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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【グレゴリオ聖歌】聖土曜日の朝課の答唱Ierúsalem, surgeをご紹介します。

2019年04月20日 | グレゴリオ聖歌

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、

聖土曜日の朝課の答唱Ierúsalem, surgeをご紹介します。

R. Ierúsalem, surge, et éxue te véstibus iucunditátis: indúere cínere et cilício, エルサレムよ、起きよ、喜びの服を脱げ、灰と毛衣を着よ、
* Quia in te occísus est Salvátor Israël. 何故なら、おまえのためにイスラエルの救い主は屠られたから。
V. Deduc quasi torréntem lácrimas per diem et noctem, et non táceat pupílla óculi tui. 激流のように涙を流せ昼も夜も、おまえの目のまぶたを黙らせるな。
R. Quia in te occísus est Salvátor Israël. 何故なら、おまえのためにイスラエルの救い主は屠られたから。

【グレゴリオ聖歌】聖土曜日の朝課の答唱Sicut ovis ad occisiónemをご紹介します

2019年04月20日 | グレゴリオ聖歌

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、

聖土曜日の朝課の答唱Sicut ovis ad occisiónemをご紹介します。

R. Sicut ovis ad occisiónem ductus est, et dum male tractarétur, non apéruit os suum: tráditus est ad mortem, 羊が屠所に引かれていったように、残酷に取り扱われた間も、彼は自分の口を開かなかった。死に渡された、
* Ut vivificáret pópulum suum. 御自分の民を生かすために。
V. Trádidit in mortem ánimam suam, et inter scelerátos reputátus est. 御自分の霊魂を死に渡した、悪人どもの間に(その一人だと)考えられた。
R. Ut vivificáret pópulum suum. 御自分の民を生かすために。

人の子は上げられなければならない。兵士が槍でイエズスの脇を貫くと聖母の胸は刺し貫かされた。聖母の御腕は主を抱きかかえる第2の十字架。聖母の御心の上で主は屠られた。

2019年04月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年4月13日(土)御受難の第1主日の後の土曜日のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年4月13日、受難の主日の後の土曜日のミサを行なっています。

この前の初土曜日には、洗礼の準備の儀式があり御聖体降福式ができなかったので、今日それを行なおうと思っています。
もしもできれば、短い御聖体降福式ですのでぜひ与って下さい。そしてたくさん御恵みを受けて下さい。

明日も夕方18時から枝の主日のミサがあります。ワリエ神父様がいらして下さいます。

聖金曜日は、公教会の掟によると、大小斎の義務があります。21歳以上満59歳の方は義務があります。そして14歳以上の方は全て小斎を守らなければなりません。

復活の主日にも夕方の18時からミサがあります、いらして下さい。復活の月曜日もミサがあります。


「あなたは何故『人の子が上げられなければならない』と言うのか。一体、人の子とは誰か。」
Respóndit ei turba : quómodo tu dicis : Oportet exaltári Fílium hominis ? Quis est iste Fílius hominis ?

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、遂にあと一週間で聖金曜日、イエズス様が、私たちの救い主が、私たちの救いの為に十字架に付けられようとされます。今日教会は、その準備の為にミサを捧げています。

指定巡礼教会は、ラテン門の前の聖ヨハネ教会。使徒ヨハネがここで煮えたぎる油の中に入られたけれども、しかし無傷のままそこから出てきた。イエズス様の受難と復活を象徴するような出来事が起こった教会の所であります。

今日は、

⑴「イエズス様の御受難の前に一体どんな事があったのか」という事を福音に従って見る事にして、

⑵そしてこの福音、聖ヨハネの記述による、「人の子が上げられる。ラザロの復活によってユダヤが二つに分かれた。イエズス様を取るか、イエズス様に従うか、信じないか。ユダヤだけではなく、世界が二つに分かれた」という事を黙想したいと思います。


⑴第1の点は、聖ヨハネの福音書によると、ユダヤ人たちは、イエズス様が復活させた生き返らせたラザロを殺そうと、亡き者にしようとします。なぜかというと、「ラザロ」という大奇跡の生き証人が居るが為に、多くの人々がユダヤ人たちを去って、イエズス様の後に従おうとしていたからです。「邪魔者は消さなければならない。」

そしてユダヤ人たちはますます、イエズス様に対する憎しみと嫉妬を募らせ、何とかイエズス様の命を狙おうと、そしてイエズス様に付き従う為の証拠を消そうとします。

それと同時に、聖ヨハネによると、何と異教徒でさえも、「イエズス様に会いたい」と言って近寄って来た、とあります。何という、選ばれた民と、そしてユダヤ人以外の人たちがイエズス様を求める、というのは何という大きなコントラストでしょうか。

ユダヤ人の中にも、素直な子供たち、あるいは一般の人たちはイエズス様を歓迎します。「ダヴィドの子にホザンナ!」明日、教会ではこれを典礼として行ないます。今日その事が既にヨハネの福音で読まれました。イエズス様はそしてその事について文句を受けます、ユダヤ人から非難されるのですが、しかしイエズス様はその事を説明します、「人の子が、麦が死ねば多くの実を結ぶ。人の子は上げられて、そして上げられた時に、人々を引き寄せる。」

ユダヤ人たちはその事が分かりませんでした。


⑵第2のポイントは、今日この福音を黙想すると、イエズス様が「逆らいのしるし」となっている、イエズス様を信じるかイエズス様に従うか、従わないかによって、世の中は真っ二つに分かれる、というその事が分かります。つまりシメオンの預言がまさに成就している、という事が分かります。マリア様の心も剣で貫かれるという事です。私たちの黙想は自然とマリア様の方に行きます。

御謙遜の為に、イエズス様がエルサレムの入場、凱旋の時には、マリア様の事がありませんでした。おそらくマリア様はその時にいらっしゃらなかったかもしれません。しかしイエズス様の、人の子が上げられる時には、十字架の元に佇んで、背筋を伸ばして、眼をイエズス様の方にしっかりと向けて、ずっと立ち留まっておられました。

私たちは昨日、マリア様の悲しみを、イエズス様の十字架をご覧になるマリア様の悲しみを黙想しました。

自分の子供がその目の前で死ぬのを、残酷に取り扱われるのを見る母親の心は、どれほど悲しい事だったでしょうか。たとえその子供がどのような子供であれ、母親にとってはそうです。ましてやご自分を優しく愛し、そして尊敬され、特別の愛情を示したイエズス様であれば、マリア様の心はどれほど痛んだ事でしょうか。

イエズス様が天主であるという事を知り、罪の無い方であるという事を知り、イエズス様のその聖徳と愛を知っていれば深く知れば知るほど、世のこの憎しみを見て、マリア様はどれほど悲しんだ事でしょうか。

私たちの聖堂のステンドグラスには、このマリア様の十字架の元に佇む、聖ヨハネと共に佇む姿が描かれています。マリア様は、この世にとって逆らいのしるしとなるイエズス様の預言が成就した時に、さらに聖書の言葉が一つ一つ成就していった時に、どのような事を黙想されていた事でしょうか。

イエズス様が息を引き取られ、「全ては成就した。」首をかしげられて、背中を丸められて、息もこれで絶えてしまった、その時に、今まで明るかった太陽は、喪に服したかのように暗くなった、夜であるかのようになってしまった。その時に大地も、救い主の死を思って恐れのあまりに震い、地震が起こり、そして大きな岩盤も胸が裂けたかのように裂けてしまった。天変地異が起こった。多くの人々はユダヤ人たちは、恐れをなして家に帰って行きました。

マリア様はたとえ一人になったとしても、そこの十字架の足元で立ち留まっておられました。ヨハネもマリア様を見て立ち留まります。他の夫人たちも、マリア様を見てそこに留まります。

アリマタヤのヨゼフは、密かにイエズス様を信じていた弟子の一人でした。ポンシオ・ピラトの元に、イエズス様の亡骸を受ける許可を求めに行きます。ポンシオ・ピラトは、本来ならばこれに許可を与えないはずだったのですけれども、おそらくはマリア様のお祈りの為に心が変わったか、動かされたか、あるいはマリア様が祈っていたが為にそのお祈りの効果によって、ピラトの妻クラウディアがピラトにそれを許可するように言ったか、そしてピラトは「もう死んだのか」という事で、死んであるのならば、という許可を与えます。

ローマの兵士が三つの、三本の十字架の元に行き、まだ生きていた盗賊たちの脛を折ります。イエズス様の元に来ると、既に死んでいるのが分かりました。マリア様が仰ったのかもしれません、「軍人さん、既に息絶えております。脛は折らないで下さい。」これも聖書が実現する為でした。

すると、何を思ったのかこのローマ兵士は、自分の持っていた槍を取り出して、イエズス様の脇を貫きます。これはローマ人にとってあるいはユダヤ人にとって、死体をこのように扱うのは大きな侮辱でした、屈辱でもありました。マリア様にとってはおそらく、「何故そのような事をするの!」と思ったことでしょう。

「こんな事をしなくてもいいのに。もう死んでいるのに。」しかしこのこれは、人類がどれほどイエズス様に対して最後の最後まで残酷であったか、という事を示す証拠とさえなりました。

イエズス様はもはや息を引き取っていたので、その槍の痛みは感じませんでしたが、マリア様の胸にはこの痛みがズシリ、ズキッ、ズサリと刺し貫かされました。御心痛はどれほど大きかった事でしょうか。
「何故、ここまで。」

ロンジーノ(この兵士の名前ですが)が槍を、貫いた槍を取るや否や、イエズス様の聖心からは御血と水が溢れて流れました。噴水のように流れ出たかもしれません。マリア様の元にほとばしって、マリア様にたくさん流れ出たかもしれません。マリア様の服は、イエズス様の御血潮と御水で湿っていた事でしょう。

教父たちによると、「マリア様こそ、イエズス様の御血の分配者である」と。第2のアダムは死の眠りに就いた時に、その脇腹から第2のエヴァを生み出します。そしてその第2のエヴァは、カトリック教会であり、キリストの花嫁であり、そしてその代表はマリア様です。もしもイエズス様の御受難の報いである、実りである、功徳である洗礼の水、あるいは御聖体の御血潮を受けようとするならば、マリア様を通して、カトリック教会から受けなければなりません。

聖イシドロという教父の伝えたところによると、「イエズス様の脇腹からの水、あるいは御血の雫が水しぶきが、ロンジーノの目にあるいは顔に当たった。その時に、奇跡的に彼の目が開いた。見えなかった目が見えるようになった、その片目が見えるようになった」と言われています。その瞬間。ロンジーノはその後、イエズス様の光を受けて、信仰の光を受けて、洗礼を受けるようになります。イエズス様の洗礼の水をも受ける事になります。そして遂には御体も受けて、聖伝によると、カトリック信者となったばかりか司教となり、そして自分の血を流して殉教した、と言われています。

イエズス様の御血潮を、脇腹からの御血と水を受けたその効果です。「人の子が上げられた時に、私は多くを私の元に引き寄せる」と言われたまさにそれが成就しました。イエズス様の御体が聖心が貫かれた時に、シメオンの預言とそして旧約の預言が成就しました。「人々は私を見上げるだろう。」



マリア様はその後、イエズス様の御体が十字架から取られて、それをご自分の胸に膝元に受け取られます。イエズス様はかつてこう仰いました、「私は聖父の元から来て、そして十字架に付けられて、聖父の元に行く。」イエズス様は同時に、「私はマリア様から生まれて、十字架に付けられ、またマリア様の元に帰って行く。」

マリア様の御体は、イエズス様にとって第2の十字架のように、マリア様の御手、御腕は、イエズス様を抱きかかえる第2の十字架でした。マリア様の御心の上で、いけにえであるイエズス様が屠られているかのようです。息のない、命のないイエズス様をご覧になったマリア様は、どれほどお悲しみになった事でしょうか。

マリア様はそっと綺麗に、茨の冠を外されます。そして傷だらけの御頭と御顔を、綺麗な布で拭き、そして御体を綺麗にされたに違いありません。埋葬の準備をされたに違いありません。ユダヤのしきたりに従って、没薬を塗り、そしてイエズス様の御体を大切に布に巻いたに違いありません。お生まれになった時も産布で巻かれたマリア様は、御亡くなりになったイエズス様をも、聖骸布で巻かれます。

「麦が地に落ちれば、100倍の実を結ぶ。」イエズス・キリストは、私たちを養うパンとなる真の麦でありました。そして私たちを養うパンとなる為に、そしてマリア様の元において聖骸布に包まれます。

イエズス様の御受難の中に深く入る為に、マリア様に御取次ぎを乞い願いましょう。マリア様こそ、イエズス様の御受難を一番よくご存知の方であり、イエズス様の苦しみを一番よく分かっていた方でした。聖母の汚れなき御心に、この聖週間をよく過ごす御恵みを乞い願いましょう。

「あなたは何故『人の子が上げられなければならない』と言うのか。一体、人の子とは誰か。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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聖十字架の叙唱を紹介いたします Præfátio de Sancta Cruce

2019年04月19日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖十字架の叙唱を紹介いたします。

Præfátio de Sancta Cruce 聖十字架の叙唱
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere: Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus:  われらが、御身に、常に、どこにても、感謝をささげるのは、実にふさわしく、正しいことであり、義務と救いである。主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、
Qui salútem humáni géneris in ligno Crucis constituísti: ut unde mors oriebátur, inde vita resúrgeret: in quo ligno vincébat, in ligno quoque vincerétur: per Christum Dóminum nostrum.  御身は、人類の救いを十字架の木において定め給うた。それは、死が出てきたその所から、生命がよみがえり、木(エデンの)によって勝っていた者(悪魔)が、木(十字架の)によって敗れるためであった、キリストによって。
Per quem majestátem tuam laudant Angeli, adórant Dominatiónes, tremunt Potestátes. Cæli cælorúmque Virtútes, ac beáta Séraphim, sócia exsultatióne concélebrant. Cum quibus et nostras voces, ut admítti júbeas deprecámur, súpplici confessióne dicéntes: 彼により、天使らは、御身の御稜威を讃美し、主天使は礼拝し、能天使はふるえおののく。天と天の力天使と、福いなる熾天使は、共によろこび、共にたたえ奉る。願わくは、これらと共に、われらの声をも、交えられるように命じ給わんことをわれらは願い奉り、跪いて懇願しつつ、こう言う。 
Sanctus, Sanctus, Sanctus, Dóminus Deus Sábaoth. 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の天主なる主、
Pleni sunt cæli et terra glória tua. 御身の栄光は天と地とに満つるなり。
Hosánna in excélsis. 天のいと高きところにホザンナ。
Benedíctus + qui venit in nómine Dómini. 主の聖名によりて来たり給う方は + 祝せられよ
Hosánna in excélsis. 天のいと高きところにホザンナ。

2019年4月12日聖母の七つの御悲しみのミサ「聖母よ、御身と共に十字架の元に立たせて下さい。マリア様と共に泣くのを許して下さい。御悲しみを私にも分けて下さい。」

2019年04月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年4月12日(金)御受難の第1主日の後の金曜日
聖母の七つの御悲しみのミサ
小野田神父 説教

「聖母よ、御身と共に、十字架の元に立たせて下さい。」
Juxta Crucem tecum stare, et me tibi sociáre in planctu desídero.


