アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ドイツのツァイツコーフェンでの司祭・助祭の叙階式の生中継です。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ドイツのツァイツコーフェンでの司祭・助祭の叙階式の生中継です。
アヴェ・マリア・インマクラータ
愛する兄弟姉妹の皆様
参考情報として、ある方から、御自分の会社の上司の方に参考情報としてお知らせしたメールの教えていただきました。愛する兄弟姉妹の皆様にも参考情報としてお知らせすることをお許しください。メールは、そのままではなく、少し編集してあります。
◆現時点ではワクチンの感染予防効果は不明
●厚生省の「ファイザー社の新型コロナワクチンについて」および「武田/モデルナ社の新型コロナワクチンについて」によると
「現時点では感染予防効果は十分には明らかになっていません。ワクチン接種にかかわらず、適切な感染防止策を行う必要があります。」
●群馬県で新型コロナワクチン接種後の新型コロナ感染相次ぐ
●高橋徳医師(クリニック徳院長・ウイスコンシン医科大学名誉教授)は、新型コロナワクチン接種中止すべきだと主張しています。中止を主張する理由は次の通りです。
【必要性がない】
何故なら、無症状の新型コロナウイルス感染者と濃厚接触しても、ほとんど感染しない(感染しない確率は99.6%以上)から。新型コロナウイルス感染症による死亡率はごく低いので、国民全員に対してのワクチン接種には必要性がないから。
【安全性の問題】
現在までに約1,300万人の日本国民がコロナワクチンの接種をうけているが、すでに接種後196名の死亡例(2021年2月17日から6月4日までに報告された件数)が確認されているから。(平成30年、5,250万人[1,300万人の四倍]の日本国民がインフルエンザワクチンの接種を受けた時は、死者の報告は3名だった。)
◆現時点ではワクチンの安全性には問題がある
●デンマーク アストラゼネカなどが開発のワクチンを使用中止に(2021年4月15日)
北欧のデンマークは、アストラゼネカなどが開発した新型コロナウイルスのワクチンについて、接種後に血栓が確認された例が報告されたことを受け、このワクチンの使用を中止することを明らかにしました。
●オーストリアも打ち切りへ アストラ製ワクチン(2021年05月18日)
オーストリアのミュックシュタイン保健相は17日、地元テレビ番組で、英製薬大手アストラゼネカが開発した新型コロナウイルスワクチンについて、6月初めまでに接種を打ち切ると表明した。
●神戸市のナカムラクリニックの中村篤史医師は、エイズウイルス発見でノーベル賞を受賞したリュック・モンタニエ博士らを引用して、ワクチンを打てば、2~3年以内に死ぬとまで言っています。
【リュック・モンタニエ博士(エイズウイルス発見者。ノーベル賞受賞者)】
「希望はない。すでにワクチンを打った人に対する治療法はない。我々にできるのは、せいぜい大量の死者に備えて、火葬場の準備をしておくことぐらいである。ワクチン接種者は、抗体依存性増強(ADE)によって全員2年以内に死亡する。もはや他に話すべきことはない」
(ワクチンについて警告を発しているマイケル・イードン博士の言葉も、中村医師は引用されていますが、しかしマイケル・イードン博士が発言した正確な発言として確認することができなかったので、ここでは引用しません。)
●中村氏の「コロナワクチンは生物兵器」のタイトルの記事です。
米国の5人の医師がオンライン対談している内容がありますが、彼らはワクチンは生物兵器だと言っています。
●米軍で生物兵器を研究していたリー・メリット(Lee Merritt)医師はバイナリー兵器(別のウイルスと結びついて致死性になる)とまで述べています。
●米国のリチャード・フレミング博士がスティーブ・バノンのネット番組で語ったところによると、ワクチンのせいで海綿状脳症(狂牛病)になったり、認知症患者の脳にあるレビー小体ができたりする恐れがあります。レビー小体はマカクザルの実験では約2週間で発生し、これは人間で言えば1年半程度かかる計算になるそうです。(このサイトは開くのに時間がかかります)
●日本人でも、現役の人はなかなか発言が難しいため、名誉教授の立場にある人が発言しています。
新潟大学名誉教授の岡田正彦氏や、徳島大学名誉教授の大橋眞氏ですが、主張には違いがあります。
【岡田氏のサイト】
http://okada-masahiko.sakura.ne.jp/
◆PCR検査には問題がある
●PCR検査の問題点については、元共同通信記者の田中宇氏が自分のサイトで発言しています。偽陽性が非常に多く出るとのことです。
http://www.tanakanews.com/210424corona.htm
イエズスの聖心よ、われらを憐れみ給え!
聖母よ、私たちのためにお祈りください!
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
フランスのヴァンデ地方のChavagnes-en-Paillersにあるカトリック共同体(汚れなき聖母の子供たちcongrégation des Fils de Marie Immaculée)で22名の司祭がワクチンを受けて、21名が病気となり、一か月以内に司祭7名が死亡しました。
そこでは、23人の老司祭らが生活しており、2020年3月には誰も感染者はいませんでした。
2020年の始めに一人の司祭が陽性となりましたが、無症状でした。
2021年4月に、以前陽性となった司祭を除いた22名の司祭がmRNAの試験ワクチンを接種したところ、直後に摂取した全ての司祭が陽性となりました。ワクチンを受けなかった司祭は陰性のままでした。
その直後22人には症状がでて、その内の6名は重症でした。4名はワクチン接種後2~3週間の後に死亡しました。6月3日現在、7名の司祭が死亡しました。お祈りをお願いいたします。
死亡した司祭:
le père Camille Dudit (mai 1933 - avril 2021),
le père Yvon Gauducheau (mars 1933 - avril 2021),
le père Henri Brenon (février 1936 - mai 2021),
le père Henri Gallot (décembre 1922 - mai 2021),
le père Maurice Poiroux (août 1927 - mai 2021),
le père Pierre Remaud, (1932 - mai 2021).
le père Michel Remaud, décédé le 23 mai.
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。
今週末:2021年6月18日(金)6月19日(土)20日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。
【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図)
6月18日(金) 17:30 ロザリオ及び告解 18:00 ミサ聖祭
6月19日(土) 10:00 ロザリオ及び告解 10:30 ミサ聖祭
6月20日(日) 10:00 ロザリオ及び告解 10:30 ミサ聖祭
【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図 )
6月20日(日)主日ミサが三回捧げられます。
午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。
【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】
【修道院】
6月18日(金曜日)午前7時15分 ミサ聖祭
6月19日(土曜日)午前11時00分 ミサ聖祭
Ave Maria Immaculata!
My dearest Brethren!
I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of June 20, 2021.
