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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

受難の第1主日から教会は喪に服す。十字架の本質の深い理解。「キリストは、苦しみを受けて栄光に入るべきではなかったのか。」

2019年04月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年4月7日(主日)受難節第1主日のミサ
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会ようこそ。
今日は2019年4月7日、受難節第1主日のミサを行なっております。

今日この御ミサの直後に、御聖体降福式があります。月の最初の主日ですので、御聖体降福式があります。

それから、新しく生まれた赤ちゃんの洗礼式があります。皆さんもどうぞこの洗礼式に与って行って下さい。次のミサは、来週の主日、枝の主日、またここで10時半からあります。

それから4月は、主日のミサが3回あります。復活祭は大阪ですが、東京では3回あります。最後の主日に、第3回目に、サマーズ神父様が10時半からミサを、白衣の主日をなさって下さいます。どうぞいらして下さい。

秋田の巡礼も5月にありますので、皆さんの参加をお待ちしております。


「私の言葉を守る者は、永遠に死を味わないであろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、聖伝によると、受難の第1主日から教会は、喪に服します。母なる教会は私たちに、子供を教えるように、今からどういう事が起こるか、という事を目に見える形で教えようとします、「花婿が花嫁から取られる。イエズス・キリストの御受難が始まる」という事です。

そこで今日は、

⑴教会がどのようにして私たちに御受難を教えようとしているのか?教会が私たちに伝えようとしているメッセージは一体何なのか?

⑵次に、ではそのメッセージを聞いて、教会は私たちに、イエズス様は一体私たちに、何を期待しているのか?一体私たちは何をするように招かれているのだろうか?という事を黙想して、

⑶最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴教会は今日、喪に服す為に、ベールを被りました。紫のベールです。教会の十字架像、あるいは御影(ごえい)、あるいは御像などには、紫のベールがかかります。これはあたかも、イエズス様の御受難を前に、喪に服すかのようです。

そればかりではありません。教会は、もしかしたら聖歌を聞いて、「あれ?今日は入祭誦にあるグロリアも、栄唱も歌われなかった」という事にお気付きになられたかと思います。司祭も栄唱を唱えません。なぜかというと、教会と共に喪に服すからです。私たちの主の御受難と御死去を、今から黙想する時が来たからです。

しかし、では教会が私たちに伝えようとしているこの喪に服し方、このイエズス様の苦しみの意味というのは、一体何なのでしょうか?

贖いの死です。わたしたちを救おうと思われる死です。私たちに命を与える、私たちを天主の子供とする、天主の養子とする、天国の王子様とする、跡継ぎとする、その死です。

そこで、この十字架にカバーをかける、覆いをする、というのはまさに一致するのです。一般、普通一目、ちょっと見た見た目には、「あれ?イエズス様の御受難を黙想するには、イエズス様の御像があった方が良いのじゃないか?」と思うかもしれません。しかし教会は、十字架の神秘をあまりにも深く知りすぎてしまっています。私たちは表面しか知らないので、その事がちょっとした目には理解できずに、誤解してしまいます。

教会は何を知っていたかと言うと、十字架の本質を知っていました。「十字架こそが、私たちの勝利の元である、生命の元である、救いの元である、私たちが歩むべき王の道である、これ以外に私たちには救いがない、恵みの元がない、十字架にこそ光があって、十字架にこそ喜びがあって、十字架にこそ本当の幸せがある。」これが教会の深い理解です。

ですから十字架というのは、教会にとっては喜びであって、栄光であって、そしてイエズス様が私たちに残した最大の宝でもあります。教会はいつも十字架のその道行きの、究極を見ているからです。つまり「復活」と「イエズス様の栄光」。

ちょうど私たちは、エンマウスの旅人のようであるかのようです。イエズス様から教えられたにもかかわらず、よく分かっていない。しかしイエズス様は私たちに教えます、「キリストは、苦しみを受けて栄光に入るべきではなかったのか。」

ここにキリスト教の深い、難しい、ちょっと見には理解しがたい、しかし深い神秘があります。贖いの神秘です。アダムとエヴァが罪を犯して、その為に当然受けてしまった罰、苦しみ、死、屈辱、悲しみ、しかし天主の憐れみと全能は更に偉大であって、この罪の結果である苦しみや死さえをも、私たちに喜びと、幸せと、命を与える為の手段と変えて下さった。

そして今度は、「これを通してこそ、十字架を通してこそ、イエズス・キリストとの十字架を通してこそ、受難を通してこそ、復活に至る唯一の道である」と教えているからです。

ですから教会にとって十字架というのは、何と美しく、何と幸せで、何と神々しく、何と祝福に満ちたものであると映っている事でしょうか。ですから今日から、そのあまりにも栄光に輝く、あまりにも美しい十字架を少し隠して、そして喪に服そうとするわけです。


⑵第2に、ですから私たちは、一体何をする事が期待されているでしょうか?