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聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は御受難の第1主日の後の金曜日です。典礼によると、「もしも七つの御悲しみの信心を行なうのであれば、この七つの聖母のミサをする事ができる」とあります。

そこで今日は、この七つの御悲しみの信心を一緒に黙想する事によって、この御ミサを捧げようと思っています。一体、この典礼はどのように始まったのか、という事を簡単に見てから、七つの御悲しみを黙想する事に致しましょう。

マリア様の悲しみについては、色々な信心がありました。そして色々な名前を持っていました。

特に「七つの御悲しみ」という事で、教会は特別の典礼をする事になりました。有名なのが、1239年の聖金曜日に、マリア様が7人の男性に現れて、「マリア様の御悲しみを黙想する特別の修道会を創って欲しい。マリアのしもべの修道会を創って欲しい」と願われた事、そして特に9月14日の十字架の称讃の翌日には、七つの聖母の悲しみの祝日ができた事、あるいは聖金曜日の一週間前には、マリア様の悲しみを祝う特別の記念日が作られました。

ピオ十二世教皇様の典礼改革、聖週間の改革の前までは、この金曜日は実は祝日で、マリア様の悲しみのミサをしていましたが、ピオ十二世教皇様が、「信心をする限りにはこれのミサを、しかしそうでなければ、マリア様の記念を行なう」という風に決定しました。

では、マリア様の七つの御悲しみを簡単に垣間見る事に致しましょう。

第一の悲しみは、シメオンによって預言を受けた事でした。マリア様の御悲しみはそれ以外にもたくさんあります。七つ以外にもたくさんあります。全生涯に渡って、悲しみと苦しみの連続でした。しかし特に、マリア様にとっての重要な御悲しみを取り上げたのが、その七つで、第一がシメオンの預言でした。

マリア様はイエズス様の全き生き写しで、イエズス様にキリストに倣う完璧な模倣者でしたので、マリア様こそまず、十字架の苦しみに、一番近く立ち留まらなければならない方でした。

シメオンは預言します、「この生まれたばかりの40日後のこの幼子こそが、多くの人々の、イスラエルの多くの人々の滅びと、そして復活の元となるだろう。そしてこの子は逆らいのしるしとなるだろう。」

既にマリア様は、預言者の元后であり、聖書の事を深く知っていましたが、しかし更にはっきりとシメオンによって、「このイエズス様を機会に、イエズス様を拒否する人がいて、イエズス・キリスト様の、イエズス様のその愛と、優しさと、御親切と、その憐れみを機会にして、それを敢えて拒否する人がいて、その為に多くの人々は、イエズス・キリストを信じずに、あるいはイエズス・キリストの教えを受けないが為に、自分の暗闇と罪を望むが為に、自分の生活を改めようとしないが為に、罪を捨てないが為に、自分の道を行く為に光から逃れる為に、暗闇を頑固にしがみつく為に、イエズス様の照らした光を敢えて拒否するが為に、滅びるだろう」と預言を受けました。

「それと同時に」この多くの人々は、イエズス様が原因で滅びるわけではなくて、イエズス様にもかかわらず、それを頑固にも拒むが為に滅びるのですけれども、「しかしそれと同時に、イエズス・キリストが、この聖子が、御自分の苦しみと、そして犠牲と、そして愛と憐れみによって、復活の原因ともなる」とも聞きました。

そして「イエズス様は既に、逆らう、逆らいのしるしとなる。イエズス・キリストを信じるか、あるいは信じないか。キリストに従うか、あるいはキリストに反対するか、反キリストとなるか。世の中はこれによって二つに分裂する。逆らいのしるしとなる。」

「そしてこの『しるし』というのはつまり『十字架』であって、これを受けるか受けないか、キリストを受けるか受けないか、キリストの十字架を取るか取らないかによって分かれる。多くの人々の心の秘密がこれで明らかになる」と預言をされました。

「救い主が来たにもかかわらず、天主の憐れみがこれほど現れたにもかかわらず、天主が人となったにもかかわらず、預言が、預言された通りに救い主が生まれて来たにもかかわらず、それを受け入れない人々がいる」という事を知った、そして「御子を、この幼子を受け入れない、救い主を受け入れない人々がいる」という事の預言されたマリア様の御悲しみ。そしてイエズス様のその御心痛を思う、マリア様の御悲しみ。

イエズス様は私たちに、謙遜と、従順と、貞潔と、清貧と、主の御旨を愛する道を教えようとされます。しかし人々は、イエズス様の十字架よりも自分の腹を、自分の欲望を、自分の考えを、あるいは富を、快楽を、名誉と栄光を、自分の為にかき集めようと、そしてイエズス様を拒む。マリア様はその事を予め知らされました。


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マリア様の生涯は、イエズス様のその十字架が既に、全生涯に渡ってその影を落としていました。その事をよく現したのは、このシメオンの預言の直後でした。

第二の苦しみ。ヘロデが、ユダヤの最高の行政の王が、イエズス・キリストを狙っている。政府当局が、イエズス・キリストの命を狙って、母親の手から奪おうとしている。そして全ての人類の手から奪おうとしている。この幼い、救い主の天主の命を殺そうと狙っている。罠をかけている、という事を知ります。

マリア様のその御心痛はどれほどだったでしょうか。既に十字架の、救い主の死がもう身近に迫っている。聖ヨゼフの夢を通して、また聖ヨゼフの命令を通して、聖家族はエジプトに逃亡します。

マリア様は全く罪の無い方でした。イエズス様も罪の無い方でした。天主の聖子でした。そしてマリア様はエジプトでおそらく、ニュースを聞かれた事でしょう。多くの幼子たちが犠牲となった、母親から取り去られて亡くなった、罪の無い子供たちが殺された、ヘロデの快楽と、ヘロデの地位と安泰を確保する為に、自分勝手の為に。マリア様の御心痛はどれほどだったでしょうか。

また外国での生活、一体何年、どこでどうしたら良いのか分からない。それにもかかわらず、天主に全く委ねたその生活。もちろん天主にとって、ヘロデを亡き者にするのはとても簡単な事でした。しかし「イエズス様をエジプトに逃亡させる」という事を御望みだったその天主様の御摂理、それに従うマリア様。十字架の影は既に、幼きイエズス様に深く染み込んでいました。

第三の苦しみ。マリア様がエジプトから戻って、聖家族がナザレトに行って、そしてエルサレムの神殿に毎年通った時も、12歳になった時のイエズス様は、既に聖父の業をする為に、マリア様とヨゼフ様から離れました。これも3日間の間、マリア様はイエズス様を見る事ができませんでした。あたかも亡くなっていなくなってしまったかのように。聖父の業をイエズス様はする。神殿に残られました。

これも、十字架の上において、聖父の御旨の通り御自分を捧げて、マリア様の目から3日の間姿を消される事の前兆でなくて何でありましょうか。

「マリア様は、イエズス様が仰った言葉が理解できない」と書かれています。「しかし、その汚れなき御心に、その事をいつも留めて思い巡らしていた」と。「私が聖父の仕事をしなければならない、という事を知らなかったのか。」イエズス様は既に、十字架の苦しみのリハーサルを、マリア様になさっていたのでした。

第四の苦しみは、マリア様がイエズス様と十字架の道行きの時に、カルワリオへの道すがら、お会いになった時です。

マリア様はほぼ確実に、そして典礼でも言われている通り、イエズス様の鞭打たれたのを、あるいは他のニュースであるいは聖ヨハネから聞いて、その近くに居たに違いありません。鞭打たれたその御様子を、遠くからご覧になっていたに違いありません。

そしてイエズス様の審判。ピラトによる断罪についても、その始終を聞き、それのその事を、「どうなる事か」イエズス様の事を思って近くに居たに違いありません。他の人の間の中に居たに違いありません。群衆の中に居たに違いありません。イエズス様が全く無罪である、という事をピラトが何度も言うにもかかわらず、人々はイエズス様を、「十字架に付けよ!」と言うのを聞いた、その憎しみの叫びの声、嘘の告発、ユダヤの宗教上の最高の指導者たちがイエズス様を告発しようとするのを見たり、聞いたりした時、どれほど胸が裂かれる思いだったでしょうか。そして遂に死刑の宣告。誰もイエズス様を守る人はいませんでした。

十字架を担うイエズス様。そのイエズス様が通るのをマリア様は敢えて、イエズス様の元に近寄ろうとします。マリア様は決して、イエズス様とお会いになって気絶したり、あるいは泣き崩れてそして倒れてしまうような事はありませんでした。イエズス様をはっきりご覧になって、そして目に涙は溜めながら、しかしその苦しみを捧げておられました。

マリア様は一体何をお考えだったのでしょうか。

イエズス様の、その人類に対する愛と、聖父に対する愛。この人々の忘恩と、冒瀆と、そして嘲りの態度。イエズス様の正義にかかわらず、その聖徳にもかかわらず、しかしその受ける態度の醜さ。天主聖父の御旨。マリア様の心にあった御悲しみと、その観想、黙想の深みは、どれほどだったでしょうか。

マリア様はイエズス様の後を、すぐ近くを歩いて行きます。喚き立てもせずに、イエズス様に対して不正に対して抗議する事もなく、このこれを受け入れて、そしてこの「人類の罪の為に、イエズス様がこの十字架を担っている」という事をよく理解されて、御自分もその苦しみを共に歩かれようとされました。黙って付いて行きました。ちょうど、イサアクが薪を持って、ホレブの山に行こうとする時に、アブラハムがイサアクの隣に一緒に行ったかのようです。私たちの模範を示すかのように、イエズス様のすぐ近くを歩かれました。

第五の御悲しみは、イエズス様が十字架に付けられ、そしてお亡くなりになるまで、ずっと、しっかりと背筋を伸ばして、十字架の足元に立ち留まっておられた事です。

マリア様は、イエズス様のその聖なる態度、御言葉を全て聞いて、見ておられました。ユダヤの司祭たちやあるいはローマの人々、また群衆の態度、悪い態度、嘲り、冒瀆、唾など、暴力も、見聞きされました。イエズス様が服を脱がされる時、十字架に付けられる時、十字架が立てられる時、全て見ておられました。マリア様は、イエズス様がまずそのイエズス様の敵に対して、キリストがお祈りされている事も聞いておられました。十字架の苦しみと、旧約の預言が全て成就していくのも見ていました。

マリア様も、御自分の悲しみを添えて、イエズス様の悲しみの事をずっと思っていたに違いありません。そして罪人の回心の為に祈っていたに違いありません。イエズス様がヨハネを通して、私たち罪人をマリア様の子供にした時に、マリア様は、イエズス様に対する愛とその同じ愛を以て、罪人を私たちの事を深く子供として愛し、そして私たちの為に祈ります。マリア様の養子となった私たちの為に祈ります。

聖ヨハネ・ダマスコによると、「善き盗賊は、マリア様の側に、十字架のイエズス様と自分の間にマリア様が居たので、回心の恵みを受けた」と言っています。

自分の子供がこうやって不正に、残酷な死を遂げるのを見る母親の心は、どれほど辛かった事でしょうか。「マリア様がこの受けた苦しみは、肉体の苦しみよりも霊魂による苦しみだったので、はるかに深いものだった」と聖人たちは言います。「もしも、マリア様の御悲しみをもしも分配する事ができたとしたら、それを何等分かにする事ができたとしたら、そしてそれを生きている全世界中の人々に配る事ができたとしたら、その自分の分を受けた人、全世界の人々は、その苦しみのあまり息絶えてしまうだろう。マリア様の悲しみのほんのちょっと、欠片でも受けただけで、私たちはその辛さのあまり、もう息をする事もできないだろう。胸が苦しくてもう生きていられないだろう。そしてマリア様がこうやって、十字架の元にずっとこうやって立って、そして命を落とさずにいる事ができたのは、天主様の大きな大奇跡であった」と言います。

第六の御悲しみ。マリア様はこうやって、イエズス様の御亡骸を御手に抱き、その御顔、御手、傷だらけの亡骸に、接吻と涙を流して綺麗にされます。御降誕の時とははるかに違った、十字架での御体。マリア様はそれを新しい墓に葬ります。

第七の御悲しみ。第六の悲しみが、マリア様がそのイエズス様の御亡骸をその手にされたとすると、最後の御悲しみは、マリア様が新しい墓にイエズス様の御体を葬られた事。そして大きな石を以て岩を以て、その墓を閉じた事です。

典礼によると、私たちはマリア様にこう祈ります、特に有名なスタバト・マーテルの続誦によれば、こうあります。

「マリア様、御身にお願いします。マリア様と共に、十字架の傍に立たせて下さい。マリア様と共に泣くのを許して下さい。
Fac me tecum pie flere, crucifixo condolere, donec ego vixero.
Iuxta Crucem tecum stare, et me tibi sociare in planctu desidero.

御悲しみを私にも分けて下さい。私の心にもその傷を深くつけてください。
Sancta Mater, istud agas, crucifixi fige plagas cordi meo valide.
Tui Nati vulnerati, tam dignati pro me pati, poenas mecum divide.

マリア様、私にも御身とともに嘆くのを許してください。イエズス様の十字架の苦しみを、私の身に運ぶ事ができるようにして下さい。
Virgo virginum praeclara, mihi iam non sis amara, fac me tecum plangere.
Fac, ut portem Christi mortem, passionis fac consortem, et plagas recolere.

マリア様のこう泣くのを見て、一体誰が、同情の涙を流さない人がいるでしょうか。
Quis est homo qui non fleret, matrem Christi si videret in tanto supplicio? Quis non posset contristari Christi Matrem contemplari dolentem cum Filio?

愛の泉であるマリア様!私にもそのマリア様の悲しみを分け与えて下さい。
Eia, Mater, fons amoris me sentire vim doloris fac, ut tecum lugeam.」

今日は、イエズス様の御受難を崇める為に、まずマリア様に、マリア様の御悲しみを分けて下さいますように、お祈り致しましょう。

「聖母よ、御身と共に、十字架の元に立たせて下さい。」
Juxta Crucem tecum stare, et me tibi sociáre in planctu desídero.

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

受難の第1主日から教会は喪に服す。十字架の本質の深い理解。「キリストは、苦しみを受けて栄光に入るべきではなかったのか。」

2019年04月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年4月7日(主日)受難節第1主日のミサ
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会ようこそ。
今日は2019年4月7日、受難節第1主日のミサを行なっております。

今日この御ミサの直後に、御聖体降福式があります。月の最初の主日ですので、御聖体降福式があります。

それから、新しく生まれた赤ちゃんの洗礼式があります。皆さんもどうぞこの洗礼式に与って行って下さい。次のミサは、来週の主日、枝の主日、またここで10時半からあります。

それから4月は、主日のミサが3回あります。復活祭は大阪ですが、東京では3回あります。最後の主日に、第3回目に、サマーズ神父様が10時半からミサを、白衣の主日をなさって下さいます。どうぞいらして下さい。

秋田の巡礼も5月にありますので、皆さんの参加をお待ちしております。


「私の言葉を守る者は、永遠に死を味わないであろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、聖伝によると、受難の第1主日から教会は、喪に服します。母なる教会は私たちに、子供を教えるように、今からどういう事が起こるか、という事を目に見える形で教えようとします、「花婿が花嫁から取られる。イエズス・キリストの御受難が始まる」という事です。

そこで今日は、

⑴教会がどのようにして私たちに御受難を教えようとしているのか?教会が私たちに伝えようとしているメッセージは一体何なのか?

⑵次に、ではそのメッセージを聞いて、教会は私たちに、イエズス様は一体私たちに、何を期待しているのか?一体私たちは何をするように招かれているのだろうか?という事を黙想して、

⑶最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴教会は今日、喪に服す為に、ベールを被りました。紫のベールです。教会の十字架像、あるいは御影(ごえい)、あるいは御像などには、紫のベールがかかります。これはあたかも、イエズス様の御受難を前に、喪に服すかのようです。

そればかりではありません。教会は、もしかしたら聖歌を聞いて、「あれ?今日は入祭誦にあるグロリアも、栄唱も歌われなかった」という事にお気付きになられたかと思います。司祭も栄唱を唱えません。なぜかというと、教会と共に喪に服すからです。私たちの主の御受難と御死去を、今から黙想する時が来たからです。

しかし、では教会が私たちに伝えようとしているこの喪に服し方、このイエズス様の苦しみの意味というのは、一体何なのでしょうか?

贖いの死です。わたしたちを救おうと思われる死です。私たちに命を与える、私たちを天主の子供とする、天主の養子とする、天国の王子様とする、跡継ぎとする、その死です。

そこで、この十字架にカバーをかける、覆いをする、というのはまさに一致するのです。一般、普通一目、ちょっと見た見た目には、「あれ?イエズス様の御受難を黙想するには、イエズス様の御像があった方が良いのじゃないか?」と思うかもしれません。しかし教会は、十字架の神秘をあまりにも深く知りすぎてしまっています。私たちは表面しか知らないので、その事がちょっとした目には理解できずに、誤解してしまいます。

教会は何を知っていたかと言うと、十字架の本質を知っていました。「十字架こそが、私たちの勝利の元である、生命の元である、救いの元である、私たちが歩むべき王の道である、これ以外に私たちには救いがない、恵みの元がない、十字架にこそ光があって、十字架にこそ喜びがあって、十字架にこそ本当の幸せがある。」これが教会の深い理解です。

ですから十字架というのは、教会にとっては喜びであって、栄光であって、そしてイエズス様が私たちに残した最大の宝でもあります。教会はいつも十字架のその道行きの、究極を見ているからです。つまり「復活」と「イエズス様の栄光」。

ちょうど私たちは、エンマウスの旅人のようであるかのようです。イエズス様から教えられたにもかかわらず、よく分かっていない。しかしイエズス様は私たちに教えます、「キリストは、苦しみを受けて栄光に入るべきではなかったのか。」

ここにキリスト教の深い、難しい、ちょっと見には理解しがたい、しかし深い神秘があります。贖いの神秘です。アダムとエヴァが罪を犯して、その為に当然受けてしまった罰、苦しみ、死、屈辱、悲しみ、しかし天主の憐れみと全能は更に偉大であって、この罪の結果である苦しみや死さえをも、私たちに喜びと、幸せと、命を与える為の手段と変えて下さった。

そして今度は、「これを通してこそ、十字架を通してこそ、イエズス・キリストとの十字架を通してこそ、受難を通してこそ、復活に至る唯一の道である」と教えているからです。

ですから教会にとって十字架というのは、何と美しく、何と幸せで、何と神々しく、何と祝福に満ちたものであると映っている事でしょうか。ですから今日から、そのあまりにも栄光に輝く、あまりにも美しい十字架を少し隠して、そして喪に服そうとするわけです。


⑵第2に、ですから私たちは、一体何をする事が期待されているでしょうか?

