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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き3)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年04月15日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き3)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


 二、黙想は、内的生活の、したがって、使徒職の必要欠くべからざる要素である(2/3)

(Ⅲ) どのように黙想しなければならないか 

 黙想の定義と目的を実現するために、わたしは次のような論理的歩みをたどろう。
 わたしは、自分の理性――わけても、自分の信仰と自分の心を、聖主のみまえにおこう。
 聖主は、一つの真理、もしくは一つの善徳を、わたしに教えようとしておられる。
 わたしがいま、いだいている理想に、霊魂がうまく順応するように、とわたしは烈しく望む。
 わたしの心のなかには、この理想からあまりにかけはなれたこれこれの欠点、いや、この理想に反しているこれこれの悪習がある。これを見て、心からなげく。
理想の達成の途上に、これこれの障害がよこたわっている。
 これを粉砕しようと、固く決心する。
 しかし、自分の力では、どうにもできない。それを確信して、理想の達成にどうしても必要な恩寵を、熱心に聖主にこい求める。
 道中で疲れあぐみ、息たえだえになっている、あわれな巡礼の姿――
 これが、わたしだ。
 渇きをいやす水を、しきりに求めている。
 その水を、ついに見いだす。
 Video「わたしは、見る」――わたしは、泉をみつけたのである。
 Sitio「わたしは、渇く」――こんこんと湧きでる、清澄な岩清水!この水こそは、わたしに、巡礼の道をつづけさせてくれるのだ。わたしは、この澄みきった水をながめればながめるほど、ますます渇きをいやしたい望みが烈しくなる。そこにいくためには、まだ多くの障害があるにかかわらず……。
 Volo「わたしは、望む」――どんなぎせいを払っても、わたしはこの救いの泉に、到着しなければならぬ。一生懸命に、そこに到着しようと努力する。ああ、しかし、わたしは自分の無能を痛感する。
 Volo tecum「わたしは、あなたと共に望む」――一人の案内者が現われる。わたしを助けてくれるために、わたしからはただ切ない嘆願のさけびしか、要求しない。かれは、わたしを抱きかかえて、けわしい道、いばらの道さえも通りすぎる。かれのおかげで、まもなく、わたしは泉に到着し、心ゆくまで飲んで、たましいの渇きをいやすことができる。イエズスの聖心からほとばしりでる、恩寵の生ける水を飲んで……。
 夕方の信心読書こそは、わたしにとって、内的生活の貴重な要素であって、これが翌日の黙想への食欲を、はげしく刺激してくれる。
 寝につくまえに、翌日の黙想の題目を、あらまし心に思い浮かべる。
 それも、いいかげんでにではなく、はっきりと、そしてまじめに。
 題目ばかりではない、この黙想から、どんな成果をおさめようか、それも考える。
 そして、翌日の黙想を、よく利用したい、という望みを、はげしく起こす。
 黙想の時刻が、きた。
 地上の事物から、離脱することに、精をだす。
 黙想しようとする一つの場面を、生き生きと、手にとるように現出するために、想像力をしずかに駆使する。それによって、仕事や雑念から、考えを引き離す。場面の現出は、手っとり早く、大ざっぱでもよいが、まざまざと、あたかも眼前にうちながめるように、精彩を放っていなければならぬ。そして、わたしの魂をとらえ、わたしを天主のみまえにぬかずかせるほど、強い迫力をもっていなければならぬ。その活動のいっさいが愛である天主は、わたしの魂をつつみ、わたしの魂を浸透しようとしておいでになる。
 このようにして、わたしは、話あいての天主と、心おきなく語ることができるのだ。――永遠にお生きになるおん者と。永遠に拝むべき、永遠に愛すべきおん者と。
 すぐに、わたしは、深く天主を礼拝する。自然にそうせざるをえない。心は、天主のみまえに、消えいるばかり。おかした罪の思い出に、たましいは痛悔する。自分は、天主に絶対に依存するものだ、ということを、心から認める。そして、天主に、そう告白する。
 謙遜で、信頼にみちた祈りが、心にも、くちびるにも、上ぼる。
 天主との語らいが、祝福にみたされてあるためには、こういう要領を心得ていなければならない。

  VIDEO「わたしは見る」
 ああ、イエズスよ、わたしはあなたの、生き生きとした現存の意識にとらえられ、そしてこれによって、純然たる自然界のもろもろの、現象の圧制からおのれを解放し、“信仰”の言葉を用いて、あなたとの語らいなるこの黙想を、始めさせていただきます。信仰の言葉こそは、理性のあらゆる理屈にもまさって、あなたとお話をするのに、いっそうりっぱな効果があるからです。
 この目的をめざして、わたしは黙想の諸点を注意してよみ、かつ記憶に思い浮かべます。それを集約し、その上にわたしの注意の焦点をしぼります。
 ああ、イエズスよ、この真理を、わたしに語り、わたしに教えてくださるお方は、あなたです。あなたが、わたしにお示しになることは、絶対に確実な真理として、わたしは信じます。それは、あなたの天主的信用性に基づいているからです。この信仰を、ますます新たにし、ますますふやしていこうと、わたしは思うのです。
 されば、わが霊魂よ、たえまなくくり返して、「わたしは、この真理を信じます」というがよい。いっそう大きな力をもって、それをくり返すがよい。あたかも学生が、その課業をくり返し、くり返し復習するように、おまえもしばしば、くり返していうがよい。――わたしは、この教義を信じる。わたしは、この教義から出るすべての結論を信じる。永遠に、永遠に、と。
 ああ、イエズスよ、これは真理です。絶対に確実な真理です。どうか天啓のこの真理、この義の太陽のかがやきが、わたしの一日をくまなく、照明する灯台でありますように。
 どうぞ、わたしの信仰を、いっそう熱烈にしてください。どうぞ、この理想にしたがって生きる強い望みを、この理想に反するものへの聖なる怒りを、わたしの心に吹き込んでください。わたしは“真理”という、この霊への食物を、むさぼるように食べ、それをわたしの血となし、肉としたいのです。
 とはいえ、わたしが自分の信仰を奮いおこそうと、数分間努力いたしましても、その甲斐がなく、空しくおのれに提示された真理の前に、ただぬかずくばかりで、心にはなんの感激もおぼえませんとき、主よ、わたしは無理してまでも、この感激を手に入れようとは思いません。主よ、そういう場合には、わたしはただ子供のように、おのれの無能が生みだすこの心の苦しみを、あなたに披歴するだけです。そしてあなたに、どうぞわたしの無能をあわれみ、わたしの不足をおぎなってください、と嘆願に及ぶことでしょう。

   SITIO「わたしは渇く」
 この信仰の行為は、ほんとうにわたしを、天主の知恵にあずからせる。だから、この信仰の行為を、しばしば、とりわけ精力的に、なさなければならぬ。情念的愛の言葉なる、わたしの心の歓喜は、ひとえに、この信仰の度合いに依存しているのだから。
 天主にたいする情念的愛は、げに信仰の行為から、意志に刺激されて生じるのである。
 この愛こそは、わたしが、イエズスに、お捧げする霊的花束である。
 それは、礼拝であり、喜びであり、感謝であろう。
 天主のみ旨への愛着であり、いっさいの被造物からの離脱であろう。
 罪悪への憎みであり、それからの逃避であろう。
 あるいは、恐れ、怒り、希望、あるいは天主のみ旨への委託であろう。
 わたしの心は、そういう感情の一つ、もしくは幾つかを選んで、心ゆくまで、これに浸る。これをそのまま、イエズスに披歴する。これをしばしば、くり返す。――心やさしく、忠実に、そしてありのままに。
 ああ、イエズスよ、もしわたしの感情が、黙想の助けとなりますなら、わたしは喜んでこれを利用いたします。感情はほんとうに、役には立ちますが、しかし決して必要ではありません。うわべだけの、瞬間的の感情よりも、静かな、そして深い愛情は、もっと安全で、もとゆたかな実を結びます。瞬間的の感動は、わたしにとって、どうにもならないことです。それはまた、ほんとうの、そして実りゆたかな黙想の、バロメーターとなるものでもありません。
 わたし一人の力で、いつでもできること、わたしの権限にいつもぞくしてい、そしてわたしにとっていちばん大切なことは、ただわたし自身の努力だけです。わたしは努力することによってこそ、心を惰眠から呼びさまし、あなたにこう申し上げるのです。――わが天主よ、わたしはあなたと一致したい、わたしはあなたのみまえに、消えてなくなりたい。わたしはあなたに、感謝のほぎ歌をうたい、あなたのみ旨を成就する喜びをうたいたい。
 わたしはあなたを愛し、また愛すればこそ、あなたをお悲しませする、いっさいの悪を憎むのです。こう申しあげるわたしの言葉に、すこしもウソはございません。
 時にはしかし、わたしの努力が、どんなに誠実でございましても、心は依然として冷ややかで、蛍火のように、あるかないかの愛情の炎しか、出さない場合もございますでしょう。そんな場合には、ああ、イエズスよ、わたしはありていに、わたし自身の無能と、愛したい望みを、おうちあけいたしましょう。よろこんで、わたしの嘆きをくり返し、長く長く泣きつづけましょう。わたしは確信しております、このようにあなたのみまえに、わたしの無能をなげいておりますなら、いつかはあなたの聖心のご愛情に、わたしの愛情も溶け入って、たがいに一つになりきる特別の権利を、授けていただくことでしょう。それは、何の実感も伴わない、盲目的な、冷静な仕方で実現されますが、しかしその仕方は、最も効果的です。
 ああ、イエズスよ、わたしがあなたの内に見つめている理想は、なんと美しいものでしょう。しかし、わたしの現実の生活は、この理想の完全なお手本であるあなたのご生活と、うまく調和がとれているのでしょうか。あなたのおまなざしのもとで、わたしはこの点を、よく糾明いたします。
 ああ、わたしのお話あいてのイエズスよ、あなたは今こそ、限りない慈悲の天主でいらっしゃいますが、審判のときには、情け容赦もない、いかめしい裁判官であられ、わたしの一生涯の行為の、どんなに小さな動機までも、ちゃんとごぞんじになっておられます。わたしは果たして、この理念に生きているのでしょうか。もし私が只今突然、死にでもいたしましたら、ああ、イエズスよ、はたしてわたしは、自分の行動が、この理念と矛盾していないことを発見するのでしょうか。
 善き師よ、わたしはどんな点を改めねばならないのでしょうか。どうぞ、わたしを助けて、あなたを模倣することに邪魔となる障害物を発見させてください。わたしは、よく過ちをおかしますが、その内的および外的原因はなんでしょうか。わたしがおかす過ちの、遠いまたは近い機会はなんでしょうか。それを、わたしに、発見させてください。
 わたしは、わたし自身の惨めさに目をそそぐにつけ、わたしが出あいまするいろいろな困難に、思いを馳せますにつけ、ああ、拝むべき救い主よ、わたしの心はあなたになにか、お打ち明けしないではいられません。――はずかしさと嘆きを。悲しみと苦い悔恨を。もっとりっぱになろうとの激しい望みを。わたし自身の惜しみなき、制限なき奉献を。

  (続く)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年04月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


二、黙想は、内的生活の、したがって、使徒職の必要欠くべからざる要素である(1/3)
 大いそぎで、信心の書物をよむ。よんだのち、内的生活への、漠然とした思慕を心に感ずる。
 だが、この思慕だけでは、内的生活をいとなむ上においては、なんの役にも立たないのだ。
 内的生活への起因となるためには、この思慕が、断固として一つの決心――明確で、熱情的で、実行性のある決心を、霊魂にとらせるほど烈しいものでなければならない。
 使徒的事業にたずさわっている多くの人たちから、自分は内的生活を真剣にいとなみたい計画を立てているのだが、さてどんな方法を用いれば、それがうまく実現できるだろうか、そのためには一般的に、どんな決心をとればよいのだろうか、という質問を受けたことが、筆者は再三あった。
 かれらへの解答にもと思って、以下に、本書の付録のようなつもりで、ひとことつけ加えてみようと思う。

 筆者はよろこんでこの問いに答えるが、一方において、使徒的事業に従事する人は、司祭であれ、信徒であれ、もしも毎朝少しの間念禱のために取っておく良い決心をするなら、その時初めて本書に既に書いた事から本当の利益を得ることができる、また、他方において、司祭がもし内的生活に進歩したいと思うのなら、典礼生活をよく利用してかつ心の取り締まりの修業をすることを無視することはできない、と筆者は確信している。

Nous y répondons néanmoins volontiers, persuadé d'un côté que l'homme d'oeuvres, prêtre ou laïque, n'aura vraiment profité de la lecture de ce qui précède que s'il est bien déterminé à consacrer chaque matin un instant à l'oraison mentale; et d'un autre côté que le prêtre, s'il veut progresser dans la vie intérieure, ne peut négliger d'utiliser la Vie liturgique et de s'exercer à la Garde du coeur.

 この三つの点(念禱、典礼生活、心の取り締まり)を実行するためには、各人の決心という形をとるのがより実際に役だつと筆者は信ずる。

Nous croyons plus pratique d'adopter pour ces trois points la forme de résolution personnelle.

 むろん、それによって、新しい黙想法を、読者に伝授しようなどと、大それた野心なぞ、毛頭ないのだが。ただ、すでに行われている最良の黙想法の精髄を、左に略記するまでである。

   黙想の決心
  “わたしは朝の黙想を、忠実に実行したい”
 
(Ⅰ)朝の黙想に忠実であること――これは、わたしにとって義務なのか
 
わたしは“司祭”である。
 わたしは、司祭叙階式のとき、“司祭は第二のキリストである”Sacerdos alter Christus!という、いかめしい言葉を、耳にしたのだった。
 そして、そのときわたしは、もし自分が特別な仕方で、イエズスのご生命に生きないなら、自分はほんとうにイエズスの聖心にかなった司祭ではないのだ、自分は司祭的霊魂ではないのだ、ということを、しんから悟ったのだった。
 わたしは、司祭である。わたしは、イエズスとの親しい、むつまじい交際に生きなければならない者である。
 それを、イエズスは、わたしから要求しておいでになる。
 「わたしはもう、あなたがたを、しもべとは呼ばない。わたしは、あなたがたを、友と呼んだ Jam non dicam vos servos... Vos autem dixi amicos.」(ヨハネ15・15)
 使徒職の本源であり、手段であり、目的でもあられるイエズス――このイエズスと共なるわたしの生活は、次の条件をみたす度合いに応じて、ますます深く、ますますゆたかになっていく。――イエズス・キリストが、わたしの理性の光りとなり、わたしの内的・外的のそれを問わず、いっさいの行為の光りとなるにしたがって。イエズス・キリストが、わたしの心のすべての愛情に君臨する、至上愛そのものとなるにしたがって。イエズス・キリストが、わたしのあらゆる試練、心戦、事業において、わたし自身の力となるにしたがって。イエズス・キリストが、わたしをして天主のご生命そのものに参与させる、この超自然的生命を養う食物となるにしたがって。
 さて、イエズスと共なるこの生活は、わたしが黙想に忠実であれば、との条件によって確保されるものだからして、もしわたしが黙想をしないなら、当然この生活が不可能になるのは、自然の論理である。
 イエズスは、わたしがご自分との親しさに生きるようにと、その手段までもお授けになる。わたしはこのお申し出を拒否して、聖心をお悲ませする勇気があるだろうか。
 いま一つ、わたしが黙想をしなければならぬ至って大切な理由が、ここにある。たとえそれが、消極的な理由だったにしても。それは、天主のみ摂理のご計画により、黙想が、わたしの弱い人間性につきものの種々の危険にたいして、わたしが世間としなければならぬ交際にたいして、わたしが果たさねばならぬこれこれの義務にたいして、ひじょうに有効適切な助けを提供してくれる、ということである。
 もしわたしが、黙想をするなら、わたしはあたかも、鋼鉄のヨロイを着たような者で、救霊の敵どもが放つ毒矢にあたっても、傷をうけないですむ。黙想をしないなら、かれらの放つ毒矢は、きっとわたしの霊魂に突きささる。したがって、わたしの全然気づかない、もしくはちょっとばかりしか気づかない、たくさんの過ちにたいしても、その原因において、すなわち、黙想を怠ったことにおいて、わたしは有罪の宣告を、受けなければならない。
 「世間と交わる司祭にとっては、黙想か、それとも、永遠のほろびをおかす極めて大きな危険か、そのいずれかである!」となんのためらいもなく、こういい放った人は、あの敬けんで、博学で、賢明なデシュルモン神父である。司祭黙想会の説教師として、最もすぐれた、最も経験に富んだ司祭の一人――デシュルモン神父その人である。

« Oraison ou très grand risque de damnation pour le Prêtre en contact avec le monde », déclarait sans hésiter le pieux, docte et prudent P. Desurmont, l'un des plus expérimentés prédicateurs de retraites ecclésiastiques.

