ドモルネ神父様による御公現の祝日の説教
はじめに
この何日か、私たちは御公現の祝日を祝っています。教皇ピオ十一世が王たるキリストの祝日を制定しようと望んだとき、私たちの主イエズスの王権の祝日が典礼年にすでに存在していること、すなわち御公現の祝日があるとして異議を唱える人々がいました。それにもかかわらず、いくつかの正当な理由により、教皇ピオ十一世は、10月の最後の主日に王たるキリストの祝日を追加しましたが、御公現の日がすべての国の王たる私たちの主イエズスの祝日であることは本当です。
私たちの主イエズスの王権
私たちの主イエズスが本当に人類の王であり、その称号によるすべての特権をお持ちの理由を、皆さんはおそらくすでにご存じでしょう。その理由を少し思い出させてください。
私たちの主イエズスが王であるのは、御母である童貞聖マリアと養父である聖ヨゼフを通じてダヴィド王の王家の血を引いておられるからです。ダヴィド王とソロモン王は世界で最も偉大な王のうちに数えられますから、私たちの主イエズスは、その子孫の一人として、高位の王家の血を引いておられるのです。しかし、この王権の称号はユダヤ民族に限定されています。
私たちの主イエズスが全人類の王である理由は、人類よりはるかにまさっておられるからです。実際、主はその肉体およびすべての肉体的資質において完全であり、その霊とすべての能力において完全であり、その人間の霊魂とすべての恩寵と徳において完全です。主は、すべての尊敬と愛と賞賛に値する最も偉大な人間であるという意味で、「王」なのです。
しかし、それ以上に、イエズスは、人間を含む全世界とその中にあるすべてのものの創造主である天主ご自身ですから、人類の王なのです。主は、人間を、個々の被造物としてだけでなく、社会(家族、部族、国家、会社…)の中で生きる必要のある被造物としても創造されたのです。その目的は、存在して完徳に到るためです。ですから、イエズスは、個人としてのすべての人間およびすべての人間社会の創造主にして主人、王なのであり、大きな者も小さな者も、ありとあらゆる人間も、ありとあらゆる人間社会も、主を礼拝し、主に仕え、主に服従する義務を負っているのです。
最後に、私たちの主イエズスが人類の王である理由は、すべての人間が悪魔の力の中に落ち込んでしまった一方で、主は天主に選ばれて人間を贖い、十字架上のいけにえによって実際にそれをしてくださったからです。イエズスは、最初の人から最後の人までの人類のすべての罪を償って、どんな人でも、どんな罪でも、天主の赦しと永遠の救いを得ることができるようにしてくださいました。イエズスが私たちを贖ってくださったので、当然の権利として私たちはイエズスの所有物となっているのです。「あなたたちが贖われたのは、朽ちるものによってではなく、キリストの尊い血によってでした」(ペトロ前書1章18節)。「私たちはもはや自分の所有物ではありません。キリストが大きな代価を払って私たちを買い取ってくださったのです」(コリント前書6章20節)、「私たちの体そのものがキリストの肢体です」(コリント前書6章15節)。
三人の王は、私たちの揺りかごにおいて、通常はアジア人、ヨーロッパ人、アフリカ人を表していますが、彼らは、すべての国々がイエズスのもとに来て、イエズスの前にひれ伏して礼拝し、イエズスの至高にして絶対的な王権を認めることを表しています。王たちとともに、この御公現の期節に、私たちはイエズスへの完全かつ決定的な忠誠を更新しましょう。
今日の国々のルチフェル的な罪
キリストの前で礼拝するこれら三人の王を黙想しながら、今日の国々がキリストを自分たちの王として認めることを拒否し、さらに悪いことには、公然かつ愚かにもキリストと戦っているということを、私たちは悲しく、また恐ろしくさえ感じて、思い起こすことができません。
私は「悲しい」と言います。なぜなら、このような態度は、限りなく深刻な不正義であり、天主に対する忘恩の念を明らかにしているからです。
私は「愚かである」と言います。なぜなら、次の福音書の言葉があるからです。「ある貴族は、自分のために国を得て帰るために、遠い国に行った…が、その市民は彼を憎んでいたので、彼の後に使節団を送ってきて、『この男に自分たちを治めさせない』と言った…」(ルカ19章12節)。世界のどの国がキリストのことを知らないのでしょうか。王たるキリストの権利を公言し、それを実行している国があるでしょうか。バチカンでさえもそうではありません…。そして、ですから、どの国が、主の前で殺されるという私たちの主の警告を気にしないでしょうか。私たちは、フリーメーソンが悪魔の導きの下で、【黙示録の】騎士の乗った馬のようによく活動してきたと言わなければなりません。
キリストを無視したり、否定したりするすべての国々は、天主の第一戒に反する非常に重大な罪を犯しています。ですから、その罪によって、悪魔はこれらの国々をさらに強力に支配し、ますます大きな混乱と不幸と破壊を引き起こすことができるのです。
