萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第51話 風待act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-07-26 23:56:22 | 陽はまた昇るside story
待つ、その瞬間も傍に




第51話 風待act.5―side story「陽はまた昇る」

山の浄闇が密やかに、言葉を樹幹へ吸いこんだ。
ミニパトカーに寄りかかりながら佇んで、光一がこちらを見ている。
闇透かす眼差しを見つめ返しながら英二は言葉を続けた。

「華道部の後輩から告白されていたんだ、周太。それを見て思ったんだ、俺、捨てられても仕方ないなって、」
「周太が、捨てるって言ったワケ?」

透明なテノールが隣から訊いてくれる。
その声に英二は軽く首を振った。

「いや、言ってない。彼女いるか訊かれて、好きな人がいるって俺のこと、言ってくれたらしい。それ聴いた時、嬉しかったよ。
だけど電車に乗ってるとき、考えていたんだ。ほんとうは周太、女の人と結婚した方が幸せになれるのかな、って…子供も出来るし、」

子供。

このことはずっと考えてきた、周太は一人っ子長男だから。
周太の母にしても本当は、孫の顔が見たいのではないだろうか?
あの3月に英二の父が言ったように、自分は本当は湯原の家にとって、邪魔なのではないだろうか?
そんな疑問を素直に英二は口にした。

「それで、俺は保護者でいるべきかなって思って。だから、周太が無事に退職したら俺は、湯原の家から出る方が良いかな、って思っ」
「馬鹿言ってんじゃないよ、」

透明なテノールが鋭く遮って、英二は言葉を呑んだ。
見つめた先で無垢の瞳が真直ぐ見つめてくれる、そして光一は口を開いた。

「周太の立場は普通じゃない。もし周太が普通に女と恋愛して、結婚して、幸せになれるって、本気で思うワケ?
女じゃ、周太のことを護れないのは当然だ、周太も自分自身を護れるか解らないよ。そんなこと、とっくに解っているだろ?
この危険はね、警察官を辞めたからって終わるのか、本当は解からない。そんなこと、おまえ、一番わかっているはずだよね?」

真直ぐな視線で英二を貫きながら、言葉が容赦なく引っ叩く。
言葉に刺されながら英二は、光一の言葉を聴いた。

「おまえ、自分でも言ってたよな、あの家のワケ解からない連鎖。なぜか全員が銃に関わって、必ず銃で殺されて死んでいる。
周太のじいさんは、学者になったのに銃で殺されたんだ。曾じいさんだってそうだ、エンジニアになったのに銃で死んでるんだよ。
ふたりとも軍人を辞めて民間人になったのに、銃で殺されたんだ。オヤジさんなんて退職していなくても、やっぱり銃で死んだよなあ?」

周太の祖父、晉は太平洋戦争当時に学徒出陣し、コードネームを与えられ狙撃手を務めた。
曾祖父の敦も年代から考えて日露戦争に出征している、それも家柄から士官だと考える方が自然だろう。
けれど光一の言い方は敦の件にも確定的な気配がある、気になって英二は口を開いた。

「光一、曾おじいさんについて、何か調べたのか?」
「ああ、調べたんだよ。まだ裏付けはとれちゃいないけどね、曾じいさんも狙撃手か砲兵だ、それも士官としてね。で、たぶん代々だ、」

テノールの声に怒りが籠る。この怒りは湯原家の連鎖と、英二の動揺と、両方に対してだろう。
それならば、自分が両方の怒りを受けるべきだ。あの家を護る立場を選んだのは、自分なのだから。
あの家の跡取りと婚約して、妻にする約束をしたのは自分。そうやって家を護ると決めたのは自分の意志。
それなら自分が「家の連鎖」に向けられる全てをも負うべきだ、そんな覚悟が肚に座って腰が据えられる。
いま鎮まりだした心を見つめて、英二は山っ子の声を聴いた。

「はっきり言ってやんよ、周太はね、道を間違えば殺される。この連鎖から逃れるのは、難しいね、」

言葉に、心が撃ちぬかれる。

「…やっぱり、そうなのか?…周太は、このままだったら…あの任務に就いたら、そうなるのか」

ずっと、恐れていた。

恐れていたのは、気づき始めていたから。
気付いていても見たくなかった、けれど、言葉にされてしまえば現実を帯びて迫る。

「そうだよ、ナンの因果かねえ?銃で殺せば銃で殺される、それがアノ家のメビウスリンクだよなあ?とっくに解かってんだろ、おまえなら、」

低く響くテノールが今までの事実を「メビウスリンク」と言って、突きつける。
あの「50年の連鎖」以上の負の連鎖反応を、光一は見た?
そんな問いも封じられたまま、テノールの声は続けた。

「いいか、これは警察官を辞めたから逃れらるかナンて解んないことだ。辞めなくたって逃れられやしない、ドッチも手詰まりだ。
だから。本気で周太と連れ添うなら、普通じゃ無理だ。同じ男で同じ警察官でなきゃ難しい、なにより、本気で愛してなきゃ無理だね。
全部を投げ出しても、自分自身を盾にしてでも護って、周太を愛そうってくらいでなきゃ無理だ。だから俺は、おまえに負けたんだよっ、」

真直ぐな声が、光一自身も刺すよう吐かれた。
真直ぐ見つめてくる透明な目が英二を射抜く、そして透明なテノールが告げた。

「さっき、おまえが言った通りだよ、俺は家を捨てられない。親が死んじまった後、育ててくれたジイさんとばあちゃんを捨てられない。
オヤジとおふくろを馬鹿にしたヤツラへの怒りも捨てられない、俺は、最高のクライマーになることも山も捨てられないんだよっ、
こんな俺はね、所詮、現実では周太と結ばれっこないんだ。それに元からソンナ繋がりじゃない、人間としての道とは別モンだ、だからさあ、」

深い山の浄闇に、山っ子の聲が透明にとけていく。
融けながら低くテノールは、透明な涙と一緒に目の前でこぼれた。

「だから、俺は周太のこと、おまえから奪えなかったんだよ。俺には出来ないんだよ、一生連れ添って護ることが許されないんだよ。
はっきり言ってやる、おまえしか周太のこと護れないんだよ。だから俺は、おまえを周太から奪うことも、出来ないんじゃないか…っ」

痛切な聲に、英二は寄りかかったミニパトカーから背中を離した。
泣いている山っ子の前に立って、真直ぐ向かい合う。同じ高さの眼差しで見つめ合って、光一は唇をひらいた。

「いいか、俺はなあ、おまえも周太も、大切なんだ。だから邪魔したくないんだよ、だから俺、結局は独りになるって覚悟もしてんだ。
おまえらは結婚するだろ?俺は誰か別のヤツと、女と結婚するんだよ、結局、俺は、本気で好きなヤツとは、むすばれないんだ、
どっちとも連れ添うことは出来ないんだよ。だから俺はおまえと『血の契』が出来たの嬉しかったんだ、なのにさあ、ばかやろうっ、」

押し殺した聲が英二を叩いて、透明な目が涙に怒る。
零れた涙を唇に呑みこんで、そして光一は微笑んだ。

「マジ、おまえ馬鹿。ちょっと女から周太が告白されたくらいで、揺れてんじゃないよ。こんな馬鹿に惚れて、俺も馬鹿だね、」

端麗な唇を笑ませて光一は『MANASULU』を見、そして涙の眼差しのまま英二に微笑んだ。

「1分前だね、スタンバイするよ?」

そう言ったテノールはもう、普段の飄々としたトーンになっている。
けれど英二は長い腕を伸ばして大切なパートナーを抱きしめた。

「ごめん、光一、ごめん。俺を赦してくれ、」

赦されるなんて、本当は思えない。

本当は光一は、こんなことに引き摺りこんで良い存在じゃない。
遠い時の向こうから周太に絡まるメビウスリンク、叶わない想い、立場との狭間。
こんなことに光一は泣かせて良い存在じゃない、それなのに、逃げることなく向き合ってくれる。

―こんなことになるなんて、思わなかった、俺は

こんなことに光一を巻き込んだのは、自分。それなのに、一番の望みを叶えてやることすらできない。
この哀しみと、愛しさと抱きしめた腕のなか、鍛えられても細い肩が震えた。

「なにを赦せって言うのさ?…今さら何のことだよ?」
「北鎌尾根だ、」

あの場所が、光一との今の原点。
あのとき蒼穹の点に見た瞬間を抱いて、英二は口を開いた。

「あのとき俺が、もっと考えていたら。おまえは俺に恋愛感情は持たなかったはずだ、そうしたら、こんなに苦しませなかった。
ごめん、光一。俺がいつも自分勝手だから、馬鹿だから、おまえのこと追詰めてる。今だってそうだ、なのにどうして、嫌わないんだ?」

抱きしめて頬よせて、そっと離れて瞳見つめ合う。
見つめた先の透明な目は水鏡になって、梢の月が映りこむ。この美しい目の持主を、どうしたら自分は幸せに出来るのだろう?
祈るよう白い頬の涙をキスで拭うと、水鏡の目は温かに笑んでくれた。

「だから言ってるよね?もう惚れちゃったんだ、仕方ないだろ?だから、赦すも赦さないも、無いね、」

透明なテノールが真直ぐ言って、笑ってくれる。
どうしてこんなに潔い?この真直ぐな無垢に心響くのを見つめて、英二は正直に告げた。

「こんなこと言うのは、間違っているかもしれないけれど。光一が結婚しても、俺は光一のこと愛してるよ。きっと、今よりも、」

きっとこの1分後も、今より想いは深くなる。
そんなふうに時を重ねて9か月、並んで共に笑って泣いて過ごしてきた。だから何年か先は今より深い絆があるだろう。
この今と先の想いを抱きしめて、英二は大切な唯一人に約束をした。

「俺と光一は、結婚っていう形では結ばれない。でも、誓うよ?俺は一生ずっと、アンザイレンパートナーとして光一と連れ添うから。
光一だけだ、俺と『血の契』で結ばれて繋がれているのは。これは事実だ、周太にも言えない秘密で、俺と光一は結ばれてる、ずっと、永遠にな」

これも、永遠。
山っ子との『血の契』を自分は永遠に抱いている。
その想いを透明な目に見つめて、英二は永遠のパートナーに笑いかけた。

「光一、約束のキスさせて?ずっと俺といてくれるなら、」

透明な目が見つめて、眼差しがふれあう。
ふれあう眼差しに無垢の瞳は微笑んで、透明なテノールが笑った。

「今はダメだね?見ろよ、20時だ。入山するよ、」

からり笑って『MANASULU』の文字盤を見せると、するり腕から光一は脱け出した。
ミニパトカーの後部座席からザックを出し、英二にも渡してくれながら雪白の貌は嫣然と微笑んだ。

「お仕事モードになってね、ア・ダ・ム?可愛いイヴと連れ添いたかったら、言うコト聴いて?」

ふざけたような話し方、けれど光一はメッセージを籠めてくれている。
渡されたザックを背負いあげると、英二は光一の顔をのぞきこんだ。

「言うこと聴くよ、イヴ。3秒後にね、」

笑いかけ、唇に唇を重ねてキスをする。
ふれる唇の吐息に花の香を感じて、すぐ3秒で離れると英二は微笑んだ。

「続きは寮に戻ってからな、光一、」

微笑んだ至近距離、月明かりに雪白の貌が羞むのが見える。
たぶん今、頬は桜色なんだろうな?そう見つめた先で、透明なテノールが微笑んだ。

「マジ、エロ別嬪だね、おまえってさ、ほんと悪い男だね、」
「もう解ってるだろ?」

笑って答えながらヘッドライトを点けると、樹幹の影が浮びあがった。
見上げた梢の向こう、欠け始めの月は雲に明滅していく。

「うん、雲に隠れた瞬間に紛れたら、ばれ難いかもね、」

救助隊服にウィンドブレーカーを羽織って、からり光一が笑った。
いま雲間から射す月光に雪白の貌がまばゆい、秀麗な笑顔に英二は笑いかけた。

「そうだな、今日の天気はついているかもな?」
「だね、」

ザックを背負いながら頷いた顔は楽しげで、けれど現場に入る緊張が透り始めている。
これから山での捜索に入る、ひとつ呼吸して山の夜を胸に納めると、英二は微笑んだ。

「今日もよろしくな、国村、」
「うん、よろしくね、宮田、」

ふたり山岳救助隊員の顔になって、登山靴の足を踏み出した。
担当コースは天祖山から長沢背稜に入り、雲取山頂から小雲取山、そして山頂の避難小屋へと折り返す。
このコースは無人の家屋が3つ、水場もある。急な九十九折を登りあげながら、低い声で光一が言った。

「…ここ登ってさ、すぐ水場だろ?ちょっと足跡が無いかチェックしない?」
「うん…小雲取のと同じのがあったら、ビンゴかもな、」

お互い低めた声で話し合う。
もう最初の無人家屋の大日神社も近い、もし犯人がいたら声で気づかれたくない。
ヘッドライトの向きを注意しながら歩いて、水場に辿り着いた。

「足跡、薄いけど…あるね、あのときのと似てる、」

細い目が地面を見つめて、頷いた。
見つめる先の足跡は風化しかけているけれど、水場の湿り気のお蔭で形状は残っている。

「…この感じだと、今日ではないかもな?」
「だね、」

シャッター音を消しながら足音を撮影し、立ち上がる。
また歩き出して暫くすると、月明りに大日神社の社殿が浮かんだ。
ここは建物の傷みが見られるけれど、風雨を凌ぐ程度は出来る。

「…じゃ、行こうかね、」

同じ齢でも階級も年次も上の光一が、静かに指示を出す。
救助隊服の腰に装着したホルスターから拳銃を抜いて、ふと隣を見ると特殊警棒を持っている。
嫌な予感に英二は、そっと尋ねた。

「…光一、拳銃は?」
「いちお、持ってるケド…」

言いながら見せる右腰には、ホルスターが提げられている。
それでも疑わしくて英二はホルスターにふれた。

「…あ、中身、入ってるな?」
「当たり前だね…ケツ触られるかと思ったよ、」

細い目を悪戯っ子に笑ませてると、白い顎を傾けて社殿を指した。

「人の気配は、無いケドね…」

そっと囁いて、足音と気配を消しながら社殿へと歩み寄る。
ライトで照らす床下には何もいない、注意しながら朽ちそうな階を登り社殿の戸口に立った。
耳を澄ませ物音を聴きとると、人の気配はやはりない。それでも周囲に注意を向けながら、古びた木戸を押し開いた。

ぎぃっ…

経年の軋みが響いた空間は、塵埃がライトに照らされる。
降積もった埃の上には登山靴の踏み跡と、人間が横になったような痕跡が残されていた。
およそ人間1人分くらいの広さを埃がどかされている、その上に積もった埃は薄い。

「…うん、ちょっと前に寄ったって感じだね…」
「そうだな…でも、気配が無い、」

囁き合いながら社殿内をライトに照らし、確かめる。
外の音にも注意しながら内部を探索し、それから外へと戻った。

「ここじゃなかったね、でも来た跡は新しそうだよね?ってことは、こっからそう遠くないトコにいるね、」

テノールの声が捜査結果を切り取るよう話す。
それに頷いて英二は、無線を後藤副隊長に繋いで短い報告を済ませた。
ここを出ると、落葉松林からブナ林へと続く急登になる。

「さっさと行こう。他のポイントにヤツがいるんなら、急行しやすい場所にいたいよ、」

光一のいう通りだろう。
無線を仕舞いながら歩きだし、英二は答えた。

「まずは水松山まで、急いで出たいよな、」
「だね、藤岡が言っていた酉谷の避難小屋とかも、怪しいだろ?」
「うん、水場があって無人で、駐在所が遠いから居やすいと思う、」

話しながら早いピッチで登りあげていく。
梢から見える月はときおり雲隠れに明滅しては、歩く道を暗く明るく見せている。
足元も適度の乾き具合で歩きやすい、この恵まれた状況に英二は微笑んだ。

「昨日から晴れで良かったよな、もし足場が悪かったら夜間捜索は、危険すぎる、」
「そうなんだよね、だから昨日、副隊長も今夜の決行に決めたんだよ、」

山では天候が命運を左右する、それは低山でも変わらない。
もし雨天であれば柔らかな山の土は水分を含み、足場は脆くなり滑落事故も起きやすい。
そして朝方には濃霧となる、山での霧は視界を奪われて道迷いや転落を誘発する。
こんなふうに夜間の捜索は天候次第の面も大きい、だからこそ今夜中にケリを付けたい。
そうした緊迫感もある今夜の山行だけれど、光一はブナの梢を見上げて愉しく笑った。

「ブナが、夜の呼吸してるね、」

言われて辺りを見回すと、ふっと清々しい夜気が香たつ。
この香はどこか懐かしくて慕わしい、歩きながら英二は微笑んだ。

「7月に周太と美代さん、大学でブナ林に行くらしいな、」
「らしいね?美代、はりきってるよ。どこのブナ林かは、まだ決まっていないらしいけどさ、」
「周太も楽しみにしてるよ、すごく、」

答えて、きりりと心が締められる。
なぜ周太が楽しみにしているのか?それが切ない想いを呼んでしまう。思わず溜息吐いた英二に、光一が笑ってくれた。

「ほら、また先のコト考えて、暗くなってるね?おまえって、ちょっと根暗なトコあるよな?」
「あ、やっぱりそう思う?」

図星を指されて英二は微笑んだ。
それは自分でも自覚がある、素直に認めて英二は思うままを言った。

「俺、つい考えすぎるんだよな?堅物すぎて、慎重になり過ぎるから、つい防御線引くために暗い方に考えるんだよ。
だから光一の明るいとこに救われてるし、美代さんと話すのも楽しいよ。周太も根が明るいんだよな、そういうとこに俺、いつも癒されてる、」

出会った頃の周太は暗い雰囲気だった、でもそれは父親の事情ゆえに孤独を選んだ為でいる。
もう今の周太はおっとりと穏やかに明るくて、1年前とは別人のように美しい。そんな息子を周太の母は「元に戻ってきた」と喜んでいる。
あの13年間を経ても周太の本質的な明るさは消えなかった、きっと普通に育ったら相当のんびりと明るい性格だったろう。
苦労をする前の小さい頃は、さそ和やかで可愛かったろうな?ふっと微笑んだ英二に光一が笑いかけた。

「小さい頃の周太ってね、ノンビリしてて、大人しいけど明るかったよ。楽天的でさ、純粋で可愛くて、きれいだった、」
「あ、やっぱりそうなんだ?」

想ったとおりだったな?
それがなんだか嬉しい、そして願いの想いを英二は口にした。

「その素顔に俺、周太を戻したいんだ。幸せしか知らなかった頃の、のんびりと明るい周太の笑顔を見たいよ、」

いつかこの願いは、叶うのだろうか?
この祈り穏やかに微笑んだ英二に、透明なテノールが予祝に笑ってくれた。

「きっとね、おまえになら出来るよ?周太のこと本当に幸せに出来るの、…英二だけだから、」
「ありがとう、」

呼んでくれた名前の想いに、英二は綺麗に笑った。
笑いかけられて、羞んだ色が雪白の貌にゆらぐ。そんな様子が愛しいと想うのは、もう何度めだろう?
こんな想いと登っていく山の闇に、月光が照らす木造の建物が現われた。

「…さて、次のポイントだね」

声を潜めて先ほどと同様に中を捜索する。
ここは山頂にある天祖神社の会所であり、中は掃除され綺麗だった。

「踏み跡も無さそうだな、」
「うん、きれい過ぎて寄り難かったのかもね?いかにも人が来そうだし、」

話しながら少し登っていく。
そして天祖山の頂に辿り着いたのは、21時すこし過ぎていた。

標高1723,2m天祖山。
八丁橋から山頂まで標高差約1,000mになる急登の先、山頂に天祖神社が佇む。
ここで山開きを行う時は、青梅署山岳救助隊からも代表者が参列する。
そのためもあって社殿は立派で整えられているが、中を確認すると踏み跡が幾らか見られる。

「…寄ったのかな?」
「うん…ここって急登続きだろ?たぶん、疲れたんだろうな、」

こんな推理をすると、犯人も生身の人間だと実感する。
そんな生身の人間が、同じ人間に凶器を振り上げてしまう。どうして、そんな事になるのだろう?
こんなふうに犯罪が巣食ってしまう人間の哀しみに、英二は溜息を吐いた。

「おまえ、また暗くなってるね?今度は何?」

外へ出て歩き出すと、明るいテノールが尋ねてくれる。
今度は下りになる道を歩きながら、英二は素直に口を開いた。

「さっき俺、疲れたんだろうなって言っただろ?あのとき、犯人も生身の人間なんだなって思ってさ。そういう生身の人間が、
物を盗るため同じ人間を傷つける。それが哀しいよ、そういう人間は自分さえ良ければいいって、考えているのだろうなって、」

これが人間の醜悪な側面だろう。
けれどこれも他人事では無い、だって自分は周太の命を奪おうとしたのだから。
こんなふうに罪はいつも、生身だからこそ起こしてしまう。そんな人間の哀切は、大学時代に学んだ法曹の世界にもよく思った。

「おまえの言う通りだろうね?自分さえ、って考えが犯罪を創るんだろうな、」

透明なテノールが答えてくれた言葉が、自分事に刺さって痛い。
けれどこれでいい、この傷みを思い知るほどに自分は、きっと周太も光一も、出会う誰かも大切に出来るから。
そんな想いを抱いた時、光一の無線が受信になった。

「はい、国村です…はい、……うん、それなら水松山で待機します、…はい、」

もしかして、そうだろうか?
無線内容に予兆を抱いて見つめる隣、光一は無線を切ると言った。

「藤岡がビンゴだ、酉谷避難小屋で似顔絵そっくりの男を発見だよ。で、コッチ方面に逃げたらしいね、」

無線内容をコンパクトにまとめてくれる。
そして光一は唇の端を挙げて、悪戯っ子に哂った。

「長沢背稜は、酉谷からココまでの枝道なんて、タワ尾根くらいのモンだ。あっち行ったらハズレだけど、真直ぐ来ちゃう可能性大だよね?」
「そうだな、白岩小屋を目指すんじゃないかな?」

昨夜、登山図と睨めっこした逃走ルートを英二は脳に再現した。
水曜日に遠野教官も言っていた「戻る可能性」も考えると、犯人の目的地と想定しやすい。

「あそこは水場があるし、秩父方面へ逃げられる。たぶん元いた場所だから、逃走先に考えやすいかな、って思う、」
「だね、で、あそこへ逃げられると厄介だね、埼玉県警の管轄になっちゃうだろ?管轄外だ、」

これが一番、困ったことになる。
昨夜も考えたことを英二は、駈けるよう登りながらパートナーに言った。

「そのこと、後藤副隊長にも上申してある。だから埼玉県警から人が詰めているとはと思うけど、」
「だったら尚更、ここで食い止めたいね?山狩りの言いだしっぺは俺たち、青梅署なんだからさ、」

話しながら足を速め、梯子坂ノクビレを一挙に登りあげる。
そして水松山頂を踏んだ時、かすかな足音が聞えてきた。

「…来るね、」

低いテノールが囁いて、ヘッドライトを消す。
月明かりの翳に沈みながら尾根に佇んで、足音の時を待つ。
微かに息を乱す揺らぎが交りだす、もう近くまで来ているだろう。

―こういうの、初めてだな

実際に犯人と現場で対峙することは、初だ。
それも連続強盗犯で狂気に陥っている可能性が高い、予測がつかない相手だろう。

「…近い、」

低いテノールの囁きに、英二は拳銃をホルスターから抜いた。
光一も特殊警棒を右手に携えている、あくまで拳銃を使いたくないのだろう。
そんな光一は剣道でも段位以上の実力があると、御岳神社の奉納試合で英二も見た。
そして今回は飛び道具は無い相手だから、まず光一なら警棒で充分に制圧できるだろう。

敢えて拳銃を使えと言う必要もないな?
そう判断しながら、ヘッドライトのスイッチに左手をスタンバイさせる。
そして足音が大きく近づき人影が浮んだ瞬間、低くテノールが命じた。

「行くよ、」

ヘッドライトが点灯し、人影が白光のもと照らされた。
光線に目眩んでいるその顔は、瀬尾の描いた似顔絵にそっくりだった。





(to be continued)

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第51話 風待act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-07-25 23:49:23 | 陽はまた昇るside story
trace、ずっと探して



第51話 風待act.4―side story「陽はまた昇る」

金曜日の授業が終わると、英二は藤岡と一緒に電車に乗り込んだ。
京王線から南武線に乗り換えてシートに落ち着いてから、藤岡が口を開いた。

「やっぱりさ、秩父から奥多摩に入ったルートって長沢背稜に入ってくる道かなあ?白岩小屋に水場あるし」

強盗犯の入山ルートについて、藤岡も英二と同じ考えでいる。
英二と同じように藤岡も登山図をにらめっこしてきたのだろう、笑って英二は頷いた。

「うん、多分ね。そろそろ長沢背稜はシャクナゲのシーズンだから、人出が心配だな、」
「だよな?明日明後日、あの辺に出られると拙いよなあ?あそこに入ってくルート、注意した方がいいかな?」

藤岡が今日の捜索の提案をしてくれる。
こんなふうに今、車内で互いの意見交換をしたら後藤副隊長への上申も早いな?考えながら英二は答えた。

「そうだな。そうすると、あそこに近くて水場のある小屋も可能性が高くなるな?」
「だったらさ、酉谷の避難小屋とかも考えられるかな?」
「うん、一週間になるから、結構移動出来るし…あれ、」

答えながら登山図を出そうとして、英二は忘れ物に気がついた。
いつも鞄に入れている登山図が、無い。

―あ…昨夜、デスクで見たまま、置いてきたんだ、

ケースにしまった所までは覚えてる、けれど鞄に戻した記憶が無い。
きっとデスクの上に置いてきた、左手首の時計を見ながら英二は、藤岡に言った。

「悪い、藤岡。俺、忘れ物したから一旦、学校に戻るな?先に行ってて、」

そう告げて途中下車すると、急ぎ往路を折り返した。
そして警察学校の門をくぐったのは、ちょうどクラブ活動が終わる時刻だった。

―もしかして、周太に少しでも逢えるかな?