 「使徒職に従事する者にとっては、獲得された聖徳(少なくとも日々の黙想によって願われ追求された聖徳)か、それとも、だんだんに身をもちくずしていく、とりかえしのつかぬ堕落か、そのいずれかであり、中間はありえない!」と、こんどは、ラビジェリ枢機卿がいっている。

« Pour l'apôtre, pas de milieu entre la sainteté sinon acquise, du moins désirée et poursuivie (surtout par l'oraison quotidienne), et la perversion progressive », dit à son tour le Card. Lavïgerie.

 聖霊が、詩篇作者に霊感した、左の意味深長な一句を、司祭はめいめい、自分の黙想にあてはめて、反省するがいい。
「天主よ、あなたのおきてが、わたしの心の黙想(おもい)でないならば、その時、おそらくわたしは卑しさのうちに滅びていただろう」(詩篇118・92)
Nisi quod LEX TUA meditatio mea est, tunc forte periissem in humilitate mea.

 さて、天主のこのおきてが、司祭たちに要望する最後の目的は、かれらがイエズス・キリストの精神を、わが身に実現することである。

   司祭の価値は、かれの黙想の価値
     二種類の司祭
(一) ――A級の司祭
 かれらにとって、黙想の決心は、かたい。どんないいわけがあっても、朝の黙想を、他の時間にのばさない。――お客が待っている。礼儀だ。すぐに面会しなければならぬ。ひじょうに忙しい仕事がある、……などなど。こんなことは、かれらにとって、黙想を、規定の時間以外にのばす口実とはならない。
 やむにやまれぬ緊急な場合――しかも、それは、ごくごくまれだが――は、致し方ないとして、黙想のために、朝の他の時間をとらなければならないが、全然よしてしまうことは絶対にない。
 これが、ほんとうの司祭であって、かれらは黙想のきわめて高価な成果を獲得しようと、常に心がけている。
 黙想を、ミサの感謝の代わりにするようなことはない。信心読書とごっちゃにするようなことはない。まして、説教の準備の代わりにするようなことはない。
 かれらはすでに、一つの聖徳に、有効に望んだ聖徳に達している、といえるだろう。
 そして、このようにかれらが、聖徳を追求し、望みにおいてすでにこれを所有している限り、かれらの救霊は、十ちゅう八・九までは保証されているといえるだろう。

(二) ――B級の司祭
 黙想の決心が、半端である司祭は、きまって、黙想を他の時間にのばす。したがって、たやすくこれをオミットするようになる。黙想の目的を変えてしまう。黙想に成功するために、実のいった努力はちっともしない。
 このことから、どんな結果が予想されるだろうか。――かれは、とりかえしのつかない冷淡におちいるだろう。精神は、しらずしらずのうちに、迷ってしまうだろう。良心は眠ってしまうか、または誤まったもの、善悪の区別もできないものになってしまうだろう。……まさに、破滅への第一歩だ!
 この二種類の司祭のうち、そのいずれに、わたしは属したいのか。もしわたしが、A級への帰属をためらっているのなら、それはわたしが朝の黙想を怠っている証拠なのである。
 朝の黙想に、一日のすべての勤行は糸をひいている。
 わたしが朝、半時間の黙想を怠るなら、やがてはミサ聖祭そのものも、したがって聖体拝領も、個人的にはすこしも、効果のないものになるに決まっている。そして、わたしは、罪の責任をのがれることはできないだろう。典礼生活の楽しい表現であり、同時に、霊の歓喜であるべきはずの聖務日課は、わたしにとって、耐えがたい重荷となる。ただ仕来たりで、なんの気乗りもなしにとなえるから、ほんとうにいやになってくる。
 わが身には、なんの警戒も施さない。ちっとも潜心をしない。したがって、射禱などはすこしもとなえない。最もなげかわしいのは、信心読書さえも、やめてしまうことだ。せっかくの使徒職も、だんだん実を結ばないようになる。自分の過ちについて、まじめに糾明をしようともしない。まして特別糾明などは、とっくにやめてしまう。告解も、習慣的に、機械的になっていく。ときには、罪がゆるされたのやら、ゆるされなかったのやら、ちっともわからないような、あやふやな告解をする場合も、たびかさなってくる。
 それがつもりつもるとき、最後にかれを待っているものはなにか――
 あわれ、汚聖の告解である!
 意志の要塞は、だんだん防御が薄くなっていく。
 救霊の敵が、大軍をくりだして、襲いかかってくる。
 朝に一塁を抜かれ、昼には数塁、夕べには完全に陥落してしまうのである。

 (Ⅱ) わたしの黙想は、どんなものでなければならないか

 「黙想とは、天主に向かって、精神を高く挙げることである。」Ascensio mentis in Deum.それは、純理論的行為ではなく、実践的理性行為であるから、意志の種々の行為を想定する、と聖トマス・アクィナスは、黙想に説明をあたえている。
 だから、黙想は、とりわけ初心者にとっては、ほんとうに骨の折れる仕事である。
 天主でないものから、しばし離脱するための仕事、
 半時間の間、霊魂のまなざしを、じーっと天主にそそいでいる仕事、
 つぎに、善にむかって新たな飛躍を試みるまでに、精神を向上させる仕事、
 初めには、ほんとうに骨が折れるが、よろこんでそれを受諾しなければならぬ仕事、
 この世ながらに、すでに大きな慰め、すなわち、イエズスとの親しい交わりと深い一致から生じる心の平安をもって、じきにその労苦が報いられる仕事、――これが、黙想というものだ。

 大聖テレジアは、「黙想とは、霊魂が、自分がほんとうに愛されている、と知っているその御者と、心から心へと語る、親しい語らいである」といっている。

« L'oraison, dit sainte Thérèse, n'est qu'un Entretien d'amitié où l'âme parle coeur à coeur avec Celui dont elle se sait aimée. »

 黙想とは、天主と霊魂とのあいだにかわされる、心から心への語らいである。
 天主は、この語らいの必要を、わたしの心に痛感させてくださった。この語らいに向かって、わたしの心は強くひかれた。天主はそれをわたしに、お命じになってさえくださった。
 はたしてそうだったら、天主とのこの語らいを、容易にしてくださるおぼし召しである。こう信じないならウソだ。
 わたしが長いあいだ、この語らいをうち捨てていたのに、イエズスはやさしくわたしを、それにお呼びくださったではないか。そのとき語るべき言葉までも、わたしに霊感してくださったではないか。――信と望と愛の言葉を。
 そして、これこそは、ボスエ司教がいったようにわたしの黙想そのものではないのか。
 わたしは、この慈愛ふかき父のお招きを、ことわることができるだろうか。放とう息子にさえ、わたしの言葉をききにいらっしゃい、子供の心をもってわたしとお語りなさい、わたしにあなたの心の秘密をうちあけなさい、わたしの心の鼓動をきき取りなさい……と、いともやさしく仰せになる、この慈父のお招きを。
 黙想は、天主と霊魂とのあいだにかわされる、いとも簡単な語らいである。わたしは、現在あるがままの姿で、天父のみまえに出てよろしいのだ。現在、冷淡であってもいい。放とう息子であってもいい。信心深い者であってもいい。とにかく、どんな姿であっても、天主とお話しするためには、ちっともさしつかえないのだ。子供のような無邪気な心もちで、わたしは天父に、わたしの霊魂のありさまを披歴しよう。わたしの現在あるがままの姿を、なんのウソもいつわりもなく、ありのままに表現した言葉で、お話ししよう。
 黙想は、天主と霊魂とのあいだにかわされる、実益に富む語らいである。かじ屋が、鉄片を火中に投ずるのは、これをきたえあげるためである。そのように、黙想も、天主との語らいによって、わたしのくらい知性を照明し、わたしの冷たい意志をもえたたせる。それは、霊魂を、おとなしく、柔順にするためである。霊魂をきたえあげ、霊魂から欠点を除き去り、“古き人”を追放し、その代わりに、イエズス・キリストの御徳と御姿を、霊魂にきざみつけ、焼きつけるためである。

 従って、私の天主との語らいは、その結果として、わたしの霊魂を、イエズス・キリストのご聖徳にまで、向上させるものでなければならない。(パズのアルバレス Alvarez de Paz 師の言葉)――イエズスご自身、わたしの霊魂を、ご自分のお姿に似せて、きたえあげることができるように。

Mon entretien aura donc pour résultat de hausser mon âme jusqu'à la sainteté de Jésus 1 afin qu'il puisse la façonner à son image.

「主イエズスよ、それは、あなたご自身でございます。――そのいともやさしく、いとも憐れみ深い、けれどいとも強いおん手をもって、わたしの心をつくり、きたえあげてくださいますお方は、主イエズスよ、それはあなたご自身でございます」Tu, Domine Jesu, Tu Ipse, Manu mitissima, misericordissima, sed tamen fortissima formans ac pertractans cor meum.(聖アウグスチノの祈り)

 (続く)


聖ピオ十世会の日本での活動の予定をご紹介いたします:2018年4月から8月までの予定

2018年04月14日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会の日本での活動の予定をご紹介いたします。

【頻繁な御聖体降福式】

 聖体降福式(「聖体讃美式」)は多くのお恵みをもたらすものなので、できるだけ多く執行したいと負います。特に日本やアジアでの平和のために祈りましょう。

 聖体降福式はどんどんされなくなり、今や日本の教会でも珍しい行事になってしまっているように見受けられます。当然なされるべきやり方で御聖体の顕示を行い、聖体礼拝にふさわしい儀式をすることによって、多くの方々が、御聖体のうちに真にましまし給う私たちの主イエズス・キリストに讃美と感謝とをささげるようになれば素晴らしいと思います。

 また、ミサのように聖歌やお祈りのほとんど全部がラテン語なので、外国人の信徒の方とも一つになって参加できるのが大変良いところだと思います。

 東京では、次のように、できるだけ二ヶ月に一度、月の最初の主日に、ミサの後に(ミサの後の祈りとアンジェルスの後に)短い聖体降福式を行うようにします。

4月22日
聖体降福式の最後にRegina Caeli (simple tone)

6月3日(Corpus Christi)【この主日は御聖体の荘厳祭なので、ミサの御聖体拝領直後から聖体顕示式が始まります。Ite Missa est の代わりに Benedicamus Domino を歌います。最後の福音はありません。】
聖体降福式の最後にAve verum (Gregorian)

6月17日(Cor Jesu)【この主日は、特別にイエズスの聖心の荘厳祭を行います】
聖体降福式の最後にCor Jesu Sacratissimum (Traditional Roman Hymnal #80 A.)

7月15日【この主日は特に pro-life のために行います。マーチ・フォー・ライフの前日だからです】
聖体降福式の最後にSalve Regina (simple tone)

10月7日(20th Sunday)
聖体降福式の最後にAve Maria (Gregorian)

12月2日(1st Sunday of Lent)
聖体降福式の最後にAlma Redemptoris mater (simple tone)

 聖体降福式の聖歌のメロディーについては、皆さんに覚えていただいて一緒に歌っていただけるように、敢てしばらく同じもの(O Salutarisの1番=公教聖歌集508、Oremus=公教聖歌集542、Tantum ergoの1番=公教聖歌集551、Adoremus in Aeternumの1番=Traditional Roman Hymnalの98番)に固定して置こうと思っています。

【小野田神父の司祭叙階25周年】

 愛する兄弟姉妹の皆様が、小野田神父の司祭叙階25周年を一緒に祝ってくださるということになりました。大阪では6月16日(土)、東京では6月17日(主)です。司祭職のお恵みをイエズスの聖心に感謝して、聖心と司祭職との関係を一緒に黙想することを提案します。その日はミサの後の祈りの後に、聖体降福式を行い、その際に聖ピオ十世会日本をイエズスの聖心に奉献します。叙階25周年のお祝いの昼食も予定されています。昼食後には、主日の晩課(聖霊降臨後第4主日)を歌って終わりとしましょう。

【その他の行事予定】

5月3日から8日まで:秋田巡礼【秋田】ご予約の連絡はお早目にどうぞ!
2018年の「秋田巡礼」へお招きいたします。
秋田巡礼の内容はこのチラシもご覧ください。

5月20日:聖霊降臨の主日【東京】

6月3日:御聖体の荘厳祭【東京】

6月16日(土):イエズスの聖心の随意ミサ【大阪】
6月17日(主):イエズスの聖心の荘厳祭【東京】

7月16日(うみの日)マーチフォーライフ【東京】
【7月22日:東京での主日のミサはキャンセルすることになりました。申し訳ございません。】



8月18日:デ・ガラレタ司教様:大坂で堅振式
8月19日:デ・ガラレタ司教様:東京で堅振式

 聖伝の典礼様式で堅振式を受けることを望む方々は、その旨ご申請願います。受堅希望者の方々は、7月から始まる堅振準備の公教要理を受講しなければなりません。


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2018年4月1日(主日)復活祭のミサ 「なぜ、復活祭の頃に少なくとも一度、御聖体を拝領せねばならないか」

2018年04月13日 | お説教・霊的講話
2018年4月1日(主日)復活祭のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年4月1日の御復活の主日を祝っています。明日は朝ここで6時30分からミサがあります。

そして、つい3日前の聖木曜日には、私たちの姉妹であるモニカさんが霊魂を天主様にお返しになりました。その1週間前の金曜日には、終油の秘跡と御聖体拝領を授かって、そしてとても元気だったのですけれども、安らかにあっという間にお亡くなりになったとの事です。どうぞこの霊魂の為にお祈り下さい。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は私たちの主イエズス・キリストの御復活です。そこでこの御復活の聖なる慶びを皆さんに申し上げる事をお許し下さい。

今日この日に、一体何が起こったのか、ぜひもう一度確認する事を提案します。

そしてなぜ一体御復活なさったのか?一体その目的は何だったのか?それを黙想しましょう。

最後に、では私たちは今日、今年2018年21世紀に生きる私たちは、一体どんな事を決心として取らなければならないのか、どんな事をこれから生活の中に生かさなければならないのか、という事を黙想しましょう。

では一体、2000年前にどんな事が起こったのでしょうか?

