということをよく念頭に置くよう勧告します。」

 健全な神学の促進「この哲学的基盤の上に神学の構築物が注意深く築き上げられねばなりません。尊敬する兄弟たちよ、持てる限りの力を尽くして神学の学習を奨励しなさい。そうすれば、あなた方の聖職者たちが神学校から出てくる時には、それに対する深い嘆賞と愛好心とを抱いており、そしてその中にいつも喜びの源を見出すことができるでしょう。と言うのも、「真理を求める精神の前に開かれた広大かつ多様な学問研究の中にあって、神学が支配的な地位を占めることは、皆に知られていることです。古の賢者の格言に従えば、神学に奉仕し、下女のようにかし仕えることが他の諸学芸の義務なのです。」私はこれにつけ加えて、伝統ならびに教父、および教会の教導権に対するこの上なく深い尊敬を心に抱き、よく均衡のとれた判断に基づき、そしてカトリックの諸原理によって導かれて(誰もがこのような態度を有しているわけではありません)実証神学に真正な歴史の光を投じようと努力する者たちは、称賛に値するということを述べておきます。実証神学が過去におけるよりも、より高く評価されることは確かに必要なことです。しかるに、このことはスコラ哲学に損失を与えることなしに為されねばなりません。そして、スコラ的神学を軽視するように見受けられるほど実証神学を礼賛する者は、近代主義者として拒絶されねばなりません。」

 神学以外の学問の役割「神学以外の学問に関しては、私の前任者が見事に言い表したことを思い起こすにとどめておきます。「自然科学の研究に熱心に励みなさい。この学問分野において、かくも輝かしく発見され、かくも有益な仕方で応用されて、現代の人々の感嘆をさそっている諸々の事物は、私たちの後に続く者たちにとって称賛の的、また倣うべき模範となるでしょう。」しかるに、これは聖なる諸学問に干渉することなしに為されねばなりません。同じ前任者[レオ13世]が、次のいたって重みのある言葉で定めているようにです。「もしあなた方がこれらの誤謬の原因を注意深く探るならば、あなた方はそれが、自然科学がかくも多くの研究の対象となっている近年、より峻厳で高尚な諸学問がその分だけ疎(うと)んじられている事実に存することを見い出すでしょう。その中のいくつかは、ほとんど忘却に付され、また他のいくつかはぞんざいな、あるいは表面的な仕方でしか考究されず、そして残念なことに、旧来の地位の栄華がかげりを見せるにつれ、これらの学問は有害な教条と甚だしい誤謬とによって醜く歪曲されてしまうに至りました。」それゆえ、私は神学校における自然科学の学習がこの法規に則ってなされるよう命じます。」

 II.  実際上の適応「私自身および私の先任者たちによるこれら一切の規定は、神学校およびカトリック大学の校長と教授の選出に当たって常に遵守されるべきものです。どのような点であれ、近代主義に染まっていることが分かった者は誰でも、管理ないしは教授に携わるこれらの役職からためらうことなく除外され、またすでにそういった役職に就いている者たちは、その座を追われねばなりません。同様の方針が、密かにあるいは公然と近代主義を支持する者たちに対して適用されなければなりません。このような者たちとは、つまり、近代主義者たちを誉めそやしたり、彼らの咎むべき所行を弁護したり、あるいはスコラ主義、教父、および教会の教導権に言い掛かりをつけて非難したり、さもなくば教会の権威に対する従順を、どのような種類の権威に対してであれ、拒む者たちです。この方針はまた、歴史や考古学、聖書釈義学において新奇な説を立てたがる者たち、さらには神聖な諸学問を軽視し、世俗的な学問を優先するように見受けられる者たちにも適用されます。尊敬する兄弟たちよ、学問研究に関するこの問題において、あなた方は警戒しすぎたり、堅実すぎることはあり得ませんが、とりわけ教授の選択において特にそうです。と言うのも、概して生徒[の心]は自分の教師の模範にしたがって形成されるからです。この問題に当たっては、自らの義務を強く自覚しつつ、常に賢慮と力強さをもって行動するようにして下さい。」

