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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「マリア会創立者 福者シャミナード神父について、マリア様が私たちの母であることについて」

2021年06月14日 | お説教・霊的講話

2021年5月3日(月)秋田巡礼
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父霊的講話 その1
「マリア会創立者 福者シャミナード神父について、マリア様が私たちの母であることについて」

巡礼者の皆様、今回の巡礼で、私は3回にわたって、「シャミナード神父様による、マリア様に関する教え」を紹介したいと思っています。
特に、「聖母が、私たちの母である」という事についてお話ししたいと思っています。

なぜ、このシャミナード神父様のお話をするかというと、理由は2つあります。

1つは、秋田のマリア様の全部で3回のメッセージがあるのですけれども、必ずマリア様はこの言葉を以ってお話を始めるのです、
「私の娘よ、私の修練女よ。」
最後には、「私の愛する娘よ、」と仰って、これはシスター笹川だけの事というよりは、私たちに、「私の子供よ、」「私の息子よ、」「私の娘よ、」と呼びかけていると思っています。
マリア様は私たちに「母親として呼びかけている」という事が分かります。これが第1の点です。

第2の理由は、これはちょうどフランス革命の時に、その直前に生まれた福者シャミナード神父様という方が、『マリア会』を創立して、そしてそのマリア会が最初に日本に『暁星』という学校を創りました。その暁星という意味は、「暁の星」という意味です。ちょうど私たち聖ピオ十世会の最初の修道院の名前が、「暁の星」、同じ名前であるので、またシャミナード神父様のその暁星のマリア会の本流をちょっとご紹介するのは興味深いと思いました。
そこで、シャミナード神父様の経歴を簡単に説明します。「あぁ、このような神父様であれば、是非、この方の話を聞いてみたい」というきっかけになると思うので、少し話をします。

シャミナード神父様は、1761年、フランスのペリグーという所でお生まれになりました。13番目の子供でした。その日の内に洗礼を受けました。

10歳で堅振を受けて、小神学校に入って、それでボルドー、パリで勉強して、そして司祭に叙階されますが、司祭に叙階されるやいなや、フランス革命が起こります。

フランス革命では、反カトリック勢力が起こしたもので、革命直後にカトリック教会を封鎖、廃止、そして理性の女神の儀式を始める等をするのです。聖職者は、「共和国に忠誠を誓う。共和国に従順にする」という宣誓をしなければなりませんでした。

しかし、シャミナード神父様は、多くの司祭たちと共に、その宣誓を拒否して、逃亡します。そして最初の内は、秘密裏で聖務を行なって、秘跡を与え、ミサを捧げていたのです。迫害が厳しくなると、遂にフランスに残る事はできずに、スペインに亡命します。

そこで、サラゴサという、マリア様がまた生きておられる時に聖ヤコボに現れた、という『柱の聖母』の聖地に行って、そこに留まって、マリア様にお祈りをします。そこで非常に多くのインスピレーションや、啓示、色々なものを受けます。柱の聖母については非常に面白い、日本とも深い関わりがある話があります。こうしてシャミナード神父様は、サラゴサで恵みの日々を過ごします。マリア様に強められて、ついにはフランスに戻って、マリア会を創立します。

シャミナード神父様と日本との関係は、マリア会を通じて繋がっています。それについてはまた別の機会にお話をしようと思います。岩下壮一神父様も、マリア会で勉強した方ですし、山本信次郎もマリア会で暁星で勉強した方でした。そして日本に多くの影響を与えました。

先程申し上げましたが、私たちのいつも祈っている『暁の星に対する聖母の祈り』も、マリア会の方が作りました。聖ピオ十世教皇様がこれに贖宥を与えました。
2000年には、ヨハネ・パウロ二世教皇によって、シャミナード神父様は列福されています。

では、このシャミナード神父様による「マリア様が私たちの母である」という事について、少し話を移します。

サラゴサでマリア様にたくさんお祈りして、特別の御恵みを受けて、そしてマリア様に関する本を色々読んでおられました、黙想していました。

すると、シャミナード神父様がよく読んだのが、その当時、「マリア様は私たちの母だ。なぜかというと、それはマリア様は、私たちに対して母のように御恵みを与えて下さって、私たちもマリア様を母のように愛さなければならない。特にイエズス様が十字架の上で、『これはお前の母だ』と言ったので、母であるかのように、私たちはマリア様を考えなければならない。」というようなことでした。

また、マリア様のマリア神学というのをよく読むと、「マリア様は、イエズス様の御母であって、天主の御母であって、だからその天主の御母となる為に、『無原罪の御宿り』という特別の特権があって、『被昇天』の特権があって、『聖寵の充ち満てる』特権があって、マリア様の『終生童貞である』という特権があって、そして色々な特権があって、それからマリア様は私たちの為に、『全ての御恵みを仲介して下さる』という特権、」そして最後に付録のように、「マリア様は実は、『私たちの母』でもあるのだ」等というようなかんじでした。

でもシャミナード神父様はこう考えました。「教父の話によると、この強調点が違っている。確かに、イエズス様の御母で、天主の御母であるけれども、『私たちの御母である』という事を昔の教父たちは言っている。『イエズス様が十字架の上で宣言した。だから法律上そうなった。』ただそれだけなのだろうか?たまたまイエズス様が言ったからそうであって、言わなかったからそうじゃなかったのだろうか?何かマリア様と私たちの関係は、そういう外面上だけの、あたかも『そうであるかのような』ものなのだろうか?」

サラゴサで、シャミナード神父様は色々こう黙想して考えて、マリア様に光を求めました。ついには、神父様は「「母のようなもの」ではなくて、マリア様は、イエズス様を肉体的に産んだように、私たちを霊的にもお産みになった。最も言葉の厳格な意味で、『私たちの母である』」という事に辿り着きます。

その理由はいくつかあります。

例えば聖ルカは、“マリア様はイエズス様を初子としてお生みになった。”
「なぜ『初子』という言葉が出るのか?」
実はこれは、確かに昔の旧約の法律的な表現でした。“初子は捧げられ”なければなりませんでした。しかし、シャミナード神父は教父たちと共に、マリア様は更に、霊的に子供たちを生むという事を想定した言葉ではないか?と考えました。
つまり、「新しいエヴァとして、マリア様がいらっしゃる」という事に注目します。「霊的に、本当に、私たちをお産みになった。」

「それはどうやってお産みになったか?」という事にも注目します。
「それは御託身、つまり『ナザレトの御告げを受けた時』に、そして『十字架の下で、罪の贖いをイエズス様と共にした』、その2つの時だ」と言います。