そんな期待に心ときめいてしまう、これではまるで中学生の恋みたいだ?
こんな自分に呆れながらも幸せで、微笑んで英二は華道部の部屋に踵を向けた。
すこしだけ足早に歩いていく廊下は、放課後の静けさと傾きかけた陽射しに、どこか切ない。
こんなふうに歩いて想う人を探す、それが1年前の自分と重なって懐かしい。

―こんなふうに周太のこと探して、いつも独り占めしたくて…

少しの時間でも多く、周太の隣を歩きたかった。
あのころの自分の想いと今と、よく似ていて大きな違いがある。
あのころは片想いで空回りが痛くて、想いが通じない孤独感が哀しかった。
けれど今は罪を赦された痛みと、想い繋がれても離れてなくてはいけない矛盾への哀しみが、苦しい。
この今の痛みも哀しみも、あの頃より深く抉られて苦しくて。けれど周太に繋がる痛みと哀しみであるなら、幸せだと思えてしまう。

―俺の恋愛って、ちょっとマゾかな?

ふと思い浮かんだ考えに、我ながら可笑しい。
でもこれは図星かもしれない、前に光一からも指摘されたことがあった?
そんなことを考えながら歩いて、すこし黄昏の降りだす廊下を曲がろうとした。

「…え、」

かすかな声が唇こぼれて、足が止まった。

止まって進めない角の向こう、視線が竦んでしまう。
竦んだ視線の先には青い夏服の、白い花を抱いた端正な後姿が佇んでいる。
もう見慣れた洗練された背中はいつものように綺麗で、愛しくて抱きしめたい。

けれど今、その前には?

「…なんで、」

ぽつんと零れた言葉の向こう、女性警官が周太の前に立っている。

こちらに背を向けた周太に笑いかけながら、楽しげに話をしている若い女性。
見たことがある華奢な背格好は、たしか華道部にいる初任科教養の訓練生だろう。
そう記憶のファイルから彼女を発見した時、壁際から見つめた向こうから声が聴こえた。

「…湯原さんのが好きです、」

いま、聴いた言葉は、なに?

今、彼女は誰に何て言ったのか?
今、自分はどういう現場に立っているのだろう?

―華道部って、女が多いよね?で、周太は首席で真面目で、マジ可愛いよな…周太、俺たちも惚れちゃうくらい、イイよね?

越沢バットレスで光一に言われた言葉が、頭を廻る。
ぼんやり見つめた壁の向こう側で、彼女は頬染め微笑んで、廊下の向こうに去っていく。
その笑顔は恥ずかしげでも幸せそうで、明るかった。



日没、奥多摩交番に山岳救助隊員の大半が揃った。
残りの隊員は町中での犯行発生に備え、各自駐在所にて待機している。
青梅署から刑事たちも奥多摩交番に到着すると、現場指揮の後藤副隊長が口火を切った。

「まさか夜間の山狩りをするなんてなあ、あちらさんも思っちゃいないだろうよ。そこが俺たちの狙い目だ、今夜中にケリつけようや」

深く太い声が笑って、和やかな空気が生まれだす。
いつもながら明るく頼もしい後藤節は、笑顔で話しを続けた。

「埼玉県警での事件発生から2ヶ月、雲取山頂での被害者発見からは1週間。これだけの期間を秩父と奥多摩で潜伏している。
ここまで商店での目撃情報は無いが手配書にもある通り、特徴が少ない顔だから解かり難い所為もあるだろう。でも今は似顔絵がある、
これは雲取山頂の被害者の証言から描かれているが、秩父での被害者たちにも似ていると言われたそうだ。皆、顔をよく記憶してくれ、」

あらためて配られた手配書の似顔絵は、1週間前に瀬尾が描いた。
あの状況でこれだけ描けるのは大したものだろう、友人が描いた絵を記憶しながら英二は副隊長の話に注意した。

「これから梅雨入り前まで、新緑を楽しむハイカーは多い。事件の後で注意は呼びかけているが、明日も混雑が予想されるよ。
なんとか今夜に治安を戻したい。そのために今から各自担当ルートで、明朝8時まで就いてもらう。だが夜間だ、無理は絶対にするな。
疲れたら即ビバークしてくれ、疲労を溜めず正確な判断力を保ってほしい。あと道迷いに気を付けろ、日中と夜では山の空気は別物だぞ、」

いつもながら温かい後藤の指示、けれど遭難救助とは違う緊迫感がある。
そしていつもの任務との大きな違いを、後藤副隊長は指示した。

「今回は発砲許可が出た。全員、拳銃と警棒は携帯しているな?もし持っていないヤツがいたら、今すぐ取りに戻れ。これは命令だ、」

発砲許可が出たことは英二にとって、今回が初めてではない。
けれど、ここまで命令として明確に言われたことは、初めてになる。
この発砲許可の理由は多分、青梅署では英二が一番身をもって知っている。あの被害者を応急処置したのは英二だから。
あのとき知見した考えは既に後藤副隊長に報告した、その内容を後藤は隊員たちに告げた。

「相手は鉄製の凶器を携帯している、それで被害者を殴打して金品と食糧を強奪しているよ。そしてな、被害者の怪我は酷い。
雲取での被害者は頭部裂傷と打撲だが、秩父での被害者はまだ入院している方もある。共通するのは出鱈目な殴り方だということだ。
おそらく犯人は2か月以上の山での逃亡に、精神的な混乱を起こしている可能性がある。だからな、突発的に襲われる可能性を考えろ。
おとなしそうでも急に暴れる可能性も高い、精神異常は一番危険だよ。万が一の時は迷わず発砲しろ、これ以上の被害を防いでほしい」

1週間前、犯行現場になった小雲取山頂は血痕が生々しかった。
あの被害者の受傷状態は秩父の被害者よりは軽い、けれどそれは彼が持っていたストックで反射的に防御したからだ。
それでも彼の頭部には4cm程の裂傷と打撲痕があった、そしてストックは強打により折れ曲がっていた。
この状況と2ヶ月以上の山行という条件から、犯人の精神的疾患が発生している可能性を考えてしまう。

―もし、本当に精神異常なら…発砲も仕方ない、か

精神異常者の場合、いわゆる馬鹿力が怖い。
判断も当然ながら正常ではない、手加減が出来ず相手を殺してしまう可能性がある。
そして残雪が残る4月から2ヶ月間を孤独に山中で過ごした事が、どんな影響を彼に及ぼしているのか?
寒さと、孤独と、野生獣や逮捕の不安感。それらに囲まれて正常を保つことは難しい。

こうした犯罪心理を英二は在籍した法学部でも学んだ。
あれらの事例から考えると、今回の犯人像はどんな姿になるだろう?
そんな思考と見つめる先、後藤副隊長は緊張のなかでも大らかに笑ってくれた。

「いいかい?必ず全員、無事に帰還だ。あと、定時連絡を欠かさないこと。20時ジャスト入山で頼むよ、以上だ、」

全員、無事に帰還。

これは山ヤの警察官なら誰もが金言だろう。
それは富山県警も長野県警も、どこに所属しても変わらない。
そして若い警察官たちを山の現場に送りこむ指揮官の想いも、変わらない。

―副隊長の今の気持ちは、きっと怒って、泣いてる

犯罪者に立ち向かうのは、都心であっても危険が多い。
その現場が「山」であることは危険要素が多すぎる、しかも夜間捜索は無謀という意見もあったはずだ。
それでも、これ以上の被害を防ぐという選択が警察官にはされるだろう。
けれど、きっと後藤副隊長は本当は、犯人に怒っている。
自分の大切な部下たちを危険に晒すことを、本当は誰よりも苦しく感じているから。
そして犯人自身の危険の為に怒っている、この「発砲許可」が下される結果を創った犯行を哀しんでいる。
最高の山ヤの警察官だからこそ、山を廻る全てを愛し、生命の尊さを知っているから。

―出来れば誰も、発砲しないで済むといい…無事に逮捕出来たらいい

この望みを、自分は祈ってしまう。
自分が愛するひとが進む道を想う時、尚更に「無事に逮捕」を望みたい。
そう祈りを抱きながら英二は、光一とミニパトカーに乗車した。
シートベルトを締めるとすぐ担当地点に向けて走りだす、軽やかにハンドルを捌きながら光一が笑った。

「これから12時間の連続勤務だね、ま、俺にとっちゃ夜の山歩きなんて、最高だけどさ、」

楽しげなテノールが謳うようでいる。
いま光一の心は山で無礼を働く犯人への怒りが大きい、それでも夜の山歩きは楽しいのだろう。
こんなふうに根が陽気なパートナーが自分は好きだ、この陽気さに明るく照らされて英二は笑いかけた。

「おまえって夜の山が好きだよな、雪山でも午前2時出発とかザラだし、」
「うん、好きだね。夜は樹の呼吸も穏やかでさ、静かで、居心地が良いんだよね。星もきれいだろ?」

答えながら、薄闇を透かす底抜けに明るい目が笑っている。
その目が、ふっと英二を見、また前に向き直るとテノールの声が穏やかに尋ねてくれた。

「で?おまえ、何があったワケ?」
「え、」

急な問いかけに、英二は運転席を見た。
運転席の光一は、視野を注視しながらもまた英二を見、唇の端をあげて微笑んだ。

「おまえの美しい目がね、ずっと今日は泣きっぱなしなんだけど?」

言われて英二は目許にふれた、もちろん涙は出ていない。
けれど怜悧な光一には感じるものがあるのだろう、観念して英二は素直に微笑んだ。

「俺は本当に馬鹿で、弱い。それを思い知って痛くて、昨夜からへこんでる、」
「ま、確かに馬鹿だよね?」

からり笑って光一はハンドルを捌いていく。
まだ灯りが見える山間の集落を抜け、車窓が暗くなっていく。
そして闇の濃くなった車内に透明なテノールが、温かに笑んでくれた。

「吐いちまいな、今ここで。これから俺たち、ちょっとヤバい現場に行くんだからね。集中を欠くようなコトは、今すぐ解消しな、」

言ってくれる言葉が、沁みる。
こんな男が自分のアンザイレンパートナーで『血の契』、それが勿体ないよう想えてしまう。
こういう男に相応しい自分に少しでも近づきたい、そんな想いを見つめて英二は正直に口を開いた。

「一昨日の夜、俺は周太を、殺そうとしたんだ。離れる恐怖と不安に負けて、」

瞬間、透明な目が瞠かれて、光一の呼吸が止まる。
それでも直ぐ吐息をひとつ吐くと、薄闇の向こうから問いかけてくれた。

「どういうシチュエーション?」
「ベッドに入って、眠っている周太を見ていた時だよ、」

答える自分の声は、静かだった。
どこか凪いでいく心を見つめながら、英二は言葉を続けた。

「電気を消して、暗くなった部屋で周太を抱きしめて。いつもどおりに眠ろうとして、周太の寝顔を見つめていたんだ。
すごく良い夢を見てる、そんな顔で周太、微笑んで眠ってた。この顔をずっと傍で見ていたい、そんなふうに俺、祈っていたよ」

昨夜、深い眠りのなか安らいだ微笑は無垢で、あどけなくて、推さなく見えて。
あの寝顔が忘れられないまま心に見つめて、英二は微笑んだ。

「静かな薄暗い部屋で、時計の音だけが聴こえてきた。それが、足音みたいだった、離れる瞬間が近づいてくる足音だよ、
その足音を、時間を、止めてしまいたい。このまま抱きしめて、永遠にキスをしたまま、ずっと見つめていたい。そう思って俺、」

眼の深く熱が生まれて、あふれた熱がひとすじ頬つたう。
伝う熱がゆっくり冷やされるのを感じながら、英二は想いを声に変えた。

「人間って、3秒で意識を消すことが出来るんだ。脳に繋がる血管を正確に止めたら、たった3秒…俺は手を周太の首に掛けた、
キスをして、そのまま手に力を入れようとして…でも、手は首から離れたんだ。そして俺は気づいたよ、自分は本当は弱いってこと、」

ふわり、花の香が隣から届いた。光一が深くため息を吐いた香だろう。
この吐息は怒りだろうか?蔑みだろうか?もう、このザイルパートナーに嫌われたかもしれない。
そう感じる心に傷がまた抉られていく、けれどこの痛みも罰だと思うと少し安らいで、英二は微笑んだ。

「絶対に護りぬいて幸せにする、一緒に生きよう。そう俺は周太に約束してきた、けれど昨夜の俺は、自分の孤独に負けたんだ。
周太と離れるのが怖くて、寂しくて、だったら死んで時を止めて一緒にいたかった。もう本当は、すこしも離れたくないんだ、俺。
でも、こんなこと自分勝手だって解ってる。なによりも後悔してる、だって俺、生きている周太が良い、抱きしめて幸せでいたい、」

こんな自分は卑怯だ、こんな話を光一にする自分も卑怯で、最低だ。
そんな自責と本音を英二は、率直なまま言葉に綴った。

「裸で抱き合う時、ふれる肌の温もりが幸せなんだ。掻き上げる髪の匂いも、付合う前からずっと好きだ。
見つめてくれる目が愛しいよ、吐息がオレンジの香なのも好きだ、キスすると甘くて幸せで、庭の夏みかんを想い出せてさ。
優しい声も、拗ねてくれる声も、全部好きなんだ。生きている周太と一緒にいたい、ずっと一緒に生きていたい。だから後悔してる、
こんなに生きて一緒にいたい癖に、自分の手で壊そうとした俺は馬鹿で最低だ。それなのに、周太は俺を赦して、抱かせてくれた」

ふっと途惑う気配が運転席に生まれ、テノールが尋ねた。

「ガッコの寮で、えっちしたってコト?」
「ああ、セックスしたよ、全部ね。それくらい周太のこと、欲しいから、」

正直な答えに、車内の闇が固くなる。
途惑いと哀切と、壊れるような痛みが空気を固くしてしまう。
この固くなる想いに罪悪感を背負いながら、そっと心裡に英二は頭を下げた。

―ごめん、光一。解って言ってるんだ、残酷だって

本当に自分は残酷だろう、こんなに周太を求めすぎる自分を光一に話すなんて。
それを解っている、それなのに直情的すぎる自分は嘘も吐けない、残酷でも現実を突き付けてしまう。
こんな自分を嫌ったほうが、光一は幸せかもしれない。けれど、吐息ひとつで光一は呆れ半分で笑ってくれた。

「マジ馬鹿だね、おまえって。あそこではソレって違反だろ?ストイック堅物な癖に、ソンナに我慢出来なかったワケ?」
「うん、したかったんだ。笑ってよ?」

暗いフロントガラスの向こう側、照らすライトに光の道が見える。
その明るさを見つめながら、英二は微笑んだ。

「ごめん、光一。本当に俺、周太ばっかり恋してる。こんなに手離せなくて、我慢できなくて。ほんとに狂ってるよ、俺の恋愛は。
だから逆に、光一に恋していなくて良かったと想ってる。きっと俺、光一に恋したら今以上に傷つけるから…身勝手に束縛しすぎてさ、」

我ながら可笑しいと思う、こんな自分が。
この今も身勝手な自分、それでも、もう全部白状したくて英二は口を開いた。

「光一は自由な山っ子だ、でも俺が恋したら、きっと束縛して自由を奪うよ?離れたくなくて無理矢理に掴まえて、ダメにする。
おまえは農家の長男で、家を継いで結婚するんだろ?でも、俺が恋していたら結婚なんか許せない、きっと今回と同じことをする。
おまえが奥さんと抱き合うことが許せない、おまえを欠片も渡したくなくて殺すかもしれない。俺の恋愛は、そういう弱さがあるんだ」

運転席から視線を感じる、けれど振り向かない。
ただフロントガラスに映る光の道を見つめて、英二は穏やかに告げた。

「本当に俺は馬鹿で弱い、それがよく解かったよ。周太が一緒にいてくれるから、周太に相応しくなりたくて強くなれてるんだ。
だから一昨日の夜は、周太が離れてしまうと思った途端、ボロボロになったんだよ、俺。犯罪も規則違反も、なんでも出来る位にね。
こんな男なんだ、恋愛に応えてもらえないと気違いで、犯罪者にもなる。だから、周太のおじいさんの友達のこと、俺は責められない。
こんな俺でも周太は赦してくれたんだ。だから思ったよ、きっと、おじいさんも彼を赦している。でも、俺は自分を赦せない、永遠に」

周太の祖父、晉は親友と信じた男に殺された。彼は晉をライバルとして認め、心から晉を尊敬し、そして愛していた。
その愛情が狂気に変わった結末が、ふたりが出会い共に学んだソルボンヌでの無理心中だった。
それは、警察学校寮の一室で英二が周太を殺そうとした事と重なってしまう。
どちらも想い出の場所で相手を見つめて、永遠に自分のものにしたくて、命を奪おうとしたのだから。
この事実に微笑んで、英二は一昨日からずっと訊きたかった問いかけを、光一に贈った。

「だからこそ俺は、ずっと周太の幸せを護りたい。一緒に生きて、周太を笑わせていたい。一昨日から、そればっかり願ってる。
なあ、光一?こんな俺でも、まだ、おまえのアンザイレンパートナーでいられるか?俺のこと、『血の契』の相手として認められる?」

言い終えたとき、車は停りライトが消えた。

山の闇が窓を透して車内を満たす。
ハンドルに置いた手のクライマーウォッチを見、光一は微笑んだ。

「19時40分、あと15分のんびり出来るね、」

言ってキーを抜き取り、ハンドルにかけた白い手へと額を付けた。
そのままこちらに雪白の顔を向けると、透明なテノールは微笑んだ。

「言ったよね、おまえに惚れてるんだって。それも永遠に変わらないよ。でなきゃ俺は、告白なんてしない、」

透けるよう明るくて、どこか切ない声が告げてくれる。
その声の温もりに熱が生まれだす、受け留められた安堵に涙ひとつこぼれて、頬伝う。
そんな英二に笑いかけて、白い指は涙を拭ってくれた。

「マジ泣き虫だね、おまえってさ?ほんと、ほっとけない。周太も大変だね、こんなヤツに魅入られちゃってさ、」
「…ごめん、」

唇から零れた言葉は、精一杯の想い。
たった一言だけれど、それでも想いがあふれて仕方ない。
その想いの全てを受け留めたよう光一は、左腕の『MANASULU』を示しながら綺麗に笑ってくれた。

「まったくさ、泣き顔もマジ綺麗だよね。ほんと眼福だよ、こんな別嬪じゃ俺が惚れたって、仕方ないよな?
しかも、この時計と『血の契』で縛られちゃったしね。なのに今さら逃げるようなコト言うんじゃないよ、最後まで責任とってよね?
ずっとアンザイレンパートナーでいてよ、約束は全部果たしてよね?マナスルだって俺と登るんだろ、警察組織でも出世階段、昇れよな」

そう言ってくれた顔は、底抜けに綺麗で明るくて、優しい。
こんな笑顔の男がどうして、こんなに自分を想ってくれるのだろう?どうして出逢えたのだろう?
そんな数々の不思議と想いのなかで、英二はきれいに笑った。

「光一が望んでくれるなら、ずっとパートナーでいるよ。でも、こんな犯罪者みたいな男でいいわけ?」
「俺も割と過激なほうだからね、ちょうどイイんじゃない?」

からり笑って応えると、光一は言ってくれた。

「俺たちドッチもエロいし、ホントは性格激しいし、取扱注意なタイプだろ?毒を以て毒を制するみたいなヤツで、良いカップルだよね、」

取扱注意なタイプ、毒を持って毒を制する。

並べられた言葉たちが可笑しくて、なんだか嬉しくて。
こんなふうに光一はいつも、どんな場合でも、英二の心を明るませてくれる。
この明るさへの想いがまた深くなるのを見つめながら、英二は笑って応えた。

「ありがとな、似た者同士って言ってくれて。こんな俺に言ってくれて、ありがとう、」
「どういたしまして、」

さらっと笑って光一は扉を開いた。
英二も一緒に助手席の扉を開くと、山の夜に降り立った。
すると光一は英二を振り向いて、唇の端を上げると聞いてきた。

「で?ホントは他にもマダあるんだろ、何があったかゲロしちまいな、あと5分で言うんだよ、」

やっぱりお見通しなんだ?
笑って英二は登山靴の紐を確かめると、立ち上がって口を開いた。

「今日の夕方、俺、見ちゃったんだ。周太が告白されてるとこ。それで迷ってる、ほんとに俺が傍にいていいのかな、って、」

告げた言葉の俤に、白い花が見えた。





(to be continued)

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第51話 風待act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-07-24 22:18:13 | 陽はまた昇るside story
※念のため中盤R18(露骨な表現は有りません)

“仕方ないから”そして、瞬間に約束を



第51話 風待act.3―side story「陽はまた昇る」

「…えいじ?泣いてるの?」

優しい声が名前を呼んでくれる。
けれど応える資格が自分にあるのか、解からない。

「どうしたの?…なぜ、泣くの?」

優しい声が訊いて、ふわり腕が肩に回される。
温もりに肩も心も包まれてしまう、もう、心ほどかれて言葉が落ちた。

「周太、俺は今、きみのこと…っ、」

迫り上げた嗚咽に、言葉が途切れる。
それでも英二は正直なまま、言葉を押し出した。

「俺は今…君を殺そうとした、」

もう、嫌われる。

きっと怖がられる、きっと捨てられてしまう。
こんなに弱くて卑怯な自分は呆れられ、嫌われて当然のこと。
こんな自分が婚約者だなんて、いったい誰が赦すというのだろう?

「君を、離したくなくて、」

ほんとうは少しの間も離れたくない。

「ずっと傍にいたくて、どこにも行かせたくなくて、」

ほんとうは傍にいて、どこにでも一緒に行きたい。

「ずっと見つめていたくて、離れたくないから、だから首に手を掛けて、君を殺そうとしたんだ、」

ただ見つめていたい、離れないで、このまま動かないでいたい。

こんな願いは自分勝手すぎる。
こんな願いを抱くほど求めてしまう、こんな恋は狂っている。
こんな凶器のような感情に一冊の本が、紺青色の表紙が心に映りだす。

『Le Fantome de l'Opera』

仮面で醜い顔を隠した、異形の熱情。
彼は恋をして、愛して、そして恋する歌姫を手に入れるため奈落へ攫ってしまう。
それは狂気のような恋愛で、けれど最後は彼女の幸せを願って姿を消していく。
あの恋愛と自分の恋愛は、どこが違うと言うのだろう?