十字架の神秘の中に深く入る事が期待されています。つまり「十字架の究極の目的を見る」という事です。“Per crucem ad lucem”「十字架を通して、光へ。」十字架を通して私たちは命へと、十字架の死を通して命へと至る、という事です。

この十字架は、イエズス・キリスト様の十字架を通してのみ、光に、命に至る事ができます。私たちはそのままでは命に至る事ができません。アダムとエヴァの罰の苦しみのまま残ります。それを聖化する道が、イエズス・キリスト様と共に担ぐ十字架です。

「もしも私の弟子になりたいのならば、自分を捨て、自分の十字架を担い、私に従え。」

イエズス様は私たちに、十字架を担って、御自分の元に従うように招いておられます。十字架の友となる事を招いておられます。天主の言葉を聞く事を、御言葉を聞く事を招いています。そうすれば私たちは、天主からのものとなります。

ここにカトリックとプロテスタントの違いがあります。

「私たちは、キリストの神秘体の十字架の欠けたところを、私たちが進んでイエズス様と共に捧げる」という事です。「イエズス様と共に苦しみ、栄光に入る」という事です。「イエズス様と共に罪に死に、この肉体を十字架に付けて、キリストと共に復活する」という事です。

ですから、私たちにとって十字架というのは、教会にとっての十字架と同じです。喜びと命と幸せの源です。ですから私たちは、この受難節の時に、十字架の玄義を深く味わう事に致しましょう。


⑶どうやって味わったら良いでしょうか?

イエズス様がどれほどの屈辱、侮辱、痛みを具体的に受けたか、という事を、一つ一つ黙想する事です。なぜかというと、その一つ一つは、私たちに大きな慰めと力を与えてくれるからです。なぜかというと、私たちが受ける十字架や苦しみは、イエズス様の受けた一つ一つに比べると、全く何でもなく、なんちゃって十字架しかないからです。もちろん私たち本人にとってはとても苦しいものですけれども、しかしイエズス様の天主の苦しみと比べると、あまりにも軽いので、私たちは「あぁ、どれほどのイエズス様は苦しみを捧げられたのか」という事を見て、力を受ける事ができます。

そしてそれと同時に、「イエズス様の栄光に与る事ができる」という慰めを受けるからです。「我にとりて生けるはキリストなり。」十字架のないキリストはいません。

私たちも、この十字架の神秘に深く入る事ができるように、マリア様に、悲しみのマリア様にお祈り致しましょう。マリア様はいつも十字架の足元で留まっておられました。その神秘を深く、一番深くよく分かっておられました。

「私の言葉を守る者は、永遠に死を味わないであろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

洗礼の水は、イエズスの愛の結晶。御受難の十字架の木の上に成る愛の木の実り。生ける水で洗い清め、御自分の体で養おうとする、十字架の苦しみの果実。

2019年04月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年4月6日(初土)四旬節第4主日の後の土曜日のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年4月6日、四旬節の第4主日の後の土曜日のミサをしています。

来週の金曜・土曜・日曜日もミサがあります。金曜・土曜はいつもの通り、主日は枝の主日で、午後の18時から。

今日は初土でもあります。本来ならば初土の信心をしていますけれども、私たちは今日は特別に、今度復活祭の時に洗礼を受けて、天主の子供となろうとしている4人の方々の為に、その洗礼の前の、復活際には洗礼の儀式があまり長くなりすぎないように、その前の重要な部分をあらかじめ今日、ミサの後にしておこうと思っています。ですから皆さんどうぞ、この4人の、お母さんと子供たちの為にお祈り下さい。

本来ならば今日は、アメリカの神学校で、ティシエ・ド・マルレ司教様によって叙階式が行なわれるはずでした。下級品級の叙階式が行なわれる予定でしたが、しかしティシエ・ド・マルレ司教様が感染、体力が弱っておられたせいか、何か非常に体が弱っておられて、そして手術を受けなければならなくなってしまったとの事です。そこで本来今日行なわれるべき叙階式は、後日に延期されたとの事です。司教様のご健康の為に、どうぞ皆さんお祈りなさって下さい。


“Sitientes venite ad aquas.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「渇く者よ、水の元にやって来なさい。」

入祭誦で、教会は私たちに、特に洗礼志願者の方々にこう呼びかけました。典礼学者は声をそろえて言います。そして今日聖歌隊の方がそのミサを歌うと聞いて、「あぁ、この歌詞を見ると、まさに洗礼の事が書かれてある。」まさにその通り、教会は復活祭の洗礼に備えて今日、洗礼志願者の為に最終の準備を行なおうとしています。

「真理に喉が渇く者、天主の正義に、義に飢え渇く者、聖徳に飢え渇く者、天主の御旨を果たそうと飢え渇く者、水の元にやって来なさい。私はお前たちを癒す。喉の渇きを潤せ。水の元にやって来なさい。」まさに洗礼志願者に対して、心から呼びかけるイエズス様の招きの声です。

この「水の元にやって来なさい」という、この「水」というのは、生ける水である、生ける水が滾々と湧き出る泉の元、「イエズス・キリスト」の事です。イエズス様は「生ける水」として、教会は私たちにイエズス様の姿をイメージとして表そうとしています。

そればかりか、イザヤの預言を使って、イエズス様が良き牧者であり、彼らを良い牧草地に導いて、水を与えるのみならず、豊かな、そして青々と茂った牧草地に導き、そして太陽の照りつける所からは木陰を準備し、羊の為に一生懸命心を尽くす、「良き牧者」としても表しています。私たちは決して、この牧者の元にいれば飢え渇く事がない、と知っています。

イエズス様はそれと同時に、良き牧者と同時に、イザヤの書の終わりの方には、「優しい母」として姿を見せています、私は母親の心を持って羊たちを、私たちを御覧になっています。これほどの優しい愛に満ちた母親の心があるでしょうか。預言者イザヤの口を使ってこう聞きます、「母親が、自分の産んだ子供を、乳飲み子を忘れる事があろうか。自分の子供の事を蔑ろにする事があるだろうか。たとえあったとしても、私はお前を決して忘れない。私の心は、母親の心よりもさらに母親の心だ。」

イエズス様は福音の中では、御自分の事を「世の光である」と言います。「私に従う者は、決して闇を歩まない。」

この「闇」というのは、罪の闇であり、悪の闇であり、嘘の闇であり、惑い、混乱の闇、真っ暗な闇です。

しかし、イエズス様の後に付く人は、このような暗闇を歩きません。光の中を、太陽に輝かされて、真理と、正義と、聖徳と、正しい道を歩きます。何が善で、何が悪かをよく分かって歩きます。

今日イエズス様は特に、洗礼志願者の方々を、そして私たちを招いて、「さぁ、水の元に、生ける水の元にやって来なさい。良き牧者の元にやって来なさい。世の光の元にやって来なさい。もう闇の中に入る必要はない。もう苦しんで喉が渇いている必要はない。もうお腹をペコペコにして苦しむ必要はない。私が養ってあげる。私はまさに、母よりも母である、愛の天主である」と呼びかけています。

ですから今日は、散らされた、南からも東からも北の色々な多くの民がイエズス様の元にやって来て、良き牧者の元に集まって、母であるイエズス様の元にやって来ている姿を見せます。

この洗礼の水、生ける水イエズス様が養って下さるその食べ物、私たちに下さる食べ物、これはイエズス様の愛の結晶です。どのような愛だったでしょうか?

これは、イエズス様の御受難の、十字架の木の上に成る愛の木の実りです。イエズス様は私たちを、この生ける水で洗い清め、養い、御自分の体で養おうとする、そのそれは、その後ろには、十字架の苦しみがありました。

ですから今日は、イエズス様の近くに行くと同時に、イエズス様が歩まれた、カルワリオの道に馳せ行く事に致しましょう。水の元に行く為に、生ける水が滾々と湧き出るその泉に近付く為に、その泉の元は、十字架のこの木の根っこにあるという事を、その根元に行きましょう。

喧騒が聞こえます。人々がざわめいています。私たちは今、2000年前のエルサレムにいます。

イエズス様が、罪の無いイエズス様が死刑を受けました。十字架の死刑を受けました。ポンシオ・ピラトが不正にも、イエズス様を「十字架に付けるように」と言いました。

道端に、道に、イエズス様の歩く道を探して、私たちはそこに駆け寄ります。

イエズス様の来る前に、多くの人々が、特にファリサイ人たちが、イエズス様の事を口汚く罵っています。知ったかぶりをしています。イエズス様の事を、嘘とでたらめで悪口を言っています。馬鹿にしています。イエズス様が言った事を半分本当、半分嘘で固めています。

その後に、イエズス様を苦しめるべきロープや、あるいは釘や、あるいは金槌や、その他色々な処刑の道具を持っている人々が歩いてきます。

その後で、他の盗賊と、そしてイエズス様が歩いてきます。

イエズス様の姿をご覧下さい。私たちを浄め、そして私たちを養う為に、イエズス様は全身血だらけで、重い十字架を担いながら、十字架の木を担いながら、歩いて来られます。その頭には、茨の冠を被せられています。全身、頭から足まで傷だらけです。健康な肌はひとつもありません。息はゼェゼェ、ハァハァ、喘ぎ喘ぎ、一生懸命歩いています。

イエズス様は何を考えているのでしょうか?

皆さんと、私の事を考えています。「霊魂を救う。皆さんをそして私を、愛している。この霊魂を天国まで導く。その為に、罪の償いを果たす。皆さんと私の代わりに、この重い十字架を担う。」

あっ!イエズス様はよろけて倒れました。重い十字架の木が、イエズス様の上にのしかかります。気絶をしているかのようです。誰も憐れもうとする人はいません。蹴飛ばしたり、ざわめいて笑ったり、悪口を言ったりしています。それを私たちは聞いています、「あぁ、かわいそうに、かわいそうに。」

しかし、イエズス様は気絶をしても、私たちの事を、皆さんと私の事を考えていました。「さぁ、早く起き上がって、カルワリオまで行く。」

横を見て下さい。マリア様が来ておられます。聖ヨハネも来ておられます。マリア様は目にうるうると涙を溜めながら、御子イエズス様の事を見ておられます。マリア様こそ、イエズス様が罪の無い、どれほど愛に満ちた方であるかをよく知っていたので、どれほどお苦しみになった事でしょうか。自分の子供がこんなに苦しめられているのを目の前に見る、血だらけの御子、馬鹿にされている御子をご覧になられるマリア様。

マリア様はこのような光景を見ない事もできたはずですが、共に苦しむ為に、ますますイエズス様の方に近寄ります。私たちもマリア様と共に、イエズス様に近付きます。

イエズス様は起き上がって、マリア様と出会います。今まで茨の冠が入って、目に入って、あるいは血だらけでよく見えなかった目ですが、目を凝らして、マリア様をじっとお見つめになります。どれほど、苦しむお母様マリア様を御覧になったイエズス様は、苦しまれた事でしょうか。

マリア様も、そのようなイエズス様を見て、どれほど心に痛い思いをされた事でしょうか、張り裂けるばかりだったでしょうか。マリア様は何も仰らずに、目に涙をたたえながら、イエズス様の後を歩まれます。

カルワリオの下で、イエズス様が服を剥ぎ取られたり、茨の冠を取られて、また押し付けられたりするのを見て、どれほど心が痛んだ事でしょうか。屈辱を受け、馬鹿にされ、ある事ない事言われ、他の人たちが何を言っているかをよく聞き見る事ができた、イエズス様とマリア様。

イエズス様が十字架の木の上に手を出して、差し出して、釘を刺し貫かされる、釘を打ち付けられる、その金槌の音を、ゴーン!ゴーン!という音を聞く時、イエズス様の御痛みを思ったマリア様は、どれほどお苦しみになった事でしょうか。

イエズス様も、御自分の痛みも増して、全身にビクビクと響く、神経を貫く、この電撃が走るような苦しみを超えて、マリア様の悲しい御姿を見たその時には、どれほど御苦しみになった事でしょうか。

イエズス様は十字架の上に立てられて、御自分を御受難の実として、私たちの為に与え尽くそうとします。御血潮は全て流され、後は数時間、そこの十字架の上で苦しみを、私たちの為に、皆さんと私の為に、御母と共に御捧げになります。

十字架を立てた後には、皆はイエズス様をほっぽらかして帰って行きます。でもマリア様は、そのまま留まります。マリア様と共にイエズス様の足元に、十字架の足元に留まりましょう。この十字架のこの木の根っこから、生ける水が滾々と、御恵みが滾々と湧き溢れてきます。

イエズス様が苦しむ、十字架の上で苦しんでおられるその御様子をご覧になるマリア様、そして苦しむお母様マリア様を、汚れなき御心を御覧になるイエズス様、どれほど心が張り裂ける思いだったでしょうか。イエズス様と共に苦しむマリア様。マリア様と共に苦しむイエズス様。

この二人の、第2のアダムと第2のエヴァによって、私たちに生ける水が、そして御聖体が与えられる事ができるようになります。

聖ヨハネ・クリゾストモによると、「カルワリオには2つの祭壇があった」と言います。「1つは『イエズス様の御体』の上、そしてもう1つは『マリア様の汚れなき御心』だった。」

今日、イエズス様とマリア様は、母の心で私たちを呼びかけています、「渇く者よ、聖徳に渇く者よ、天主の御旨に渇く者よ、真理に渇く者よ、本当の命と、本当の美しい事に渇く者よ、生ける水の元にやって来なさい。イエズス様の元にやって来なさい。」

“Sitientes venite ad aquas.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

イエズスは、聖なる天主、人となった創造主、罪の汚れが全く無い方であるにもかかわらず、なぜこれほど苦しまなければならなかったのか?

2019年04月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年4月5日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき聖心聖堂にようこそ。
今日は2019年4月5日、四旬節の第4主日の後の金曜日、4月の初金曜日のミサをしています。

このミサの後で、初金曜日ですので、御聖体を顕示した聖時間もあります。もしもできたらいらして下さい。今日は小さなお友達がたくさん来てくれて非常に嬉しく思います。

では今日は初金ですので、私たちは一緒に、イエズス様の聖心の信心を黙想する事に致しましょう。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、福音書の中で、初金曜日の時にはいつもこの言葉を読みます。

「イエズス様の所に兵士がやって来ると、死んだかどうかを確認する為に、十字架に付けられた所にやって来ると、もう既に死んでいたので、死期を早める為の脛は折らずに、しかし兵士が槍を持って心臓を開いた。するとすぐに、水と血が出てきた。」

イエズス様は確かに既に亡くなっておられた。しかしそれとその死を確認すると同時に、イエズス様の聖心が開いた。

イエズス様の聖心は、人類に対する、私たちに対する愛のシンボルです。この愛が一番よく分かる、それが、イエズス様の「御受難」です。

そこで特に教会は、このイエズス様の御受難を黙想する事を大切にしています。復活祭の前40日間、教会は断食をします。断食というのは、何も食べないのです。イエズス様も40日間、公生活を始める前に断食をしました。お祈りと断食をしました。それなので、復活祭の前の40日間、教会は私たちに「断食をするように」と言っています。

ですから、昔の人は1日に1回、パンをちょっと食べて、お水を飲んで、40日間、お腹が減っているのをずっと我慢していました。現代ではそれがあまりにも大変なので、必ずしも断食をしなくてもよくなっています。でもそれでも、断食をする日です。

40日間、一週間は7日あるので、6週間です。7×6=42。6週間の内の最初の4週間は、特にイエズス様のそういう断食やお祈りについて、「私たちは一体何の為に生まれてきたのか?何の為にこの世の中にいるのか?私たちは天国の為にいるのだ。私たちはお祈りしなければならない。私たちはただ動物や、猫や犬のようにただご飯を食べて、面白おかしく過ごしているだけではない。永遠の命の為に生きているのだ。超自然の命を生きているのだ。天国の為に今戦っているのだ」という事を、4週間の間黙想しますけれども、最後の2週間は、復活祭までの14日間は、「私たちの主がイエズス様が、どれほど御苦しみになったのか、という事を黙想するように」と言います。

ですから特別に、これは受難の季節、「受難節」と言われています。2週間。

そして、この何でイエズス様がそれほど苦しまれたのか、というのを黙想するのは、その理由があります。まずこのイエズス様の御受難というのは、キリスト教の最も深い神秘の一つで、理解するのが難しいからです。

なぜ理解するのが難しいかというと、イエズス様がそれほど高貴で天主様であるにもかかわらず、人となったこの世の創造主であるにもかかわらず、罪の汚れが全く無い方であるにもかかわらず、そんなに聖なる方であるにもかかわらず、愛に満ちた方であるにもかかわらず、なぜこれほど苦しまなければならなかったのか?なぜ?