では一体、「マリア様が本当に私たちの霊的な母」という事はどういう事なのでしょうか?
シャミナード神父様は、「2つの事によってそうだ」と言います。そして、「イエズス様が、『これは汝の母だ』と言うのは、それを確認した事であって、それをただ私たちに知らせた事であって、その本当の実際の行なわれた結果の表明に過ぎない。」

では何が行なわれたかというと、「御託身の時に、天主の御言葉が肉体を取った時に、マリア様の胎内に宿られた」という事です。

「でも、ただ肉体だけのイエズス様ではなくて、神秘体としても、キリスト全体を見ると、神秘体の頭であるイエズス様が、マリア様の胎内に宿された、という事は、同時に、神秘体の他の部分、手・足・全てが、マリア様の胎内にも宿されなければならない。」

「全て、イエズス・キリストと一致して超自然の命に生まれる者は、マリア様からどうしても生まれなければならない。なぜかというと、もしも私たちが超自然の命を頂くとしたら、イエズス・キリストにおいて神秘体の一部として持っている、いう事なので。でもイエズス様はそのマリア様の胎内で命を、人間としての命を受けていたので、どうしても私たちは、マリア様の中で命を受けなければならない。」

ちょっと長いのですけれども、シャミナード神父様が仰った事を引用します。

「聖母が、自分の胎内において御言葉が託身する事に協力した時、聖母は、贖いの事業のその全ての広がりにおいて理解したのは明らかである。」

(ただイエズス様をお腹の中に、母となる、という事だけでなく、それが結果する、それが意味する全ての事を受け入れた、という事です。)

「聖母は、それを愛を以って受け入れた。聖母は、イエズスを懐胎しつつ、全てを懐妊したと理解した。」

「イエズス様、頭を胎内に宿したのみならず、キリスト全体を宿したと理解された。つまり自然的な肉体と、神秘体の両者を、胎内に宿したと理解された。なぜかというと、マリア様は、イエズス様と一つになったものを切り離す事ができないから。」

「天主の御母となる事によって、個人としてのイエズス・キリストの母となると同時に、『教会』という神秘体全体の母になる事も受け入れた。」

「自然の体においては、イエズス様を、救い主を童貞の胎内に宿して、そして霊的な体としては、霊的には、愛と信仰によってキリスト教を信じた全てを、イエズス・キリストの神秘体全てを、胎内に宿した。」

これがシャミナード神父様の言葉です。

では、『贖い』というイエズス様の人生の最後に起こった事です。

もちろん、御託身、またイエズス様がお生まれになった、神殿にマリア様が抱えて割礼を受けられた、あるいはお潔めの式を受けられた、シメオンの預言を受けた、あるいはエジプトに逃げた、マリア様と一緒にナザレトで生活した、また十字架の道行き、全てマリア様と共でした。その頂点は、『カルワリオ』でした。

ちょうどアダムとエヴァが罪を犯した時に、天主はヤーウェは、エヴァにこう言いました、「お前は、これからは、苦悩の内に子供を産むだろう」と。

もしも原罪がなかったら、子供を産む事は人間にとって何の痛みも苦しみもなかったのです。原罪の後は、苦しみを伴うようになってしまいました。

それと同じようにマリア様も、私たちをカルワリオの苦しみの下で、イエズス様と共に生んで下さった、霊的に生んで下さったのです。

シャミナード神父様はこう言います、「イエズス様は、『これがお前の子供である。』と、ヨハネを指して聖母にこう言った。ではこう言った後にもう、イエズス様はもう聖母の息子ではなくなってしまったのだろうか?」

「イエズス様の代わりに、私たちイエズス様とは似つかない子供がマリア様に与えられてしまって、マリア様にとっては苦痛だったのだけれども、しかしイエズス様はもう息子ではないのだろうか?」

そうではなくて、シャミナード神父様によれば、こうです。
「私たちが聖母の子供となったのは、イエズス様において、聖母の子供になった。神秘体において、マリア様の子供となった。イエズス様が子供であり続けるので、その神秘体も全て子供である。」

「十字架の麓で、カルワリオで、私たちを霊的に産み出す、贖いの事業を完成したので、それを以ってイエズス様は、『確かに、霊的に産まれた。マリア様は、本当に私たちの母となったのだ』という事を確認したに過ぎない。」

これは今度の講和で申し上げますが、では、マリア様は私たちの母となり、私たちを産んだ、さあ、これでもう母としての義務は終わったのでしょうか?

いえ、マリア様の母として霊的に産んだという仕事は、これからも母としての役割を、これからもますます続けられます。超自然的な母であって、霊的な母であって、私たちを愛し育てる母として、私たちをお産みになりました。

では、マリア様の役割は一体どうなのか?

これはまた明日、続けましょう。


2021年5月3日(月)秋田巡礼 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ イエズス様が私たちの為になさったその愛の神秘に、深く入る

2021年06月14日 | お説教・霊的講話

2021年5月3日(月)秋田巡礼 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ドモルネ神父様、そして巡礼者の皆様、
今日、イエズス様の至聖なる聖心の随意ミサで、巡礼を始めようと思いました。それは2つの理由があります。

金曜日でもないのになぜ聖心のミサかというと、まず第1に、イエズス様が私たちの為になさったその愛の神秘に、深く入りたいと思うからです。

イエズス・キリスト、つまり人となった天主の御言葉は、私たちを救う為に、私たちの罪を償う為に、私たちをして天主の命に生み出す為に、人となられました。

イエズス様はただその時に御一人でなさろうと思ったのではなくて、親密な伴侶と一緒に、それをなさろうとなさいました。第2のエヴァ、マリア様です。

そして、マリア様の事をよく理解する為に、イエスズ様の聖心の助けを乞い求めようと思いました。

第2は、イエズス様の御生涯を見ると、イエズスはいつも、マリア様と緊密に一致している、ということが分かりますけれども、いつもそれは、「マリア様の子供」として、マリア様を、「イエズス様の愛する母」として、行動されていました。

イエズスの聖心こそが、マリア様に対する真の信心をお持ちでした。

ですから、マリア様に対する信心と愛を深く理解する為には、イエズス様の聖心に聞くのが一番であると思うからです。

それでは巡礼者の皆さん、今年の巡礼はますます、イエズス様の聖心を通して、マリア様に対する信心を深めるものとなりますように、秋田のマリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