Fri, June 18: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00
Sat, June 19: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30
Sun, June 20: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2021年6月30日は聖霊降臨後第四主日です。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第四主日の説教」の動画をご紹介いたします。
この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。
天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父
2021年5月5日(初水)秋田巡礼
聖ピオ十世会司祭 ドモルネ神父 霊的講話3
「聖母はどのようにして朱の血に染まった十字架像を私たちにお見せになったのか?憐れみの聖母」
同時通訳:小野田圭志神父
1871年のポンマンの聖母の御出現について話を続けましょう。
まずマリア様は、御自分が持っておられる「尊厳」と、その「力」についてお示しになりました。マリア様は力強い軍隊のように現れたのですけれども、まだ行動は開始しておられませんでした。
第2では、マリア様は希望のメッセージを下さいました。
『しかし、私の子供たちよ、お祈りしなさい。私の御子は、感動させられるがままに、動かされるがままになるでしょう。』
このメッセージを与える前に、マリア様は人々の祈りを待っておられました。そしてお祈りが多くなれば多くなるほど、それに従ってメッセージが与えられたので、これによって、「マリア様は私たちの祈りをいつも聞かれている」という事、そして「そのお祈りにマリア様は応えようとしておられる」事を示しています。
ここで第2のステージでは、マリア様は行動を開始した軍隊のように例える事ができます。
第3の段階では、マリア様は軍隊を展開して、そして敵に対して戦い、敵に敗北を与えるものとしていらっしゃいます。
メッセージはマリア様の足元に、ちょうど垂れ幕のように幕のように書かれていたのですけれども、それは取り払われたのではなくて、隠された、という事を申し上げました。
ゲラン神父様の指導の下で、“Parce Domine”『主よ、私たちを容赦して下さい』という祈りを歌い始めたのです。
すると、ちょうどマリア様の前に赤い十字架像が現れました。この十字架をよく見ると、2つの種類の赤の色がありました。御体については少し黒ずんだ赤で、そして十字架の木については明るい赤でした。そして捨て札には、「イエズス・キリスト」と書かれていました。
この私は医者ではないのですけれども、少し医学的な話をすると、この赤は「血」の赤だと言われています。私たちの動脈を流れる血液は明るく、酸素が入っているので明るい色をしています。これは動脈の血です。その血がもう一度心臓の方に戻ってくる時には、それは静脈を通って来るのですけれども、それはちょっと色が黒ずんでいて、酸素を使って二酸化炭素が入っているので、黒ずんできます。ですからここでは、その静脈では黒ずんだ暗い赤の色をしています。
そこでもう一度申し上げますと、イエズス様の御肉体は黒ずんだ赤で、そして十字架像は明るい赤でした。これを解釈すると、イエズス様は、私たちの全ての汚い罪を、御自分の方で取って、それを体に受け止めた、という事です。そして御受難によって、私たちの罪の赦しの功徳を得ました。そしてこの功徳によって、救いを人々に与えます。このイエズス様と一致している霊魂たちは、綺麗になります。
「イエズス・キリスト」という名前が書かれているのは、まず、「イエズス様が、私たちを救う、救い主だ」という事を意味します。『イエズス』というのは、『主は救う』という意味ですから。罪からの救い、それからその他の悪からの救いは、イエズス様のみ与えられます。
『キリスト』というのは、『油を注がれた者』という意味です。イエズスは私たちの罪の償いの為に、完全ないけにえを捧げる為に、油を注がれた者です。またイエズス様は、私たちを裁く為に、統治する為に、油を注がれた王でもあります。
またイエズス様は、私たちに教える語りかける方であるので、預言者とも言えます。
イエズス様は十字架に付けられる事によって、無限の栄光を天主に与えます。
十字架に付けられたイエズス様こそが、死と地獄に対する勝利者です。
十字架に付けられたイエズス様は、私たちの全ての罪の赦しを勝ち取る方です。罪によって引き起こされた霊的な、あるいは心理的な、あるいは社会的な、あるいは肉体的な傷を、イエズス様は癒して下さいます。
十字架に付けられたイエズス様は、私たちに必要な全ての御恵みを豊かに与えて下さる方です。
マリア様は御出現で、この「十字架」を、両の手で持たれました。そしてこの十字架を、お祈りをしている方に傾けました。そしてマリア様は、十字架と同時に、人々をご覧になっていました。
10歳になるヨゼフ君は、その時のマリア様の御顔の表情を忘れる事はできませんでした。マリア様の御顔は、言う事ができないほどの悲しみに満ちておられました。マリア様の口元が震えておられるのは、マリア様が非常に感情に高ぶっておられるという事を示していました。涙はありませんでした。しかしそのマリア様の御悲しみは、想像を超えるものだという事が誰にも分かりました。
ヨゼフ君は言います。「私の父が亡くなった時に、母がどれほど悲しみに沈んでいたのかを覚えています。このような母を見る事は、子供の心にどんな事を意味するかという事は、皆さんご存知です。しかし私の母のその時の悲しみは、マリア様の悲しみと比べれば何でもなかったと言えます。」
まさにこの悲しみは、イエズス様の十字架の足下に佇む御母の悲しみそのものでした。
するとその時に、マリア様の足元に並んでいた星々の内の一つが、マリア様を囲んでいたマンドーラの中に入って、そしてローソクに火を灯します。まずマリア様の左側の下から火を点けて、左上に火を点ける、次に足元に戻って右に火を点けて、また右上に火を点けて、そしてマリア様の上に行って、留まりました。マリア様の力が今、点けられた、点火したかのようでした。
このローソクの火の点け方は、ゲラン神父様がその神父様の御聖堂でいつも、祭壇のローソクを点けるやり方そのものでした。ですからマリア様は、ゲラン神父様の事を言及していたのです。
これを見ると、司祭、特に「ミサを捧げる司祭は、救いの力を、またマリア様のその力を点火させる、起動させるそのスイッチを入れる事ができる」という事が分かります。
先ほど申し上げた事を繰り返しますと、マリア様は最初には、戦闘を整えた軍隊のようにしていますけれども、まだ行動は開始していませんでした。第2のステージでは、マリア様は希望のメッセージを与えて、それから軍隊は行動を開始した、という事を意味しました。第3では、マリア様は敵に対して戦って、敵を敗北させる行動を開始しました。
マリア様の武器は、「十字架に付けられたイエズス・キリスト」でした。両手で十字架像を取りました。あたかもこう刀を両の手で持って、重い刀を持っているかのようでした。この重い刀は、十字架という刀は、これで敵を撃てば、敵に大きな損害を与える事ができます。
またマリア様は、胸にも小さな十字架を持っていました。「マリア様はいつも心において、イエズス様と一致していた」という事を表しました。つまり、「イエズス様が肉体において十字架に付けられた時に、マリア様は霊的に十字架に付けられた」という事です。
また十字架像を両手で持っていたという事は、イエズス様が与える苦しみを全て、勇敢に、男らしく受け止めたという事です。嫌々ながら仕方なく持っていたのではなくて、それをしっかりと両の手で持っていました。ちょうど御告げの時に、「フィアット」と仰ったその同じ心で、十字架の下にしっかりと立っていました。
マリア様の悲しみの御眼差し、その御顔は、十字架の下でどれほど悲しまれた、という事を子供たちに、私たちに示していました。
マリア様は十字架像を人々の方に傾けていました。マリア様はイエズス様の十字架の受難の癒しの力を、その力を人々に適用させようとしていたのです。そしてあたかも、「皆さんの苦しみの特効薬は、薬は、解決策は、十字架に付けられたイエズス様だけですよ」と仰っているかのようでした。
この“Parce Domine”を歌い終わった後に、人々は“Ave Maris stella”を歌い始めました。するとその時に、十字架の像は消えて、マリア様は両の手を人々に広げて、最初のように、人々を迎え入れるかのような姿勢を取りました。
すると、マリア様の肩に、白い十字架が植えられたかのように現れたのが見えました。そしてマリア様はまた再び笑まれました。
すると、この肩の2つの十字架の意味は何でしょうか?よく分かりません。このマリア様を見たユージンがちょっと成長して、「この十字架の意味は何だと思うか?」と聞かれたら、「分からない」と答えました。「まだ分からない」と答える子供もいました。あたかも、この御出現の意味は全て明らかにされていないかのようです。
その頃、20時半に時計はなっていました。そこでゲラン神父様は村の人々に、「では夕の祈りを唱えよう」と祈りに誘いました。
すると、今まで下にあったベールのようなものが、少しずつマリア様を隠して、マリア様が少しずつ見えなくなっていきました。そしてまず最初にこのベールは、マリア様の腰辺りで一旦止まったのですけれども、更にもっと上がって、冠だけを残して一旦止まって、更に冠も見えなくなりました。
これは、マリア様が母親らしく、非常に親切に、優しく、子供たちに「さようなら」を言うやり方でした。その御自分の王冠が最後残るように留めておいたのも、希望のメッセージで、「最後の勝利は、マリア様のものだ」という事を伝えるかのようでした。
マリア様は消えてしまったのではなくて、少しずつ、少しずつ、隠されてきました。子供たちはマリア様を見る事ができなかったのですけれども、隠されているのですけれども、しかし「マリア様がそこにいらっしゃる」という事は確実でした。
この御出現の効果の結果、何が起こったでしょうか?