 教育の分野で求められる慎重さ「司祭叙階の候補者を審査し、選択する際にも、同様の慎重さと厳格さをもって当たらなければなりません。聖職者には新奇なことがらに対する愛好心が微塵もありませんように!天主は傲慢で頑なな心を嫌われます。今後は、神学および教会法の博士号は、まず第一にスコラ哲学の正規の課程を修了した者以外には、決して授与されないようにしなければなりません。もし、この規定に反して授与された場合には、全く無効のものとして見なされます。1896年にイタリアの「在俗ならびに修道司祭のための司教・律修者聖省」により定められた大学の頻繁な視察に関する規定が万国に範囲を広げて適用されることを私は命じます。カトリックの研究所もしくは大学に在籍する修道者ならびに司祭は今後、自らが所属する研究機関で開講されている科目を、カトリック以外の大学で履修してはいけません。もし、旧来このようにすることが許されていた所があれば、今後はもはやそれが許されないようにすることを私は定めます。カトリックの研究所ないしは大学の理事会に名を連ねる司教たちは、私が定めるこれらの命令が不断に守られるよう、細心の注意をもって見張らねばなりません。」

 III.  出版物の入念なチェック「近代主義者たちの著作、あるいは何であれ近代主義の気味があるか、それともこれを支持する著作が、もしすでに出版されているなら、これが読まれることを、そしてもしまだ出版されていないならば、その刊行を妨げることもまた、司教らの義務です。この種の書籍、新聞、定期刊行物は何であれ、神学校あるいは大学の学生の手に渡らないようにしなければなりません。このような著作によって彼らにもたらされる害は、不道徳な書物の読書による害に劣りはしません。いいえ、それどころか前者による害は後者によるそれよりも大きなものであるでしょう。なぜなら、この種の著作はキリスト教的生活を、そのまさに源において毒してしまうからです。同様の処置が、悪意があるわけはないにしても、神学の正しい素養に欠け、現代哲学にそまり、これを信仰と調和させ、そして彼らの言うところによれば、これを信仰の益となるものへと転ずるよう努める一部のカトリック者に対しても取られるべきです。こういった著者の名声と評判は、その著作を疑いの念をもたずに読ませることとなり、それゆえ彼らは近代主義への道を徐々に準備するという意味で、いっそう危険なのです。」

 印刷出版許可と無害証明「尊敬する兄弟たちよ、さらにいくつかの一般的な指示を加えるならば、このように重大な事柄において、あなた方が持てる力を尽くして、自らに託された司教区から必要ならば荘厳な発行禁止処分をもって、当地に出回っている有害な書物を排除することを命じます。聖座はこの種の著作を除去するに当たって、可能な限りの手段を講じますが、こういった出版物の数があまりにも増えたために、その全てを検閲することはほとんど不可能です。そのため、治療薬が届くときには、もう遅すぎるということが往々にしてあります。と言うのも、病気はこの遅延の間に根を張ってしまうからです。それゆえ私は、司教らがあらゆる恐れと肉の賢慮とを打ちやり、悪意の人々の上げる叫び声を横目に、無論優しく、しかし断固として、教皇教令『オフィチオルム』におけるレオ13世の次の指示を念頭に置いて、この事業における自らの分担を果たすことを望みます。「この事柄においても聖座の代理者である司教たちは、自らの司教区内で出版され、あるいは出回っている有害な書籍ないしはその他の出版物を禁止し、信徒の手に届かないようにするよう勉励しなければなりません。」この一節において、司教たちが一定の行動をとる権限を付与されているのは事実ですが、しかし彼らは自らに課せられた義務をも有しています。いかなる司教も、一つないし二つの書籍を私のもとに、排斥されるべきものとして報告することで自分の義務を果たしたと思い、それに類したおびただしい数の書籍が出版され、流通するままにしておくなどということがありませんように。また、あなた方は、ある書物が他の所で一般に印刷出版許可と呼ばれる許可を得たからといって、それで自分の務めの執行が妨げられるようなことがあってはいけません。なぜなら、これは単に[そのような許可を得たと]見せかけることも可能であり、またこれは不注意もしくは行き過ぎた寛容さ、あるいは著者に対する過度の信頼のために与えられたかも知れないからです。特に最後のケースは、ともすれば修道会において往々にしてあったことではないでしょうか。また、ちょうど同じ食べ物が誰の体質にも合うのではないのと同様に、ある書物が、ある場所では無害なのに、状況の相違のために他の場所では有害である、ということがあり得ます。ですから、ある司教が賢明な者たちの助言を得て、自らの司教区でこの種の著作のあるものを排斥するのが適当である、と判断したとすれば、私は彼がそのように行う充分な権能を与え、かつそのように行う義務を課します。これら一切のことは[状況に応じた]ふさわしい仕方で為されねばなりませんが、ある場合には、聖職者のみに対象を限定した禁止を出すことで事足りるでしょう。しかし、いずれにせよカトリックの書籍販売者には、司教によって排斥された書物を店頭に置かないようにする義務があります。そしてこの問題を扱うに当たって、私は司教らに、書籍商が利得への熱望に駆られて悪辣な商売に身を染めることのないよう注意することを望みます。一部の書籍商のカタログにおいて、近代主義の著作が往々にして、決して少なからぬ賞賛と共に広告されているということは、確かな事実です。彼らが従順を拒むならば、司教らはしかるべき勧告の後に、彼らからカトリック書籍商の称号を一切の会釈なく奪わなければなりません。このことは、より一層重大な理由のために、司教付き書籍商の称号を持つ者たちに当てはまります。もしも[近代主義をはらんだ書物を販売するところの]彼らが教皇庁付き書籍商の称号を有しているならば、彼らは使徒座へ告発されねばなりません。最後に、私は皆に前述の教皇令『オフィチオルム』の第26条を思い起こさせて、この章を閉じることにします。「禁止された書物を読み、かつ保管する教皇よりの権能を得ている者は誰であれ、このことにより、当該地区の管轄司教によって禁じられた書籍ならびに定期刊行物を読みかつ保管する権限を与えられているわけではありません。このようにすることが許されるのは、教皇より与えられた権能が、誰によって排斥された書物であれ、これを読み、保管する許可を明示的に与えている場合に限られます。」」