天主の御あわれみの信心について:天主の御あわれみの信心は、闇の中の光となり、謙虚にし、人を元気づける力となる

2021年06月14日 | お説教・霊的講話

天主の御あわれみについての説教

ドモルネ神父

はじめに

この前の金曜日には、イエズスの聖心をお祝いしました。今日は天主の御あわれみの信心について少しお話ししたいと思います。この信心は、イエズスの聖心の信心と関係があります。

a)あわれみという概念

あわれみとは、私たちが他の人の苦しみを見たために感じる同情や悲しみのことです。その人をできるだけ助けたいと、私たちに思わせる同情です。ですから、あわれみには二つの要素があります。私たちが感じる同情や悲しみと、私たちが苦しんでいる人に与える助けです。

b)御あわれみは天主の属性である

聖書の中で、天主は何百回も、ご自分があわれみ深いお方であると宣言されています。例えば、次のように。「主の栄光をたたえよ。主は善きお方である。主のあわれみは永遠に続く」(歴代の書上16章34節)、「主よ、あなたは正しい。あなたの裁きは、すべて正しい。あなたの道はすべて、あわれみ、真理、裁きである」(トビア3章2節)、「その契約を守る人にとって、主の小道は御あわれみと真理である」(詩篇24篇10節)。

また聖パウロは、天主の御あわれみがすべての人に及ぶことを、こう述べています。「天主は、すべての人にあわれみを現すために、すべての人を不従順に閉じ込められた」(ローマ11章32節)。天主は、私たちに対してあわれみ深いお方です。天主の永遠の幸福に影響を与えるものは何もありませんから、もちろん、私たちのみじめさによって天主がお悲しみになることはありませんが、私たちのことを気にかけてくださり、私たちが霊的なみじめさから抜け出すのを助けてくださいます。天主は預言者エゼキエルを通してこう言われました。「罪人は死すべきだというのが私の望みだろうか。むしろ、彼がその生き方をかえて生きることが私の望みである」(エゼキエル18章23節)。

c)天主の御あわれみを求めることは、天主の栄光をたたえること

天主が聖書の中で、ご自分があわれみ深いことをこれほど強調しておられるのはなぜなのか、不思議に思うかもしれません。それは、このあわれみという属性が、特別な形で天主の栄光をたたえることになるからです。私たちが天主の御あわれみを求めるとき、私たちは、自分自身の弱さと天主の御力を同時に認めているのです。私たちは、天主の超越性と私たちの天主への依存性を同時に認めます。私たちは、罪人であるという自分の状態と、天主の正義と聖性を同時に認めます。私たちは、天主が善きお方であることと、天主の御助けを私たちが望むことを同時に宣言します。ですから、天主の御あわれみを求めるということは、一方では天主の超越性、完全性、御力、善性を認め、他方では私たちの天主への依存と霊的なみじめさを告白するということを意味します。私たちの霊魂のこの二重の働きが、天主の栄光をたたえるのです。


d)天主の御あわれみを求めることは、人に希望をもたらす

天主の御あわれみを求めることは、私たちにとっての希望と霊的な慰めの源です。天主は私たちが永遠の幸福に達するのを助けることがおできになり、また助けたいと思っておられます。聖書にはこう書かれています。「私はあなたのあわれみを信頼し、私の心はあなたの救いに喜ぶ」(詩篇12篇6節)、「主を恐れるものは、主に希望を置け。あわれみはあなたのもとに来て喜びとなる」(集会書2章9節)、「天よ、喜びうたえ、地よ、喜べ、山々よ、歓呼を上げよ。主が民を慰め、みじめな人々をあわれまれたからである」(イザヤ49章13節)。


e)私たちの主イエズスは、御托身になった天主の御あわれみである

天主の御あわれみは、私たちの主イエズス・キリストにおいて明らかにされました。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。人間は自分の過ちによって罪を犯し、霊的にも肉体的にも最も深刻な不幸に陥ってしまったため、自分自身の力ではそこから抜け出すことができませんでした。しかし、天主は私たちの主イエズス・キリストを通して、最も優れた御あわれみのみわざである人類の贖いを計画されました。そのため、イエズスを「御托身になった天主の御あわれみ」とお呼びすることがあるのです。

f)天主の御あわれみとイエズスの聖心

天主の御あわれみは、イエズスの聖心と関係があります。福音書の中では、貧しい者、病人、困窮者、罪人が主に呼びかけます。「私をあわれんでください」「私たちをあわれんでください」…それによって自分のみじめさと、助けを得られるという望みを告白しているのです。そして実際、私たちの主イエズスはこのような呼びかけに心を閉ざすことができず、そのたびに彼らの願いにお応えになり、彼らのために奇跡を起こされたのです。贖いという私たちの主イエズスの御あわれみのみわざのうちでも究極の行いは、ご自分の心臓を槍で貫かれることでした。イエズスは、私たちをお救いになるために、ご自身の尊い御血を最後の一滴まで捧げ尽くされたのです。


g)聖心の聖画と天主の御あわれみの聖画

天主の御あわれみの信心は、聖心の信心と関係があります。聖心の聖画と天主の御あわれみの聖画はよく似ていますが、少し違います。イエズスの聖心の聖画については、私たちは特に、イエズスが聖マルガリタ・マリアに言われた言葉を連想します。「見よ、人々を愛するがあまり、その愛を証明するために自らを捧げ尽くすまで、ありとあらゆる苦しみを耐え忍んだこの心を。その報いに私が大半の人々から受けるのは、ただ忘恩ばかりであり、不敬と冒涜、この愛の秘跡のうちにいる私に対する冷淡と軽蔑である」。イエズスの聖心の聖画は、特に愛と償いを求めるものです。天主の御あわれみの聖画が表しているのは、むしろ、私たちが謙遜と信頼を持って主に近づくならば私たちをお助けくださるという聖心の約束です。

h)近代主義者による天主の御あわれみの歪曲

近代主義者は、あわれみという概念と天主の御あわれみの信心を貶めてしまいました。彼らは、普遍的な救いに関する偽りの教え、つまりすべての人が天国に行くという教えを広めるために、「天主の御あわれみ」を利用しています。彼らは、同性愛のような道徳的な混乱を断罪するのを避けるために、「天主の御あわれみ」を利用しています。彼らは、霊魂を養うことのできない、感傷的でカリスマ運動的な欺瞞の霊性を発展させるために、「天主の御あわれみ」を利用しています。こういうことに天主の御あわれみを利用することは、聖霊に対する罪、すなわち、思い上がったり、悔い改めなかったり、執拗に悪にこだわったりする罪です。

結論

天主の御あわれみの信心、つまり、私たちを助けてくださるイエズスの聖心の信心は、特に私たちの時代に適していると思われます。私たちの世界には、特に超自然的な希望が欠けています。一方で、天主を必要としないと主張する愚かな思い上がりでいっぱいの人々がいて、自分の気まぐれによってこの世の形を決めたり、この世の物事の中に幸せを見いだしたりするふりをしています。また他方では、自分の人生には意味がないと考え、悲しみ、うつ、恐怖に沈んでしまって、自殺するような人も多く見られます。

天主の御あわれみの信心は、天主の超越性と、天主の私たちへの、愛に満ちた気遣いへの、私たちの信頼とを、同時に宣言します。そして、それは闇の中の光となり、思い上がっている人を謙虚にし、落胆している人を元気づける力となるのです。

聖なる希望の聖母、われらのために祈り給え!