十字架の神秘の中に深く入る事が期待されています。つまり「十字架の究極の目的を見る」という事です。“Per crucem ad lucem”「十字架を通して、光へ。」十字架を通して私たちは命へと、十字架の死を通して命へと至る、という事です。

この十字架は、イエズス・キリスト様の十字架を通してのみ、光に、命に至る事ができます。私たちはそのままでは命に至る事ができません。アダムとエヴァの罰の苦しみのまま残ります。それを聖化する道が、イエズス・キリスト様と共に担ぐ十字架です。

「もしも私の弟子になりたいのならば、自分を捨て、自分の十字架を担い、私に従え。」

イエズス様は私たちに、十字架を担って、御自分の元に従うように招いておられます。十字架の友となる事を招いておられます。天主の言葉を聞く事を、御言葉を聞く事を招いています。そうすれば私たちは、天主からのものとなります。

ここにカトリックとプロテスタントの違いがあります。

「私たちは、キリストの神秘体の十字架の欠けたところを、私たちが進んでイエズス様と共に捧げる」という事です。「イエズス様と共に苦しみ、栄光に入る」という事です。「イエズス様と共に罪に死に、この肉体を十字架に付けて、キリストと共に復活する」という事です。

ですから、私たちにとって十字架というのは、教会にとっての十字架と同じです。喜びと命と幸せの源です。ですから私たちは、この受難節の時に、十字架の玄義を深く味わう事に致しましょう。


⑶どうやって味わったら良いでしょうか?

イエズス様がどれほどの屈辱、侮辱、痛みを具体的に受けたか、という事を、一つ一つ黙想する事です。なぜかというと、その一つ一つは、私たちに大きな慰めと力を与えてくれるからです。なぜかというと、私たちが受ける十字架や苦しみは、イエズス様の受けた一つ一つに比べると、全く何でもなく、なんちゃって十字架しかないからです。もちろん私たち本人にとってはとても苦しいものですけれども、しかしイエズス様の天主の苦しみと比べると、あまりにも軽いので、私たちは「あぁ、どれほどのイエズス様は苦しみを捧げられたのか」という事を見て、力を受ける事ができます。

そしてそれと同時に、「イエズス様の栄光に与る事ができる」という慰めを受けるからです。「我にとりて生けるはキリストなり。」十字架のないキリストはいません。

私たちも、この十字架の神秘に深く入る事ができるように、マリア様に、悲しみのマリア様にお祈り致しましょう。マリア様はいつも十字架の足元で留まっておられました。その神秘を深く、一番深くよく分かっておられました。

「私の言葉を守る者は、永遠に死を味わないであろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

洗礼の水は、イエズスの愛の結晶。御受難の十字架の木の上に成る愛の木の実り。生ける水で洗い清め、御自分の体で養おうとする、十字架の苦しみの果実。

2019年04月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年4月6日(初土)四旬節第4主日の後の土曜日のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年4月6日、四旬節の第4主日の後の土曜日のミサをしています。

来週の金曜・土曜・日曜日もミサがあります。金曜・土曜はいつもの通り、主日は枝の主日で、午後の18時から。

今日は初土でもあります。本来ならば初土の信心をしていますけれども、私たちは今日は特別に、今度復活祭の時に洗礼を受けて、天主の子供となろうとしている4人の方々の為に、その洗礼の前の、復活際には洗礼の儀式があまり長くなりすぎないように、その前の重要な部分をあらかじめ今日、ミサの後にしておこうと思っています。ですから皆さんどうぞ、この4人の、お母さんと子供たちの為にお祈り下さい。

本来ならば今日は、アメリカの神学校で、ティシエ・ド・マルレ司教様によって叙階式が行なわれるはずでした。下級品級の叙階式が行なわれる予定でしたが、しかしティシエ・ド・マルレ司教様が感染、体力が弱っておられたせいか、何か非常に体が弱っておられて、そして手術を受けなければならなくなってしまったとの事です。そこで本来今日行なわれるべき叙階式は、後日に延期されたとの事です。司教様のご健康の為に、どうぞ皆さんお祈りなさって下さい。


“Sitientes venite ad aquas.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「渇く者よ、水の元にやって来なさい。」

入祭誦で、教会は私たちに、特に洗礼志願者の方々にこう呼びかけました。典礼学者は声をそろえて言います。そして今日聖歌隊の方がそのミサを歌うと聞いて、「あぁ、この歌詞を見ると、まさに洗礼の事が書かれてある。」まさにその通り、教会は復活祭の洗礼に備えて今日、洗礼志願者の為に最終の準備を行なおうとしています。

「真理に喉が渇く者、天主の正義に、義に飢え渇く者、聖徳に飢え渇く者、天主の御旨を果たそうと飢え渇く者、水の元にやって来なさい。私はお前たちを癒す。喉の渇きを潤せ。水の元にやって来なさい。」まさに洗礼志願者に対して、心から呼びかけるイエズス様の招きの声です。

この「水の元にやって来なさい」という、この「水」というのは、生ける水である、生ける水が滾々と湧き出る泉の元、「イエズス・キリスト」の事です。イエズス様は「生ける水」として、教会は私たちにイエズス様の姿をイメージとして表そうとしています。

そればかりか、イザヤの預言を使って、イエズス様が良き牧者であり、彼らを良い牧草地に導いて、水を与えるのみならず、豊かな、そして青々と茂った牧草地に導き、そして太陽の照りつける所からは木陰を準備し、羊の為に一生懸命心を尽くす、「良き牧者」としても表しています。私たちは決して、この牧者の元にいれば飢え渇く事がない、と知っています。

イエズス様はそれと同時に、良き牧者と同時に、イザヤの書の終わりの方には、「優しい母」として姿を見せています、私は母親の心を持って羊たちを、私たちを御覧になっています。これほどの優しい愛に満ちた母親の心があるでしょうか。預言者イザヤの口を使ってこう聞きます、「母親が、自分の産んだ子供を、乳飲み子を忘れる事があろうか。自分の子供の事を蔑ろにする事があるだろうか。たとえあったとしても、私はお前を決して忘れない。私の心は、母親の心よりもさらに母親の心だ。」