 IV.  検閲「悪書の読書と販売を妨げるだけでは充分ではありません。こうした書物が出版されるのを防がなければならないのです。それゆえ、司教らは出版許可を与える際には、最大の厳格さをもってなさなければなりません。教令『オフィチオルム』において定められた規則にしたがって、多くの出版物は管轄司教の認可を必要とし、また一部の司教区では、著作物の審査のための公式の検閲者を適当数置く───これは、司教がそれら全てを自ら逐一目を通すことができないからですが───ことがならわしとなっています。私はこのような検閲者の制度をきわめて高く評価しており、それゆえ私はこの制度が全ての司教区に広げられることを勧めるのみならず、命じます。したがって、全ての司教教区庁において、出版を意図した著作の検定のための検閲者を任命し、また、検閲者は在俗および修道者という聖職者の2つの身分から選ばれた、その年齢、知識、ならびに賢慮のゆえに、判定を下すに当たっては安全かつ至当な手段を採択するような者たちでなければなりません。出版の許可を必要とする一切の著作物を、先述の教令中の第41条ならびに第42条にしたがって検閲することが彼らの職務となります。検閲者は判定を文書のかたちで出します。もしその判定が肯定的なものであれば、司教は「印刷出版許可」という言葉で出版の許可を与えますが、これは必ず「無害証明」および検閲者の氏名の後に記されねばなりません。ローマ聖庁においては、他の司教区と同様に公式の検閲者が任命され、その選出はローマ司教総代理によって推挙され、教皇により承認され、受け容れられた上で、教皇宮廷付き神学顧問によって任命されなければなりません。また、個々の著作に対して検閲者を割り当てることも教皇宮廷付き神学顧問の職務となります。出版の許可は、この教皇宮廷付き神学顧問もしくはローマ司教総代理ないし教皇総代理枢機卿によって与えられることになりますが、これは先に述べたとおり、「無害証明」と検閲者の氏名との後に記されねばなりません。司教の賢明な決断に基づいて、きわめて稀で特別な場合にのみ、検閲者の氏名を省略することができます。検閲者の氏名は、彼が肯定的な判定を下すまでは、決して明かされてはなりませんが、それは、彼が著作物の検閲に当たっている間、また万一承認を出すのを手控えた場合に不都合を被らないためです。検閲者たちは、管区長、あるいはローマの場合、総長の[当の者たちに関する]私的な見解が得られた上でなければ修道会からは決して選出されてはならず、またこの際、管区長ないし総長は、当の候補者の人格、知識、ならびに[信仰・思想上の]正統性について誠実に述べなければなりません。私は諸修道会の総長に、彼らの管轄下にある修道会員が、彼ら自身および教区司教の許可なしにいかなる著作も刊行することを決して許さない、というきわめて厳粛な義務を忘れぬよう勧告します。最後に、検閲者の称号は、[それ自体として]何の価値もなく、また、それを与えられる者の私的な見解に信頼性をもたせるために利用されることは一切できないことを私は断言し、かつ宣言します。」