2021年6月13日 カトリック聖伝のミサの報告(聖ピオ十世会)Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX JAPAN

2021年06月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、東京ではイエズスの聖心の荘厳祭を行いました。教皇ピオ十一世の命に従い、イエズスの聖心の連祷と「人類の忘恩に対する償いの祈」をそれぞれのミサの後に唱えました。

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計102人でした。大阪では28名でした。

今日は特別に、一昨日のイエズスの聖心の祝日に「暁の星の聖母修道院」でなされた、修道院のイエズスの聖心への奉献の祈りを、東京でも大阪でも、私たちの家族である愛する兄弟姉妹の皆様の前でもう一度行いました。

イエズスの聖心に家庭を献ぐる祈 Enthronement of the Sacred Heart of Jesus – Stella Matutina Priory
至聖(しせい)なるイエズスの聖心(みこころ)よ、主はかつて聖女マルガリタ・マリアにキリスト信者の家庭に王たらんとの御望(おんのぞ)みを明かし給えり。われらは主の御旨(みむね)を尊(とうと)みて、今日(こんにち)ここに集まり、主が、われらの「暁の星なる聖母」修道院の王にましますことを宣言し奉る。 O Sacred Heart of Jesus, / who didst make known to St. Margaret Mary Thine ardent desire to reign over Christian families, / behold us assembled here today / to proclaim Thine absolute dominion over our Priory "Stella Matutina" with all its missions in all Japan, Korea and elsewhere.
われらは今より、主の御生活(ごせいかつ)にならい奉りて、この世の平和に必要なる諸徳(しょとく)の花を、特に司祭としての聖徳を、われらの修道院に咲き香(にお)わせ、また主の忌みきらい給う世間的精神をば、はるかにわれらの間(あいだ)より遠ざけんと欲す。 Henceforth we purpose to lead a life like unto Thine / so that amongst us may flourish the virtues, especially priestly virtues / for which Thou didst promise peace on earth, / and for this end / we will banish from our midst / the spirit of the world which Thou dost abhor so much.
願わくは、われらの知恵を治めて、信仰を素直ならしめ、われらの心をすべて、主ひとりを愛せしめ給え。われらはしばしば敬虔にミサ聖祭を捧げ且つ聖ピオ十世会の会憲を忠実に守ることによりて、主の愛に燃え、その炎をいつまでも失わざらんと欲す。 Thou wilt reign over our understanding / by the simplicity of our faith. Thou wilt reign over our hearts / by an ardent charity for Thee; / and may the flame of this charity / be ever kept burning in our hearts / by the devoted offerings of the Holy Sacrifice of the Mass as well as by our fidelity to the statutes of the Society of Saint Pius X.
至聖なるイエズスの聖心よ、われらのまどいと活動とに長(おさ)となり、われらの精神的および物質的事業を祝し給え。禍(わざわ)いを遠ざけ、喜びを神聖にし、苦しみを和らげ給え。われらのうちに、主の御旨(みむね)を痛め奉る不幸に陥る者あらば、主が悔改(くいあらた)むる罪人(つみびと)に対して慈しみとあわれみとに充ちあふれ給うことを、思い出(いだ)さしめ給え。 Deign, O Divine Heart, / to preside over our meetings and activities, / to bless our undertakings both spiritual and temporal, / to banish all worry and care, / to sanctify our joys / and soothe our sorrows. / If any of us / should ever have the misfortune to grieve Thy Sacred Heart, / remind him of Thy goodness and mercy / toward the repentant sinner.
ついにわれらの修道院が、死別の不幸にあい、悲しみの雲に閉ざされん時は、去る者も留(とど)まる者も、すべて主の永遠の御定め(おんさだめ)に服従し奉らん。やがては全会員(ぜんかいいん)が挙(こぞ)りて天国に相(あい)集まり、主の御栄え(みさかえ)と御恵み(おんめぐみ)とを、永遠に讃美する日の来(きた)るべきことを思わば、みずから慰むるに余りあるべし。 Lastly / when the hour of separation will sound / and death will plunge our priory into mourning, / then shall we, all and every one of us / be resigned to Thy eternal decrees, / and seek consolation in the thought / that we shall one day be reunited in heaven, / where we shall sing the praises and blessings of Thy Sacred Heart / for all eternity.
聖母マリアの汚(けが)れなき御心(みこころ)と、栄(さか)えある太祖(たいそ)聖ヨゼフとには、われらが修道院はすでに奉献されたるが、願わくは聖母および聖ヨゼフとが、われらの修道院の奉献(ほうけん)を主の御前(みまえ)に取次ぎ、われらをして、今日(こんにち)のこの奉献の記憶を、終生忘れざらしめ給え。 May the Immaculate Heart of Mary and the glorious Patriarch St. Joseph / to both of whom, our Priory is consecrated / offer Thee this consecration to the Sacred Heart / and remind us of the consecrations which we made / all the days of our life.
願わくは、われらの王にして、父なるイエズスの聖心(みこころ)の、世々に活き、かつしろしめし給わんことを。アーメン。 Glory to the Divine Heart of Jesus, / our King, our love, our model and our Father! Amen
   