私たちの宗教や政治行政の指導者たちのこの罪は、私たち一人一人に個人的に影響を与えています。実際、私たちは泡の中に住んでいるのではなく、世界の他の地域から孤立しているのでもなく、何もないところから生まれてきたのでもありません。そうではなく、私たちは宗教的・行政的社会の一員です。ですから、たとえ王たるキリストを否定している私たちの指導者の罪を認めないとしても、これらの社会の一員として、私たちは天主とキリストに与えられた不名誉を共有させられ、そのような行為の結果を少なくとも物質的には負わされるのです。ソドムとゴモラに住んでいたロトに何が起こったかを思い出してみてください。彼は、自分の周りの人々の罪をまったく容認しませんでしたが、それらの町を破壊した火で自分の家や家財を失うのを負わされたのです。
ですから、私たちは次のように言うことはできません。「私たちの指導者たちの不敬虔さや、そのような不敬虔さを助長する宗教の自由の教えについて、私は気にしませんし、私が考える問題でもありません。これらすべての悪しき人々がしたいのなら、彼らが望み、天主によって罰せられることをすべてさせましょう」といったことなどです。もし私たちが主を愛するなら、私たちの指導者の罪が私たちに影響を与えるということを理解するなら、私たちの指導者の不敬虔は「私たちの」問題なのです。本当にそうです。
償い
では、私たちには何ができるでしょうか。祝されし御母マリアが何度も何度も私たちにおっしゃってきたこと、つまり償いです。そのような不敬によって聖三位一体に与えられた不名誉を償うことです。しかし、どのようにして償うのでしょうか。私たちが自分を捨てるなら、それは可能になるでしょう。私たちの最高の犠牲と祈りと苦行はとても限られた価値しかなく、通常はとても不完全なものです。しかし、私たちはあわれみ深い天主によって、償うための適切な手段を与えられています。それは、私たちの主イエズス・キリストご自身です。
皆さんは、三人の王がキリストに黄金、乳香、没薬を献上したことを覚えているでしょうし、大聖グレゴリオが教えたこれらの贈り物の霊的な意味も知っているでしょう。王たちは、イエズスの王権を認めるために黄金を、イエズスの神性を認めるために乳香を、イエズスの人性を認めるために没薬を献上したのです。
しかし、イエズスは天主から人間への賜物、私たちの手で三位一体に捧げるにふさわしい黄金、乳香、没薬となった賜物であると、逆に考えることもできます。イエズスは私たちの黄金です。イエズスはまことの天主にしてまことの人間であり、無限の価値をお持ちです。イエズスは私たちの乳香です。主の祈りは聖三位一体に対してとても甘い香りがあり、天主に完全な礼拝と讃美と感謝を捧げて、赦しおよび助力の恩寵を得ることができます。イエズスは私たちの没薬です。イエズスのご受難と十字架上の死は、世のすべての罪を償う天主への愛の行い、祈りだったのです。
それゆえに、自分の罪、家族の罪、国の罪、教会の指導者の罪を真理で償うことは、私たちの主イエズス・キリストという捧げ物によって可能になりました。私たちがそのようにするとき、私たちは、キリストがご自身の功徳によって得られたものを、自分と他人に具体的に適用するのです。ファチマの天使が三人の子どもたちに教えたことを見てください。「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、われ御身を深く礼拝し奉る。世界中のご聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、ご霊魂、ご神性を、[イエズス・キリストご自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を]償うために御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、[あわれな罪びとの回心を]御身に願い奉る」。
これは倣うべき模範です。鍵カッコ内の部分を状況に応じて調整すれば、罪を償うため、悪魔の手を追い払うため、私たちの国に降りかかろうとしている天罰をかわすための、単純ながら最も効果的な方法になります。単純ですが…しかし、真摯な、悔い改めの、愛に満ちた心をもって行う必要があります。
ある祈りの方法
最後に、ある祈りの方法について述べておきましょう。それは、短機関銃を使用するようなものです。銃を取り、弾丸を弾倉にセットし、弾倉を銃に装填し、弾丸が尽きるまで引き金を引きます。それに例えてみます。銃を取ります。罪を償い、悪魔が手を出そうとするときに悪魔を追い払うという意向を持ちます。弾丸を弾倉にセットします。上記で説明したように、聖三位一体への償いの祈りを真摯な心で捧げます。銃に弾倉を装填します。日中は「アーメン」と言うたびに、この祈りを更新する意向を明確にします(これを「仮想的な【バーチャルな】意向」と呼びます)。引き金を引いて、弾丸が尽きるまで撃ちます。「アーメン」がもはや祈りではなく、精神と心が消え去って無意味な言葉になってしまったと感じるまで、日中何度でも「アーメン」を祈ります。その後、銃に弾丸を再装填する必要があります。すなわち、注意深さと真摯さと愛をもって、償いの祈りをもう一度はっきりと祈る必要があります。そして続けます。
適切に行われる場合、この祈りの方法の効果のほどをさらに高める必要はありません。そのような「短機関銃」は、悪魔の陣営にどれほどの大虐殺を引き起こすことができるでしょうか。
結論
1月1日は月の初金曜日でした。偶然に起こることは何もありません。ですから、今年はイエズスの至聖なる聖心と一致して、罪の償いを捧げることに熱心に取り組むべきだというのが、御摂理的なしるしではないでしょうか。