―それなら俺も、もう、姿を消せばいい

もし自分が姿を消しても、きっと光一が周太を護る。
唯ひとり『血の契』を結んだ山っ子ならば、周太を幸せに出来る力がある。
そんな想いに微笑んで、肩に回された腕から英二は身を離した。

「ごめん、」

たった一言、けれど籠めた想いは1つじゃない。

ごめん、怖がらせて。
信じさせたくせに失望させて、ごめん。
こんなに弱い卑怯な自分のために、時間を遣わせて、ごめん。
初めての夜は無理矢理に体を奪って、そして今は命まで奪おうとした、こんな身勝手を、ごめん。
そして、ごめん周太、俺は最低だ。

―絶対の約束を守れないなんて、最低だ…

心の声を仕舞い込んだまま、ベッドから床に脚をおろして、立ち上がる。
ふれる床の固い感触に心が固くなっていく、もう喜びの全てが殺されてしまう。
たった今、自分の掌で壊してしまった信頼、恋と愛、そして幸福な命懸けの約束たちが、消えていく。

―心が、消えてしまうのかな

音のない言葉に、冷たい仮面がよみがえる。

もう1年前に外したはずの「作った自分」の仮面が今、甦って顔を覆いだす。
この仮面を外してくれた人を殺そうとした、その瞬間に自分は、全てを放棄したのだと知らされる。
もう、この冷たい仮面に囚われて生きればいい、それが自分の罰ならば。

…カチャ、

遠くで、扉の錠が開く音がする。
この音のままに把手を回せばいい、そして最大の罰を受ければいい。
最愛の恋人を失ったまま生きる「時間」という刑罰に、この心も体も灼かれたまま生きればいい。

「英二、」

名前が、呼ばれた?

けれど幻聴かもしれない、求める心が狂気になって、幻を聴かせた。
けれども把手を握った掌に温もりがふれて、優しい熱が背中を覆ってくれた。

「行かないで、英二…俺のこと、離さないで、」

いま、なんて言ってくれたの?

「離さないって約束したよね?だから約束を守って、愛しているなら言うこと聴いて、」

どうして?
どうして君は、そんなことを言うの?
だって俺は今、君を殺そうとしたのに?

「お願い、愛してるんでしょ?だったら言うこと聴いて、こっちを見て、英二、」

いま、君を見ることが赦される?
もし君を見ることが赦されるなら、何だってしたいのに?

「…周太、俺は君を見て、いいの?」
「良いって言ってるでしょ?言うこと聴けないの?命令なんだから、」

『命令』

この言葉は自分にとって、あまくて優しい束縛。
この優しさを自分は受け取って良いのだろうか?
そんな迷いと、諦めきれない想いの狭間で英二は、ゆっくり体ごと振向いた。

「英二、」

穏やかな声が名前呼んで、黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
この瞳をまた見つめられた、その喜びが熱になって、目の奥からこぼれおちた。

「英二、また泣いてる…泣き虫、」

微笑んで見上げて、優しい指が涙を拭ってくれる。
この指と眼差しの優しさに、英二は床へと崩れ落ちた。

「…あ、」

喘ぐよう声がこぼれて、涙があふれだす。
座りこんだ床へと涙は墜ちて、嗚咽が咽喉から迫り上げた。

「っ…ぅっ、……っ、」

押し殺した声、それでも微かに嗚咽は唇こぼれていく。
嗚咽ふるえる肩が小刻みに揺れる、その肩を温もりが包みこんで、頬にシャツがふれた。

「泣いて、英二、」

優しい声が名前を呼んで、太陽の香がするコットンに抱きよせられる。
この頬ふれる香と感触、肩を抱いてくれる温度、それから穏やかで優しい声。
ふれている香と熱と音の全てが、あの夜の記憶に重なって今、この警察学校寮に甦る。

…構わない。気が済むまで、ここに居ていいから…いいから泣けよ?

あのころ付合っていた女に騙されて、脱走した夜。
あの夜も周太は白いシャツを着て、座りこんだ自分を抱きとめて、泣かせてくれた。
あの夜に見つめた安らぎは今も自分を抱きとめて、温かな懐で泣かせてくれる。
この腕は今も優しくて穏やかで、こんな自分を受けとめようと微笑んで。

「…っ、周太っ、」

名前を呼んだまま、白いシャツの体にしがみつく。
お願い離さないでと縋りつく想いが、全身を充たして腕をほどけない。
ほどくことが出来ない腕に小柄な体は寄添って、穏やかな声が言ってくれた。

「英二、泣いて?俺の腕で泣いて、何年先も、ずっと、」

何年先も。
そう告げてくれる意味を確かめたくて、唇が動いた。

「…何年先も、傍にいてくれる?俺は、周太の傍にいて…いいの?」
「ん、傍にいて?」

優しい腕がすこし緩んで、コットンシャツの体が降りてくる。
小柄な体が床に座り込んで、目の高さ同じにして眼差し結んで、黒目がちの瞳は微笑んでくれた。

「だって、婚約者でしょ?いつか結婚するんだよね?もう、永遠に一緒にいる約束してる、ってことだよね?」

永遠に一緒にいる約束。
それを君の口が言ってくれる?信じたい想い縋るよう英二は訊いた。

「でも俺は、周太のこと…殺そうとしたんだ、それでも約束は、続けていいの?」
「だって絶対の約束、したよね?…もう、何度も、」

黒目がちの瞳が幸せに微笑んで、真直ぐに純粋が見つめてくれる。
見つめて、綺麗な笑顔を咲かせて、周太は言ってくれた。

「俺の体を好きなだけ抱きしめて、絶対の約束を結んでくれたよね?それで英二は、俺の恋の奴隷になったのでしょう?
だったら言うこと聴いて?…俺と一緒に生きて、一緒に幸せになって?本当に愛しているなら離さないで、全ての約束を守って、」

どうして?
どうして君はいつも、そんなに強くて優しい?
そして君にこそ俺は捕まってしまう、こんなふうに赦されたのなら。そして永遠に掴まえられたい、この願いのまま英二は微笑んだ。

「うん、言うこと聴くよ?だから、俺が君を愛する資格を、永遠にほしい、」

この願いを、聴いてくれる?
そう見つめた想いの真中で、綺麗な笑顔が花咲いた。

「ん、永遠に愛して?そして恋していて…いつか、お嫁さんにしてね、」

優しい「Yes」の返事に籠めて、優しい唇が唇ふれてくれる。
ふれるだけ、けれど蕩かされる甘いキスの優しさに、一瞬で心も体も和まされてしまう。
こんなキスを出来るひとを手放す事は、絶対にもう出来ない。そんな願い正直に英二は、許しを乞うた。

「周太、今すぐ君を抱きたい。今もう一度、絶対の約束を結ばせて?」

どうかお願い、「Yes」と言って?この今も。
そんな祈りと見つめた眼差しに、黒目がちの瞳は気恥ずかしげに微笑んだ。

「ん、…声とか、なんとかしてくれるんなら、ね、」

羞んで薄紅が昇りだす首筋が、薄闇にまばゆい。
まばゆい恋と愛の結晶を、壊さないよう優しく英二は抱きしめた。

「周太…君を殺そうとした男だよ?怖くないの?」
「怖くない、」

穏やかな声が短く応えて、そっと唇にキスふれてくれる。
やさしい温もりの残像残しながら離れて、優しい瞳が英二に微笑んだ。

「だって、死んでも傍にいたかったんでしょ?命が終わっても傍にいて、もう、孤独にしないでくれるのでしょう?」

もう、孤独になりたくないのは、本当は自分の方。
それなのに周太はこんなふうに告げて、赦して、一緒にいたいと願ってくれる。

どうして?

「どうして周太…離れたくないからって、こんな、君を殺そうとするような狂った男だよ?それでもいいの?」

抱きしめながら問いかける、この声も腕も、恋人に縋りついている。
こんなにまでして縋りつく自分が情けないけれど、他に方法も解からない。それくらい恋に囚われて。
恋愛に縛られたがる情けない男、こんな愚かな自分。それなのに、それでも恋人は微笑みかけてくれた。

「俺のこと好きで、狂ってくれるんでしょ?愛してるんでしょ?…だったら、傍にいないと、ね?俺にしか出来ないでしょ?」
「…周太しか出来ない?」

抱きしめて、額に額ふれ合って問いかける。
ふれる温もりのひとは微笑んだまま、楽しそうに言ってくれた。

「英二が狂わないようにするには、俺が傍にいればいいのでしょ?きちんと英二が生きるために、英二を支えることは、俺しか出来ない、」

ふれあう額の至近距離から見つめて、黒目がちの瞳が幸せに微笑んだ。

「俺しか、英二の奥さんにはなれないね?だから、仕方ないから、一緒にいてあげる。だから言うこと聴いて?愛してるなら…ね、英二?」

そっと唇かさねてくれる、優しいキスがふれてくれる。
ふれた温もりの優しさに涙こぼれて、キスに潮が交って切なく甘い。その甘さの狭間から、優しい声が言ってくれた。

「きっと、俺の幸せもね…英二の隣でしか、見つけられないから。だから、仕方ないから、一緒にいて?」

『仕方ないから』

この言葉が、こんなに幸せだなんて知らなかった。
こんなに甘い束縛になってくれる言葉、それを今、初めて思い知らされる。
この言葉と寄せてくれた想いにまた、勁いザイルが一本編まれ、縒りあわされて繋がれて、英二は微笑んだ。

「うん、仕方ないから、一緒にいて?周太…必ず幸せにするから、俺のこと捨てないで?傍にいて、ずっと一緒に幸せを見つけて、」

告げた唇を、愛するひとの唇に重ねて。
告げた想いを唇から繋いで、あまい優しい香のなか想い交される。

―愛してる、

そっと心にも告げる想いに、ひと時のキスが、熱く甘い。

「周太、また口許にいい?」

聴きながら、自分のシャツのボタンを1つ外す。
その指を気恥ずかしげに見つめて、穏やかな声は言ってくれた。

「ん…して?」
「ありがとう、」

許しに笑いかけて英二は、シャツのボタンをすべて外した。
さらり肩からシャツを脱ぎ落し、袖の部分を細く畳みこんでいく。それをキスに濡れた唇へと噛ませて、猿轡に施した。
猿轡に口許を縛られた姿は、どこか扇情的で心ごと体の芯が掴まれる。その姿に見惚れて、英二は微笑んだ。

「こんなふうにしても、綺麗だね、周太は…」

もう何をしても手に入れたいと願ってしまう、この恋人が今も欲しくて堪らない。
そんな想いと見つめる黒目がちの瞳は羞んで、奪われた言葉の分だけ視線が熱くなって、純粋な想いを映す。
この瞳に自分を映して、英二は囁いた。

「…愛してる、ずっと。俺のことあげるから、ずっと俺の傍にいて…」

瞳を見つめて愛を贈って、深いキスで恋人の体に想いを注ぐ。
囁きの想い与える代わりに、服を絡めとり奪っていく、痕を残さないキスで素肌を埋め尽くす。
いつもは赤い花散らすキスの刻印を薄くする、その分だけ秘められた場所へのくちづけを、求めたくて。
求めるまま脚を開かせ腰に枕を入れる、そっと柔かな肌を広げて、露わされた奥に密やかな窄まりを見つめた。

「周太はここも可愛いね…」

愛しさに微笑んだ言葉に、こまやかな肌が淑やかに紅潮をうかばせる。
初々しい恥らいが艶に変わってしまう色に見惚れて、見惚れるまま秘めた場所へと唇を近寄せた。
なめらかな肌の窄まりは石鹸の香が清楚で、清らかな襞が花の蕾のように見える。
この花の蕾を披かせたい、そして深く繋ぎあってしまいたい。

「キス、するよ?」

求めるまま唇ふれて、そっと蕾をなぞりだす。
視線と感触に肌の蕾はふるえて、恥らうまま微かに動く、その微動に煽られる。
淑やかな誘いのような震えを舌に追わせて、唇から雫を滴らせ愛しい蕾に水を与えていく。
キスに濡らされ震える秘所は愛しくて、抱き寄せた素肌も熱くなる。そして熱い唇と舌で花びらほどくよう、蕾に深いキスをした。

「…っ、ん、んっん…」

猿轡に噛んだシャツから、恋人の吐息が喘ぐ。
洩れだす声の艶が愛しくて嬉しくて、もっと聴きたくなる、深く舌を挿すキスで蕾の奥に雫を送りこむ。
滴りだすほどの唾液に艶めく肌の蕾が、ほころびだすのが舌に唇に伝わる。
そして力奪われ花披きかける蕾へと、長い指を挿し入れた。

「…っ、」

白い布を噛んだ唇、吐息に悶える。
音にならない声に惹かれるまま、愛しい体の中心にキスをして、キスのまま唇から呑みこんでいく。
膨らんでいく熱を唇と舌に絡ませ愛しみながら、長い指は深く探るよう体の内側をほぐしだす。

「っん、んっ……っ、っ、」

反らす喉から喘ぎがあがる、その声に恍惚とさせられるまま、指も口も動いてしまう。
いま深くふれる場所は本来なら、あまり触れたがらない秘められた所。それなのに自分は、この恋人の体は触れ尽くしたい。
こんなにまでして体を愛しんで、感じて、確かめたくて仕方ない、この体を感覚で充たして心ごと掴みたくて仕方ない。
今ふたり生きて共にいる事を、この肌ふれる吐息と熱に感じていたい。

「…んっ…っ…っぅ」

喘ぎが、募って細くなる。ひとつめの時に至る高まりが、咥えこんだ唇にも解る。
喘ぐまま周太は両掌を口許に重ねて猿轡ごと声を押えこむ、閉じた長い睫から涙こぼれだす。
そして小柄な体が撓んで、口のなか潮の苦みと甘さがひろがった。

「…っ……ぅ…っ、ぅっ、」

隠した両掌から漏れだす吐息が、力を失くしていく。
吐息の儚さに心煽られながら、ひろがる熱の潮を舌で搾りとって、飲み下す。
この恋人が生み出す熱の味を記憶しながら、残さず呑んで自分の体に収めこんで、自分の一部にしてしまいたい。
そうして潮の残滓も残さず舐めとりながらも、長い指は愛する体の深奥をほぐし続けている。

「…、…っぅ…んっ、」

すこしずつ深めながら、一本ずつ増やし挿し入れられた長い指は、恋人を喘がせる。
恋人の内を充たす熱を絡めながら、広げ押し擦っていく感触がまとわるよう、ほぐされ支度が整っていく。
そして長い指ほどいた肌の深みは熱に潤んで、蕩けるよう柔かく開かれた。

「…周太、繋がらせて、」
「…、…ん…」

囁いた想いに、黒目がちの瞳が見つめてくれる。
見つめてくれる美しい瞳に熱は潤んで、あまやかな誘惑を見た心がふるえだす。
この警察学校寮のベッドは「恋愛禁止」の場所だと知っている、それでも、もう、止められない。

「痛かったら、蹴飛ばしても良いよ?」
「…ん、」

告げた言葉に、黒目がちの瞳が微笑んだ。
この微笑みが嬉しくて、愛しくて、細やかな腰を抱きよせながら、ほころんだ蕾に体を挿し入れた。

「…あっ、」

快楽に、思わず声がこぼれ墜ちた。
こぼれた声に唇を噛んで、眼差し絡ませて、ゆっくりと肌の蕾へ沈めこむ。
いつもより時間をかけて押し開いていく感覚が、早く深くしたいと責めてくる。
それでも恋するひとの体を傷つけたくない、その想いが手綱になって、体の動きを制御する。

「あ……しゅうた、痛くない?…いつもと違うしかただけど…」
「…ん、…っ、」

問いかけた言葉に微笑んだ顔は、艶めいた苦悶にときおり揺らぐ。
抱きしめた素肌の体が撓んで、寄せていく腰が深めるよう動かされて、感覚が生まれてしまう。
今、この腕に抱いている肌のまばゆさに見惚れて、開いていく肌の熱と律動に全てが掴まれる。
ゆるやかに誘いこまれるよう深めていく、あまい熱に受容れられて全身に歓びが奔りだす。

「…っ、周太、」

名前呼んで見つめた瞳は、あまく切なくて、愛おしい。
この愛しい想い人と、もっと深く繋がりたい。その想いのまま猿轡をほどいて、唇を重ねた。
その唇が甘い、こぼれだす吐息の香にオレンジの記憶が懐かしくて、あの庭の夏橘に見た黄金の夢が酔わせていく。

「…っ、えい、じ…すき…」

キスのはざま零れる声に、自分の名前があまい。
愛するひとに深いキスを捧げて声を奪う、全身の素肌に抱きあい熱を重ね合って。
誰も知られない夜に沈んで、禁じられた場所で体と想いを交わして、温もりに互いの鼓動が響きだす。

―生きてる、周太

いま腕のなか、深く繋がれた熱の相手から、心音が届く。
素肌のまま重ねた胸に2つの鼓動が響きあう、いまこの繋がる体が融けあうよう体温と感覚を共にする。
この音、この温度、この意識を奪う感情に、唯ひとりの恋人への想いがあふれだす。

そして、優しい吐息の果てに辿り着いた眠りは、幸せだった。





せまいベッドの上に楽園を見つめた夜が、明けていく。
夜に犯した過ちを赦された痛みへと、優しい甘さが浸みて痛くて、けれど幸福で。
この場所では禁じられた行いに恋人を引き摺りこんだ、その罪は痛いくせに酷く甘くて麻痺させる。

「…周太、」

そっと名前を囁いて、素肌に白いシャツを着せかける。
ひとつずつボタンを留めていく、しなやかな脚にも服を履かせて肌を隠す。
そうして夜を秘密に綴じこめて、それから暁が白い部屋へと訪れた。

白いカーテン透かして、生まれたばかりの光が部屋を照らしていく。
やわらかな明るさに眠る恋人は、穏やかな吐息と幸せな微笑みに安らいでいる。
この優しい安らぎを見つめる今が、自分の何よりの幸福だと気付かされて、この瞬間に幸せは温かい。

この幸せに、昨夜の自分の行いが楔になって、自責を心に打ちこんだ。
もう二度と、過ちを犯してはいけない。そう気づかされ、肚に落ちて、この罪の分だけ恋愛が深くなる。
この恋人に自分は永遠に、この罪を償い幸せを贈り続けたい。

「周太、約束だよ…ずっと俺は、君の幸せの為に生きるよ?いつ、どこにいても、」

この夜と暁の幸せに一睡もできていない、けれど心は冴えてクリアでいる、体に疲れも残らず軽い。
そして抱きしめた恋人の重みと体温に、ただ幸福感が温かい。




奥多摩の強盗犯は、木曜日の今日も見つからなかった。
そのことを後藤副隊長は、授業終了のタイミングで連絡してくれた。

「おまえさんの言った通り、登り尾根の廃屋には踏み跡があったよ。でもいなかった、何か所か移動しているのだろう。
すまないが宮田も藤岡も明日、戻ってきてくれるかい?明日の夜、全ての無人小屋を一斉捜索したいんだ。何としても捕まえたいよ、」

夜間はハイカーもおらず野生獣など危険も多い、犯人も小屋などに潜伏しているだろう。
それこそ寝込みを狙っての一斉捜索をすれば、逮捕できる確率も高くなる。
これを金曜日の夜に済ませたい意図がある、だから英二と光一も金曜夜の捜索を心積もりしていた。
きっと副隊長も同じ考えだろうな?英二は微笑んだ。

「土日前には逮捕したいですね、ハイカーが多いと犯行と逃亡のチャンスですから」
「そうだ。そしてな、犯人に罪も重ねて欲しくないよ。山を穢すこともな、」

そう言った後藤副隊長の声は断固としながら、温かだった。
こんなふうに犯人にも温かい心遣いが出来る後藤だからこそ、山ヤの警察官のトップとして敬愛されている。
こういう大きさを光一が「山」を穢す相手にも抱けるのか? それは難しいだろう、けれど光一の立場には超える必要がある。

―次期トップとして、山ヤとして、男としての「許容」が、光一には求められている

それを英二はセカンドとしてサポート出来るのか?
また英二自身も実際に犯人を目の前にした時、そうした「許容」が抱けるのか?
それらが今回の事件では、光一と英二は試されるかもしれない。

―何があっても俺は、光一を支えるだけだ

この覚悟に微笑んで、木曜の夜に登山図を見つめた。
雲取山に点在する無人の避難小屋と廃屋の位置を頭に入れていく、そうすれば犯人発見時に急行しやすい。
それに夜間捜索なだけに道も間違えやすくなるから、正確なルートをイメージしておく。

いったい犯人は明日夜、どこに寝泊まりするだろう?

デスクライトに照らされる登山図は、あわいブルーに地形とルートを示す。
この8ヶ月に何度も歩き回った雲取山の道は、記憶のファイルに綴じこんだ。
けれど、まだ歩いたことのない道がある。そのルートを英二は指でなぞった。

「…長沢背稜、」

この尾根筋は秩父山脈と境界になる。
そして芋ノ木ドッケで秩父の三峰方面から繋がる道と交差し、雲取山に辿り着く。
この三峰から続く場所にも、休業中の小屋がある。

―ここにも、水場がある

恐らく犯人は、ここを塒にしたこともあるだろう。
もし今も犯人がこの小屋を拠点にしていたら、管轄問題が絡んでしまう。
この小屋は秩父市に属し埼玉県警管轄、だから警視庁所属の青梅署山岳救助隊が入ることは厄介かもしれない。
ここについては明日、後藤副隊長に上申したほうが良いだろうな?思案をめぐらしていると、扉が遠慮がちにノックされた。

「あ…もう11時?」

クライマーウォッチの時刻に驚いて、英二は扉を開いた。
そこには少し不安げな面持ちの周太が佇んで、黒目がちの瞳が微笑んだ。

「英二、部屋に入っても良い?」
「もちろん、」

笑って肩を引寄せて、部屋に入ってもらう。
閉じた扉を施錠すると英二は、愛するひとに謝った。

「ごめん、周太。時間が経ったの、気づかなくて、」
「ん…登山図を見ていたの?」

すぐ気がついて訊いてくれる、そんな反応すら嬉しい。
嬉しくて笑いかけながら、長い腕に婚約者を抱きしめた。

「そうだよ。明日は夜間捜索だから、ルートを頭に入れてたんだ、」
「夜に?…気を付けてね、英二も、光一も、」

心配そうに瞳が哀しげになる、けれど優しく声は送りだす。
こんな隠してくれる不安が愛しい、愛しさに英二は恋人の唇にキスをした。

「ね、周太?今夜もさせて、って言ったら怒る?」

なにを「させて」なのか、さすがの周太でも解かるだろうな?
そう見つめた先で綺麗な肌の奥から、あわく薄紅いろが湧きだした。

「…おこらないけど、ゆうべみたいのはだめ…そういうの今夜は我慢して?」

恥らいながらも「今夜は我慢して」と明確に断られた。
断られた理由が知りたい、英二は黒目がちの瞳をのぞきこんだ。

「どうして今夜は、我慢しないとダメ?俺のこと嫌いになった?」
「嫌いになんてならないよ?大好き…」

即答して言いかけて、恥ずかしそうに言葉途切れてしまう。
けれど周太はまた続けて、小さい声でも口を開いてくれた。

「だって今夜を我慢したら、がんばって土曜日は帰りたくなるだろうな、って…」

はい、頑張って帰ります。

こんな心裡の返事はもう、恋の奴隷になっている。
この恋の奴になったままで、おねだりをしたくて英二は綺麗に笑いかけた。

「うん、頑張って土曜日に帰れるようにするよ?もし土曜に帰ったら、好きなだけさせてくれる?」

こんな約束をねだる自分は、本当に「変態色情魔」かもしれない?
そんなふうに光一の言葉を想いだして、つい可笑しくて英二は笑った。
ひとり笑い出した英二を、不思議そうに黒目がちの瞳が見つめて、質問に微笑んだ。

「どうしてそんなに、笑っているの?」
「俺は変態で色情魔だな、って自分で自覚したのが可笑しいんだ、」

可笑しくて笑いながら、抱きしめた人を見つめてしまう。
そんな英二に周太は、また不思議そうに訊いてくれた。

「しきじょうまって、なに?」

訊いてくれる瞳が純粋で、応えていいのか迷わされる。
けれど反応を見てみたくて英二は、正直に答えた。

「セックスが大好きすぎる、ってことだよ?俺にぴったりだろ、特に周太に対してはさ、」

言った言葉に、黒目がちの瞳がひとつ瞬いた。
すこし考えるよう首傾げて、けれどすぐさま婚約者の顔が真赤になった。

「…っえいじのへんたいえっちちかんっ…ばかえいじ、」

いつもの可愛い棒読みトーンに狼狽えているのが、余計に惹かれてしまう。
本当に自分は馬鹿で変態だと、この間の夜に思い知らされている。だから周太の言う通りだろうな?
そんな納得に微笑んでライトを消すと、恋人を抱きしめてベッドに潜りこんだ。

「変態でごめん、でも、ずっと一緒にいて?約束だよ、周太、」

約束にねだって微笑んで、英二は愛しいひとへとキスをした。



(to be continued)