 編集者として働く司祭についての注意「以上のことを一般的に述べた上で、私は特に、先述の教令『オフィチオルム』の第42条がより注意深く遵守されることを命じ、定めます。すなわち、この条項では「在俗司祭が教区司教の事前の許可なしに新聞もしくは定期刊行物の編集に当たることは禁じられる」と、されています。この許可は、誰であれ、勧告を受けながらもあえてそれを濫用する司祭からは剥奪されなければなりません。定期刊行物の通信員ないし寄稿者である司祭については、彼らが近代主義に染まった記事を自分たちの新聞や定期刊行物に寄稿するということが往々にしてあるので、司教らは、彼らがこの点について過誤を犯さないように目を配る必要があります。そして、もしかかる事態が生じたならば、当の者に警告を発し、執筆を禁じなければなりません。私は同様に、諸々の修道会の総長にもこの同じ義務を果たすよう荘厳に命じ、そしてもし彼らがこの職務をよく果たさないならば、司教たちが教皇からの権威をもって適当な措置を講じなければなりません。また、それが可能である限り、カトリック者によって書かれた新聞ならびに定期刊行物を担当する特別の検閲者が任命されるようにして下さい。その職務は、刊行された新聞および定期刊行物の毎号に適宜目を通し、もし何か危険な要素を見つけたなら、これがすぐさま訂正されるよう命じることです。司教も同じ権限を有しますが、司教はこれを、検閲者がある出版物中に何ら問題を見出さなかった場合でも行使することができます。」

 V.  司祭会議「私は先に、会議や公の会合を、近代主義者たちが自分たちの見解を喧伝かつ擁護するために用いる手段の一つとして挙げました。今後、司教らは司祭たちによる会議conventus sacerdotumを非常に稀な場合を除いて許可してはなりません。もし司教たちがこれを許可する場合、司教たちもしくは使徒座に属する事柄がそこで取り扱われず、また神聖な権威の横領を暗に意味するような決議もしくは請願を出すことが許されず、さらに、近代主義や長老主義、あるいは俗化主義の気味のあることが全く何一つ発言されない、という条件でのみ、これを許すことができます。文書での許可が適宜、個々の場合に与えられた上でのみ開くことのできるこの種の会議においては、他の司教区の司祭が自分の属する教区の管轄司教の文書での許可なしに臨席することは法規上許されません。さらに、いかなる司祭もレオ13世の荘重な推奨の言葉を忘れてはなりません。「司祭たちは自らの牧者[である司教]の権威を、神聖なものとして捉えるようにしなければなりません。また司祭たちは、司祭としての役務がもし司教らの指導のもとに行われるのでなければ聖くも、甚だ実り豊かであることも、あるいは尊敬に値するものでもないことを確実なこととして見なさなければなりません。」」