これを、理解しなければなりません。ここに、キリスト教の一番深い核心があります。
何で、何でイエズス様は苦しまれたのでしょうか?

なぜかというと、3つの理由があります。

それは、「私たちの罪が赦される為」です。
私たちはどうしても、罪を、自分の力では罪を償う事ができないからです。いくら謝っても、いくら何をしても、人間同士であれば、「あぁ、いいよ」「ごめん」と言えば、もちろん償いができます。しかし相手は、その罪の相手が天主様なので、もう罪を償いきれないのです。その為に、イエズス様が罪の償いをしてくれました。

この「罪の償いをしてくれた」という事は私たちに、「罪がどれほど恐ろしいか」という事を教えてくれます。「どれほど苦しまれたか」という事を見れば分かります。

もう1つは、「どれほど天主が、この私たちを創って下さった創造主が、私たちを愛して下さっているか」という事を教えています。

そして最後に、この御受難は、「私たちがこの地上の事ではなくて、永遠の命の為に生きているのだ」という事を教えてくれます。

でもこの御受難の神秘があまりにも簡単には理解できないので、それが簡単に理解できるように、昔から「前兆」という鍵を持って、「こういう事が起こる」という事をあらかじめ予告しておいて、そして「そういう事が本当に起こるのだ」という事を知らせておきました。

例えば、カインとアベルという話があります。アダムとエヴァの最初の子供たちです。兄弟です。アベルというのは、罪が無くて殺害されます。それはイエズス様の前兆でした。イエズス様も、罪が無くて殺されるからです、兄弟によって。

あるいはアブラハムとイサアクという話があります。アブラハムはお父さんです、イサアクはその子供です。アブラハムはとても信心深い人でした。聖なる人でした。

アブラハムはある時、あまりにも聖なる方だったので、「ユダヤ人」という特別な民族を作るその創始者になりました、最初の人になりました。アブラハムはある時天主に言われました、「お前の子孫たちは、天の星々のようになるだろう。海の砂浜の、砂の粒よりももっと大きな子孫をお前は持つだろう。大きな民族になるだろう」と言われました。

そしてところが、それにもかかわらず、子供が無かったのです。お祈りをして、お祈りをして、お祈りをすると、アブラハムが100歳ぐらいになった時に、90歳ぐらいの奥さんからサラという人から、子供が生まれます。最初は「こんなに年を取ったのでもう、きっともう無理だ」と思ったくらいです。しかし子供が生まれました。その唯一の一人息子が、そのアブラハムの、「まさにこの子供が、この子から大きな民族が出る」と言われるその子供が、大きくなって、とても良い子になって、そしていつもお父さんの言う事を聞いている時に、ある時天主に、「この子供を、生贄にして屠れ」と言われた。

「屠る」というのは、生贄として動物をする事です、そして祭壇に捧げる時に「屠る」と言います。「お前の一番大切な子供を、生贄として屠れ。山に登って、生贄を捧げろ。」

「えっ、え?一体どうして!?」と私たちでしたらこう言うかもしれませんが、アブラハムは、「はい、分かりました。御旨のままになりますように。」

子供を連れて山に登ります。
「さぁ、この木を担いで行きなさい。これは祭壇だ。」
「あぁお父さん、今から何をするのですか?」
「山に、今から山に行って生贄を捧げるんだよ。」
「あぁ、はい分かりました。」
「じゃあこれを。」
「この木は何ですか?」
「この木は祭壇の為に作るのだ。」
「はい、担いで行きます。」

アブラハムがお父さんが、イサアクを頂上に、山の上に着くと縛ります。
「お父さん、木で祭壇を作って、生贄はどこにあるんですか?」
「生贄はお前だ。」
「はい。」

その上に乗せられて、「さぁ、」いざ、アブラハムは刀を持って、イサアク、子供を、一人っ子を屠ろうとする時に、天主が、「ストップ!生贄は、そこの藪にある。角がかかってある子ヤギを使いなさい。「あぁ、はい!」イサアクを降ろして、その子ヤギを生贄を捧げます。

これは、イエズス様が十字架を担いで、十字架の木を担いで、聖父の命令に従って、自分がいけにえになる、というその前兆でした。子ヤギの頭がかかって動けなくなったというのも、十字架の、茨の冠を被せられたというイエズス様の象りでした。イサアクはそのまま救われましたけれども、イエズス様はそのまま屠られました。

あるいはモーゼが、エジプトの元にいた、奴隷生活をしていたユダヤ民族をエジプトから解放した時があります。その時には子羊を屠って、夜中に食べて、そして紅海という紅い海というものを渡って行きます、逃げ出します。

そしてある時そのモーゼは、この癩病や病気の人たちがいるのを見て、その紅海を渡る時に海を真っ二つに分けて、壁のような水の中をユダヤ人たちが通ったその時に使った奇跡の杖を使って、それをそれに蛇を、青銅という特別の金属で蛇を作って、それを掲げると、それを見た人は癩病が治りました。何か不思議な話ですけれども、そういう事が起こりました。

なぜモーゼが「蛇」の青銅を杖に掲げる事によって癩病が治ったのでしょうか?蛇というのはサタンを表わす事によく使われているのに?何故 (?_?) 聖パウロはこう言います。「天主は罪を知らなかったお方を、私たちのために罪となされた。それは、私たちを、かれにおいて天主の正義とするためである。」(コリント後書5:21)

十字架に付けられたイエズス・キリストは、私たちのために「罪」となった(!)と。あたかも「蛇」であるかのようになって、上げられたのです。それは私たちをキリストにおいて、癩病(罪)を赦し、清くするためでした。

これも、イエズス様の前兆でした。イエズス様は復活祭の聖金曜日の時に、十字架に付けられた子羊です。イエズス様の流した真っ赤な血の海を私たちは通って、洗礼の水を通って、そして罪から解放されます。そして癩病のように、もう私たちの力では治癒ができないというものすごい病気でも、木に付けられた蛇を見たように、イエズス様を見る事によって、私たちは癒される、という前兆でした。

今こう言ったのは、ほんのちょっとした事ですけれども、そのような前兆がそれ以外にもたくさんあります。何時間も話しても話しても話し尽くせないほど、そのような旧約聖書の中にあったそれは全て、救い主の御受難をあらかじめ予告する出来事でした、そのようなものを通して私たちに、この深い神秘の中に入るように、「天主は人となって、私たちをあまりにも愛してるが為に、自ら苦しんで、そして私たちを罪から解放させるのだ。その為に人となって、十字架に付けられた」という事を教えています。「どれほど私たちを愛されているか」という事を知って下さい。

もしも辛い事があったり、悲しい事があったり、嫌な事があったら、イエズス様のこの十字架の事を思い出して下さい。友達から悪口を言われた、友達が、これやってと言ったのにやってくれなかった、友達から変な事をされた、殴られた、馬鹿にされた。

「あぁ、」イエズス様も、天主であったにもかかわらず、とても私たちをはるかに超えた高貴な方であったにもかかわらず、私たちの為に屈辱を受けて、嫌がらせをされて、そして暴力をされて、命さえも失ってしまいました。しかしそれをみな、私たちを愛するが為に受けてくれました。

ですから、小さなお友達も是非、イエズス様の為にお捧げして下さい。もしも「宿題をするのが嫌だなぁ」あるいは何か「良い事をするのが辛いなぁ」と思ったら、イエズス様の事を思い出して下さい。「あぁ、イエズス様はどれほど私たちを愛して下さって、私たちの為にイエズス様はどれほど辛い事も捧げて下さっているのか」という事を思い出して、「じゃあ、この辛い事も、イエズス様の為にしよう」と思って下さい。

特に、もしも友達ができて、何か「悪い事をしよう、一緒に悪い事をしよう」と言われたら、「ダメ」と言って下さい。なぜかというと、私たちが悪い事をすると、罪を犯すと、イエズス様はとても悲しむからです。心が張り裂けるほど悲しむからです。なぜかというと、私たちが赦されるように、罪から赦されるようにこれほどまで苦しんだにもかかわらず、それを馬鹿にして、それをあたかも何でもなかったかのように悪を、悪を返すと、イエズス様はとても悲しむからです。

では今日は金曜日で、初金曜日ですから、イエズス様の愛がますます分かるように、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様はイエズス様の心がよく分かっていました。イエズス様の辛い思いがよく分かりました。イエズス様の思いの一つ一つが、敏感に心で感じていました。私たちもマリア様のように、イエズス様の心を理解する事ができるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本:聖伝のミサ(ラテン語ミサ)の報告 ノートルダム大聖堂の火災と、ベネディクト十六世の「教会と性スキャンダル」の文書

2019年04月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖週間です。日本で聖伝のミサを捧げるお恵みを頂き、特に東京では枝の主日のミサを執行しました。

突然、パリのノートル・ダム大聖堂の火災で、信仰の貴重な記念碑であるパリの聖母大聖堂の天上や塔が焼け落ちてしまったことを知りました。市民たちが大聖堂の周りに集まり、跪いて、聖母マリア様に祈りや聖歌を歌っている動画を見て感動しました。Je vous salue, Marie, pleine de grâce ; le Seigneur est avec vous. ... Sainte Marie, priez pour nous pauvres pecheurs maintenant, et a l'heure de notre mort.



ノートルダム大聖堂には、聖ルイ九世が国家財産を果たして購入した茨の冠の聖遺物が保管してありました。消防隊の従隊司祭(チャプレン)であったジャン・マルク・フルニエ神父(Jean-Marc Fournier)が、大聖堂に駆けつけるや、命の危険を冒しても御聖体と茨の冠を救い出したそうです。今日の英雄として全世界で感謝されました。【実は、ジャン・マルク・フルニエ神父とはフラヴィニーの神学校で一年の間同級生でした。私たちの神学校を退学したところまでは知っていましたが、ニュースによると聖ペトロ会で司祭に叙階されしばらく聖ペトロ会の司祭だったとのことです。】命がけで私たちの主の聖遺物を守ったフルニエ神父様、ありがとうございます! それと同時に、命がけで聖伝のミサ(私たちの主イエズス・キリストの十字架の犠牲の再現)を守って私たちに伝えて下さったルフェーブル大司教様、ありがとうございます!

つい最近の、ニュースによれば、ベネディクト十六世引退教皇は「教会と性スキャンダル」についての記事を発表しました。三部に分かれていて、一部では、社会的文脈を提示しています。1960年から1980年にかけて社会的な規範が崩壊し、新しい規律を作ろうとしていた歴史的背景が取り上げられます。
第二部では、この状況の下で司祭養成がどのような影響を受けたのかについて議論します。
第三部では、教会の答えを提案します。特に、「天主不在の社会」により、「目的不在の社会」「意味不在の社会」「規範不在の社会」になってしまったこと、真理ではなく、権力だけが自己主張をする社会になってしまったことを指摘します。そこで天主の現存を取り戻さなければなりません。
ベネディクト十六世は、現在、教会で御聖体があまりにも粗末に不敬に取り扱われていることを歎きます。御聖体という賜物を乱用から守るために全力を尽くさなければならない、私たちの主の苦しみと犠牲の偉大さを私たち皆が理解するように祈り求めなければならない、と訴えます。100年前、ロマノ・グアルディニは「教会は霊魂たちにおいて覚醒させている」と希望の言葉を述べたが、それから100年後の今、私たちはこう言う誘惑に襲われている:「教会は霊魂たちにおいて死につつある」と。教会は政治団体ではない。教会は、証し人(殉教者)の教会とならなければならない、と言われます。

教会の危機は、御聖体に対する崇敬と礼拝と、聖母への祈りによってのみ克服することが出来ます。会議によって解決は出来ません。それがベネディクト十六世のおっしゃりたかったことだと受け取りました。

では、愛する兄弟姉妹の皆様にレポートをご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミサの報告をお送り致します。

4月12日(御受難の週の金曜日) 聖母の七つの御悲しみのミサには11人、
4月13日 御受難の週の土曜日のミサには14人、
4月14日 枝の主日のミサには17人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

ご復活祭の準備がクライマックスになってきたので、神父様がいつもにも増してイエズス様の御受難に深く入っておられるようにお説教をお聞きして感じました。

金曜日のマリア様の御悲しみのミサのお説教の中で、十字架のもとにたたずみ給うマリア様の黙想がとても心に残り、寝床に入ってもそれを考えると中々眠れなくなりました。私もイエズス様の十字架の元に御ミサを通して参与していることを考え、今までは十字架の元にいても弱音を吐いて下を見て座りこんでいたけれども、これからはマリア様にしがみついて立っていることが出来るようになりたいと思いました。

枝の主日にはワリエ神父様が韓国からいらして下さり、枝の祝別とミサが滞りなく行われました。
東京のように外へでて信徒皆での行列は出来ませんでしたが、前日に小野田神父様がブログに載せて下さった枝の主日の黙想をひとつひとつ追いながらミサに与りました。飛行機のご都合で休む暇もなくとんぼ返りで日本を発たれたワリエ神父様と、いつものように大きな犠牲を払って日本へ来て下さる小野田神父様に、四旬節の特別割り増しの御恵みがありますように!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 27人(内、子供5人)
女: 32人(内、子供5人)
計: 59人(内、子供10人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ! 

枝の主日のミサを報告させていただきます。
枝の主日には、オリベト山が象徴された二階の会場で枝の祝別と枝の配布が行われました。
聖歌隊が歌われるなか、私たち信者は一人ひとり跪き、祝別された棕櫚の枝を神父様の手から受け取りました。二階の会場は枝を手にもつ子供たちと信者たちでいっぱいになりました。
続いて一同で外に出て、赤い祭服を纏われた司祭と十字架などを掲げ持つ侍者たちを先頭に聖歌隊が続き、ホザンナの歌とともに棕櫚の枝を手にみんなで町内の一角の道を行進いたしました。栄光と賛美を誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ!
このあたりのすぐそばにも日本の殉教者が葬られているという由緒ある土地を行進しながら、先祖のキリシタンの信仰と殉教を思い十字架に従おうと思いました。そして教会の前に到着して、天の門を再び開いてくださったキリストの勝利を思いました。(ここでは復活があらかじめ告げられた場面だったのですね。)聖歌隊の歌う声が最後まで聞こえないほど行列は長く続きました。

続くミサの中、いつもの聖福音書は司祭と聖歌隊とにより歌われました。とても長い福音書でした。最後のほうでは特に司祭によって歌われる悲しみの歌声を聞きながら、今年も胸がジーンといたしました。ありがとうございました。

主の御受難が歌われるなか、最後までキリストにつき従うことができますようにと思いました。それから「おのれを卑うして従い給うた主であるキリストの御前に膝をかがめて天主の光栄を崇め奉り」ました。本当に主の御謙遜と従順に最後まで倣うことができますようにと思います。ご聖体拝領では紫のおおいで隠された十字架を前に、今は隠されている主の栄光と力が確かに感じられました。

今年はこの日も含めて4回ほども公教要理に時間にイエズス様の御受難についてとマリア様の七つの御悲しみについてお話しいただきました。ありがとうございました。

ミサで歌われていた御受難の場面は御苦難を受けられた様子が描かれた場面です。裏切られ屈辱を受け嘲られ暴行を受け、ただされるがままになっているかのようなイエズス様。一度は王であるイエズス様につき従って行列した民も、最後にイエズス様などいらない死刑にしてしまえと叫んでしまう。イエズス様は、無理やりみんなから殺されて死に給うたと思っていたのですが、今年はお話を伺いながら黙想してきたおかげで、そうではなかったと思いました。イエズス様はご自分の力でもって御父が定められたとおりに御死去された(死なれた)のだということがしっかり理解できたように思います。

誰も自分で死ぬとき死ぬ場所死に方そのときの自然現象などを決めることなどできないのに、イエズス様はすべてあらかじめ預言されていたままのとおりにすべてそういったことを正確にクリアして(成し遂げられて)その御霊を御父にお返しになられたのですね。そういったことは人間にはできないことで、この出来事からイエズス様はやはり天主であったと知りました。

その十字架のもと苦しみと悲しみのなかで聖母マリア様は、イエズス様が御父の仕事をするためにエルサレムの訪問していたことを告げた21年前の出来事を思い起こしていたかもしれないということ、そしてイエズス様にまた三日後に再びお会いできるという希望もお持ちになられていたかもしれないこと、そういうことをこの日の公教要理を教わり黙想しています。
「私が御父の仕事をしているということがわからなかったのですか」、ああ、まことにイエズス様の御受難は、御父によって託された私たちの霊魂を買い戻すための代償の尊い御苦しみの御業だったのですね。