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第51話 風待act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-07-23 23:26:41 | 陽はまた昇るside story
瞬間、逃さずに今も



第51話 風待act.2―side story「陽はまた昇る」

教官室から寮の自室へ戻ると、もう太陽が夕陽の兆しを見せている。
窓際に佇んで携帯電話を開く、発信履歴から架けたナンバーはコール3で繋がった。

「おつかれ、ア・ダ・ム。強盗犯のコト?」
「当たり。よく解かったな、光一」

相変わらずの察しの良さに英二は微笑んだ。
繋いだ電話の向こう、怜悧なアンザイレンパートナーは笑って答えてくれた。

「真面目堅物が業務時間内に架けて来るなんてね、仕事の件か、よほど大事な件か、どっちかだろ?」
「俺のこと、まだ真面目堅物って言ってくれるんだ?」
「だね。ま、一皮剥いたらエロ別嬪だけどさ。で?」

最後の一言で意識モードが切り替わる。
さっき遠野教官と話しながら纏めた考えを英二は口にした。

「犯人は、犯行現場を見に戻る可能性が高いと思う。いま教官にも訊いてみたんだけどさ、今回は通り魔的な犯行だろ?
ようするに偶発性が高いケースだと、捜査と自分との距離がどこまで接近したか気になるから、様子を見に戻ってくるんだ。
それに石尾根沿いは隠れやすいだろ?だから犯行現場の小雲取山を中心に考えたら、犯人が現われるポイントが絞れるかと思う、」

これは正解の「一部」だけ。
いま単独行でいる光一には、考えている正解ポイントを言いたくない。
今の光一は例え単独でも、犯人逮捕の為に無茶をする可能性が怖いから、言えない。

―…山で血を流させるなんてさ、

事件発生の朝、石尾根縦走路で光一が呟いた言葉には、怒りがこもっていた。
自分が愛する故郷の山で起こされた、醜い我欲の犯行。それも血を流させた。こんな事態を山っ子が赦せるはずがない。
その怒りと何をするかの危険性を考えると、犯人の居場所を特定する事は今、光一には言えない。
けれど山岳救助隊員としてもパートナーである以上、まず光一から相談しなくては当然不審がられる。
そんな計算を隠して微笑んだ向こう側で、テノールの声が電話越しに頷いた。

「なるほどね、あの辺に警戒網を絞ってるのは、正解って事だね。副隊長にその話ってした?」
「これから電話してみるよ、」

向こうから提案してくれた。
良い方向に話が流れて嬉しい、嬉しいまま英二はパートナーに笑いかけた。

「光一、金曜日には俺、そっちに帰るな?それで土曜の午後に川崎の家に帰るよ、もし事件の片が付いたら、だけど、」
「そっか、じゃあ金曜の夜は夜間捜索が出来るね、」
「そのつもりだよ。だから絶対に先走りするな、単独では動くなよ?」

絶対に、この約束はして欲しい。
きっと光一なら単独でも大抵の相手は制圧できるだろう、けれど危険の可能性は除きたい。

万が一、光一の体に傷がついたら?
受傷により山ヤとしての生命が、光一から絶たれたら?
そんなことは少しもあってはならないから、だから言うことを訊いてほしい。祈る向こうテノールの声が笑ってくれた。

「なに、手柄の独り占めは禁止、ってコト?」
「そうだよ、俺に昇進のチャンスをくれよな?光一のセカンドとして、俺は出世しないといけないんだろ?それにさ、」

すこし言葉を切って、間合いを取る。
このアンザイレンパートナーの無茶を、今度は私人として牽制したい。そのための一拍をとって英二は笑いかけた。

「俺は光一のことをザイルパートナーとして、専属レスキューとして護る責任があるよな?この責任を放棄させないでくれ。
俺に本気で恋してくれてるなら、光一には解るだろ?そういう責任を果たせない事が、どれだけ俺にとって辛いか、知ってるよな」

こんな言い方はずるいだろう。
けれど山ヤの誇りを懸けて、このアンザイレンパートナーを護りたい。そのためなら狡くても構わない。
そんな想いの先で、透明なテノールが溜息に微笑んだ。

「おまえって、ホント狡い男だよね?そんな言い方するなんてさ…恋愛を盾にするとか、ずるいね…」

すこし切ないトーンが、心をノックする。
こんなふうに心動かす相手は自分にとって数少ない、この不思議な想いを抱かせる存在に、英二は約束をした。

「狡くって結構だよ。俺は、ひとりの男としても光一を護りたいから。護れるなら、狡くても何でも良い。
光一は唯ひとりの『血の契』で、生涯のアンザイレンパートナーだ。なにをやっても俺は光一を護りたい、絶対に護ってみせる。
だから言うことを訊いてくれ、光一。犯人が捕まるまでは、絶対に単独行動をとるな。すこしでも危険な真似はするな、いいな?」

光一は命令されることが大嫌い、そう知っている。
けれど今、恋愛感情を利用してでも命令して、光一の心身を護りたい。
この願いを聴き入れてほしい、祈る想いに告げた向こう側で、透明なテノールが微笑んでくれた。

「そんなさ、おまえが命令までするなんてね?…そんなに俺のこと、心配してくれるワケ?そんなに…大切なのかよ、」
「大切だよ、」

即答に微笑んで、英二は告げた。

「恋とは違う、けれど本気で愛してるよ?だから心配だし、何だってする。だから言うことを訊いてほしい、俺は光一が必要だから、」

必要だから。

この言葉はきっと、最強のカード。
本気で恋する相手にそう言われたら、どんなに嬉しいか。
嬉しくて、恋の相手に愛されたくて言うことを訊きたくなる。それを自分は知っている、だから言った。
そんな英二の思惑に、透明なテノールが困ったよう、けれど幸せに微笑んだ。

「そんなふうに言われたらさ、俺、無茶とかもう、出来ないね?…俺、マジ愛されちゃってる?」
「うん、俺から愛されちゃってるな。周太にも光一は、大切に想われているだろ?」

周太、

この名前にも、光一は逆らえない。
光一にとって「周太」は、ある意味で英二よりも絶対的な力がある。
きっともう、言うことを聴くだろうな?そう思った電話の向こうで光一は素直に頷いた。

「うん、そうだね。解かったよ、単独行動は絶対しない。約束する、」

良かった。
ほっと心裡から微笑んで、英二は唯ひとりのアンザイレンパートナーに笑いかけた。

「ありがとう、光一。金曜の夕方には戻るから、それまで待っていろよ?」
「うん、待ってる。だから、戻ってきてよね、」

嬉しそうなテノールの声を聴いて、電話を切った。
そしてすぐ次の番号へと架けなおすと、後藤副隊長は電話に出てくれた。

「おう、宮田。山賊のことかい?」

後藤副隊長はハイカー狙いの強盗犯を「山賊」と呼んでいる、確かに相応しいネーミングだろう。
副隊長にもすぐ用件が解かるんだな?ちょっと笑いながら英二は答えた。

「はい、業務時間にすみません、」
「仕事の件だ、業務時間で正解だろうよ。で、遠野君に訊いてみてくれたかい?」
「はい、」

今日、遠野教官に質問したのは後藤の意向でもある。
さっき光一にも話したことを、詳しく英二は話し始めた。

「やはり戻ってくる可能性が高そうです。捜査が自分に及ぶ距離間と、逮捕の可能性を気にして様子見に訪れるだろう、とのことです。
あと先日、副隊長に申し上げた犯行の凶悪化についても話しました。それについても教官は、その線は妥当だと仰っていました、」

きっと秩父でも暫く様子見をした結果、奥多摩へと逃げ込んだのだろう。
この山塊は山梨県にも跨っている、そちらに逃げ込まれることは避けたい。そう考える電話向うで後藤が頷いた。

「捜一の敏腕も同じ意見か、じゃあ石尾根近辺だという考えは、正解のようだな、」
「はい、捜査網のエリアに間違いはないと思います。ただ、石尾根だと逃げ場が多すぎますよね?」
「それなんだよなあ、」

溜息を吐いた気配に、後藤副隊長の苦りきった顔が見えてしまう。
いま青梅署の山岳救助隊員も刑事たちも、誰もが同じ顔になっている。
いま初夏は登山シーズン、こんなときに入山規制を懸けなくてはいけないのは、奥多摩の警察官として悔しい。
すこしでも早い逮捕に繋げたい、そんな想いに英二はデスクへと歩きながら口を開いた。

「副隊長、ちょうど暑い時期になります。そうすると水場の近くを拠点に動くと思うのですが、いかがでしょうか?」
「なるほどな?じゃあ暑い日は狙い目かもしれんなあ、」

すこし後藤の声が元気になってくれる。
この考えが少しは役に立つと良い、デスクで英二は奥多摩の登山図を広げた。

「石尾根から逃げ込める尾根で水場のある所ですと、七ツ石山の登り尾根か鷹ノ巣山避難小屋に近い浅間尾根ですよね?
六ツ石山からのルートも水場は有りますが、駐在所に近いのでここは無いと思います。あとは倉戸山にある女の湯でしょうか、」

広げた登山図は折り目の部分が薄くなりだしている。
最初からテープで補強はしてあるけれど、もう幾度も広げてきた回数が見えて懐かしい。ふっと微笑んだ時、後藤が訊いてくれた。

「うむ、その中だと登り尾根か浅間尾根の可能性が高そうだな?宮田はどっちだと思うかい?」
「登り尾根の方が可能性が高いように思います、水場がひと目につき難いですし、近くに廃屋がありますよね?」
「あの廃屋か、ちょっと調べてみるよ、」

がさり、電話の向こうでも地図を広げる音がする。その向こうでは畠中が指示を出す声が聴こえ始めた。
すでに今、奥多摩交番では手配を進めているだろう。微笑んで英二は後藤に願い出た。

「あと副隊長。申し訳ないのですが、国村には登り尾根の件は伏せて頂けますか?」
「やっぱり先走りそうかい、あいつ、」

後藤の声に、困ったような笑いが籠る。
きっと同じ懸念をしていたのだろうな?すこし笑って英二は頷いた。

「はい、かなり怒っていると思います。さっき電話で話した時、単独行動はしないと約束はさせたのですが、」
「先に電話しておいてくれたんだな?ありがとうよ、この件は奥多摩交番と奥多摩湖の駐在所で対応するから、大丈夫だ」

それなら御岳駐在に情報が遅れても自然だろう。
ほっとして英二は礼を言った。

「ご配慮、ありがとうございます、」
「こっちこそだよ、いつも光一のこと、ありがとうよ、」

笑って後藤は電話を切った。
デスクの登山図を元通りに仕舞い、窓を見ると黄昏が降りだしている。
もうトレーニングルームに行く時間は無いかな?そう思ったとき、扉がノックされた。

こん、こん…

すこし遠慮がちな叩き方は、きっとそうだろうな?
嬉しくて英二は扉を開いた。

「よかった、英二、戻っていたんだね?」

ジャージ姿の周太が佇んで、笑いかけてくれる。
その手をとって部屋の中に導き入れると、英二は扉に施錠した。

「質問、長かったね?」

すこし気恥ずかしげに微笑んで聴いてくれる、その笑顔が愛しい。
愛しさに微笑んで英二は、恋人をベッドに腰掛けさせながら答えた。

「うん、捜査のことを訊きたかったんだ、」
「あ、奥多摩のこと?」

すぐ察して訊いてくれる、こういう理解が嬉しい。
制服からジャージに着替えながら英二は頷いた。

「そうだよ、後藤副隊長にも頼まれていてさ。あ、松岡って電話、大丈夫そうだった?」
「ん、外泊日のことでね、息子さんが電話掛けちゃってたみたい、」
「そっか、良かった。幼稚園生の子?」
「そう、2番目の息子さん…お祭りに連れて行って、ってお願いしたかったんだって、」

なにげない話をしながら、着替えている。
こんな日常の風景が優しい、この優しさは周太がいてくれるから。
もう初任教養の頃からずっと、この居心地の良さが好きで周太の隣から立てなくなった。
あの頃の想いよりも、今の想いは穏やかだけれど深くて、尚更に離れられない。



デスクライトの灯りを消して、窓のカーテンを開く。
見上げた空には星があわく瞬きながら、夜の深更を教えてくれる。
静寂に佇む警察学校寮は音が無い、けれど部屋には規則正しい寝息が優しい。

ごく微かな吐息、けれど窓際に佇んでも聞こえてしまう。
この吐息をもう何度、自分は聴いて来られただろう?そしてこの先も聴いていたい。
そんな想い微笑んでカーテンを閉じると、静かにベッドへと身を入れた。

ぎしっ…

微かな軋み音がたつ、それでも愛する寝息は途切れない。
いつものよう勉強したまま墜落睡眠した周太、もう朝まで目覚めないだろう。
深い眠りのなか安らいだ微笑は無垢で、あどけないほど推さなくも見える。

「…きっと、良い夢を見ているんだね?周太、」

そっと笑いかけて唇にキスでふれる、けれど無邪気な眠りは目覚めない。
こんなとき、まだ周太の精神年齢は子供のままなのだと気付かされ、心が軋みそうになる。
こんなに純粋なままの周太、それなのに、きっと秋には「あの場所」へと立ってしまう。

術科センターの射撃場の奥、重たい扉がある。
扉の把手には銃痕が残されて、それは山っ子の怒りと宣告が刻んだもの。
あの扉向う「あの場所」への問いかけを「奴ら」が忘れないように、そして周太の励ましになるように。
それでも「あの場所」に周太が立つ時間を、英二には傍で護ることも出来ない。光一ですらも。

あの場所で行われることは、合法の正義の元で正当化される。
けれど時として、人間としての尊厳を歪めてしまう事もあると、知っている。
そこに、この純粋な眠りに安らぐ人が立ってしまう?その哀しい瞬間の訪れが、心を軋ませる。

…カチッ…カチッ…

部屋の静寂に、目覚まし時計の刻音が聞こえてしまう。
この音が1つ鳴るごとに、時は1つ瞬間を近寄せて、自分から恋人を引き離す。

…カチ、

また1つ鳴る、そして時はまた瞬間に近づく。
また近づいた瞬間の前で、恋し愛するひとを抱き寄せて、頬よせる。
この音を、離れる瞬間が近づく音を拒みたい、それでも時刻む音は、止んではくれない。

カチッ、

この音を永遠に止めて、この眠る人を永遠にこの腕に閉じ込めてしまいたい。

「…周太…」

低い声で名前を呼んで、抱きしめる。
抱きしめ見つめて、なめらかな頬に掌を添わせて、くちづける。
優しいキスふれていくオレンジの香があまくて、愛しくて、この香の記憶が心こみあげていく。

―離したくない、今、このまま

もしも今、このまま、腕の中に閉じ込めて。
ずっと抱きしめてキスをして、永遠に眠るためのキスを続けてしまえたら?
この今を逃さずに時を永遠に変えたなら、そうしたら、もう、離れなくても済む?

「…周太、離れないで、」

想いに、涙あふれて掌は、頬から喉元へと降ろされる。

掌のなか、安らかな寝息に呼応して、ゆるやかに頸の肌もふるえている。
この今この掌が、安らかな眠りの運命を握って、自分に時の支配権が委ねられる。

普通なら掌の力では、一瞬で止めることは難しい。
けれど自分の掌は冬富士の爆風にもザイルを離さない、そして自分には専門知識がある。
どこの血管を押したなら、3秒で意識を消すことが出来るのか、自分は知っている。

「一瞬だから、」

低い声が呟いて、2つの掌が眠る咽喉を包んでいく。
包んだ掌に温もりふれる、なめらかな感触が呼吸にふれて、生きている。
この呼吸も感触も、温もりも、すべてが愛しくて離せなくて、ずっと離れず傍にいたい。

もしも今この力を加えたら、3秒で、愛するひとは自分から離れない、永遠に。

「…周太、」

掌で首筋を包んだまま、唇に唇かさねて、想いを籠める。
ふれる温もりは優しくて、香っているオレンジが綺麗で、庭の夏蜜柑を想い出す。
あの庭に夢を見て、永遠に寄添って、このままずっと、離れないでいられたら?

どうかこのまま傍にいて、永遠のキスで繋がれたまま、ずっと離れないで。
どうか人殺しの場になど行かないで、純粋なまま自分の傍にいて?

そんな願いのなかで、静かに掌は首筋から離れた。

「…っ、」

涙が頬つたって、声の無い慟哭が喉を灼く。

もう涙が止まらない、いま涙を止める術なんて自分は知らない。
この今の自分の心が上げる叫びがもう、悲鳴になって意識を撃ち抜いていく。
この今、自分がしようとしたことが、赦されない罪だと思い知らされる。

「…っ、し、ゅうた、」

呼んだ名前が、掠れる。
あふれる涙が墜ちて、眠るひとの睫にふりかかる。
この自分がもう今、赦せない。この自分の弱さが赦せない。
今まで自分は何て言ってきた?何て約束を結んできた?それなのに、

―俺は、ばかだ、

あふれた想いが脳を灼いた、その瞬間、頬に優しい掌がふれた。





(to be continued)

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第51話 風待act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-07-22 23:43:38 | 陽はまた昇るside story
待つ、動く瞬間を



第51話 風待act.1―side story「陽はまた昇る」

午前の授業が終わり昼食を摂る席に着くと、制服の袖を捲っている者が多い。
もう明後日から衣更えになる、今着ている合服を次に着る時はもう、全員が本配属されているだろう。
このことに時の移ろいを感じて、ふと心が締め上げられる。

―次にこれを着る時は、周太はどこにいるのだろう?

この哀しみに心が湿って重くなる、それを軽く首を振って英二は払いのけた。
いつものように周太の隣に座って、関根と瀬尾と向かい合う。松岡と上野と1斑の仲間も近くに座る。
場長の松岡が「いただきます」の号令をして、賑やかな食事が始まった。

「そういえば関根くん、写メもらえた?」

さらっと瀬尾が隣の関根に笑いかける。
けれど困った顔になって関根は快活な目を笑ませた。

「やっぱ、言えねえよ、俺。やっと1ヶ月だし、」
「ふうん、やっぱり関根くんって、硬派なんだね?っていうか、初心?」

可笑しそうに瀬尾が笑ってハンバーグを箸で切り分けている。
その隣で関根は口を曲げると、素早く瀬尾のハンバーグを一切れ箸に摘んで、口に放り込んでしまった。

「なに盗ってんの、関根くん?」
「俺、腹減ってんだって、」

なんだか悔しそうな口調で、けれど快活な目はヤンチャに笑っている。
そんな友達を見て瀬尾は、半分呆れ顔で笑いだした。

「俺に初心、って言われて仕返しってこと?」
「しらねえ、って、なに俺の食ってんの、瀬尾?」

素早く瀬尾も関根のハンバーグを一欠け、口に飲みこんだ。
そして優しい目を悪戯っ子に笑ませて、しれっと瀬尾は答えた。

「俺も腹減ってるんだ、ごちそうさま関根、」
「てめえ、結構ヤルよなあ、瀬尾?」

快活に関根が笑いだして、瀬尾も一緒に笑った。
この遣り取りに英二は、隣の周太に微笑んだ。

「周太。周太のハンバーグ、一切れくれる?」
「ん?いいよ、」

端正な箸運びで周太はハンバーグを切り分けてくれる。
そっと皿を寄せてくれる笑顔に英二は、綺麗に笑ってねだった。

「あーんして、食べさせて?」
「え、」

言われた途端に黒目がちの瞳が大きくなって、頬が赤くなりだした。
やっぱり恥ずかしがっちゃうかな?でもして欲しいな?
そう笑いかけた先、すこし緊張しながらも綺麗な箸遣いは、一切れ口許に運んでくれた。

「あの…はい、」

ちいさな声が可愛い、どうしよう?
もう真赤な頬なのに笑顔は優しくて、こんなの反則的に可愛いんだけど?
幸せで嬉しくて英二は、大好きな婚約者の箸に口をつけた。

―なんか甘くて、旨いな?

周太のハンバーグは、甘い味がする。
なんでだろうな?不思議に思いながら飲みこんで、英二は幸せに笑った。

「ありがとう、周太。なんか周太の、甘かったよ?ケチャップとか掛けたの?」
「ん?なにもしてないけど…」

答えて赤い顔が微笑んでくれる。
こんな貌も可愛くて仕方ない、なんか最近また周太は可愛くなった気がする?
こういうのは嬉しいけれど、あまり可愛いと困った事になりそうだ?
思わず脚を組んだ時、ぱしっと膝を周太に叩かれた。

「英二、食事中に足組むのは、行儀悪いよ?」

足組まないと、もっと行儀悪いコトになりそうなんですけど?

心の声に自分で可笑しい、そして思いついた悪戯心に笑ってしまう。
可笑しくて笑いながら英二は、そっと周太に耳打ちした。

「周太の所為だからな、」
「ん…?」

不思議そうに黒目がちの瞳が見つめてくれる。
その瞳が純粋で、この目に「もっと行儀悪いコト」を教えたら悪い気がしてしまう。
やっぱり教えないでおこうかな?そう考えをまとめて英二は、初心な恋人に微笑んだ。

「ごめんな、周太?ちょっと今の時間だけは、脚組むの赦して?」
「…どうして?」

首傾げて尋ねる風情がまた、可愛い。
こんなに「可愛い」が連発されると困ってしまう、自分が勝手に困っているのだけど。
こんなふうに無意識の周太に曳きまわされては、恋の奴隷だという自覚に甘く噛まれてしまう。
こんな瞬間は跪いてでも、恋の主人にベッドの許しを乞いたいのが本音。

―こんな昼飯の時間まで、俺、何考えてるんだろ?

ふと我に返って自分に苦笑いしてしまう。
こんな自分はやっぱり馬鹿で、所詮23歳男子なんだと気付かされる。
卒業配置から8か月、自分は大人になったと思っていたけれど。恋愛の前では所詮こんなものだ。
きっと「こんなもの」は至極普通で、ありふれている。それでも自分にとってこの時間は、宝物だろう。

―あと1ヶ月を切ったな、本配属まで

もう明後日で6月になる、もう夏の制服になってしまう。
ついさっきも思ってしまったばかりの、この現実が胸を刺す。
こんなふうに毎日を周太の隣で過ごす日々は、あと1ヶ月足らずで終わってしまう。
そのあとに「いつか」訪れる瞬間が、怖い。
いま周太の隣で過ごす毎日は、幸せで温かくて、あまやかに優しい。
こんなふうに自分は、ハンバーグを食べさせて貰っただけで、逆上せて舞い上がる。

こんな自分が「いつか」の瞬間に、周太と引き離される瞬間に、冷静でいられるのか?

そんな疑問が廻りかけて、英二は軽く頭をふった。
いま、この時間を哀しい想念で充たすのは勿体無いから。
この今まさに与えられる幸せを、温かで優しい、あまい幸せを見つめて、抱きしめていたい。

―きっと「いつか」が来ても、引き離されても、この掌を離さない

きっと自分は離せない、そんな確信がある。
そして「いつか」が来なければ、幸福が始まる「いつか」も訪れないと知っている。
だから悲観ばかりしていられない、幸福の「いつか」を信じるために準備することも数多いから。

―父さんと母さんに、話しに行かないとな、

いつ行こう?
初任総合の期間中の方が、時間がとりやすいだろうか?
そんなことを考え込みかけた時、周太が話しかけられた。

「湯原、今度の土曜日のことだけど、」

またか内山?

内心の声と一緒に、英二は周太の逆隣を見た。
よく考えたら食事の席でいつも、内山が周太の隣に座ることが多い。
この席で事例研究の話でもなんでもしてくれよ?そんな毒づきを綺麗に隠して、英二は微笑んだ。

「今度の土曜日、周太は大学だろ?」
「ん、そうなんだけど…」

そうだよね?
大学の公開講義で、そのあと美代さんと復習の時間だよね?
そんな予定の計算と見つめた先で、周太は微笑んで言葉を続けた。

「美代さんがね、お茶か昼ご飯を一緒してもらったら?って言ってくれて、」
「あ、美代さんが一緒なんだ?」

それなら安心だな?
ほっと内心、安堵の息こぼした英二に周太は笑いかけてくれた。

「ん、そう。英二も一緒出来たら良いのにね?」

そんなこと言ってくれるの?