イエズス様は御自分の教え子を、愛をもって、奇跡をもって、そして忍耐をもって、御自ら御説教をして、天国への福音を宣べ伝えました。しかしそれに危機感を持ったユダヤ教の聖職者たちは、「もしかしたら自分の職業が無くなってしまうんじゃないか」と恐れて、イエズス様を亡き者にしようとして、それが成功しました。人民を動員して、デモをして、そして本当なら裁判を受けて「罪が無い」と言われたにもかかわらず、その裁判官の意見を判決を覆して、死刑になりました。

そしてイエズス様は、真に本当に亡くなった、という事が確認されました。ローマの兵士が槍でその心臓を貫いたからです。心臓に槍が貫かれて、そこから血と水が出ました。水が出たという事は、血がすでにリンパ液と分離して、もう死んでいた、という事を表しています。

母親であるマリア様も、イエズス様の亡骸を抱いて、その御死去を確認しました。弟子たちは葬りをしました。時間がなくて、全てユダヤの儀式の通り習慣の通り完璧にする事はできませんでしたが、しかしできるだけの事をして、きれいな布に包んで、埋葬しました。大きな石を、墓の蓋として入り口に乗せました。

弟子たちは、少数の女性と数えるほどの婦人たちと一人ヨハネだけを除いて、皆どこかに逃げ去ってしまいました、大きなショックでした。弟子たちは誰もイエズス様が復活するなどという事を夢にも思っていませんでした。考えにもありませんでした。その証拠は色々あります。

なぜかというと、最も熱心だった弟子の婦人たちが、付き添っていた婦人たちは、この主日の、復活の主日の朝早く、太陽が昇るか昇らないかの内に急いで起きて、お墓の埋葬の続きをしようと思いました。墓をどうやって、誰が開けてくれるかという事さえ考えも及ばずに、「とにかく埋葬をしなければならない。とにかく何とか葬りをそのまま続けなければならない」という事だけを考えていました。

マグダラのマリアは、イエズス様のお墓が空であるという事を見て、「誰かが盗んだ」としか思いませんでした。「もしもあなたが盗んだのなら私に言って下さい。私が引き取りますから仰って下さい。」

ユダヤの聖職者たちは、いざという時の為に、ローマの兵士を配置していました。おそらくお金をたくさんやったのかもしれません、「いいか、君たちの命にかけて、名誉にかけて、ローマの名前にかけて、この墓を守れ。」もちろん、日本の警察を思って下さい、日本の自衛隊の事を思って下さい。それが守っていたと思って下さい。武装していて墓を守っていました。誰も近寄る事はできません。

弟子たちは、墓に近寄る勇気さえもありませんでした。なぜかというと、例えば「イエズス様を見た」と、10人の弟子たちが、「同時に見た」と言っても、その時にいなかった1人は、使徒聖トマスは、「俺は信じない」と言いました。「君たちは夢を見ている。下らないよ。僕はね、この手をイエズス様のこの手の傷に入れて、この心臓の中に手を入れて、槍で貫かれた所に手を入れたら信じるけど、僕はね、足を地面につけて生きるんだよ。信じない。」頑固に拒否しました。

その弟子たち、そしてもう不可能であった、イエズス様が復活するというのはもう人間的に見て、一切不可能であったというその瞬間、その真暗闇の時に、誰も信じていなくて、誰も期待もしていなくて、誰も考えも及ばなかったその時に、傷だらけで命を失ったイエズス・キリストの葬られた肉体が、一瞬にピカリ!と燦然と輝いたのです。

その証拠は、今私たちが持っています。トリノの聖骸布です。イエズス様を包んだその布は、一瞬の内に酸化しました。そして世界最初の写真であるかのように、その御自分の全体の姿をその布に写し出しました。

その瞬間、その直後、今まで傷だらけであった、血だらけであったこの体は、あっという間に傷が無くなりました。そして目をカッと開いて、そして生き始めたのです。心臓がドクドクと動き始めて、そして息をして、そしてこの布をするりと透過して通過して、復活体として起き出しました。墓の中は真っ暗でしたが、御自分の天主の栄光の光で燦然と輝いていました。

おそらくその時に、まだ墓は大きな石で包まっていたでしょうけれど、その墓を通過して、復活されたイエズス様は、おそらくマリア様の所にすぐに会いに行ったに違いありません。なぜかというと、それはナインの寡婦、一人子を失った、そして未亡人のお母さんの泣いたのを見て、普通だったら「あなたは信じますか?」と聞いてから奇跡を起こすところを、この夫人だけは、この子供を甦らせてこの未亡人に返しました。イエズス様はマリア様の事を思っていたに違いありません。マリア様の所にすぐに行って、マリア様をお慰めしたに違いありません。

なぜかというと、マリア様こそ、イエズス様がその御胎内におられて、30年間共に生活され、3年間イエズス様と共に従って、そして最後には十字架の下で苦しみを捧げた、イエズス様をこれ以上愛する事がなかった、という御母であったからです。マリア様こそ、イエズス様からの最初の報いを得て、慰めを受けて当然の方でした。

イエズス様が確かに復活された、という事をまずマリア様に、次に婦人たちに、そして弟子たちに見せます。まず婦人たちには天使を送ります。天使は空から光り輝いて、降りて来て、石をゴロリと除けます。その様子を見たローマの軍人たちは、あまりにもその姿に恐れおののいて、死なんばかりでした。

そしてその1位の天使は、石の上に座って、夫人たちが来るのを待っています、「あなたたちが探しているナザレトのイエズスはここにいない。復活された。さぁ弟子たちに告げに行け。」

弟子たちの元にイエズス様は現れます。「確かに私は復活した。さぁこの手を見ろ。私の体に触りなさい。幽霊に肉はないだろう。私は肉を持っている。さぁ食べ物を与えなさい。」

そして自分が本当に復活したという事を、何度も何度も何度も何度も現れて、ある時には釣りの時に、ある時には朝食の準備をしながら、何度も何度も現れて、確かに復活した、という事を証明しました。

またそれ以外の弟子たちにも現れました。力を落として、「もうこれで終わった」という弟子たちにも現れました。弟子たちはすぐに、「イエズス・キリストである。復活されたキリストである」という事を認識しました。

40日間それをされました。この復活されたイエズス様を見た彼らは、そしてその証人たちを聞いた彼らは、もう疑う事ができませんでした。

今まで恐ろしくて逃げてばかり、隠れていた彼らは、もはや態度をガラリと変えて、「イエズス・キリストは確かに復活した。私はこの目で見た。この手で触った。この耳で聞いた。イエズス・キリストは自分の力で復活された。予言の通り仰った通りに、3日目に復活した。間違いはない。」

これは何を意味するかというと、イエズス・キリスト様が確かに予言された通り、アダムとエヴァの時から予言された通り、「私たちに約束された唯一の救世主、メシアだ」という事です。「旧約の全ての預言がこの方において成就した」という事です。そしてその事を、「自分が全ての預言の成就と、自分の復活をもって証明した」という事です。「イエズス・キリストこそが真のこの世の創造主であって、天主でしかできない事をなさった」いう事です。

イエズス・キリスト以外にはメシアはいません、天主は存在しません。イエズス・キリストこそが唯一の真の天主です。このイエズス・キリストが立てた宗教こそ、カトリック教会こそが、真の宗教です。という事を私たちに教えようとしました。この復活は教えています。

では特に21世紀の私たちにって、どんな利益が、どんな意義があるのでしょうか?

まずイエズス様は、私たちの信仰を確固たるものとしようと思いました。不信の弟子たち、信じる事を拒否して、あくまでも拒否し続けた弟子たちが、遂に態度を変えて信じなければならない、「これこそが現実だ、事実だ。そしてその為にはもう命さえ惜しまない」というほど変わってしまうほどの事実を見ました。ちょうどこの目の前に壁があって、この壁をどうしても壁があるという事を認めざるを得ないほど、「イエズス・キリストこそ復活した」という事を確信したのです。

そしてその事を誰にも言い広めました。言い広めない事は、あるいはイエズス・キリストは嘘だったと言えば、お金も儲かった事でしょう、ユダヤの人々と友達になった事でしょう。地位も上がったかもしれません。しかしその事は全く興味がありませんでした。「イエズス・キリストのような復活を私も頂きたい。イエズス・キリストこそが真の天主だ。彼に付いて行く」と態度を変えていったのです。

そしてこのその信仰は全世界を変えました。全世界は、イエズス・キリストを信じるが為に、何百万何千万という殉教者を出しました。童貞を出しました。イエズス・キリストの為に聖なる生活を送り始めた人たちが、罪をやめて聖なる生活をし始めた人が、何百万といます。王も、貴族も、そして身分の低い者も、奴隷も、イエズス・キリストの為に命を、生活を全て捧げる、という大奇跡という回心が起こりました。もしもガリレアの田舎の数人の漁師が嘘を言って広めた、それでそんな事が起こったとしたら、それこそがイエズス様の復活よりも大きな奇跡となってしまいます。

本当にイエズス様は復活されました。そして今でも生きておられます。復活されて、天国で私たちを愛をもって見守っておられます。私たちが復活するのを、イエズス・キリストと同じ復活をするのを待っておられます。本当に、今、天国で、皆さんの事を見ておられます。ちょうど私が目の前にいるように、それと同じ現実に、皆さんの事を見ておられます。生きて見ておられます。

その私たちの信仰を固める為に、復活されました。

第2に、イエズス様が復活されたのは、私たちに大きな希望を与える為です。

私たちが生きているのは、この地上で80年間、あるいは今現代医学が進んでいるので、150歳まで生きて200歳まで生きて、そしておいしいものを食べて、あるいは…という為に生きているのではなくて、私たちには永遠のとてつもない栄光と喜び、死も苦しみも悲しみも涙も全くない、天主の喜びが無限の喜びが私たちを待っている、という事を教えたいと思っていました。

今私たちは辛い思いをしたり、涙を流したり、悲しんだり、苦しんだり、理由がないのにいじめられたり、あるいは馬鹿にされたり、病気だ、事故だ、辛い、喧嘩をした、などと涙を流したり、辛い思いをしたりしているかもしれません。イエズス様もそうです。しかしそんなものがあっという間に、瞬間に、無くなってしまう時が来る。そして私たちは喜びに満たされて、これ以上の喜びはない、というほどの喜びが待っている。イエズス様の栄光と同じ栄光を持つ。その希望を私たちに与える為です。

もしも皆さんのうち誰かが、「神父様、やりました!お年玉のはがきが 1位になりました!」「宝くじが当たりました、ロトが当たりました!5億円当たりました!」「100億円当たりました!」「あぁ神父様、私の子供がノーベル賞をやりました!」「ピアノで1位になって、コンクールで1位です!世界で1位です!」「あぁ、私の娘がスケートで金メダルを取りました!」ということがあったとします。

もちろん私たちはそんな時に喜びます。「あぁ、私の息子が大学に合格しました!」「良い会社に入社しました!」

もちろん私たちは喜びますが、しかしその喜びは限りのあるものです。もしも皆さんが世界の王となって、世界を支配する皇帝となったとしても、その喜びには限りがあります。

しかし私たちがその持つ希望というのは、それをはるかに超える、永遠の命と無限の喜びです。それをイエズス様は、「一緒に分かち合おう」と、「天の永遠の遺産をあげる」と仰っているのです。その為に復活されました。何と恵まれた私たちでしょうか。

最後に第3には、私たちが何を愛するべきか、という事を教える為でした。

イエズス様が本当に私たちをどこまで愛しているか、愛されているか、という事を十字架で、そして復活でお示しになりました。

もしも誰かが私たちの命を救う為に、死の苦しみを受けたとしたら、どれほど私たちは感謝しなければならないでしょうか。その命の恩人に感謝して、感謝しなければならないでしょうか。もしも誰かが私たちに特別の贈り物をプレゼントする、そしてそのプレゼントの価値が大きければ大きいほど、どれほど感謝しなければならないでしょうか。

イエズス様はそれを全てしました。命を、そして栄光を全て私たちに与えようと、愛の極みを尽くされました。そして私たちはこれを見て、ただイエズス様に、愛する事を求められています。

人間は創られた時から生まれた時から、善を愛するように創られています。でも残念な事に私たちは、天主以外の全ての事を愛しますけれども、しかし本当の善を愛する事をよく分かっていません。その為にある人はお酒を愛したり、そして病気になって、もうこれをやめなければならない、と分かっていながらも、どうしてもそれの愛着を打ち切る事ができない、ある人はコンピューターゲーム、ある人は…分かりませんけれども、何か本当はそうしてはいけないという事を、何かそこに善があるかのように錯覚して、いけないと分かっていながらもそうしてしまう人々がどれほど多くいるでしょうか。そして儚いものに楽しみを求めよう求めようと追求して、ますます不幸になっていく人たちがたくさんいます。

しかしイエズス様は私たちに、私たちが本当に愛する者は誰か、何か、という事を教えています。私たちが本当に愛するべきものは方は、私たちをここまで愛して下さった「イエズス・キリスト」です。

では今日どのような決心を取らなけばならないでしょうか?

まず1つだけ、長く申し上げたので1つだけ申し上げるのを許して下さい。公教会の掟によると、カトリック信者は年に1回少なくとも一度だけ、もちろんたくさんやればやるほど良いのですけれど、少なくとも一度告解を受ける事、そして復活祭の頃に少なくとも一度御聖体を拝領する事、という復活の義務があります。そこで私たちはこの復活祭の義務を今日、特別の意向を持って果たす事を提案します。

どういう事かというと、私たちが拝領する御聖体は、単なる聖なる「物」ではありません。単なる「パン」でもなければ、聖なる「物」でもありません。「物」ではなくて、聖なる「復活された、生きておられるイエズス・キリスト御自身だ」という事をぜひ意識して、それを自覚して、それを私たちが受けるのは、貴重な聖なる「パン」ではなくて、「天主の御体、復活されたイエズス・キリストの復活体だ。ちょうどマリア様にお現れになった、そして弟子たちに現れた、それと同じイエズス様を私たちはこの霊魂に受けるのだ」という事よく知ってください。何という恵まれた私たちでしょうか。イエズス・キリスト、復活されたイエズス様をこの復活の日に、私たちのこの霊魂に受ける事ができるとは。

私たちはどうしても跪いて、もちろんお体のご都合の悪い方は立ったままで大丈夫ですけれども、できる方はぜひ跪いて、手を合わせて、そして目を閉じて、舌べらで、イエズス様を礼拝しながら、愛を込めて御聖体拝領をなさって下さい。

「イエズス様、今まで私は、イエズス様が復活して生きておられる、天国でいらっしゃる、という事をあまりにも遠くの事として思っていました。イエズス様、イエズス様はいつも私が聖体拝領する時に、私の傍に、復活された者として、生きる者として来て下さっています。私をここまで愛して下さっておられます。それなのにもかかわらず、どれほど私はイエズス様を罪をもって、イエズス様がいないかのようにふるまっていた事でしょうか。イエズス様、これからはもうイエズス様を十字架に付ける事がないように、悲しませる事がないように、助けて下さい。」

最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は、イエズス様を決して少しも、ほんの少しも悲しませる事はありませんでした。十字架の下にいつもおられた方でした。そしてその十字架に居たが為に、マリア様の全ての悲しみは、栄光と喜びの元になりました。

「マリア様、どうぞ私の全ての悲しみと喜びと苦しみを全て、マリア様とイエズス様の為に御捧げしますので、どうぞこれを受け取って下さい。これを喜びと栄光だけに変えて下さい」とお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


【聖ピオ十世会 SSPX JAPAN】2018年4月初金・初土の聖伝のミサと、東京での Quasi modo のミサ(ラテン語のミサ・聖伝のミサ)の報告です

2018年04月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 4月の初金・初土を大阪で聖伝のミサをささげ、主の御復活後の最初の主日を東京で聖伝のミサを捧げることができました。天主に感謝します!