イエズス様は福音の中では、御自分の事を「世の光である」と言います。「私に従う者は、決して闇を歩まない。」

この「闇」というのは、罪の闇であり、悪の闇であり、嘘の闇であり、惑い、混乱の闇、真っ暗な闇です。

しかし、イエズス様の後に付く人は、このような暗闇を歩きません。光の中を、太陽に輝かされて、真理と、正義と、聖徳と、正しい道を歩きます。何が善で、何が悪かをよく分かって歩きます。

今日イエズス様は特に、洗礼志願者の方々を、そして私たちを招いて、「さぁ、水の元に、生ける水の元にやって来なさい。良き牧者の元にやって来なさい。世の光の元にやって来なさい。もう闇の中に入る必要はない。もう苦しんで喉が渇いている必要はない。もうお腹をペコペコにして苦しむ必要はない。私が養ってあげる。私はまさに、母よりも母である、愛の天主である」と呼びかけています。

ですから今日は、散らされた、南からも東からも北の色々な多くの民がイエズス様の元にやって来て、良き牧者の元に集まって、母であるイエズス様の元にやって来ている姿を見せます。

この洗礼の水、生ける水イエズス様が養って下さるその食べ物、私たちに下さる食べ物、これはイエズス様の愛の結晶です。どのような愛だったでしょうか?

これは、イエズス様の御受難の、十字架の木の上に成る愛の木の実りです。イエズス様は私たちを、この生ける水で洗い清め、養い、御自分の体で養おうとする、そのそれは、その後ろには、十字架の苦しみがありました。

ですから今日は、イエズス様の近くに行くと同時に、イエズス様が歩まれた、カルワリオの道に馳せ行く事に致しましょう。水の元に行く為に、生ける水が滾々と湧き出るその泉に近付く為に、その泉の元は、十字架のこの木の根っこにあるという事を、その根元に行きましょう。

喧騒が聞こえます。人々がざわめいています。私たちは今、2000年前のエルサレムにいます。

イエズス様が、罪の無いイエズス様が死刑を受けました。十字架の死刑を受けました。ポンシオ・ピラトが不正にも、イエズス様を「十字架に付けるように」と言いました。

道端に、道に、イエズス様の歩く道を探して、私たちはそこに駆け寄ります。

イエズス様の来る前に、多くの人々が、特にファリサイ人たちが、イエズス様の事を口汚く罵っています。知ったかぶりをしています。イエズス様の事を、嘘とでたらめで悪口を言っています。馬鹿にしています。イエズス様が言った事を半分本当、半分嘘で固めています。

その後に、イエズス様を苦しめるべきロープや、あるいは釘や、あるいは金槌や、その他色々な処刑の道具を持っている人々が歩いてきます。

その後で、他の盗賊と、そしてイエズス様が歩いてきます。

イエズス様の姿をご覧下さい。私たちを浄め、そして私たちを養う為に、イエズス様は全身血だらけで、重い十字架を担いながら、十字架の木を担いながら、歩いて来られます。その頭には、茨の冠を被せられています。全身、頭から足まで傷だらけです。健康な肌はひとつもありません。息はゼェゼェ、ハァハァ、喘ぎ喘ぎ、一生懸命歩いています。

イエズス様は何を考えているのでしょうか?

皆さんと、私の事を考えています。「霊魂を救う。皆さんをそして私を、愛している。この霊魂を天国まで導く。その為に、罪の償いを果たす。皆さんと私の代わりに、この重い十字架を担う。」

あっ!イエズス様はよろけて倒れました。重い十字架の木が、イエズス様の上にのしかかります。気絶をしているかのようです。誰も憐れもうとする人はいません。蹴飛ばしたり、ざわめいて笑ったり、悪口を言ったりしています。それを私たちは聞いています、「あぁ、かわいそうに、かわいそうに。」

しかし、イエズス様は気絶をしても、私たちの事を、皆さんと私の事を考えていました。「さぁ、早く起き上がって、カルワリオまで行く。」

横を見て下さい。マリア様が来ておられます。聖ヨハネも来ておられます。マリア様は目にうるうると涙を溜めながら、御子イエズス様の事を見ておられます。マリア様こそ、イエズス様が罪の無い、どれほど愛に満ちた方であるかをよく知っていたので、どれほどお苦しみになった事でしょうか。自分の子供がこんなに苦しめられているのを目の前に見る、血だらけの御子、馬鹿にされている御子をご覧になられるマリア様。

マリア様はこのような光景を見ない事もできたはずですが、共に苦しむ為に、ますますイエズス様の方に近寄ります。私たちもマリア様と共に、イエズス様に近付きます。

イエズス様は起き上がって、マリア様と出会います。今まで茨の冠が入って、目に入って、あるいは血だらけでよく見えなかった目ですが、目を凝らして、マリア様をじっとお見つめになります。どれほど、苦しむお母様マリア様を御覧になったイエズス様は、苦しまれた事でしょうか。

マリア様も、そのようなイエズス様を見て、どれほど心に痛い思いをされた事でしょうか、張り裂けるばかりだったでしょうか。マリア様は何も仰らずに、目に涙をたたえながら、イエズス様の後を歩まれます。