本当にそう出来たら良いのにな?
でも今は奥多摩も強盗犯の警戒中で人員が足りない、週末は青梅署に戻らないといけない。
こういうの、プライベートと仕事の板挟みとも言える?こんな感想に微笑んで英二は答えた。

「ありがとう、周太。でも今、奥多摩は警戒中だから。金曜の夕方には署に戻らないと、」

答えに、黒目がちの瞳が少し寂しげになる。
それでも微笑んで周太は言ってくれた。

「ん、気を付けてね?…待ってるから、」

そんな顔されると弱い、そして嬉しい。
嬉しくて英二は、幸せに笑いかけた。

「うん、気を付けるよ?待ってて、」

待っていてくれる、そう思うと自分は何があっても「帰りたい」と思えてしまう。
そんなふうに、英二が無事に帰ることを願って周太は、もう何度『絶対の約束』を結んでくれたろう?
この幸せな約束の数々に心が温かい、ふっと笑ったとき内山が周太の向こうから訊いてきた。

「奥多摩は警戒中、って、どういうことだ?」
「うん、ハイカー狙いの強盗を手配中なんだ、」

さらり笑って英二は答えた。
答えに精悍な貌が驚いたよう見つめてくる、それから微笑んで内山は言ってくれた。

「そっか、早く捕まると良いな。もし土曜までに片がついたら、宮田も一緒できないかな?事例研究のこと聴きたいんだ、」

やっぱり内山って良いヤツだな?

本当に事例研究の話を聴きたい、ゆっくり話をしてみたい。そんな意思が笑顔に現われている。
けれど周太に構い過ぎる気がして、2つの理由で気にはなってしまう。

内山は東大出身でキャリア志向、この経歴に警戒せざるを得ない。
同じような経歴の人間が馨を「50年の束縛」に惹きこんだ、その事実が警鐘を鳴らしてしまう。
まさかとは思う、内山に限ってと思う、それでも危険分子は0.01%でも見逃せない。

もう1つの理由は、単なる嫉妬。
内山をバイセクシャルだとは思わない、けれど自分も以前は女性しか興味なかった。
そんな自分は周太の魅力を知り過ぎているから、だから疑ってしまう。

どちらも思い過ごしだと良いけれど。
そんな感想と一緒に英二は、内山と周太に笑いかけた。

「ありがとう。もし金曜までに逮捕出来たら、土曜の昼には戻るよ、」
「ほんと?…そうしたら、家に帰れるの?」

黒目がちの瞳が期待に微笑んでいる、この笑顔の理由が自分には幸せだ。
幸せな想い素直に英二は、明るく笑った。

「うん。申請を出してみないと、はっきり約束は出来ないけどね、」

業務の状況次第で外泊先を変更する。こういうケースが警察学校でも許可されるのか、自分も解らない。
それでも許可してもらえたら良いな?そんな想いと微笑んだ英二に、周太はねだってくれた。

「ん、そうだね?…でも、帰ってくるって約束して?」

そんなワガママ、嬉しいです。
この幸せに英二は素直に、きれいに笑いかけた。

「約束する、帰るよ?」



今日最後の授業は、職務倫理のグループ研究だった。
英二たち1班は授業後すこし残り、15分過ぎたころ出来上がった。
終って皆で教場を出ようとしたとき、何げなく携帯電話を見た松岡が首傾げこんだ。
どうしたのかな?英二は声をかけてみた。

「奥さんから?」
「うん、…3回も着信があるんだ、」

もしかして急ぎの用かもしれない。
そんな予想に英二は、グループ研究の課題用紙を松岡の手から取った。

「これは俺が出してくるよ、だから松岡、早く電話してあげな?」
「え、でも班長の役割りだから、いいよ、」

真面目な松岡らしく断りながら、けれど本音は電話が気になっている。
まだ生後1年ほどの子供もいる松岡だから、家の電話は気になるのが当り前だ。穏やかに英二は笑いかけた。

「大丈夫、俺ちょっと質問したいことあるから。その序でだって言うよ、じゃあ、また後で、」

笑って英二は教官室の方へ踵を向けると、歩き始めた。
その視界の隅で周太が上野と話している、けれど黒目がちの瞳がこちらを見ていた。

―気にしてくれているのかな?なら、いいな、

ほら、こんな心の声が呟いてしまう。
あの視線1つに舞いあがる自分がいる、こういう気持ちは周太だけ。
なんだか我ながら幸せだと微笑んで、英二は教官室へと入っていった。

「遠野教官、1斑の分です。お待たせして申し訳ありません、」
「うむ、」

仏頂面がすこし笑って、用紙を受けとってくれる。
さらっと目を通してから遠野は、英二に尋ねた。

「どうして班長の松岡が来なかった?」
「はい、自分が提出に行くことを願い出たからです、質問があったので、」
「そうか、何の質問だ?」

納得したよう頷いて、遠野の目が英二を見た。
その目に微笑んで英二は、質問に口を開いた。

「ご経験から教えてください。犯人が一度現われた場所に戻るとしたら、どんな条件でしょうか?」
「奥多摩の件か?」

やっぱり遠野教官はすぐに察してくれた。
すこし笑いかけて英二は頷いた。

「はい、」

もちろん遠野教官は奥多摩・秩父にまたがる事件を知っている、被害者を英二たちが発見した事も。
この捜査について、捜査一課で敏腕を謳われた刑事の考え方を聴きたい。
そんな考えと笑いかけた先で、遠野は口を開いた。

「重大な犯罪を犯した場合、計画的犯行なら戻ることは少ない。だが、愉快犯と偶発的犯行は別だ、」

渋い声が明快に言い、遠野は椅子を回してこちらを向いた。
掌を組み合わせながら英二を見、元捜査官は話し始めた。

「はずみで人を刺した、ひき逃げをした。こういう偶然が原因の場合は、本人も予想外の結果に起きた事だ。
だから現場を隠す工夫も元から無い、すると自分だという痕跡が無いのか気になる。そして捜査の進み具合も気になりだす。
愉快犯の場合は犯行自体を面白がっているから、自分の犯行に対する反応を確かめたい。だから捜査状況も気になって仕方ない。
どちらの場合も、捜査と自分との距離がどこまで接近したのか?逮捕の可能性はあるのか?それが気になるから、様子見に訪れる、」

こうした犯人の心理について、英二も吉村医師から訊いたことがある。
ここで遠野教官も言っている「偶発」、今回の事件も「偶発」に該当するのか?その判断は難しい。

「宮田。奥多摩の事件については、『強盗』を行うことは計画的だな?だが、『誰』を襲うのか、『現場』はどこなのか?
それは偶発的に過ぎない要件になる。今回のケースは計画性と偶発性がミックスされた状況だ、で、宮田はどう考えるんだ?」

皮肉っぽい目が笑って英二を見てくる。
その視線を受けとめて英二は微笑んだ。

「被害者を救助した後、現場の確認をしたんです。あのとき犯行場所と逃走ルートには、足跡と被害者の血痕が残っていました。
この、痕跡を消していない状況から、犯行は偶発的に近いケースだと考えています。ですが、秩父と合わせて、今回は4件目です。
もう犯人も犯行自体には慣れているでしょう、けれど、証言と状況から犯人は精神的に混乱状態だと判断しています。だから迷います」

皮肉な目が細められ、すこし考え込む。
すこしの間すぐ遠野は口を開き、訊いてくれた。

「精神の混乱か、なぜそう判断する?」
「はい、犯行自体に慣れていても、痕跡を残しすぎているからです。あとは、現場が『山』だとういうことです、」
「山だから?」

どういう意味だ?
そう目で尋ねられて、英二は口を開いた。

「山は原則、人がいません。そして犯人が潜伏していると思われる雲取山には、ツキノワグマや鹿など野生獣が棲んでいます。
この状況は孤独で、いつ動物に襲われるか解らない不安があります。これは犯人自身が他人を襲ったからこそ、不安は増大する筈です。
こうした不安感が疑心暗鬼になって、精神的に混乱状態に陥ると思いました。だからこそ、犯行時の傷害も凶悪化すると思います、」

峻厳な掟の支配する『山』において、他者を傷つける。それは、山にあるなら自滅にも繋がりかねない。
なぜなら山の世界は「自助」と「相互扶助」が原則、だから「相互扶助」の相手を傷つければ自分の命綱を断つことになってしまう。
そんな行為が、どんな谺になって跳ね返るのか?自信を追いこむ事になるのか?
それが解からない人間は、きっと山が赦さないだろう。

―だからこそ光一は、本当は怒っている。隠しているけれど、だからこそ本気だ

山の化身のような、山っ子。
あの山っ子がもし犯人を発見したら、どんな反応をするのか?
それが不安にもなってしまう。できれば自分が共にいる時であればいいと思う。
そんな考え巡らす前、遠野教官がすこし笑った。

「ふん、宮田の線は合っているだろう。おまえ、刑事でもやっていけそうだな?」

たぶん、これは遠野なりの褒め言葉。
この頑固そうな教官に言われて嬉しい、英二は微笑んで、けれど謝絶した。

「ありがとうございます、でも俺は山ヤの警察官ですから。山岳レスキューが天職だと思います、」

きれいに笑った英二に、仏頂面の笑顔を向けてくれる。
そして遠野教官はすこし考えて、教えてくれた。

「おまえから聴いた状況だと、確かに犯人は混乱状態だろう。だから、偶発的ケースに近いが錯誤もある、」

おそらく「現場近くに戻る」と言っている。
貰った答えに微笑んで、英二は頭を下げた。

「解かりました、ありがとうございました、」

笑いかけ踵を返そうとしたとき、掌を挙げて遠野が制した。
なんだろう?そう見た先で、低くめた渋い声が教えてくれた。

「元同僚が訊いてきたよ、『ファイルは最近どうだ?』ってな、」

『ファイル』

この単語に、意識が冷たく目を醒ます。
この言葉を遠野教官に尋ねる「元同僚」が誰なのか、訊かなくても解かってしまう。
どんな反応を遠野はしたのだろう?穏やかな笑顔で英二は問いかけた。

「何て、お答えになりましたか?」
「訴訟法のファイル作成に手こずってる、って答えたよ。俺は法律関係は苦手なんだ、」

答えた遠野の目が悪戯っ子に笑っている。
もちろん遠野は『ファイル』と訊かれた意味を解っている、そのうえで恍けてくれた。
そのとき「元同僚」はどんな顔をしたのかな?ちょっと可笑しくて笑いながら英二は尋ねた。

「教官。今週末の外泊日も青梅署に戻ると申請しましたが、業務の状況次第で家に帰っても大丈夫でしょうか?」

家は、もちろん川崎の家のこと。
もう英二の第一身元引受人は湯原の母となった、だから遠野も当然、英二が周太と同じ家に帰ることを解っている。
けれど、周太と英二の関係を遠野がどう考えているのかは、まだ明確には聴いたことがない。
それでも何か勘付いてはいるのだろうな、そんな想いと見つめた先で遠野が短く呟いた。

「ふん、家か、」

すこし首傾げて英二の目を見、遠野教官は頷いてくれた。

「そのことを書いて追加申請してくれ、それで外泊先が決まり次第連絡を入れろ、」
「ありがとうございます、」

素直に礼を言って英二は頭を下げた。
頭を上げて姿勢を戻すと、首傾げたまま遠野は少し笑って訊いてくれた。

「相変わらず実家には、帰っていないのか?」
「はい、帰っていません。海外訓練の前には、顔を見せようと思っていますが、」
「そうか、」

軽く頷いて遠野は笑った。
そして微かな苦い笑みを目に映しながら、静かに言った。

「家族は大切にした方が良い。いつでも大丈夫と思ったら、後悔する、」

後悔する。

この言葉にこもる遠野の悔恨が、哀しい。
あの安西立籠り事件の直後に遠野は妻を亡くしてしまった、向合い話し合うことも無いままに。
あれから遠野は、夫と教官としての2つの立場で自責し、荒んだ時期があった。
それくらい本当は遠野は、家族と家庭を、人を、愛する心が強いのだろう。

―このひとも、早く幸せになってほしいな

心に祈り想いながら、英二は素直に微笑んだ。

「はい、大切にします。実家も、川崎の家も、」





(to be continued)

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one scene 某日、学校にて―side story「陽はまた昇る」

2012-07-22 07:19:33 | 陽はまた昇るside story
言えないけれど、



one scene 某日、学校にて―side story「陽はまた昇る」

「湯原くん、」

ソプラノボイスに呼ばれて、隣の周太が振向いた。
振向いた視線の先を横目で見ると、女性警官たちが笑顔で手を振っている。
それに周太は会釈して、また前を向いて歩きだす。けれど、その首筋があわい紅にそまっているのが、気になって。
棘のよう気に懸るまま、熱いような重いような違和感が、じわり胸の奥に蟠る。

―なんだよ、最近…

なんで最近、同期の女たちは周太に手を振ってくるのだろう?
それどころか気がつけば、初任教養の後輩女子まで手を振ってくる。
たぶん、華道部で一緒の子たちなのだけど。

「周太?最近、女の子たちがよく手を振ってくるね?」

さらり訊いてみる声は、いつもどおり落着いている。
けれど心はちっとも落着かない。そんな泡立つ気持の隣で、黒目がちの瞳は穏かに微笑んだ。

「ん…そうだね、」
「周太、モテるんだね?やっぱり女の子に言われると嬉しい?」

さらっと言って、ぐっさり自分で胸に刺さった。
だって実のところ周太は女性に好かれると知っている、けれど周太本人は気づいていない。
まだ精神年齢が稚い周太は純粋すぎて、自身への好意に鈍すぎる。そんな無防備に焦燥は募ってしまう。
これで否定されなかったら痛すぎる、こんな痛手どうするんだろう?

「もてるわけじゃないとおもうけど…嫌われるよりは、いいよね?」

―痛っ…い、

自分で言い出した癖に、痛烈なカウンターになって跳ね返った。
やっぱり女の子と恋愛したいのかな?そんな疑問が勝手に廻ってしまう、そんな意味で周太は言っていないと解かるのに。
本当に周太に他意はないのに、勝手に自分で大打撃。こんなことが最近は増えてきた。

「そうだな。嫌われるより、好かれるほうが良いよな、」

穏やかな声で自分の口が言っている、心はいま青痣が疼くのに?
こんな痛みを抱え込んでいるくせに、つい格好つけて理解者ぶってる自分がいる。
周太を好きになる前は、もっと強気だったのに?

―相手に嫌われても良かったから、だから強気にワガママも言えたんだ

ふと心裡に気付く、前と今の自分の違い。
過去の彼女たちになら「他の男とかに愛想よくしないで?」と笑って言えた。
けれど周太には何も言えない、器の狭い男だと思われたくなくて。
もっと好きになって欲しいから、もっと頼ってほしいから、自分を小さく見せたくない。
こんな虚栄を張ってでも、無理矢理でも自分を成長させて、周太に好きになってほしい。
でも、

でも、本当は誰よりも「俺以外を見ないでよ」って、ワガママ言いたいのに?

こんなふうに「周太有り」と「周太無し」で自分は別人みたい。
とくに光一と『血の契』を結んでから尚更に、周太が「特別」だと自覚が深まって。
光一のことが心底大切で抱きたいと思う、愛している、それなのに「恋」にはならない、キスで体と心を繋げてすら。
そして思い知らされる、心の底から体の芯から滲みだす。

“自分にとって周太は唯ひとりの恋人”

唯ひとり、跪いてすらも恋と愛を乞いたい。
今より少しでも嫌われることが怖い、もっと好きになってほしい。
みっともなくても構わない、この自分を愛して恋してくれるなら、なんだってする。
だからほら、こんなに身勝手な自分なのに、ワガママすらも言えなくなってしまった。

みっとみないほど、恋の奴隷。
こんな自分の現実は、まるで薔薇の棘の束縛。
身動きすれば痛くて血が奪われる、けれど香の甘さに心奪われて、もう痛みすら幸せで逃れたくない。
こんなふうに自分が誰かを求めるなんて、想っていなかったのに?

「英二、」

恋する声に名前を呼ばれて、思考の廻りがストップする。
ほら、もう思考も視界も、恋するひとしか映らない。いま自分を見てくれる瞳だけが世界の全て。
こんな自分は本当に恋の奴隷だな?そんな自問に英二は微笑んだ。

「なに、周太?」

返事に呼んだ声は、トーンが甘ったるい。
そんな自覚が我ながら可笑しくて、幸せで、嬉しいと思ってしまう。
何の用で話しかけてくれたのかな?何でも言うこと聴くよ?そんな想いと見つめた恋人は、すこし首傾げこんだ。

「女の子たち、本当は、英二に手を振りたいんだと思うけど?」

なんだ、そんなこと?

心裡がっかりして俯く自分が見える。
けれど今、校内を並んで歩いている自分は微笑んで、大人びた顔で答えた。

「そっか?でも俺のこと、呼んでいないだろ?その程度ってこと、」

呼ぶことも出来ないのなら、知らない。

だって本気なら、どうか振向いてほしいと勇気を抱いて、呼ぶだろう。
そんな勇気も無い相手を見る時間は無い、だって今、自分は本気で恋して愛してる。
周太への恋愛、光一への想い、それから美代の実直な眼差しを今、自分は受けとめている。
この大切な3人の想いを抱えながら、勇気すらないほど浅い感情に向き合う暇は、少しも無い。
そして、本音を言ってしまうなら、

―光一も美代さんも、周太にとって大切だから、尚更に護りたいんだ、

唯一の恋人が笑ってくれる為に大切、だから護りたい。
もちろん二人とも自分にとっても大切、けれどそれ以上に「周太の笑顔」の為に大切でいる。
こんなふうに自分勝手でワガママなまま、自分はこの恋人の為だけに生きている。

こんなに「好き過ぎる」自分はアブナイ男だろうな?
そんな自覚に笑った英二の腕に、ふわり掌の温もりがふれてくれた。

「どうした?周太、」

白い制服を透かす、恋人の温もりが嬉しい。
嬉しくて微笑んだ英二を黒目がちの瞳が見つめて、穏やかな声が言ってくれた。

「英二、俺はね…いつも呼んでるよ?」

嬉しすぎます、そんなお言葉。

だってそれって「いつも名前呼んで、好きって言ってるよ?」って意味ですよね?
そんなこと言われたら嬉しい、嬉しくて英二は恋人を抱え上げた。

「っ、えいじ?どうしたの」
「寮まで搬送トレーニングだよ、周太?」

答えて抱えたまま、校庭を走りだす。
走る視界の端、黒目がちの瞳は途惑って見つめて、困った声があがった。

「まって、みんなみてるよ?ほらおんなのこたちも、ね、はずかしいよ」
「恥ずかしくないよ、周太。トレーニングに協力して?」

答えるうちに寮の入口を潜る。
擦れ違う同期たちに「また訓練かよ?」と笑われて「そうだよ、」と笑い返す。
そうして自室の扉を開いて、すぐ鍵掛けるとベッドの上に恋人をおろした。

「…ね、えいじ?急にどうしたの?」

いったいどうしたの?
そう見つめてくれる瞳も可愛くて仕方ない、この瞳に今、自分しか映らないと幸せで仕方ない。
この幸せを見つめて英二は、唯ひとりの恋人に笑いかけた。

「いつも呼んでいてよ、周太。いつも、ずっと、俺だけを呼んで?」

ほら、やっぱりワガママを言ってしまう。さっきの「いつも呼んでる」に赦しを貰ったみたいに?
こんな想いと綺麗に微笑んで、恋する唇にキスふれた。




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第50話 青葉act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2012-07-21 23:53:33 | 陽はまた昇るanother,side story
悲喜、それでも優しい場所



第50話 青葉act.4―another,side story「陽はまた昇る」

雲取山避難小屋前で救助された男性は、やはり埼玉県警で手配されている強盗犯の被害者だった。
そのため今日は奥多摩全域で終日入山が規制され、青梅署による山狩りが行われている。
そして吉村医師のレスキュー講習会場も、青梅署会議室に変更された。

「ぼく、宮田のお兄さんと山に登れるな、って、楽しみにしてたのに、」

がっかり顔の秀介が周太の隣でシャーペンを回している。
山岳救助隊員の3人は下山後の風呂を済ませて署に戻ると、すぐ山狩りに加わり講習も欠席になった。
いま初任総合でなかなか会えない英二は不在、楽しみにしていた登山も無くなっては、さすがの秀介も「がっかり」だろうな?
そんな様子が可哀想で周太は、秀介に笑いかけた。

「秀介、俺で良かったら後で、一緒に勉強する?」
「え、いいの?やったあ、」

ぱっと可愛い笑顔を咲かせてくれる。
嬉しそうな声弾ませて、秀介はねだってくれた。

「ぼくね、今日は周太さんも来るよ、って美代ちゃんに聴いて楽しみにしてたんだ。それでドリルも持ってきてるの、」
「ん、俺もね、美代さんから秀介も参加する、って聴いて楽しみにしてたよ?」

秀介の言葉が嬉しくて、周太も微笑んで答えた。
ひとりっこで親戚もいない自分にとって、秀介は弟か従弟がいたらこんなふうかなと思わせてくれる。
そんな嬉しい気持ちでいる隣から、楽しそうに美代が訊いてくれた。

「ね、湯原くん、私の勉強もみてくれる?」

美代の勉強はもちろん、大学受験の勉強のこと。
この大切な友達の夢は周太の夢でもある、協力できるのが嬉しくて周太は微笑んだ

「ん、いいよ、」
「よかった、質問がちょっとあるの。ね、お昼ごはんとか皆、どうするの?」

関根と瀬尾にも美代は訊いてくれる。
訊かれて関根が笑って答えた。

「特に決めてないんだ、俺たち。宮田任せだったからさ、」
「じゃあ、吉村先生もお誘いして皆で、ってどうかな?私、車で来ているし、」

美代の提案は楽しそうだな?
そう思った周太の向かいから瀬尾が嬉しそうに微笑んだ。

「そうしたいな、俺。吉村先生のお話、いろいろ訊いてみたかったんだ、」
「瀬尾くん、吉村先生のこと知ってるの?」
「うん、宮田くんが事例研究で先生の話をしてくれてね。それで俺、先生のご本を読んで、」

話しながら鞄を開くと、瀬尾は一冊のハードカバーを取りだした。
その著者名が「吉村雅也」となっている、驚いて周太は尋ねた。

「それ、先生が書いた本なの?」
「うん、実家に帰ったとき、ネットで調べたら見つかったんだ。それで取り寄せてね、」

嬉しそうに本を見せて瀬尾は笑っている。
瀬尾は警察関係のことなら何でも好きで、よく本も読むと聞いていた。だから警察医のことも興味を持って当然かもしれない。
吉村医師が本を書いていたなんて初耳だ、自分も読んでみたい。周太は博学な友達に訊いてみた。

「その本、もう読み終わった?」
「うん、2回読んだよ。学校に戻ったら貸そっか?」

優しいバリトンボイスが提案してくれる。
自分から頼みたかった事を言って貰えて嬉しい、嬉しくて周太は頷いた。

「ありがとう。その本、俺も読んでみたい」
「おや、何の本の話ですか、」

穏やかな声に話しかけられて振向くと、吉村医師が傍に立っている。
ちょうど会議室に入ってきてくれた所らしい、驚いて赤くなりそうな首筋を気にしながらも、周太は微笑んだ。

「あの、先生が書かれた本のことです、」
「私の?…あ、」

訊き返しながら吉村医師は瀬尾の手元を見た。
すぐ困ったよう気恥ずかしげに微笑んで、吉村は抱えた資料と一緒に席に着いた。

「その本、よく見つけましたね?もう5年ほど前なのに、」

資料の支度をしながら吉村医師は、照れくさげに瀬尾に笑いかけてくれる。
すこし緊張しながらも瀬尾は嬉しそうに答えた。

「ネットで探したんです。宮田くんから先生のお話を聴いて、ご本を書かれているかも、って思って、」
「おや。どうして、そう思われたんですか?」

楽しげに切長の目が笑んで、興味深そうに吉村医師が尋ねた。
訊かれて瀬尾は微笑むと、明快に答えた。

「はい、ERの権威で、警察医の改善に務められていると伺って。そういう方なら、著作の依頼も多いだろうって考えました」

…なるほどな?

素直に感心して周太は、あらためて瀬尾の洞察力を思った。
こういうとき瀬尾は本質的に聡明だと窺わせる、きっと本気になれば相当出来るタイプだろう。
そんなことを考えている前で瀬尾は立ち上がって、吉村医師の傍に行くと本を差し出した。

「吉村先生、図々しいですが、サインいただけませんか?」

やっぱり、その目的なんだ?