 VI.  司教区ごとの「警戒協議会」の設置「しかし、尊敬する兄弟たちよ、こうした私の命令と規定のすべては、もしそれらが忠実かつ断固として実行に移されるのでなければ、一体何の役に立つでしょうか。そのためには、何年も前に、ウンブリアの司教たちが優れた知慮をもって彼らの教区民のために定めた規定を、全ての司教区に拡大して適用することが適当であると思われます。その規定とはすなわち、「すでに広められた誤謬を根絶し、また、それがさらに伝播してしまうのを防ぐため、さらにはこのような誤謬の伝播によるきわめて悪い影響を恒常化させている、不敬虔の教師らを取り除くため、この聖なる会議は聖カルロ・ボロメオの範に倣い、各司教区に協議会を設置することを決定しました。この協議会は、承認を受けた、聖職者の2つの区分からのメンバーによって構成され、その職務は、種々の誤謬ならびに新たな誤謬が紹介され、伝播される手段の存在を察知し、司教にそれら一切を報告することです。これを受けて司教は、彼らと協議をはかり、害悪をその端緒でくい止め、それが広まって人々の霊魂の堕落へとつながること、あるいはさらに悪いことに勢力を得て増大することを防ぐために最良の手段を模索するのです。」ですから、私は全ての司教区において「警戒協議会」とでも言うべきこの種の協議会が直ちに設立されることを命じます。この成員となる司祭らは、先に検閲者の選出について述べたのと同じような仕方で選ばれ、司教の立ち会いのもと、2か月ごと決められた日に会合することになります。同協議会のメンバーは、討議ならびに決定の内容に関して秘密を守る義務を課されますが、その職務には次のことが含まれます。すなわち、出版物および教育において見出される近代主義のあらゆる痕跡と印をきわめて入念に見張り、そして聖職者および若者をこれから守るために、あらゆる賢明かつ迅速で効果的な手段を用いることです。彼らがレオ13世の次の訓戒を思い起こして新奇な言葉遣いと闘いますように。「カトリックの出版物中に、信徒の敬虔な信心を嘲笑い、キリスト者の生活の新しいあり方の導入や教会の新たな方針、現代人の霊魂の新たな渇望、聖職者の新しい社会的召命、ならびに新しいキリスト教的文明、その他これに類した多くの事について述べ立てるように見受けられる、不健全な新思想に息吹かれた文体を認めることは到底できません。」ここで指摘されているような言葉遣いは、書籍においても講義においても許されてはなりません。当協議会はさまざまな所で保持されている敬虔な伝統、あるいは聖なる遺物を取り上げている書物を省みずにおくことはできません。当協議会はまた、信心を育むべき新聞または定期刊行物において、こうした事柄が嘲笑や軽蔑の念をにじませた表現で、あるいはあたかも教義であるかのように断定的な筆致で取り扱われることを許さないようにしなければなりません。後の点に関しては、確実な事実として述べられていることが、───しばしば見受けられるように───蓋然性の域を出ないか、あるいは先入観の混じった見解に基づいている場合、特に注意しなければなりません。聖遺物については、以下の規則に従わねばなりません。もしこの種の事柄における唯一の判定者である司教たちが、ある遺物が真正なものでないことを確実に了解したならば、即刻それを信徒の崇敬から遠ざけるように。また、もしある遺物の証明が国内情勢の混乱や、その他の事情により紛失してしまっている場合、司教がその真正さを確認するまでは、それを公の崇敬のために公開しないように。時効あるいは「充分な根拠のある想定」という議論は、ある聖遺物が、1896年に免償・聖遺物聖省から発布された以下の法令における意味での「古さ」のゆえに[それに対する信心が]推奨に値する場合にのみ、有効なものとなります。「古えの遺物は、個々のケースにおいて、それが偽造あるいは偽物である、ということを実証する明白な議論が存在するのでない限り、それが常に受けてきた崇敬を保持するべきである」からです。

敬虔な伝統について判断を下す際には、この事柄について教会は最大の賢慮を払っていること、さらに教会は、この種の伝統がきわめて慎重な注意をもって、またウルバノ8世教皇により義務として課された宣言文が挿入されるのでない限り、書物にて言及されないことを常に念頭に置かなければなりません。そして、この場合にも教会はそこで述べられている事実の真正さを保証するのではなく、ただ単に、人間的な意味での証拠に欠けていない事物を信じるのを禁じはしない、ということにとどまります。この問題について30年前、礼部聖省はに次のように規定しました。「これらの出現や啓示は聖座によって承認されたのでも排斥されたのでもなく、ただそれらが純粋に人間的な信仰によって、またそれら[自体]が語るところの伝統に基づき、信憑性のある証言ならびに文書記録によって裏打ちされた限りで、[人々によって]信じられることを許す、ということに過ぎません。」誰であれ、この規則に従う人は何も心配する必要がありません。何らかの出現に基づく信心については、それが事実自体に関する限り、すなわちその信心が相対的なものである限り、当の事実が真実のものである、という条件を常に含みます。他方、それが絶対的なものである限りにおいては、その対象となるものが崇敬されている聖人たちの人格であるという意味で、それは常に真実に基づいています。同じことが聖遺物に関しても言えます。最後に、私は諸々の警戒協議会に、たゆまず熱心に社会的組織ならびに社会的問題に関する著作を監査し、それらが近代主義の痕跡をいささかもとどめず、かえって歴代ローマ教皇の定めた規定に従うように取り計らう義務を託します。」