 復活節では、主日にはミサの前に「ヴィディ・アクアム」を「アスペルジェス・メ」の代わりに歌います。

 東京では主日の午後に、公教要理「天主の存在」について、また復活後第3主日のミサのグレゴリオ聖歌を練習しました。

 来たる主日(4月15日)は、大阪の「聖母の汚れなき御心聖堂」で午後6時から聖伝のミサがあります。レネー神父様の代わりにエチエンヌ・ドモルネ神父様(Father Etienne Demornex)が初めて来日されます。多くの方々が聖伝のミサからお恵みを受けることを希望しております。

【大阪】
4月15日(主) 復活後第2主日(2級)白
         午後5時半 ロザリオ及び告解 
         午後6時  ミサ聖祭

4月16日(月) 平日(4級)白
         午前6時 ミサ聖祭 ← 時間が変更になりました


 4月22日(主日)には東京で午前10時半から聖伝のミサがあります。

【東京】
4月22日(主) 復活後第3主日(2級)白
         午前09時  グレゴリオ聖歌の練習及び告解
         午前10時  ロザリオ及び告解
         午前10時半 ミサ聖祭

4月23日(月) 平日(4級)白 (殉教者聖ジョルジオの記念)
         午前07時  ミサ聖祭

復活後第3主日のミサで歌う固有文のグレゴリオ聖歌は次の通りです。




Iubiláte Deo, omnis terra, allelúia : psalmum dícite nómini eius, allelúia : date glóriam laudi eius, allelúia, allelúia, allelúia.
Dícite Deo, quam terribília sunt ópera tua, Dómine ! in multitúdine virtútis tuæ mentiéntur tibi inimíci tui.
V/.Glória Patri.




Allelúia, allelúia. V/. Ps. 110, 9. Redemptiónem misit Dóminus pópulo suo.



Allelúia. V/. Luc. 24, 46. Oportebat pati Christum, et resúrgere a mórtuis : et ita intráre in glóriam suam. Allelúia.




Lauda, anima mea, Dóminum : laudábo Dóminum in vita mea : psallam Deo meo, quámdiu ero, allelúia.




Módicum, et non vidébitis me, allelúia : íterum módicum, et vidébitis me, quia vado ad Patrem, allelúia, allelúia.


【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

4月の初金・初土の御ミサの報告をお送りいたします。

4月6日初金 ご復活後の金曜日のミサには13人が、
4月7日初土 レクイエム・ミサには17人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

初金曜日にはイエズス様の聖心をお慰めするため、聖心への罪を償うために御聖体降福式がありました。聖時間では御聖体のうちに復活されたイエズス様を黙想しました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 25人(内、子供3人)
女: 28人(内、子供5人)
計: 53人(内、子供8人)

【報告】
♰Ave Maria! Immaculata!

ご報告を送らせていただきます
復活の八日間の白衣の主日のごミサをありがとうございました。

御復活の頃の義務をこのごミサに与ることで果たすことができると伺いうれしく思いました。ご聖体拝領では、御復活のイエズス様の永遠のいのちをいただくのですという言葉を胸に拝領しました。このご聖体拝領によって私の霊魂の深奥に御国が作られてイエズス様がいつも王として君臨してくださいますようにと祈りました。ご聖体によって養われる私の霊魂がいつも永遠のいのちにつながっていることができますように。

イエズス様のご復活を誰より信じていた聖母マリア様はひと目で復活されたイエズス様をみとめられたことでしょう、でもマグダラのマリアも声を掛けられるまではわからなかったし、トマスもその釘痕に指を触れなければ信じられないと言いました。信じないものでなく信じるものとなりなさいというイエズス様の言葉に、わたしにももっと信じる力をくださいますようにと祈りたいと思います。

スイスで六月に着衣式が行われる姉妹のためと、そして7月の総会のためにも特別にお祈りいたしました。クリスマスに初めてこの聖伝のミサに与った友人がこの白衣の主日のミサにまた来てくださっていたことがうれしく、ごミサのお恵みがこれからもますますたくさんありますようマリア様に願いました。

午後の公共要理は、この世は偶然によってあるものではなく確かにはっきりとした意図によってデザインされてつくられたものである、そのつくられたお方を天主とお呼びしている、ということをお話しいただきました。

グレゴリア聖歌の練習は求道者の方の歌う響きがキレイだなあと思いました。

翌日の朝は童貞聖マリアの御告げの祝日のごミサをありがとうございます。神父様がミサの初めに提案してくださった次の二つのことを黙想することができました。

この日は、神性が人性を取られ、イエズス様の聖心がこの地上で始まろうとした日であること・・・この日から私たちのために聖心がつくられはじめ脈打ち愛し傷つき悲しみ苦しみを忍びそして最後には開かれてすべての御血を流しつくされた・・。

そして、マリア様のご胎は三位一体が宿ることをのぞまれたほどでありどれほど清らかで汚れのないものであるかということ、そのマリア様の御心もどれほどに清らかで汚れのない御心であるだろうかということ。

マリア様がハイと言ってくださったことにより天主が私たちの住むこの世界に降りてこられたというのは、とても神秘的な出来事で普通には現実と受け止めるのは難しいことなのに、わたしはそのことを信じる恵みをいただいているのだと思いました。復活が本当の出来事であり事実であり、それはこの御告げの日に起こったことからそのすべてが始まったのだと思い、聖心からあふれ出る聖寵もこの日からであることを思いました。汚れなく罪と無関係の御方でいらっしゃいますマリア様がいらしたから、マリア様をとおしてすべての恩寵がこの地上に降り注がれるようになったのだと感謝と賛美を捧げました。

ミサ中のラテン語の典文の祈りのなかに毎日となえているアヴェマリア…の響きが幾度かあってそれによりこの日はマリアさまのためのごミサであるとしみじみと実感されて胸がときめきました。童貞聖マリアの御告げのごミサに与れましたこと感謝いたします。神父様いつもありがとうございます。

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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年04月12日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


一、 使徒的事業にたずさわる人は、内的生活をいとなむために何をすべきか。――かれらに与える若干の意見

 左に列挙する諸事項は、われわれの“確信”から、生まれ出るものである。
 すなわち――
 使徒が、どんなに奮発して、事業に精励したところで、イエズス・キリストのお働きが、それに加わらない限り、絶対に事業は成功しない。イエズス・キリストのお働きが、加味される程度にしか、使徒の事業は実を結ばない。
 イエズス・キリストこそは、使徒的事業の遂行において、主要な、圧倒的な役割を演じられる。われわれは、かれの道具にすぎない。

 使徒は、事業の遂行にあたり、イエズス・キリストから与えられた手段にのみ、信頼しなければならぬ。そうでない事業を、イエズス・キリストは、祝福することがおできにならない。
 自然的活動のみによって、いとなまれる事業を、イエズス・キリストは、祝福することがおできにならない。
 その遂行にあたって、自愛心が、天主の愛よりも幅をきかす事業を、イエズス・キリストは、祝福することがおできにならない。

 天主が、これこれの事業をせよ、とお命じになるとき、これを拒絶する人――かれは、わざわいである。
 天主のみ旨を確認しないで、いきなり事業に飛びつく人――かれは、わざわいである。
 事業の遂行にあたって、ひとり天主にのみ、絶対的に依存しないで、自分勝手にやろうとする人――かれは、わざわいである。
 事業の遂行にあたって、内的生活を、おのれのうちに保全し確保するために、もしくは不幸にも失った場合には、これを回復するために、なにかの手段を講じない人――かれは、わざわいである。
 事業の遂行にあたって、活動的生活が、内的生活を圧迫し、損傷しないように、双方をうまく調和させるすべを心得ていない人――かれは、わざわいである。

Convictions :
Le zèle n'est efficace qu'autant que l'action de Jésus-Christ vient s'y adjoindre.
Jésus-Christ est l'agent principal, nous ne sommes que ses instruments.

Jésus-Christ ne bénit point les œuvres où l'homme n'a confiance qu'en ses moyens.
Jésus-Christ ne bénit point les œuvres entretenues uniquement par l'activité naturelle.
Jésus-Christ ne bénit point les œuvres où l'amour propre travaille à la place de l'amour divin.1

Malheur à qui se refuse aux œuvres auxquelles Dieu l'appelle.
Malheur à qui s'ingère dans les œuvres sans s'assurer de la volonté de Dieu.
Malheur à qui, dans les œuvres, veut gouverner sans dépendre véritablement de Dieu.
Malheur à qui, dans l'exercice des œuvres ne prend pas les* moyens de conserver ou de recouvrer la vie intérieure.
Malheur à qui ne sait pas ordonner la vie intérieure et la vie active, de telle sorte que celle-ci ne nuise pas à l'autre.


 使徒的事業を遂行するにあたっての若干の原理

 第一の原理――ただ自然的活動だけによって、事業に、身も心も、スッカリうち込んでしまい、夢中にならないこと。
 いつも、天主に相談する。それは、自分が万事において、恩寵のインスピレーションのもとに行動している、自分が万事を、天主のみ旨のあきらかな表示にしたがって行動している、とのあかしを、心に得ることができるためである。

 第二の原理――自分の霊魂を、内的生活の本質的修業と共存しえない状態におくほど激しい、過度の仕事に、あまり長くたずさわっているのは、良識を欠くことである。かえって自分に、害をまねくことである。かような場合は、たとえそれが、最も神聖な事業であったとしても、とりわけ司祭、修道者にとっては、まさしく聖主の次のお言葉を、実行すべき時である。その事業が、たとえ、「あなたの目〔のように大切なものであったにせよ、もしそれ〕があなたを、つまずかせるなら、それを抜き出して捨てなさい」(マテオ5・29)

 第三の原理――内的生活をいとなむため、時間の使い方にかんして、正確な“時間表”をつくること。賢明で、内的で、経験に富んだ司祭の意見にしたがって、それを作製する。用事ができたり、活動的事業の用務がつみかさなったりして、その実行を不可能にするかにみえるときがあっても、おのれをきびしくコントロールし、定められた時間表はキチンと守る。

 第四の原理――自分の利益のため、また、他人の利益のために、なによりもまず、内的生活をつちかうこと。活動的生活のために、身が忙しくなればなるほど、それだけいっそう深く、内的生活をいとなむ必要がある。それゆえ、霊魂が、内的生活に渇けば渇くほど、また、この渇きを空しい希望の一つとして終わらせないために、それを実現する手段をとればとるほど、霊魂はいっそう巧みに、計りごとをめぐらして、霊魂に麻酔をかけ、これを迷わせようと懸命に働くものだ。

 第五の原理――使徒は、天主のみ旨により、時としては本当にあんまり忙しくて、そのために信心の務めがゆっくりできない、どうしてもできない場合があるものだ。こういう場合に、かれがほんとうに熱心をもちつづけているかどうか、を正確に示してくれるバロメーターが、ここにある。――もしかれが、ほんとうに内的生活を渇望しているかどうか。はたして善意のありったけをかたむけ尽くして、内的生活の本質的修業を実行する機会を、一つも残さずとらえているかどうか。

 解答が、ハイであるなら、安心してよろしい。特別の恩寵をたまわるはずだから、それにふかく信頼しなければならぬ。天主はこの特別の恩寵を、かれのために取っておかれるのだから、かれはこの恩寵のおかげで、内的生活に進歩するための十分なちからを、もっているわけである。

 第六の原理――活動にたずさわる人が、自分の霊魂を、いつも潜心の状態に保っている境地に達しないかぎり、また、天主の恩寵に絶対に依存して活動するようにならない限り、かれの内的生活はまだ不安定の状態にある、といわなければならない。
 潜心と、いま一つ、恩寵への絶対的依存こそは、どこまでも、かれの伴侶でなければならない。なくてはならぬこの潜心を修得するためには、なにもしゃちこばる必要はない。頭よりもむしろ心の目をもってする、霊魂の“ちょっと見”で十分である。
 霊魂のこのちょっと見――確実で、正確で、ものごとを深く洞察できるこのちょっと見によって、はたして自分は、イエズス・キリストの影響下にあるかどうか、を識別することができる。

  実行的意見

 (一)――前にもいったとおり、規則正しい生活と、ふだんに規則をもっておのれをコントロールしていこうとの、固い強い意志がないなら、また、とりわけ“起床時間”を、正確に励行しないなら、だれも内的生活をつづけてうくことはできない。

 (二)――内的生活の土台に、“朝の黙想”をおく。朝の黙想をもって、内的生活の絶対不可欠の要素と見なすこと。「どんなぎせいを払っても、自分は朝、半時間の黙想をするのだ、とかたく決心している人は、すでに道の半分を踏破している」とは、大聖テレジアの有名な言葉である。もし朝、黙想をしないなら、その日は、ほとんど強制的に、冷淡のうちに過ごさざるをえないようになる。

 (三)――“ミサ聖祭、聖体拝領、聖務日課、典礼の儀式”これらは、内的生活をはぐくむたぐいない源泉なのだから、大いなる信仰をもって、深い熱心をもって、そこから内的生活のかてを吸収しなければならない。

 (四)――黙想と典礼生活も、むろんそうだが、“特別糾明”や“一般糾明”も、帰するところは、“心の取り締まり”の習慣を身につけることにある。心の取り締まりの習慣が身についてこそはじめて、“あなたがたは警戒して祈りなさい”という、この二つの修業の一致が、りっぱに成就する。
 自分の内心の動静に注意のまなこをそそいでいる霊魂、至聖なる三位一体のみまえにいることを意識している霊魂――こういう霊魂は、あらゆる場合、わけても、かれが気を散らすとか、気力がよわるとか、そういう危険を感じた場合、すぐにイエズスのみもとへ馳せていく、超自然的本能を修得する。

 (五)――そのような理由から、霊魂は“精神的聖体拝領”や、“射禱”などによって、たえまなく祈る必要を、痛感するようになる。こういう短い祈りは、もし当人が望みさえすれば、ひじょうに忙しい仕事の最中でも、たやすくできる。また、生涯の刹那刹那が要求する、特別の必要に応じて、現在の事態や、危険や、困難や、疲労倦怠や、現実の裏切りや、その他種々の必要に応じて、それぞれちがった形をとることができるから、こういう種類の祈りは、いたって楽しい祈りでもある。

 (六)――“聖書”とりわけ“新約聖書”を、信心こめて勉強すること。これは、使徒的生活において、毎日やらねばならぬ修業である。毎日できないなら、せめて一週間に数回なりとも、ぜひ実行しなければならない。
 午後の信心読書は、敬けんな霊魂なら、絶対にオミットできない、日日の課業でなければならない。われわれの精神はいつも、超自然的真理や、信心を生みだす神学のドグマや、それからでる倫理的結論を、まざまざと眼前に見すえていなければならないのだ。これらは、あまりにたやすく、忘れられがちだからである。