感謝の祈り Thanksgivig Prayer
イエズスの至聖なる聖心よ、願わくは御身に栄光あらんことを。御身はこの修道院の会員に特権的な無限の憐れみを与え給えたればなり。御身は、この修道院を、他の何千もの修道院の中から、御身の愛の受け手として選び給い、また、御身のいとも愛に満ちた聖心が、人々の忘恩に対する慰めを見出すべき、償いの至聖所として選びたり。主イエズスよ、主に忠実たらんとする群れの一部であるわれらは、主がわれらの修道院を統治したもうたるこの無上の名誉を受け奉るは、身にすぎて極めてかたじけなし。われらは御身を沈黙のうちに礼拝し、御身がわれらと同じ屋根のもとにて、御身の子らの労苦、心配、喜びを共にするを目の当たりにし、喜びに絶えざるなり。御身がわれらが貧しきあばら家に入り給うに、われらはふさわしき者あらずなり。されど、御身は聖心をわれらに示し給い、御身の聖なる脇の傷にて、聖寵と永遠の生命との源(みなもと)を見出すことを教え給い、かくしてすでにわれらを安心させ給えり。この愛と信頼の精神において、われらは御身にわれら自身を奉献し奉る。御身は、変わらぬ生命なり。至聖なる聖心よ、われらと共に留まり給え。われらは、御身を愛し御身を愛させたい、という抗(あらが)いがたき望みを感じるが故なり。 Glory be to Thee, / O Sacred Heart of Jesus, / for the infinite mercy / Thou hast bestowed / upon the privileged members of this priory. / Thou hast chosen it / from thousands of others, / as a recipient of Thy love / and a sanctuary of reparation / wherein Thy most loving Heart / shall find consolation / for the ingratitude of men. / How great, O Lord Jesus, / is the confusion / of this portion of Thy faithful flock / as we accept the unmerited honour / of seeing Thee preside over our Priory ! / Silently we adore Thee, overjoyed to see Thee sharing / under the same roof / the toils, cares, and joys / of Thine innocent children! / It is true / we are not worthy / that Thou shouldst enter our humble abode, / but Thou hast already reassured us, / when Thou didst reveal Thy Sacred Heart to us, / teaching us to find in the wound of Thy Sacred Side / the source of grace and life everlasting. / In this loving and trusting spirit / we give ourselves to Thee, / Thou who art unchanging Life. / Remain with us, Most Sacred Heart, / for we feel an irresistible desire / to love Thee and make Thee loved.
われらの修道院が御身にとって、かつてのベタニアの家のように、そこでは主を愛する友人たちに囲まれて御身が安らぎを得ることができる、甘美な避難所とならんことを。マリアのように、御身の聖心の愛に満ちた親密さにおいて「より良いほう」を選んだ友人たちのいる避難所と。われらが愛する救い主よ、御身の敵がこの世から御身を追放しようとする今この時、願わくはこの修道院が御身にとって、つつましくも、御身を喜んでもてなす避難所とならんことを。 May our Priory be for Thee / a haven as sweet as that of Bethany, / where Thou canst find rest / in the midst of loving friends, / who like Mary / have chosen the better part / in the loving intimacy of Thy Heart! / May this Priory be for Thee, / O beloved Saviour, / a humble but hospitable refuge / during the exile / imposed on Thee by Thine enemies.
主イエズスよ、来たり給え。ここではナザレトと同じように、われらは童貞聖マリア、御身の甘美な母に対して心からの愛を捧げ奉る。御身は聖母をわれらの母として与えたまえたればなり。御身の甘美な現存とともに、来たり給え。愛の王なるイエズスのためになさるるわれらの活動を支え、不幸と死とがいつの日か、われらに与えるも知らぬ空席を埋めるために。 Come then, Lord Jesus, come, / for here as at Nazareth, / we have a tender love / for the Virgin Mary / Thy sweet Mother / whom Thou hast given us to be our Mother. / Come, with Thy sweet presence, to support our activities for our King of love, and fill the vacancies which misfortune and death / may affect, one day, in our midst.
いとも忠実なる友よ、悲しみの中であったとしても、御身さえここにおられるならば、われらの涙は辛くもあらず。力づける平和の香油は、御身だけが知り給う隠れたる傷を癒すなり。来たり給え。おそらく今も、われらには苦難の黄昏(たそがれ)が近づきつつあるなり。われらと共に留まり給え。すでに日は暮れ、倒錯した世界がわれを否定の暗闇で飲み込もうとするがゆえなり。されど、御身のみが道、真理、生命(いのち)なり。その御身のみにわれらは従うことを望み奉る。その昔、ザケオに御身が宣うたみ言葉をわれらにも繰り返し給え。「私は、今日、あなたの家にとまる。」 O most faithful Friend, / when Thou are here / in the midst of sorrow, / our tears would be less bitter; / the comforting balm of peace / would then sooth the hidden wounds, / which are known to Thee alone. / Come, for even now perhaps, / there is drawing near for us / the twilight of tribulations. / Stay with us, / for already it is late, / and a perverted world / seeks to envelop us / in the darkness of its denials / while we wish to adhere to Thee / who alone art the Way / the Truth / and the Life. / Repeat for us those words / Thou didst utter of old: / “This day I must abide in this home.”
しかり、愛する主イエズスよ、われらと共に御身の家に住み給え。そは、御身の愛と御身の現存のうちに、われらが生きるためなり。われらは、御身を王と宣言し、他には何も望まざるなり!イエズスよ、凱旋すべき御身の聖心が、この修道院にて永遠(とこしえ)に愛され、祝福され、栄光を受け給わんことを!御国の来たらんことを。アーメン。 Yes, dear Lord, / take up Thy abode with us, / so that we may live in Thy love / and in Thy presence, / we who proclaim Thee as our King / and wish no other! / May Thy triumphant Heart, O Jesus, / be forever loved, / blessed, / and glorified / in this Priory ! / Thy Kingdom come ! Amen.


【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.
The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 102, including children.

09:00 mass
M: 21 (incl. 4 children)
F: 22 (incl. 2 children)
Total: 43 (incl. 6 children)

11:00 mass
M: 20 (incl. 4 children)
F: 22 (incl. 4 children)
Total: 42 (incl. 8 children)

12:30 mass
M: 13 (incl. 2 children)
F: 10 (incl. 2 children)
Total: 23 (incl. 4 children)

Total of 3 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 50 (incl. 10 children)
F: 52 (incl. 8 children)
Total: 102 (incl. 18 children)


2021年6月13日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for June 13, 2021

2021年06月12日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2021年6月11日(金)6月12日(土)13日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 6月11日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 6月12日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 6月13日(日) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭【ミサの開始が午前に変更になりました。ご注意ください。】

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

6月13日(日)主日ミサが三回捧げられます。東京の巡回聖堂では三回とも、イエズスの聖心の祝日の荘厳祭を行います。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

【修道院】 

6月11日(金曜日)イエズスの聖心の祝日 午前7時15分 ミサ聖祭

6月12日(土曜日)午前11時00分 ミサ聖祭

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of June 13, 2021.