カルワリオの下で、イエズス様が服を剥ぎ取られたり、茨の冠を取られて、また押し付けられたりするのを見て、どれほど心が痛んだ事でしょうか。屈辱を受け、馬鹿にされ、ある事ない事言われ、他の人たちが何を言っているかをよく聞き見る事ができた、イエズス様とマリア様。

イエズス様が十字架の木の上に手を出して、差し出して、釘を刺し貫かされる、釘を打ち付けられる、その金槌の音を、ゴーン!ゴーン!という音を聞く時、イエズス様の御痛みを思ったマリア様は、どれほどお苦しみになった事でしょうか。

イエズス様も、御自分の痛みも増して、全身にビクビクと響く、神経を貫く、この電撃が走るような苦しみを超えて、マリア様の悲しい御姿を見たその時には、どれほど御苦しみになった事でしょうか。

イエズス様は十字架の上に立てられて、御自分を御受難の実として、私たちの為に与え尽くそうとします。御血潮は全て流され、後は数時間、そこの十字架の上で苦しみを、私たちの為に、皆さんと私の為に、御母と共に御捧げになります。

十字架を立てた後には、皆はイエズス様をほっぽらかして帰って行きます。でもマリア様は、そのまま留まります。マリア様と共にイエズス様の足元に、十字架の足元に留まりましょう。この十字架のこの木の根っこから、生ける水が滾々と、御恵みが滾々と湧き溢れてきます。

イエズス様が苦しむ、十字架の上で苦しんでおられるその御様子をご覧になるマリア様、そして苦しむお母様マリア様を、汚れなき御心を御覧になるイエズス様、どれほど心が張り裂ける思いだったでしょうか。イエズス様と共に苦しむマリア様。マリア様と共に苦しむイエズス様。

この二人の、第2のアダムと第2のエヴァによって、私たちに生ける水が、そして御聖体が与えられる事ができるようになります。

聖ヨハネ・クリゾストモによると、「カルワリオには2つの祭壇があった」と言います。「1つは『イエズス様の御体』の上、そしてもう1つは『マリア様の汚れなき御心』だった。」

今日、イエズス様とマリア様は、母の心で私たちを呼びかけています、「渇く者よ、聖徳に渇く者よ、天主の御旨に渇く者よ、真理に渇く者よ、本当の命と、本当の美しい事に渇く者よ、生ける水の元にやって来なさい。イエズス様の元にやって来なさい。」

“Sitientes venite ad aquas.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

イエズスは、聖なる天主、人となった創造主、罪の汚れが全く無い方であるにもかかわらず、なぜこれほど苦しまなければならなかったのか?

2019年04月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年4月5日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき聖心聖堂にようこそ。
今日は2019年4月5日、四旬節の第4主日の後の金曜日、4月の初金曜日のミサをしています。

このミサの後で、初金曜日ですので、御聖体を顕示した聖時間もあります。もしもできたらいらして下さい。今日は小さなお友達がたくさん来てくれて非常に嬉しく思います。

では今日は初金ですので、私たちは一緒に、イエズス様の聖心の信心を黙想する事に致しましょう。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、福音書の中で、初金曜日の時にはいつもこの言葉を読みます。

「イエズス様の所に兵士がやって来ると、死んだかどうかを確認する為に、十字架に付けられた所にやって来ると、もう既に死んでいたので、死期を早める為の脛は折らずに、しかし兵士が槍を持って心臓を開いた。するとすぐに、水と血が出てきた。」

イエズス様は確かに既に亡くなっておられた。しかしそれとその死を確認すると同時に、イエズス様の聖心が開いた。

イエズス様の聖心は、人類に対する、私たちに対する愛のシンボルです。この愛が一番よく分かる、それが、イエズス様の「御受難」です。

そこで特に教会は、このイエズス様の御受難を黙想する事を大切にしています。復活祭の前40日間、教会は断食をします。断食というのは、何も食べないのです。イエズス様も40日間、公生活を始める前に断食をしました。お祈りと断食をしました。それなので、復活祭の前の40日間、教会は私たちに「断食をするように」と言っています。

ですから、昔の人は1日に1回、パンをちょっと食べて、お水を飲んで、40日間、お腹が減っているのをずっと我慢していました。現代ではそれがあまりにも大変なので、必ずしも断食をしなくてもよくなっています。でもそれでも、断食をする日です。

40日間、一週間は7日あるので、6週間です。7×6=42。6週間の内の最初の4週間は、特にイエズス様のそういう断食やお祈りについて、「私たちは一体何の為に生まれてきたのか?何の為にこの世の中にいるのか?私たちは天国の為にいるのだ。私たちはお祈りしなければならない。私たちはただ動物や、猫や犬のようにただご飯を食べて、面白おかしく過ごしているだけではない。永遠の命の為に生きているのだ。超自然の命を生きているのだ。天国の為に今戦っているのだ」という事を、4週間の間黙想しますけれども、最後の2週間は、復活祭までの14日間は、「私たちの主がイエズス様が、どれほど御苦しみになったのか、という事を黙想するように」と言います。

ですから特別に、これは受難の季節、「受難節」と言われています。2週間。

そして、この何でイエズス様がそれほど苦しまれたのか、というのを黙想するのは、その理由があります。まずこのイエズス様の御受難というのは、キリスト教の最も深い神秘の一つで、理解するのが難しいからです。

なぜ理解するのが難しいかというと、イエズス様がそれほど高貴で天主様であるにもかかわらず、人となったこの世の創造主であるにもかかわらず、罪の汚れが全く無い方であるにもかかわらず、そんなに聖なる方であるにもかかわらず、愛に満ちた方であるにもかかわらず、なぜこれほど苦しまなければならなかったのか?なぜ?