 (七)――“心の取り締まり”は、毎週の告解の遠い準備ともなる。心の取り締まりのおかげで、毎週の告解は、まことの痛悔と、おかした過失についての真実の悲しみと、これからはますますまじめになろう、断然忠実になろうとの堅い決心を、確実にともなった、りっぱなものとなる。

 (八)――毎年の“黙想会”は、ひじょうに有益だが、これだけでは足りないのだ。毎月の黙想(まる一日、すくなくとも半日)をまじめにやって、ともすれば外面的に傾きやすい霊魂の、調和をとりもどさねばならぬ。これは、外的事業にたずさわっている人たちにとって、ほとんど必要欠くべからざるものである。


2018年3月25日(主)  枝の主日の説教 「イエズス様の3つの御苦難について黙想する」

2018年04月10日 | お説教・霊的講話
2018年3月25日(主日)枝の主日のミサ
小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年3月25日、 枝の主日のミサをしております。

4つほどお知らせがあります。1つは、今日のこの御ミサの後に、公教要理の代わりに、イエズス様の御受難の黙想があります。それから16時から晩課もあります。明日は朝の7時から聖月曜日のミサがあります。

第2は、来たる金曜日は聖金曜日で、カトリック教会の掟によれば、私たちは大小斎を守らなければなりません。20歳から59歳までの健康な成人の男女の信徒は、大小斎を喜んでイエズス様と共に御捧げ致しましょう。

第3は、ここでは残念ながら復活祭の御ミサはありませんが、大阪で夕方の18時から、御復活祭のミサと、復活の月曜日のミサがあります。ここでは次のミサは4月8日、4月の第2の主日で、白衣の主日のミサ、そして4月9日、マリア様の御告げの祝日のミサがあります。

第4は、私たちはこの聖週間にこれから入ろうとしますが、イエズス様の御苦難をどうぞ黙想なさって下さい。イエズス様の御苦難は3つの種類があります。

1つは、肉体の苦痛、これは私たちにとって黙想するのが簡単です。十字架に釘付けにされたその苦痛、鞭を打たれたその肉体の苦痛、あるいは茨の冠で太い茨が頭に貫き、聖伝によると目にも貫かれた、その痛さ、重い十字架を背負ったその痛み、これをどうぞ黙想して下さい。これは全て私たちを愛するがために、私たちの罪を赦そうとするが為になさった事です。

第2の苦痛は、精神的な苦痛でした。人々から裏切られた事。ユダから裏切られた事。弟子たちから、ペトロが否んだ事。あるいはそこまで善を施した群集から、「十字架に付けよ!」と言われた事。ある国のスポーツの選手がスケートで銀メダルを取ったのですけれども、残念ながらその子はちょっとした発言と行動で反感を買ってしまって、国民の多くの人から反対の声を聞いたそうです。するとそれを見たショックで、その選手とお母さんは精神病院に行かなければならなくなりました。イエズス様はこれほど善をする為に愛した人から、「十字架に付けよ!」と言われて、どれほどの悲しみと苦しみを受けた事でしょうか。人々から捨てられ、塵芥のように捨てられた真の天主、王の王が、嘲りの王となったその屈辱、それはどれほどの辱めだった事でしょうか。

第3は、今日福音で唯一イエズス様の言葉が読まれますが、「我が天主よ、我が天主よ、なぜ私を見捨て給うのか。」イエズス様こそ、天主聖父の命令を果たした方でした。12歳の時には、お父さんとお母さんを置いてまでも、聖父の事をやってきました。天主聖父は、洗礼の時でもタボルの山でも、「これは私の愛する子だ」と言ってくれました。しかし、この時にはあたかも呪われたかのように、聖父から捨てられたかのように、慰めも、何もありませんでした。聖父からも捨てられたこの苦しみを、イエズス様は受けました。私たちはこれを、この苦しみを理解し尽くすことができません。

なぜイエズス様はこの苦しみを受けたのかというと、私たちを愛するが為でした。私たちはそれにもかかわらず、イエズス様をどれほど裏切ってきたことでしょうか。イエズス様の代わりにバラバを、イエズス様をお金で売ってしまった、イエズス様の代わりに被造物を好んだ、あるいはYouTubeを望んだ、あるいはコンピューターゲームを望んだ、あるいは雑誌を望んだ、あるいは…等、罪を、罪の為にイエズス・キリストを売り飛ばした事がどれほど多かった事でしょうか。イエズス・キリストの代わりにバラバを選んだ事がどれほど多かったでしょうか。

今日は私たちはイエズス・キリストの騎士として、棕櫚の枝を勝利の枝を受けました。教会は私たちに1つの事を望みます、「これを持って、イエズス・キリストに従え。天国に至るまで、イエズス・キリストを決して手放すな。イエズス・キリストは十字架を経て、天国の栄光に入るべき者ではなかったのか。」私たちもイエズス様に従うその御恵みをマリア様に乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「カトリック教会よ、おまえはどこに行くのか?」(ローマ、2018年4月7日)の講話会の最後の宣言 Declaratio

2018年04月09日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

使徒勧告「アモーリス・レティチア」から生じた、離婚して再婚した人々の聖体拝領に関して、既に2016年に4名の枢機卿たちが「ドゥビア Dubia 」をフランシスコ教皇に提出しました。しかし、今に至るまでこの返事はありません。

今年4月7日土曜日に、その4名の枢機卿のうち2名(ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿とレイモンド・バーク枢機卿)がローマで多くの参加者を募ってカンファレンスを開きました。最後に信仰宣言「Declaratio」を発表しました。

その宣言の日本語訳をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「カトリック教会よ、おまえはどこに行くのか?」(ローマにて、2018年4月7日)の講話会の最後の宣言


使徒勧告「アモーリス・レティチア」の内容の矛盾する解釈のために、不満と混乱がますます大きくなり、世界中の信徒たちの間で広がっている。

明確な説明を求めて緊急の懇願が、およそ百万名の信徒たちと250名以上の学者らと数名の枢機卿らによって教皇様に提出されたが、まだ如何なる答えも受け取っていない。

信仰と教会の一致に対する重大な危険が出現しているただ中で、私たち、洗礼を受けかつ堅振を受けた天主の民のメンバーは、私たちのカトリック信仰をもう一度肯定するように呼ばれている。

第二バチカン公会議は、そうすることを私たちに許可しまた励ましている。教会憲章33番には次のようにある。「かくして、全ての信徒は、自分に授けられたその賜物の力により、「キリストから受けた賜物の量に従って」(エフェゾ4:7)、教会自体の使命の証人であり同時に生ける道具である。」

福者ジョン・ヘンリー・ニューマンも私たちにそうすることを励ましている。彼の預言的な随筆「教義に関することについて信徒に諮問する」"On Consulting the Faithful in Matters of Doctrine" (1859)で、信徒が信仰の証をすることの重大さを語った。

従って、教会の真正な聖伝に一致して、私たちは次のことを証し、信仰宣言する。すなわち、

1)二人の洗礼を受けた人々の間の承認され・完成された婚姻は死によってしか解消され得ない。

2)従って、有効な婚姻によって一つとなったキリスト者たちが、その配偶者がまだ生存している間に別の人と一つになろうとするなら、姦淫という重大な罪を犯すことになる。

3)私たちは、常に例外なく遵守すべき絶対的な道徳の掟が存在すると確信している。

4)私たちは、さらに、良心の主観的な判断が内在的に悪の行為を良い許されるものとすることが出来ないと確信している。

5)改悛の秘蹟による罪の赦しを与えることができるという判断は、犯した罪を罰することが出来ないから、によってなされるのではなく、改悛者が天主の掟に反する生活のやり方を放棄するという意向があるから、によってなされる、とも私たちは確信している。

6)離婚して民法的に再婚した人々で、節制の生活を送ることを望まない人々は、客観的に天主の法に反している状況において生活していること、従って、彼らは御聖体拝領ができないことを、私たちは確信している。

「私のことばを守れば、あなたたちはまことに私の弟子である。またあなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由な人にするだろう」(ヨハネ8:31-32)と私たちの主イエズス・キリストは言われる。

この信頼をもって、私たちの信仰を、教会の最高の牧者であり教師である教皇の前で、また司教たちの前で私たちは宣言する。そして彼らに私たちを信仰において固めてくださるように私たちは求める。

【関連記事】
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カトリック教会の4名の枢機卿から教皇フランシスコへの公開書簡:「アモーリス・レティチア Amoris Laetitia」(愛のよろこび)における結び目を解く要請

2018年3月25日(主)  枝の祝別式の前のお知らせ「枝の行列の典礼の意味について」

2018年04月09日 | お説教・霊的講話
2018年3月25日(主日)枝の祝別式の前にお知らせ 
小野田神父


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ!

この枝の主日には、ミサの前に棕櫚の枝を持って行列をする、という行事があります。これは、この日、イエズス様がエルサレムに、オリベトの山から入城されたその時にヘブライの子供たちが、「ダヴィドの子にホザンナ!」と言ってイエズス様を歓迎した、という歴史の事実を記念することにあります。しかし私たちにとってもっと重要な意味があります。

それは、私たちがイエズス様と共に、霊的にお供することです。そこで聖伝によれば、私たちも3つの場所に行かなければなりません。

1つは、オリベト山を象徴する、このいつもの教会とは別の教会、あるいは教会の庭。

第2は、イエズス様がオリベト山から入城されたその道、それは私たちの枝の行列によって表わされます。

そして第3にエルサレム。エルサレムはこの御聖堂です、このいつもの御聖堂です。霊的には指定巡礼教会といって、聖ラテラノ教会に私たちは向かいます。

司祭が、外にあるオリベト山を象徴する別の祭壇に入堂する時、これはイエズス様がオリベト山から来られたという意味です。そこで聖歌隊は、「ダヴィドの子にホザンナ!」と歌い始めます。

聖伝によれば、ピオ十二世教皇様の典礼改革の前によれば、今日の典礼は非常に長くて、ミサがほぼ2回あるようなものでした。

なぜかというと、最初の枝の祝別では、ミサと同じような儀式があったからです。ただ聖変化と御聖体拝領だけがなく、聖変化の代わりに枝の祝別、そして御聖体拝領の代わりに枝の配布が行なわれていました。

なぜかというと、「私たちがイエズス様と共に霊的にお供する、最後までお供する、天国までお供する為には、私たちはヘブライの子供として、またイエズス様の兵士として、騎士として、あるいはイエズス様の証人として、殉教者として、特別な授与式を叙勲式を受けなければならない」と教会は考えてきたからです。

棕櫚の枝というのは、勝利のシンボルではありますけれども、これを叙勲するかのように私たちに教会は授与して下さり、そして私たちを騎士として、イエズス様の兵士として、聖別して下さいます。また勝利の棕櫚の枝を既に受けるという事は、「イエズス・キリストと共に殉教者として、イエズス・キリストの後に従え。イエズス・キリストの殉教に従え」という意味です。

その勝利の棕櫚の枝を持った私たちは、キリストと共にキリストの後に従って、行列に出ます。今回私たちは2階を廻るにはあまりにも手狭なので、2階からすぐに1階に降りて、外に一度出ます。外に出て、皆さんが一旦外に出ましたら、またこの元に戻ります。この中に入りますが、この教会は、行列が終わった時には、「天国」を意味しています。「天のエルサレム」を意味します。

そこで、侍者が本来ならば、十字架を以てドアを、十字架の足を以てドアを叩くのですけれども、3回ノックします。そして初めて天国の門が開けられて、キリストと共に私たちが天のエルサレムに入る、という行事があります。

その前に、枝の配布の間には、詩編の23番が歌われます。
Attóllite portas, príncipes vestras, et elevámini, portæ æternáles : et introíbit Rex glóriæ.
Quis est iste Rex glóriæ ? Dóminus fortis et potens : Dóminus potens in prǽlio.「さぁ門よ、扉を開け。框を上げよ。永遠の王が入る。」
「永遠の王とは誰か?」
「永遠の王とは、イエズス・キリストである。」
その詩編を歌い、私たちは入るのです。

聖歌隊はこの入堂と同時にこう歌います。“Ingrediénte Dómino in sanctam civitátem, Hebræórum púeri resurrectiónem vitæ pronuntiántes, Cum ramis palmárum : Hosánna, clamábant, in excélsis.”

「主が聖なる町エルサレムに入る時には、ヘブライの子供たちが命の復活を告げ Hebræórum púeri resurrectiónem vitæ pronuntiántes」と。

私たちが永遠のエルサレムに入る、天国の栄光の中にイエズス様と共に入る時に、ヘブライの子供たちは、私たちの命の復活をも告げています。ですから私たちがこのイエズス様の後に従って、十字架の後に従って、この御聖堂に一緒に入るという事は非常に深い意味があります。

でも教会は、「その命に入る為には何をしなければならないか。」「イエズス様の御受難に従わなければならない」と教えています。そこで、御受難の朗読がミサでは読まれます。

では、今から儀式を始めます。

2018年3月24日(土)  枝の主日の前日 「棕櫚の枝、枝の主日の典礼の意味」

2018年04月08日 | お説教・霊的講話
2018年3月24日(土)枝の主日の前日の土曜日のミサ 大天使聖ガブリエルの記念
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年3月24日、枝の主日の前日の土曜日のミサです。
今日はこの御ミサの後で、いつもの感謝の祈りの後に、御聖体の前で聖時間を過ごしたいと思います。なぜかというと、今月の初金曜日には残念ながら聖時間をする事ができなかったからです。聖週間を迎える前の直前に、この聖時間を捧げる事によって良い聖週間と、そして復活祭の準備となりますように、お祈り致しましょう。

来たる金曜日は聖金曜日です。20歳以上の満59歳までの健康なカトリック信者の男女は、大小斎を守らなければなりません。この機会にぜひ、イエズス様の御受難を思い出して、この日には何も召し上がる事ができなかった、苦い酢のみをなめさせられたイエズス様を思い出して、大小斎を捧げる事に致しましょう。

来たる復活祭は、4月1日、夕方の18時からミサがあります。復活の月曜日にもここで御ミサがあります。いらして下さい。



“Benedictus qui venit in nomine Domini, Rex Israel.”
「主の御名によりて来たる者、イスラエルの王は祝せられよ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日の典礼では、イエズス様が枝の主日の、荘厳にエルサレムに入城をされた事の話が少し福音で読まれています。残念ながら私たちのこの御聖堂では、今年は枝の主日を祝う事ができませんが、この枝の主日の意味を黙想する事を提案します。そしてそうする事によって、良い聖週間の準備を決心を立てる事に致しましょう。

枝の主日は、3つの部分に分かれています。

教会のいつも使っている御聖堂の教会の外に、あるいは小さな聖堂に、あるいは教会の庭に、仮の祭壇が立てられます。これはオリベトの山を意味しています。そこでピオ十二世教皇様がなさった典礼改革の少し前までは、実はあたかもミサが2つあったかのようでした。最初のミサは、あたかも聖変化の代わりにミサがすべてそのまま行われて、Sanctusがあって、そして今からミサの典文があって、聖変化をする、というその時に、枝の祝別がありました。この枝の祝別はまさに、この枝が棕櫚の枝が、イエズス様を意味しているかのようです。

ちょうどローソクの、2月2日の御潔めの日にローソクを受けた時には、私たちは「ローソクがイエズス様のシンボルである」という事を理解しました。そして私たちがローソクに接吻をして、そして世の光であるイエズス様を灯って行列をしました。