 VII.  3年ごとの申告制「私がこれまでに述べたことが忘却に付されてしまうことのないように、私は全ての司教区の司教たちが、当書簡発布の1年後およびそれ以降は3年ごとに、私のこの書簡中で定められた事柄、ならびに聖職者の間で、殊に神学校やその他のカトリック学校───教区司教の管轄下にないものも含めて───において流布している種々の教理について精勤で宣誓を伴った報告書を聖座に提出することを望み、かつ制定します。そして私は、同様の義務を諸修道会の総長に、彼らの下にある者たちに関して、附与します。」

 私はこれをもって上記の全てを確認し、これを聞こうとしない者たちの良心にこれを訴えます。私は、更に神学校での学生、そして修道院での修練者たちに関する特別な指示を付け加えます。

(中略)

 近代主義の密かな侵入の可能性を少しでも排除するために、私は、教授陣の選択に関して上のII.で述べたことが遵守されることを望むのみならず、更に私は毎年、新学年が始まる前に全ての教授がそれぞれ自分の使おうと望む教科書或いは自分の説明しようとする内容や命題を司教に提出しなければならないと命じます。そして、一年中その教える内容について監視されていなければなりません。万が一、彼の教えが健全な教えから離れるなら彼はすぐさま教授職から外されなければなりません。最後に、信仰宣言と共に、彼は自分の司教に、正しく署名して以下にある誓いを提出しなければなりません。

 司教は、以下に述べる者たちから、私の前任者ピオ4世によって規定された形式、そして第1バチカン公会議によって付け加えられた定義を付けた形式による信仰宣言と共に、この宣誓を受け取らなければなりません。

上級品級を受けようとする聖職者たち。…
告解を聞こうとする司祭、説教者たち、彼らにこれらの任務を許可する前に。
小教区の主任司祭、教会参事会員(Canon)、教会俸禄授与者、彼らがその栄誉を受ける前に。
司教事務局の職員、教会法廷の役員、司教代理、教会裁判長。
四旬節の説教者。
ローマ聖省、法廷の全ての事務役員は、それらの属する聖省或いは法廷の長官の目前で。
修道会の長上、教師たちが、その職務に就く前に。

信仰宣言と誓いを印刷した文書は司教事務局及び全てのローマ聖省の事務所の特別掲示板に掲げられなければなりません。もし敢えてこの誓いを犯す者がいたとしたら、このことを天主が禁じられますように、彼はすぐさま検邪聖省の法廷に告発されなければなりません。

近代主義の誤謬に反対する誓い IURISIURANDI FORMULA

 我 (某) は、教会の無謬の教権によりて定義、確認、宣言されし事を、就中今の時代の謬説に直に反対せる主要なる教義を、悉く、一つ残らず堅く信じ、受け入れん。

 先づ第一に、万物の原因且つ目的たる天主の存在は、結果より原因を知るが如く、理性の自然の光によりて「造られし物を通じ」(ローマ1・20参照)、即ち目に見ゆる被造物を通じ、確実に知り得る事、また故に証明可能たる事を、我は宣言す。

 第二に、啓示の外的論証、即ち天主がなし給いし御業、とりわけ奇蹟と預言とは、キリスト教が天主に由来せん事のいとも確実なる徴しと自認し承認す。またこの同じ外的論証が、全ての世と全ての人間の知性に、今の世と今の世の人間の知性と雖も之にいと相応しきものたる事を、我は堅く信ず。

 第三に、啓示されし御言葉の保護者かつ教師たる教会を、主が我らの内に住み給ひし時、真の歴史的キリスト御自身が、主御自ら直接に制定されし事、及びその同じ教会が使徒位階制度の頭たるペトロと、時の終りに至るまで全ての後継者らの上に建てられし事を、我は堅き信仰をもって信ず。