これを、理解しなければなりません。ここに、キリスト教の一番深い核心があります。
何で、何でイエズス様は苦しまれたのでしょうか?

なぜかというと、3つの理由があります。

それは、「私たちの罪が赦される為」です。
私たちはどうしても、罪を、自分の力では罪を償う事ができないからです。いくら謝っても、いくら何をしても、人間同士であれば、「あぁ、いいよ」「ごめん」と言えば、もちろん償いができます。しかし相手は、その罪の相手が天主様なので、もう罪を償いきれないのです。その為に、イエズス様が罪の償いをしてくれました。

この「罪の償いをしてくれた」という事は私たちに、「罪がどれほど恐ろしいか」という事を教えてくれます。「どれほど苦しまれたか」という事を見れば分かります。

もう1つは、「どれほど天主が、この私たちを創って下さった創造主が、私たちを愛して下さっているか」という事を教えています。

そして最後に、この御受難は、「私たちがこの地上の事ではなくて、永遠の命の為に生きているのだ」という事を教えてくれます。

でもこの御受難の神秘があまりにも簡単には理解できないので、それが簡単に理解できるように、昔から「前兆」という鍵を持って、「こういう事が起こる」という事をあらかじめ予告しておいて、そして「そういう事が本当に起こるのだ」という事を知らせておきました。

例えば、カインとアベルという話があります。アダムとエヴァの最初の子供たちです。兄弟です。アベルというのは、罪が無くて殺害されます。それはイエズス様の前兆でした。イエズス様も、罪が無くて殺されるからです、兄弟によって。

あるいはアブラハムとイサアクという話があります。アブラハムはお父さんです、イサアクはその子供です。アブラハムはとても信心深い人でした。聖なる人でした。

アブラハムはある時、あまりにも聖なる方だったので、「ユダヤ人」という特別な民族を作るその創始者になりました、最初の人になりました。アブラハムはある時天主に言われました、「お前の子孫たちは、天の星々のようになるだろう。海の砂浜の、砂の粒よりももっと大きな子孫をお前は持つだろう。大きな民族になるだろう」と言われました。

そしてところが、それにもかかわらず、子供が無かったのです。お祈りをして、お祈りをして、お祈りをすると、アブラハムが100歳ぐらいになった時に、90歳ぐらいの奥さんからサラという人から、子供が生まれます。最初は「こんなに年を取ったのでもう、きっともう無理だ」と思ったくらいです。しかし子供が生まれました。その唯一の一人息子が、そのアブラハムの、「まさにこの子供が、この子から大きな民族が出る」と言われるその子供が、大きくなって、とても良い子になって、そしていつもお父さんの言う事を聞いている時に、ある時天主に、「この子供を、生贄にして屠れ」と言われた。

「屠る」というのは、生贄として動物をする事です、そして祭壇に捧げる時に「屠る」と言います。「お前の一番大切な子供を、生贄として屠れ。山に登って、生贄を捧げろ。」

「えっ、え?一体どうして!?」と私たちでしたらこう言うかもしれませんが、アブラハムは、「はい、分かりました。御旨のままになりますように。」

子供を連れて山に登ります。
「さぁ、この木を担いで行きなさい。これは祭壇だ。」
「あぁお父さん、今から何をするのですか?」
「山に、今から山に行って生贄を捧げるんだよ。」
「あぁ、はい分かりました。」
「じゃあこれを。」
「この木は何ですか?」
「この木は祭壇の為に作るのだ。」
「はい、担いで行きます。」

アブラハムがお父さんが、イサアクを頂上に、山の上に着くと縛ります。
「お父さん、木で祭壇を作って、生贄はどこにあるんですか?」
「生贄はお前だ。」
「はい。」

その上に乗せられて、「さぁ、」いざ、アブラハムは刀を持って、イサアク、子供を、一人っ子を屠ろうとする時に、天主が、「ストップ!生贄は、そこの藪にある。角がかかってある子ヤギを使いなさい。「あぁ、はい!」イサアクを降ろして、その子ヤギを生贄を捧げます。

これは、イエズス様が十字架を担いで、十字架の木を担いで、聖父の命令に従って、自分がいけにえになる、というその前兆でした。子ヤギの頭がかかって動けなくなったというのも、十字架の、茨の冠を被せられたというイエズス様の象りでした。イサアクはそのまま救われましたけれども、イエズス様はそのまま屠られました。

あるいはモーゼが、エジプトの元にいた、奴隷生活をしていたユダヤ民族をエジプトから解放した時があります。その時には子羊を屠って、夜中に食べて、そして紅海という紅い海というものを渡って行きます、逃げ出します。

そしてある時そのモーゼは、この癩病や病気の人たちがいるのを見て、その紅海を渡る時に海を真っ二つに分けて、壁のような水の中をユダヤ人たちが通ったその時に使った奇跡の杖を使って、それをそれに蛇を、青銅という特別の金属で蛇を作って、それを掲げると、それを見た人は癩病が治りました。何か不思議な話ですけれども、そういう事が起こりました。