聖週間の間も、主の御受難を思いながら、静かに祈りながら過ごしたいと思います。
小野田神父様、枝の主日のミサをありがとうございました。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

枝の主日の前日ですが「枝の主日の枝って何の木の枝なの?」と家族から聞かれました。「棕櫚(しゅろ)とか橄欖(かんらん)という木の枝のようですよ」と答えました。「オリーブの木なのかな?あの鳩がくわえてきたのも、オリーブの枝だったね?」といわれました。

蘇鉄の葉が使われることが多いようですが、私たちは時に(今年も)棕櫚の葉を祝別していただいています。でも、橄欖の木というのはオリーブの木のようだったし橄欖山とかオリベト山とは、オリーブと関係のある名前なのだろうかと思ったりしました。
そして、ふと、鳩がくわえてきた枝というのは、ノアの時代に、水が引いて土地が固まり、その地に木が生えて住めるようになったことを示すものだったことを思い出しました。

それで確かに、この日の祝別された枝を、自分の部屋に一年飾るということは、私たちの救いの地である天国をもうイエズス様が用意してくださっていることを思い起こすためでもあるのかもしれないと、想像しました。イエズス様が御受難によって天国の用意をしてくださったことを、この日の枝を見て思いました。

すると、昨日の枝の主日のミサは、ノアの箱舟であるカトリック教会が2000年もの間守り続けてきている救いのための舟かもしれない、しっかりと水が浸み込まないように荒波にも壊れないよう頑丈に築き上げたノアの箱舟は、この聖なる聖伝のミサを守り続けているカトリック教会だと感じられました。

たとえ、ノブス・オルドミサによって攻撃を受け教会から消されようとしたにも関わらずしっかりと守られ残されている聖伝のミサ!今も世界中で確かに捧げられるこの聖なるピオ5世教皇によって聖別された聖伝のミサ!これこそ、この世の精神という水が決して浸み込んでくることのないように守ってくれるもの、いざこの世の大洪水の大水が引いたときに乾いて固まった土地(天国)に私たちを運んでくれる舟そのものと思いました。(この世の精神が浸み込んでくるように替えられてしまっては、そんな舟は途中で沈んでしまって、土地が乾くまで持たないかもしれないと思いました。)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

枝の主日のミサでは、たくさんの信者さんと枝の行列とミサ聖祭にあずかることができました。大勢でこの日、枝をいただきイエズス様の栄光を讃えて讃美しながら行列を出来たことを感謝いたします。素晴らしく荘厳に主日を過ごすことができました。ありがとうございます。
(いつもいらっしゃる信者さんがお誘いくださったと聞きましたが)新しく来てくださった信者さんも、「とてもよかった。小さい時のミサを思い出す、やっぱりこれが本当のミサだな」とお話されたことを伺って、うれしかったです。

それで思い出したのですが、10歳ほどのお子さんが初めてこの聖伝のミサに与られたとき、こっちが本当のミサだよねと親御さんに話されたのだそうです。きっと、小さい子供の純粋な心は本物を見抜く感受性があるのでしょう。小さい子供のようでいなさいと言われたイエズス様の言葉を思いだします。そういえば、友人も小さいころに通っていた教会の感じが忘れられなくて、この聖ピオ十世会のミサはそれとおんなじ雰囲気のままなので、こちらのミサにしか来る気持ちにならないとよくおはなしされていらっしゃいます。

小さい時にこのミサに与った方がこの世の喧騒から解き放たれて幼心(おさなごころ)をとり戻されたら、そして近くにこのミサがあることを知ったらきっとこちらに与りたいと思われる方が多いだろうなあと想像します。この昔からの聖伝のミサに与ったという記憶は、日本ではせいぜい今現在で60歳前後の世代までの方にしか残っていないかもしれません。そんな幼い時にこのミサに与った方々がどうか幼心(おさなごころ)を思い出してくださいますようにとお祈りいたします。

日本でこの聖伝のミサが捧げ続けられる限り、この聖伝のミサがよいものだと感じる人が必ず増えると思います。いま日本にいる子どもたちも純粋な心をもっていますから。日本はマリア様に奉献された国ですので、マリア様がきっと助けてくださるでしょうから、もっとロザリオをしっかりと祈りたいと思います。秋田巡礼でも、お祈りいたします。小野田神父様、これからも日本での聖伝のミサを、どうぞよろしくお願いいたします。

研究発表会:ジェイソン・モーガン麗澤大学助教「革命、不安定、帝国:過去500年の歴史の捉え方と秩序の取り戻し」とポール・ド・ラクヴィヴィエ氏「啓蒙思想は人間を解放しただろうか」

2019年04月16日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

研究発表会のお知らせです。

●ジェイソン・モーガン麗澤大学助教(Prof. Jason Morgan)
「革命、不安定、帝国:過去500年の歴史の捉え方と秩序の取り戻し」(仮題)


この研究発表では、ジェイソン・モーガン教授は、何故革命はさらなる革命へと進んでいくのか、この革命的な思考回路に対してどのように対抗して秩序を回復することが出来るのか、について考えを深めていきます。

宗教改革を起こしたマルチン・ルター、英国聖公会を作ったヘンリー八世、ウェストファリア条約、ナポレオン、ウィーン会議、アメリカの独立と市民戦争、ルーズベルト、ビスマルク、ブッシュ大統領、キッシンジャーなど、カトリック教会を排除しようとする政治は、常に流血の大惨事と帝国へと導かれることを考察します。

さらに「令和」が、日本にとって何故約束に満ちた時であるかについても、理由を深める予定です。

PROFILE:ジェイソン・モーガン助教は、1977年、アメリカ合衆国生まれ。歴史学者。日本史研究者。テネシー州立大学チャタヌーガ校で歴史学を専攻。2014~15年、フルブライト学者として早稲田大学ロースクールで研究。現在、麗澤大学で教鞭を執っておられる。「アメリカはなぜ日本を見下すのか?」などの著者

●ポール・ド・ラクヴィヴィエ氏 国学院後期博士課程・比較法制史
「啓蒙思想は人間を解放しただろうか」(Paul de Lacvivier)


この研究発表では、世界史をはじめ、一般に普及している「革命歴史観」を見直しつつ、幾つかの定番の課題に関する先入観を斬り、最先端研究をご紹介します。

研究発表の日時:2019年4月23日(火)午後7時00分~9時00分

場所:曙町会館一階

どなたでもご自由に聴講できます。知的なひとときをお過ごしください!




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2019年7月13日(土)7月14日(主日)には、「フランス革命を再考する」というテーマで国際シンポジウムが予定されております。

ジェイソン・モーガン麗澤大学助教(Prof. Jason Morgan)
ポール・ド・ラクヴィヴィエ氏(Paul de Lacvivier)
に加えて、

アメリカからはマイケル・マット(Michael Matt)氏 (Remnant紙)

フランスからはジャン・フランソワ・トマス神父(イエズス会司祭)(Père Jean-François Thomas, sj)
ガブリエル・ビルコック神父(聖ピオ十世会司祭)
などの方々が来日されて講話をされる予定です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

明日の枝の主日の解説と黙想を提案します。東京では午前10時半から、大阪では午後6時から聖伝による枝の主日の儀式があります。

2019年04月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

明日は、枝の主日です。愛する兄弟姉妹の皆様に枝の主日の解説と黙想を提案します。
東京では午前10時半から、大阪では午後6時から聖伝のミサによる枝の主日の儀式があります。
(大阪での聖月曜日と聖火曜日のミサは、ワリエ神父様のご都合によってキャンセルになりました。ご了承下さい。)

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

王たるキリストは、御自分の民を戦いに、そして勝利に導く。


今日の典礼は、イエズス・キリストがエルザレムに入城し歓迎され給うたことを記念するだけではない。むしろ、私たちが私たちの主イエズス・キリストと共に荘厳に御受難に付き添うことである。そのためには、私たちに準備が必要である。その準備が枝の儀式である。キリストは私たちのただ中におられ、私たちは私たちの主の弟子であり、私たちは主のために凱旋を準備する。主は、オリベト山から聖なる町エルサレムに入城され、そこで苦しまれる。

第一:オリベト山(枝の祝別)
第二:オリベト山からエルサレムの城門(枝の行列)
第三:聖なる町エルサレム(指定巡礼教会でのミサ聖祭)

行列の先頭を歩く十字架、あるいは司祭は、キリストを象徴する。
全ての信徒は、キリストの弟子らを象徴する。
ミサに来た子供たちは、ホザンナと叫ぶヘブライの子供たちを象徴する。

第一部:枝の祝別
オリベト山を象徴する小さな教会、或いは別の祭壇から儀式が始まる。祭壇の近くの台に棕櫚、かんらん、あるいはその他の枝がおかれ、祝福される。ピオ十二世の典礼革新以前には、あたかもミサ聖祭であるかのような儀式(聖変化の代わりに枝の祝別があり、聖体拝領のところを枝の配布)が行われた。
キリストを象徴する司祭が入堂すると、キリストに対して歌われるかのように、聖歌隊は次の交誦を歌う。「ダヴィドの子にホザンナ。祝されよ、主の御名によって来る者、イスラエルの王よ、いと高き所にてホザンナ。」これはいわば入祭唱である。司祭が祭壇に登るのは、私たちが天国に登る日のことを思い起こさせる。これは枝の行列が教会の門にたどり着くときも同じだ。
次にいわば「集祷文」がくる。枝の祝別である。「祈願。主よ、この棕櫚の枝を、祝福し給え(…)」棕櫚、或いは橄欖(カンラン)、オリーブの枝は、キリストの殉教とキリスト者らの殉教を象徴する。キリストは自ら御受難へと向かう。私たちも手に枝を持ってキリストに従う。ノエの方舟から放たれた鳩は、平和の印としてオリーブの枝を加えてきた。棕櫚の枝は、死と地獄に対する主の勝利を予告する。
信徒は、キリストからあたかも叙勲され、騎士とされ、勝利の棕櫚を戴くかのように、枝の配布を受ける。枝を受け取りながら、王たるキリストに従う者として、御受難に従う者としての恵みを受ける。枝を手にしながら、私たちは「ヘブライの子供たち」である。手に勝利の棕櫚の枝を持ち、キリストの前に行って、歓喜する。
2月2日の御潔めの式では、教会は私たちにローソクを配った。私たちが世の光であるキリストを運ぶため、私たちが世の光となるために。枝の主日では、教会は私たちに棕櫚の枝を配る。私たちは殉教者の王であるキリストを誇りにし、私たちもまた「殉教者」「証し人」となり信仰を告白することが出来るために。私たちは自分の部屋に、この祝別された枝を飾る。それはキリストを証しする務めを持っていることを思い出させるためだ。
聖福音では、歓喜に囲まれてのイエズス・キリストの荘厳なエルザレム入城についてが読まれる。「ダヴィドの子にホザンナ。賛美されよ、主のみ名によって来るおん者。天のいと高き所にホザンナ!」今日、典礼によって、キリストは、私たちキリスト者を、復活へと導いておられる。十字架の道を通って復活へと。私たちが手にする棕櫚は、それを意味する。行こう!私たちもキリストと共に行こう!キリストは私たちの内におられる。私たちも御受難に、そして復活に進もう!「我等安らかにいかん。(平和のうちに行こう。)」

第二部:枝の行列
私たちは、叙勲を受けたキリストの騎士として、キリストのための殉教者(証し人)として、王たるキリストに従う。キリストは必ず勝利する。死と罪と地獄とに打ち勝つ。私たちもキリストに従って勝利する。私たちの先祖キリシタンの時代のことを考えよう。私たちの信仰の兄弟たちが信仰のために殉教していた時のことを。私たちもその殉教の地に詣でた。今日、典礼では、私たちはキリストの御受難の地に詣でる。十字架の後に従う。キリスト者は、キリストと共に行進する。勝利者たちの、英雄たちの、凱旋の行進である。「ホザンナ!」私たちは棕櫚を高く上げて喜び歌う!教会は、そこでオルレアンの司教テオドゥルフォの作った王たるキリストに対する賛歌を歌う。「栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ。子等の美しい声は、敬虔なホザンナを、主に向けて歌う。」「いと高き天の全ての群れは御身を褒め称える。死すべき人間も、被造物も皆、声を合せて主を称える。栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ!」
信徒らの行列が教会の門の前に立つ。十字架を運んでいた副助祭が、十字架の足で教会の門を三度叩く。すると教会の門は開き、共同体は教会の中に入ることが出来る。アダムとエワの罪以来、天の門は閉められていた。しかしイエズス・キリストがこの地にやって来て、十字架と共に天の門を叩く。天の門は再び開き、キリストに従う者たちは天国に入ることが出来るようになる。枝の主日の地上での行列は、天国への行列となる。ヨーロッパの大聖堂の正門の上には、よく最後の審判が描かれている。大聖堂の正門は、キリストのための凱旋門である。勝利した者が勝利者であるキリストと共に通過する凱旋門だ。「栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ!」

第三部:ミサ聖祭
ラテラノ聖ヨハネ大聖堂は、エルサレムを象徴する。キリストはエルサレムに入り、弟子である私たちもキリストに従う。「主が、聖なる都に入り給うたとき、ヘブライ人の子等は、あらかじめ、彼の復活を告げた。手に棕櫚の枝を持って、彼等は勝利者を讃美した。いと高きところに、ホザンナ。」キリストは、何故エルサレムに入城したのか?王として戴冠式を行うためか?否。苦しむため、十字架に付けられるためだった。私たちも準備は出来た。覚悟ができた。ミサ聖祭に、キリストの御受難に入る。
預言者ダヴィドが、十字架の予告をする。それが入祭唱だ。「主よ、御身の救いを私より遠ざけ給うな。私を守りに来給え、私を、獅子の口よりとき放ち、みじめな私の生活を、牛の角より解放し給え。天主よ、わが天主よ、私をかえりみ給え。なぜ、私を見すて給うたのか。私の罪の叫びは、私から救いを遠ざける。」(詩篇21)
私たちの主イエズス・キリストも、十字架の上でこの詩篇21を唱えた。「天主よ、わが天主よ、私をかえりみ給え。なぜ、私を見すて給うたのか。」
詠誦も同じ詩篇21から取られている。「天主よ、わが天主よ、私をかえりみ給え。なぜ、私を見すて給うたのか。」
「私は、もはや人間ではなく、うじ虫にすぎない。私は、人間の恥辱、人々の嘲弄となっている。私を見る者はみな、私をあざけり笑う。かれらは、口でののしり、頭を振る。(…)かれらは私をながめ、私を見つめた。私の服をさき、私の衣をくじ引きした。」
聖パウロの素晴らしい書簡が読まれる。「(キリストは)死ぬまで、十字架上に死ぬまで、おのれを卑うして従い給うた。このために天主も彼を称揚し、すべての名にまさる名を与え給うた。これは、イエズスの御名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、「イエズス・キリストは主である」といいあらわすためである。」この部分は、聖週間の最後の聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日の聖務日課の重要なアンティフォナとなっており、キリストの御受難の核心である。
司祭がパンとぶどう酒を捧げる時、キリストの御受難を思い起こし、奉献文は「かれらは、私の食物として苦胆を与え、飲物として酢をのませた。」と歌う。キリストは御自分と共に苦しむ者を求めておられる。「私の心は、侮辱と悲惨とにみちている。私は、私と共に悲しんでくれる者があろうと期待したが、一人としてなかった。私を慰める者を求めたが、一人としてなかった。」キリストは一人で苦しまれる、しかし、私たちの同伴を求めておられる。私たちは棕櫚の枝を持ってキリストに従う。キリストと共に、天の国に入るために。
共同体が御聖体を拝領している時、この聖体拝領誦を歌う。オリベト山から始まった行列は、オリベト山のふもとのゲッセマニで終わる。「私の父よ、この杯を、私が飲まずしては去りえないならば、思召のままになし給え。」