Mass times in Tokyo: June 13
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo
Mass schedule in OSAKA:

Fri, June 11: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, June 12: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, June 13: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30


「せめておまえだけでも、おまえの力に応じて少しでも私を慰め、私の心に報いてほしい。」Sermon about Divine Mercy|Sermon sur la Miséricorde Divine

2021年06月12日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年6月13日は聖霊降臨後第三主日・聖心の荘厳祭です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第三主日・聖心の荘厳祭の説教」の動画をご紹介いたします。

ドモルネ神父様と小野田神父による、英語、フランス語、日本語のお説教です。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


Cor arca legem continens イエズスの聖心の聖歌

2021年06月10日 | グレゴリオ聖歌

アヴェ・マリア・インマクラータ!

明日はイエズスの聖心の祝日です。有名なCor, arca legem continensという聖歌と日本語訳(小野田神父試訳)をご紹介いたします。

1. Cor, arca legem continens
Non servitutis veteris,
Sed gratiæ, sed veniæ,
Sed et misericordiæ.

掟を納めた契約の櫃なる聖心よ、
旧約の恐れによる隷属の戒ではなく、
聖寵の掟、赦しの掟、
憐みの掟を。

2. Cor, Sanctuarium novi
Intemeratum foederis,
Templum vetusto sanctius,
Velumque scisso utilius.

新約の汚されざる
至聖所なる聖心よ、
旧約の神殿よりも聖なる神殿、
旧約の破れた幕よりも有益な幕。


3. Te vulneratum caritas
Ictu patenti voluit;
Amoris invisibilis
Ut veneremur vulnera.

愛は、傷つけられた御身を
槍の一突きで開かれるのを欲した。
見えない愛の傷を
私たちが崇敬するために。


4. Hoc sub amoris symbolo
Passus cruenta, et mystica,
Utrumque sacrificium
Christus Sacerdos obtulit.

この愛の印のもとで、
(カルワリオでは)流血のやり方で、また、(ミサでは)神秘的なやり方で苦しみ給い
両方のやり方で犠牲(いけにえ)を
キリストは司祭として捧げ給う。


5. Quis non amantem redamet?
Quis non redemptus diligat,
Et Corde in isto seligat
Æterna tabernacula?

愛する方を誰が愛し返さないだろうか?(そんな人は誰もいない)
贖われた者ならば誰が(贖ってくださった方を)愛さないだろうか、
そして、この聖心に
永遠のすみかを選ばないだろうか?


6. Decus Parenti et Filio,
Sanctoque sit Spiritui,
Quibus potestas, gloria
Regnumque in omne est sæculum.

御父と御子とに賞賛あれ、
また、聖霊に、
この三位に、権力と栄光と
御国とが、代々にあるなり。


聖アントニオを祝う聖歌 En gratulemur hodie とその日本語訳をご紹介いたします

2021年06月09日 | グレゴリオ聖歌

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

6月13日は、パドゥアの聖アントニオの祝日です。聖アントニオを祝う聖歌 En gratulemur hodie とその日本語訳(小野田神父の試訳)をご紹介いたします。

En gratulemur hodie
Christo regi jucundius,
In cuius aula gloriae
iam jubilat Antonius.

さあ、私たちは今日こそ祝おう、
王たるキリストに、さらに嬉しく
その栄光の大広間に
聖アントニオはもう喜んでいる。


Francisci Patris aemulus. 
sic illi se contemperat, 
ut fonte manans rivulus, 
aquas vitae circumferat. 

父なる聖フランシスコの競争相手は、
聖フランシスコのように自分を軽蔑した、
泉から湧き出る小川のように、
命の水を取り巻くために。


Longe lateque diffluit, 
sitique mortis aridos, 
verba salutis imbuit, 
dans rore sacro vividos. 

長く、広く、流れる
渇きにより死の乾いた[地]を
救いの言葉を沁み込み、
聖なる露で生き生きとするものを与えながら。


Hic stigmatum qui bajulo, 
Patri natus innititur 
dum praedicat de titulo, 
confixus ille cernitur. 

ここに、聖痕の運び手に、
父のために生まれて、寄りかかり、
[キリストの]称号について説教する時
彼は[キリストと共に十字架に]付けられて見える。


Sub tanto duce militans, 
vincendo se non vincitur, 
duci miles cohabitans, 
jam bello non concutitur. 

かの指導者のもとで戦いつつ
自分は、打ち勝たれることなく、打ち勝ちながら、
兵士は指導者と共に住みつつ
もはや戦争によっては揺り動かされない。

Nos in campo certaminis, 
Patrum Solantes gloriam, 
hic sub re nostri nominis 
vincamus ignominiam. 

私たちは戦場にて、
父たちの栄光を慰めつつ
ここで私たちの名前の事のもとに、
私たちは不名誉に打ち勝つ。

Praestet hoc Nati Genitor, 
hoc Genitoris Genitus, 
ac par utrique Conditor 
Paraclitus hoc Spiritus. 
Amen. 

これを子の父は与え、
これを父からの生まれた子は[与え]、
両者に等しい創造主なる
慰め主なる聖霊はこれを[与えんことを]。
アメン

Gezangen die gewoonlyk in den heiligen vastenstyd gebruykt werden · dbnl

 

DBNL

 

 




聖アントニオの挑戦状と御聖体の奇跡

2021年06月08日 | お説教・霊的講話

2021年6月6日 ドモルネ神父のメッセージ


1. 聖アントニオの話

今日は、御聖体をお祝いしていますが、6月13日は、パドヴァの聖アントニオの祝日でもあります。これから、本当に起こった、ある出来事をご紹介しましょう。

12世紀から13世紀にかけて、聖アントニオが生きた時代には、アルビ派という異端が存在していました。この異端は、全実体変化の真理を否定し、聖別されたホスチアが真にキリストご自身の御体であることを否定していました。この異端の主張は、このホスチア、すなわちパンはキリストの象徴、つまりキリストを思い起こす方法にしか過ぎない、というものでした。

聖アントニオは、この異端の人々を真の信仰に連れ戻そうと、フランスのツールーズの町にいた異端の人々に説教をしに行きました。そこでは、バルナヴェルという名前の商人が、公の場で聖アントニオに大変強く反論したため、聖アントニオは、この哀れな人よりも、動物さえもが天主の御言葉にもっと敬意を払っている、と宣言するに至りました。この商人は、自分が愚かな動物に例えられたとして、大いに怒りました。