まず国は、プロシア、プロイセンと戦っていました。実はプロイセンの軍隊は、フランスの色んな所に占領していて侵略していて、そしてそのポンマンの周りをも既に侵攻していたのです。そしてその夜は既にポンマンにも到達する計画がありました。
フランス側では、そのような敵に対して抵抗を試みるものも全くなく、そのまま進むがままにさせていました。ところがその夜、何の理由もなく、説明もなく、プロイセンの軍隊は、そこから撤退していきました。
そのプロイセンの軍隊の将軍が後に、記録を残して日誌を残しているのですけれども、それによると、「その夜、とても美しい夫人が、ポンマンとその隣の都市であるラヴァル(Laval)という所に行く道を通せんぼしたので、行く事ができなかった」と書いています。
そしてとても人々が驚いた事には、その11日後には、プロイセンとフランスの間には平和協定が結ばれました。そしてポンマンのその御出現があったその夜から、村の住民たちは安心して眠りにつく事ができるようになっていました。
そこから徴収された38名の若いポンマン出身の青年たちも皆、無傷で故郷に戻ってきました。
これが歴史的な効果です。これは歴史的なものですけれども、しかしその背後に霊的な意味があって、「霊的な敵が、私たちを攻撃している」という意味があります。「しかし、マリア様と十字架に付けられたイエズス様の御受難によって、全ての悪を、霊的な悪に対して戦って、それを追い払う事ができる」事です。
ちょうどポンマンの人々が絶望していて、もう全てが失われたと思っていたにもかかわらず、その希望を取り戻したように、私たちも「どうしてもダメだ」と思っていても、希望を取り戻す事ができます。
38名の青年たちが無傷で故郷に帰ってきたという事も、私たちもこの世の戦いを果敢に終えて、そして無傷で天国の故郷に辿り着く事ができる、という事を意味しています。
では、日本26聖人のチャプレット、コンタツについて。
この26聖人のコンタツは、御出現の最初の方に唱えられていました。フランスの片田舎でのマリア様の御出現の時に、「26聖人のチャプレットをお祈りしていた」というのは、普通ではあり得ない、普通の話ではない、という事に多くの人が気が付きます。
ピオ九世教皇様が26聖人を1862年に列聖しました。この列聖式の後に、このチャプレットは広まっていきました。ところでこの26聖人のチャプレットですけれども、26聖人に直接お祈りをするというよりは、罪の償いの為のお祈りを唱えるので、一見すると26聖殉教者には直接は関わりがないように思われます。
その最初の大きな数珠では、「聖母の優しい御心よ、私の救いとなり給え。我が優しいイエズスよ、御憐れみを乞い願い奉る。」
そして小さな数珠では、「永遠の聖父よ、私はイエズス・キリストのいとも尊き御血を、私の罪の償いとして御捧げ致します。また聖なる教会の必要の為に御捧げ致します」と祈ります。
26聖人についての言及はないのですけれども、イエズス様の流された御血、償いの為の御血については言及がありました。そしてこの数珠の色も赤です。ですからこの御出現の十字架像も赤でした。
私の思うには、この26聖人のチャプレットは、26聖人というよりも、「日本」に関係するものであると思います。「日本」と、そして「償い」という事が言及されていると思われます。
秋田の聖母の第2のメッセージには、こうあります。
「天の御父のお怒りをやわらげるために、罪人や忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、御子と共に望んでおります。御父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、御父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。御子と共に、何度もそのお怒りを和らげるように努めました。御子の十字架の苦しみ、御血を示して、御父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりを捧げて、お引止めしてきました。」
そこで私の思うには、天主の御摂理によって、「ポンマンのマリア様」と「秋田のマリア様」は結び付きがあると思います。そこで、ポンマンのマリア様は秋田のマリア様を、秋田のマリア様はポンマンのマリア様を、相互によく理解する為に、相互に照らし合っていると思います。皆さんの黙想に委ねます。
そこでポンマンのマリア様は私たちに、「罪の償い」について教えて、私たちを償いをするように招いています。
罪の「赦し」というのと、「償い」というのは、2つの別の事です。例えば告解をして、罪は赦されます。罪の赦しを求めると、天主は私たちを赦して下さいます。しかし償いは残ります。
例えば子供が、お母さんに「してはいけない」と言われている台所で遊んだ為に、大切なお皿をみんな割ってしまった。そこで私は、「すいません、お母さん、ごめんなさい。もうしません、ごめんなさい」と言います。お母さんはとても優しいので許してもらいます。でもお皿は割れたままでした。「罪の許し」というのと、「壊れたお皿を、それを元に戻す」という事は別の話です。
私たちが罪を犯すと、天主に不敬を与えます。天主にあるべき栄光を与えない事ですが、罪を犯す事によって、確かに自分の霊魂を傷付けますけれども、しかし何よりも、天主の御稜威を傷付け、そしてまた私たちの周りの人をも、また社会にも悪い影響を与えます。「罪の赦し」は、「私」に関する事ですけれども、しかし「罪の償い」は、「それ以外」の事に関わります。「赦し」と「償い」は違います。別の事です。この2つが必要です。
唯一、その傷付けられた天主の名誉を全て回復させる事ができるものは、「イエズス様のなさった十字架のいけにえ」だけです。ですから、「罪の償い」というのは基本的には、本質的には、「イエズス様のなされた償いを、天主に捧げる」という事です。
皆さんはファチマの天使の祈りを覚えていらっしゃると思います。
「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊い御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」
というお祈りはまさに、この最も大切な償いのお祈りでした。
では、私は一体どのようにしたら良いでしょうか?もっとたくさんお祈りを増やすべきでしょうか?