昨日も瀬尾は後藤副隊長にサインを願い出ていた。
今回の訓練と講習会の参加は瀬尾にとったら「ファンの会」みたいな面もあるのかな?
そう思うと何だか可笑しい、つい笑いそうになりながら見たロマンスグレーの白衣姿は、穏やかに微笑んだ。

「おや、私のサインですか?そうか、君が後藤さんにサインを書いてもらった、瀬尾くんですね?」
「はい、後藤副隊長に聴かれたんですか?」
「ええ、昨夜一緒に呑んだ時にね?湯原くんにも言われたからなあ、って、照れながら喜んでいましたよ、」

楽しげに笑いながら吉村医師は、白衣の胸ポケットから万年筆を出してくれた。
長い指の手は本を受けとると裏表紙を開き、さらりペン先を走らせた。

「乱筆で、お恥ずかしいですけれど、」

穏やかな笑顔に本を返されて、瀬尾は嬉しげに微笑んだ。
そして裏表紙の見開きを見、優しい目は賞賛に大きくなった。

「すごい達筆です、ありがとうございます、」
「いや、恥ずかしいですね?」

ほんとうに恥ずかしそうに吉村医師は困り顔で微笑んだ。
その傍らで瀬尾はサインを眺めて、ふと医師に質問をした。

「先生、ここ『迷医』って書かれていますけど、どういう意味ですか?」
「訊かれると恥ずかしいんですが、それは、宮田くんとの会話からなんです、」

照れくさげなロマンスグレーの笑顔に、ふと周太は記憶を思い出した。
この『迷医』については英二から聴いたことがある、その記憶をなぞるよう吉村医師は口を開いた。

「宮田くんが私を『名医』と言ってくれたんです。それで私は、“迷う” 医者という意味では迷医だな、って答えてね。
それから座右の銘みたいに、肩書きに代わりにさせてもらっています。迷いこそが自分を成長させてくれると、忘れないようにね」

吉村医師の「迷い」
その意味を周太は英二に訊いて、知っている。
それは吉村医師にとって最も哀しい経験が生み出した、その事への想いが心響いてしまう。
このことを瀬尾ならきっと質問するだろうな?そう見ている先で瀬尾が、提案をした。

「先生の『迷い』について、お話を伺ってみたいです。講習会の後は、お時間がありますか?」
「はい、今日は夕方まで空けてあります。本当は山の現場で講習の予定でしたし、湯原くんにお願いしたいことがあったので、」

答えながら穏やかな笑顔を周太に向けてくれる。
この医師の「お願いしたいこと」はこれだろうな?嬉しい気持ちで周太は頷いた。

「先生。俺、コーヒー買ってきたんです。このあと、診察室にお邪魔しても良いですか?」
「もちろんです、こちらからお願いするつもりでしたから、」

嬉しそうに吉村医師が頷いてくれる。
そのとき周太の隣から、すこしデスクに身を乗り出すよう秀介が手を挙げた。

「吉村先生。ぼくも診察室におじゃまして、いいですか?ぼく、警察医の診察室に入ってみたいんです、」

秀介の夢は医師、それも吉村医師のような警察医と山岳医療を目指している。
この夢の発端は秀介の祖父、アマチュアカメラマンで山ヤだった田中の遭難死だった。
あの葬儀の日に見つめた秀介の想いと、田中の絶筆になった竜胆の写真は、今も周太の心に響く。
この夢のために今日も秀介は講習会の参加を願い出たろうな?そんな想いの向こうで吉村医師は嬉しそうに頷いた。

「はい、もちろん良いですよ。どうぞ見学して行ってくださいね、」
「やった、ありがとうございます、」

小学生らしい喜びの表現をして、秀介はきちんと座り直した。



フィルターを通った湯はダークブラウンに変わり、芳香の湯気が昇りだす。
やわらかな陽射しふる診察室の午後は、相変わらず穏やかで温かい。
6つのマグカップにコーヒーを淹れながら、周太は一緒に手を動かす美代に口を開いた。

「あのね、本当は俺、昨日は同期と昼ご飯を一緒にする約束だったんだ、」
「あ、そうだったの?私、その人に悪いことしちゃったのね?でも、こっちに来てくれて嬉しいけど、」

詫びと喜びを素直に言って美代が笑ってくれる。
その笑顔を嬉しく見ながら周太は、尋ねてみた。

「ん、その同期が言ってくれたんだ、こっちに行って良いよ、って。自分の方は、いつでも良いから、って言って。
でも俺、この後って毎週土曜は大学があるでしょ?だから同期との約束が出来そうになくて。こういう時、美代さんならどうする?」

この友達なら良い答えを教えてくれるかな?
そんな期待と見た美代は、きれいな明るい目を笑ませて言ってくれた。

「ね、だったら講義の後で、学食に来てもらうとかダメかな?あとは勉強するブックカフェに来てもらうとか、」
「いいの?美代さん、」

そうさせて貰えると良いかもしれないな?
首傾げた隣で美代は、気さくに頷いてくれた。

「私は大丈夫よ。もしブックカフェなら私が問題解く間とかに、お話し出来るかな?って。それとも私、その日は遠慮しようか?」
「それはダメだよ、美代さんの勉強の方が先の約束なんだし、大切だよ?」

即答しながら周太はコーヒーのフィルターをカップから外した。
美代も一緒にしてくれながら、嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう、湯原くん。そう言ってくれるの、ちょっと期待していました、」
「ん、期待してくれて、うれしいよ?」

笑いながらマグカップをサイドテーブルに運んでいく。
最後のカップには砂糖とミルクをたっぷり注いで、秀介用に甘いコーヒーミルクに作った。
ふたり並んで支度を整えながら、思い出したよう美代が訊いてくれた。

「ね?そういえば、女の子たちはどうなったの?」
「あ、華道部の人たち?」

訊き返した周太に、美代は頷いてくれる。
椅子を並べていた関根が気がついて、首を傾げた。

「湯原、華道部の女子が、どうかした?」
「ん…ちょっと困っていたんだ。でも、大丈夫になったよ?」

すこしぼかした答えに周太は微笑んだ。
なんとなく気恥ずかしくて自分では答えにくいな?そう思った隣から美代は笑って、さらり答えてくれた。

「湯原くんね、宮田くんのこと質問攻めされて、困っていたの。だから『訊いて回られるの嫌いみたい』って言ったら良いよ?
って、このあいだ話していたの。そうしたら嫌われたくないから、女の子たちも二度と訊いて来なくなるから。その効果はあったのね?」

関根に答えながら美代は、周太に訊いてくれた。
こうして覚えていて心配してくれていた、それがなんだか嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、もう訊いて来なくなったよ?でもね、手を振ってきたりはするけど、」
「そういえば湯原、最近よく女子たちに手振ったりされてるよな?それのことか?」

快活に笑って関根が訊いてくれる。
そういうところ見られていたんだ?なんだか恥ずかしくて周太の首筋は熱くなりだした。

「ん、そうかな?…先生、コーヒー熱いうちにどうぞ?」
「はい、ありがとうございます、」

茶菓子を並べてくれた吉村医師が、笑って席に着いてくれた。
その向こう、診察室を見て回っていた秀介が、吉村医師のデスクの前で首を傾げこんだ。

「先生、この写真、宮田のお兄さん?」

医師をふり向いて秀介が尋ねてくる。
その隣から瀬尾も覗きこんで、不思議そうにデスクの写真立てを見つめた。

「宮田くんに似てる、でも…別のひとですよね?」

写真立てから瀬尾も吉村医師へと視線を移す。
ふたりの視線を受けとめて、吉村は穏かに微笑んだ。

「はい、息子の雅樹です。医学部5回生の秋に、山で亡くなりました、」

答えに秀介と瀬尾と、関根の目が息を呑んだ。
そっと隣を見ると美代は哀しげに俯いている、きっと当時の哀しみを思っているのだろう。
それぞれの想いが交錯する中心で吉村医師は微笑んで、皆に茶菓子を進めると口を開いた。

「瀬尾くん、さっき講習の前に話した『迷医』の原点はね、この息子なんです。雅樹は私には勿体ない、自慢の息子でね。
中学生の時に救急法を満点合格して、医大に進学しました。大好きな山で人助けをするのだと、山岳医療の医者を目指していてね。
いつでも命を救えるようにと、普段から救急用具を持ち歩いていました。けれど、あの日に限って息子は忘れて。それが命取りでした」

ほっと息吐いて、ひとくちコーヒーを啜りこんでくれる。
穏やかな眼差しで「美味しいです」と周太に微笑んで、吉村医師は話しを続けた。

「当時の私は大学病院の教授として自信に溢れて、傲慢になっていました。ですが、今の私から見たら何も解ってはいなかった。
けれど息子が山で死んで。なぜ息子に一言『救急用具を持ったか?』と訊けなかった?そう自分を責めて私は、迷うようになりました。
息子は死にました、けれど息子の人生をもっと見つめたいと諦められなくて、迷ってね。だから私は、地元の奥多摩に戻りました。
息子が愛した山で廻っていく人生を、私は見つめることにしたんです。そうする事で、息子の人生を垣間見れるように思ったからです、」

明るい部屋に穏かなトーンが静かに響く。
ゆるやかな芳香くゆらす湯気の向こう、吉村医師は微笑んだ。

「大切な存在の死を諦めきることは、とても難しいです。だから私はまだ、これからも迷うでしょうね。
けれど、この迷いこそが目の前の患者や遭難者、そして、ご遺体を見つめる時、真剣な目となっています。
息子を求める迷いが、相手を真直ぐ見つめさせてくれるんです。迷いこそが私を成長させています、だから私は『迷医』なのです」

くすん、

かわいい鼻を啜る声が隣で鳴って、周太は小さな友達をのぞきこんだ。
思った通り秀介が涙をこぼしている、その目許をハンカチで拭ってやると、秀介は微笑んだ。

「ありがとう、周太さん、」
「ん、どういたしまして…秀介、先生に話したいこと、あるんでしょう?」

きっと秀介は言いたいことがある。
そう思って笑いかけた先、可愛い笑顔は嬉しそうに頷いてくれた。

「うん、当たり。ありがとう、周太さん、」

微笑んで秀介は、吉村医師に向き直った。

「吉村先生。先生の気持ちはね、ぼく、解かるかも?ぼくもね、じいちゃんが山で死んで、医者になりたいってなったから、」

秀介の言葉を、関根と瀬尾が見つめている。
そして今度は美代が涙を呑んだ気配に、周太はポケットティッシュを差し出した。
そんな皆の視線を受けて、すこし羞みながらも秀介は微笑んだ。

「じいちゃん、山が大好きだったでしょ?だから、ぼくも山に行ってみたい。じいちゃんが撮った写真の場所に行きたいです。
それでね、じいちゃんみたいに山で具合が悪くなった人を、助けたい。山で亡くなった人と家族を、先生みたいに受けとめたい、」

真直ぐな言葉が吉村医師へと向かっていく。
穏やかな目はすこし大きくなって、小さな少年を見つめている。その目に微笑んで秀介は言った。

「先生、ぼく、先生の後を継いでね、ここで警察医になりたいです。それでね、先生みたいに山の病院もしたいんです。
だから今日も光ちゃんに聴いて、講習会に出たいってお願いしたんです。先生、ぼくにも山とお医者のこと、教えてくれますか?」

これが秀介が今日、ここに来た理由。
きっとそうだろうなと思っていた、けれど本人の言葉が述べる決意表明は、まぶしい。
この小さな後輩に吉村医師は、心から嬉しそうに笑いかけた。

「はい、どうぞ勉強に来て下さい。土日は病院の方にいますから、そちらでも良いですよ?お父さんにも許可を貰って、来て下さいね、」

秀介の顔が、ぱっと明るんだ。
笑顔のまま弾んだ声が明るく笑って、秀介は可愛い頭を下げた。

「ありがとうございます、ぼく、頑張ります。よろしくお願いします、」

いま夢がひとつ、前に一歩踏み出した。

きっと吉村医師にとっても秀介の夢は「希望」だろう。
吉村医師が秀介に山と医療を教えていくことは、雅樹との記憶をトレースすることになる。
これから秀介は大人になり、雅樹の年齢を越えて、いつか一人前の医師になっていく。
その姿を見守ることは、吉村医師が望んだ「雅樹の人生を見つめる」ことになるだろう。
それは吉村医師にとって、きっと大きな救いになっていく。

…すごいね、秀介。たった今ね、きっと1人助けられたよ?

この小さな友人の頼もしい横顔に、周太は心からの賞賛を贈った。





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P.S 斑雪、希望は消せない ―ext,side story「陽はまた昇る」

2012-07-21 04:33:23 | 陽はまた昇るP.S
時に、永遠を抱けることもある



P.S 斑雪、希望は消せない―ext,side story「陽はまた昇る」

叔父が死んだ。

まだ35歳、結婚も控えていたのに、叔父は亡くなった。
路面凍結によるスリップ事故、歩道に突っ込んだ車体に叔父は巻き込まれた。
集中治療室の扉の向こう側、心拍停止の音が響き渡って、叔父の命は消えた。

「…うそだ、」

ぽつり、父の唇こぼれた言葉が、心刺す。

本当に、これが嘘だったら良いのに?
だって叔父は死ぬべき人じゃない、まだ生きるべき人だから。

働き盛りの35歳、今春4月には結婚式を控える、多忙でも幸せな時だった。
名門大学に留学して、ビジネススクールを修了して、外資系企業に3年勤務した後、実家に入社して。
瀬尾家の跡取り、次期代表取締役、輝かしい後継者として将来を嘱望されていた。

そして、父が誰より愛する末弟。
たぶん息子の自分よりも、父は弟を愛している。



カーン…カーン…

礼拝堂の鐘が鳴る。
あわい雪が時おりふるグレーの空は、春とは名ばかりだと思い知らされる。
冷たい雪風が吹きつける墓地への道、あわい雪は消えながらも静かに積もりだす。
降りそそぐ雪のなか、警察官の礼服に抱いた骨壺が温かい。

まだ名残る火葬の熱はまるで、逝ったひとの体温のようで。
幼い日に何度も抱きあげて貰った、あの日の温もりが懐かしい。
いつも励ましてくれるとき、肩に置いてくれた大きな掌の温もりが懐かしい。
懐かしさに込み上げる涙を密やかに呑み下す、その背中に様々な声が聴こえてくる。

「…まだ35歳だなんて、ご結婚も控えて…」
「MITでMBAを取ったって伺いましたが、亡くなってしまっては…」
「後継者は……だけど、不登校で……警察官…」
「ああ、それではね……どうするか…」

参列者の密やかな会話が全て聞えてしまう。
彼らは聞えないと思って話しているのだろうか?それとも、わざとだろうか?

―僕のこと話してるんだね…不出来だ、って

心裡の声が自分で、苦い。
言われなくても解かり過ぎている、自分が「不出来」だということくらい。
そんな自分だからこそ、優秀な叔父に憧れて尊敬して、大好きだった。

だから、想ってしまう自分がいる。
参列者が呟く泰正への批評も、叔父を惜しむ声ならば、それすら嬉しい。
そんな想いと眺める黒い喪服の群れは、斑に積もった雪の芝生を静かなざわめきと進んでいく。
自分より少し前、支えられて歩く女性の後ろ姿に心が痛い。
彼女は、叔父の婚約者だった。

喪服に包んだ背中にやつれが見える、彼女の深い悲しみが滲んでしまう。
彼女はこの先どうするのだろう?どうか幸せになってほしい、そんな祈りと雪を歩く。
そして真白い墓標の前に着いて、泰正は胸に捧げた骨壺を抱きしめた。

「泰正、」

父の声に、泰正は顔を上げた。
その視線の先には憔悴しきった父の顔が、それでも静かに微笑んでいた。

「聡嗣に、最後の別れをしなさい、」
「はい、」

静かに純白のカバーをほどき、白い骨壺を取りだす。
自分の手から墓守が受けとって、まだ温かい骨壺が掌から離れてしまう。
白い墓石の元へ納められていく姿を見つめて、クロスを切ると泰正は最後の合掌を捧げた。
見つめる骨壺が小さく見えて、大柄だった叔父との比較に呆然とさせられる。
身長180cmも、今は20cm程度の壺に納められてしまった。

「…聡嗣にいさん、」

ぽつり、大好きな人の名前がこぼれて、涙がひとつ落ちた。

泰正が不登校になったとき、聡嗣は仕事の合間に勉強を見てくれた。
けれど三流大学しか合格出来なくて、それでも聡嗣は一緒に喜んで褒めてくれた。
そして、警視庁に合格した時は、本当に喜んでくれた。

「よくやったなあ、泰正!すごいな、子供の頃からの夢だったもんな、」

快活な笑顔が心から笑って、合格通知を見つめて喜んで。
褒められて嬉しかった、けれどコンプレックスが痛くて自分は言ってしまった。

「ありがとう、聡嗣にいさん。でも…僕、やっぱり落ちこぼれだよね?」

『落ちこぼれ』

ずきり、言ってしまった言葉が古傷を抉る。
名門の中高一貫校に自分は入学した、けれど高校2年から不登校に陥り、ドロップアウトした。
その発端は、声変わりを殆どしなかったことだった。この記憶の現実が心締め上げるまま、泰正は続けた。

「聡嗣にいさん、正直に教えてほしいんだけど。こんな声で警察官になって、やっていけるって思う?」

この声に纏わる記憶が、痛い。
この痛みのまま正直に、自分は聡嗣へと話した。

「僕、女の子みたいな声でしょう?背も高くないし、女顔だし…高校のときの不登校は、本当は、これが原因なんだ、」
「…泰正、ドライブに行こうか、」

優しく微笑んで聡嗣は、泰正を家から連れ出してくれた。
夏7月の終わり、土曜日の午後。静かな車窓を眺めながら着いたのは、海だった。
真青な海に太陽は傾きかけて、すこしずつ人が減っていく浜辺を並んで歩いた。

ざあん、ざあ…

単調な音がやさしい、潮の香がいつもの生活から離してくれる。
ずっと車内では黙ってしまっていた緊張が、潮騒に凪がされていく。
ほっと吐息に心ほぐして、泰正は口を開いた。

「聡嗣にいさん。僕、イジメられたから学校行かないって、あのとき言ったよね?でも、本当は違うんだ…」

言いかけて、ひとつ呼吸する。
このことを話すのは勇気がいる、知られることが怖くて秘密にしてきたから。
それでも自分の理解者には話したくて、泰正は口を開いた。

「僕、告白されたんだ。クラスの人と、部活の先輩に、ね」

聡嗣の足が止まった。
泰正も足を止めると、軽く首を傾げて聡嗣が尋ねた。

「泰正、あの学校は、今も男子校だよな?」
「うん。聡嗣にいさんが卒業した時と、変わらないよ?ずっと男子校…」

ため息がこぼれてしまう、それでも泰正は微笑んだ。

「男ばっかりだからかな?ちょっと可愛いタイプの子はね、なんか大事にされるんだ。告白したとかの噂も聞いてたよ。
でも、僕まで言われると思っていなかった。だけど、高1くらいまでに皆は声変わりしたのに、僕はこんな声のままでしょ?
身長も伸びなくなって。周りはどんどん大きくなるのに、僕は中学の時とあまり変わらない。でも僕、気にしていなかった、」

周りは体つきから大人びて、男らしくなっていく。
けれど自分は大して変わらない、この現実が刻んだ傷みが、苦い。苦い古傷を見つめて泰正は続けた。

「けど、高2になったころから、なんとなく周りが変わってね。それでも自分は子供っぽいだけって思って、気にしなかったよ。
でも、クラスの友達に告白された、好きだって…男なのにって驚いた。僕には真紀ちゃんがいるし、断ったよ。それで気まずくなって。
その友達、委員会でも一緒だったんだ、それで委員会の時間が辛くなって。そうしたら今度は、部活の先輩に告白されて…また断って、」

ぽつん、

涙が頬つたって、砂浜に吸いこまれる。
消えていく涙を見つめて、また顔を上げると聡嗣の目を見つめて、泰正は微笑んだ。

「クラスでも委員会でも、部活でも気まずくなっちゃったんだ。それで居場所が無くなって、学校に行けなくなったよ、」

こんな理由は恥ずかしい、それでドロップアウトしたなんて?
こんな理由は誰にも言いたくなくて、いじめに遭ったからと家族に嘘を吐いていた。
けれど大好きな叔父には、もう、嘘を吐きたくない。泰正は正直に口を開いた。

「ふたりから、同じことを言われたよ。僕のこと女の子みたいに可愛い、つきあいたいって言うんだ。でも、僕は男だよ。
ふたりとも悪気はないんだって解ってる、でも、そういうふうに見られていると思うと気まずくて、話せなくなったんだ、」

微笑んで見つめる聡嗣の目は、真直ぐ見つめてくれている。
きちんと受けとめ聴いてくれている、そんな眼差しが嬉しい。この信頼に泰正は言葉を続けた。

「こんなふうに僕は、男の癖に女扱いされるような人間なんだよ。こんな僕だけど、本当に警察官になれると本気で思う?
運動も得意じゃない、そんなに頭が良いわけでもない、自信なんて無い。だから本当は、記念受験のつもりで受けたんだ、
ずっと警察官に憧れていたから、だから、受験して落ちて、諦めよう。そう思って僕、本当は諦めるために受験したんだ、」

ぽつん、ほとり、

本音の言葉に涙あふれて落ちる。
これが弱虫な自分の本音、諦めるために落ちるために受験だなんて、馬鹿だ。
こんな馬鹿な自分をもう、聡嗣は呆れてしまったかもしれない。そんな想い見つめる真中で、年若い叔父は口を開いた。

「泰正は、優しいな、」
「え…、」

どういう意味だろう?
そう見上げた先で叔父は、快活な目を温かに笑ませた。

「その友達や先輩のこと、傷つけるかも、って気を遣い過ぎて、学校に行けなくなったんだろ?違うか?」

どうして?
どうして叔父には解るのだろう?