なぜモーゼが「蛇」の青銅を杖に掲げる事によって癩病が治ったのでしょうか?蛇というのはサタンを表わす事によく使われているのに?何故 (?_?) 聖パウロはこう言います。「天主は罪を知らなかったお方を、私たちのために罪となされた。それは、私たちを、かれにおいて天主の正義とするためである。」(コリント後書5:21)

十字架に付けられたイエズス・キリストは、私たちのために「罪」となった(!)と。あたかも「蛇」であるかのようになって、上げられたのです。それは私たちをキリストにおいて、癩病(罪)を赦し、清くするためでした。

これも、イエズス様の前兆でした。イエズス様は復活祭の聖金曜日の時に、十字架に付けられた子羊です。イエズス様の流した真っ赤な血の海を私たちは通って、洗礼の水を通って、そして罪から解放されます。そして癩病のように、もう私たちの力では治癒ができないというものすごい病気でも、木に付けられた蛇を見たように、イエズス様を見る事によって、私たちは癒される、という前兆でした。

今こう言ったのは、ほんのちょっとした事ですけれども、そのような前兆がそれ以外にもたくさんあります。何時間も話しても話しても話し尽くせないほど、そのような旧約聖書の中にあったそれは全て、救い主の御受難をあらかじめ予告する出来事でした、そのようなものを通して私たちに、この深い神秘の中に入るように、「天主は人となって、私たちをあまりにも愛してるが為に、自ら苦しんで、そして私たちを罪から解放させるのだ。その為に人となって、十字架に付けられた」という事を教えています。「どれほど私たちを愛されているか」という事を知って下さい。

もしも辛い事があったり、悲しい事があったり、嫌な事があったら、イエズス様のこの十字架の事を思い出して下さい。友達から悪口を言われた、友達が、これやってと言ったのにやってくれなかった、友達から変な事をされた、殴られた、馬鹿にされた。

「あぁ、」イエズス様も、天主であったにもかかわらず、とても私たちをはるかに超えた高貴な方であったにもかかわらず、私たちの為に屈辱を受けて、嫌がらせをされて、そして暴力をされて、命さえも失ってしまいました。しかしそれをみな、私たちを愛するが為に受けてくれました。

ですから、小さなお友達も是非、イエズス様の為にお捧げして下さい。もしも「宿題をするのが嫌だなぁ」あるいは何か「良い事をするのが辛いなぁ」と思ったら、イエズス様の事を思い出して下さい。「あぁ、イエズス様はどれほど私たちを愛して下さって、私たちの為にイエズス様はどれほど辛い事も捧げて下さっているのか」という事を思い出して、「じゃあ、この辛い事も、イエズス様の為にしよう」と思って下さい。

特に、もしも友達ができて、何か「悪い事をしよう、一緒に悪い事をしよう」と言われたら、「ダメ」と言って下さい。なぜかというと、私たちが悪い事をすると、罪を犯すと、イエズス様はとても悲しむからです。心が張り裂けるほど悲しむからです。なぜかというと、私たちが赦されるように、罪から赦されるようにこれほどまで苦しんだにもかかわらず、それを馬鹿にして、それをあたかも何でもなかったかのように悪を、悪を返すと、イエズス様はとても悲しむからです。

では今日は金曜日で、初金曜日ですから、イエズス様の愛がますます分かるように、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様はイエズス様の心がよく分かっていました。イエズス様の辛い思いがよく分かりました。イエズス様の思いの一つ一つが、敏感に心で感じていました。私たちもマリア様のように、イエズス様の心を理解する事ができるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本:聖伝のミサ(ラテン語ミサ)の報告 ノートルダム大聖堂の火災と、ベネディクト十六世の「教会と性スキャンダル」の文書

2019年04月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖週間です。日本で聖伝のミサを捧げるお恵みを頂き、特に東京では枝の主日のミサを執行しました。

突然、パリのノートル・ダム大聖堂の火災で、信仰の貴重な記念碑であるパリの聖母大聖堂の天上や塔が焼け落ちてしまったことを知りました。市民たちが大聖堂の周りに集まり、跪いて、聖母マリア様に祈りや聖歌を歌っている動画を見て感動しました。Je vous salue, Marie, pleine de grâce ; le Seigneur est avec vous. ... Sainte Marie, priez pour nous pauvres pecheurs maintenant, et a l'heure de notre mort.



ノートルダム大聖堂には、聖ルイ九世が国家財産を果たして購入した茨の冠の聖遺物が保管してありました。消防隊の従隊司祭(チャプレン)であったジャン・マルク・フルニエ神父(Jean-Marc Fournier)が、大聖堂に駆けつけるや、命の危険を冒しても御聖体と茨の冠を救い出したそうです。今日の英雄として全世界で感謝されました。【実は、ジャン・マルク・フルニエ神父とはフラヴィニーの神学校で一年の間同級生でした。私たちの神学校を退学したところまでは知っていましたが、ニュースによると聖ペトロ会で司祭に叙階されしばらく聖ペトロ会の司祭だったとのことです。】命がけで私たちの主の聖遺物を守ったフルニエ神父様、ありがとうございます! それと同時に、命がけで聖伝のミサ(私たちの主イエズス・キリストの十字架の犠牲の再現)を守って私たちに伝えて下さったルフェーブル大司教様、ありがとうございます!