いえ、私たちが何をするにつけても、それを「罪の償いの為にする」という意向を付ける、という事をお願いしたいと思います。また短い射祷、例えば26聖人のチャプレットにあるような射祷、短い祈りを何度も繰り返して御捧げする事を提案します。「罪の償いをする」というその意向を持つ事によって、私たちの熱心をますます高める、強める事ができますし、もう1つ、私たちの身に降りかかる十字架や苦難を、忍耐をもって耐え忍ぶ事ができるようにさせてくれます。これは、私たち皆がしなければなりません。
更にもっと寛大な霊魂には、「いけにえの霊魂」となる事も呼ばれています。それが秋田のメッセージです。そのいけにえの霊魂は、その霊魂に起こる肉体的な、あるいは霊的な苦しみや困難を、「この世に起こる天主に対する冒瀆や、罪に対する償いとして、全て捧げる」という事を寛大に捧げます。
犠牲の霊魂とは、いけにえの霊魂とは、「イエズス様と一緒に、イエズス様の十字架に合わせて、この世の罪の償いの全ての結果を、自分の身に受け入れる事を望む霊魂」です。
2021年5月4日(火)秋田巡礼
聖ピオ十世会司祭 ドモルネ神父様霊的講話2
「聖母御出現の時の間、人々の祈りに対して、聖母はどのような反応をされたのか?希望の聖母」
昨日は、ポンマンで1871年1月17日火曜日の17時半に、マリア様がどうやってこの小さな村にお現れになったか?という話をしました。
マリア様は、三角形を形作る3つの星の中に現れました。星の付いている青いガウンを着ておられました。黒いベールを被って、冠も被っておられました。
その3つの星の位置は、「マリア様が、三位一体のそれぞれのペルソナに関係がある」という事を意味しました。
そしてマリア様の来ておられた服は、天主様によって上げられた、「マリア様の最も高い聖徳や特権、その地位」を表していました。マリア様のその持たれている全ての要素は、「聖母が最も高い地位に立っておられて、天のその最高の所におられる」というところまでを意味していました。
マリア様は最初は微笑まれて、両手を広げておられて、子供たちや人々を招いておられました。特に、ミシェル・ゲラン神父様が来られるのを待っておられたのです。主任司祭が到着するや否や、御出現は変化して、そしてマリア様は御姿を変えます。
まずマリア様の周りに、楕円形のマンドーラが現れました。このマンドーラは、マリア様の力と栄光を表しています。そして4本のまだ点いていないローソクが、そのマンドーラの中に現れました。この「ローソクが点いていない」という事は、あたかも「マリア様の力がまだ点いていない、点けられて点灯していない」という事を意味していました。
それから小さな十字架がマリア様の胸に付いていました。胸の赤い十字架は、マリア様の持っている力の理由を、原因を表していました。それは、マリア様が「共に苦しむ方」であるからです、「同情する方」であるからです。マリア様は、イエズス様の十字架の足下で共に苦しむ事によって、「共贖者」となられました。
マリア様はどんなところであっても、蛇の頭を踏み砕く力を持っています。そしてそういう力を持ちつつ、お待ちになっておられます。あたかも、体勢を整えた軍隊のように、指令があるのを待っておられたかのようです。
ちょうどこのマリア様の御現れは、ポンマンの御聖堂の様子に似ていました。人々は特に、昨日も申し上げましたように、戦争中多く御聖堂でお祈りするのですけれども、しかし人々は希望を失っていました。
しかし、子供たちを通してマリア様は、「ご自分がいらっしゃる」という事をお見せになって、そして自分が持っている力をもお見せになります。人々が笑い始めたり冗談を言うと、マリア様は悲しくなります。マリア様は助けを与える為にこう待っていたのですけれども、しかし人々がマリア様に注意を払わずに、マリア様が与えようとしているものに関心を持たなかったので、悲しまれました。そこでゲラン神父様は、人々に沈黙を守るようにして、祈らせました。
これをマリア様は待っていました。これによってマリア様は、「希望の聖母」と変わって、そして御自分の事を現すようになりました。
そしてロザリオを唱えるに従って、御出現はますます変わっていきます。お祈りをすればするほど、マリア様の大きさが、その比率は変わらないのですけれども、ますます大きくなっていきました。マリア様の御姿も、マンドーラという楕円形もますます大きくなります。3つの星も大きくなり、離れていきます。
ロザリオが終わると、その大きさは2倍になっていました。そしてお祈りをすればするほど、マリア様の力がますます大きくなっているように見えます。
お祈りによってマリア様は、ますます力強くなる事ができたという事で、そしてお祈りをする事によってマリア様は、子供たちに対する御恵みをたくさん与える事ができるようになった、という事を意味します。
このマンドーラの外側に40の星々があったのですけれども、それはお祈りをするに従って、自然にマンドーラの下の方に2つずつ並んで動いてきました。それからお祈りが進むにしたがって、大きな星が、ちょうど磁石に引き寄せられてくるかのように現れてきました。そしてこのマリア様の服にぴったりとくっ付くようになりました。そこでマリア様はますます輝いていきます。そこでお祈りによってマリア様にはますます栄光が与えられました。
もちろんマリア様には幸せの充満、至福直感がありました。ですからもう栄光の本質的な部分については持っておられました。しかし人々がお祈りをすればするほど、マリア様におまけの栄光というか、神学では「付随的な栄光」と言いますけれども、それを与える事ができます。そこでお祈りをする事によって、付随的な栄光をますますマリア様に与える事になりました。
40の星について正確な意味は私には分かりません。しかし「40」というのは、聖書によると「完全」という意味があります。「40に達する」という事は、「完成に達する」という事です。
例えば、四旬節の40日が終わると、復活祭になってきます。復活の後40日後に、主は昇天されました。モーゼは40日間シナイに留まった後に、律法を受け取りました。エリアは40日間、ホレブの山まで歩きました。
ですから、40の星がマンドーラの下に来たという事は、マリア様の力の完成が出来た、という事を意味しているのかもしれません。
マリア様は私たちを助けたいと思っているのですけれども、もしも聖母にお祈りをしなければ、助ける事ができません。これが天主が定めた法則であって、もしも私たちが望まなければ、天主は私たちを救う事ができません。「天主の恵みを受ける為に、私たちが祈る」という事を欲しておられます。
お祈りについて少し申し上げます。
(直訳すると)天主の知らない事を、私たちはお祈りしません。天主は全てを知っています。私たちは主の考えを変えさせようとしてお祈りするのではありません。なぜかというと、天主は完璧なので変わる事はありません。祈る事によって私たちは、心の状態を準備して、天主がお与えになる事を受ける事ができるようにさせます。お祈りによって、天主が私たちに与えようと既に決定した事を受けようとします。
私たちは祈る事によって、「信仰」の業を行ないます。見る事のない天主に祈っているからです。
祈る事によって私たちは、「謙遜」の業を行ないます。私たちが天主より劣っている、そして天主の助けを必要としている事を認めるからです。そしてまた天主の良さを、御親切を信じているからです。
また祈る事によって、「希望」の徳を実践します。なぜかというと、天主が私たちに援助して下さる、という事を希望するからです、確信するからです。
祈る事によって私たちは、「愛徳」を実践します。なぜかというと、私たちに善をする方を自然と愛するようになるからです。
ですから祈る事によって、「信仰」と「謙遜」と「希望」と「愛徳」の業を行ないます。そしてそのこれらの徳は、私たちをより良くしてくれます。祈る事によって、私たちと天主の間の関係を、諸聖人たちの関係を、良くさせてくれます。
天主様もマリア様も諸聖人も、本当の現実の方だからです。そして私たちとの個人的な関係を求めておられます。見る事はできませんけれども、話しかける事はできます。私たちに直接語りかける事はできませんけれども、私たちを見る事ができて、そして私たちのやっている事を、呼びかけを聞く事ができます。
ポンマンの御出現に戻りますと、祈りによって子供たちは良い心の準備ができました。そしてお祈りする事によって、マリア様がそれを望んでいた、「助ける事」ができるようになりました。
私たちが求めるべきものはまさに、この「熱心な祈り」であって、そのそれが欠如している事が、私たちにとっての問題でした。そこでお祈りをしたので、希望のメッセージが伝えられる事ができるようになりました。
ロザリアの後に、マニフィカトを人々は祈りました。マリア様の足元に、垂れ幕のような帯が長くなるのが見えました。そして目に見えない手が文字を書き込みました。
祈りが進むに従ってそれだけ、文字が一字一字書かれていきました。そして文字が出ると、「あ!何とかの文字が出た!」と子供が言います。
最初の言葉は、『しかし』。それから10分間は何も起こりませんでした。あたかも、この『しかし、』という事の意味を、人々に考えさせるように待たせていたかのようです。
マニフィカトの祈りが終わると全ての文字が出て、『しかし、子供たちよ、祈りなさい。』と文章が出ました。
では、なぜ『しかし』というものが長い間それだけ出たのでしょうか?