「うん…僕の顔見たら、傷つくかなって…でも、断った罪悪感が、嫌なだけかもしれない、」
「どうして泰正は、そんなに罪悪感を感じるんだ?」

海風のなか、快活な笑顔が率直に訊いてくれる。
黄昏が長身を照らすのを見上げて、泰正は思うままを言った。

「男同士で告白するのはね、きっと勇気が必要だって思うんだ。だって、普通じゃない、って思われるの怖いでしょう?
ふたりとも一生懸命に言ってくれたと思う、でも僕は話すことすら避けて、逃げるようになって…卑怯だから罪悪感、感じるよ、」

ようするに自分は無視をした。こんな自分こそイジメの加害者だ、せめて友達として普通に話せたら良かったのに?
けれど、そんな解決も出来なかった自分を、時が経つほど赦せなくなってしまう。こんなふうに自分は弱い。
こんな自分が警察官になって、やっていけるのだろうか?後悔と疑問に佇む泰正に聡嗣は快活に微笑んだ。

「そんなに罪悪感を感じるほど、泰正は相手を思い遣っている、ってことだよ、」

闊達な声が笑って、ぽん、と肩に掌を置いてくれる。
大きな掌は温かい、ほっと肩から力ぬけて微笑んだとき、聡嗣は言ってくれた。

「警察官ってな、相手を思い遣れることが必要だ、って俺は思うよ。加害者でも被害者でも、どちらも心に怪我した人間だろ?
どっちも心が弱っているんだ、そういう人間を思い遣れる優しさが心を開かせて、弱った心も癒す切欠に出来ると俺は思うよ。
そうやって心を癒せたら、たぶん、犯罪は世の中から減っていくんじゃないかな?だから泰正、おまえは有利だってことだよ、」

なにが有利なのだろう?
そう見上げた泰正を、聡嗣は温かな眼差しで受け留めてくれた。

「泰正は、人の顔と名前を一度で憶えるだろう?これは帝王学の初歩として必要だって、兄さんにも言われたと思うけど、
これは経営だけじゃなくて、人間関係全てに共通だ。人ってな、自分のことを憶えられて、気遣ってもらえると嬉しいものなんだ。
しかも泰正は優しいから、相手のことを忘れないで気遣えるだろう?きっとな、警察官として出会った人にもそう出来たら、喜ばれるよ」

大きな掌が、ぽん、と優しく肩を叩いた。
そして快活な笑顔で聡嗣は、泰正に約束してくれた。

「泰正は良い警察官になれるよ。出会った人を癒せるような、優しい警察官になれる。そうやって犯罪が減る手伝いが出来る」

自分が良い警察官になれる?
そんなふうに敬愛する叔父に言われたら嬉しい、嬉しくて素直に泰正は笑った。

「ほんと?僕でも良い警察官になれるかな?でも、能力的な適性っていうと、困るよね?」
「そんなこともないぞ、泰正は絵が得意だろ?」

浜辺を歩きだしながら、聡嗣は教えてくれた。

「似顔絵捜査官、っているんだよ。俺もアメリカにいた時に知ったんだけどな、1,200件以上の事件を解決に導いた人もいるらしい」
「1,200件?すごい、」

さくりさくり、砂の踏む音が足元を温める。
ゆっくり潮風を歩きながら聡嗣は、快活に笑って言葉を続けてくれた。

「泰正は肖像画を描くのが巧いだろ?それに人の話を聴くのも上手い。おまえなら、目撃者や被害者の話をよく聴いて描ける。
だから俺は、泰正が警視庁を受けるって聴いた時から、似顔絵捜査官を目指したら良いかもしれない、って思っていたんだ。
似顔絵捜査官になって色んな人に出会ったら、泰正は大きい男なれると思うぞ。人の話を聴くことは、心の器を大きく出来るから、」

似顔絵捜査官。
人の話を聴いて、似顔絵を描く仕事。それなら自分の個性が活かせるかもしれない?
そうして自分が大きい男に成れたら嬉しい、そう素直に想えて泰正は叔父にねだった。

「聡嗣にいさん、本屋に連れて行ってくれる?僕、似顔絵捜査官の本が欲しいんだ、」

そして海からの帰り道、聡嗣は似顔絵捜査官の本を数冊買ってくれた。
合格祝いだと言って笑って「楽しみだな」と言祝いでくれた。
あのときが、似顔絵捜査官という夢との出会いだった。

カーン…カーン…

礼拝堂の鐘が鳴り、雪の粒が小さく冷たくなっていく。
いまは冬1月、あの夢と出会った夏の海から1年半が過ぎ去った。
あのとき隣を歩いていた快活な笑顔は今、冷たい純白の墓標の下で永遠の眠りについた。

「…っぐ、」

込み上げた涙を飲み下す。
ここで今、泣きたくない。だって今、自分は警察官の礼服を着ている。
今日の葬儀の為に礼装許可を申請して、警察官として今、自分はここに立っている。
今、見送られる人も一緒に望んでくれた警察官の夢、その夢を叶えた姿で見送っていたい。
きっと叔父の死によって自分は、この制服を脱がなくてはいけないから。

瀬尾の家で後継者になれる男は、もう自分しかいない。
いまは女性経営者も多い時代だろう、けれど従姉妹たちも妹も経営は何も知らない。
いくら不出来だろうが何だろうが、唯一の男子である泰正が背負うしかない、相応しくなるまで努力するだけ。
それが出来なければ瀬尾の家も会社も離散してしまう、そうすれば一体どれだけの人が職を失うことになる?
こんな世襲制は今時珍しい、けれど世襲によって信頼を積んできた以上は自分が継ぐしかない。

そういう意味でも聡嗣の存在は、泰正の庇護者だった。
聡嗣という若く優秀な叔父がいてくれたから、泰正は長男の息子でありながら自由に進路を選ぶことが許されていた。
家族のなかで泰正の進路と夢を最も理解して応援してくれたのも、聡嗣だった。兄のように父のように見守り支えてくれた。
だからこそ今日は、聡嗣と見た夢の姿で立つことを選んだ。微笑んで立ち上がると泰正は、背中を真直ぐ伸ばした。

「聡嗣にいさん、ありがとうございました、」

23年間の想いに微笑んで、泰正は愛する墓標へと敬礼を送った。



海は、白かった。

雪染まる海岸は波打ち際、凍れる潮の波紋が残され、波にまた消え、形を変えていく。
葬儀の後、夜をこめて降り続いた雪は今朝も残り、ときおり小雪が海風に舞う。

ざくり、

踏みしめる砂も凍って、雪と砂がブーツの下を砕けていく。
髪なぶる潮風も雪まじり、冷たい頬が風に痛い。コートを透かし冷気が沁みこんでくる。
こんな場所でも手を繋いで歩いてくれる隣へと、泰正は笑いかけた。

「真紀ちゃん、寒いよね?車で待っていてもいいよ、」
「ううん、平気。一緒に歩きたいの、」

隣で薔薇色の頬が明るく笑ってくれる。
この笑顔に自分は今まで、なんど心を照らしてもらっているだろう?
幼い頃から見慣れた愛しい笑顔に、泰正は微笑んだ。

「真紀ちゃん、ごめんね。俺、5年経ったら警察官を辞めるんだ、」

自分の言葉を、笑顔が受けとめてくれる。
この女の子と幼い日に結んだ約束に、泰正は謝った。

「お巡りさんの奥さんになるって、真紀ちゃんが言ってくれた時ね、嬉しかった。だから俺、ずっと頑張れたよ?
本当は俺、ダメもとで採用試験を受けたんだ。でも受かった時は、真紀ちゃんとの約束が果たせる、って嬉しかった。
だから、警察学校とか辛かったけど、頑張れたんだ。でもね、5年後に俺、家の会社に入ることになったんだ。約束、ごめんね、」

長い髪を雪風にひるがえし、優しい目が見つめてくれる。
そっとマフラーを掻きよせながら、可愛い声が尋ねてくれた。

「やっぱり、泰くんが叔父さまの代わりをするの?」
「うん、」

短い返事と頷いて、泰正は微笑んだ。

「聡嗣にいさんみたいには、俺は優秀じゃないよ。でもね、俺は警察官になったよ。だから夢を叶える自信なら、少しあるんだ、」

こんな自分に優秀な叔父の代わりが務まるはずがない、そう解っている。
けれど自分はもう決めた、この想いを泰正は言葉に変えた。

「警察官になって俺、たくさん泣いたし悔しい事もあった。それ以上に嬉しい事もあって、すごく良い友達も出来たんだ。
この9カ月間は俺にとって、23年間の全部を足した以上の意味がある。だからね、あと5年の間に俺は、もっと成長できる。
警察官の5年間で俺は、家も会社も護れる大きい男になってみせるよ。だから父さんから5年貰ったんだ、それに、約束だから、」

雪風に真紀のマフラーがひるがえって、泰正は手を伸ばした。
そっと衿元に戻してあげると、優しい瞳が泰正に微笑んだ。

「ありがとう。約束って、叔父さまと?」
「うん。聡嗣にいさん、似顔絵捜査官になって大勢の人と出会って、大きい男になれ、って言ってくれたんだ、」

きちんとマフラーを巻きなおして、また手を繋ぎ直す。
ゆっくり歩きだしながら泰正は、自分の許嫁に尋ねた。

「この5年の間に俺は、似顔絵捜査官になるよ。聡嗣にいさんに言われたように、俺は大きい男になる努力をする。
でも5年経ったら俺は辞職する、そして家の会社で平社員からスタートし直すんだ。だから給料も安いし、贅沢は出来ない。
社長になっても気苦労が多いよ。それでも真紀ちゃん、俺のお嫁さんになってくれる?大学卒業したら、本当に結婚して良いの?」

もちろん警察官も簡単な道ではない、けれど企業経営者は社員と家族の人生を背負うことになる。
それは生半可な事ではないと、父と叔父を見て育った自分は知っている、母の姿にも見つめてきた。
父は元気だけれど、50代なのに白髪に近い。それは母も同じで染めていなければ真白だろう。
そんな気苦労を自分の伴侶には、共に背負わせることになる。それを謝る言葉を泰正は告げた。

「真紀ちゃん、俺との結婚が嫌だったら、婚約解消して?遠慮なんかしないで、正直に言ってほしい、よく考えてほしい。
真紀ちゃんと俺は、小さい頃に婚約したよね?俺が小学校に入る時に親が決めて、もうじき17年になる。許嫁な事が当然になってる。
でも、真紀ちゃんも去年、成人式が終ったよ。俺たち、もう大人になったんだ。もう、自分の意志で結婚相手を決められる、だから、」

言いかけた頬を、急に抓られて言葉を呑んだ。
頬を抓った指が冷たくて、寒風に真紀を晒しすぎたことが心配になる。
大丈夫かな?そっと頬抓る指を掌でくるんで、泰正は尋ねた。

「まひちゃん、はむいんやない?ゆひ、ふめたいよ?」
「もう、泰くん、」

抓った指をそのままに、薔薇色の顔が笑いだした。
可笑しくて堪らない、そんなふう笑いながら、けれど優しい瞳から涙がこぼれだす。
その涙がきれいで、泰正は指を伸ばすとそっと目許を拭った。

「泰くんの指こそ、冷たいね、」
「ほう?ほめんね、ふめたかった?」

冷たい指で拭って悪かったな?
そう謝ると真紀は、泣笑いの顔で訊いてくれた。

「泰くんこそ正直に言って?私のこと、好きですか?」

そんなこと決まっているのに?
だって雪の浜辺を延々と歩いてくれる子なんて、そう滅多に見つからない。
頬抓られたままで泰正は微笑んだ。

「ふん、好き、」
「ほんと?…私に、恋してくれてるの?」

そっと頬から指を離して、真紀が見つめてくれる。
その指を掌にくるんだままで、泰正は素直に笑いかけた。

「うん、恋してる。正直に言っちゃうけど、初めて会った婚約の食事会のときから、好きだよ。あのとき俺、ひとめ惚れしたんだ、」

これは自分の本音。真紀は初恋、自分の大切な人。
だからこそ自分の困難になった人生に、真紀を曳きこんでいいのか迷っている。

「あのとき俺、将来は警察官になります、って言ったよね?それで真紀ちゃんが、お巡りさんのお嫁さんになる、って言って。
それで俺、訊いたんだよ。警察官って贅沢とかできないから、今着ているみたいな綺麗な着物とか買えないけど良いの?って。
そうしたら真紀ちゃん、綺麗な着物はいらないから、好きな人と自由に一緒にいたいって言ったんだ。それで俺、本気で好きになった、」

まだ7歳と5歳だった。
おままごとの恋だと笑う人もいるだろう、けれど自分は17年間ずっと、本気だった。
ひとりの警察官として男として、贅沢は出来なくても、ふたり自由な幸せを贈ってあげたかった。
けれどもう、それは叶わない。密やかに涙を飲みこんで泰正は微笑んだ。

「俺は17年間ずっと真紀ちゃんが好きです、ずっと本気で恋してきたよ。だから自由をあげたい、大切だから幸せになってほしい、」

どうか君は幸せでいてほしい。
こんな自分の隣でずっと手を繋いで、いつも支えて来てくれた。笑顔で励ましてくれた。
だから自分に縛られること無く、自由に幸せを選んでほしい。この願い見つめる真中で、幸せな笑顔が花咲いた。

「私は17年間ずっと、優しい泰くんが大好きです。ずっと本気で恋してます、だから約束を守ってね、」

可愛らしい声が、雪曇りの空に明るく響いた。
いま言ったこと本当なのかな?すこし首傾げて泰正は大切な人の目を見つめた。

「ほんとうに良いの?若白髪とかなるかもしれないんだよ、苦労すると思うけど、」

真紀はお嬢様育ちの苦労知らず。
そんな彼女が本当に耐えられるだろうか?そう見つめた先で真紀は笑ってくれた。

「苦労も好きな人と一緒ならね、きっと幸せに出来るんじゃないかなって想うの。そうなるよう、努力するね、」

苦労も幸せに出来る、そう言ってくれる女の子は、きっと滅多にいない。
それを自分に言ってくれる人は、もっといないだろう。
もう自分は覚悟するべきだ、泰正は約束と微笑んだ。

「俺も一緒に努力するよ?だから真紀ちゃん、お嫁さんになって下さい。来年、真紀ちゃんが卒業したら迎えに行かせて、」

どうか「Yes」を訊かせてほしい。
笑顔で応えを見つめた向うから、笑顔が幸せに輝いた。

「はい、お嫁さんにして下さい。きっと卒論忙しいけど、結婚式の準備も頑張ります、」

17年間分の「Yes」を聴かせてくれた。
この想いが幸せで、温かい。この温もりに笑って掌を繋ぎ直すと、泰正は尋ねた。

「婚約指輪、どんなのがいい?見に行こうよ、」

来年の春に結婚するなら、秋には正式な結納だろう。
どんな指輪が真紀には似合うかな?考えながら笑いかけると真紀も微笑んだ。

「好きなデザインでオーダー出来るお店、ってあるかな?安くていいお店、探したいの、」
「うん、探してみようよ。どんなデザインが良いの?」

もう、考えてくれていたんだ?

しかも「安くていいお店」と真紀は言ってくれた、「泰正の給料で買えるもの」がほしいと望んでくれる。
こんなふうに真紀は、家同士が決めた結婚では無くて、自分たち同士で決めた結婚だと想ってくれていた。
こういうのは嬉しい、嬉しくて微笑んだ隣から幸せな笑顔が答えてくれた。

「桃の花のデザインが良いの。初めて会った料亭のお庭に咲いていて、綺麗だったから、」

花好きの真紀らしい答えが可愛らしい、そして記憶の花が愛おしい。
花と許嫁の愛しさに微笑んで、泰正は足を止めた。

「真紀ちゃん、ちょっと待っててくれる?」
「うん、」

素直に頷いてくれる笑顔に笑いかけて、泰正は小さなガラス瓶をコートのポケットから出した。
小瓶の蓋を開いて波打ち際に屈みこむ、その向かいから白い波が静かに浜辺へと走り寄った。
打ち寄せる波が指先と小瓶を浸し、また引いていく。
そして小瓶には、透明な海の潮が納められた。

「この海岸、聡嗣にいさんが好きな場所なんだ。俺のこともよく連れて来てくれてね、ふたりで歩きながら話したんだ」

そっと小瓶に蓋を閉めて、その手元に真紀がハンカチを差し出してくれた。
素直に受け取ると小瓶と指先を拭い、コートのポケットに仕舞いこむ。
そして手を繋ぎ直すと、元来た道を歩き始めた。

「このあと、墓参りして良い?この海の水、聡嗣にいさんに持って行きたいんだ、」
「うん、」

優しい目が微笑んで頷いてくれる。
雪風ひるがえす黒髪を掌で押さえながら、ふと真紀が訊いてくれた。

「泰くん、今日はずっと『俺』って言ってるのね?昨日までは『僕』だったのに、」

気付かれて、ちょっと照れくさい。
けれど素直に笑って泰正は答えた。

「うん、昨夜から『俺』にしたんだ、聡嗣にいさんの後継ぎに決まった時からね、」

笑って答えた向うの彼方、雪の海岸と空の境が明るんだ。
まばゆい白銀の耀きに、もう、青空が映りだす。



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第50話 青葉act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-07-20 23:59:57 | 陽はまた昇るanother,side story
見つめる、このひと時に



第50話 青葉act.3―another,side story「陽はまた昇る」

黄昏が稜線の際まで下がり、紺碧色の夜が天穹を覆っていく。
星が輝きだす山頂、避難小屋の前で光一と英二は焚火を起こす遣り方を見せてくれた。

「今回はね、訓練でビバークの練習だからさ、」

からりテノールの声が笑って、一枚の許可書を見せてくれた。
原則として山での焚火は禁じられビバーク、緊急時のみ許可される。だから山中での焚火は、周太にとって初めてだった。
同じように今回が初めての瀬尾も、ふたりが枯れ草や枝を積み上げるのを手伝いながら微笑んだ。

「すごいね、宮田くん。山は初任教養の山岳訓練が初めてだったんでしょ?まだ経験は1年未満ってことだよね、」
「そうだよ。だけど卒配されてからは俺、専属の先生がいるからね、」

綺麗な笑顔が咲いて、光一の方を指し示す。
その指に雪白の貌が明るく笑んで、楽しげに言った。

「だね、最高の先生だろ、俺って、」
「確かに最高だよ、」

笑って答えて英二は組み上げた枯草にと着火した。
小さな炎を上手に育てて、大きな炎へと立ち上げていく。
そうして出来上がった焚火をぐるり囲んで、山の食事が始まった。

「研修中ってさ、酒がダメなのが残念だよなあ?でも、気分だけでもさ?はい、」

からっと笑って藤岡がノンアルコールビールを配ってくれる。
これを藤岡は背負って登ってきた、自分と体格が変わらない藤岡のパワーに感心してしまう。
自分も鍛えたらこうなれるのかな?そう見ている隣から、きれいな低い声に笑いかけられた。

「周太は、そこまでパワー付けなくても大丈夫だよ?俺がいるから、」

何で考えていることが解かるのだろう?
驚いて周太は訊いてみた。

「どうして今、俺が考えていることが解かったの?」
「うん?なんとなく、」

綺麗な笑顔が答えてくれる。
けれど、なぜ英二がいると力を付けなくていいのかな?
不思議で首傾げた時、隣から青いウェアの腕が伸びて白皙の頬は小突かれた。

「ほら、エロ顔になってるね?どうせまた、周太がパワー付けたら押倒せなくなる、とか考えてるんだろ?」

言いながら光一の、底抜けに明るい目が愉快に笑っている。
その目に応えて英二も、綺麗な低い声で悪びれずに言った。

「ごめん、光一。おまえがパワフルで、好きに出来ないからさ。周太もなったら、困るなって、」
「俺、パワフルで良かったよ、って思っちゃったね。おまえ、ほんとエロ別嬪だね、」
「うん、俺はエロいよ?だから光一のエロさに、誘惑されるんだろ?」
「人の所為にしないでよね、変態色情魔の別嬪さん?」

なんていうかいわしているの?

いま皆もいるのに?ほらもう顔が赤くなってしまう、どうしよう?
ひとり赤くなって困っていると、優しいバリトンボイスが英二に尋ねた。

「気を悪くしたらごめんね?宮田くんって、ゲイなの?」

ちょっとストレートすぎるんじゃない瀬尾?

驚いて見つめた視線の向こう、優しい目が微笑んだ。
その顔に関根も藤岡も、そろって大きな目を尚更大きくして見つめている。
このなかで、周太と英二のことを話していないのは、瀬尾だけだな?そんな事を考えている隣で、綺麗な低い声が笑った。

「ゲイ、っていうより俺、バイセクシャルじゃないかな。女の子とも出来るし、嫌いじゃないから。でも恋する相手は、周太ひとりだけど、」

…言っちゃった

心裡、ぽつんと呟いた言葉に溜息がこぼれた。
初任総合が終わるまで、あと1ヶ月ある。その間を瀬尾に秘密を負わせてしまう、それが申し訳ない。
なにより瀬尾がどんな反応をするのか、気になって見つめると瀬尾は笑ってくれた。

「そっか、ごめんね、間違えて。でも湯原くんのこと、やっぱり好きなんだ。ふたりは両想いなんだね、」
「え…、」

両想い、そう言われて周太は瀬尾を見つめた。
やっぱり瀬尾は気づいていた?でも気づかれて当たり前なのかな?
途惑って首筋が熱くなるのを感じながら、周太は口を開いた。

「あの、瀬尾は俺が、英二を好きって…いつから思ってたの?」
「うーん、山岳訓練の頃かな?あの頃からは、ほとんど毎晩一緒にいるみたいだったから、」

優しい笑顔の答えに、かくんと肩の力が抜けた。

…そんなことまでばれてたの?

驚いて頬まで熱が駆け昇る、ほらもう真赤になっている。
あの頃は「好き」という自覚も無くて、ただ来てくれたら嬉しかった。
どちらにせよ恥ずかしい、なんて答えていいのか困ってしまう。けれど英二はさらり笑って答えてしまった。

「瀬尾、気づいてたんだ?でもね、俺と周太が付合い始めたのは、卒業式の夜からだよ、」

ちょっとまって英二?
いま「卒業式の夜から」って言っちゃったでしょ?

…そんな答え方ってまるでもういかにも、ってかんじだよね?

心裡めぐる言葉に頭が真白になりそう?
こんなときノンアルコールビールなのは、ちょっと恨めしい。お酒だったら酔っぱらって寝ちゃえるのに?
恥ずかしさに俯いていると、優しいバリトンボイスが言ってくれた。

「そうだったんだ。良かったね、幸せそうだよ?だから宮田くん、すごくカッコよくなったのかな。特に背中、カッコいいよ、」
「うん、周太のお蔭だと思うよ。俺、周太の人生も背負っているんだ、」

そんなことまで話しちゃうの?

瀬尾は自分も仲が良いし、信頼できると思っている。
けれどその話まで急にされると、ちょっとまって心の準備が出来ていない。
どうしようと途惑っているうちに、瀬尾は素直に笑って英二に尋ねた。

「そうなんだ?それって、養子縁組とかするってこと?」
「うん、瀬尾も法学部だから知ってるよな、男同士で結婚するなら、って遣り方、」
「ひと通りはね。そっか、真剣なんだね、良かったね、」
「おう、真剣だよ。俺、周太が初恋なんだ、」

俯いている間に話が進んでしまう。
こんなの気恥ずかしい、でも、本当は嬉しいとも思ってしまう。
こんなに堂々と話してくれる英二が眩しくて、愛しくて、やっぱり大好きだと幸せになる。
けれど光一は、どう想っているのだろう?

…光一だって英二のこと、好きなのに…えいじのばか、

そっと婚約者を心で罵って、周太は幼馴染を見あげた。
見上げた先で雪白の貌は焚火に照らされながら、愉しげに英二を眺めている。
大好きな人を見つめて楽しい、そんな無垢な笑顔が心に響いて、そっと周太は尋ねた。

「…光一は、嫌じゃないの?」
「うん?何が嫌なワケ?はい、焼けたよ周太、」

明るいテノールが笑って、こんがり焼けた串を渡してくれる。
大らかな優しい笑顔を見つめながら周太は、思ったままを言葉にした。

「光一の気持ち、英二は知ってて。なのに英二、俺のことばかり言って…嫌じゃないのかな、って、」

こんなこと言うのも変かもしれない、烏滸がましいかもしれない。
光一と英二のことは2人の問題、だから周太には意見する権利なんて勿論ないと解かっている。
それなのに英二を怒っている自分は、傲慢にも思えて。そんな想いに溜息を吐いた隣から、透明なテノールが笑ってくれた。

「あいつを大好きだよ、そして君のことも大好きだ。大好きなヤツが、大好きな人のこと話して、幸せに笑ってるんだ。眼福だね、」

どうして光一は、こんなに無欲なの?
こんなに無垢な人がいることが不思議で、愛しくて、まぶしい。
そして嬉しい、こんな人だからこそ大切な婚約者を任せていける。この優しい信頼に周太は微笑んだ。

「ん、ありがとう、光一。俺も光一のこと、大好きだよ?」
「うれしいね、そう言ってくれるの、」

底抜けに明るい目が幸せに笑んでくれる。
この人の笑顔も自分は護りたい、そんな想い微笑んだ時、逆隣から長い腕に抱え込まれた。

「周太?俺のことも大好き、って言って?」

白皙の頬よせて、綺麗な低い声で英二がねだってくれる。
こんなふうに言われたら嬉しい。けれど同期の前で恥ずかしい、それに少しだけ今、怒ってる。
そんな想いについ、素っ気ない声が出た。

「しらない、今は言いたくないの。後にして、」
「え…周太?」

ほら、きれいな切長い目が困りだす。
こんな貌は本当は弱い、笑いかけて「大好きだよ、」と言ってしまいたい。
けれど今は少し、色々と腹が立ってしまって、周太は体ごと光一の方を向いてしまった。

「光一、これ美味しいね?光一の畑で採れたの?」
「プチトマト旨いだろ?まだハウスだけどさ、夏になったら露地物を食べさせてあげるからね。もっと旨いよ、」

夏になったら。

この言葉の意味を光一は、解かって遣ってくれる。
夏になったら、秋になったら?それでも昼間の約束のままに「ずっと離れない」と言ってくれる。
この言葉を贈る想いが嬉しくて、素直に周太は微笑んだ。

「ん、食べさせてね?楽しみにしてるね、」

またひとつ「先」の約束を、大切な人と結ぶ。
こうして大切な約束を結んだら、きっと無事に帰ってくる意志が強靭になっていく。
そうして心も体も無事に「あの場所」から戻れる、そう信じていたい。

…信じていたい、なにより英二の為に

そっと心つぶやく想いに、肩越し振り仰いでみる。
見上げた先、白皙の貌が困った顔のまま寂しげに、こっちを見ていて驚いた。

「…英二?ずっとそうして見ていたの?」
「うん、」

素直に頷いた顔が何だか、実家の近所のゴールデンレトリバーを思い出させてしまう。
美犬で有名な5歳オスの大型犬、いつも大好きなご主人様を待っている。
その顔は少し寂しげで、けれど帰りを待ちわびる期待と喜びが可愛い。
そして英二の顔も「待っていました、ご主人さま」と言っている。

…英二、ほんとうに恋の奴隷?