つい最近の、ニュースによれば、ベネディクト十六世引退教皇は「教会と性スキャンダル」についての記事を発表しました。三部に分かれていて、一部では、社会的文脈を提示しています。1960年から1980年にかけて社会的な規範が崩壊し、新しい規律を作ろうとしていた歴史的背景が取り上げられます。
第二部では、この状況の下で司祭養成がどのような影響を受けたのかについて議論します。
第三部では、教会の答えを提案します。特に、「天主不在の社会」により、「目的不在の社会」「意味不在の社会」「規範不在の社会」になってしまったこと、真理ではなく、権力だけが自己主張をする社会になってしまったことを指摘します。そこで天主の現存を取り戻さなければなりません。
ベネディクト十六世は、現在、教会で御聖体があまりにも粗末に不敬に取り扱われていることを歎きます。御聖体という賜物を乱用から守るために全力を尽くさなければならない、私たちの主の苦しみと犠牲の偉大さを私たち皆が理解するように祈り求めなければならない、と訴えます。100年前、ロマノ・グアルディニは「教会は霊魂たちにおいて覚醒させている」と希望の言葉を述べたが、それから100年後の今、私たちはこう言う誘惑に襲われている:「教会は霊魂たちにおいて死につつある」と。教会は政治団体ではない。教会は、証し人(殉教者)の教会とならなければならない、と言われます。

教会の危機は、御聖体に対する崇敬と礼拝と、聖母への祈りによってのみ克服することが出来ます。会議によって解決は出来ません。それがベネディクト十六世のおっしゃりたかったことだと受け取りました。

では、愛する兄弟姉妹の皆様にレポートをご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミサの報告をお送り致します。

4月12日(御受難の週の金曜日) 聖母の七つの御悲しみのミサには11人、
4月13日 御受難の週の土曜日のミサには14人、
4月14日 枝の主日のミサには17人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

ご復活祭の準備がクライマックスになってきたので、神父様がいつもにも増してイエズス様の御受難に深く入っておられるようにお説教をお聞きして感じました。

金曜日のマリア様の御悲しみのミサのお説教の中で、十字架のもとにたたずみ給うマリア様の黙想がとても心に残り、寝床に入ってもそれを考えると中々眠れなくなりました。私もイエズス様の十字架の元に御ミサを通して参与していることを考え、今までは十字架の元にいても弱音を吐いて下を見て座りこんでいたけれども、これからはマリア様にしがみついて立っていることが出来るようになりたいと思いました。

枝の主日にはワリエ神父様が韓国からいらして下さり、枝の祝別とミサが滞りなく行われました。
東京のように外へでて信徒皆での行列は出来ませんでしたが、前日に小野田神父様がブログに載せて下さった枝の主日の黙想をひとつひとつ追いながらミサに与りました。飛行機のご都合で休む暇もなくとんぼ返りで日本を発たれたワリエ神父様と、いつものように大きな犠牲を払って日本へ来て下さる小野田神父様に、四旬節の特別割り増しの御恵みがありますように!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 27人(内、子供5人)
女: 32人(内、子供5人)
計: 59人(内、子供10人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ! 

枝の主日のミサを報告させていただきます。
枝の主日には、オリベト山が象徴された二階の会場で枝の祝別と枝の配布が行われました。
聖歌隊が歌われるなか、私たち信者は一人ひとり跪き、祝別された棕櫚の枝を神父様の手から受け取りました。二階の会場は枝を手にもつ子供たちと信者たちでいっぱいになりました。
続いて一同で外に出て、赤い祭服を纏われた司祭と十字架などを掲げ持つ侍者たちを先頭に聖歌隊が続き、ホザンナの歌とともに棕櫚の枝を手にみんなで町内の一角の道を行進いたしました。栄光と賛美を誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ!
このあたりのすぐそばにも日本の殉教者が葬られているという由緒ある土地を行進しながら、先祖のキリシタンの信仰と殉教を思い十字架に従おうと思いました。そして教会の前に到着して、天の門を再び開いてくださったキリストの勝利を思いました。(ここでは復活があらかじめ告げられた場面だったのですね。)聖歌隊の歌う声が最後まで聞こえないほど行列は長く続きました。

続くミサの中、いつもの聖福音書は司祭と聖歌隊とにより歌われました。とても長い福音書でした。最後のほうでは特に司祭によって歌われる悲しみの歌声を聞きながら、今年も胸がジーンといたしました。ありがとうございました。

主の御受難が歌われるなか、最後までキリストにつき従うことができますようにと思いました。それから「おのれを卑うして従い給うた主であるキリストの御前に膝をかがめて天主の光栄を崇め奉り」ました。本当に主の御謙遜と従順に最後まで倣うことができますようにと思います。ご聖体拝領では紫のおおいで隠された十字架を前に、今は隠されている主の栄光と力が確かに感じられました。

今年はこの日も含めて4回ほども公教要理に時間にイエズス様の御受難についてとマリア様の七つの御悲しみについてお話しいただきました。ありがとうございました。

ミサで歌われていた御受難の場面は御苦難を受けられた様子が描かれた場面です。裏切られ屈辱を受け嘲られ暴行を受け、ただされるがままになっているかのようなイエズス様。一度は王であるイエズス様につき従って行列した民も、最後にイエズス様などいらない死刑にしてしまえと叫んでしまう。イエズス様は、無理やりみんなから殺されて死に給うたと思っていたのですが、今年はお話を伺いながら黙想してきたおかげで、そうではなかったと思いました。イエズス様はご自分の力でもって御父が定められたとおりに御死去された(死なれた)のだということがしっかり理解できたように思います。