あたかもマリア様は、「私はこれほど力があって、私はあなたを助けたいのですけれども、しかし、あなたたちはお祈りしてくれません」と言っているかのようです。「私はこんなにも助けたいと思っているのですけれども、しかし、あなたはお祈りをしてくれません。」「私はラサレットでも、ルルドでも、何度もあなたたちに言ったのに、しかし、あなたたちは私の言う事を聞いてくれませんでした。」
マリア様が少し、私たちの態度についてご不満がある、という事を示そうとする優しいやり方であったかのようです。
ゲラン神父様の指導の下で、聖母の連祷を唱え始めました。すると、また目に見えない手が文字を書き始めました。
それによると、『天主は、すぐにしばらく後に、あなたたちの祈りを聞き入れるだろう』とありました。それから最後に大きな丸、点が、文字と同じほど大きな点が現れました。何でこの丸が、最後の点がこんなにも大きかったのか、という事は私にはよく分かりません。
すると子供たちは、「マリア様が今、微笑んでおられる」と言いました。
ところで、そこの近くにいた一人の婦人が、その間何も見えなかったのですけれども、「あぁ、これは冗談だ!馬鹿馬鹿しい」と言って、その途中で家に帰ろうとしたのですけれども、ところがこの帰る途中、この方は倒れてしまって、突然倒れて動く事ができなくなりました。この婦人は倒れたその瞬間、「自分は信じなかったので、罰を受けたのだ」と理解しました。そしてそれをその事を痛悔した途端に、足に力が出て立ち上がる事ができて、そして子供たちの所に戻って、終わりまで祈りをしました。
それから子供たちは祈りを続けて、インヴィオラータも歌いました。そうすると2行目も書かれ始めました。そして人々が、“O Mater alma Christi carissima“「おぉ、キリストを養い給うたいとも愛すべき母よ」という言葉を歌っている時に、『私の御子は、』という文字が現れました。
この言葉が出た時に、「あぁ、そういう事を仰るのは、これはマリア様に違いない」という事で、非常に村の人々は喜びました。
この簡単な言葉でマリア様は、「なぜ、ご自分が力を持っているか」という事を表そうとしました。なぜかというと、「イエズス様が、マリア様の子供であるから」です。イエズス様こそは全ての救い主であるので、マリア様がお望みになる事は、イエズス様は決して拒否する事はできません。
次に、サルヴェ・レジナを歌います。それが終わると、この文章が終わって、『私の御子は、感動させられるがままになるでしょう。』この言葉は下線が付いていて、金色の下線が付いていました。
これが祈りの力の強さです。そして沈黙の間、人々はこの言葉を、マリア様の言葉を黙想していました。
人々はお祈りをする事によって、マリア様に力を与えて、マリア様がお祈りをする事を、イエズス様はそれを与える、という事です。ちょうどこの連鎖反応のようで、そのスタートのボタンは、「私たちの祈りによって始まる」という事です。
そこでゲラン神父様は、希望の聖歌を歌い始めました。そのメッセージを聞いた後に人々は、希望と喜びを感じ始めました。その時にはあまりにも喜んでいたので、たとえプロシアの軍がその村に攻め込んできたとしても、何も恐れる事はなかっただろう、と。
そしてこの希望の聖母の歌を歌っている間、マリア様は手をこの肩の高さまで上げられて、あたかもそのメロディーに合わせて、楽器を弾いておられるかのように指を動かされました。あたかも、子供たちと一緒に喜んでいる母親のようでした。
そしてこの祈りが進むほど、マリア様がますますお喜びになって、ますます微笑まれて、それが非常に美しい微笑みだったので、子供たちは、「あぁ、とても綺麗だ」と、何度も、何度も、何度も、繰り返していました。
マリア様は、私たちを助ける事によって、お喜びになります。祈りによって人々は、マリア様が私たちを助ける事ができるようにしたので、マリア様はますます喜ばれました。
ちょうど戦いの準備ができた軍隊のように、戦闘の準備ができたのですけれども、まだその戦闘開始の合図を待っているかのようで、そしてその戦闘開始の合図があった時に、初めて前進して攻撃ができるかのようです。しかも必ず勝利を収める事ができる軍隊が進むかのように、進んで行きます。
そのしばらく後に、空と同じ色のベールが被せられて、それでももう文字も、その幕も、帯も、見えなくなりました。この文字が取られてしまったというわけではなくて、それはそこにあるのだけれども、ただ被されてしまって見えないだけであって、そこにちゃんとある、というように見えなくなりました。
ではこれから明日は、この「マリア様がどうやって敵を倒すか?」という事についてお話を致しましょう。
結論として、イエズス様の言葉を思い出しましょう、「求めよ、さらば与えられん。」祈るならば、希望がある。祈らないなら、希望はない。
「祈る」というのは、私たちがどれだけ口祷を唱えるか祈りを唱えるか、その数ではない、という事です。ある一つの危険は、私たちがお祈りの数をたくさんする事によって、もしかしたら機械のようになってしまう、という危険です、「私はもう決まったお祈りがあって、それが終わった。それでもう仕事は終わった。」
この「口祷」は口で唱える祈りは、私と天主の間の関係を、個人的な関係を助ける為にあります。私たちの心の中にある愛は、必ずしも全て言葉によって言い表す必要はありません。私たちの心の動きや、その相手に対する、対象に対する注目などは、既に良い祈りです。
この御出現を見ると、その祈られた数については、それほど多くではありません。しかし心の底からのなされた祈りでした。深い信仰を以ってなされました。これでそのような祈りは、マリア様を動かして、大きな行動を起こさせるに十分でした。
では、そのような信仰と、希望と、愛に満ちた信仰生活を、祈りの生活をお送り致しましょう。
2021年5月4日(火)秋田巡礼
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父霊的講話2
「マリア様が私たちの母であるといはどういうことか?マリア様が母であるという事は、一体なぜそれほど重要なのか?」
では、シャミナード神父様による、「聖母が私たちの本当の母である」という事についてのお話の続きをします。
昨日の話は、シャミナード神父様とはどういう方だったのか?そのシャミナード神父様と日本との関わりについて見て、そしてシャミナード神父様が、「マリア様が私たちの母親であるという事は、単なる付録とか付け足しのようなものではなくて、最も大切な、非常に重要なものである。特に『天主の御母である』というその次に来るべきものである。最後ではない」という事を見ました。
「では、『マリア様が母である』という事はどういう事でしょうか?子供を産んでそれを終わりなのか?」
「いや、それは母親になる始めであって、さらにこの産んだ子供を立派に育て上げる。これこそが母親の義務だ。栄養を与えて、子供を愛して、完全な人間に達するまで、服を着せ、世話をする。病気の時には看病したり、苦しむ時には慰めたり、色々な事をする。それと同じような事を、マリア様も母としてしているはずだ。それで、その私たちの霊的な母としてマリア様は、その義務を果たす事をもなさっておられる。」
これは、どのような子供に対しても、母親はしなければならない事です。
つまり、もしも子供が良い優等生で、親孝行で、もう文句の付けようがない素晴らしい子供だったとしても、あるいは病気がちで、弱くて、あまり何か自信がないような子供だったとしても、
あるいは子供が辛い事にあってがっかりしている時も、あるいはもしかしたら子供が怪我をして、もう命に関わる危険があったとしても、母親は子供の世話をします。
それと同じようにマリア様も、聖人のような立派な子供たちに対しても、そして罪を犯してしまった子供たちに対しても、天主の正義の罰や、あるいは鞭からこのような子供たちを守ったり、あるいは聖徳へと引き出すように、病を癒すように、罪から死から命へと導くように、マリア様を働いておられる、超自然の命による母。
マリア様は超自然の母ですけれども、シャミナード神父様は、「3つの点によって、それが最高の母だ」と言います。「どの母親よりも優れている」と言います。
それはまず、「マリア様の持っている大きな愛」によって。
なぜかというと、マリア様が私たちの超自然の命の為に耐え忍んだ犠牲、苦しみというのは、誰にもそのような苦しみを受くる事ができないほど大きなものだったからです。
まず、御子を失った、最高の御方が、最高の御子を失なってしまった。
しかも誰の為にやったかというと、恩知らずの罪人たちの為に、それを捧げておられた。
しかも、そのような多くの人々にとっては、その苦しみも無駄になってしまう苦しみだったにも関わらず、それを喜んで捧げられた。
マリア様のその受けた苦しみは、ある聖人によると、「この地上で最も苦しんだ人がいたとしても、その苦しんだ人がマリア様の苦しみのほんのちょっとでも理解するには、想像さえも及ばない。」
「しかもそれを嫌々ながらではなくて、喜んで、私たちの為に受けられた、というその比類のない愛の為にこそ、マリア様は素晴らしい母である」と言います。
第2の理由は、「このマリア様がなさった事が、ただ一時的な、一人の子供の為だけ、一時的な為ではなくて、全ての、私たち全ての超自然の命を、いつでも私たちが求める時に、必要な時に、いつでも、何度でも、与える事ができるほどの普遍性を持っているから。」
子供がたくさんいるお母さんは、その世話をするのは非常に大変ですけれども、マリア様がお持ちになる子供は、その数も、そしてその与える御恵みの回数も、はるかにそれを上回っているからです。
第3番目の理由は、シャミナード神父様によると、「マリア様が私たちに与える命は、ただの自然の命ではなくて、超自然の命であって、永遠の命であって、天主の命であるから。『成聖の状態に入る』という事を与えて下さるから。
その命を与えて下さるのは、世の中にはたったイエズス様とマリア様しかいない。イエズス様はマリア様を通してのみ、これを私たちに与えるので、その私たちに与えて下さるものの素晴らしさの為に、最高の母と言える」と言っています。
では、マリア様が母であるという事は、一体なぜそれほど重要なのでしょうか?その神学的な理由とは何でしょうか?そしてその結果何が導き出せるのでしょうか?