ところが、聖アントニオはこの商人に、ある挑戦状をつきつけたのです。その挑戦とは次のようなものでした。

この商人は、自分の持っているラバに三日間えさを全く与えず、その後、このラバを町の広場の公衆の面前に連れてくること。商人は、このラバのために、最高の新鮮なえさを準備して、広場の一方に陣取ること。他方、聖アントニオは、御聖体を持って、広場の反対側に陣取ること。そうすれば、ラバがどのように行動するかを、誰もが見ることができる。もし、この空腹のラバが、エサに向かって突き進まず、御聖体におけるキリストの実存を認めるならば、商人はローマ・カトリックの信仰の真実を認めること。すると、この商人は、この挑戦を受けて立つことにしました。

そこで、その日から三日間、ラバにはエサが少しも与えられませんでした。一方、聖アントニオは、異端派の人々の回心のために、断食と祈りとを熱心に行いました。三日の後、沢山の人々が見守る中、お腹のすいたラバが町の広場の中央に連れてこられました。商人は、このラバ用の沢山の新鮮なエサと共に、広場の片方の隅に陣取りました。聖アントニオは、上着の内側に御聖体を持ったまま、反対側の隅に陣取りました。お腹のすいたラバは、エサの匂いがすると、商人の方に歩き始めました。

そこで聖アントニオは、上着の下から御聖体を取り出して、それを高く指し挙げ、創造主に敬意を示すよう、ラバに命じたのです。すると突然、ラバは商人の方から方向転換して、聖アントニオの近くにまで来て、御聖体の前でひざまずいたのです。

商人はラパを鞭打って、その場から離れさせようと懸命に努力しますが、ラバは動きません。遂に、天主の御恵みにうたれた商人は、御聖体の真理を認めました。この商人は、ローマ・カトリック教会の教える、聖別されたホスチアにはキリストが実存する、という真理を告白したのです。

2. つぐない

もう一つ、お話ししておきたいことがあります。今日私たちは、私たちの主イエズスが私たちに御聖体をくださったことを喜び、そしてその感謝に満たされています。

しかしまた、このことも忘れてはいけません。ご自分の御聖体という最も尊い賜物を私たちが受けられるようにしてくださるために、主イエズスは、不注意な人たちによる数々の不敬の行為ばかりか、無数の恐るべき冒涜の行為をも甘んじて受けておられるのです。

教会で、聖別されたホスチアを盗む人たちがいます。このような人たちは、御聖体を刺したり、燃やしたり、あるいは人糞と混ぜたりするような、あらゆる種類の恐るべき冒涜の行いをするのです。また、私たちの主イエズスをあざ笑い、おとしめ、侮辱するために考え得るあらゆることを行う、忌まわしく、みだらな儀式を行うのです。自らの司祭職にそむき、何らかの理由から、黒ミサを執行することを引き受ける司祭たちがいます。黒ミサというのは、聖なるミサを冒涜する真似事の式で、そこでは、そのような哀れな司祭たちがパンとぶどう酒をキリストの御体に聖別した上、それを悪魔に捧げ、そのうえ恐ろしい涜聖の行為を行うのです。

なぜ、そのような忌まわしい行為を行うのでしょうか?それは、そのような罪深い行為によって、悪魔たちがこの地上に持つ勢力を著しく強めることができるからです。そのため、そのような罪深い行為を行う人たちに対して、名声、金、欲望、仕返し、その他望むものは何でも叶えられるように助けることを、悪魔たちが約束するのです。

私たちの主イエズスが、ご自分の御聖体に対して、これら全ての冒涜行為がなされるのをお許しになるのは、この地上において、物理的に私たちと共にいて、私たちの霊的食物となることを、お望みだからです。ですから私たちは、礼拝と感謝だけでなく、このような全ての恐ろしい冒涜行為に対する、心からの償いをお捧げすることも、忘れてはいけません。ポンマンにおいても、秋田においても、聖母は私たちが償いをすることを、お求めになったのです。


全実体変化という神秘

2021年06月08日 | お説教・霊的講話

2021年の御聖体の祝日の短い説教

ドモルネ神父

はじめに

今日は、御聖体をお祝いしています。御聖体とは、パンとぶどう酒の外観の下にある、私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、御霊魂と、御神性です。今から、全実体変化という神秘について、少しお話しします。


1.御聖体の神秘

聖ヨハネの福音書には、私たちの主イエズスが、御聖体を告知される場面があります。「私は天から下った生きるパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは、世の命のためにわたされる私の肉である…人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し…私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る…私を食べる者も、私によって生きる」(ヨハネ6章51-58節)。そして、最後の晩餐で、私たちの主イエズスはその約束を果たされました。「主はパンを取り、祝し、裂き、それを弟子たちに与えて言われた、『取って食べよ。これは私の体である』。また、杯を取り、感謝し、彼らに与えて言われた、『みなこの杯から飲め。これは、多くの人のために、罪のゆるしを得させるために流す契約の私の血である』」(マテオ26章26節)。

これらの言葉はそれ自体で非常に明確です。さらに、私たちの主イエズスが、私たちは主の肉を食べ、主の血を飲まなければならないと強調されたことから、主のみ言葉が象徴的な意味しか持たないという考えは確実に排除されます。主は、間違いを犯すことも、私たちをだますこともおできになりません。主はこう言われました。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。ですから、イエズスが、これはご自分の御体であり、これはご自分の御血であると言われるとき、それはまことに主の御体と御血でしかありえません。

しかし一方、最後の晩餐のときの使徒たちにとっては、またミサにあずかる私たちにとっても同様に、聖別されたパンとぶどう酒を見ても、それは人間の肉や血には見えず、単なるパンとぶどう酒に見えます。聖別されたパンやぶどう酒を味わうと、人間の肉や血ではなく、パンやぶどう酒の味がします。では、次の二つの要素をどのように調和させればよいのでしょうか。一方では、私たちの主は「これは私の体であり、私の血である」という真理を語られます。他方では、私たちはパンとぶどう酒としてしか感じないという事実があります。その答えは、「全実体変化」(Transubstantiation)という言葉で表わされます。

2.実体および偶有という考え

私たちが物や人について考えるとき、私たちは、同じままでいるものと変わるものという二つの要素を区別します。例えば、人間について考えてみましょう。胎児の時と大人になってからのその人を比べてみてください。その人は同じ人間ですが、同じにはまったく見えません。体格、髪の色、体重、容貌は変化しています。私たちは、同じままで変わらず、その人を同じ人間とさせるものを「実体」と呼びます。変化したものを「偶有」と呼びます。偶有とは、色、形、柔らかさや硬さ、粗さや滑らかさ、味、大きさなどのことです。