それと同じように教会は、この棕櫚の枝をイエズス様のシンボルとして、信徒たちに配布します。この時に信徒たちは跪いて、イエズス様のシンボルであるこの棕櫚の枝に接吻をします。そしてこのイエズス様のシンボルであるその棕櫚を持って、教会へと向かって行進します。先頭に立つのはイエズス様の十字架、そしてイエズス様の代理者である司祭、そして棕櫚の枝を持った勝利の枝を持った信徒たちです。イエズス様と共に歩く、イエズス様の後に従って歩く、という意味を持っています。

「聖伝の祭壇が東を向いているのも、全く同じ意味がある」と典礼学者は言います。「十字架に向かって司祭を代表して、あたかも天国への巡礼であるかのように行列をして、天国に向かってい行く、という意味だ、東の方に向かって行く、歩んで行く、復活へと歩んで行く、という意味だ」と説明しています。

棕櫚の枝を配布するのは、イエズス様のシンボルを配布するという意味だけではありません。なぜかというと、イエズス様の後をイエズス様と共に従って行く、というには覚悟が必要であるからです。単なる子供にできる仕事ではありません。

もちろん枝の主日には、ヘブライの子供たちが棕櫚の枝を持ってイエズス様を歓迎しました。私たちもこの時にはヘブライの子供たちと、本当のヘブライの子供たちとならなければなりません。イエズス・キリストを「イスラエルの王」と「本当のイスラエルの王」と宣言する子供たちにならなければなりません。

しかし、私たちが最後まで宣言し続ける事ができるように、単なる子供ではなくて、私たちを騎士として、また殉教者として、特別の騎士として位を授ける式を捧げようと思っています。殉教者としての栄光の棕櫚の葉を与えようと思っています。ですから私たちが跪ずいて司祭から棕櫚の枝を頂く時には、実は「これからイエズス・キリストの、王たるキリストの為に戦う騎士としての位を授けられる叙勲式」という意味もあり、そして「勝利の棕櫚の枝として、殉教者として準備を覚悟せよ」という意味もあります。

そうして騎士として、イエズス・キリストの王に従う軍人として、その位を授けられ、殉教者としての勝利の棕櫚の枝を与えられた私たちが、イエズス・キリストに従って行列の行進を進みます。

中世のヨーロッパにおいては、町の門を更に出て、「イエズス・キリストが王である」という事を宣言して、また村の教会に戻りました。教会の近くに着くと、今まで一緒に歌を歌っていた聖歌隊は、一足先に教会の中に入ります。教会は聖歌隊を受け入れると門を閉めます。この聖歌隊はあたかも天使たちを表しているかのようです。一足先に入った門の閉じられた教会へと、十字架を先頭にした信徒たちの行列が、司祭を先頭に近付いて行きます。

ヨーロッパではよく教会の入り口に、「最後の審判」の彫刻が入り口に正面に書かれています。王たるキリストが悪人と善人を裁いて、マリア様もその横におられて、そして呪われた者は地獄に、そして選ばれた者は天国に行く、というその最後の審判のある正面の大きな正門の前に、十字架を持って、そして司祭と共に、棕櫚の枝を持った信徒の大群がやって来ます。この教会は、「天国」を意味しています。

現代の典礼では、枝の配布の間に詩編の23番が歌われます。「さぁ門よ、扉を開け。框を上げよ。永遠の王が入る。」
「永遠の王とは誰か?」「永遠の王とは、イエズス・キリストである。」

ピオ12世の改革の前には、天国の中と、到着した一群が相互に聖歌を歌い合いました。
「贖い主なる王たるキリストよ、御身に栄光と讃美と栄光あれ、この方に美しき子供たちが敬虔なホザンナを歌った。」
Glória, laus et honor tibi sit, Rex Christe, Redémptor : Cui pueríle decus prompsit Hosánna pium.

教会の中からは聖歌隊の声が聞こえます。
「御身はイスラエルの王、ダヴィドの気高き末、祝福された王よ御身は主の聖名によりて来たり給う。」

教会の外で群衆が歌います。「贖い主なる王たるキリストよ、御身に栄光と讃美と栄光あれ・・・!」

また教会の中では歌います。「いと高き天では全ての天の大群が御身を讃美する。死すべき人間と全ての被造物は一緒に御身を讃美する。」

教会の外で群衆が歌います。「贖い主なる王たるキリストよ、御身に栄光と讃美と栄光あれ・・・!」

教会の中「ヘブライの民は枝をもって迎えに来た。見よ、私たちは御身のために祈りと懇願と聖歌をもってここに参ずるなり。」

教会の外「贖い主なる王たるキリストよ、御身に栄光と讃美と栄光あれ・・・!」

この歌はまだ続き、最後に十字架を持っていた助祭が、その十字架の足で門を3度叩きます、ドン、ドン、ドン。

十字架のその力によって、天国の門はもう一度開かれます。今までアダムとエヴァの罪によって閉ざされていたこの天の門は、十字架の力によってのみ、初めて開かれる事ができます。そしてそのイエズス様を先頭に、イエズス様を持った棕櫚の枝を持った勝利のシンボルを持った、そしてキリストの騎士となった信徒たちが教会の中に入って行きます。これは、私たちがもう一度天国に入る事ができる、という事のシンボルです。

このイエズス様の、王であるイエズス様のこの讃美歌は非常に有名です。その王であるキリストと共に天国に入るという事を思い出させつつ、枝の主日のミサが始まる事になります。その時には一転して、福音ではイエズス様の御受難が読まれます。しかしこの御受難こそが、私たちを天国へと導くその勝利の源である、という事を私たちは確信しているわけです。

人の子が上げられた時、私は全てを私の元に呼び寄せよう。もしも麦がそのまま落ちて死ななければそのまま残るが、しかし落ちて死ねば100倍の実を結ぶ。イエズス・キリスト様は私たちを永遠の命に導く為に、御自分の御血を全て流そうとされています。

2000年前は、イエズス様は御一人でこの御受難の道を歩きましたが、今では私たちを全て天国に連れて行く為に、その神秘の中に一緒に入ろうとしています。どうぞ良い聖週間を迎える事ができますように、お祈り致しましょう。

特にマリア様にお祈りしなければなりません。なぜかというと、マリア様がいなければ私たちは十字架から逃げてしまうかもしれないからです。もしも聖ヨハネが十字架のもとに踏み留まる事ができたとしたら、マリア様のおかげでした。私たちはマリア様と共に留まる事によって、キリストの軍人、そして殉教者、と共に、マリア様の良き子供とならなければなりません。では、このミサを続けていく事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き14)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年04月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き14)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き14)


(f)聖体による内的生活の中にこそ、使徒職のいっさいの結実性は包合されている (2/2)

われわれの感嘆すべき教皇であって父なる聖ピオ十世は、“頻繁な聖体拝領”の教皇であられると同時に、内的生活の教皇でもあられる。
 「いっさいを、キリストにおいて回復する Instaurare omnia in Christo」(エフェゾ1・10)とは、とりわけ、使徒的事業にたずさわる人びとに向かって、お叫びになったかれの第一声である。これこそは、聖体に生きる使徒の、実践すべきプログラムなのだ。これこそはまた、教会内におけるその事業の成功を、人びとを聖体的生活に進歩させる、その進歩の度合いにのみ見ようとする使徒の、プログラムでなければならない。
 当世のもろもろの使徒的事業よ、おまえは数こそ多いが、しかしあまりにしばしば、かんじんの実を結んでいない。なぜおまえは、現代社会を、改革することができないのか。われわれもこれを認めるのだが、おまえはこれまでの世紀にくらべて、数がいちじるしくふえている。それなのに、おまえは、家父の畑を荒らす無宗教・不道徳の加担者らを、撃退することができない。前世紀にくらべて、おそろしいぐらいそれができない。いったい、どうしたことか。
 それができない理由は、いったい、何なのか。――おまえが、内的生活に十分にひたっていない、そのためである。聖体的生活に、じゅうぶん理解された典礼生活に、おまえがりっぱに生きていない、そのためである。
 おまえがみちびき、おまえを運営する人びとは、なるほど条理のとおった、りっぱな議論をたたかわすことはできた。おのれの才能を見せびらかすことはできた。ある程度の信心さえも、人びとに吹き込むことはできた。
 かれらは、福音の光りの波を、人びとの上にそそぎ、いからかの信心を、かれらに実行させる所まではこぎつけた。これだけでも、すでにりっぱな収穫であるにはちがいない。
 しかし、かれらは、生命の泉から十分に汲みとり、飽くまで飲むことを怠ったがために、人びとの意志に決断力をあたえるこの“熱愛”を、他の人にもわけあたえることができなかった。目にみえないで、しかし不可抗力的にはたらくこの使徒的奮発心を、人びとの心にもそそぎ入れようと努力したが、無駄だった。生き生きとして活動力にみちた、信者の集合体のパンダネなる、エリートの信者をつくろうと望んだが、無駄だった。“熱愛”というこの超自然的引力――かけがえのない、そして音もなく、やすみもなく働くこの超自然的引力の源が、かれらのまわりに炎々たる天主の愛の熱火を放ち、この同じ熱火が、それに燃焼されることのできる各階層の人びとの心にも、燃えうつることを望んだのだが、それもやはり無駄だった。
 これらの収穫をあげるためには、かれらの生活――イエズスのご生命に生きるという、かれらの生活――が、あまりに浅薄だったからである。

 前世紀の罪悪から、人びとの霊魂を予防するためには、普通の信心で、間にあったろう。だが、何百倍にも勢をました現世紀の悪の病菌――悪魔と世間の加担者たちから注射された現世紀の悪の病菌を予防するためには、前のより幾層倍も強力な、注射液が必要なのだ。
 それなのに、現世紀の使徒たちには、よくきく解毒剤をつくる実験室がないので、あるいは、現世紀の使徒的事業は、ただ感情的な熱心、点火されるとすぐに消えてしまう大いなる熱心を生み出すことに限定されていた。
les œuvres se sont bornées à procurer la ferveur du sentiment, grands élans presque aussi vite éteints qu'allumés.
あるいは、事業はほんの少数にしか影響を及ぼすことができなかった。
elles n'ont pu atteindre que d'infimes minorités.

 神学校も、修練院も、聖体の愛に酔っている熱烈な司祭、修道者、修道女の大群をつくりだすことができなかった。だからこそ、これら精鋭の霊魂たちによって、使徒的事業に献身する信徒の心の火が、いまだに燃えあがらないでいる。いつまでも灰の中にくすぶっている。むろん、現世紀の使徒養成機関は、敬けんな使徒たちを、数おおく主の教会に送りだすことはできたろう。だが、その送りだされた使徒たちの中で、聖体的生活に生きる信者、すなわち、心の取り締まりと奮発心においては完全で、そのうえ熱心で、活動的で、いかなるぎせいも惜しまない大きな心をもち、かつ実効的であるこの信心、いいかえれば、”内的生活“をもった者は、ごく少なかったのではないか。

 人はよく教会を評価しているのを聞く。この教会は“優秀”だ、あの教会は“最も優秀”だ、何故なら、信者が神父にていねいに挨拶をする。神父に対して敬意を払って話をする、何らかの敬慕の情を披歴する、必要があればよろこんで神父にお手伝いをするからだ、と。しかし、この教会では、多くの信者が、日曜日にミサにあずかるかわりに、労働し、聖体や告解などの秘跡がうとんじられ、カトリックの宗教については無知、不品行、天主への冒涜、道徳はゆるんではいないだろうか?なんとあわれなことか!
これが"最も優秀"な教会なのか?未信者の生活となんの変わりもない生活を送っているこういう人々を、キリスト信者と呼ぶことができるのだろうか?

On entend parfois qualifier de bonne, d'excellente, une paroisse, parce que les gens y saluent poliment le prêtre, lui répondent avec déférence, lui manifestent quelque sympathie, lui rendent même au besoin volontiers service, mais où le plus grand nombre remplace par le travail l'assistance à la messe du dimanche, où les Sacrements sont abandonnés, où régnent l'ignorance de la Religion, l'intempérance et le blasphème, où la morale laisse fort à désirer. Quelle pitié! Excellente paroisse? Peut-on appeler chrétiens ces gens à la vie toute païenne?

 福音の労働者であるわれわれは、この悲しむべき結果をなげく。なぜ、われわれは御言葉が説教者たちに教えるこの学校【つまり御聖体】にもっとひんぱんに通わなかったのだろう!なぜわれわれは、聖体の天主イエズスと心と心を合わせて、生命の言葉をもっと深く汲みとらなかったのだろう!天主はわれわれのくちびるを通してお語りにならなかった。これこそが致命的なことだった。われわれの人間の言葉がほとんどなんの実も結ばなかったと、驚くのを止めよう。

Ouvriers évangéliques, nous qui déplorons ces tristes résultats, que ne sommes-nous allés davantage à cette école où le Verbe enseigne les prédicateurs ! Que n'avons-nous puisé plus profondément dans le cœur à cœur avec le Dieu de l'Eucharistie, la parole de vie! Dieu n'a pas parlé par notre bouche. C'était fatal. Cessons de nous étonner que notre parole humaine soit restée presque stérile.

 われわれは、霊魂たちの目に、キリストとイエズスの命を教会に反映する者としてはうつらなかった。人々がわれわれを信じるために、われわれのひたいのまわりに、後光のようなものが輝いていなければならなかった。ちょうどシナイ山から降りてイスラエルの民へと戻っていくときに輝いていた後光が。この後光は、ヘブライ人たちの目にとって、かれをつかわされた御者とかれとの親密さを証しするものだった。

Nous ne sommes pas apparus aux âmes comme un reflet de Jésus et de sa vie dans l'Eglise. Pour que le peuple crût en nous, il eût fallu que brillât autour de notre front quelque chose de l'auréole qui illuminait Moïse, lorsque descendant du Sinaï il revenait vers les Israélites. Cette auréole était aux yeux des Hébreux un témoignage de l'intimité du représentant avec Celui qui l'envoyait.

われわれの使命を果たすためには、われわれがただ正直な信念の人と見えるだけでは足りなかった。
聖体の光線が人々をして、生ける天主を――だれもこれに抵抗することのできぬ全能の天主を、思わせるようにしなければならなかったのだ。われわれが、どんなに優れた修辞学者、演説家、講演者、伝道者、教師だったとしても、不完全にしか成功しなかった。何故なら、われわれが天主との親しさを反映しなかったからだ。

Il eût fallu pour notre mission que nous apparussions non seulement hommes probes et convaincus, mais qu'un rayon de l'Eucharistie laissât deviner au peuple de Dieu vivant auquel rien ne résiste. Rhéteurs, tribuns, conférenciers, catéchistes, professeurs, nous n'avons réussi qu'imparfaitement, parce que nous n'avons pas reflété l'intimité divine.