今日それも話させて下さい。
「イエズス様の神秘」というのは、「天主の御言葉が、私たちを救う為に人間となって、そして罪の償いを果たして、贖いを果たして、そして私たちに超自然の命を与える」という事です。
「イエズス様が、私たちを救う為に、天主の御言葉が人間となった、御托身が必要だった。そしてその御托身というのは何の為だったかというと、私たちの罪を贖う為であった、償う為であったから。」
そこで、「御托身、天主の御言葉が人間となる」という事と、「その肉を御体を以って苦しまれて罪を償った、贖った」という2つの神秘があります。それがイエズス様の神秘です。
この「御托身」も「贖い」も、イエズス様は一人でしたのではなくて、「マリア様と共にしよう」という事を、永遠の昔から望まれました。
それで御托身には、イエズス様が人間となる時には、マリア様の同意を以って人間となって、そしてマリア様は天主の御母となられました。イエズス様が人間となったという事は、その結果、「マリア様が天主の母となった」という事です。
シャミナード神父様は更に話を続けます。
「イエズス様、その天主の御言葉が人となったという事の目的は、贖いだから、十字架による贖いだから、そしてこの贖いを、マリア様と共にする事を望んだので、『贖い主』となるという事は同時に、マリア様は、共に贖った『共贖者』となる、という事を意味する。」
「マリア様が天主の御母となった」という事は、イエズス・キリストは神秘体の頭であるので、それと同時に私たちの、「選ばれた者の母ともなった」という事になります。
ですから、「御托身」という事と、「天主の御言葉が人間となった」という事と、「マリア様が私たちの母となった」という事は繋がります。
これがちょうど、「キリストがマリア様の胎内に宿らされた」という事から、「イエズス・キリストが贖い主となった、そしてマリア様は共贖者となった」という事から、「私たちがマリア様の苦しみを以って、超自然の命に生み出された」という事に繋がります。
これは何故かというと、私たちはキリストの神秘体の一部であるからです。それなので、私たちがイエズス様と一致している限り、イエズス様の内にいる限り、イエズス様が私たちの内におられて、私たちはイエズス様の中にいるように、私たちとイエズス・キリストは一人の人間であって、一つのキリストであって、一つの神秘体なので、イエズス・キリストと共に私たちは、マリア様の子となって、天主の子となるという事です。
「もしも私たちが、イエズス様と一致している事によって命に産み出されるのであれば、イエズス様がマリア様にとった孝行を、マリア様に対する信心を、私たちもする事こそが最高の信心だ」とシャミナード神父様は言います。
そこで例えば、『マリア会』というものを創ったのですけれども、マリア会のブラザーは修道士は、「ブラザーというよりは、マリアの子供だ。マリアの息子だ」という名前で呼ぼうとします。あるいは女子修道会もあるのです、『汚れなきマリアの娘たちの会』、それも、修道女の事をシスター Soeur と呼ばずに、「娘」fille と呼ぶようにしました。なぜかというと、修道者たちにとっての理想は、マリア様の子供であるという事であるからです。
「マリア会」というのも実は、その「会」というのはフランス語で“société”ですけれども、本当は「マリア様の家族」と呼びたかったのだそうです。そしていつもその修道会の人々は、マリア様の子供であるという事を非常に意識して、そしてイエズス様の真似をする事を目的としました。
イエズス様がマリア様から生まれて、マリア様によって養われて、育てられて、そしてマリア様から決して離れる事がなかったように、私たちも同じようにする事を理想としました。
聖パウロは、「イエズス・キリストの心を心とせよ」と言ったのですけれども、シャミナード神父様は、「マリア様に対するイエズス・キリストの心を心とせよ」という事をモットーとしました。
この『マリア会』というこの名前について、シャミナード神父様の考えを読んだ時に、実は『イエズス会』というのも同じような考えだったのだ、という事を思い出しました。
『イエズス会』というのは元々、聖イグナチオは“Compañía de Jesús”と言って、それでこの「イエズス様の同伴者」「イエズス様と共に居る者たち」という意味だったのです。日本語で訳された書いたものは言ってみれば、“societas”とか“société”というのは、「団居」とか「団らん」とか、そういう意味での言葉なのです。
ではこの最後に、「マリア様が私たちの母となる」というその2つの要素を見ましたけれども、「天主の御母」であって、「共贖者」でありますけれども、ではマリア様は、この地上を離れて、天国に行かれて、それでもうその仕事が終わったのでしょうか?
そうではなくて、マリア様はいつでも、世の終わりまで、私たちの母であるので、天国においても、母としての仕事を続けられる、という事です。
十字架での無限の功徳を、イエズス様と共に勝ち取ったのですけれども、その功徳を、天国において、母として、私たちに分配し続ける、という事です。
特に共贖者、イエズス様と一緒に贖いの業を果たされたマリア様ですけれども、その贖いの業を果たされて、その宝は、私たちに一人一人に適用されなければなりません。
どうやって適用するかというと、私たちを罪から、罪の罠から取って、悪魔の罠から引き抜いて、そして私たち一人一人に命を預ける、という事です。この使命を世の終わりまで、マリア様が続けておられるという事です。
これは、「共贖者としての功徳を、私たちに伝えている」という事ですけれども、「マリア様がこれを分配する」という事を、イエズス様から委ねられました。
なぜかというと、イエズス・キリストが聖母を通って来られたように、マリア様を通してこれを与える事を御望みになるからです。
そこで、「私たちを回心させて聖化する」というこの職務を役割を、マリア様はイエズス様から受け継いだのです。
「恵みを分配する」というのは、「恵みの分配者として、マリア様が立てられた」という事です。
しかも、イエズス様と共に十字架の上で苦しんだ「共贖者」となったので、この功徳の権利は、マリア様がイエズス様と共にお持ちになっています。
そこで聖母には、「私たちの母である」という事から、結果として、「私たちに全ての恵みを、どこにでも、いつでも、分配する事ができる力が与えられた、『全ての恵みの仲介者である』」という教えに導かれます。
では、今日の話はこれで終わりにします。
明日歌ミサの直後に、コルベ神父様の無原罪の騎士の会員の入会式があります。日本でよく知られているマリア信心の最も代表なのは、コルベ神父様の聖母の騎士と、あと聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールです。
シャミナード神父様がこのグリニョン・ド・モンフォール(聖母マリアへのまことの信心)を読んだのかどうかよく分かりません。おそらく読んでなかったと思います。
まさにこのシャミナード神父様の仰っている事は、聖モンフォールと本当に瓜二つで、全く同じ事を仰っていて、そしてこの「マリア様の子供である」という事をちょっと発展させて、「マリア様に私たちを奉献する」という必要性が語られます。
それについて少し、今晩お話をしたいと思います。
明日歌ミサの直後に、『無原罪の聖母の騎士』の入会式があります。まだ入会されていない方は、是非この機会に入会なさるようになさって下さい。それについてのお話を今晩しようと思っています。
2021年5月3日(月)秋田巡礼
聖ピオ十世会司祭 ドモルネ神父 霊的講話1
「ポンマンのマリア様の御出現の出来事:力ある聖母」
同時通訳:小野田圭志神父
今年は、ポンマン(Pontmain)の御出現の150周年で、私はこの3回の講話の時に、この御出現についてお話したいと思っています。
その意味や、それから私たちが引き出すべき教訓、あるいはこの秋田のマリア様とポンマンのマリア様の関係や、その関連性についてお話したいと思っています。ポンマンの事を知る事によって、秋田の意味を深く理解できると思っています。
この話は3つの部分に分けられます。
1つは、どのようにしてマリア様が御出現なさったのか?