サムエルの書(上)第二章を、ラテン語のブルガタ訳、光明社の訳、バルバロ神父訳の対訳でご紹介いたします。

2019年04月12日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 サムエルの書(上)第二章を、ラテン語のブルガタ訳、光明社の訳、バルバロ神父訳の対訳でご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Vulgata 光明社 バルバロ訳
Capitulum 2 第2章 サムエルの書上 第2章
1 exultavit cor meum in Domino exaltatum est cornu meum in Domino dilatatum est os meum super inimicos meos quia laetata sum in salutari tuo 「わが心は主によりて喜び、わが角はわが天主によりて高し。わがロはわが敵に對して開く、そは我、汝の救濟によりて樂しめばなり。 アンナはこう祈った、「私の心は主において喜ぶ、主によって私は額を上げた。私は敵に向かって口を開き、主の救いに私は喜び踊る。
2 non est sanctus ut est Dominus neque enim est alius extra te et non est fortis sicut Deus noster 主の如く聖なる者はあらす、蓋し、汝を除きて他になく、我等が天主の如く強き者なければなり。 主ほど聖なるものはない、われらの神ほどの岩はない。
3 nolite multiplicare loqui sublimia gloriantes recedant vetera de ore vestro quoniam Deus scientiarum Dominus est et ipsi praeparantur cogitationes 最早誇りて高き事を云い続くるなかれ、古き事を汝のロより棄てよ、主は全知の天主に在し、すべての思想は彼に明白なればなり。 あなたたちはもう高ぶったことを二度と言うな、その口から横柄なことばを出すな。知恵に満ちる神、それは主である、そのみ業は常に正しい。
4 arcus fortium superatus est et infirmi accincti sunt robore 強き者の弓はも折れたり、弱き者は力を帶びたり。 つわものの弓は折れ、弱者は力をまとった。
5 saturati prius pro pane se locaverunt et famelici saturati sunt donec sterilis peperit plurimos et quae multos habebat filios infirmata est 嚮に滿足りし者は、糧の爲に雇われ、飢えたる者は飽かされたり。石婦は數多産み、多くの子を有てる者は衰えたり。 飽き足りた者はパンを求めて働き、飢えた者はもう働きをやめた。うまずめは七度生み数多い子の母はしおれた。
6 Dominus mortificat et vivificat deducit ad infernum et reducit 主は殺し、また活かし給う、黄泉に下し、また戻し給う。 死なせるのも生かすのも主である、黄泉に下らせるのも引き上げるのも、
7 Dominus pauperem facit et ditat humiliat et sublevat 主は貧しからしめ、また富ましめ給う、卑からしめ、また高からしめ給う。 貧しくするのも富ませるのも、卑しくするのも立ち上がらせるのも主である。
8 suscitat de pulvere egenum et de stercore elevat pauperem ut sedeat cum principibus et solium gloriae teneat Domini enim sunt cardines terrae et posuit super eos orbem 乏しき者を塵より起し、貧しき者を卑賤より擧げて、王侯と共に坐せしめ、光榮の座を保たしめ給う。けだし地の樞は主の所有にして、主之が上に地の球を置き給えり。 主はちりの中から惨めな者を拾い上げ、ごみの中から貧しい者を助け上げる、彼らを民のかしらとともに座らせ、永久に光栄の座を与えるために。地の支え柱は主のもの、その上に主は世を置かれた。
9 pedes sanctorum suorum servabit et impii in tenebris conticescent quia non in fortitudine roborabitur vir 主はその聖徒の足を護り給わん、悪しき者は暗黑に在りて默さん、盖は何人も己がカによりて強くなるを得ざればなり。 主は忠実な者の歩みを見守り、悪者をやみの中に消される。勝利は力によるものではない。
10 Dominum formidabunt adversarii eius super ipsos in caelis tonabit Dominus iudicabit fines terrae et dabit imperium regi suo et sublimabit cornu christi sui 主の敵は主を恐れん、主諸天に在りて彼等の上に雷を轟かし給わん。主、地の果を審判き、その王に主權を與え、その受膏者の角を高くし給わん。」と。 ああ主よ......敵は砕かれ、いと高き者は天から雷鳴をとどろかせ、地の果てまでさばかれる、主は王に力を与え、油を注がれた者を高められる」。
11 et abiit Helcana Ramatha in domum suam puer autem erat minister in conspectu Domini ante faciem Heli sacerdotis さてエルカナはラマタに行き、その家に至りしが、かの子は司祭ヘリの面前に於いて、主の御眼前に仕えたり。 その後彼らはラマへ帰ったけれども、子どもは祭司エリとともに主に仕えるために残った。
12 porro filii Heli filii Belial nescientes Dominum 然るにへリの子等はべリアルの子にして、主を知らず、 エリの子らはろくでなしで、主のことも、
13 neque officium sacerdotum ad populum sed quicumque immolasset victimam veniebat puer sacerdotis dum coquerentur carnes et habebat fuscinulam tridentem in manu sua また民に對する司祭のなすべき事をも知らざりき。そは即ち、人犧牲を屠るや、肉のなお煮られおる間に、司祭の下僕三叉の肉叉を手にして來り、 民に対する祭司の定めもまったく気にしていなかった。いけにえをささげる人があると、肉を煮ているときに祭司のしもべが三またの肉さしを持って出てきて、
14 et mittebat eam in lebetem vel in caldariam aut in ollam sive in caccabum et omne quod levabat fuscinula tollebat sacerdos sibi sic faciebant universo Israheli venientium in Silo 之を釜、または大釜、または壺、または鍋に突き入れ、肉叉の上ぐるものは皆司祭之を己が爲に取りたり。彼等シロに來るすべてのイスラエルにかく爲しぬ。 大なべ、小なべ、はち、つぼの中に肉さしをつっこんだ。祭司はその肉さしにかかるものをすべて自分のためにとった。彼らはシロにくるイスラエル人みんなに、そういうことをしていた。
15 etiam antequam adolerent adipem veniebat puer sacerdotis et dicebat immolanti da mihi carnem ut coquam sacerdoti non enim accipiam a te carnem coctam sed crudam また脂肪を燒く前に、司祭の下僕來りて、犧牲を献げる人に云えり、「司祭の爲に煮るべき肉を我に與えよ、蓋し、我は汝より煮たる肉を受けじ、生肉をこそ受けめ。」と。 そのうえ、脂を焼く前に祭司のしもべが出てきて、いけにえをささげる人にこう言うのだった、「祭司の焼肉にする肉を少しください。祭司は煮た肉ではなく生の肉しか受け取らないからです」。
16 dicebatque illi immolans incendatur primum iuxta morem hodie adeps et tolle tibi quantumcumque desiderat anima tua qui respondens aiebat ei nequaquam nunc enim dabis alioquin tollam vi その時犧牲を献ぐる者之に云いけるは、「慣習に従いて、今日は先す脂肪を燒くべし。然る後、汝心に欲むだけ取れ。」と。然るに下僕答えて之に云いけるは、「然せずして、今與えよかし、然らすば我強いても取らん」と。 もし相手が、「まず脂を焼きます、それから思いのままに肉を取ってください」と答えると、しもべは、「いや今すぐもらいたい。そうしないと力ずくでも取り上げる」と言った。
17 erat ergo peccatum puerorum grande nimis coram Domino quia detrahebant homines sacrificio Domini さればかの若者等の罪は、主の御前に甚だ大なりき。そは彼等人々を主の犠牲より遠ざけたればなり。 その若者たちの行為は主の前にはなはだしい悪事であった、それは主への供え物を汚すことだったからである。
18 Samuhel autem ministrabat ante faciem Domini puer accinctus ephod lineo さてサムエルは、子供ながら亞麻布の肩衣を着けて、主の御面前に仕えけるが、 サムエルはといえば麻のエフォドを着る子どもらしく、自分にできることをして主の前に奉仕していた。
19 et tunicam parvam faciebat ei mater sua quam adferebat statutis diebus ascendens cum viro suo ut immolaret hostiam sollemnem その母之が爲に小さき上衣を作り、定めの日に、祭の犧牲を献げんとてその夫と共に上る時、持ち來れり。 母はその子のために小さながいとうを作り、毎年夫とともにいけにえをささげに上るとき、それを彼に持っていった。
20 et benedixit Heli Helcanae et uxori eius dixitque reddat Dominus tibi semen de muliere hac pro fenore quod commodasti Domino et abierunt in locum suum 時にヘリ、エルカナ及びその妻を祝して、彼に云いけるは、「汝が主に奉りたる人質の爲に、主この女より汝に子種を與え給えかし。」かくて彼等己が住處に帰り行けり。 そのときエリはエリカナとその妻を祝福してこうくり返した、「主にした贈り物の代わりに彼女が別の子を生みますように」と。そして彼らは帰途につくのが例であった。
21 visitavit ergo Dominus Annam et concepit et peperit tres filios et duas filias et magnificatus est puer Samuhel apud Dominum しかして主アンナを惠み給いければ、彼女懐胎して、三男二女を産みぬ。童サムエルは主の御許にて成長てり。 その後主は本当にアンナを訪れられた。こうしてアンナは身ごもり、息子三人娘二人の子宝を得た。その間小さなサムエルは主のそばでしだいに大きくなっていった。
22 Heli autem erat senex valde et audivit omnia quae faciebant filii sui universo Israheli et quomodo dormiebant cum mulieribus quae observabant ad ostium tabernaculi さてヘリは甚だ老いたりしが、己が子等のすべてのイスラエルに爲したる一切の事と、彼等が幕屋の門口に待ちいたる女等と共に臥したる次第とを聞き、 エリはかなり年を取っていたけれども、自分の息子たちが、すべてのイスラエル人に対して何をしているかを聞かされた。
23 et dixit eis quare facitis res huiuscemodi quas ego audio res pessimas ab omni populo 彼等に云いけるは、「汝等何故にかかる事を爲すや、我すべての民より之を聞きしが、憎むべき惡事なり。 彼は二人の息子に言った、「なぜそんなことをするのか。私は人々からおまえたちのやっている悪事を聞いた。
24 nolite filii mi non enim est bona fama quam ego audio ut transgredi faciatis populum Domini わが子等よ、然するなかれ。寔に汝等主の民をして非を行わしむと、わが聞く噂は善からず。 いやいや、皆の話ではおまえたちは主の民を遠ざけている、そういうことを決してしてはならぬ。
25 si peccaverit vir in virum placari ei potest Deus si autem in Domino peccaverit vir quis orabit pro eo et non audierunt vocem patris sui quia voluit Dominus occidere eos 人もし他人に対して罪を犯さば、天主之に對して御心を宥められ給うこともあらん。されど人もし主に對して罪を犯さば、誰か之が爲に祈るを得べき。」と。然るに彼等その父の聲に聽き從わざりき。そは主彼等を殺さんとし給いたればなり。 人が他人に罪を犯せば神はさばき手となってくださる。だが主に対して罪を犯せば、だれにとりつぎを頼めよう」。二人は父の言うことに耳をかさなかった。主は二人を殺そうと決めておられたからである。
26 puer autem Samuhel proficiebat atque crescebat et placebat tam Deo quam hominibus さて少年サムエルは身大きく、成長ち行きて、主にも人にも好まるる者となりぬ。 それにひきかえ若いサムエルは神の前でも人の前でも、背丈も寵愛も増していくのだった。
27 venit autem vir Dei ad Heli et ait ad eum haec dicit Dominus numquid non aperte revelatus sum domui patris tui cum essent in Aegypto in domo Pharaonis 折しも天主の人、へリの許に來りて、之に云いけるは、「主かく云い給う“汝の父祖エジプトに於いてファラオの家に在りし時、我、彼等の家に明らかに現れしに非ずや。 ある日神の人が一人エリのもとにきて言った、「主はこう仰せられる、〈人々がファラオの家の奴隷としてエジプトにいたとき、私はおまえの父の家に向けてはっきり私自身を示したではないか。
28 et elegi eum ex omnibus tribubus Israhel mihi in sacerdotem ut ascenderet altare meum et adoleret mihi incensum et portaret ephod coram me et dedi domui patris tui omnia de sacrificiis filiorum Israhel しかして我、彼をしてわが祭壇に上りて我に香を焚き、わが前に肩衣を着けしめんとて、イスラエルの中より彼を選び、司祭たらしめ、イスラエル裔等の悉く、汝の父砠の家に與えたり。 私の祭司となり、祭壇に上り、香をたき、私の前でエフォドをつけるように、イスラエルの全部族の中から私は彼を選んだ。またおまえの父の家には、イスラエルの子らの火のいけにえをすべて糧として与えた。
29 quare calce abicitis victimam meam et munera mea quae praecepi ut offerrentur in templo et magis honorasti filios tuos quam me ut comederetis primitias omnis sacrificii Israhel populi mei 何が故に、聖殿にて献げよと命じたるわが犠牲とわが禮物とを、汝等足にて踏みにじりたるぞ。また何が故に汝我よりも汝の子等を貴びて、わが民イスラエルのあらゆる献物の初穗を食するそ。" こうしておまえたちは、私の民イスラエルの供え物の初穂で肥え太った。それなのになぜ、私の命じたいけにえと供え物をものほしげにながめ、私自身よりおまえの息子らのほうを大事にしたのか〉――
30 propterea ait Dominus Deus Israhel loquens locutus sum ut domus tua et domus patris tui ministraret in conspectu meo usque in sempiternum nunc autem dicit Dominus absit hoc a me sed quicumque glorificaverit me glorificabo eum qui autem contemnunt me erunt ignobiles されば主イスラエルの天主はかく云い給う、"我寔に云えり、汝の家と汝の父祖の家とは、幾久しくわがこの眼前に仕うべしと。”されど今や主は云い給う、"そはわが欲する所に非ず。すべて我に光榮あらしむる者は、我も之に光栄あらしむべし、されど我を軽んずる者は、蔑ろにせらるべし。 イスラエルの主なる神は仰せられる――〈“おまえの家とおまえの父の家は永久に私の前を歩む”と私ははっきり語ったけれども―主は仰せられる――〈今はもうそうではない。私を尊ぶ者を私も尊び、私をないがしろにする者を私もないがしろにする。
31 ecce dies veniunt et praecidam brachium tuum et brachium domus patris tui ut non sit senex in domo tua 視よ、日は來る。その時は汝の腕と汝の父祖の家の腕とを断ち、汝の家に老ゆる者をなからしめん。 見よ、ある日私はおまえの腕とおまえの父の家の腕を切り取る。おまえの家にはそのときもう長老はいなくなる。
32 et videbis aemulum tuum in templo in universis prosperis Israhel et non erit senex in domo tua omnibus diebus 即ちイスラエルのあまねく繁榮ゆる時に、汝聖殿に汝の敵手を見るべく、汝の家には末永く老ゆる者なからん。 主のイスラエルに行われる良いことをねたましくながめるときがおまえにはくる。そのときすでにおまえの家には長老はない。
33 verumtamen non auferam penitus virum ex te ab altari meo sed ut deficiant oculi tui et tabescat anima tua et pars magna domus tuae morietur cum ad virilem aetatem venerit 然りといえども、我はわが汝より出でし人を祭壇より全くは取除かじ、ただ汝の眼霞み、汝の靈魂衰うることあらん。また汝の家人の大部分は、丁年に及びて死すべし。 とはいえ私はおまえの家の者をだれか私の祭壇の側に残しておく。それは彼らの目をしぼませ魂をなえさせるためである。おまえの家の子孫は人の手にかかって剣で死ぬだろう。
34 hoc autem erit tibi signum quod venturum est duobus filiis tuis Ofni et Finees in die uno morientur ambo さて、汝の二子、オフニ及びフィネスに起るべきこの事を以て、汝に對する徴とせん。即ち彼等は兩人共に日を同じうして死すべし。 おまえの二人の子オフニとピンハスに起こることを見ておまえはしるしと思え、二人は同じ日に死ぬことになる。
35 et suscitabo mihi sacerdotem fidelem qui iuxta cor meum et animam meam faciat et aedificabo ei domum fidelem et ambulabit coram christo meo cunctis diebus 我はまたわが爲に忠信なる司祭を起さん、彼はわが心とわが精神とに從いて爲さん。されば我彼が爲に堅固なる家を建てん、彼はいつの日にもわが注油せる者の前に歩まん。 そのとき、私は私の心と望みに従ってふるまう忠実な祭司を起こそう。私に油を注がれたものとして常に私の前を歩めるように、その者に固い土台の家を建てさせよう。
36 futurum est autem ut quicumque remanserit in domo tua veniat ut oretur pro eo et offerat nummum argenteum et tortam panis dicatque dimitte me obsecro ad unam partem sacerdotalem ut comedam buccellam panis しかして汝の家に遺れる者は、來りて祈祷を求め、銀一枚とパン一斤とを出して云わん、‘乞う我に司祭の職務の一部を許容して、一口のパンにても食するを得しめよ。’’’と。」 そのときおまえの家に生き残っている者は、小粒の銀と一きれの堅パンをこうて彼の前にひれ伏し、“パン一きれがほしいので、何でもよいから祭司の役目をやらせてください”と頼むことになろう〉」。

サムエルの書(上)第一章の解説と黙想 大聖グレゴリオによる神秘的な意味

2019年04月09日 | カトリックとは
愛する兄弟姉妹の皆様、

サムエルの書(上)第一章の黙想を提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ラマタイム(Ramathaim)の町の中に一人の男がいた。天主のしもべであり、エルカナと呼ばれていた。