 事業の使徒でありながら、かんじんの事業に失敗したわれわれである。だからといって、いつまでも嘆いていてはならぬ。人間は、だれでも、幸福にあこがれている。幸福へのあこがれには、どんな人でも、心を動かされる。この事実をつきとめて、さてわれわれは、おのれに問うてみるのもよかろう。――はたして聴衆は、われわれのうちに、天主の永遠無限の幸福の反映を見いだしただろうかと。聖櫃の内に、かくれておいでになる御者との一致こそは、この幸福の反映を、われわれにあたえてくれたはずだ。イエズスこそは、天国のよろこびそのものであられるから。
 使徒たちにとって、このよろこびの糧がどんなに大切だかは、イエズスご自身、それをお忘れにならなかったほどである。「わたしが、これらのことを話したのは、わたしのよろこびが、あなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたのよろこびが、満ちあふれるためである。Haec locutus sum vobis ut gaudium meum sit m vobis et gaudium vestrum impleatur.」(ヨハネ15・11)――最後の晩餐の直後、イエズスは使徒たちに、こう仰せられた。それは、聖体が、地上におけるあらゆるよろこびの源泉であることを、かれらに銘記させるためだったのだ。

 われわれは、キリストのしもべとして、教会の聖役者として、自他ともに任じている。
 だが、そういうわれわれにとって、聖櫃は声なき牢獄でしかない。
 祭壇の石は、氷のように冷ややかである。
 主のご逝去の記念たる聖体は、なるほど尊敬はするだろう。
 だが、それは、ほとんど生命なき寺院の宝物にひとしい。
 われわれ教会の司牧者らが、こんなにだらしがないからこそ、信徒をわるい道に、ふみ迷わせてしまったのではないか。かれらを禁断の快楽のドロ沼から引きあげるために、いったいったいわれわれはなにをなし、なにができたろうか。われわれは、宗教のあたえるよろこびについて、善き決心のあたえる安心と喜悦について、かれらによく話をしてきかせたものだ。
 だがしかし、われわれ自身、天主の子羊の生ける泉からじかに飲んで、じゅうぶんに魂の渇きをいやす、すべを心得ていなかったものだから、われわれの語る言葉には熱がなかった。確信がなかった。生命の躍動がなかった。いいつくせない霊のよろこびについて語っても、それはちょうど赤ん坊が、なんやらしどろもどろ、口ごもりするのと同じだった。人の心が生まれながらに欲求する幸福を語るときにこそ、地獄の話をするときの恐ろしい言葉にもまして、いっそう効果的に、かれらを傲慢と肉欲と物欲の鉄鎖から、解放することができるのに……。
 天主は愛である。天主においては、いっさいが愛である。
 それなのに、人びとは、われわれが天主について語るところによって、天主は厳格な立法者である、いかめしい審判者である、その判決がひとたびくだされたら、絶対に撤回できない恐ろしい裁判官である、その宣告する刑罰は、世にまたとない残酷なものである、というふうに、天主のうちにただ恐怖の一面だけを眺めるのだった。われわれのくちびるは、イエズスの聖心――人類を愛して、これがために生命を捨てられたイエズスの聖心に、波うつ愛の言葉を、語ることができなかった。

Nos lèvres n'ont pas su parler le langage du Cœur de Celui qui aime les hommes, parce que nos entretiens avec ce Cœur étaient aussi rares que peu intimes.

 イエズスの聖心と、心から心へと語りあうことが、ごくごくまれだったからである。語ったからとて、それにはなんの親しさも、なんのむつましさなかったからである。
 そんなわけで、つまらないのはわれわれ司牧者なのだから、信徒がいくらかんばしくないからといって、その過ちを現代社会の深刻な道徳的腐敗になすりつけてはならぬ。なぜなら、こういう実例も、ふだんに見せつけられているではないか。すなわち、すでに非キリスト教的となりおわった小教区が、ここにある。そこに、良識があり、熱心で、活動的で、やり手で、とりわけ、聖体的生活の愛好者である神父たちが行って伝道する。またたくまに、信者たちは心を入れかえて、熱心になる。悪魔の加担者たちが、ありったけの努力をかたむけて、どんなに神父たちを妨害しても、いっこう平気である。
 悪魔にとって、戦慄すべき者となっている神父たち(不幸にも、かれらの数はごく少ない!)は、いっさいの力のみなもとなる聖ヒツのイエズスから、霊戦に要するちからを汲みとっている。そして、聖体的生活という常識の武器を、いつもピカピカみがいているので、悪魔がどんなに大ぜい集まって、かれらに攻撃をしかけても、けっして勝つことができないのである。

 祭壇のもとでする、かれらの念祷は、このとおり、絶対に無駄ではなかったのだ。今こそかれらは、アシジのフランシスコがいった左の言葉を、身にしみて理解したろう。
 「念禱――これこそは、恩寵の貯水池なのだ。説教は、われわれが、天からいただいた恩寵を、人びとの心にみちびき入れる水道管である。天主のお言葉を述べつたえるために、天の大王から選ばれた教役者は、かれら自身、おのれの口から、わけても聖櫃のそばで学び、かつ収穫したものを、他の人びとにも、わけあたえてやらねばならぬ者である」
L'oraison, c'est la source de la grâce. La prédication c'est le canal qui distribue les grâces que nous avons reçues du Ciel. Les ministres de la parole de Dieu sont choisis du grand Roi pour porter cmx peuples ce qu'ils auront appris et recueilli eux-mêmes de sa touche, SURTOUT PRES DU TABERNACLE.

 いまや事業の使徒の世紀が、大いなる希望のかがやきを放って、明けそめようとしている。
 これらの使徒は、たんに聖体を拝領する者の行列を、盛んにすることに満足できないで、理想をもっと高くもち、どうすれば聖体を拝領する者が、ほんとうに霊生の完成を、わが身に実現するのを容易にすることができるか、そのすべをちゃんと心得ているのである。

  (第四部 終了)

第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き13)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年04月06日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き13)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き13)


(f)聖体による内的生活の中にこそ、使徒職のいっさいの結実性は包合されている (1/2)

 ご托身の目的――したがって、いっさいの使徒職の目的――は、人類の天主化である。
「キリストが人となられたのは、人を“天主”にするためであった」
Christus incarnatus est ut homo fieret deus.
 これは、聖アウグスチノの言葉である。

 さらに、聖トマス・アクィナスは、自分で作った、聖体の大祝日の典礼文のなかで、次のようにいっている。 
 「天主の御ひとり子は、われわれを、ご自分の天主性に参与させようとおぼし召され、そのために、われわれ人間の本性を、おとりになった。人びとを、“天主”にするためにこそ、かれは人となられたのである」
Unigenitus Dei Filius suae divinitatis volens nos esse participes, naturam nostram assumpsit, ut homines deos faceret factus homo.

 さて、聖体によってこそ、さらに適切ないい方をすれば、聖体的生活によってこそ、さらにいいかえれば、聖体のうたげに養われる強固な内的生活によってこそ、使徒はおのれを、天主の生命に同化させるのではないか。
 右の真理を実証する聖主のお言葉が、ここにある。「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に生命はない」(ヨハネ6・53)
Nisi manducaveritis carnem Filii hominis et biberitis ejus sanguinem, non habebitis vitam in vobis.

 これは断固として、他のいかなる解釈もゆるさない、ただひとすじの意味に、すなわち字義通りに、とらねばならぬお言葉である。
 聖体的生活とは、われわれのうちにおける、イエズス・キリストのご生活そのものである。聖体的生活によって、イエズス・キリストは、われわれの内にお住まいになる。
 イエズス・キリストは、われわれが聖体を受けるために、ぜひもっていなければならぬ恩寵の状態によって、われわれの内にお住まいになるのはもちろんだが、それよりもっとありがたいことには、かれはご自分の活動のあふれをもって、われわれの内に、われわれを通じて、お働きくださるのである。「わたしがきたのは、羊に生命を得さえ、なお豊かに得させるためである。(ヨハネ10・10)と聖主は仰せられて、この間の消息を、あきらかにされている。

 使徒の任務は、天主の生命を、信者の心にそそぎ入れるために、まず自分自身、この生命に満ちみちていることである。そして、聖体にこそ、天主の生命の泉は、ゆたかにたたえられているのである。はたしてそうであるなら、聖体のお働きなしに、どうしておのれの事業によって、この生命を直接間接わけあたえてやらねばならぬ人びとの上に、事業の効果を及ぼすことができるのだろうか。

 イエズス・キリストが、聖体の秘跡をご制定になったのは、聖体をもって、いっさいの活動の源泉にしたい、いっさいの信心の、ほんとうの教会のためになる、いっさいの使徒職の魂にしたいおぼし召しからである。この結論に達しないなら、イエズスが現実に、パンとぶどう酒の形色のもとに臨在する、というドグマを黙想したからとて、なんの役に立つだろうか。人類救済にかかわるすべての奥義が、カルワリオを中心にして、そのまわりを回転しているのは、とりもなおさず、救霊にかかわるすべての恩寵が、祭壇の犠牲なるミサ聖祭から、流れくだることを実証するのではないか。
Impossible de méditer sur les conséquences du dogme de la présence réelle, du sacrifice de l'autel, de la communion, sans être amené à conclure que Notre-Seigneur a voulu instituer ce Sacrement pour en faire le foyer de toute activité, de tout dévouement, de tout apostolat vraiment utile à l'Eglise. Si toute la Rédemption gravite autour du Calvaire, toutes les grâces de ce mystère découlent de l'Autel. Et l'ouvrier de la parole évangélique qui ne vit pas de l'Autel n'a qu'une parole morte, une parole qui ne sauve pas, parce qu'elle émane d'un cœur qui n'est pas assez imprégné du Sang rédempteur.

 だから、祭壇の秘跡なる聖体を、自分の生活の中心にしない人は、たとえ福音の言葉を述べ伝える使命をおびてはいても、その語る言葉は、死んだ言葉である。生命がないから、どんなに雄弁をふるっても、けっして世を救うことのできない言葉である。救世主の尊い御血にひたされていない心からでる言葉――ただの人間の言葉にすぎないのだからである。

 そんなわけで、救世主が最後の晩さんの後、すぐに、ぶどうの木のたとえをかりて、内的精神に生かされていない使徒的活動が、なんの役にも立たないゆえんを、あれほど強く、あれほど明快にご説明になったのも、そこにちゃんと深いご計画があったからである。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(ヨハネ15・4)
Sicut palmes non potest ferre fructum a semetipso, sia nec vos nisi in me manseritis.

 しかし、このお言葉につづいて、すぐに聖主は、「もし人が、わたしにつながっており、また、わたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」Qui manet in me et ego in eo, hic fert fructum multum.(ヨハネ15・5)と仰せられて、内的生活に、聖体的生活に生きる使徒によってなされる事業が、どれほどねうちのあるものであるかを、お示しになったのである。

 こういう使徒だけが、多くの実を結ぶ。
 こういう使徒でなければ、使い物にならぬ。
 こういう使徒を通じてでなければ、天主は力づよく、お働きにならない。これが聖アタナジオは「われわれは、キリストの御肉によって天主となった」といっていることだ。C'est que, dit saint Athanase, «nous sommes faits dieux par la chair du Christ ».
 説教師や、カトリック要理を教える人が、自分の心に、キリストの御血の熱火を保っているとき、かれらの心が、聖体のなかにいますイエズス・キリストの聖心を燃えたたせている愛の火にもえさかっているとき、そのかたる言葉は、どれほど生き生きとしていることだろう。どれほど熱烈で、どれほど群衆の心をもえたたせることだろう。
 天主が、ご自分の福音宣伝の事業のために、お選びになる使徒たちが、聖体拝領によって、かれらの奮発心の火をもやし、ほんとうに“キリスト保持者”Porte-Christとなるとき、聖体の効果はどんなにすばらしく発揮されることだろう。教場でも、病院でも、青年会でも、その他いずこにおいても……。

 悪魔がどんなに人びとの霊魂を、無知と誤謬の牢獄につなぎとめるのが上手であっても、また、どんなに不遜で不潔で、たえまなく人びとの霊魂を、傲慢の毒酒によわせて有頂天にしてやろう、肉欲のドロ沼につきおとして溺れ死にさせてやろう、と必死になっていても、使徒職の魂をいかすまことの生命なるイエズス・キリストの聖体こそは、救霊の敵にたいして、無比のはたらきをしてくれることを、使徒に身にしみて実感させるのである。
 聖体によって、愛は完成される。多くのことについて、思い煩わねばならぬ事業をやっているうち、使徒の愛も、いきおい冷めざるをえない時もあろう。しかし、キリストのご受難の生ける記念なる聖体こそは、まさに消えようとするこの天主の愛の火を、ふたたび使徒の心に、たきつけてくれる。
 聖体は、かれに、ゲッセマニの園を、ピラトの官邸を、カルワリオの惨劇を、まざまざと思い出させる。
 聖体は、かれに、キリストのお苦しみとお辱めにかんして、えがたい知識をあたえる。
 福音の働き手は、キリストのご受難から、人間苦の解決と慰めを汲みとる。かれがひとたび、なやめる人びとに教えを説くとき、そのかたる言葉は、かれらにも自分のように、救い主のご受難になぐさめを見いださせる。かれの言葉は、イエズスを手本とする諸徳の光かがやく言葉である。かれのかたる言葉の一語一語は、あたかも人びとの上にそそがれる、キリストの御血のひとしずくのように尊い。

 聖体的生活を反映しない使徒の言葉は、たとえ福音のおしえを説いても、なるほど人の心をすこしは引くこともあろう。だが、それは、つかのまである。想像とか、感情とか、そういう感性能力は動かしうるかも知れぬ。要塞の外郭だけは、どうにか占領できるかも知れぬ。だが、内部の堅陣――すなわち、心とか意志は、絶対に奪取することができない。

 霊魂がいかなる程度に、聖体生活をいとなんでいるか、その同じ程度にしか、かれの従事する使徒職は実を結ばないのが、ほとんど一般の原則となっている。自分の使徒職がりっぱに実を結んでいる、明らかな証拠となるものは、人びとの霊魂にも、聖体のうたげに最もしばしば、かつ効果的に与りたい、つまり聖体拝領をしたい、との烈しい渇望である。しかも、このようなりっぱな効果は、使徒がまず自分自身、ほんとうに聖体のイエズスに生きているという水準でなければ、獲得することができない。
Au degré de vie eucharistique acquis par une âme, correspond presque invariablement la fécondité de son apostolat. La marque, en effet, d'un apostolat efficace, c'est d'arriver à donner aux âmes la soif de participer fréquemment et pratiquement au banquet divin. Et pareil résultat n'est obtenu que dans la mesure où l'apôtre lui-même vit véritablement de Jésus-Hostie.

 聖トマス・アクィナスは、なにかむずかしい神学の問題にぶつかったときには、いつも聖ヒツのなかに頭を突っ込んで、難問の解決を、聖主におねがいするのだった。そのように、使徒も、聖体のイエズスに、いっさいの事業を、いっさいの活動を、いっさいの困難を、委託するのである。そして、人びとの上に及ぼすかれの影響こそは、生命のつくり主なるこのイエズス・キリストにたいするかれの信頼を、実行にうつしたものにほかならない。

(続く)



ローマ聖務日課 2018年4月の聖務日課をKindleの中に入れるためのmovi ファイルをご紹介します

2018年04月05日 | カトリックとは
ラテン語典礼 ローマ聖務日課 2018年4月の聖務日課をKindleの中に入れるためのmovi ファイルをご紹介します

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が作って下さった大変良くできた聖務日課のファイルを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。レネー神父様のために、感謝を込めて天使祝詞をたくさん唱えて下さい。

 2018年4月分のローマ聖務日課のmoviファイル

I am very happy to be able to share a well done file in movi format in order to pray the Divine Office (Breviary) during the whole month of April 2018. This was made by Rev. Fr. Laisney. Please offer prayers for him as well while you are praying with his file.