第2は、その御出現の時の間のお祈り、そしてそのお祈りに対して、マリア様はどのような反応をされたのか?どのような態度を取られたのか?
そして最後に3番目に、マリア様がどのようにして十字架の、真っ赤な朱の血に染まった十字架像を私たちにお見せになって下さったのか?その「贖いの力」について、話したいと思っています。
そしてこの3つの部分にタイトルを付けるとしたら、第1の部分は「力あるマリア様」、第2が「希望なるマリア様」、第3は「憐れみのマリア様」というタイトルを付けたいと思います。
では、どうやって御出現があったか?という事を話します。
まず、「ポンマン」という所ですけれども、ポンマンというのは、フランスの北西ノルマンディーとブルターニュの間の方にあって、小さな小さな村でした。寒村です。そこでそこの住民は500名を数えるか否かで、そしてそのポンマンの住んでいる人たちの状況は、本当にもう哀れで惨めなものでした。
なぜかというと、革命、また戦争によって疲れてきっており、非キリスト教化というものが非常に進んでいました。ですから村のほとんどの人にとっては、宗教を実践するという事もなく、お祈りもする事もなく、荒廃した生活をしていました。
ところが1886年、新しい神父様が主任司祭が任命されました。この司祭は非常に熱心で、そしてお祈りをよくする方で、そして深いマリア様に対する信心がありました。
そしてこのマリア様の信心をこの他の村人に伝えようとして、そしてその結果、この村の人たちの生活が、信仰生活がガラリと変わりました。この村は信心深い村に、また立ち戻って行きました。
特にこの神父様は、マリア様の御影がどんな家にも飾られるように、もちろん私たちの心にも飾られて、そして至る所にマリア様の御姿があるように、としていました。特に教会の一番上の高い所にもマリア様の御影を付けて、「マリア様がこの村全てを祝福して下さるように」とされました。
1870年のフランスの状況は非常に散々たるものでした。まずプロシアと戦争して、そして負けました。フランス軍は敗退し、そしてプロシアの侵略が始まっていました。人々は、一体どうなってしまうのか、という事で恐れていました、恐怖がありました。特にその冬は非常に寒いものであって、人々には苦悩がありました。
特にポンマンでも同様でした。ポンマンのすぐ隣の町、ラヴァル(Laval)という所では、もう既にプロシア軍が来て到着していて、次はポンマンの番でした。
特にその小さな村でしたけれども、38名の若い青年たちは既に徴収されていて村にはいませんでした。残された両親は、この自分の子供が生きて帰って来るのか、戦死するのではないか、という事で非常に心配していました。子供たちの身を心配していました。
そしてフランス全体、そしてポンマンには、「絶望」がその雰囲気となっていました。
その翌年、1871年1月17日、毎週主日に「希望の聖母」という聖歌をミサの後に歌うのですけれども、村の人はそれを歌う事さえもできないほど、希望を失っていました。
1871年1月17日の夕方でした。17時30分頃。その時、ユージンという12歳の子供と、ジョゼフ10歳の子供、そしてそのお父さんは、馬小屋で牛に餌を与える為に準備をしていました。
ところが、何かユージンは、何か外の事が気になって、「あれ、今、天気はどうだろうか?」と思って、馬小屋のドアの方に行きました。実はこれは、マリア様からの呼びかけでした。
ドアの外に出て外の風景を見ようと思ったところ、ユージンは馬小屋の屋根の上に、非常に美しい女性が、貴婦人がおられるのを見ます。
彼らの後に言うには、「これほど美しい方を見たことは、今まで1度もない」と言います。
この御婦人は青いガウンを着ておられて、そして青いスリッパあるいは靴のようなものを履いておられて、それには金の飾りが付いていました。それから黒いベールを被っておられて、そして金の王冠を被っておられました。
そしてこの方は、優しく微笑んでおられて、そしてその方の上と左右には、合計3つの星が現れていて、あまりにも美しいその御姿に、ユージンは15分間、何もせずに、動く事もできずに、それをずっと見守って見つめていました。
すると、15分見つめていたユージンは、大人に言います、「ねぇねぇ、この綺麗な方が見えない?」すると外に出て見ると、見えません。3つの星は見えるのですけれども、何も見えません。「見えない。」「えぇ~。」他の人にも聞いてみると、「見えない。」
そこでユージンはジョゼフに「来い」と言って、「見えるか?」と言うと、「こういう、こうだろ、こうだろう。」「うん、そうだ、そうだ。」ジョゼフには見えるのです。
そしてお父さんを呼んできて、「お父さん、見えますか?」「見えない。何も見えない。星はあるけど、見えない。」そうこうしているうちにお母さんも来て、「お母さん見えますか?」「見えない。星は見えるけど、見えない。」
子供たちに、「そんな下らない冗談はやめにして、早く牛にご飯を与えなさい。」子供たちは仕方なくこの場を離れて、牛に餌をやるのですけれども、それが終わるとすぐに外に出て、「あぁ、きれい。」その女性を見るのです。
それから、お父さんとお母さんが、「早く家に帰って夕食を食べなさい」と言って夕食を食べさせるのですけれども、今まで見た事のないほどのスピードでご飯を食べて、食べ終わったらまたすぐにその場所に戻って、同じ事をするのです。それでその時には雪が降っていて、非常に寒くて、夜で、それにもかかわらず、この子供はそこに跪いて、ずっとその方を見ていました。
そしてこの子供たちがそうやっていると、跪いてずっと空を見つめているのを見ると、近くの人たちも、隣近所の人たちも、「何の事だ?」「子供は何でこんな事をしているのか?」という事で、興味を持って集まってきます。「子供たちは空に何か見ているのだそうだ」という話をすると、「見えない。」「あぁ、見えない。」
しかし中には、子どもたちの中には、ユージンが描写する通りの女性がいる、という事が分かる子供たちがいました。何人かの子供たちは、その女性を見て、他の人たちは何も見えません。美しい女性。
するとそのお母さんが、今度は村にいたシスターを呼びに行きます、「シスター、来て下さい。こんな事があるのです。」シスターがやって来て、「シスター、見えますか?」「見えません。」
でも、シスターはその時に子供たち、皆に、「お祈りをするようにしましょう」と言って、お祈りに招きました。そこで、『日本26聖人のコンタッツ』(チャプレット)を祈り出したのです。
では、この『26聖人のコンタッツ』というのはどういうものかというと、これは赤い数珠で出来ていて、そのお祈りにはこんなものがあります。
「聖マリアの柔和なる御心よ、我が救いとならせ給え。」
「我がイエズスよ、憐れみ給え。」
「永遠の聖父よ、我が罪の償いと教会の意向の為、イエズス・キリストの尊き御血を捧げ奉る。」
という事をチャプレットでお祈り致します。
そして、そのお祈りをコンタッツをし出している内に、教区の主任司祭も呼ばれてきました、「神父様、こういう話があります。」
その話しを聞いて非常にびっくりした司祭は、空を見るのですけれども、何も見えません。