ラマタイムは、私たちにとってアリマテアとしてよく知られている。衆議所のアリマテアのヨゼフがピラトから私たちの主イエズス・キリストを葬る許可をとったが、そのヨゼフの出身地である。

エルカナは、父によりレビ族に属していた。母によってはユダ族に属していた。
彼は、エフラタの出身であった。エフラタとは、ベトレヘムのことである。

エルカナには、美しい妻がいた。アンナという名前である。残念なことに、可哀想なアンナには子供が授からなかった。

モーゼの掟によると、特別な場合には子供を得るために、副次的な妻を娶ることが特例として許されていたので、別の女性を娶った。ペンニナ(フェネンナ Fenenna)といった。

ユダヤの歴史家による別の文献を信じるならペンニナには男の子だけで10人いた。

エルカナは、毎年、過ぎ越しと、五旬祭と、幕屋祭に、いけにえをささげるために自分の町からシロ(Silo)に上った。その当時、シロに契約の櫃があった。

エルカナはレヴィ族でしかなく、司祭ではなかったので、司祭の手を通して犠牲を捧げた。

ある日、エルカナはいけにえをささげた後、犠牲(いけにえ)の残りを二人の妻と子供たちと分けた。いけにえの脂身は祭壇で燃やされ、胸の部分は司祭に与えられ、残りが奉献者に属するからだ。

アンナは、食卓について、その分け前が、別の妻のペンニナとその息子と娘らにそれぞれ与えられるのを見て、ペンニナがアンナを軽蔑するようなコメントを聞いて、エルカナがアンナをより愛するのを嫉妬するペンニナの残酷な態度を見て、毎年のいけにえの巡礼は、アンナにとって苦痛であった。

競争者のペンニナはアンナの恥、つまり主が彼女の胎を閉じて子を与えられないことについて、ひどく辱めていたからだ。毎年そうであった。主の聖所に上るごとにペニンナはアンナを悲しませていた。

エルカナはアンナの涙を見て、慰めようとする。
「アンナ、なぜ泣くのだ。なぜそう悲しむのだ。なぜ食べないのか。おまえにとって十人の子よりも私のほうが良いではないか。」

つまり、おまえのことをこんなにも愛している夫が一人いることは、数え切れない心配を与える子供の数々よりもよっぽど良いのではないか?という意味だ。

アンナは、宴会のあと、立ち上がり幕屋の方に向かい、祈るために主の前に出た。
そのとき祭司エリ(Heli)は主の聖所の扉の柱に近い腰かけに腰を下ろしていた。
アンナは心を痛め、泣きに泣いて主に祈った。

「ああ万軍の主なる天主よ、あなたのはしためのこの惨めさを顧み、私のことを思い出したまえ。このはしためを忘れず、男の子を与えられるなら私は一生その子を主にささげ、その子の頭にかみそりをあてることもしますまい。」

アンナの主の前での長く祈った。同じことを何度も祈った。
アンナは沈潜し、深く心の中で語っていて、くちびるだけ動かし、声は外に出ていなかった。

ユダヤ人にとって、祈りは体の動きとなって、大きな声で唱えなければならないとされていた。

大司祭エリはこの女は酔っているなと思った。宴会でたくさん酒を飲んだのだろう、と。エリはアンナに言った。
「酔っていつまでそこにいるのか。ぶどう酒の酔いを早くさませ。すこし横になって休んだらどうか。」

競争者ペンニナからの侮辱を避けるために、祈りに慰めを求めて逃げてきたアンナは、司祭からも酒飲みだと馬鹿にされた。しかし、アンナは怒らずに静かに答えた。

「いえ、主よ、私は悲しみに打ちひしがれています。ぶどう酒も酔う物も飲んではいません。ただ主の前で私の思いを告げていたにすぎません。主の婢を、ベリアルの娘等の一人と思うなかれ。このはしためを自堕落な女だと思ってくださいますな。私は苦しみと悲しみのあまり主に語りかけていたのです。」

エリはアンナが本当のことを言っていると分かった。アンナの平静さ、単純さ、慎み深さがよく分かった。
「安心して行け。イスラエルの天主はおまえの願いを聞きたもうだろう」。

アンナは司祭の言葉を主からの言葉として受け入れた。天主は彼女の祈りを聞き入れて下さるだろう!
アンナは言った。「願わくは汝の婢、汝の御眼前に恩恵を得んことを。」
つまり、「私のためにお祈り下さい。」

それからアンナは夫のもとにもどり、喜んで食事をとった。もう前のように悲しんではいなかった。「その顔色最早さまざまに変わることなかりき。」つまり、気分のむらもなく、喜んだり、悲しんだりすることなく、大司祭の言葉に信頼し、平和を取り戻した。

この次の日、日の昇るころ一同は起き出し、もう一度幕屋に行って、主の前にひれ伏してラマタ[イム]の家への帰途についた。

その後エルカナが妻を知ったとき、主は彼女を思い出された。アンナは身ごもった。その年の終わりころ彼女は身ごもって男の子を生んだ。その子はサムエルと名づけられた。サムエル、つまり「主に願った」。

夫のエルカナは毎年のいけにえを主にささげて、サムエルの誕生を感謝し、誓いを果たすために家族一同を連れていこうとした。

しかし、アンナはついていそうとせず、夫にこう言った、「この子が乳離れして主の顔をおがみに連れていけるようになり、ずっと向こうにとどめておけるようになるまで、私は参りません。」

夫のエルカナは答えた、「おまえの思うようにしてよい。子を育て上げるまでいかなくてよい。主はおまえの望みをかなえてくださるだろう。」

アンナは家に残り、乳離れするまでその子を育てた。

乳離れしたときアンナは子を連れ聖なる場所に登った。三歳の雄牛一頭、一エファの麦粉、皮袋一つのぶどう酒を持ち、子の手をひいてシロの主の神殿に上った。雄牛をほふってから彼女は子どもをエリに紹介した。

「主よ、お聞きください。あなたのお命が真実であるように、私もそれにかけて事実を申します。私はちょうどここ、あなたのそばで長くとどまって主に祈った女です。私はこの子について祈りました、主は私の願いを聞き届けてくださいました。それで私もこの子の一生を主にゆだねます。この子を主にささげます。」
そして彼女はその子を主の前に残して去った。

大聖グレゴリオによると、次のような神秘的な意味があると言います。

エルカナは、キリストの前表(figura)である。だから「ひとりの男 vir unus」と言われている。唯一の人であり、第二はない。聖父が喜びとする御独り子である。

エフライムの山地なるラマタイムソフイムに彼はいた。
ラマタ・サフィム Ramatha Saphim この二つの名前は「完成したヴィジョン、観想」を意味する。何故なら、キリストは天主性を観想する至福直観の内におられ、そこからこの地にやってこられたから。

彼は「エフライムの山地」からの人だ。「エフライムの山」の意味は「豊かさの山」である。キリストは、全ての聖徳の満ちあふれた山すなわちマリア様からの人だから。

エフライムの人である。エフライムとは「実り豊かな」という意味だ。何故なら、キリストは全世界を養う豊かな実りをもたらすからだ。

彼はシロに決められた日に登った。「さてこの人はシロに於いて萬軍の主を禮拜し、之に禮物を献げんとて定めの日にその市より上りぬ。」何故ならキリストは、預言者によって定められた日と段階を厳格に守って、この地上での生活を送り、常に自分の体を全世界の救いのためのいけにえとして捧げるために天上の方へと歩んでいたからだ。

シロとは、「送られた」という意味だ。何故ならキリストの全生涯は従順の生涯であり、聖父から与えられた使命を果たすだけに費やされたからだ。

この地上で、彼には二人の妻がいた。つまり、ユダヤ会堂(シナゴーグ)【ペンニナ】と教会【アンナ】である。二つとも当時は本当の宗教であった。両者とも、当時は、永遠の生命に霊魂を生むことが出来た。

ペンニナには子供が多くいた。何故ならシナゴーグは物質的に豊かだったから。アンナは子供がなかった。何故なら生まれたばかりの初代教会は、キリストから愛されていたにもかかわらず、信徒の数が少なかったからだ。この初代教会について雅歌はこう歌っている。"Soror nostra parva, et ubera non habet." (8:8)

ペンニナのアンナへの迫害は、ユダヤ人たちが教会に対してなした迫害と軽蔑である。アンナは涙を流し祈る。使徒たちもユダヤ人たちの不信を歎いたからだ。聖パウロもユダヤ人たちについてこう言う。「私は、心に大きな悲しみと絶えまない苦しみを感じている。私の兄弟と、肉親の者のためならば、私自身は呪われてキリストから棄てられた者となることさえ望む。」(ローマ9:3)

キリストは、教会を慰める。「アンナよ、汝は何故泣くや、何故食せざるや、また何故汝の心を悩ますや。我は汝にとりて、十人の子にも優るに非ずや」と。

おまえは私という最高の宝を持っているではないか。おまえは天の王と婚姻の絆で分かちがたく結ばれているではないか。10人の子供、つまり天主の十戒を知っているがそれよりも上に行くことを知らない子供たちよりも、すぐれていることではないか。

アンナは子供が授かるように祈る。絶え間なく祈る。沈黙の内に祈る。内的に祈る。

大司祭エリは「主の聖殿の門前なる腰掛に坐しおれり」、主の聖所の扉の柱に近い腰かけに腰を下ろしていたが、アンナが何をしているか理解できなかった。何故ならユダヤ教の司祭職は、モーゼの座に座っていたが、神殿の外に、聖殿の門前にあったからだ。聖殿の中には入らなかった、真の天主を霊と真理のうちに礼拝する本当の聖殿が理解できなかった。

だから、使徒たちが聖霊降臨の時に神殿で天主の御業を語ったとき、彼らは使徒たちが酒に酔っていると思った。「かれらは、うまいぶどう酒をいっぱいのんだのだ」とからかう者もあった。

「汝何時まで酔えるぞ。汝の飲み過ぎたる葡萄酒の酔を醒ませ」とは、つまり、使徒たちに、「一切イエズスの名によって話したり教えたりするなと禁じた」ことだ。

アンナの答え「然らず、葡萄酒をも、強き酒をも、飲みたるにあらず」は、聖ペトロの使徒たちを代表した答えに通ずる。「ユダヤの人々、イェルザレムに住んでいるすべての人々よ、私のことばに耳をかたむけて、次にいうことを知っていただきたい。今は、朝の九時であるから、あなたたちが思っているように、この人々は、酔っているのではありません。」

サムエルの書(上)第一章を、ラテン語のブルガタ訳、光明社の訳、バルバロ神父訳の対訳でご紹介いたします

2019年04月09日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 「判事の書」は、サムソンの死で幕を閉じます。しかし、最大の判事であるサムエルが、この世に現れなければなりません。

 しかしサムエルの話は、イスラエルにおける王の出現と深い関わりがあります。何故ならサムエルがイスラエルに君主制を導入させるからです。初代王サウル(前1095年)から始まって、ナブコドノゾルによるエルサレム陥落(前588年)のセデキア王までは、四巻の「列王記」と呼ばれる本に書かれています。その内の最初の二巻は、サムエルの書(上下)、最後の二巻は「列王の書」(上下)とも言われます。