 Breviarium Romanum mensis Aprilis anno MMXVIII


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【参考資料】
 2018年3月分のローマ聖務日課のmoviファイル

 Breviarium Romanum mensis Martis anno MMXVIII


2018年の復活の主日に、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂で聖伝のミサを捧げることができ感謝します

2018年04月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべはソウルで聖週間を過ごしました。
復活の主日の朝のミサは、ソウルの聖堂は満席でお御堂に入りきれず、廊下やベランダでミサに与っておられた方々がおられました。ご不便をおかけします。
大阪でも夕方に復活の主日のミサを捧げることができました。39名の方々が与りました。天主に感謝!



愛する兄弟姉妹の皆様にいくつかのご報告をお知らせいたします。

次の聖伝のミサは、

大阪では
4月6日(初金) 復活の金曜日(1級)白
         午後5時半 ロザリオ及び告解 
         午後6時 ミサ聖祭

4月7日(初土) 白衣の土曜日(1級)白
         午前10時 ロザリオ及び告解
         午前10時半 ミサ聖祭

東京では、
4月8日(主) 白衣の主日(1級)白  
        午前10時  ロザリオ及び告解
        午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

4月9日(月) 童貞聖マリアの御告げ(1級祝日)白 
        午前7時 ミサ聖祭

です!

5月3日から8日まで:秋田巡礼【秋田】ご予約の連絡はお早目にどうぞ!

願わくは、私たちの主が拙い私たちの巡礼をご覧になってこう言って出さるならなんとうれしいことでしょうか!2018年の「秋田巡礼」へお招きいたします。
秋田巡礼の内容はこのチラシもご覧ください。

5月20日:聖霊降臨の主日【東京】

6月3日:御聖体の荘厳祭【東京】

7月16日(うみの日)マーチフォーライフ【東京】



8月18日:デ・ガラレタ司教様:大坂で堅振式
8月19日:デ・ガラレタ司教様:東京で堅振式

 クチュール神父様のお説教を YouTube で視聴できるウェブサイトがありますのでご紹介いたします。
Fr. D. Couture’s Conferences online


 クチュール神父様の父上様は、先週の聖金曜日にカナダ現地時間午後3時にお亡くなりになりました。霊魂が平安のうちに憩いますようにお祈りをお願い致します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)






【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのご復活の主日の御ミサを挙げて頂き、本当にありがとうございました。
韓国での聖週間の後の飛行機移動、主日二度目のミサはほとんど気を失うほどの激務とお察しいたします。
にも拘わらず、力強いお説教を賜り、なんと御礼を申し上げたらいいのかわかりません。
お説教にもあったように、天主様の深い深い愛を感ぜずにはいられません。どうぞご復活の週は少しでもお体をお安ませください。ミサの報告をお送りいたします。

4月1日 主のご復活の主日ミサには39名が
4月2日 ご復活後の月曜日のミサには10名が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

私達の信仰を強めるため、イエズス様と同じ幸福を受ける希望を与えるため、ご復活は天主様の愛の結晶である事を黙想し、全くご復活の喜びの中にすっかり浸ったようでした。
「御聖体は、聖なるパンでもなく、聖なる物でもない、真に現存したもう、ご復活されたイエズス様だという事を思ってご聖体拝領をする」ことをご提案頂きましたが、
この度はホスチアが長く舌に残って、中々溶けなかったので、ご復活の大サービスで長く留まって下さったイエズス様をよく実感する事ができたように思います。
自分のような者が天主であるイエズス様を頂いているという事を感じて、
小さな子供達やおなかの大きなお母さん、遠方からいらしたご夫婦、たくさんの方でお聖堂がいっぱいになって、ご復活の喜びを多くの方々と分かち合えてとても幸福でした。
もっとたくさんの方々がイエズス様の愛を知って、御ミサに来て下さる事を願います。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
主が御復活なさったということは、なんと喜びに満ち溢れたことで、なんと偉大で、なんという神秘に満ちたことなのでしょう。
言葉の足らずの私には、その素晴らしさを表現することもできないように思います。

聖母の汚れなき御心聖堂での神父様のお説教は、いつもとても感動いたします。神父様は、聖母の汚れなき御心聖堂にいると自然と愛が溢れてきて言葉になるのでしょうか。

感動したことをずっと自分の中に留めておきたいと思うのに、本当に、自分がどれだけ忘れっぽいのだろうと思います。今まで心に留めておいた多くのことを、何を心に留めておきたかったかさえ忘れてしまうことが多いのですから。

聖歌隊の綺麗な歌声を聴いていると、心が落ち着きます。カトリックの家庭からは、自然と愛が溢れるものですね。明るく温かい家庭に憧れます。

本当は、家族皆で御ミサに与りたかったのですが、でも、大阪での御ミサに与ることができるだけでも、どれ程大きなお恵みだろうと思います。
主に感謝!

来る4月8日(主日)は白衣の主日です。東京では午前10時半から聖伝のミサがあります。

2018年04月04日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
来る4月8日(主日)は白衣の主日です。東京では午前10時半から聖伝のミサがあります。
ご復活の八日間の白衣の主日、白衣の主日といわれるのは、この日、復活の徹夜祭で受洗した者たちが白衣を脱いだからです。
新信者の受けた信仰をつよめ、慰めるために、ヨハネは〈書簡〉の中で、「成聖の聖寵によって天主の子となった者は、この世に勝った」と言います。すなわち、キリストが天主であることをみとめ、その教えを守ることにおいて、この世に勝つ、と。
ミサのテキストをご紹介いたします。

Dominica in Albis In Octava Paschæ 復活の八日間の白衣の主日
I classis 一級大祝日
Statio ad S. Pancratium 指定巡礼聖堂 聖パンクラツィオ聖堂
Ant. ad Introitum. 1. Petri 2, 2. 入祭文 ペトロ前 2章2節
Quasi modo géniti infántes, allelúia : rationabiles, sine dolo lac concupíscite, allelúia, allelúia allelúia. 新たに生まれたみどりごのように、アレルヤ :まじりなき霊的な乳をのぞめ、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。
Ps. 80, 2. 詩篇80章2節
Exsultáte Deo, adiutóri nostro : iubiláte Deo Iacob. よろこびをもって、われらの救いなる天主を賛美せよ、ヤコブの天主をたたえよ。
V/.Glória Patri. 願わくは、聖父と……。(栄誦)
Oratio. 集禱文
Præsta, quǽsumus, omnípotens Deus : ut, qui paschália festa perégimus, hæc, te largiénte, móribus et vita teneámus. Per Dóminum. 全能の天主よ、願わくは、聖寵をもって、われらの生活と行ないとに、すでに行った復活の祝日の効果を保たせ給え。天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生き且つ治め給うわれらの主よ、聖子、イエズス・キリストによりて、
Léctio Epístolæ beáti Ioannis Apóstoli. 書簡 使徒聖ヨハネの、書簡の朗読
1. Ioann. 5, 4-10. ヨハネ第1書、5章4-10
Caríssimi : Omne, quod natum est ex Deo, vincit mundum : et hæc est victoria, quæ vincit mundum, fides nostra. Quis est, qui vincit mundum, nisi qui credit, quóniam Iesus est Fílius Dei ? Hic est, qui venit per aquam et sánguinem, Iesus Christus : non in aqua solum, sed in aqua et sánguine. Et Spíritus est, qui testificátur, quóniam Christus est véritas. Quóniam tres sunt, qui testimónium dant in cælo : Pater, Verbum, et Spíritus Sanctus : et hi tres unum sunt. Et tres sunt, qui testimónium dant in terra : Spíritus, et aqua, et sanguis : et hi tres unum sunt. Si testimónium hóminum accípimus, testimónium Dei maius est : quóniam hoc est testimónium Dei, quod maius est : quóniam testificátus est de Fílio suo. Qui credit in Fílium Dei, habet testimónium Dei in se. 愛する者よ、天主から生まれたものは、世に勝つ。世に勝つ勝利は、すなわち私たちの信仰である。イエズスが天主の子であると信じる者以外に、だれが世に勝てるであろうか。水と血とによってこられたのは、イエズス・キリストである。ただに水だけではなく、水と血によってである。それを証明するのは、霊である。霊は真理だからである。果して、証明するものは三つある。天においては、おん父とみことばと聖霊、この三つは一致する。地において証明するのは三つ、霊と水と血である。この三つは一致する。もし私たちが人間の証明をうけいれるなら、天主の証明はそれにまさっている。天主の証明とは、そのみ子について証明されたことである。天主の子を信じる者は、自分の内に天主の証明をもつのである。
Allelúia, allelúia. V/. Matth. 28, 7. In die resurrectiónis meæ, dicit Dóminus, præcédam vos in Galilǽam. アレルヤ、アレルヤ、V/.(マテオ、28章7節)私は復活の日に汝らに先立ってガリレアに行く。
Allelúia. V/. Ioann. 20, 26. Post dies octo, iánuis clausis, stetit Iesus in médio discipulórum suórum, et dixit : Pax vobis. Allelúia. アレルヤ。V/.(ヨハネ、20章26節)八日ののち、都が閉じられてあったのに、イエズスが来て、かれらの真中に立ち、「あなたたちに平安」といい給うた、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. 聖福音 ヨハネによる聖福音の続誦
Ioann. 20, 19-31. ヨハネ。20章19-31節
In illo témpore : Cum sero esset die illo, una sabbatórum, et fores essent clausæ, ubi erant discípuli congregáti propter metum Iudæórum : venit Iesus, et stetit in médio, et dixit eis : Pax vobis. Et cum hoc dixísset, osténdit eis manus et latus. Gavísi sunt ergo discípuli, viso Dómino. Dixit ergo eis íterum : Pax vobis. Sicut misit me Pater, et ego mitto vos. Hæc cum dixísset, insufflávit, et dixit eis : Accípite Spíritum Sanctum : quorum remiseritis peccáta, remittúntur eis ; et quorum retinuéritis, reténta sunt. Thomas autem unus ex duódecim, qui dícitur Dídymus, non erat cum eis, quando venit Iesus. Dixérunt ergo ei alii discípuli : Vídimus Dóminum. Ille autem dixit eis : Nisi vídero in mánibus eius fixúram clavórum, et mittam dígitum meum in locum clavórum, et mittam manum meam in latus eius, non credam. Et post dies octo, íterum erant discípuli eius intus, et Thomas cum eis. Venit Iesus, iánuis clausis, et stetit in médio, et dixit : Pax vobis. Deinde dicit Thomæ : Infer dígitum tuum huc et vide manus meas, et affer manum tuam et mitte in latus meum : et noli esse incrédulus, sed fidélis. Respóndit Thomas et dixit ei : Dóminus meus et Deus meus. Dixit ei Iesus : Quia vidísti me, Thoma, credidísti : beáti, qui non vidérunt, et credidérunt. Multa quidem et alia signa fecit Iesus in conspéctu discipulórum suórum, quæ non sunt scripta in libro hoc. Hæc autem scripta sunt, ut credátis, quia Iesus est Christus, Fílius Dei : et ut credéntes vitam habeátis in nómine eius. この日、すなわち一週のはじめの日の夜おそく、弟子たちが集まった。そのところの戸は、ユダヤ人たちをおそれて閉じられていたのに、イエズスがおいでになった。そして彼らの中に立って「あなたたちに平安!」とおおせられた。こういって、そのおん手とおん脇とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエズスはまたおおせられた。「あなたたちに平安!父が私をお送りになったように、私もあなたたちをおくる」。そういいながら、かれらに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさない人はゆるされない」とおおせられた。イエズスがおいでになったとき、十二人の一人で、ディディモと呼ばれるトマは、皆といっしょにいなかった。他の弟子たちが、「主を見ました!」と彼にいったが、しかし彼は、「私はその手に釘のあとを見、私の指をその釘のあとに入れ、私の手をその脇に入れるまで、信じられません!」といった。八日の後、弟子たちはまた家にいて、トマもいっしょにいたとき、戸は閉じてあったのに、イエズスがおいでになり、かれらの真中に立ち、「あなたたちに平安!」とおおせられた。また、トマに向かって、「あなたの指をここに出し、私の手を見なさい。あなたの手を出して、私の脇におきなさい。信じない者でなく、信じる者になるように!」とおおせられた。トマは、「私の主よ、私の天主よ」と答えた。そのときイエズスは、「あなたは私を見たから信じたが、私を見ずに信じる人は幸いである」とおおせられた。イエズスは弟子たちの前で、この本にはしるさなかった他の多くのしるしをおこなわれた。これらのことをしるしたのは、イエズスが天主の子キリストであることを、あなたたちに信じさせるため、そして信じて、そのみ名によって生命を得させるためである。
Credo 信教
Ant. ad Offertorium. Matth. 28, 2, 5 et 6. 奉献文 (マテオ、28章2,5,6節)
Angelus Dómini descéndit de cælo, et dixit muliéribus : Quem quǽritis, surréxit, sicut dixit, allelúia. 主の天使は天より下り、女たちにいった、「汝らのさがしている御者は、自らおおせられたように復活し給うた」と、アレルヤ。
Secreta. 密誦
Suscipe múnera, Dómine, quǽsumus, exsultántis Ecclésiæ : et, cui causam tanti gáudii præstitísti, perpétuæ fructum concéde lætítiæ. Per Dóminum. 主よ、願わくは、喜びにはずむ教会のささげものを受け給え、また、かくも大なる喜びを教会に与え給うた主よ、永遠の幸福の実をも与え給わんことを。天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生き且つ治め給うわれらの主よ、聖子、イエズス・キリストによりて、
Præfatio paschalis,  御復活の序誦
Vere dignum et iustum est,æquum et salutáre, Te quidem, Dómine, omni témpore,sed in (***hoc potíssimum) gloriósius prædicáre, cum Pascha nostrum immolátus est Christus. Ipse enim verus est Agnus, qui ábstulit peccáta mundi. Qui mortem nostram moriéndo destrúxit et vitam resurgéndo reparávit. Et ídeo cum Angelis et Archángelis, cum Thronis et Dominatiónibus cumque omni milítia cæléstis exércitus hymnum glóriæ tuæ cánimus,sine fine dicéntes : 主よ、われらがいつも、どこにても、主に感謝をささげるのは、実にふさわしく正しいことであり、われらの義務と救いである。特に「この節に」、われらは、御身の御光栄を盛大にたたえねばならぬ。なぜなら、われらの過越なるキリストが、屠られ給うたからである。かれは、世の罪を除き給うまことの羔であって、ご自分の死によって、われらに生命を取戻し給うた。故に、天使、大天使と共に、座天使と主天使と共に、また、天の万軍と共に、われらはきわまりなく、主の御光栄の讃歌をうたいつづけよう。
Ant. ad Communionem. Ioann. 20, 27. 聖体拝領誦 (ヨハネ、20章27節)
Mitte manum tuam, et cognósce loca clavórum, allelúia : et noli esse incrédulus, sed fidélis, allelúia, allelúia. 汝の指をのばし、釘の所を見よ、アレルヤ。不信仰者でなく信仰者であれ、アレルヤ、アレルヤ。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Quǽsumus, Dómine, Deus noster : ut sacrosáncta mystéria, quæ pro reparatiónis nostræ munímine contulísti ; et præsens nobis remédium esse fácias et futúrum. Per Dóminum. われらの天主なる主よ、願わくは、われらの救いを保証するために定め給うた聖なる奥義が、現在と未来との良薬とならんことを。天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生き且つ治め給うわれらの主よ、聖子、イエズス・キリストによりて、

 


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