 第四に、使徒達より、正統信仰の教父達を通じ、常に同じ意味及び解釈に従いて我らに至るまで伝えられし信仰の教義を、我は誠実に受け入れん。故に、教義が、教会が初めに保持せしものとは異なり、一の意味より他の意味へと進化すると説く異端説を、我は拒否す。同じく、キリストの花嫁たる教会に任され、これによって忠実に守らるべき天主の信仰の遺産を、人間の努力により徐々に形作られ将来に亘る無限の発展によりて完成さるべきとする謬説を、我は全て排斥す。

 第五に、信仰が、心の欲求と意志の衝動との下で道徳的に未発達なる潜在意識の奥底より湧き出づる盲目的宗教感情にあらざる事、またかえって信仰とは聴覚を通じ外的に受けた真理に対する真なる知性の同意たる事、即ち我らの創造主且つ主たる位格的天主が曰い、証明し、啓示し給いし事を、最高の真理なる天主の権威の故に、我ら信じ奉る事を、我は最も確実に堅く信じ且つ誠実に宣言す。

 更に、回勅「パシェンディ」および教令「ラメンタビリ」に含まるる全ての、特に所謂教義の歴史に関する排斥、宣言、規定に対し、我は尊敬の心持て服従し、且つ我が魂全てをもって、之を厳守す。

 同じく、教会によりて提示されし信仰が歴史と矛盾し得ると主張する者達の誤謬、またカトリック教義が今日理解されし意味において、カトリックの宗教のより真正なる起源と調和し得ざる旨主張する者達の誤謬を、我は拒絶す。

 また、信仰者の信仰に矛盾せる事を奉ずる事、若しくは教義をあからさまに否定せぬ限りにおいては教義が誤りたるないしは疑わしきものたるとの結論を導くべき前提を打ち立てる事があたかも歴史家には許さるるが如く、教養あるキリスト教徒は信者と歴史家のの双方の人格を持てりと主張する者達の説を、我は排斥且つ拒絶す。

 同じく、教会の聖伝、信仰の類比、更には使徒座の規範を無視すると共に、理性主義者達の意見に従い、随意にまた大胆にも、原典批判をもってのみ唯一最高の規範とする聖書研究・解釈方法を、我は拒絶す。

 更には、先づカトリック聖伝の超自然的起源若しくは啓示されし真理を永久に保存せんが為天主の約束し給うた御助けに就いての先入観を捨てねばならぬとの説、また教父一人一人の著作は、その天主からの権威を打ち捨て、科学の諸原則のみに従い、通常世俗の文献を研究せん時に用うる判断の自由をもってこれを行うべきとの説を、我は排斥す。

 最後に、聖伝には神的なる点無しとの近代主義者達の謬説、或いは、より増して悪しき事には、聖伝に神的な点無しとの説を凡神論的意味において認め、共通の歴史事実に同化さるべき単なる純然たる事実、即ち人間がその働き、技能、才能によりキリスト及びキリストの使徒達によりて始められし学派を後世に継続したとの事実以外には何ものをも認めずとする説を主張する近代主義者達の謬説には、我は全く反対する事を宣言す。

 故に我は、使徒達に由来せし司教座の継承の内にあり、今もあり、また未来においても常にあり続くべき真理の確実なる徳能(カリスマ)に関する教父らの信仰を最も堅く守り、これを最後の息まで堅く守り抜かん。そは各時代の文化により良く似つかわしく見ゆる事が信ぜらるる為にあらず、むしろ初めより使徒達によりて説かれし不変の真理が、別様に信ぜられ或いは別様に理解さるる事決してあらざらんが為なり。

 上述の全ての事を、忠実、完全、誠実に守り、教えるに当たりてもその他の業においても、話す言葉にても書く言葉にても、決してこれより離るる事なき様守り通さん事を、我は約束す。かく我約束し奉り、かく我誓い奉れば、願わくは、天主と天主の聖なる福音我を助け給え。