 サムエルの書(上)を、ラテン語のブルガタ訳、光明社の訳、バルバロ神父訳の対訳でご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Vultata 光明社 バルバロ訳
Samuelis I Capitulum 1 サムエル書上 第1章 サムエルの書 上 第1章 
1 fuit vir unus de Ramathaimsophim de monte Ephraim et nomen eius Helcana filius Hieroam filii Heliu filii Thau filii Suph Ephratheus エフライムの山地なるラマタイムソフイムに、その名をエルカナと云う人ありけり、エフライム人なるスフの子トフ、その子エリウ、その子イエロハムの子なり。 ラマタイムに一人の男がいた。この男はエフライムのズフ人で、エフラタのズフの子、トフの子、エリウの子、エロハムの子でエルカナといった。
2 et habuit duas uxores nomen uni Anna et nomen secundae Fenenna fueruntque Fenennae filii Annae autem non erant liberi 彼に二人の妻あり、その一人の名はアンナ、他の一人の名はフェネンナと云えり。フェネンナには子等ありしが、アンナには子等あらざりき。 彼には妻が二人あった。一人はアンナ、一人はペニンナといった。ペニンナには子があったけれどもアンナにはなかった。
3 et ascendebat vir ille de civitate sua statutis diebus ut adoraret et sacrificaret Domino exercituum in Silo erant autem ibi duo filii Heli Ofni et Finees sacerdotes Domini さてこの人はシロに於いて萬軍の主を禮拜し、之に禮物を献げんとて定めの日にその市より上りぬ。ヘリの二子、オフニとフィネエス、其處に主の司祭たり。 彼は毎年万軍の主を礼拝して、いけにえをささげるために自分の町からシロに上った。シロにはエリの二人の子オフニとピンハスが主の祭司としてつとめていた。
4 venit ergo dies et immolavit Helcana deditque Fenennae uxori suae et cunctis filiis eius et filiabus partes その日また来りしかば、エルカナ犠牲を献げて、その妻フェネンナとそのすべての息子娘に分前を與えけるが、 ある日、エルカナはいけにえをささげた。その日妻のペニンナとその息子と娘にいけにえの分け前を与えることにしていたけれども、
5 Annae autem dedit partem unam tristis quia Annam diligebat Dominus autem concluserat vulvam eius アンナには悲しみつつただ一部を與えぬ、そは彼アンナを愛したればなり。されど主はその胎を閉ざし給えり。 アンナには分け前を一つしか与えなかった。主はアンナの胎を閉じられたにしても、エルカナはアンナのほうを、もう一方の女より愛していた。
6 adfligebat quoque eam aemula eius et vehementer angebat in tantum ut exprobraret quod conclusisset Dominus vulvam eius その敵手も亦之を苦しめ、主がその胎を閉ざし給いしを責めて、いたく悩ましたり。 それに競争者のペニンナはアンナの恥、つまり主が彼女の胎を閉じて子を与えられないことについて、ひどく辱めていた。
7 sicque faciebat per singulos annos cum redeunte tempore ascenderent templum Domini et sic provocabat eam porro illa flebat et non capiebat cibum 彼女は年毎に、彼らが主の聖殿に上る時の廻り来る度に然し、かくの如くにして之を怒らしめぬ。さればアンナは泣きて食物を摂らざりき。 毎年きまってそういうことがあり、彼らが、主の聖所に上るごとにペニンナはアンナを悲しませていた。いまもアンナは泣き出して何一つ口にしようとしなかった。
8 dixit ergo ei Helcana vir suus Anna cur fles et quare non comedis et quam ob rem adfligitur cor tuum numquid non ego melior sum tibi quam decem filii 時にその夫エルカナ之に云いけるは、「アンナよ、汝は何故泣くや、何故食せざるや、また何故汝の心を悩ますや。我は汝にとりて、十人の子にも優るに非ずや。」と。 そこで夫のエルカナは言った、「アンナ、なぜ泣くのだ。なぜそう悲しむのだ。おまえにとって十人の子よりも私のほうが良いではないか」。
9 surrexit autem Anna postquam comederat in Silo et biberat et Heli sacerdote sedente super sellam ante postes templi Domini 茲に於いてアンナも、シ口にて飲食せし後起ち上りしが、折しも司祭ヘリ、主の聖殿の門前なる腰掛に坐しおれり。 アンナはシロでの宴会のあと立ち上がり主の前に出た。そのとき祭司エリは主の聖所の扉の柱に近い腰かけに腰を下ろしていた。
10 cum esset amaro animo oravit Dominum flens largiter アンナは心悲しきあまり、主に祈りて、いたく泣き、 アンナは心を痛め、泣きに泣いて主に祈った。
11 et votum vovit dicens Domine exercituum si respiciens videris adflictionem famulae tuae et recordatus mei fueris nec oblitus ancillae tuae dederisque servae tuae sexum virilem dabo eum Domino omnes dies vitae eius et novacula non ascendet super caput eius 願を立てて云いけるは、「萬軍の主よ、汝もし汝の婢の悩みをみそなわして、我を憶い、汝の婢を忘れず、汝の召使に男子を與え給わば、我は之を生くる日の限り主に献げて、その頭に剃刀を觸れざるべし。」と。 そしてこう誓いを立てた、「ああ万軍の主なる天主よ、あなたのはしためのこの惨めさを顧み、私のことを思い出したまえ。このはしためを忘れず、男の子を与えられるなら私は一生その子を主にささげ、その子の頭にかみそりをあてることもしますまい」。
12 factum est ergo cum illa multiplicaret preces coram Domino ut Heli observaret os eius 然るに彼女が主の御前にて多く祈りたる時、偶々ヘリその口に目を注ぎぬ。 アンナの主の前での祈りが長かったので、エリは彼女のくちびるに目をやった。
13 porro Anna loquebatur in corde suo tantumque labia illius movebantur et vox penitus non audiebatur aestimavit igitur eam Heli temulentam さてアンナは心の中にて語りたれば、ただその口唇動くのみにして、聲は全く聞えざりき。さればヘリは彼女を酔えりと思いて、 アンナは心の中で語っていてくちびるだけ動かし、声は外に出ていなかった。エリはこの女は酔っているなと思った。
14 dixitque ei usquequo ebria eris digere paulisper vinum quo mades 之に云いけるは、「汝何時まで酔えるぞ。汝の飲み過ぎたる葡萄酒の酔を醒ませ。」と。 エリはアンナに言った、「酔っていつまでそこにいるのか。ぶどう酒の酔いを早くさませ」。
15 respondens Anna nequaquam inquit domine mi nam mulier infelix nimis ego sum vinumque et omne quod inebriare potest non bibi sed effudi animam meam in conspectu Domini アンナ答えて云いけるは、「わが主よ、然らず、蓋し我は極めて不幸なる女にして、葡萄酒をも、強き酒をも、飲みたるにあらず、主の御眼前にわが心を披瀝したるなり。 アンナは答えた、「いえ、ご主人さま、私は悲しみに打ちひしがれています。ぶどう酒も酔う物も飲んではいません。ただ主の前で私の思いを告げていたにすぎません。
16 ne reputes ancillam tuam quasi unam de filiabus Belial quia ex multitudine doloris et maeroris mei locuta sum usque in praesens 汝の婢をベリアルの娘等の一人と思うなかれ。そは我わが悲嘆の夥多なるあまり、今まで語りたればなり。」と。 このはしためを自堕落な女だと思ってくださいますな。私は苦しみと悲しみのあまり主に語りかけていたのです」。
17 tunc Heli ait ei vade in pace et Deus Israhel det tibi petitionem quam rogasti eum その時ヘリ之に云いけるは、「安んじて行け。希わくはイスラエルの天主、汝が彼に求めし願いを、汝に容し給わんことを。」と。 エリは答えた、「安心して行け。イスラエルの天主はおまえの願いを聞きたもうだろう」。
18 et illa dixit utinam inveniat ancilla tua gratiam in oculis tuis et abiit mulier in viam suam et comedit vultusque eius non sunt amplius in diversa mutati 彼女乃ち云いけるは、願わくは汝の婢、汝の御眼前に恩恵を得んことを。」と。かくてこの女、その途を行きて食し、その顔色最早さまざまに変わることなかりき。 アンナは答えた、「このはしために今後も好意をお示しください」。それからアンナはもとにもどり食事をとった。もう前のようではなかった。
19 et surrexerunt mane et adoraverunt coram Domino reversique sunt et venerunt in domum suam Ramatha cognovit autem Helcana Annam uxorem suam et recordatus est eius Dominus さて彼等朝に起き、御前に禮拜し、帰りてラマタなるその家に至れり。しかしてエルカナその妻アンナを知りしに、主之を憶え給えり。 日の昇るころ一同は起き出し、主の前にひれ伏してラマの家への帰途についた。その後エルカナが妻を知ったとき、主は彼女を思い出された。
20 et factum est post circulum dierum concepit Anna et peperit filium vocavitque nomen eius Samuhel eo quod a Domino postulasset eum 郎ち日を経てアンナ懐胎し、一子を産むに至りしかば、彼女その名をサムエルと名づけたり、是、主に求めたるによりてなり。 その年の終わりころ彼女は身ごもって男の子を生んだ。その子はサムエルと名づけられた。そう名づけたのは「主に願った子だから」と彼女が言ったからである。
21 ascendit autem vir Helcana et omnis domus eius ut immolaret Domino hostiam sollemnem et votum suum 茲に於いてその夫エルカナ、及びその家族一同、主に祭の犠牲と誓いたる物とを献げんとて、上り行きしが、 夫のエルカナは毎年のいけにえを主にささげて誓いを果たすために家族一同を連れていこうとしたけれども、
22 et Anna non ascendit dixit enim viro suo non vadam donec ablactetur infans et ducam eum et appareat ante conspectum Domini et maneat ibi iugiter アンナは上り行かず、その夫に云いけるは、「我この子の乳離れするまで行かじ、然る後之を携え行きて主の御眼前に現れしめ毎も其處に留まらしむべし。」と。 アンナはついていそうとせず、夫にこう言った、「この子が乳離れして主の顔をおがみに連れていけるようになり、ずっと向こうにとどめておけるようになるまで、私は参りません。」
23 et ait ei Helcana vir suus fac quod bonum tibi videtur et mane donec ablactes eum precorque ut impleat Dominus verbum suum mansit ergo mulier et lactavit filium suum donec amoveret eum a lacte その夫エルカナ乃ち之に云いけるは、「汝に善しと見ゆる所を為し、之を乳離すまで留まれかし。ただ我は主が曰いし所を果たし給わんことを願う。」と。よりて女は留まりてその子乳を與え、之を乳より離す期を待ちぬ。」 夫のエルカナは答えた、「おまえの思うようにしてよい。子を育て上げるまでいかなくてよい。主はおまえの望みをかなえてくださるだろう。」そして女は家に残り、乳離れするまでその子を育てた。
24 et adduxit eum secum postquam ablactaverat in vitulis tribus et tribus modiis farinae et amphora vini et adduxit eum ad domum Domini in Silo puer autem erat adhuc infantulus かくて之を乳離したる後、彼女は子牛三頭、粉三桝、葡萄酒一壺と共に、之をシロなる主の家に携え行けり。時にその子なおいと幼かりき。 乳離れしたときアンナは子を連れ、三歳の雄牛一頭、一エファの麦粉、皮袋一つのぶどう酒を持ち、子の手をひいてシロの主の神殿に上った。
25 et immolaverunt vitulum et obtulerunt puerum Heli しかして彼等子牛を屠りてその子をヘリに付したるが、 雄牛をほふってから彼女は子どもをエリに紹介した。
26 et ait obsecro mi domine vivit anima tua domine ego sum illa mulier quae steti coram te hic orans Dominum アンナ云いけるは、「乞う、わが主よ、汝の魂は活く、主よ、我はかつて此處に於いて汝の前に立ち、主に祈りたりしかの女なり。 アンナはエリに言った、「ご主人さま、お聞きください。あなたのお命が真実であるように、私もそれにかけて事実を申します。私はちょうどここ、あなたのそばで長くとどまって主に祈った女です。
27 pro puero isto oravi et dedit Dominus mihi petitionem meam quam postulavi eum 我はこの子の為に祈りしを、主はわが求めし願いを我に容し給えり。 私はこの子について祈りました、主は私の願いを聞き届けてくださいました。
28 idcirco et ego commodavi eum Domino cunctis diebus quibus fuerit accommodatus Domino et adoraverunt ibi Dominum et oravit Anna et ait されば我も亦之を主に献げたり、その生きる日の限り彼を主に献ぐべし。」と。彼等乃ち其處に於いて主を礼拝したり。時にアンナ祈りて云いけるは、 それで私もこの子の一生を主にゆだねます。この子を主にささげます」。そして彼女はその子を主の前に残して去った。

聖ピオ十世会日本 聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の報告 Traditional Latin Mass SSPX Japan 2019年3月

2019年04月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日は、大阪で初金、初土に聖伝のミサを捧げることができました。初金には御聖体の前で聖時間も行いました。四人の子供たちも一生懸命お祈りしていて、とても嬉しく思いました。
土曜日には、大阪で復活祭の時に洗礼を受けるべきご家族の四名のために、ミサの後に洗礼式固有部分の前の準備の儀式を行いました。

主日には東京で受難の第一主日のミサを捧げました。ミサの後には、月の最初の主日でしたのでいつもの通り御聖体降福式があり、その直後に、生まれたばかりの赤ちゃん(カタリナ)の洗礼式がありました。天主様に感謝!

来たる4月12日、13日、14日、15日、16日には大阪で、
4月14日(主日)には東京で聖伝のミサがあります。

ティシエ・ド・マルレ司教様が、手術を受けなければならなくなり、アメリカの神学校で4月7日に予定されていた叙階式が延期になりました。司教様のためにお祈り下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

私たちの大切な小野田神父様こんばんは。
大阪での4月の初金・初土のミッションありがとうございました。
ミサの報告をお送り致します。

5日(初金) 至聖なる聖心の随意ミサには20人、
6日(初土) 四旬節第四週の土曜日(御受難の主日の前日)のミサには24人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。
デオグラチアス!

5日のお説教で、私達の創造主であり、無限の善、至高の存在であられる天主の御一人子、三位一体の第二位の天主ご自身が、なぜ、あれほどまでにお苦しみになったかがカトリックの信仰の核心である事、それは私達の人類の罪が許されるためであり、如何に天主が私達を愛しているかという事を黙想しました。

ひと言の不平もなく恩知らずの私のために苦しみ、十字架上でご自分の命を差し出されたイエズス様に比べ、少しの痛みや苦しみに弱音を吐いたり、周りの同情を買おうとした自分が情けなくなりました。
どうか、今日からは、イエズス様の愛に愛で答えることができるよう、十字架のもとにいることを愛する事が出来るようしてくださいと、にマリア様を通してお恵みをお願い致しました。

御聖体降福式では、洗礼を受ける準備をしている方々の為、また病気で苦しんでい居る兄弟姉妹のため、日本に早く聖ピオ十世会の修道院ができて多くの霊魂がイエズス様の元へ帰る事が出来るようにお祈りしました。

6日の四旬節第四週の土曜日のミサは洗礼志願者のために特に祈っていることがわかります。
イザヤの予言の中のイエズス様が善き牧者としてだけでなく、やさしい母として私達の事を見て下さっているという箇所に感動しました。
イエズス様と共に、極限まで苦しまれた御母マリア様のお苦しみの事も黙想しました。聖クリゾストモがカルワリオにイエズス様を捧げる祭壇とマリア様の苦しみを捧げる祭壇があると仰った事の意味を明日から始まる御受難節、聖週間によく黙想したいと思います。

ミサの後、ご家族4人の洗礼式の前の部分がありました。
ご復活には水で洗われて洗礼式を完成されますが、ご家族が聖なる家族となられて出来ればご家庭から聖なる召命がある事を祈ります。

食事の後に行われた聖母の汚れなき御心へ聖ピオ十世会を奉献する祈りの更新、初土曜日の黙想、ティシエ・ド・マルレ司教様のためのロザリオ一環、グレゴリオ聖歌の練習にも沢山のかたが参加されて、天主様を中心とした時間を兄弟姉妹と一緒に持つことができたことも大きなお恵みでした。

神父様には、ただでさえ苛酷なミッションスケジュールに加えて、洗礼などの秘跡や祝別などをお時間のギリギリまで与えて頂きました。
天主様が神父様の多くの犠牲と愛に報いてくださいますように。また、マリア様の特別の御保護がありますようにお祈り申し上げます。
ありがとうございました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
昨日は数々のご配慮を賜り、ありがとうございました(^-^)

教会では洗礼式中の返答ができなかった娘ですが、インマクラータさんが式次第を持たせてくださったので、帰宅後にも読み上げて聞かせました。
すると、『捨てます』『信仰です』『永遠のいのちです』と返ってきたのでビックリしました。
小さいながらに、心はしっかり洗礼式に向いていたのですね。

デオ・グラチアス!

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 27人(内、子供3人)
女: 32人(内、子供5人)
計: 59人(内、子供8人)

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幼児洗礼式後のパーティー
26人

晩課
7人
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【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

御受難の主日のミサの報告をさせていただきます。
祭壇の上に掲げられている十字架には喪に服すため紫の布が掛けられていました。
十字架が喜びを表しているから十字架を隠すのですという言葉が印象に残りました。
十字架のすばらしさを理解するものは、イエズス様の流された御血によって自分が天主のものとなるよう買い戻されたと知る故だとのことでした。十字架から放たれる光を霊的に見ることができるのでしょうか。

私も、十字架がキリスト教の象徴でカトリック信仰の要であることの意味をもっとよく理解できるようになりたいと思います。なぜ、祭壇の中央には、十字架に釘付けにされている主であるイエズス様の御姿が掲げられているのでしょう、イエズス様のこの愛の深さをよくわかることができますように、と思います。十字架から放たれている光を霊的に見ることができたらと思います。

人々に裏切られて屈辱を受けて暴力の限りを受けて耐え難い苦痛と計り知れない悲嘆とをうけて、しかもそれを極限まで受け入れようとさえ望まれ、少しでも多くの苦痛と悲嘆を望まれさえされたのは、人間の救いのために必要なものがご自分という生贄によって捧げられる苦しみと痛みと悲しみ・嘆きだけだったという、現実のゆえだったのかなと思いました。(どうしてもっと他の方法で必要な贖いが捧げられることができなかったかを考えようとしても私にはわからないこと、ほかの方法で人間の霊魂を買い戻すための値を支払うことができたのかもしれないのに?)

旧約聖書に記されたこと一つ一つすべてが実現されなければならなかったから、ということをしらなければ、もっと自由に他の方法を選択することもできただろうにと、思ってしまいます。

いずれにしてもその人間の救済の方法は、罪をおかしてしまったものである人間が決定できるのではなく、天主の正義が定めたことが実現されるべきことだったということを、理解いたしました。

人間がおかした罪の大きさが無限であること、・・・、、無限の天主を侮辱し反抗したのですから、無限の価値を持つ贖いによらなければ贖われなかった、支払いができなかった、ということを私がよく理解できますように。

永遠という概念や無限という概念を真実にわかり受けいれるには、私の心はあまりに小さく惨めだからです。主が私を赦しくださいますように、そしてあわれみによって、わたしの心にあなたの無限なる命を受け入れる恵みを注いでくださいますように。まことの人間でありまことの天主でもあったイエズス・キリストと、ご自分の罪のない清らかな人間性をイエズス様に与えてくださいました聖母マリア様にお祈りいたします。

お説教の第二の点、「イエズス様は私に何を期待しているのか、何をするように招かれているのか」というところですが、それはイエズス様の御受難を黙想するのにとどまらず、キリストの神秘体の欠けたところを一緒に捧げることについてお話しくださいました。

ほんとうに、イエズス様の十字架をもしよく黙想することができれば自分が受けている苦しみはほんのちっぽけなものに過ぎないことがよくわかるようになり、それをイエズス様の十字架に合わせていただけますよう願ってお捧げさせていただこうと思うようになるのでしょう。

最近、そのようなことを著述しているカトリック信者の自叙伝を読み掛けているところです。その方は、自分が望んだわけでなく家庭における不幸を受けて、つまり母の愛情無く育つ…それどころか虐待さえ受け続け身体までも動けなくなってしまうという残酷な不幸を受け入れて生涯を生きた方のようです。なんて苛酷な生涯だったことでしょう。それでも、その方はイエズス様の愛によって自分を聖化して、 その心と体に受ける痛みのすべてを他の霊魂の救いのための犠牲として捧げますと書かれています。

確かにそのカトリック信者の苦しみは、イエズス様の苦しみにはない欠けた所に違いないと思いました。

それどころか、苦しみを受けることが自分の(霊的)喜びでもあるとさえ書いていることにハッとさせられて、その部分を何度か読み返しています。自分の苦痛を一人の見ず知らずの霊魂の救いのために使っていただけると思うとこの上もなく喜びを感じます、と書いてあったのです。

これは、いつも、このごミサの中で励まされていることと同じことと思いました。そこまでの信仰を持つには、よほどの深い愛と信仰が必要なこと・・・とはいえ、カトリック信仰が生きた信仰であって、確かに霊魂の救いということのための宗教であるということがよく証しされていると思いました。本当に天主様はそのような霊魂をこの世に幾つも作られ無数に作られて守ってくださり、天国へ運ばれているのですね。そして救われた霊魂も完全な喜びに入る前の-でも安全な-場所に運ばれているのですね。

神父様は「キリストは苦しみをうけて栄光を受けるべきではなかったのか」、「十字架は祝福に満ちたものでわたしたちに命を与える手段としてくださったもの」とお話しくださいました。

ミサの中で、このように霊魂の救いのための祈りをすることができるのは、ほんとうに素晴らしいことです。
このような聖なるミサに与るカトリック信者の方が一人でも増えますようにと、心からお祈りします。
このようなミサをもっといたるところでお捧げしていただけるよう、司教さまたちは日本の神父様たちをもっと励ましていただきたいと望みます。
このような信仰がカトリック信仰だということに気づかれる日本人が一人でも増えて洗礼の恵みをうけられますよう、マリア様にお祈りします。

今は、御受難の週に入り、ますます、イエズス様の御受難を黙想しながら、このような恵みをいただくに値しない自分の心の中をよく反省して、過ごしていきたいと思います。御受難の主日のミサをありがとうございました。

聖マリアのけがれなき御心のうちに


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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