誰も自分で死ぬとき死ぬ場所死に方そのときの自然現象などを決めることなどできないのに、イエズス様はすべてあらかじめ預言されていたままのとおりにすべてそういったことを正確にクリアして(成し遂げられて)その御霊を御父にお返しになられたのですね。そういったことは人間にはできないことで、この出来事からイエズス様はやはり天主であったと知りました。

その十字架のもと苦しみと悲しみのなかで聖母マリア様は、イエズス様が御父の仕事をするためにエルサレムの訪問していたことを告げた21年前の出来事を思い起こしていたかもしれないということ、そしてイエズス様にまた三日後に再びお会いできるという希望もお持ちになられていたかもしれないこと、そういうことをこの日の公教要理を教わり黙想しています。
「私が御父の仕事をしているということがわからなかったのですか」、ああ、まことにイエズス様の御受難は、御父によって託された私たちの霊魂を買い戻すための代償の尊い御苦しみの御業だったのですね。

聖週間の間も、主の御受難を思いながら、静かに祈りながら過ごしたいと思います。
小野田神父様、枝の主日のミサをありがとうございました。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

枝の主日の前日ですが「枝の主日の枝って何の木の枝なの?」と家族から聞かれました。「棕櫚(しゅろ)とか橄欖(かんらん)という木の枝のようですよ」と答えました。「オリーブの木なのかな?あの鳩がくわえてきたのも、オリーブの枝だったね?」といわれました。

蘇鉄の葉が使われることが多いようですが、私たちは時に(今年も)棕櫚の葉を祝別していただいています。でも、橄欖の木というのはオリーブの木のようだったし橄欖山とかオリベト山とは、オリーブと関係のある名前なのだろうかと思ったりしました。
そして、ふと、鳩がくわえてきた枝というのは、ノアの時代に、水が引いて土地が固まり、その地に木が生えて住めるようになったことを示すものだったことを思い出しました。

それで確かに、この日の祝別された枝を、自分の部屋に一年飾るということは、私たちの救いの地である天国をもうイエズス様が用意してくださっていることを思い起こすためでもあるのかもしれないと、想像しました。イエズス様が御受難によって天国の用意をしてくださったことを、この日の枝を見て思いました。

すると、昨日の枝の主日のミサは、ノアの箱舟であるカトリック教会が2000年もの間守り続けてきている救いのための舟かもしれない、しっかりと水が浸み込まないように荒波にも壊れないよう頑丈に築き上げたノアの箱舟は、この聖なる聖伝のミサを守り続けているカトリック教会だと感じられました。

たとえ、ノブス・オルドミサによって攻撃を受け教会から消されようとしたにも関わらずしっかりと守られ残されている聖伝のミサ!今も世界中で確かに捧げられるこの聖なるピオ5世教皇によって聖別された聖伝のミサ!これこそ、この世の精神という水が決して浸み込んでくることのないように守ってくれるもの、いざこの世の大洪水の大水が引いたときに乾いて固まった土地(天国)に私たちを運んでくれる舟そのものと思いました。(この世の精神が浸み込んでくるように替えられてしまっては、そんな舟は途中で沈んでしまって、土地が乾くまで持たないかもしれないと思いました。)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

枝の主日のミサでは、たくさんの信者さんと枝の行列とミサ聖祭にあずかることができました。大勢でこの日、枝をいただきイエズス様の栄光を讃えて讃美しながら行列を出来たことを感謝いたします。素晴らしく荘厳に主日を過ごすことができました。ありがとうございます。
(いつもいらっしゃる信者さんがお誘いくださったと聞きましたが)新しく来てくださった信者さんも、「とてもよかった。小さい時のミサを思い出す、やっぱりこれが本当のミサだな」とお話されたことを伺って、うれしかったです。

それで思い出したのですが、10歳ほどのお子さんが初めてこの聖伝のミサに与られたとき、こっちが本当のミサだよねと親御さんに話されたのだそうです。きっと、小さい子供の純粋な心は本物を見抜く感受性があるのでしょう。小さい子供のようでいなさいと言われたイエズス様の言葉を思いだします。そういえば、友人も小さいころに通っていた教会の感じが忘れられなくて、この聖ピオ十世会のミサはそれとおんなじ雰囲気のままなので、こちらのミサにしか来る気持ちにならないとよくおはなしされていらっしゃいます。

小さい時にこのミサに与った方がこの世の喧騒から解き放たれて幼心(おさなごころ)をとり戻されたら、そして近くにこのミサがあることを知ったらきっとこちらに与りたいと思われる方が多いだろうなあと想像します。この昔からの聖伝のミサに与ったという記憶は、日本ではせいぜい今現在で60歳前後の世代までの方にしか残っていないかもしれません。そんな幼い時にこのミサに与った方々がどうか幼心(おさなごころ)を思い出してくださいますようにとお祈りいたします。

日本でこの聖伝のミサが捧げ続けられる限り、この聖伝のミサがよいものだと感じる人が必ず増えると思います。いま日本にいる子どもたちも純粋な心をもっていますから。日本はマリア様に奉献された国ですので、マリア様がきっと助けてくださるでしょうから、もっとロザリオをしっかりと祈りたいと思います。秋田巡礼でも、お祈りいたします。小野田神父様、これからも日本での聖伝のミサを、どうぞよろしくお願いいたします。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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