実体と偶有は常に結びついています。私たちは、その一方を変えずに他方を変えることはできません。例えば、私が木を木炭に変えれば、木の元の姿を変えざるを得ません。水を蒸気に変えれば、水の元の姿を変えざるを得ません。イチゴジャムを作れば、イチゴの元の姿を変えざるを得ません。人間には、ある物の偶有をまったく変えることなしに、その物を別のものに変える力はありません。

3.全実体変化という神秘

「全実体変化」というのは、偶有が一切変化することなく、実体が変化することを意味します。例えば、木の元の姿(色、大きさ、形、硬さなど)を保ったまま、木炭にしたようなものです。また例えば、水を、水の元の姿を保ったまま、蒸気にしたようなものです。あるいは、イチゴの元の姿を保ったまま、イチゴジャムを作ったようなものです。そのようなことは、人間の力では不可能です。しかし、天主の御力では可能でしょうか。はい、可能です。それはなぜでしょうか。なぜなら、天主はすべてのものを創造されたからです。天主は実体と偶有を創造され、そのふたつを結びつけられました。したがって、天主はそのふたつを分離させることもおできになるのです。天主がお望みならば、物の元の姿を変えることなく、その実体を変えることがおできになるのです。この天主の行為を、私たちは「全実体変化」と呼ぶのです。

私たちの主イエズスが、小麦のパンを手に取って「これは私の体である」と言われ、またぶどう酒【の杯】を手に取って「これは私の血である」と言われたとき、主はこのような全実体変化を行われました。私たちの主イエズスは、その天主の御力によって、パンの偶有を変えることなく、そのパンの実体をご自分の御体に変えられました。私たちの主イエズスは、ぶどう酒の偶有を変えることなく、そのぶどう酒の実体をご自分の御血に変えられました。ですから、パンとぶどう酒の外観の下に、イエズス・キリストのまことの御体と御血が存在するのです。このような変化がいかにして行われるのか私たちには理解できないため、私たちはこれを御聖体の神秘と呼びます。すべてのミサにおいて、聖変化のとき、私たちの主イエズスは、司祭を通してこの神秘的な変化を更新されるのです。

結論

今日、御聖体の祝日をお祝いするにあたって、御聖体への私たちの信仰を更新することにしましょう。御聖体は、私たちの主イエズス・キリストご自身です。主が御聖体に現存しておられるのは、私たちが、天主の御稜威にふさわしい供え物として、御聖体を聖三位一体にお捧げできるようにするためです。主が御聖体の内に現存しておられるのは、私たちの地上での旅の間、私たちと共におられるためです。主が御聖体の内に現存しておられるのは、私たちの霊的な食べ物となられるためです。

御聖体は、私たちにわたされた、無限の価値をもつ賜物です。世界中のすべての黄金や富を合わせても、ただ一つの聖別されたホスチアと比べれば、まったく価値のないものです。御聖体における私たちの信仰、イエズスへの敬意と愛が増すよう、聖母が取りなしてくださいますように。






【訃報】ダニエル・ヤガン神父(聖ピオ十世会司祭)の霊魂の永遠の安息のためにお祈りください

2021年06月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨年末に叙階されたばかりのダニエル・ヤガン神父は、今朝(2021年6月7日)、突然マニラで永遠に旅立ちました。司祭になってまだ六カ月でした。
彼の霊魂が平安のうちに憩わんことを!
愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りを感謝申し上げます。









カトリック聖伝のミサ 御聖体の荘厳祭 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka SSPX Japan

2021年06月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、東京でも大阪でも御聖体の祝日の荘厳祭を行いました。
今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計95人でした。大阪では、31人でした。

大阪では、聖ピオ十世会としては最初の大阪での御聖体行列を行いました。天主に感謝いたします。その準備のためにご協力をくださった全ての兄弟姉妹の皆様に感謝申し上げます。

東京の写真です。






大阪の写真です。










マリア様にも感謝します。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.

The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 95, including children.

09:00 mass & benediction
M: 25 (incl. 4 children)
F: 23 (incl. 2 children)
Total: 48 (incl. 6 children)

11:30 mass
M: 23 (incl. 5 children)
F: 27 (incl. 9 children)
Total: 50 (incl. 14 children)

Total of 2 masses (excl. 3 people who participated in both masses)
M: 47 (incl. 9 children)
F: 48 (incl. 11 children)
Total: 95 (incl. 20 children)


2021年6月6日(主日)前後の聖伝のミサの予定(東京では二回だけ):Traditional Latin Mass for June 6, 2021

2021年06月06日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

 

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2021年6月3日(木)4日(金)5日(土)6日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 6月3日(木)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 6月4日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 6月5日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 6月6日(日) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

6月6日(日)主日ミサは、この主日に限り二回だけ捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:30 ミサ聖祭 読誦ミサ(ミサの時間にご注意ください!)

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of June 6, 2021.

Mass times in Tokyo: June 6: we have ONLY TWO Masses ! 
 
09:00 - Sung mass Facebook live
 
11:30 - Low mass
 
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the two masses.
 
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo
 
 

Mass schedule in OSAKA:

Thurs, June 3: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Fri, June 4: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, June 5: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, June 6: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30














 

 

 

 

 


御聖体の秘蹟|主を愛さないと言う理由はありうるのでしょうか?私たち人間をこれほどまでも愛してくださるのは全く驚くべきことですが、それよりもさらに驚くべきことは人類の無関心・忘恩さです

2021年06月05日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年6月6日は聖霊降臨後第二主日です。御聖体の荘厳祭を祝っています。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御聖体の荘厳祭の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


聖ピオ十世会総長のための霊的花束 Spiritual Bouquet for Fr Pagliarani

2021年06月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
聖ピオ十世会総長のための霊的花束

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会総長パリャラーニ神父様は、来る6月27日に叙階25周年を迎えます。

この銀祝を祝って霊的花束をお送りしたいと思います。何故なら総長様の祝福と後押しがあったからこそ、今年日本で修道院がオープンし、司祭の常駐が可能になったからです。

愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご協力を感謝申し上げます。

 Spiritual Bouquet for Fr Pagliarani


Our Superior general of the SSPX, Fr Pagliarani is celebrating his 25th ordination anniversary, on June 27th.


We would like to organize a spiritual bouquet from our chapels. With his blessing, we now have the joy to found a priory with permanent resident priests in Japan.


Thank you for you kind and generous attention to this matter.






--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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