« Ego... firmiter amplector ac recipio omnia et singula, quae ab inerranti Ecclesiae magisterio definita, adserta ac declarata sunt, praesertim ea doctrinae capita, quae huius temporis erroribus directo adversantur. Ac primum quidem Deum, rerum omnium principium et finem, naturali rationis lumine per ea quae facta sunt, hoc est per visibilia creationis opera, tamquam causam per effectus, certo cognosci, adeoque demonstrari etiam posse, profiteor. Secundo, externa revelationis argumenta, hoc est facta divina, in primisque miracula et prophetias admitto et agnosco tamquam signa certissima divinitus ortae christianae Religionis, eademque teneo aetatum omnium atque hominum, etiam huius temporis, intelligentiae esse maxime accommodata. Tertio: Firma pariter fide credo, Ecclesiam, verbi revelati custodem et magistram, per ipsum verum atque historicum Christum, quum apud nos degeret, proxime ac directo institutam, eandemque super Petrum, apostolicae hierarchiae principem eiusque in aevum successores aedificatam. Quarto: Fidei doctrinam ab Apostolis per orthodoxos Patres eodem sensu eademque semper sententia ad nos usque transmissam, sincere recipio; ideoque prorsus reiicio haereticum commentum evolutionis dogmatum, ab uno in alium sensum transeuntium, diversum ab eo, quem prius habuit Ecclesia; pariterque damno errorem omnem, quo, divino deposito, Christi Sponsae tradito ab Eâque fideliter custodiendo, sufficitur philosophicum inventum, vel creatio humanae conscientiae, hominum conatu sensim efformatae et in posterum indefinito progressu perficiendae. Quinto: certissime teneo ac sincere profiteor, Fidem non esse coecum sensum religionis e latebris sub conscientiae erumpentem, sub pressione cordis et inflexionis voluntatis moraliter informatae, sed verum assensum intellectus veritati extrinsecus acceptae ex auditu, quo nempe, quae a Deo personali, creatore ac domino nostro dicta, testata et revelata sunt, vera esse credimus, propter Dei auctoritatem summe veracis.

Me etiam, qua par est, reverentia, subiicio totoque animo adhaereo damnationibus, declarationibus, praescriptis omnibus, quae in Encyclicis litteris «Pascendi» et in Decreto «Lamentabili» continentur, praesertim circa eam quam historiam dogmatum vocant. — Idem reprobo errorem affirmandum, propositam ab Ecclesia fidem posse historiae repugnare, et catholica dogmata, quo sensu nunc intelliguntur, cum verioribus christianae religionis originibus componi non posse. - Damno quoque ac reiicio eorum sententiam, qui dicunt, christianum hominem eruditiorem induere personam duplicem, aliam credentis, aliam Ristorici, quasi Iiceret historico ea retinere quae credentis fidei contradicant, aut praemissas adstruere, ex quibus consequatur dogmata esse aut falsa aut dubia, modo haec directo non denegentur. — Reprobo pariter eam Scripturae Sanctae diiudicandae atque interpretandae rationem, quae, Ecclesiae traditione, analogia Fidei, et Apostolicae Sedis normis posthabitis, rationalistarum commentis inhaeret, et criticen textus velut unicam supremamque regulam, haud minus licenter quam temere amplectitur. — Sententiam praeterea illorum reiicio qui tenent, dottori disciplinae historicae theologicae tradendae, aut iis de rebus scribenti seponendam prius esse opinionem ante conceptam sive de supernaturali origine catholicae traditionis, sive de promissa divinitus ope ad perennem conservationem uniuscuiusque revelati veri; deinde scripta Patrum singulorum interpretanda solis scientiae principiis, sacra qualibet auctoritate seclusa, eâque iudicii libertate, qua profana quaevis monumenta solent investigari. — In universum denique me alienissimum ab errore profiteor, quo modernistae tenent in sacra traditione nihil inesse divini; aut, quod longe deterius, pantheistico sensu illud admittunt; ita ut nihil iam restet nisi nudum factum et simplex, communibus historiae factis aequandum; hominum nempe sua industria, solertia, ingenio scholam a Christo eiusque apostolis inchoatam per subsequentes aetates continuantium.

Proinde fidem Patrum firmissime retineo et ad extremum vitae spiritum retinebo, de charismate veritatis certo, quod est, fuit eritque semper in episcopatus ab Apostolis successione; non ut id teneatur quod melius et aptius videri possit secundum suam cuiusque aetatis culturam, sed ut nunquam aliter credatur, nunquam aliter intelligatur absoluta et immutabilis veritas ab initio per Apostolos praedicata.

«Haec omnia spondeo me fideliter, integre sincereque servaturum et inviolabiliter custoditurum, nusquam ab iis sive in docendo sive quomodolibet verbis scriptisque deflectendo. Sic spondeo, sic iuro, sic me Deus etc.».

(後略)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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