心に零れた言葉に、困ってしまう。
こんなふうじゃ本当に「いつか」離れる時はどうなるの?
そんな不安に熱が瞳の奥に昇りかけて、ひとつ瞬くと周太は微笑んだ。

「英二、これ美味しいよ?ひとくち食べる?」
「うん。周太、食べさせて?」

笑いかけて差し出した串焼きに、綺麗な笑顔が幸せに咲いてくれる。
でも「食べさせて?」は恥ずかしいな?すこし困ったとき不意に、青いウェアの腕が伸びて周太の串焼きを取ってしまった。

「うん、確かに旨いね。いちばん良い焼き具合のだったね、周太、」

悪戯っ子の笑顔が愉快に英二を見、薄紅のきれいな唇はさっさと全部食べてしまった。
ずいぶん光一は食べるのが速いな?感心してみている隣から、英二が抗議の声をあげた。

「光一?それ、俺が貰ったのに勝手に食うなよ、」
「あ、ごめんね?焼き加減を確かめたくってさ。ほら、こっちやるよ。焼きたて熱々、」
「そうじゃなくって、俺は周太のが欲しかったのに、」
「なに、間接キス狙いってワケ?おまえ、食ってる時までエロかよ?嫌だね、盛ってるオトコって、」

また始まってしまった。

皆の前で困ってしまう、どうしよう?
もう放っておくしかないだろう、でも放っておくとまた、とんでもない話を始めるかもしれない?
あまり変なことを言わないでほしいな?本当に困りながらも周太は、瀬尾に話しかけた。

「瀬尾、今週末は彼女さんと逢わなくて、大丈夫だったの?」
「大丈夫、ちょうど彼女も旅行なんだ。といっても、大学のゼミの合宿だけどね。来週は逢えるし、」

話す貌が幸せそうで、こっちも嬉しくなってくる。
本当に彼女のことが好きなんだな、嬉しい気持ち微笑んで周太は尋ねた。

「彼女さんが卒業したら結婚する、って前に言ってたよね?…この先のこと、彼女さんは何て言ってるの?」

瀬尾の5年後に控える進路変更を、彼女はどう思ったのだろう?
それが心配で訊いてみた周太に、優しいバリトンボイスは答えてくれた。

「うん、ずっと一緒にいてくれるって。俺ね、実は、ちゃんとプロポーズしたんだ、」

そうなんだ?

驚いて目が大きくなってしまう。
けれど周りはもっと驚いたように、一斉に瀬尾を見た。

「プロポーズって、なんだよそれ、話せよ、瀬尾、」
「へえ?瀬尾、修学旅行で言ってた話の続き、ってこと?すげえ、もう結婚すんの?瀬尾、」
「ふうん、瀬尾くんって大人しそうなのに、ヤルことヤるんだね?甲斐性あるね、」
「瀬尾もそうなんだ?だから俺のこと、気づいたんだな、」

4人が四様の反応に、瀬尾の周りを囲んでいる。
やっぱり「プロポーズ」とか「結婚」なんて話は、自分たち23歳には重大事件だろう。
そんな重大事にさらり笑って、瀬尾は答えてくれた。

「叔父が1月に亡くなってね、葬式の翌日に海に行ったんだ。叔父が大好きな場所だから、そこの水をお墓に灌いであげたくて。
そのとき彼女も付いて来てくれたんだ。雪も降って寒い日だったのに、一緒に海を歩いてくれて。その時に、きちんと話したんだ、」

微笑んで瀬尾は缶に口付けて、ひとくち飲みこんだ。
どこか悠然とした大人の雰囲気がカッコいいな?そう見ていると関根が瀬尾に尋ねた。

「どんなふうに話した?」
「うん、もう大人になったから、結婚相手は自分で選ぼう、って言ったんだ、」

優しいバリトンボイスが笑って、穏やかに答えてくれた。

「俺が7歳になる春に婚約したんだよ、俺たち。まだ彼女は5歳だった。そのまま17年間、お互いに許嫁なのが当然だったんだ。
だけど、あれから俺の状況も変わったし。本当に俺と結婚していいのかどうか、きちんと彼女自身に考えてほしいって言ったんだよ。
俺ね、本当に彼女が好きなんだ。だから後悔してほしくないし、幸せになってほしい。それで婚約解消しても良い、って言ったんだ、」

大好きな人の幸せを願って、離れる覚悟をする。
その気持ちは自分にも解ってしまう、つい今しがたも心に想ったばかり。
この覚悟は瀬尾にとって、きっと辛くて重かった。だって瀬尾は違う進路に立つことを決めた時だったから。

…ほんとうなら、いちばん傍にいてほしいよね、そういう時は。でも瀬尾は、彼女の幸せだけを考えて

きっと瀬尾にとって一番辛い時だったはず、叔父の葬儀の翌朝は。
叔父の急死によって瀬尾は、自分が夢見て努力した警察官の道を捨てざるを得なくなった。
それが決定された翌朝に、いちばん傍で支えてほしい相手に瀬尾は、自由を贈ったと言っている。

どうして瀬尾はそんなに靭いのだろう?
この友人への敬意を見つめる向う、藤岡が笑った。

「でも彼女、婚約解消しなかったんだよな?」
「うん、ずっと一緒にいる、って言ってくれた。約束を守ってね、って言ってね、」

頷いて瀬尾は答えてくれる。
そして少年のまま透きとおるバリトンボイスが、幸せに微笑んだ。

「好きな人と一緒なら苦労も幸せに出来る、ってね、彼女は言ってくれたよ。お嫁さんにして下さい、ってね、」

…好きな人と一緒なら、苦労も幸せに出来る

彼女の言葉が心にふれて、そっと温かい。
いつか自分も、そんなふうに英二に言えたら良いな?そう思わされるほど、彼女の言葉は幸せだ。
こんなふうに言ってくれる許嫁がいる瀬尾は、幸せだ。

「おめでとう、瀬尾。ほんとうに良かったね、」
「うん、ありがとう、」

優しい笑顔が幸せに咲いて、焚火の灯りに輝いた。
こんな笑顔が見られて嬉しいな?嬉しく微笑んだ視界の先で、関根が瀬尾へと羽交い絞めに抱きついた。

「なんだよ、瀬尾?すっげえ幸せじゃないか、おまえ?ちっくしょう、うれしいよ俺、なんだよっ、」

大きな手で瀬尾の髪をぐしゃぐしゃにして、関根が笑っている。
関根が喜ぶ理由が自分には解る、関根も瀬尾の「5年後」を知っているから、尚更に嬉しいだろう。
嬉しい気持ちで見ている向こう、羽交い絞めのまま瀬尾も声をあげて笑った。

「あははっ、ありがとう、俺、幸せだよ?関根くんも頑張んなね、」

笑いながら瀬尾は腕を伸ばして、関根の髪をぐしゃぐしゃに仕返した。
そんな友達に快活な瞳は大らかに笑んで、嬉しそうに関根は言い返した。

「あんだよ瀬尾、てめえ、えらっそうに?でも俺も頑張るよ、くっそー、」
「うん、せいぜい頑張んなね、ぬるーく見守ってあげるよ、」

快活な笑顔と優しい笑顔が笑い合って、ぼさぼさの髪同士ふざけている。
この2人は正反対だけど、やっぱり似ているな?なんだか楽しい気持ちで見ていると、笑いながら藤岡が訊いた。

「おめでとう、瀬尾。で、なに関根?頑張る相手が出来たわけ?」
「あー…そのへんは宮田に訊いて?」

照れくさげに自答は避けて、関根は英二に話をぶん投げた。
投げられた英二は藤岡の視線ごと受け留めて、答えと穏やかに微笑んだ。

「関根はね、俺の姉ちゃんと付合ってるんだ、」

答えに、人の好い笑顔が「きょとん」とした。
いま何て言われたのだろう?そう首傾げて一拍置くと、ぽかんと藤岡の口が開いた。

「え、なにそれ?」

確かに「なにそれ」って想うだろうな?
そんな納得をしている裡に座り直した関根が、ボサボサ頭を気恥ずかしげに掻いた。

「いや、だからさ?俺がひと目惚れした相手が、宮田のお姉さんだったってこと。で、俺、おつき合いさせてもらってんの、」
「はあ?!」

やっぱり驚くよね?

そんな偶然があるなんて、普通は思わないだろう。
だから逆に言えば関根と英理も「運命の出逢い」なのかな、と思ってしまう。
そんなことを考えている向かい側で、驚いた顔のまんま藤岡が関根に笑った。

「へえ、驚いたなあ。関根、写メとか無いの?宮田の姉ちゃんなら美人だろ、見せろよ、」
「写メとか無理、そんなの撮らせてとか言えねえよ、俺、」
「へえ、おまえって純情だよなあ?宮田は写メ、ないの?」
「ごめん、無いよ。自分の姉の写メとか、あんまり撮らないだろ?」

訊かれた英二が答えと笑っている。
きょうだい、ってそういうものなのかな?考えていると瀬尾が笑って輪に加わった。

「あれ?関根くん、写メも無いんだ?」
「なんだよ瀬尾、てめえは写メ持ってるからって、勝組みかよ?」
「うん、そうだよ?ごめんね、悔しかったら写メ、撮ってきなよ、」

優しい笑顔で瀬尾は、意外と辛口なことを言う。
こういうとこ瀬尾って面白いな?そんなこと想っている片隅で、ふと周太は思い出した。

…あ、先週、デートの服を訊いてくれた時の、

携帯を開いて受信ボックスを開くと、日付を遡っていく。
そして目当てのメールを見つけて、周太は微笑んだ。

「あ、やっぱりあった、」
「うん?」

周太の独り言に気付いて、光一が横からのぞきこんだ。
映しだされる画面を見ると、からり笑ってテノールが周太に訊いてくれた。

「へえ、可愛いね。この写メ、宮田の姉さんだろ?どうして周太の携帯に入ってるワケ?」
「ん…デートに着ていく服を選んで、ってメールくれてね?そのとき添付されてたの、」

正直に答えた周太の声に、関根が画面をのぞきこんだ。
画面ではミントグリーンのワンピースを着た英理が、上品な華やぎと微笑んでいる。
眺めた画面に関根の頬が染まっていく、そして快活な声は気恥ずかしそうに頼みこんだ。

「あのさ…なあ、湯原?この写メ、俺に送ってくんない…?」

その気持ちは解かるな?
けれど関根と英理の為に周太は、遠慮がちに断った。

「そうしてあげたいけど…勝手には、お姉さんに悪いなって思うけど、」
「だよなあ?悪りい、今の発言、忘れてくれ、ごめん、」

残念そうに、けれど潔く関根は諦めた。
そんな会話を横から訊いて、ひょい、と藤岡が覗きこんだ。

「これ、宮田の姉ちゃん?」
「ん、そうだよ?」

素直に答えた周太の、手許の携帯を見ながら人の好い顔が目を丸くしている。
とても驚いたような顔でいるけれど、どうしたのだろう?
不思議で見ていると、藤岡は視線を英二に向けて、言った。

「やっぱり美形の姉ちゃんって、美女なんだなあ?関根、瀬尾が言う通りさ、ちょっと頑張った方が良いよ?」

なんだか関根は「頑張れ」ばっかり言われているな?

そんな感想もなんだか可笑しくって、楽しい。
こんな他愛もない話が出来る友達が、自分にもいてくれる。
そして隣には大切な幼馴染と、大切な婚約者が一緒に笑って時を過ごす。この「今」は心から幸せで、温かい。

この「今」も、きっと永遠の記憶になる。



ふっと気配に瞳が開く。

眠りに落ちる瞬間を抱いてくれた腕は、名残の体温だけで消えている。
そっと見まわした山小屋の薄闇に一筋、かすかな光が細く目に映りこむ。
静かに起きあがり光を見つめると、2つの長身の影が扉近くに立っていた。

…英二と光一?どうしたのかな、

不思議で首傾げかけた時、小屋の外に気配が動いた。
誰かが、この小屋の外にいる?そう気づいた途端、脳裏に言葉が閃いた。

―…埼玉県警でもまだ、犯人は捕まっていないんだ…夕方や明け方に襲われるケースが多いんだよね

この今は明け方、ならば小屋の外に誰がいるのか?
考えられる可能性は犯人か被害者、もし被害者なら怪我を負わされている可能性が大きい。
そして、もし犯人なら?

…あくまで代用、なんだけど

そっと登山ウェアの懐に手を入れると、内ポケットからエアガンを引きだした。
これは学生時代に練習用として使っていた、けれど人に向ければ怪我にもなる。
万が一の護身には使えると思って、念のために持って来た。
でも、出来れば人には向けたくない。

がたん、

扉の外で物音が立って、扉近くの2人は顔見合わせ頷きあった。
その雰囲気は「犯人ではない」という空気がある、それなら怪我人かもしれない?
そっと息を殺して身をかがめながら見つめる向う、小屋の扉が開かれた。

「…っ、」

遠目に見た扉向うには、血まみれの人間が蹲っている。

…怪我してる!

心の叫びと同時にエアガンを懐へ戻し、英二のザックを開いた。
すぐに救急道具ケースは見つかって、ヘッドライトと携えると周太は音も無く扉口へと駆け寄った。
そして2人の傍に立ったとき、ちょうど英二がふり向いた。

「…、」

いつのまに背後にいたのだろう?
そう切長い目が驚いて見つめてくる、その目を見つめて周太は救急道具とライトを差し出した。

「手伝う、指示出して、」
「ありがとう、」

ほっと切長い目が微笑んで、礼を言ってくれる、その白皙の掌には拳銃が握られていた。
そのまま英二は衿元を開き、ショルダーホルスターへ拳銃を戻すと登山ジャケットのファスナーを閉じこんだ。
そして周太の手から一式を受けとってくれながら、優しい笑顔で言ってくれた。

「周太、ツェルトを持ってきてくれ。保温する、」
「はい、」

すぐ返事して小屋の中へ戻る周太を、すこしの緊張が鼓動を叩く。
あの救急法と鑑識のファイルが今、現場で生かす時になる。

…あのファイルで今、英二の手伝いが出来る、

こんなふうに英二と共に現場に立って、手伝えるなんて思っていなかった。
けれど本当は、ずっとそうしてみたかった。
その願いが、今、叶う。



(to be continued)

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第50話 青葉act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-07-19 23:39:38 | 陽はまた昇るanother,side story
光彩、想いも彩なして、



第50話 青葉act.2―another,side story「陽はまた昇る」

雲取山頂の黄昏は極彩色だった。

はるか見つめる彼方、まばゆい黄金の夕陽は稜線をあざやかに描き出す。
藍色の闇に沈む山嶺が縁どる天球は、白熱の色から黄金、朱、紅、藤色と、華やかな光が織りだされていく。
光彩に充ちる空の境に雲は輝いて、壮麗なひとつの時間を創りだした。

「…きれい、」

つぶやいた想いが薄紅と黄金の光に融けていく。
奥多摩の夕陽を見るのは何度めだろう?幼い日の記憶と合わせたら、もう数え切れない。
そのなかでも一番に幸せな黄昏の記憶に、ふと周太はふり向いた。

…雲取山荘は北側、ちょうど後ろだよね、

11月に英二と登った錦秋の雲取山、あのとき山荘から見た夕陽は美しかった。
あのとき英二は背中から抱きしめて温めてくれた、あの温もりが幸せで嬉しくて。
あんな幸せが自分に与えられたことが奇跡だと思った、そして今はもう婚約まで英二はしてくれている。
今の日本では「普通ではない」男同士の婚約、けれど英二は法律上でも繋がることを決めてくれた。
そんなふうに英二は、自分たちの恋愛は決して恥ずかしいことではないと示してくれる。

今の日本では、男同士の恋愛は、好意的には認められ難い。
好奇心、同情、侮蔑、そんな感情が寄せられることを、今は自分も知っている。
それらの感情に14年前を思い出す、父が殉職した時もよく似た感情が自分たち母子を取巻いたから。
それは辛くて哀しくて、怒りたくても心が欠け落ちたままで。
けれど今、似たような感情を向けられたとしても、あのときとは違う。
父の殉職は望んだものでは無い、けれど英二との恋も愛も自分が望み、叶えたいと祈ることだから。
この願いと祈りの為になら、きっと自分は喜んで受けとめていける。
だって英二との記憶なら全てが、宝物になっているから。
泣いたことも、傷みも、喜びも。

…この夕焼けの記憶もね、また宝物になる

この美しい場所と時間と記憶が、愛しい。
またここに来たいと想っている自分がいる、もう願っているだろう。
そんな想い佇んだ隣で、瀬尾が笑った。

「すごい、東京にこんな空があるなんて…俺、知らなかった…よかった、」

声に振向いた隣で、優しい目から涙ひとつ零れていく。
この涙の意味は分かるような気がするな?そう見つめた隣で英二が穏やかに口を開いた。

「俺も最初、驚いたよ。でも、これも東京なんだ。なんか、うれしいよな、」
「うん、うれしいね。ここに来れて、俺、よかった、」

ここに来れて良かったと、瀬尾が言った通りだと想う。
もし自分が英二と一緒にここに来られなかったら、きっと「東京」は死と血の匂いだけの場所だった。
この空と同じ「東京」新宿で、父は血の海に死んだから。

ここは「東京」の空の下、大らかに荘厳な奥多摩の空。
こんな場所が「東京」にあることを幼い日の自分は知っていた、けれど父の死と同時に忘れ去って。
そして父と母と過ごした幸福な「東京」の山の時間も、死んでしまった。
それから「東京」は、自分にとって「棺」でしかなかった。

瀬尾にとっては当然「東京」は違う意味だろう、英二にとっても。
ふたりは東京の高級住宅街で生まれ育ったから、この奥多摩も故郷の一部になる。
きっと今、美しい空の姿に瀬尾は「故郷の空」を見ているのだろうな?そんな想いと微笑んだ隣で、瀬尾が笑った。

「宮田くん、連れて来てくれて、ありがとう。俺、きっと…警察官にならなかったら、ここに来なかった、」

瀬尾の声が笑ってくれる、頬には一筋の涙の軌跡を残したままで。
涙にも明るい「警察官にならなかったら」この言葉に瀬尾の想いが響いてしまう。
この今「警察官」でいる瞬間が、きっと瀬尾には永遠の時間。ずっと夢見て努力した時間は、今、この瞬間だから。
この「夢のときが終わりが来る」想いが瀬尾に響くのだと自分には解る、自分も同じ「終わり」を見つめる者だから。

…この今、夢の瞬間は終わる、俺も瀬尾も…でも、

でも、新しい夢を繋ぐことも、きっと出来る。
この今と全く同じにはもう出来ない、それでも、もしかしたら今より美しい夢が抱けるかもしれない?
そんな希望の想いに微笑んで、今の夢が終わった後の「未来」を周太は口にした。

「瀬尾、また登りに来よう?俺、ここが好きなんだ、」

英二、聴いてくれた?
いま俺は「また」って言ったんだよ、「未来」の約束を瀬尾としたんだ。
友達と未来の約束をするのなら、俺には必ず未来がある、そう俺が決めているってこと。
どうかこの約束が英二にとって希望ある「未来」への燈火になってほしい、必ず周太は帰ってくると信じてほしい。
そして瀬尾にとっても希望でありますように。この祈りを見つめるよう、瀬尾は涙の軌跡を光らせた。

「うん、一緒に登ろうよ、湯原くん。5年経っても、一緒に、」

5年後に瀬尾は、警察官を辞職する。
亡くなった叔父の代わりに実家の後継者に選ばれて、家を会社を護るために辞職する。
与えられた責任を背負いたい、その想いが自分には解る。14年前の自分も同じように決意したから。
けれど瀬尾は今が夢の道にある、それを捨てると決めたことは、本当は苦しみだったろう。

“5年間を警察官として精一杯に自分を鍛えて、生涯の支えにする”

それが瀬尾の今の想い。
これは自分と正反対で、よく似ている。
自分にとって警察官の道こそが責任と義務、そのなかで自分の夢を見失っていたから。
けれど瀬尾は自分の夢を着実に歩んで、その涯に責任と義務を背負う道へ向かおうとしている。

この「今」夢の道にあることと、この「先」夢の道に戻ること。

この2つはとても似ていて、正反対の道。
どちらの方が、幸せなのだろう?その答えはまだ解らない、けれど予想は出来る気がする。

…きっと瀬尾なら5年後も、その後もずっと笑っている、心から

この友達と5年後もその先も、一緒にここへまた来たい。
その時は自分も夢の道に立っていると良い、そして少しでも胸が張れる自分であれたら良い。
その時の自分の隣には、今この隣に立っている婚約者を「夫」と呼べていたら良い。
この想いに見上げた隣はすぐ気がついて、こちらに綺麗な笑顔を向けてくれた。

「周太、寒い?」
「ん、大丈夫…」

答えているうち腕を引き寄せられて、すとんと背中が長身の懐に抱きとめられる。
そして気がついた時にはもう、温かい懐と深紅の登山ジャケットに包まれていた。

「ほら周太、これなら寒くないよな?」

きれいな笑顔が幸せに笑いかけてくれる。
この笑顔も温もりも今、ちょうど思い出していた時と優しさが変わらない。
あのときより大人びた表情が眩しい、あのときより想いが深いことが嬉しくて、温かい。

けれど、ちょっと待ってほしい。だって今は同期も光一も皆いる時なのに?

「ちょっとまってえいじ、さむくないけどでも、」
「寒くないなら良かった、俺、周太が風邪ひいたら困るもんな、」
「あのっ、かぜとかひかないからちょっと、」
「うん?もうちょっと、ぎゅっとする?はい、」

幸せな笑顔が後ろから頬よせて、しっかりと体を抱込んでくれる。
どうしよう?さすがに今これは恥ずかしいのに?きっと首筋が真赤になっている、もう顔も真赤かもしれない?
そんな途惑っている向こうから、優しい笑顔で瀬尾が言ってくれた。

「やっぱり仲良しだね、宮田くんと湯原くん。幸せなのって良いよ、」
「うん、幸せだよ、俺、」

きれいな笑顔で英二は素直に答えてしまう。
英二と周太の事情を知っている、関根と藤岡はどう想うのだろう?そっと見た先で、2人は楽しげに笑っていた。

「あはは、宮田、また湯原のこと掴まえてるよ?」
「しょうがねえなあ、あいつ。ま、あれも宮田だとサマになるけどさ。イケメンは得だよな、」

…なんだかみんな納得なの?

それはそれで、幸せなことかもしれない。
けれど光一は、どんな想いで見ているだろう?
つきん、心が傷んだ頭上から、楽しげにテノールが笑いかけた。

「くっつくのイイね、俺も混ぜてよ、」

愉快で堪らない、そんな声と一緒に花の香が頬撫でる。
そして今度は前から広い胸に抱きこまれて、周太は長身ふたりに挟まれた。
これでは息も出来なくなりそう?困って周太は声をあげた。

「ね、ちょっとまってふたりとも?…息、出来なくなっちゃう、」

声にすこしだけ2人の腕がゆるめられる。
ほっと息吐いて見上げて、けれどすぐ英二の腕が抱きこんだ。

「周太、俺は良いよね?こうされるの、幸せだろ?」
「ん、それはそう…でも…」

つい素直に答えてしまう。
そんな周太に底抜けに明るい目が微笑んで、また光一は周太ごと英二に抱きついた。

「んっ、」

思わず息が詰まって、声が出た。
その声に驚いたような、きれいな低い声が聴こえてきた。

「こら、光一?周太が潰れちゃうだろ、」
「嫌だね、俺は今、ふたりを抱きしめたいんだ。せっかく3人一緒なんだしね」
「わっ、そんな馬鹿力で抱きつくなって、」
「あら、アダム?可愛いイヴの抱擁を受けとめない、って言うの?そんなこと言うのは、この口かしら、」
「こらっ今はキスだめだろ?ちょっと光一っ、」
「恥ずかしがらないで、アダム。いつも、してることでしょう?…ほら、」

透明なテノールが笑って、青い登山ジャケットの胸がさっきより近くなる。
その気配に周太は腕を伸ばして、英二の唇を掌で塞いだ。

「俺のいるとこではだめっ、いないときにしてっ」

言った途端に、3人分の視線に我に返った。

…いますごくはずかしいところをみられているよね?

心の声に首筋を熱が昇りだす。
そして長身2人に挟まれて見えない視界の彼方から、笑い声が聞こえてきた。

「なあ?あいつらって、いつもあんなことしてるワケ?」
「そうだなあ、3人一緒だと、あんな感じ多いかなあ、」
「へえ、宮田くんと国村さんって、スキンシップすごいんだね?2人ともクールな感じなのに、」
「だよな?湯原もあんなに狼狽えてるの、ガッコじゃ想像つかないよな?」

ほら、きっともう額まで真赤になっている。





(to be continued)

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