司祭が到着するや否や、子供たちが見ていたそのマリア様の御姿が変化します。それまではマリア様は、青い服を着ておられて、そして両手を広げておられて、笑っておられました。あたかも招いておられるかのようにしておられたのですけれども、司祭が到着すると、今度はマリア様の周りに楕円形の姿が現れて、そしてマリア様の肩の高さに、そして膝の高さに、それぞれ2つずつ合計4つのローソクが、火が灯されていないまま出てきました。そして胸には、赤い十字架像が現れました。
そしてこの「姿が変わった」という事で、皆がどうやって変わったのかと一生懸命見ようとしたりするのですけれども、何も見えません。そしてある者は冗談を言ったり、何か笑い出したり、馬鹿にしたりしました。
すると、マリア様の表情が悲しい顔になります。すると子供たちはそれを見て、「マリア様の表情が今、悲しくなりました」という事を言います。
それを聞いて理解した主任司祭ゲラン神父様は、「子供たちに見えて私たちに見えないのは、これは冗談を言っているのではなくて、私たちが見るに相応しくないからだ」と言ってから、「私たちはお祈りをしよう」と、祈りに招きました。
では今ここで、御出現の出来事から、「何か意味があった」という事で、その教訓を得る事にしましょう。なぜかというと、マリア様がこのようなお姿をしていた、あるいはこのような事をされたという事は、それは全く意味がなかったのでなくて、それには深い意図があったからです。
まず第1に、「マリア様の周りに現れた楕円形、そしてそれから4つのローソク」というのは、実はそのポンマンの礼拝の教会に似ていました。
それでこれは、「マリア様が、そこの教会で、あるいはそこの礼拝堂でなされたお祈りを、よく聞いている」という事を示しています。
また、「黒いベールを被っておられた」という事は、これは喪に服している印であって、「マリア様が、その人々の苦しみに同情を抱いて、共に苦しんでおられて、連帯感を持っておられた」という事です。
このポンマンの御出現をよく見ると、マリア様の持っていた『特権』というものを表わしています。
「マリア様が非常に美しい御姿で現れた」という事は、その「聖母が聖寵充ち満ちておられた御方である」という事を意味しています。
「3つの星」というのは、「三位一体のペルソナ」の事を意味します。つまり、「マリア様の栄光や、その尊厳というのは、三位一体から由来する」という事です。
そして三位一体のそれぞれのペルソナは、マリア様に特別の関係性を持っています。
マリア様は天主聖父の娘であります。なぜかというと、マリア様は聖父の創造された最高の被造物であるからです。
またマリア様は聖子の御母であります。イエズス・キリストという人間の本性における御母であります。
またマリア様は、聖霊の働きによって天主の御言葉を胎内に宿した、という事で、聖霊の浄配でもあります。
そこで、三位一体の中間に位置付けられるという位置におられます。
そしてこの「楕円形」ですけれども、フランス語では特別な言葉があって、“マンドール”と言って、それは「栄光を表わす」という意味があります。ロマネスクのカテドラルに行ってみると、キリストはこの楕円形の中に栄光を以って描かれていますが、これが栄光を意味する“マンドール”という事です。マリア様も、他の全ての被造物には与えられなかった特別の栄光が与えられました。
またある意味では、「マリア様は閉ざされた天主の秘密の花園、庭であって、マリア様は天主だけがその中に入る事ができる方である」という事も意味しています。これによってこの楕円形は、「マリア様の終生童貞である」という事を意味します。
「青」という事にも意味があります。青には二重の意味があって、まず1つは、青空からも分かるように、被造物の巨大さ、はかり知れる事のできない大きさ、というものが分かります。また青空というところから、この地上から見ると、天主に最も近い、という事で、「天主の本性に参与している」という事も意味します。
ところで、マリア様はなぜ「青」かというと、マリア様こそ、全ての被造物の中で最も巨大な、最も崇高な被造物であって、そしてその尊厳の意味で大きな被造物であって、そして天主の全くその近くにまで高められた方であって、天主のすぐ限界までの方であるので、あたかも青空であるかのように、この青の服を着ておられました。
ですから「青」が、マリア様の色である、という事の理由の一つです。
「星」については、マリア様の特権を表しているという事で、また星は天にあるという事で、「マリア様が天におられる御母である」という事も意味します。
「王冠」は、「マリア様が女王である」という事を意味します。
また、胸にある「赤い十字架」は、マリア様の同情と、マリア様がイエズス様と共に苦しんだという事で、「共贖者」という事を意味します。
これらのマリア様の色々な意味ある御姿やその要素で、マリア様の色々な特権の事が意味されています。
またこのマリア様は、「=教会」だ、と言う事ができます。それは、こういう意味においてです。
つまり、教会は、罪の汚れのない、シミもない、キリストの花嫁である。そしてマリア様も、罪の汚れも、シミもない、浄い御方であるから、同じであります。
また聖金曜日・聖土曜日には、マリア様だけが、イエズス様を信じていました。ところで教会は、イエズス様の開かれた脇から生まれました。水と血が流れた時に生まれましたけれども、ところでその時に、イエズス様を信じていたのはマリア様だけでした。ですから、その時にはマリア様=教会でした。
私たちは、マリア様の子供として、教会の一員です。
そしてマリア様の服にある「星々」は、それは、「遂に永遠の命に到達した、教会のメンバーたち、成員たち」の事を意味しています。
では今日は最後に、マリア様のその偉大さを感嘆して、それを見て、それを讃美して、そしてそれを愛する事にしましょう。ちょうどこの子供たちがマリア様を見て、そしてマリア様の美しさをただ見つめるだけだったように、私たちもそのマリア様の美しさと、その多くの特権を見て、それを讃美して、それを愛するその心がますます燃え立つようにお祈り致しましょう。
また、マリア様に対して尊敬を欠くような人々に対して、悲しみの表情をされました。現代、マリア様に対して冒涜の言葉を吐く人や、あるいはその他マリア様を侮辱するような事をする人々がいます。そのような人たちに私たちは無関心でいる事ができずに、そのマリア様と共に悲しみ、そしてそれに代わって罪を償うように致しましょう。
また、マリア様=教会です、という事も見ましたので、私たちはマリア様によって、マリア様と共に、マリア様において生きるように、生活するようにしなければなりません。ですから私たちはマリア様の仲介を求めて、何を求めるにも、何をするにも、マリア様を通して、御捧げ致しましょう、またマリア様を通して、何かを求めましょう。
ちょうど聖ベルナルドが言ったように、マリア様は教会の神秘体の「首」であるからです。頭と体が、首によって繋がっているからです。
またマリア様と共に、マリア様と一緒に、何をするにも行ないましょう。また、マリア様において行なう事にしましょう、というのはどういう事かというと、「マリア様の意向と、私たちの意向が全く同じであるように、あたかも私たちがマリア様の体の一部であるかのように行なう」という事です。
ちょうどマリア様が、ポンマンの子供たちからマリア様の方に注意を向けるように望まれたように、マリア様は私たちに個人的な、一人一人の関係を大切にされます。私たちがマリア様の方に注目して、マリア様に注意を向けるように、マリア様は望んでおられます。
そこで今日、マリア様の現存の中に生きるように努めましょう。